ピピ ピピッ ピピピピ ピピピピッ ピピピピピピピピッ…
「うぅん。」
暖かい布団から腕だけを外に出して目覚まし時計を手探りで探す。
二度寝の警告音の発生源が不快音を発している。音を頼りに手を伸ばすと指先に硬い物が当たった。硬いボディに手を沿わせて後ろにあるスイッチを押すと、今まで鳴っていた音が途端に止む。
__後少しだけ。__
意識に紗が掛かり、夢の沼に身体がずぶりと沈んでいった。
「○○!起きないと遅刻するよ。」
忙しそうに支度をする母が、洗面所から私に声をかける。
「…はい。」
布団の中で小さく返事をして、もぞもぞと動き出す。母の声は最後の砦だ。この声を無視すると待っているのは遅刻という不本意な結末だけだった。
「どうしたの?」
母が軽く布団をめくって私の顔を覗き込む。
額に冷たい感触がしたことに驚いて薄っすら目を開けると、滲んだ視界に心配そうな母の黒い瞳が揺れていた。
「熱があるわね。今日は休んでおきなさい。学校には私から連絡を入れておくから。」
言われてみれば、身体が重いし、頭も痛い。頭は熱いのに、背筋は寒い。
私は風邪をひいてしまったのか。
「ご飯の横に薬を置いておくからね。起きられそうだったらご飯を食べて飲んでおいてね。しっかりと温めて寝てるのよ?」
母が押入れから毛布を取り出し掛け布団の上にひく。綿でできた掛け布団の上から加わった重さに少しの安心感を覚えた。
さらに母は冬物入れの箪笥から半纏を引き摺り出して私の横に畳んで置いた。布団から出るときに使う様にだろう。
「出来る限りはやく帰って来るから。」
母は私の頭をぽんぽんとたたくように撫でると、忙しなく行ってしまった。
ちなみに早く帰ってくるという母の希望が通ったことは今まで一度もない。
***
身体が重い。頭がガンガンする。
寒くて、熱い。
不意に部屋の中に気配を感じた。
__お母さんが帰ってきたのかな?こんなに早く帰ってこれるなんて珍しい。__
薄っすらと目を開ける。
「
子ども特有の高い声、目の端に金色が写り込む。
__ガイジンさん?__
『だれ?』
__知らない子。いつの間に我が家はホームステイを受け入れていたのだろうか。__
「
青い瞳が私の目を覗き込む。ガイジンさんの青い瞳が美しいと言ったのは誰だっただろうか。見つめ返すことも無理なら、心を読もうとする事はもっと無理だ。
ガラス玉の様な無機質な色。そこには暖かい黒も茶色も見えない。
__起きなきゃ。知らない人の前で寝てなんかいられない。__
自分の上にかけられた羽布団を押しのけて上体を起こす。
__おもい、あつい、さむい。__
「
新しく響いた声。女の人の声だ。
自分に近づいてくる気配を感じる。
女の人や子どもが英語を話していることは辛うじて分かったが、なにを言っているのかが分からない。もともと対した英語の知識もなければ、この人たちの英語がネイティブ過ぎて聞き取れないのだ。
ゆっくり話すとかはっきり話すとかしてくれれば分かるかもしれないのに。まるでわかる事が当たり前みたいにまくし立てるなんて。
「
女の人が何かを言って私に手を伸ばす。
迫ってくる手に背筋が凍る様な恐怖を覚え、反射的にその手を跳ね除ける。その反動でぐらっと世界が揺れ、重い身体が布団に沈んだ。
そのまま底に沈む意識に逆らえず、ゆっくりとまぶたが閉じていく。
女の人のガラス玉の瞳に困惑が揺れた気がした。
***
泣き声がする。まだ幼い子供のようだ。
子供の泣き声に呼応するかの様に、子供の話し声が頭の中に響く。
「
泣いている子供は小さい声でぼそりと零す。不安そうな声だ。
焦った様に話す頭の中の声。
「
鼻を啜りながらの小言。ふと何かが私の手を取った。
柔らかくて、温かい何か。
__私はこれを知っている。__
柔らかい手を頼りに意識を浮上させる。瞼の裏にこびりついた、優しい、温かい黒に別れを告げた。
頭の中の子供の声が私の声と重なる。
「
乾いた喉の奥から取り出した言葉は、ざらざらとした言葉だった。
***
ぼやけて滲む視界。
「モニカ、もう気分は良くなったの?」
ぼおっとしている頭に心配そうなお母さんの声が届く。
「大丈夫。もう平気。」
あの日泥んこで寒空の下にいた私は、どうやら風邪をひいてしまったらしい。
「そう…。」
お母さんはほっと小さく息を吐くと、何かを言いたそうに口を開いては閉じてを繰り返す。
「どうしたの?」
「いえ、モニカが起きたことをお隣さんに伝えなければと思って。」
隣に伝える?何のために?
「ビルにお別れを言いに行きましょう。モニカが起きるまで待ってもらっているの。」
『いやぁああぁあぁ!!
返して、返して、ウイリアムを返してよ!!』
唐突によみがえる苦しい、悲しい叫び声。
「ビルにお別れを言うの?」
「…そうよ。」
あの叫びは子供を奪われた母の叫びだ。
__どこかで気づいていた。__
ビルが死んでしまったことを。
__気づかないふりをしていた。__
ほんのついこの間まで隣で笑っていたはずなのに。
公園の前に止まる車。
前方で止まって持ち主を待っているボール。
姿が見えなかったビルは大人たちに囲まれていたに違いない。ビルを囲む大人たちの中にビルのお母さんもいた。
「分かった。」
あの時既に息を引き取っていたのか、それともまだ生にしがみついていたのだろうか。
私が寝ているうちにビルは帰らぬ人となったようだ。
ビルも私と同じように苦しまずに死んでいたらいい。
ビルは私と同じように記憶を持って生まれ変わらなければいい。
ただそう思う。
熱で浮かされていた私はどうやら前世の夢を見ていたようだ。時折うわ言の様に不思議な呪文を唱えていたとお母さんが笑っていた。
__きっと日本語を話していたんだ。__
瞼の裏の家族の記憶。
温かくて、優しくて、苦しくて、切ない記憶。
私の手を握りながら寝ているアシュトンの赤く腫れぼったい目が『ずっと側にいるといったのに、心はここにいないんだね』といっている気がする。
「モニカ、いやだよ。しんじゃやだ。」
夢の中で呟いたアシュトンのセリフに驚いて問いかけようとすると、
「隣のビルが死んでしまったでしょう?アシュトンは風邪でベットから出なくなった貴女も死んでしまうんじゃないかと不安だったみたいなの。」
とお母さんが解説する。
でもアシュトンは公園にいたときから同じ様なことを言っていた。まるで私が目の前で死んでしまったみたいに。
__アシュトンは何処で"死"なんて言葉を覚えたの?__
アシュトンの取り乱し方はまるで死を理解しているかのようだ。
寝ているアシュトンに、
「アシュトン、何が死んだの?」
小さな声で問いかける。
幼稚園で飼っている生き物も死んだことはないし、家でペットも飼っていない。祖父母共に健在で、ビルが死ぬまで死は身近ではなかったはずなのに。
眠っているアシュトンからの返事はなかったが、私の手を握る力が少し強くなった気がした。