消えた明日
「危ない!!」
姿に似合わない発音に少し驚きながら、私は目を閉じた。
***
爽やかな朝だった。珍しく目覚まし時計が鳴るより早くに目が覚め、いつもなら二度寝と洒落込むところを今日はそんな気にもなれず、ゆっくりと身支度を済ます。いつもは詰め込むような食事も今日はしっかりと味わい、デザートまで食べる余裕があった。いつも乗るよりも1本早い電車に乗り、駅から学校へとのんびり歩く。
いつも通る一番の近道を通ろうとして、ふと思い立って遠回りをしてみることにした。知らない道をゆっくりと歩いていると、こんな所にお店があったんだ。とか、街路樹の下に花が植えてあるんだ。とか、沢山の小さな発見をして心が躍った。
暫く歩いていると学校のすぐ近くの道に外国人を見かけた。歳は20歳くらいだろうか。外国人は大人っぽく見えるからもっと若いかもしれない。キラキラ光る栗色の髪にすっと通る鼻。切れ長の瞳。凛々しい顔立ちの女性だ。彼女は何かを捜すようにあちこちに視線を巡らせている。
あまり見ていては不躾だと思い、何事もなかったかの様な顔をして学校への道を歩いて行くと、彼女のいた方向から声がした。
「すいません。そこの貴女。」
誰かを呼ぶ声がする。何度も何度も呼んでいるが、きっと私のことではないだろう。
彼女以外にも人がいたのかと思いつつ、歩みを緩めずに横断歩道へと歩いて行く。
横断歩道の真ん中に差し掛かろうかという所でクラクションの音が耳に叩きつけられ、それを追いかけるように人の声がした。
「危ない!!」
振り返った先には先程の彼女がいて、体の横から物理的に叩きつけられる。
__さっきから聞こえていた声は彼女のだったんだ。__
彼女の姿から到底想像できない完璧な日本語の発音に少し驚きながら私は目を閉じた。
***
お風呂にたゆたっているような感覚に目を開けると、そこは真っ暗な空間だった。私を包む何かは熱くもなく、冷たくもない。
自分の浮いている感覚がなければ、何もないと思うくらいに自分と自分を包む何かは一体化している。
身体を動かすと若干の液体の抵抗と関節を固定されているような身体の動かし難さを感じる。それでも今の状態を把握したくて腕を目一杯前へと突き出す。手の先に崩れてしまいそうなほど柔らかいものが触れて、反射的に手を引っ込めた。どうやらここに在るのは私だけではないらしい。
前には何かが在ることが分かったので今度は後ろへと手を伸ばす。上体を捻ることが出来ず、身体ごと後ろに振り返ろうとするとお腹の辺りが引っ張られる感覚がした。手をお腹に持って行くとそこには柔らかい綱の様な物がついている。どうやらこれが私の身体の動きを制限しているらしい。
煩わしいと思ったものの、自由の利かない身体ではどうすることも出来ない。後ろは諦めることにして、今度は右に目一杯腕を伸ばす。何か壁のようなものに触れたと思った時、この静かな空間に変化が訪れた。
「
「
「
声が聞こえた。嬉しい気持ちや慈しむ気持ちがその声にとけ込んでいる。同時に触れていた壁が波打つ、どうやら撫でられたようだ。外から聞こえてきた声は英語で、私に向けられていると思しき台詞には赤ちゃんという単語。
思い出した。
__私は学校へ行く途中に車に撥ねられたんだ。__
気がつけば赤ちゃんになっていて、ここはお腹の中で。もしやこれは転生というものなのではないだろうか。
驚きと同時に悲しさが私を襲う。いきなり死んでしまった。家族にお別れもお礼も、伝えたいことを何一つ伝えていないし、何一つ返していない。家族は泣いているかもしれない。父親の涙を見たことはなかったけれど、こんな形で涙を流させたくはなかったのに。
__こんなことになるのなら親孝行をしておけばよかった。__
明日は必ず来ると信じきっていた。学校を卒業して、社会人になって、結婚して、子どもを授かって……老衰や病気で死んで逝くと思っていたのだ。それなのに呆気なく死んで、新しい生を受けて、さっきの声の持ち主の子供になってしまった。
もしかしなくともこの家族が授かる予定だった純真で無垢な愛すべき子を私が奪ってしまったのでは無いか。
__いっそ死んでしまおうかな。新しい家族が気味の悪い思いをする前に。一度死んでしまったのだし、惜しくもないよね。__
自分のお腹に手を持って行く。さっきは何か分からなかったへその緒がそこにあった。前世の知識通りなら私への栄養や酸素はへその緒を通して送られるはずだ。生き物である私が生きる為に必要な全てを、へその緒を、絶ってしまえばいい。
__そうすれば私は生きられない。__
自分の前にあるへその緒を両手で握りしめて血液がこちらへ来ない様にする。赤ん坊の力では無理かと思ったが火事場の馬鹿力だろうか、だんだんと苦しくなっていく。
__
__
頭の中で理性と本能が声高に叫ぶ。痛くも痒くもなかった前回の死と違って、死への段階を全身で感じていた。
頭がぼうっとし始めた時に理性がぽつりと言葉を落とす。
__
__!__
その時、私の身体に何かが触れた。ゆっくりと時間をかけて私と何かの接地面積が増えてゆく。私の身体に寄り添った何かは、先ほど触れた柔らかくて壊れそうなものだった。空間の外からまた嬉しそうな声がした。
「
「
__Babies?ここには私の他にも赤ちゃんがいる…?__
複数形ということは、声の主にはまだ会っていない赤ん坊が複数いるということなんだろう。つまりこの空間には私以外に兄弟がいる。
それに 今私は動いていない。今動いたのは崩れそうなほど柔らかい何かだけだ。どうやら寄り添うように引っ付いた柔らかいものは兄弟であるらしい。
聞こえてきた声と兄弟の温かさに「生きていてもいいよ」と赦された気がして、力のこもった手を緩める。
苦しさが徐々に和らいでいく。
へその緒からゆっくりと手を離すと、近くにあった何かに触れた。その何かは私の手をぎゅっと握りしめる。兄弟が私の手を握ったのだ。
赤ん坊は手のひらにものが触れると反射的に握る習性があると前世の知識で知っていたけれど、つまり兄弟が故意に握ったのではないと分かっているけれど、手から手に伝わる淡い体温が泣きたくなる程嬉しかった。
***
私が意識を持ってから、ずいぶん長い時間が経った。といってもこの空間の中では一日が分からないため、短い時間しか経っていないのかもしれないが。
母親や父親は定期的に私達に語りかけ、歌い、物語を話す。両親の努力のお陰で英語が日本語に自動的に変換されるようになった。だから少なくとも英語が分かるようになるくらいの時間は経っているのだろう。
兄弟は私が意識を持った日に私の側に寄り添って以来、ほとんど動かない。私達に語りかけるような両親の会話を聞く限りでは赤ちゃんが動いたのはあの時が初めてのようだった。
特に動く必要もなかったので大人しくしていたのだが、しばらく経つと両親が私達が生きているか心配をし始めたため、気が向いた時に右側の壁に触れるのは私の義務になった。
兄弟は派手に身体を動かすことはしなかったが、手を握ってくれた。
目が覚めた時には握ってくれているので、寝ている間に私が兄弟へ手を伸ばしているのだろう。
手から感じる温もりは、私がここにいることや兄弟がここにいること、私達が生きていることを何よりも解りやすく教えてくれた。
まだ見ぬ両親に会うことよりも、今、目の前にいるであろう兄弟の姿を見ることが楽しみになり、いつしか早く生まれたいと願うようになった。
***
運命の日がやって来た。いわゆる出産予定日というやつだ。両親は予定日まで一ヶ月をきるとカウントダウンを初めた。
「後20日で会えるね。楽しみにしているよ。」といった風に。
特にこの一週間は凄かった。予定日近くになると、いつ生まれても不思議ではないらしく、今か今かと待ち侘びている。兄弟はともかく、私は予定日まで行動を起こすつもりはなかったので、予定日に向けて体力を蓄えてもらいたかったのだが、両親とも妙にテンションが高くて逆にこちらが心配になった。
そしてとうとう予定日がやって来た訳だが、はっきり言ってどうしたら良いのかが分からない。生まれることを一度経験しているが、昔過ぎてわからない。ただ後に生まれる方が楽な気がして、先に生まれて兄弟の為に道を拓こうとだけ考えていた。
***
「初めまして、お父さんとお母さんですよ。」
嬉しそうな声が聞こえてくる。視界がぼんやりとしていて、両親の顔は分からなかった。
あの後、どうすればいいか分からない私を置いて、手本を見せるように兄弟が先に生まれて、後から私が追いかけることになった。今まで経験したことの無いような痛みに思わず叫んで、(これが私の産声だった。)気がつけばお母さんの腕の中で兄弟と一緒に抱かれていた。先に生まれた兄弟の痛みは私の比ではなかっただろう。
お母さんの声は弱々しくて、かすれ気味だったけれど、お腹の中で聞いていた声よりも優しく聞こえた。
先に生まれた兄弟は男の子でアシュトンと名付けられ、私は女の子でモニカと名付けられた。私とアシュトンは二卵性双生児らしく、アシュトンは母親に似ていて、私は父親に似ているらしい。
私たちはジェンキンス家に生まれ、父親はアルバート、母親はハンナという名前であると教えてもらった。
今思い起こせば、あの時私が命を絶っていたら家族に会うことが叶わないばかりか、兄であるアシュトンと母であるハンナの命を道連れにしていたのだろう。
あの時の私は少し考えれば分かることに気づけないくらいに、冷静さを欠いていた。
「私達の所に産まれて来てくれてありがとう。」
何度も、何度も繰り返し伝えられる言葉。私達に向けられた温かい感情に胸がいっぱいになる。
生きることを拒んだ時より何倍も何十倍も、胸が苦しい。
__これが愛情で、これが幸せということなんだ。__