ホイナは顔を上げた。
川面に反射して煌めいた光が目に入り、それで彼女は思わず目を細めた。河風は涼しく、心地よい湿り気でホイナの肌と髪を滑っていく。
川縁の木陰、樹の幹に背をもたれていたので、彼女は力を抜いて涼風の心地よさを受け取ることが出来た。
どこかで鳥の羽ばたく音がする。視界の端で、木の枝がしなった。幾枚かの葉の落ちたところから、山鳥が飛び立ったのだろう。
ヒーエは自分の足に重さを感じ、ふと、視線を下げる。そこにはホイナの膝を枕代わりにして、無防備に寝そべるヒーエがいた。
ヒーエの寝顔は年相応に幼い。いつもは神妙な顔つきでホイナの授業を受けているため、こういった表情は貴重だった。
ホイナはヒーエの黒髪を撫でる。まったく手入れをしていないその髪の毛はざらざらしていたが、ホイナはその感触が面白く、つい何度も撫でてしまった。それでもヒーエは起きない。よほど深く眠っているようだ。
これ以上するとヒーエの髪の毛が取れてしまいそうだ、と思うまでホイナはヒーエの髪を撫で、いったんやめることにする。
そして、自分の手、ヒーエを撫でていなかった方の手に、一枚の手紙があることに気付く。
そうだ、ヒーエが文章を書いてみたというので、読むことになったのだ。当の本人は眠ってしまっているが、ヒーエが読んでいいと言っていたので、ホイナはその手紙を開いた。
文字はお世辞にも綺麗とは言えない。そもそも紙の質もよくなかった。
汚い字と粗末な紙だったが、これはヒーエの文(ふみ)だ。ホイナは小さく興奮して、大事にそれを読み始める。思ったよりも長い手紙だった。
『ホイナへ。
私が身勝手であることを、あなたには知っておいて欲しいのです。
私は、昔から言い付けられていたことがあります。無意味に死ぬな、と。私は泡のようにただ消えてしまうだけの人生が、許せなかったのです。死に意味が欲しかったのです。
けれど私の死に意味を与えてくれる神様は、本当はいませんでした。私の世界に神様がいないと言い放たれた時の衝撃を、言葉で表すことが出来ません。言葉にならない、としか言いようがありませんでした。
だから私は神様を創りました。創らざるを得なかったのです。私は塵や芥のように消えたくはなかったからです。
全て私の身勝手のせいだと、自分でも分かります。
私は、神様があってこそ、この世にいることができました。神様を待ち続けて、この世にいました。死ぬのを待っていました。
しかし、そんな中、あなたは私の前に現れたのです。
私はあなたのことを何も知りません。あなたも、私のことなどほとんど知らなかったでしょう。それなのに、どうして私達はあんなにも一緒にいたのでしょう。
あなたは、私の持っていないものをたくさん持っていました。絵本や服、友達、そして文字。
そう、私は文字を知りたかった。あの森の神様についての本を読むため、あなたからたくさんの字を教わりました。その時間は他のどんな時間よりも楽しいものでした。
あなたに分かるでしょうか。楽しいのだと自覚した時、私の中でどれだけの変化があったことか。
遠い場所にあるものを読み上げるあなた、そしてあなたに教わりながらその本を読み解く私は、まるで魔法を教わっているような気分でした。ここではない、異なる場所について記された書物。
あなたにはただの本だったでしょうが、私にはとても不思議な、そして計り知れない素敵な物でした。
それは無数の文字でできた、ひとつの世界でした。それは時間を超えて、私のもとへやってきました。それまでの私には、今しかありませんでした。気付けば過ぎゆくうつろうものです。
しかし、それらを文字で記すと、まったく違うものになると知りました。
私はあのとき、はじめて世界というものがこの世にあるのだと気付きました。あの秘密の場所に流れる川のせせらぎも、村長の畜舎で飼われている鶏や豚たちの鳴き声、そういった耳に残っては消えてしまう儚いものも、文字にすれば残すことが出来ました。消えてしまうものを再び創ることが出来たのです。
この世は書き記すものでいっぱいなのだと分かり、私の世界は変貌しました。
あのときの感動を伝えることが出来ません。まるでこの世界に存在する全てのものに意味があるようだと思ったのです。
青い空に張り付く白いものも、木々に踏み締められ続ける茶色の土塊たちも、私が無意味だと思っていた泡のひとつひとつさえ。
私は生きても死んでもいなかった曖昧な場所から、確かに生きている場所へ乗り移ったのだと分かりました。
私は変わったのです。そしてそのことを、文字を教えてくれたホイナに伝えたかったのに、私は口に出来ませんでした。そのときは自分に何が起きたのか、自分でも整理できなかったからです。
今思えば、愚かなことでした。死を待っていた自分はいつ死ぬか分からないというのに、悠長にもあなたへ伝えたいことも伝えませんでした。
だから今こうして、あなたへ感謝の気持ちを伝えます。
私に与えられていた神様は、架空の神様でした。居た場所も、生とも死ともつかないひどくうつろな世界でした。そこでの人生は、きっと確かに無意味なものだったでしょう。
けどホイナのおかげで、私は自分を、自分が生きている場所へ移せました。そこでの死なら、無意味ではありません。私は生きていたと、胸を張って言えるからです。
私は生きて、そして神様を創りました。他人に与えられた架空の神様ではない、自分で創った私だけの神様です。
あなたは理解できないでしょう。神様など信じていないあなたには。
しかし分かって欲しいのです。私は変わりましたが、それでも神様が必要でした。神様のいない世界は、それは私にとって異界同然だったのです。
だから、私は死を拒みませんでした。その死が自然的なものでも、他人からもたらされたものでも、それはどうでもいいことです。大事なのは、死を受け入れられるかどうかでした。
あなたなら、きっと死を拒むでしょう。
私は、死を受け入れたかったのです。
その私の気持ちを、あなたは理解できなかった。私は神様を信じ、あなたは神様を信じなかった。
これほど違う私達が、どうして一緒にいられたのでしょう。どうしてそれまで、これほど違うことに思い至らなかったのでしょう。
もしも、ずっとずっと前から、あなたが私のことを理解していないと分かっていれば、私はあなたを説得したでしょうか。私は死ぬことを拒まない、ということを。
しかしいくら言葉を重ねても、結局は徒労に終わったかもしれません。何しろ私もまた、神様がいなくても平然と生きていけるあなたを理解できなかったからです。
私とあなたは違う。
もし同じになりたければ、あなたが神様を信じるか、私が神様のいない町にいくか、どちらかが変わらなければなりませんでした。
それはお互いにあり得なかったと、あなたも思うでしょう。
ホイナ、あなたは人間と文字に囲まれた場所に生きていました。それは私の世界ではありません。私の周りには人間以外の、川や森や鳥が溢れ、そして文字など存在しなかったのです。
自分の生きている世界に居続ける限り、私達は理解し合えないでしょう。うすぼんやりとした場所から確り生きた場所へ移って、私はそれを感じ取りました。
あなたは、あなたが思っているよりもずっと遠い世界に生きているのです。私が行くには、あまりにも遠い場所。
それでも、あなたと会うのは楽しかった。
互いに理解できない世界に身を置いているというのに、信仰心も何もかも違うというのに、あなたといるたび、私の世界は色づきました。それは本当のことです。それを、伝えたかったのです。
ホイナ、教えて下さい。
神様のいない風景は、どんな世界ですか?
神様を信じた私は、あなたにはどんなふうに映りましたか?
この世にはいくつの人間とどれだけの神様がいて、そして神様がいなくて、信仰と無信仰はどうして起こりうるのですか?
私はあなたと出会い、生きて、死に、こういった疑問を持つに至りました。あなたはこれらの答えを知っている気がしました。
私は身勝手です。
私の代わりにたくさんの世界を知っているあなたなら、こういった疑問の数々について考えることが出来るのではないかと期待してしまいます。
あなたに嫌われているかもしれないというのに。
私はあなたを拒んだ。嫌われてしまって当然です。
ですが、繰り返しますが、私は身勝手です。
たとえ嫌われても、私はあなたの中にいたい。
だから私はあなたの結婚を祝います。しかし同じくらいの気持ちの大きさで、あなたを呪います。幸せなあなたを。
幸せ。私の幸せはどこにあったのでしょう。
私の幸せは、死後、森の神様に仕えることでした。けれどそれは架空でした。その不条理に私は恨みました。恨みの矛先をどこに向けて良いのか分からない私は、神様など無関係に幸せなあなたへ呪いを向けます。
これが身勝手な私なのだと、理解して下さい。
そして、私を呪って下さい。
私の村の人間達は、森の神の恩寵によって私の名前を憶え続けます。しかし、あなたは村の人間ではありません。ですから、森の神以外の何かが必要でした。
あなたに、私のことを忘れさせたくないのです。
だから、私はあなたを呪います。あなたの不幸はすべて私のせいです。他の誰かからの呪いなど、全て打ち払います。私以外の呪いなど、あなたには一片たりとも浴びさせません。
何か不幸なことがあるたびに、これは私の呪いなのだと思って下さい。そうすれば、あなたの中に私は居続けます。あなたは私のことを思い出し続けることでしょう。
それが最後の、私の願いです。
追伸。もしも、何か大いなる力が働いて、私があなたの町に、ラサギと同様一緒に住むようになったとしたら、私はどんな人間になったでしょう。想像して見て下さい。
ヒーエより』
ホイナはその手紙を読み終える。そして息を小さく漏らした。
「好き、って言葉が抜けてるよ、ヒーエ」
ホイナは自分の膝に乗ったヒーエの頭を、再び撫でる。
ヒーエは眠り続けていた。時折、もぞもぞと身をホイナへ寄せてくる。その仕草にホイナはくすりと笑う。
日差しはうららかだった。穏やかな川の流れがきれいに煌めき、ホイナは湿る岩場の空気から清らかさを貰う。澄み渡る青空と枝葉の組み合わせは神秘的で、ここはふたりの秘密の場所だった。
「ふたりでいろんなところにいきたいね。山の向こうの町とか、海の向こうの摩天楼とか、いろいろ、いっぱい。見たことのないものが見れるよ、きっと」
返事を書かないと。ホイナは思った。
町へ戻ったら、とびきり美しい便箋を探そう。教本のように形の良い文字を書いて、ホイナ先生の美文を送ってあげよう。彼女はそう決めた。
ラサギに、ヒーエのことを頼まなければ。ラサギはもともとヒーエを大事にしてくれている。きっと私のお願いを聞いてくれるはずだ、とホイナは思った。
返事を書かなければ。
そう思い、ホイナもまた眠気に誘われる。ホイナはヒーエの手を探した。見つける。
肉の薄い、細い骨張った手だ。すぐに壊れてしまいそうなそれを、しっかり、優しく握りしめる。ヒーエの体温が手の中にあった。
それに安心し、ホイナは眠る。
やすらかさが、彼女を包んだ。