武闘派悪役令嬢   作:てと​​

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武闘派悪役令嬢 018

 

 レオドからの報告を受けるのは、翌日の朝食時と約束していた。

 食堂で落ち合った彼は、私に会うなり単刀直入に「ファージェルは予定が入っていて無理だと言った」と伝えてきた。

 不機嫌そうなレオドの顔を眺めつつ、私は聞き返す。

 

「予定?」

「放課後はもう“予約”が入っているのだとか。ホールでどこぞの女子とお茶を飲むらしい」

「ははーん、プレイボーイなのねぇ」

「さて、これできみから指示された仕事はいちおう果たしたが――」

 

 レオドに頼んだのは連絡だけで、約束の取り付けの成否については言及していなかった。本人としても、もうこれ以上の面倒は御免という心境なのだろう。彼の表情には愛想というものが欠片もうかがえなかった。

 

 まあ――あまりルフ・ファージェルを好いていないレオドに、何度も仲介させるというのも酷なものか。

 それに、収穫が一つもなかったというわけでもなかった。少なくとも、今日の放課後は確実にホールでルフを眺めることができるのだ。顔を覚えると同時に、その様子を観察することで、ある程度の人柄を知れるのは期待できた。

 

「――仕事は十分よ、ありがとう」

「……それでは、これで失礼する」

 

 と、食堂をあとにしようとするレオド。

 って、ちょっと待ちなさいよ。

 

「……何か用か? 袖を掴まないでくれ」

「あなた、せっかく食堂に来たのに食事しないの?」

 

 いま話をしているのは、朝食を取る前のタイミングである。てっきり、そのまま朝ごはんを食べるのかと思っていたら――まさか帰ろうとするとは。もしかして朝食は取らないタイプ?

 

「寮で朝の茶とビスケットを取ってきたが?」

「それおやつレベルでしょ! ちゃんと朝もしっかり食べなさい」

「うるさいなぁ、きみは」

 

 明らかに聞く耳を持っていない様子。

 くっ、食事の大切さを知らないとは愚かな……!

 

「――そんなんじゃ、生き残れないわよ」

 

 腕を振り払って、すたすたと立ち去ろうとするレオドの背中に――私はそう声をかけた。

 すると、ぴくりと反応して立ち止まる。今の言葉が気になったのだろうか。

 彼はふたたびこちらに体を向けると、疑うような目つきで尋ねてきた。

 

「朝食と生死に、なんの関係がある」

「ふっ、大有りよ。人間が頭や体を働かせるにはエネルギーが必要なの。朝食を抜いてしまったら、昼までにエネルギーが持たなくて集中力と判断力が低下するわ。――もしお昼前に、暗殺者やら魔界のデーモンやらが襲ってきたらどうするの?」

「……そんなことを想定している変人はきみくらいだが」

 

 呆れたような表情をしつつ、レオドは大きくため息をつく。そしてふたたび歩きだした――が、意外なことに行き先は食堂の出入り口ではなかった。

 手近な空席に座った彼は、近くにいた給仕を呼び止めたのだ。どうやらパンとスープを頼んだらしい。

 

「あら、偉いわね。ちゃんといっぱい食べて、強く育つのよ」

子守り(ナニー)みたいなことを言うな。というか僕に付きまとうな」

 

 レオドは見るからに不機嫌そうな顔で、虫を払うようなしぐさをした。これ以上は本当に怒りそうなので、からかうのもやめにしよう。私はわずかに笑みを浮かべて、「はいはい」と彼から離れた席に向かって歩きだした。

 

「……子守りか」

 

 私はその単語を、誰にも聞こえない声量でつぶやいた。

 親は誰しも、子供の健やかなる成長を願うものだ。小さくか弱い存在が、強く大きくなることを喜ばぬ保護者はいないだろう。――今の私の心境は、そういったものに近いのかもしれなかった。

 

 ――子供というものは、いずれ大人となり、往々にして親を驚かせる。

 

 力をつけ、強き存在となりなさい。レオド・ランドフルマよ。

 あなたが立派に成長した暁には、私は――

 

「お腹が減ったわねぇ……」

 

 ――いくらパンを食らっても、満たされぬものがある。

 その飢えを少しでもしのぐために――強き者を喰らう日が待ち遠しかった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 こうも連日、あまり縁のなかった場所に赴くというのは不思議なものだ。

 入学当初は体を鍛えることばかりに時間を費やしていたが、最近は“睡眠中”にトレーニングをおこなえていることもあって、日々の活動に余裕というものができていた。おかげで、こうしていろいろな人間と接しているというわけだ。

 

「……さて」

 

 私は例のホールで、獲物を見定めるように空間を見渡した。

 いつものように、多くのテーブルで学生たちが歓談したりゲームをしたりしている。同性同士の友人で固まっているグループも多いが、中には男女のペアもちらほら見えた。そのどれかに、目標(ルフ)は存在するのだろう。

 

「あ」

 

 耳を澄ませて会話から本人を探り出そうかと考えた時、ふとメイドの少女が通りかかるのを目にした。同年代の黒い髪の彼女は、前日に自己紹介を受けたばかりなので見間違えるはずもない。――アイリだった。

 ルフの顔を知っている彼女に聞くのが、いちばん確実で早いだろう。そう思った私は、彼女に問いかけることにした。

 

「ちょっと、あなた」

「ひゃっ!?」

 

 横から近寄って声をかけた瞬間、まるで獣に襲われたかのようなリアクションでびくりと身をすくめるアイリ。紅茶などを運んでいる最中でなかったのが幸いな反応だった。

 ……どうして声をかけただけで、そこまで怯えられるのかしら。

 

「す、すみません……びっくりしてしまって……」

 

 肉食獣に狙われた小動物のような印象を漂わせて、彼女は謝罪を口にすると――おずおずと尋ねてきた。

 

「その……何かご用でしょうか、オルゲリック様……?」

「今日、このホールにルフ・ファージェルがいると耳にしまして。わたくしに、彼の居場所を教えてくださらないかしら?」

「……ファージェル様ですか。それでしたら――あちらのテラスに近いテーブルの、金髪のお方です」

 

 彼女が控えめに指差した方角を見遣ると、たしかにそっちのテーブルには二人だけで座っている男女の姿があった。ここからだとルフの顔が確認しづらいが、対面にいる女子の表情はよくうかがえる。ルフの話に熱っぽい笑顔を返しているところからすると、まるで恋人同士のような間柄に見えた。

 もっとも――ルフにとっては、数多き遊び相手のうちの一人なのだろうが。

 

「……あの男子ですのね、ありがとう」

 

 情報提供に感謝したところで、私はふと疑問を覚えた。

 ルフのことではなく……アイリがこちらにかけた言葉についてだ。彼女は“オルゲリック様”と呼んだが、たしか昨日は私の名前を口にしてはいなかった気がする。なぜ個人情報を認識しているのだろうか?

 

「そういえば、さっき……わたくしの家名をおっしゃいましたが、ご存知でしたの?」

「えっ? ……え、えぇ。お……オルゲリック様は“有名”でいらっしゃいますので……」

 

 へー、私のことがそんなに知られているんだ。まあ辺境の有力な侯爵家の子女なので、メイドでも覚えておくべき人物として認識されているのかもしれない。大貴族の家柄の人間相手に粗相をしたら大変だしね。

 私は何気なく、興味本意で少しだけ尋ねてみた。

 

「ところで、使用人の方々の間では――わたくしは、どんなふうに認知されているのかしら?」

「えっ!? そ、それは……」

 

 詳細を聞かれるとは思ってもいなかったのだろうか。アイリは強張ったような表情で言葉を濁した。その顔色は、どこか青ざめているようにも感じられる。

 どうも反応からすると、あまり評判には期待できそうになかった。まあ学生の前だと傲慢不遜を演じていることが多いので、使用人にもそういう人物だと見なされているのかもしれない。

 

「あら、正直に話してくださって結構ですわよ? 偽りない外聞を知っておきたいですもの」

「…………」

 

 彼女は覚悟を決めたような顔をすると、ゆっくりと口を開いた。

 

「仕事仲間の方たちが口々に言うのですが……その……万が一、オルゲリック様に失礼を働くと……」

「失礼を働くと?」

「……く……“首を切られる”と、恐れられています……」

 

 その言葉を聞いた直後、私は内心でちょっと笑ってしまった。

 なるほど。大貴族の子供から不興を買ってしまうと辞職させられるかもしれない、と危惧するのは平民らしい発想だった。実際には、気に食わない使用人を解雇させるような圧力を学園にかけるのは不可能だろう。いくら私が有力諸侯の家柄だとはいえ、そんな私的な感情を理由に人事を動かすほどの力はなかった。

 

「あらあら、まあまあ……。使用人の方々も心配性ですのね。わたくしにそんな権力(ちから)はありませんのよ」

「……ち、腕力(ちから)はとてもありそうに見え……い、いえっ! な、なんでもありませんっ!」

 

 アイリは慌てたように首を振ると、泣きそうな表情で「そ、そろそろ仕事に戻らせていただけないでしょうか……」と懇願してきた。呼び止めつづけるわけにもいかないので、私は素直に頷いて別れることにする。「で、では……」と背を向けた彼女は、まるで逃げ出すかのように早足で去っていった。

 

「…………」

 

 やっぱり私、めちゃめちゃ怖がられてない?

 

「……まあ、それはともかく」

 

 独りごちて、意識を本来の目的に移す。私はルフ・ファージェルを観察しにきたのだ。近くの席にでも座って、会話を盗み聞きすべきだろう。

 そういうわけで、私はアイリに教えられたテーブルの方向へと歩きだした。

 

 ――と、その時。

 私よりも早く、談笑する二人のもとへと進む人物の存在に気がついた。

 

 別の方向からルフを目指して、つかつかと歩み寄るその少女は――見たことのある顔だった。名前は覚えていないものの、同じ下級生の女子であることは間違いない。そして、その表情には怒りが混じっているようにも見えた。

 

 ……あれ?

 もしかして、これ……修羅場ってやつ?

 

「――ファージェル様」

 

 その冷たい声に、ようやくテーブルの二人は気づいたのだろう。割り込んできた声のほうに顔を向けると――ルフは引き攣ったような笑みを浮かべた。

 

「キャロル……。ど、どうしてここに……」

「どうして? それは、わたしの言葉です! どうして、ほかの女性と親しそうにしていらっしゃるのですか?」

「い、いや……ボクもいろいろな子と交流をしたいしね……」

「つい先日、『きみ以外の女性はもう目に入らない』とおっしゃっていましたけど!?」

 

 彼女がそう言った直後、ルフの対面に座っている女子も眉をひそめた。もしかしたら談笑していた彼女も、同じような言葉をかけられたのだろうか。ルフへ向ける瞳は軽蔑の色を帯びていた。

 

「アリア……これにはわけが……」

「……あたし、お邪魔みたいなので失礼しますね」

「い、いやぁ……邪魔なんかじゃないって……! そ、そうだ……どうせなら三人で仲良くお茶でも――」

 

 へらへらと情けない笑顔を浮かべながら、ルフがそう言いかけた時――二人の乙女は本気でキレたようだ。離れた場所からでも怒気がありありと伝わってきた。そして、先にルフと茶飲み話をしていた女子のほうは――どうしても感情が抑えきれなかったようだ。

 

 その繊手が紅茶のカップを掴んだかと思うと――腕を跳ねさせ、中身を前方にぶちまけたのだ。

 ――液体が宙を飛び、ルフへと襲い掛かる。

 それを避けることはかなわなかったのか、彼はもろに顔面で紅茶を受けてしまった。

 

「うわっ!? ちょっ……!」

 

 あわてふためくルフには、もはや関わる気持ちも失せたのだろうか。彼女は席を立つと、無言ですたすたと去っていった。

 と、同時に――残ったもう一人の女子も、怒りと呆れが混じったような表情で口を開いた。

 

「ファージェル様……あなた、最低な男性ですね……」 

「ははは……て、手厳しいなぁ……」

 

 濡れた顔のまま、ルフはふたたび笑顔を浮かべる。あまり反省しているようには見えない態度だった。

 そして、次に何を言うかと思えば――

 

「ところで、キャロル……。ちょうど席が空いたから、よかったら一緒にお茶でも――」

「さようなら」

 

 ぴしゃりと厳しい口調で言い放った彼女は、彼に背を向けると怒りを湛えたまま歩き去ってゆく。その姿からは未練がまったく感じられなかった。心底、愛想を尽かしたのだろう。

 

 残されたルフに対しては、ホールの冷めた衆目が集まっていた。紅茶をぶっかけるのはやりすぎのようにも思えるが、彼の言動からすると当然の報いと考える人も多いに違いない。それほどまでに、少女二人への対応はあからさまにひどすぎた。

 

 ――なるほど、これならルフの評判が悪いのも納得である。

 

 もし女子のうち一人がアニスだったとしても、同じように彼を軽蔑して去ったことだろう。そして、もしレオドが修羅場の光景を目撃したら、やはり最低な男だと再認することだろう。

 だが――

 

「――ずいぶん、派手にフられたようですわね」

 

 私は笑みを浮かべながら、ルフに近寄って話しかけた。その瞬間、彼はびくりと体を震わせて顔をこちらに向ける。まさか声をかけてくる学生がいるとは思ってもいなかった――というような様子だった。

 

「……き、きみは?」

「ヴィオレ・オルゲリック、ですわ。以後、お見知りおきくださいませ」

「…………侯爵家のご令嬢か」

 

 名前を口にした直後、ルフはわずかに表情を強張らせて呟いた。

 いきなり現れた私の存在が不可解なのだろうか。彼の目には疑うような色も含まれていた。

 私は相手の顔を見据えつつ、ゆっくりと対面の席へ移動して腰を下ろす。

 

「――色男が台無しですわね」

「はは……まいったね、本当に……」

 

 そんな何気ない言葉を交わしつつ、私はルフ・ファージェルを真正面から眺めた。

 金髪の下の顔立ちは、レオドほど美形ではないがかなり整っていた。年齢が私やフォルティスより上だからか、やや大人びた印象を抱かせる。その顔を紅茶で濡らしていなければ、じつに女子から人気になりそうな外見だった。

 ……外見は、だが。

 実際のところ、見た目と言葉で釣られた女性は……さっきみたいに失望して去ってゆくのだろう。

 

「それで……ボクに、何か用があるのかな?」

「あら、ファージェル様はお暇(フリー)なんでしょう? よろしければ、お茶でも飲みながら話をしたいと思いまして」

「…………お茶かぁ」

 

 ルフは苦笑すると、そのあごから水滴を一つ垂らした。紅茶をぶっかけられたことには、やはりいろいろ思うところがあるらしい。

 私はスカートのポケットに手を伸ばし、ハンカチを取り出した。それをルフのほうへ差し出し、言葉を投げかける。

 

「髪と顔をお拭きになったほうがよろしいかと」

「あー……悪いね」

 

 彼は申し訳なさそうな表情とともに、私のハンカチを受け取る。頭の濡れた部分をさっと拭きおえたルフだったが――少し困ったような口調で尋ねてきた。

 

「すまない……ハンカチをけっこう濡らしてしまったな」

「いえ、お気になさらず。そのまま返してくだされば結構ですわ」

 

 紅茶で湿ったハンカチを、そのままポケットに戻したら服まで濡れてしまうのではないか。おそらく、そう心配しているであろうルフに対して、私は“白手袋を外して”右手を差し出した。

 食事などするとき以外は、基本的には隠している素手。今は手のひら側を見せているが、それでも胼胝(たこ)がいくつかあるので、女性らしさとは対極の手だった。

 

「…………」

 

 不審そうな顔つきで、ゆっくりと私の手にハンカチを渡すルフ。

 濡れたそれを受け取った私は――ティーカップのソーサーを移動させて、右手の真下へと持っていった。

 

「……何を…………」

 

 疑問の声を上げる彼を無視して――私は手の向きを反転させて、ハンカチを拳の中へと握り込んだ。

 

「こうすれば――」

 

 私は授業中によく、布や紙を握力で丸め潰すトレーニングをしている。極限まで圧縮されることにより、物質はまるで金属のように押し固められるのだ。――そこに水や空気が入る余地などない。

 さほど大きくもないハンカチを――さらに小さく、指の中へ押し込める。

 

 手が濡れる感覚が訪れる。

 ハンカチが吸い取った水分が、圧力に曝されて外に逃げ出しているのだ。

 ソーサーに流れゆく水滴は――まさにルフが拭き取った紅茶の量に等しいだろう。

 

 もしも人間の腕を掴めば、一瞬で骨が砕け、肉が崩れ、血が噴き出すであろう握力。

 それを受けつづけたハンカチは――

 

「ほぉら……これでもう乾いた」

 

 手を広げ、無残に押し固められたハンカチを見せつける。

 

「まぁ……二度と使えませんけれど」

 

 もはや布として機能しないそれを、ぽとりとソーサーの上に落とす。ハンカチの成れの果ては、高密度になりすぎたゆえか水分を吸い上げる様子はなかった。

 

「…………」

 

 恐ろしいものを目の当たりにしたかのような顔つきで、ルフは沈黙している。

 私がニコリと笑うと、彼はびくりと体を震わせた。……大げさな反応ね。

 

「わたくしのクラスメイトから、あなたに関する話を耳にしましたわ」

「……クラスメイト?」

「アニス・フェンネルという名前の女子です」

 

 わずかに目を細めたルフは、「ああ」と思い出したかのような声を上げた。

 

「ダンスパーティーで知り合った女の子だね。清楚でかわいらしくて、思わず一目惚れしてしまったんだよ。だから声をかけてみたんだが……残念ながら、どうも彼女は乗り気でないようだった」

「惚れやすいお方ですのね」

「美しい女性には目がなくてね、ははは」

 

 笑いを浮かべるが、どこか苦笑交じりのようにも見える。冗談か本気なのか、現状ではいまいち判断しづらかった。

 そんな会話をしているなかで、ふいに早足でこちらのテーブルに寄ってくるメイドの姿が目に映った。アイリである。手にしたお盆の上には、タオルやおしぼりが乗せられていた。

 

「お、お待たせしました。こちらをお使いください」

 

 おそらく遠目でも、ルフが紅茶をかけられる姿が見えたのだろう。トラブルを確認してから、すぐに拭くものを用意してきたようだ。

 ルフはタオルを受け取りながら、優しげな声色で感謝の言葉を口にした。

 

「……ありがとう。申し訳ないね、アイリ」

「いえ、とんでもございません……」

 

 あらためて頭と上着をタオルでぬぐい、安堵したようなため息をつくルフ。それを眺めつつ、私も濡れた手をおしぼりで綺麗にした。

 そして、テーブルに飛び散っていた水滴なども拭き取られたところで――

 

「――新しい紅茶を二つ、いただけないかしら?」

 

 使用済みのティーセットと布巾を回収するアイリに向けて、私はそうお願いした。すると彼女は驚いたような様子で、ルフのほうへ目を向ける。どこか心配そうな視線だった。

 

「……お願いできるかな、アイリ」

「は、はい……承知いたしました」

 

 彼女は礼をすると、ホールの出口のほうへと去っていった。この時間なら一階の給湯室でつねに湯を沸かしているはずなので、そう時間も経たずに紅茶もやってくるだろう。

 

「――あのメイドの子とも、仲はよろしいのでして?」

「ふふっ……かわいい女性とは誰でも親しくなりたいタチでね」

「あらあら。じゃあ、わたくしとも親しくなりません?」

「…………」

 

 こらこらこらこら、なんでそこで黙るのよ?

 見目麗しい美少女が誘っているというのに、まったく失礼な男ね!

 

「――わたくしでは不満かしら?」

「いや……きみには婚約者がいるだろう?」

「あら、ご存知でしたのね」

 

 なるほど。まあフォルティスとは故郷の仲があるので、私のことも知っていたのだろう。さすがに知人の婚約者が相手では、憚られる気持ちがあるのかもしれない。

 

「ご心配なさらず。あなたが相手なら、本気で付き合っていると思う人間もいないでしょう」

「……たしかに、きみの言うとおりだ」

 

 ルフは不敵さを含んだ笑みを浮かべた。

 学園中の女子に声をかけまくっている彼ならば、誰が見たって真剣に付き合っているとは考えないだろう。先ほどの二股場面を見るかぎり、下級生の間にもルフ・ファージェルの悪名が広がるのは時間の問題だといえた。

 

「――ファージェル様は、どんな女性がお好きですの?」

「どんな、かぁ……。そうだね……優しくて控えめな女の子、かな? きみのお友達のフェンネル嬢は、ボクがわりと好きなタイプかもね」

 

 ちょっと明るすぎるかもしれないけど、とルフは言葉を付け足した。たぶん慎ましい感じの女の子が好みなのだろう。アニスは大人しそうな外見だが、性格に積極的な一面があるので、その点は微妙に合わないのかもしれない。

 

「そう言う、きみのほうはどうなのかな?」

「わたくしですか?」

「フォルティスのような優男が好みなのかい?」

 

 ルフは笑いながら尋ねた。

 優男? と怪訝な気持ちを抱いたが、そういえばルフは学園に入ってからのフォルティスとは、たいして交流していなかったはずだ。今の彼が男らしく成長していることを知らないのだろう。

 私は唇を歪めて、ルフの質問に答えた。

 

「――強い(おとこ)なら、誰でも大好きですわ」

 

 それは肉体的でも、精神的でもかまわない。

 フォルティスも、レオドも、そしてアルスだって。向上心を持って力を伸ばそうとする人間は――私の大好物だった。

 現状に甘んじることなく、上を目指す在り方というのは美しく魅力的だ。

 そういう男が――私は好きだ。

 思わず……遊んでやりたくなる。導いてやりたくなる。もっと上へ――少しでも私のいる方向へと、誘いたくなるのだ。

 

 ――あなたは強くなれる男かしら? ルフ・ファージェルよ。

 

 私の視線に射抜かれたルフは、緊張したような表情を浮かべていた。一見すると女好きの軟弱な男だが――その本当のところはどうなのか。

 もし、強くなれる素質があるというのなら――

 

「…………あ、あの」

 

 と、その時。

 テーブルのそばで、新しいティーセットを持ってきたアイリが、おそるおそる声をかけてきた。無言で見つめ合っていた私たちの姿に、困惑したような様子だった。

 

「お茶をお持ちしましたが……」

「あら、ありがとう」

 

 私はルフから視線を外し、彼女から紅茶を淹れてもらった。カップを受け取り、砂糖を少量だけ入れて口をつける。温かいお茶はやはり美味しかった。

 

「どうぞ、ファージェル様」

「……ありがとう」

 

 ルフも紅茶を受け取り、礼を口にする。その声色はどこか穏やかなようにも聞こえた。

 アイリが去っていったのを確認してから、私はゆっくりと口を開いた。

 

「ファージェル様は、いま付き合っている恋人はいらっしゃらないのですか?」

「うん? ははは……キャロルにもアリアにもフられてしまったからなぁ……。新しい女の子を探さないとね」

「なるほど」

「……きみのお友達に声をかけるのは、迷惑かな?」

 

 ルフは私の顔色をうかがうように言った。お友達、というのはアニスのことを指しているのだろう。

 おそらく彼は、私がアニスの件で接触してきたと考えているのだ。彼女に関わるな、とでも言われることを予想しているのかもしれない。

 

「――アニスよりも、いい相手がおりますわよ」

 

 だから、その発言は意外だったのだろう。ルフは眉をひそめて、こちらを見つめてきた。

 

「……ほかの女の子を紹介してくれるのかい?」

「ええ」

「そりゃ、ありがたいけど……どんな人なのかな?」

「あなたの目の前にいる女性ですわ」

 

 その直後、ルフの体が凍りついた。

 何を言われたのか理解できないというように、無言で固まっている。それほど想定外だったのだろうか。私のほうから誘ってくることは。

 

「わたくしも――いい男は好きですの」

 

 笑みを浮かべると、ルフはごくりと唾を呑みこんだ。その瞳は動揺に支配されている。彼の体内から発せられる、高鳴る心臓の音――それは恐怖と戦慄の証だった。

 

「まさか、“かわいい女性”からのアピールを……断るつもりはありませんよね?」

「だ、だけど……きみには婚約者が……」

「あらあら、あなただって“二股”をしていたでしょう?」

「それは、その……」

 

 私は腕を掲げると、その手を拳の形へと変えた。

 そして――強く握り込む。

 この手から発せられる握力。それはすでに、ハンカチを返した時に彼も視認していた。これが自分に向けられれば、どうなるかも――わかってしまっているはずだ。

 

 私はニッコリと、満面の笑みを作った。――右手に破壊的な力を宿しながら。

 怯え、言葉を失うルフに情熱的な視線を送りつつ。

 

 

 

 

 

「――次の週末に“デート”でもいかがですか、ファージェル様?」

 

 ――その答えは、一つしか選ばせなかった。

 


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