「世の中には、男の娘がなんたるかを
学部棟の談話室のテーブル席。
ぼくの向かいに座っている男――国木田が、まるで世を憂う学生運動家のように
……なに言ってんだコイツ。
と、ぼくが思ったのも無理はない。なぜなら彼が口にしたオトコノコというのは男子ではなく、
「…………」
ぼくはリアクションに困りながら、呆れた視線を彼に送った。
――平均よりやや高い身長に、ごつい印象を抱く顔立ち、そして肩幅の広い体つき。がたいもかなりしっかりしていて、見るからに体育系の青年だ。
この見た目からすると運動部に所属しているのだろう――と誰もが思うかもしれないが、人間というのは外見と中身が大きく違っていたりするものだから面白い。なんとコイツは文化部、それも体を動かすこととは無縁の文芸部に入っているのだ。しかも、かなりその手の知識が豊富な生粋のオタクなのである。
同じ学年、同じ学部、同じ文芸部なぼくが、国木田と行動をともにするのは必然とも言えた。講義で予定が合わない時を除いて、昼食はいつも彼と談話室でとっていた。ちなみに学食を使わないのは、文学部棟が辺鄙なところにありすぎて移動が面倒という至極簡単な理由による。
「……で」
無言で無反応というのも可哀想な気がしたので、とりあえず国木田に尋ねてやることにした。
「なんで、いきなりそんなこと言いだしたわけ?」
菓子パンをもぐもぐ食べながら、ぼくは胡乱な視線を送る。国木田はおにぎりをひとかじりすると、よくぞ聞いてくれたと言うかのようにニッと笑った。……口の中の米が見えてるぞ、きたねぇ。
「うむ、じつはな……つい先ほど受けた講義で、あの無知な教授が無学な発言をかましてきやがったのだ。それで怒りが抑えられなくてな」
「はあ? ……なんだっけ、そっちが受けてたの」
「ジェンダー*4論だよ、ジェンダー論」
「あー……男女の性に関するやつだっけ」
ぼくはおぼろげな知識で、思い出すかのように言った。
国木田とは学部は同じだが、学科は違っていた。ぼくが哲学科で、彼が社会学科。コア科目として講義がかぶっているところもあるが、当然ながら異なる受講をしている場合も多かった。
で、彼がさっき受けていたのがジェンダー論なのだと。
「あの野郎、学生ウケを狙ったんだろうな。『最近では
「……いやぁ、べつにいいじゃん」
「よくねーよッ! 第一、女装子と男の娘じゃまったく別物じゃねぇか!?」
荒々しい語気で拳を握りしめる国木田。そんな血気盛んに主張されても、残念ながらぼくにはサッパリわからんのだが……。
「……どう違うの?」
「聞きたいか?」
「やっぱいいや」
「聞け」
有無を言わせぬ態度! その顔には、オタク知識をひけらかさんというペダンチック*5な思惑がありありと見て取れた。コイツも生粋のオタクだよなぁ。
どうやっても国木田の講釈からは逃げられそうにないので、ぼくは諦めて受け入れることにした。
「……じゃあ、お聞かせ願います。独歩先生」
独歩、というのは国木田の愛称だった。その由来が、かの有名な小説家・詩人であることは言うまでもなかろう。
「うむ、よろしい。特別に講義してあげよう、宮本くん」
ふふん、と得意げに言うさまを見ると逃げ出したくなるが、我慢我慢。
「――まず、女装子だが」
「うん」
「こいつは三次元の女装ホモ野郎を指す呼称だな」
「……お、おう」
いきなり特定の集団に喧嘩売ってない、きみ?
ぼくがドン引きしていると、国木田はわざとらしく咳払いを一つして補足する。
「――もともと、ゲイコミュニティーで使われていた言葉でな。ゲイの間で、女装をしている男性を指して女装子と言う。……訂正しておくと、女装しているからといって、性同一性障害*6だったり同性愛者だったりするとは限らんな。まあホモも多いが、そうじゃないやつもいる」
「女装しているのに?」
「女の服装イコール、女になりたいとか男に惚れられたいとかに結び付けるのは早計だぞ。軍服コスプレしているやつが、みんな本気で軍人になりたいと思うか? 女装コスしているからって、女になりたいとは限らんのさ」
「ははぁ、そういうもんかねぇ」
コスプレなんてしないのは勿論、コミケ*7のような場所にも行かないので、あまりその辺の知識がぼくにはなかった。
「で、重要なのは男の娘のほうだ。こいつは『女の子よりも女の子らしく見える、男の子』といったところか。まあ定義はひとそれぞれだが、基本的には『美少女に見える、性別男性』という点でそう間違いはないな」
「なんか最近、テレビとかでも聞くようになったよね。昔と比べてメジャー化した感じ」
「うむ……だが、そういう非オタクメディアにおいて男の娘という単語は、三次元の女装者を指して用いることが大半だ。そして、これは俺のような男の娘マニアにとっては非常に腹立たしい事態である」
自分で男の娘マニアを名乗るとは、こ、こいつ恐ろしい……。
嗜好ぶっぱに慄いているぼくをよそに、国木田は滔々と語りつづける。
「現実の女装者を、男の娘と呼べるかどうか。これに関しては、外見や声や振る舞いが女性らしく、ほとんどの人間が美少女と認識できる女装男子であれば、そう呼称することに差し支えはあるまい。――いると思うか、そんなの?」
「たまにネットで女装コスの写真とか見かけるけど、普通に綺麗なひと多くない……?」
「アホか! ネットに上げてる画像なんてフォトショ*8で修正加工してるんだぜ。実際に実物を目の前で見たら、どうやったって男を隠しきれない要素が山盛りだ」
と、そこで国木田はペットボトルのお茶を飲んで、唇を湿らせるような所作を見せる。どうやら、ご高説はまだまだのつもりのようだ。
「――ま、誰一人として存在しない、とまでは言わんがな。たとえば年少者の性別違和に対しては、デポ剤*9によって思春期を抑制する方法が採られたりする。この場合、
……おいおい。どこまで詳しいんだよ、この男。
感心すればいいのか、呆れればいいのか。たぶん、ぼくはすごく微妙な表情をしていたことだろう。
「が、そんなのはごく限られた一部の人間だけだからな。生来的にホルモン異常で二次性徴が発現しない男性も存在するが――いずれにしても、“男の娘”と呼べるほど美しい男子は現実にそう存在しない。だからこそ、三次元の分野で男の娘という呼称を用いることは、俺にとってはとうてい容認できんことだ」
「そ、そう……」
「そうだ」
力強くうなずく国木田。どんだけ男の娘に情熱を持ってんだ。
ぼくは缶コーヒーを口にすると、はたと思い出したかのように彼に尋ねた。
「――でも、ネット上だと『骨格が男らしくないとダメ』とかいう話をよく聞かない? “男要素”があるほうが、男の娘らしいと思っていたんだけど」
「ほう。たしかに、そういう発言は散見されるな。まあ男の娘に確定的な定義がないので、そういう考えに至る連中が多いのも納得できるが……」
「独歩先生にとっては違うと?」
「うむ、それについては十数年は遡って歴史を見つめなおす必要がある」
おい。
いきなり歴史の授業が始まるのかよ。
「では宮本くん。男の娘の元祖と言えば、どのキャラクターかね?」
「えーと……ブリジット*11?」
「よくわかっているじゃないか!」
まるで生徒を褒める教師のような振る舞いである。
……意外と教職が向いているんじゃないか、こいつ。
「まあ女の子にしか見えない男の子、というキャラなんてブリジット以前から存在した。それでも“その手の界隈”における人気度と知名度を考えたら、ブリジットを男の娘ブームの火付け役として捉えるべきだろう。つまり、男の娘の原型というわけだ」
国木田は二個目のおにぎりを取り出しながら、言葉を続ける。
「さて、その後も男の娘的なキャラクターは数多く現れるわけだが――2000年代の中頃から流行りだしたものと言えば、いわゆる“女装潜入モノ”だな。主人公が女装して、女子校に入学するというお決まりのストーリーだ」
「あぁ……なんか、ちょっと古い漫画とかギャルゲーでそういうの多かった気がする」
「ひとたび流行ると、みんな真似して同じようなのを作りだすからな。今も昔も変わらん」
昨今のラノベやらアニメやらを見ていても、いろいろと思うところはあるが――まあ、今はさておき。
女装潜入モノ。たしか、それ系で有名なギャルゲーだかエロゲーがあった気がする。なんてタイトルだったっけ。
「……“おとボク”とかいう作品だっけ、今もたまーにネット上で耳にするやつ」
「おっ、よく知ってるじゃん。おとボクは略称だな、正式名称は『
「……主人公が男の娘ってことだよね?」
「ま、そうだな。女装キャラがどのレベルから男の娘と呼ぶかは議論が分かれるところだが、この主人公はどっからどー見ても美少女にしか見えんキャラだから、男の娘と呼んで差し支えあるまい」
「……エロゲーってことは、女の子を攻略するんだよね?」
「もちろん」
男の娘が美少女を攻略する。
これって、すなわち――
「つまり、百合*14ってこと?」
「おおっと!? いいところを突くじゃないか、宮本くん!」
どこか強張ったように見える表情で、国木田は声を荒らげた。何かまずいものに近づいてしまった、とでもいうかのような態度だ。
「俺としても『男の娘はほぼ美少女な存在』というスタンスだから、男の娘×女の子のカップリングを百合と捉えることに吝かではないが――」
「違うの?」
「これ以上は死人が出るからやめよう!」
はっ!?
なぜ死人が出るのか、ぼくにはぜんぜん理解できないぞ。
「いいか、宮本くん。軽々しく人の前で、『男の娘と女の子の百合いいよね』とか『TS百合って最高だよな』みたいなことを言うのは厳禁だぞ。命が惜しければ口を慎め」
「……ッ!? わ、わかった……」
鬼気迫る表情で話す国木田の雰囲気は、まるで戦場で地獄を経験した軍人のようであった。な、なんだかわからんが恐ろしい……。
……で、ええと。なんの話をしてたんだっけ。
「歴史については、これでおしまい?」
「まだ腐るほどある」
「あるんだ……」
お前はどんだけ男の娘に詳しいんだ。
内心でそうツッコミながら、国木田の弁舌を諦めたように聞く。
「次のキャラも重要だぞ。『はぴねす!』*15の
「エロゲーが多いね」
「そりゃそうだ。当時の“萌え”の最先端は、PCの18禁アドベンチャーゲームだったんだからな」
うわっ、久しぶりに聞いたな。萌えって言葉。最近ではすっかり死語になりつつある気がする。
時代というのはすぐに移り変わるものなんだなぁ、と妙な感慨を抱いてしまう。いま流行しているものも、数年後にどれだけの数が残っているのやら。
「このキャラは、いわゆる親友ポジのキャラクターだな」
「攻略対象じゃないんだ?」
「そう。だからこそ、人気が出たとも言える*16かもな。下手なヒロインよりも攻略不可のサブキャラのほうが魅力的に映るってのは、ありがちな話だ」
「あー、なんかわかるかも」
ギャルゲーの攻略ヒロインは、攻略するというシナリオに縛られてキャラクターが動かされ描写される。一方で、攻略対象でないキャラは“シナリオの都合”にあまり縛られず主人公と絡んでくる。その自由に描かれるさまが、活き活きとしているように見え、むしろ攻略ヒロインよりも魅力的に映ったりするのかもしれない。
……などと論じられるぼくも、相当にオタクが入っている気がする。国木田のことをあれこれ言えまい。
「で、このキャラは前述の女装潜入主人公と違って、とくに理由なく女装している」
「……性別を偽ってるとかじゃなくて?」
「とくに事情はない。自分が男であると理解したうえで、女性の格好をして女性らしく振舞うオカマちゃん*17だ」
「じゃあ男性的な要素は――」
「ない。はっきり言ってしまえば、性別が女に変わったとしても、ぜんぜん変わらんキャラだな*18」
えぇ……。
「それって、男という設定の意味あるの?」
「それよ。“男要素”ってやつは、男の娘の元祖的なキャラにはあまり見られんのさ。女装潜入はまだストーリー的に男であることの意味があるが、それ以外はまあ女でも変わらんな。ブリジットなんて、もともと女キャラとして作っていたのを開発ギリギリで男に性別変更したくらいだぜ?*19」
国木田は二個目のおにぎりを平らげると、一息ついたようにお茶を飲んだ。
「男の娘に男っぽい要素を付ける、なんてのが多くなってきたのは後になってからだな。2010年以降に出た『女装山脈』*20なんかは、ショタっぽい体型を意識した描き方だった覚えがある」
「……なんか話題になったやつだっけ、それ」
「うむ。男の娘が妊娠する狂気のゲームだぞ」
アーノルド・シュワルツェネッガー*21もビックリだろ。どんな発想をしたらそうなる。
……ところで男の娘が妊娠したら、どうやって子供を産むんだろうか?
単孔類*22みたいに肛門から……?
想像したらいろいろとヤバい気がしたので、ぼくはそれ以上は考えないことにした。
「そうやって初期の流行から時が経つにつれて、バリエーションが現われはじめたわけだ。まあ、これは男の娘に限らず、あらゆる物事に共通することではあるがな」
「うーん。そうなると、“男の娘”っていう言葉で一括りにするのに無理があるんじゃ……?」
「実際のところ難しいな。可愛い系ショタやら女装少年やらメスショタ*23やらは、男の娘とどう違うのか? 万人が納得するように説明するのは無理だろ?」
「……ごめん。ショタ分野は門外漢です、先生」
「なに? しょうがない。俺が『ひなたのつき』*24を貸してやるから、勉強してこいよ」
門外漢と言うとろーがッ!
「完全に美少女っぽい男の娘だったらイケそうだけど、さすがにショタ系はちょっと……。まだふたなりのほうが、ファンタジーに振り切っていて受け入れられるんだけど」
「ははん? ふたなりがファンタジーだって?」
ぼくの発言に、国木田が目を光らせる。また講釈を垂らされるパターンだこれ。
「ふたなりっていうのはな――」
「知ってるよ。半陰陽は実在する、っていう
人間の性別を、すべて男女で簡単に割り切ることはできない。性同一性障害もその一例と言えるかもしれないが、もっと明確にそれを証明しているのは性分化疾患*25だろう。
ぼくがそれを先に口にすると、国木田は「なんだ、俺が言おうと思ったのに」と残念そうな表情を浮かべた。まさかこんなところで、ニュースで見た特集の知識が活かされることになろうとは。
「テレビで見た……なんだったっけな……。外見が女性なのに、調べてみたら本当は男性だった、っていうやつ」
「アンドロゲン不応症*26だろ?」
よく病名が一瞬で出てくるな、おい。
「まあインターセックス*27もいろいろ種類がありすぎて難しい事柄だな。この辺の知識を反映して、発生学的にふたなりを描いたエロゲーは、実際のところ俺も見たことはねぇなぁ」
「……なに、その発生学的って?」
「人間の体が胚からどうやって作られるかの学問。男女の性分化っていうのは、子宮内でホルモンの影響によって変化が起きるんだが――ご存知のチンコで言えば、たとえば陰核が亀頭に相当する相同器官*28だな」
うわーお、直球なお言葉。お前、大学内でよく堂々と言えるな。
…………。
エロゲー談義に付き合っているぼくも、もしかして大概ではなかろうか。ちょっと恥ずかしくなってきたぞ。
「だからチンコが付いているなら、陰核が同時に存在することは発生学的にありえないわけだ。同様に、陰嚢に相当するのが大陰唇だな。つまり、この発生学的な事実を考慮すると――玉付きのふたなりはあまりリアルではない」
「ごめん、ふたなりにリアリティを求めるほうがアホだと思うんだけど」
「確かに……」
自分で言って突っ込まれてすぐ納得しやがったぞ。
「お前の言うとおり、創作物で重要なのは現実をどれだけ反映するかじゃないな。もちろんリアリティは面白さに影響する要素だが、すべてではない。――エロゲーやエロ漫画なんて、抜ければいいんだよ」
「確かに……」
思わずぼくも納得してしまった。なんという至言であろうか……。
「エロに限らず、ラノベでもネット小説でもリアリティのあんばいは難しいよね。朝起きたら女になってたとか、トラックに轢かれて異世界に転生するとか、まじめに考えたら意味不明だし」
「TS*29させたいからTSする。転生させたいから転生する。ま、そんなものでいいけどな」
「そうそう。転生して女の子になるのとか冷静に考えたら闇が深すぎるけど、もう昨今は巷にあふれてるし」
「いやいや、昨今どころか1990年代から異世界TS転生なんて『デルフィニア戦記』*30があるだろ?」
知らねえよ!? お前の常識を基準にするんじゃない。
頭が痛くなるのを覚えながら、ぼくは缶コーヒーを飲み干した。昼食はすでに二人とも終わり、席に着いた時から随分と時間が経っていた。
ちらりと談話室の掛け時計を見ると、そろそろ次の講義が始まりそうな頃合いだった。しょうもないオタク談義も、この辺でおしまいといったところだろうか。
「さて――今回の講義で、学ぶところはあったかね。宮本くん」
すっかり語って満足げな表情を浮かべる国木田。こいつに付き合っていると、謎の知識ばかり増えていく気がする。
ぼくはゴミをビニールにまとめながら、深々とうなずいて彼に答えた。
「結局のところ全部ホモでは……?」
「なんだァ? てめェ……」
独歩、キレた!!