そこがどこなのか、ホイナには分からなかった。
気付けば彼女は、背の高い木々が生い茂る森の中に立っていた。深い霧が木々の間を満たし、彼女の視界を白く霞ませている。
先ほどまでミュルツの間にいたはずなのに、とホイナは思ったが、深くは考えなかった。忙しない夢だな、と考えるほどには、自分は落ち着いたようだ。
「ホイナ」
唐突に、名を呼ばれた。
その声の方へ顔を向ける。木の陰の黒と霧の白の中に、青い人影がいた。
「ユナ」
ついに彼女まで夢に現れた。これでラサギが現れないのだから、起きて憶えていたら叱らなければならない、とホイナは呑気に思った。
そんなホイナに、ユナが問うてくる。
「ヒーエと、話したいですか?」
「……」
何を言っているの、とホイナは怪訝な表情を浮かべる。しかしユナは――彼女の姿は白く薄い幕に遮られ、ぼんやりと青い輪郭だけが浮かんでいるように見えた――再び訊ねた。
「死んだ人間の言葉を、受け取りたいですか?」
「どういうことなの?」
「この世で、死んだ人間と話すことは出来ません。死んでしまった人間から、メッセージを貰うことも。生前の、ではありません。死後の人間から何かしら受け取ることは、不可能なのです」
ふと、白い霧が流れ始める。しかしその霧が晴れることはなかった。まるで大河のように蕩々と流れ続け、ホイナとユナを包み込む。
「しかし、この世の法則とは異なる場所なら、それは可能です。そこなら、あなたはヒーエの手紙を手に入れることが出来ます」
「ヒーエが、手紙を書いたの?」
「彼女が人生で得た語彙では、文字で伝えることが出来ませんでした。だから、私が代筆しました。あの子が生まれ変わり、そしてあなたに会いに来た理由がそれです」
「その手紙は、どこなら手に入るの?」
ホイナは訊ねる。霧の流れがさらに加速していった。ユナの青い影が、白く薄くなっていく。
「先ほども申しましたが、この世ならざる場所です。一番近くにあるそれは、私の部屋です」
そう言って彼女は、自分の部屋番号を告げる。
そしてついに、白霧が青を完全に掻き消してしまった。森の陰影ももはや見えない。ホイナの視界は白色に占拠され、瞬く間に自分の手足も見えなくなった。
白い闇に包まれたところで、ホイナは目を覚ます。
「……っ」
暗い。しかしホイナは自分が横たわり、誰かに抱かれてるのは分かった。暗さのせいでよく見えないが、馴染んだ匂いと気配で誰なのかすぐに分かる。ラサギだ。
目が暗さになれてくると、その見当が違わなかったことをホイナは知る。ラサギがベッドの中、ホイナを抱きしめて眠っていた。お互い、服は着ている。
ラサギに抱きしめられて、または逆に抱きしめてただ眠ったことは、彼がホイナの町に移り住んでからたびたびあった。性交には至っていない。
あの頃、ラサギは純粋に温もりが欲しかったように見えた。そうでないと、自分の中の悲しさが際限なく心と体を凍えさせていくと思っていたのだろう。
今、温もりが欲しいのはホイナの方だった。目を覚ました時に、誰かがいる。ホイナは安堵に胸をなで下ろす。
ラサギの寝顔を見た。穏やかな表情を彼はしている。悪夢を見て眠れない、というあの頃のようなことは、もう無いだろう。
ホイナは微笑む。そして彼の頬へ軽く口付けた。
私にほんの少しの勇気を頂戴、ホイナはラサギにそう願った。
そして彼女はラサギの腕から抜け出し、そのまま部屋の外へ出る。
廊下の空気は異様だった。
消灯時間なので薄暗いのは当然として、そこにある空気の重さがおかしい。重苦しいかと思えば、途端に羽根のように軽くなる。そんな重さと軽さが入り交じり、終始変化しているような感覚だった。
客室区は左右それぞれの中央に廊下が走り、その二つの廊下を挟む形で部屋が配置されていた。
ユナの部屋はホイナの部屋から反対側の舷、その最奥に位置している。
そのため、ホイナはまず二つの廊下が始まる中央フロアに出て、反対側の廊下へ移動しなければならなかった。昼間はたいしたことのない距離だったが、今はとても同じ空間とは思えない。
呼吸して空気を肺に送るたび、体の感覚が危うくなるような気がした。ホイナは意図的に呼吸を浅くする。廊下を進んだ。
中央フロアにやってきた。ホイナはさらに違和感を憶える。静かすぎた。ホイナは床の絨毯を強く踏み込む。何の音もしない。明らかにおかしかった。
ホイナは背筋が寒くなるのを自覚する。
しかし彼女は進んだ。フロアを抜け、反対側の廊下へ入る。服越しに廊下の空気が染み込んできた。普段ならまず無視するはずの、空気の気配を否が応にも感じてしまう。
まるで冗談のように密度の薄い水の中にいるかの如く、室内の空気はホイナの全身を撫でていった。
そしてホイナには、空気の密度が廊下を奥に進めば進むほど濃くなっていく気がした。
閉じられた客室の扉から、目には見えないが、空気とは異なる何かの気配が滲み出ている。それらが混じった廊下を、ホイナは奥へ奥へ歩いて行った。
自分の心臓が早く脈打つのが彼女には分かる。そして理解した。今から行くところは、尋常な場所ではない。
廊下の白い壁から、視線のようなものを感じた気がした。絨毯を踏む時は、生き物の上を歩いているのに近い感覚がある。室内はどんどん変質していった。
そうして、ついにホイナはユナの部屋へ辿り着く。
ユナの部屋の周りは、それまでホイナを取り囲んでいたあの謎の気配たちが鎮まっていた。他の部屋と変わらない扉だというのに、まるで魔除けの魔法が掛けられているかのようだ。
そのおかげで、ホイナはユナの部屋の前へ来て、一息つくことができた。
「ここから先は、入らない方がよろしいでしょう」
扉の向こうから、静やかな声が流れてくる。
その声は大きくも小さくもない。距離の掴めない、不思議な声の大きさだった。
「入れば、この世では起きないことが起きます。それがどのようなものか、私にも責任が持てません」
そして何が起きようと、私は貴方を守りません、とユナは言った。
ホイナは唇を噛み締める。ユナの声に、今まであった温度が消えていたからだ。肉のない身から発せられたような声。この奥が、本当に異常な場所なのだと理解する。
それまで浅くしていた呼吸を、ホイナは思い切り深く吸い込む。握り拳を作った。そして扉の向こうへ彼女は言い切る。
「ヒーエの手紙を受け取りに行くよ、ユナ」
自分の声が力になった。ホイナは部屋の把手を握って捻り、押し開ける。
部屋の向こうは暗黒だった。明かりがない。ホイナは構わず、その中へ足を踏み入れた。
何かが、ホイナの躯から取れ落ちる。やはりそれは目に見えないものだ。落ちてしまったそれは、きっとこの世に自分を縛り付けるのに必要な何かなのだとホイナは思った。それを肯定するように、ユナの声が暗黒に響く。
「ようこそ、人の理法のほんの少し外側へ」
.... .... ....
それは暗黒の空間だった。
部屋の中のはずだが、果てしのない広い感じをホイナは受けた。
そして自分の足下が、川に浸っていることに気付く。川の水は乳白色で、川底は見えない。その川は微かに発光していた。
川幅はそれほど広くないが、その白い川がどこから来てどこへ流れているのかは、暗黒の地平線の向こう消えて判別できなかった。
黒い世界に、一本の白い川。それが、ホイナのいる場所だった。
入ってきた扉は当たり前のように消えている。ホイナは再び早くなる鼓動を落ち着かせながら、川の深さを測った。水深はそれほどではない。足首あたりまでだ。
ホイナは視線を前へ向ける。
白い川面の上に、青い衣を羽織ったユナがいた。
彼女はその身を川の中に沈ませていない。靴で川面を踏み、白い水の上に立っていた。
ユナの青い瞳が、ホイナを見やる。
「ここに、あなたの欲するものがあります」
彼女は青い服の懐から、一葉の手紙を取り出す。封筒に包まれたそれが、ホイナの視線を奪う。
「お手に取りたいのであれば、どうぞ、こちらへ」
半眼の眼差しでユナはホイナを見詰めた。
そのどこまでも穏やかな声が、ホイナには不気味だった。しかし、覚悟は決めている。ホイナは川の中を進む。水の抵抗を押しやって、彼女は前進した。
水の流れはひどく遅く、まるでユナの雰囲気のように穏やかだ。ユナのもとへ達するのは容易に思えた。
その白い水面が波打ち始めたのは、ホイナが三歩ほど進んだ時だった。
穏やかな流れであった川面に波紋が広がる。その波紋の源は川のあちこちにあり、川の上は複雑な波で覆われてしまった。
なに、とホイナが思った瞬間、何かが川の波紋を貫いて飛び出でくる。それは次々と川の中から現れ、ホイナへ殺到した。
それは腕だった。黒茶色にところどころ深い赤が混じった汚い色合いの細長いものの先に、掌と五指と思われるものが付属している。それらは鞭のようにしなやかにしなり、ホイナへ叩き付けてきた。
ホイナの腕や肩、足がそれら茶色の腕に捕らわれてしまう。
「やだ、やめて」
狼狽えるホイナを捉えた腕たちは、遠慮のない力でホイナの体を川へ押しつけようとした。
ホイナはそれへ抗おうとするが敵わず、膝をつき、そして頭を川の中へ押し込まれてしまう。
突然のことにホイナは藻掻く。だが束縛は消えず、彼女は「苦しい」と水中で叫んだ。川の中は白一色の世界で、川底は見えない。そんなものを探している余裕も彼女にはなかった。
ホイナの肺腑が限界を叫び、気を失いかける寸前、彼女の頭は川から引き上げられる。
荒い声と共にホイナは空気を吸い込んだ。窒息状態だった肺に空気は心地よいはずなのだが、どれだけ呼吸を繰り返しても、ホイナは空気というものを感じることが出来なかった。
しかし肺は勝手に落ち着いていく。それがさらにホイナを不安にさせた。
そしてホイナは、自分の目の前にひとつの人影が立っていることに気付く。
小さな影だった。
周囲の黒い空間に溶け、姿はよく見えない。しかしホイナはその人影に見覚えがあった。いつかの嵐の夢の中、ヒーエの墓の前で出会った、あの人影だ。
膝を川についた姿勢にされたホイナの視線と同じ高さに、その人影の頭がある。人影はホイナよりだいぶ小さかった。
それが、ゆっくりホイナへ近付いてくる。動きは遅い。重い動きだ。その一歩一歩、近付かれるたびに、ホイナは心臓が怯えに脈打つのを自覚する。
ホイナのすぐそばまで、人影がきた。
そこまで近づき、やっと人影の顔を見分けられる。
女の子だ。長い髪にリボンを付けている。年齢は十代前半の、それもだいぶ幼い時分に入るだろう。その少女を見て、ホイナは既視感を感じた。酷く見覚えがある。自分はこの子を知っていた。
それが誰なのかを思い至る前に、女の子はホイナの首を、おもむろに締め上げ始める。
「……ぁっ!」
ホイナは苦悶の呻きをあげた。少女の小さく細い手を払おうとするが、ホイナの両手はあの茶色い腕たちによって封じられている。抗うことができない。
ゆっくり、ゆっくりと少女の指がホイナの首に食い込んでいく。
少女の瞳が、ホイナを睨んでいた。緑色をした、その眼。彼女はホイナへ言う
「あなたが、ヒーエを殺した」
その油のように粘りと重みのある、黒々とした声を聞いて、ホイナはやっと目の前の少女が誰なのか分かった。ホイナにそんな言葉を投げつける者は、この世にひとりしかいない。
自分だ。
この少女は、ホイナの心の影だ。
ヒーエが死んだと聞かされた日に生まれ、ずっと心の奥底に封印されていた、あの頃のホイナ。
「ゆるさない」
十二歳のホイナが、言う。
「誰があなたをなぐさめても、どんなことに祝福されても、私はあなたをゆるさない」
指がさらに深く食い込まれた。ホイナは苦鳴に喘ぐ。もうひとりの、幼いホイナは力をますます強めていった。
「あなたなんか、呪われればいい」
小さなホイナは呪詛を紡ぎ続ける。
そうだ、これだ、とホイナは思った。自分はこれを忘れていたのだ。この気持ち、自分で自分をどこまでもどこまでも嫌って呪い、苛む感情の塊を、ホイナは扉の向こう側へ押し込んで鍵を掛けた。
しかし今、忘れていたはずのものは姿を現した。この不可思議な場所に、本当に自分で自分を殺してしまえる空間に、彼女は形と力を得て顕現したのだ。
ホイナはふと、ユナの姿を探した。
もうひとりの自分に絞殺されかけているホイナを、ユナは見詰め続けている。その瞳には悲しみが溢れていた。憐れみも混ざっている。彼女はホイナへ何も言わず、何も手を出さなかった。ただ、眺めていた。
助けはない。それを感じ、ホイナは諦めた。抗っていた力が抜ける。首を絞めるその力へ身を任せた。
ホイナは罪悪感に心を明け渡してしまっていた。こうして自分で自分を殺せるほど、あの頃の自分は悔やんだ。
悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、しかしそれを打ち明ける相手はホイナ本人を含めてひとりももおらず、挙げ句、まるでなかったことのようにホイナは振る舞った。
自業自得なのかもしれない、とホイナは思う。
私はヒーエが好きだった。そんなヒーエの死を願った。それを後悔する気持ちさえ忘れていった。
ここで自分に殺されても、仕方がない。ホイナはそう思い、目蓋を閉じようとした。
死のうとした。
その時。
ぴしり、と小さな音が頭上に落ちてくる。
ホイナは薄くなった意識の中、何かと思って視線を上へあげた。
――罅……?
ホイナは怪訝に思う。
無明の暗黒であるはずの天頂の一部に、白い罅割れが走っている。その罅は急速に拡大し、天空全体に亀裂を生んだ。ユナも、もうひとりのホイナもそれを見上げた。何かが起きている。
そして唐突に、空の一部が崩落した。
黒い破片が次々と地上に落下する。黒い壁のようだった空の向こうは、鮮やかな赤だ。紅のように真っ赤な、空の向こうの空。
そこに、それはいた。
黒い何か。菱形、矢じりに似た形の。
ユナが声をこぼす。その声はホイナが初めて聞く、ユナの苦々しく不愉快な声音だった。
「……お邪魔虫の《竜殺し》」
その言葉で、あの矢じりのようなものの名前が《竜殺し》なのだとホイナは悟った。
《竜殺し》が、現れた。