――素早い右ジャブが、私の顔面を狙ってきた。
私はそれを仰け反りながら躱し、さらに連係してきた敵の左ストレートを後方に跳んで回避した。今の洗練された攻撃は、おそらくよほど格闘訓練を積んだ者でないと見切ることは不可能だったろう。短期間でここまで打撃技術を昇華させたアルスは、もしこの世界にボクシングがあれば頂上さえ目指しうる才能だった。
先週はルフとデートをしていたので、もしかしたらアルスの腕も鈍っているのではないか。そんな心配は、とんだ杞憂だったようだ。相手をしていても飽きないくらい、彼は優れた身体能力を発揮していた。
後ろへ逃げた私に対して――アルスは臆することなく、前へと飛び込んできた。
捻りを加えたストレートが迫ってくる。私が空手を少し教えたこともあって、彼のパンチはフォームがしっかりしていた。空を切り裂きながら胸倉を貫こうとする突きを、私はしっかりと見定める。
――重要なのは、タイミングだ。
私は人差し指だけ立てた左手を、下から弧を描くように振るった。
アルスの右拳が到達するよりも先に――私の突き立てた一本指が、その手首をすくい上げていた。
直線的に向けられていた力が――その方向を変える。拳は上へずらされ、勢いが曲げられていた。強引に弾くのではなく、相手の力を保持させたまま受け流したのだ。
すると、どうなるか。相手は肉体の制御を失い、バランスを崩してしまうのだ。――抵抗もなく、簡単に投げ飛ばせるほどに。
たたらを踏んで、こちらに飛び込んでくるアルス。私はすぐさま体をねじると、彼の胸板を背中で受け止めた。と同時に、すぐさま相手の腕を掴んで――体をバネのようにして天へと放り投げる。
背負い投げだった。
ただし――投げっぱなしで本当に空中を漂わせる、怪我をさせかねない危険技。
「う、おおぉぉぉっ!?」
その全力の悲鳴にくすりと笑いつつ――私は刹那に“気”を巡らせ、あらゆる物理運動よりも素早く肉体を稼働させた。
――投げた直後に、もう私は屈んで両手を差し出していた。アルスが地面に叩きつけられようとしていた場所へと。
……ナイスキャッチ。
内心で自画自賛しながら、私はアルスを抱えたまま立ち上がった。いわゆるお姫様抱っこをされた彼は、呆れたような顔をしながら口を開いた。
「……なんだ、今の?」
「柔術、あるいは合気かしら。力に対して力をぶつけるのではなく、むしろ相手の運動を利用することによって、普通の打撃とは異なった攻撃を可能にするのよ」
「ほぉ、なるほどなぁ……。しっかし……どこでそんなの学んだんだい、姐さん?」
「――夢の中で」
――空手は学んでいたが、柔道や合気道は習ったことなどなかった。
だから、すべて独学だ。そう……実戦の中で、実践してできるようになったのだ。いまや毎日のように見られるようになった、あの夢の中で。
「はぁん? ……まさか、夢で特訓しているって言うんじゃないだろうな?」
「そのまさかよ」
「……否定できないのが恐ろしいところだぜ」
引き攣った表情のアルスに、私は笑みを見せる。
どれだけ言われても、彼にとっては信じられないし想像できないだろう。現実のようにリアリティーを帯びた、夢での闘いがあるということを。それが経験値となって、私の体に蓄積されているということを。
――アルスよりも格段に脅威を持った、デーモンの攻撃。
私はそれを、ずっと受け流す練習をしていた。そうして、ある時に気づいたのだ。どの瞬間にどこへ力を加えてやれば、相手を簡単に崩し、御することができるのかを。
10の力に対して、10の力で防ぐことは簡単だ。
だが、1の力で対応することは難しい。
けれども、それを成せるようになれば――100の力に対して、10の力で戦えるようにもなる。
自分よりも十倍の強さを持った敵と出逢った時――私はそれに打ち勝てるようにならなければならない。
「……そろそろ、下ろしてくれないかい? 姐さん」
「はいはい」
私はそう答えながら、アルスをお姫様抱っこから解放して地面に下ろす。
着地した彼は、苦笑しながらため息をつくと――参ったというように後ろ髪を掻いた。
「……おれじゃ、もう姐さんの練習相手にもならねぇな」
「そんなことないわよ。実際に格闘していると、いろいろと気づくこともある」
「……たとえば?」
尋ねてきたアルスに、私はしばし黙考した。べつに出任せで言ったわけではない。戦闘中に気づいたことで、何をもっとも話題にすべきかを思い返したのだ。
――ふいに、私は今日のやり取りで気になったことを思い出した。
ただ、ちょっとした疑問。確信のない、確かめなければわからないこと。
「気づいた、というか……気になったことがあるのだけれど」
「へぇ……気になった、とは?」
「――あなた、私の攻撃に反応できる?」
そう聞いた直後、アルスは自分の耳を疑うような顔つきをした。私の質問がそんなにばかばかしかったのだろうか。
ようやく口を開いた彼の言葉は、こちらの問いを否定するものだった。
「……そりゃ無理だぜ。姐さんに
「防げるか躱せるか、という話じゃないわよ。私の攻撃を――食らう前に認識できるかってことよ」
「……食らう前に?」
「そう。あなた、何度か私の反撃に身構えなかった?」
それが疑問だった。私はいつもアルスの攻撃を避けた時に、反撃をイメージしつつ体を動かしている。実際には拳を繰り出しはしないが、その素振りだけはときおり見せるようにしていた。
そして――意外なことに、その反撃の初動にアルスがびくりと反応することがあるのだ。“気”の量を調整しているとはいえ、私の肉体動作はそう簡単に捉えられるとは思えない。なのに、アルスは私の攻撃を認識していたのだ。
「あー……」
彼は思い出したかのように声を上げた。そして言葉に悩んだような感じで、ゆっくりと答えだす。
「その……べつに、見てから反応しているわけじゃないさ。ただ……なんとなく、『来そうだな』と感じただけ、というか」
「つまり、直感的に予測した?」
「まあ、そうなるのかねぇ」
はっきりしない言い方だった。どうも自分で意識した動きではなかったようだ。
となると、なぜアルスは私の行動に反応できたのか。そこにあるのは、単純な動体視力や運動能力だけではないように思えた。
「――今から、あなたの首筋に右手で手刀を放つわ」
「はぁっ!? ちょ、ちょっと、まっ……」
「本気で当てないわよ。寸止めするだけだから大丈夫。……それに反応してみてくれる?」
「……はぁ……自信はないんだがなぁ……」
そうぼやくアルスに構わず、私は“気”を巡らせながら、右手に意識を集中させる。動かせば風を切る手刀と化すだろう。それに反応できる人間など、同じ“気”の使い手でないかぎり存在しないように思えた。
それなのに――
「――――ッ!」
動かし、アルスの首筋に手刀を突きつける。それは一瞬間、瞬きにも満たない時間でおこなわれたはずなのに――私ははっきりと見た。
こちらの右手が上に動作した直後、アルスが反射的に体を動かしたのを。もちろん防ぐのは間に合わなかったが、それでも私の手刀が“視えて”いた。それは間違いない。
「……どうして来ると思った?」
「いや……なんとなく、殺気を感じて」
「殺気?」
「こう……姐さんの体の雰囲気から、『ああ、打ってきそうだな』って感じたのさ。自分でもよくわからんが」
「体の雰囲気――」
なるほど。ただ動体視力で腕の動きを捉えているだけではないようだ。
もっと多くの要素から、攻撃を予測しているのだ。体、つまり全身の様子から。視線、呼吸、力み、揺れ……肉体からはさまざまな情報が発せられている。それらを感じ取り、統合し、脳がある種の感覚として浮かび上がらせるのだ。そう――殺気として。
殺気。殺す、気配。そう、それは気配だ。
手刀を打つ――そう心に決めて、それを意識して放てば、事前に気配が発せられる。それは当たり前のことだった。
そして――何度も私と格闘を続けてきたアルスは、なんとなく打撃の気配というものを直感で察せるようになっていたのだろう。
そう、か……。
そうだとしたら――試してみたい。
「もう一度、手刀を打たせてくれる?」
「ああ……いいけど」
困惑したように頷くアルスに対して、私は両手をだらりと下げて意識を研ぎ澄ませた。
――体は緊張させずに、
呼吸を正しく。打つ、という思考を潜める。自然体で存在するのだ。大地に、空気に同化するかのように、ひっそりと私は立つ。
戦いに臨む心地とは、対極の状態――
肉体をリラックスさせる中で、ふいに私は動いた。
力を入れるのは――刹那。
緩から、急への転身。気配を消した状態からの攻撃。その打撃はもはや――殺気を伴わない。
私の手刀は……アルスの首筋に、ぴたりと宛がわれていた。
「…………な」
彼が声を発したのは、一秒ほどが経ってからだろうか。
そこでようやく、驚愕の表情で口を開けていた。まるで、やっと放たれた手刀に気づいたかのように。
「……何したんだ、姐さん? 腕が瞬間移動したように見えたぞ」
「ちょっとしたテクニックよ」
そう、これは魔法ではない。ただの技法に過ぎなかった。
闇雲に腕力をもって振るうだけでは、発揮できない技の威。それを私はいま、かつてないほどに理解することができていた。
――奥深き、深淵なる武の世界。
それに身を置いていることに、私は猛烈に感謝をしていた。極めることが困難で、果てなどないように見える。だからこそ――それを追求するのが楽しくて仕方なかった。
「……まだ、私は強くなれるわね」
それが嬉しくて、ついつい笑みをこぼしてしまった。
冷や汗を流しながら、ぎこちなく笑みを返すアルスを見据えつつ――私はゆっくりと手刀を離す。束縛から解放されたかのように、彼は大きく安堵の息をついた。
「……もう姐さんが勝てない相手なんて、いないんじゃねぇのか?」
「いるわよ、きっと」
私はそう答えた。だって、誰もがおとぎ話だと思っている世界が実在することを知っているから。
はるか昔、人類の住む場所と別たれた魔の世界。
そして、それを繋ぎうる知識と実力を持っているフェオンド・ラボニという男。
もし彼が、破滅的な力を持ったデーモンを喚び出したのならば――
ああ、本当に不謹慎で身勝手だけれども。
きっと私は……この世界に生まれた意義を、その時にして本当に知ることだろう。
そう――
死んでもいい。そう思えるくらいに、私は喜んで。
命を燃やし、闘いに身を投じるのだろう――
ルフくんのお話からいったん離れて、久しぶりの武闘回。
今回の手刀の件は、日本空手協会の中達也先生の動きを参考にさせていただきました。
「中達也の『受けられない手刀』」
https://youtu.be/3x6Vpl12pU8?t=17
該当チャンネル(黒帯ワールド)には武道関係の面白い動画が多いので、興味がある方は覗いてみると楽しめるかもしれません。