『ミセリア・ブレウィス――』
『もし、この私と……“友達”で在りたいのなら……』
――どこにも人影のない、静やかな校舎の裏手。
かつて私はこの場所で、彼女と戦ったものだ。それは一方的な結果ではあったが、私にとっては価値のある出来事だった。
自分に向けられた脅威。その
私は感謝していた。彼女に。
“友達”となることにも、そこまでの拒否感はなかった。自分の本性を曝け出せる相手。それは日常を過ごすうえでも、非常に大事な存在だった。
それでも――
ただ、一つの条件を。ある時から、私は彼女に課していた。
「……来たわね」
私はニィっと笑うと、ゆっくりと壁から背を離した。そして手袋を外してポケットにしまい、あらわになった素手を拳にして強く握る。どこかワクワクした気持ちを抱きながら、私は友人の姿を捉えた。
――眼鏡の少女は、その手に指揮棒型の杖を携えている。
そして、それ以外の荷物は持っていなかった。これから“やること”に邪魔なものは必要ないので当然である。
ミセリアは淡々と、物怖じする様子もなく、無感情に歩み寄ってきた。その姿が、私には嬉しく感じる。――強者に立ち向かってくる人間ほど、素晴らしいものはないのだから。
彼女が、私と、関係を維持するための条件。
そう、知己でありつづけることを望むのならば――
『月に一度――私を殺しにかかってきなさい』
命を狙えッ!
生を脅かせッ!
息の根を止めるつもりで襲えッ!
それが――ミセリア・ブレウィスに求めた約束であった。
退屈な日常に馴染んでしまわないように。殺意の感覚を忘れてしまわないように。
ミセリアに脅威を向けてもらう――それは私にとって重要なことだった。
むろん、結果は見えているが――
それでも彼女に全力で襲い掛かられると、心と体の鈍りも抑えられるのだ。
夢の中ではなく、現実の中でも死が訪れる可能性があると――そう安心できる。
そう――これは月に一度の、“お楽しみ”だった。
「――――」
いまだ距離のある地点で、ミセリアは立ち止まると――杖を振りかぶった。
彼我の間合いを縮めず、遠方から魔法で攻撃を加える。それは戦略的に正しい。私の一歩は、常人の五歩にも比類しうるのだから。
彼女はそのまま杖を振り下ろすのかと思ったが――
ふいにポケットに手を突っ込み、何かを宙に放り投げたように見えた。
そして――杖が素早く下へ払われた。
生み出されたのは、風の力だ。
強風ではなく、烈風が私を目掛けて突き進んでくる。最年少で学園に入学した天才少女の魔力は――おそらく秀才のレオドすら凌いでいただろう。
かなり距離があったにもかかわらず、その威力は減衰していなかった。
女子供なら一瞬で吹き飛ばされるであろう、暴力的な風が私の体に叩きつけられる。
――彼女が同時にポケットから投げた、“物体”を伴いながら。
「…………ッ」
私は目を閉じず、しかと視たッ!
風とともに、わが身へと飛来する――無数の金属片を!
おそらくは鉄の破片だ。それをミセリアは放り、風に乗せて私に投擲してきたのだろう。
普通の人間ならば、金属の刃に身を刻まれていたに違いない。
だが――
――私は、その程度でやられるはずもない。
「――――」
体を半身にし、被弾面を最小に。
顔に飛んでくる破片は脅威ではない。――“気”を集中させれば、皮膚はナイフだろうと通すまい。
もっとも、気にかけるのはむしろ服である。これを守るために――鋭利さのある破片を見極め、手のひらで受け、掠め取る。
――所詮は、風任せの投擲物である。
強風を受けながらでも、私の手捌きは後れを取ることなどなかった。暴威が過ぎ去っても、この体は無傷で立っている。――拳の中には、金属片を握りしめて。
「道具を使うのは悪くない……わね」
手のひらに力を込め――中身を握力に曝す。大小さまざまな形の鋭い欠片が押し潰され、圧縮され……ただ一つの鉄塊と化した。
私はそれを地面に放り投げると――ゆっくりと前へ歩きだす。
悠然と、毅然と、凛然と。強者にのみ許された余裕を抱きながら、私はいまだ離れた位置のミセリアを見据えた。視線を合わせた彼女の瞳は――恐怖も動揺も存在せず、ただ無機質に殺すべき対象を見つめている。
それでいい。
それがいいのだ。
私の力を知っていながら、それでも諦観することなく淡々と戦闘に臨む態度。殺しにこい、と言われて本当に実行している彼女の在り方は、きっと常人からすれば狂っていると思われるだろう。
だが――その狂気が好きだ。
常識と感情に捉われがちな凡人とは、まったく異なった人間性。その異端的な狂気が、凶器となって向けられることに、私は狂喜してしまう。ともに向かい合って、こんなに楽しいと思える彼女は――やはり素晴らしき友人だった。
「…………」
言葉はなく、一切を一点に集中させた様子で――ミセリアはふたたび杖を振った。
次にやってきたのは……荒れ狂う炎だった。
大きく、全面に広がるように迫りくる猛火。それが大波のように、私のもとへ押し寄せていた。呑まれれば焼け死ぬことが免れない威力だろう。
魔法を使える者であれば、風で打ち払うか、あるいは水の壁でも作り出して防ぎうるかもしれない。だが魔術師以外には、もはや対抗する手段は残されていまい。
とはいえ――それは普通の人間の場合であった。
私は魔法を使えないが……技法は扱える。肉体を人外の域に引き上げる“気”の力を用いて、適切な技術を駆使すれば――もはや魔法と遜色のない現象だって引き起こせる。
たとえば、そう。
物理的な動きによって、物理的な風を作れば……それはもう魔法と変わりないはずだ。
「――――」
息を吸う。
筋肉を緩める。
全身は大気と同化するかのように。けっして自然に逆らうことなく。
ゆらりと、右腕を持ち上げ。
ゆっくりと、片足を踏み込みながら。
手は鋭利な手刀をイメージし、腕はしなやかな鞭に見立て。
右手を適切な位置まで振り上げたところで――
「ッ!」
力を巡らせる。
緩から急へ、静から動へ。
瞬間的で、落差のある肉体運動。
全身の筋肉と関節を使って、十分なリラックス状態から繰り出された、宙への手刀一閃――
音が聞こえた。
何かを斬り、壊したような、そんな音響が耳を打った。
そう……一定の条件を揃えた鞭の先端が、音速を超えて炸裂音を鳴らすかのように。
それがただの風切り音だったのか、それとも本当に
ただはっきりとしていることは――私が腕を振るったことにより、何か大きな力を発生させたということだった。
――灼熱が、私の左右を通り過ぎる。
この身に降りかかる炎はなかった。私の振るった手刀が、脅威を切り裂き打ち払ったのだ。
「…………」
ミセリアは私を見つめて押し黙っていた。ただ、その瞳にはわずかに感情が湧き出ているように見える。
そう――それは紛れもなく
だが……何をそれほど驚くことがあるのか。
魔力を物質や物理現象へ変換して、虚空に現出させるということ。そして魔力で強化した肉体を用いて、物理現象を引き起こすということ。そこに差異などあるまい。同じ力だ。身を守り、敵を倒す、同一目的の能力だった。
――さあ、力比べをしましょう。
そう内心で語りかけながら、私は腕を大きく広げた。すべてを受け入れ、呑み込むかのように。
そして足を向かわせる。初めはゆっくりと、そして徐々に加速させて。
それに対してミセリアは――
ただ、無言で私の顔を見据えていた。攻撃を加えることもなく。まるで戦意を失っているかのように。
その真意はどこにあるのか。はたして勝てるハズがないと、捨ててかかっているのか。それとも、何か策を巡らせているのか。
いずれにしても――こちらの行動に変わりはなかった。
私はフォームを変え、全力で疾走する。
距離的には、もはや一秒もかからず肉薄し、やろうと思えば瞬時に生命を絶てるだろう。
もし本当にミセリアが試合放棄しているのならば、あるいは手加減せずに打撃を――
そう思考した時だった。
視界が傾いた。
いや、違う。傾いたのは私の全体だった。
踏み込んだ左足。それが大地を接し、己を前へ跳ねさせるはずだったのに――
私の靴は、何もない空間を踏み抜いていた。
訪れるのは、バランスの崩壊。そこでようやく、私は状況を理解した。
――穴だ。
深く大きく掘った穴に、足を踏み外してしまったのだ。
もちろん、そんなものが自然にあるはずもない。あっても視認など容易だ。おそらく穴の上に布を敷き、土をかぶせて擬装させていたのだろう。
そう――ミセリアは事前に、罠を仕掛けておいたのだ。見えぬように、気づかれぬように、私を陥れるための落とし穴を。
勝つために、殺すために、最大限の手を講じて、敵と戦う。
彼女はけっして諦めてなどいなかった。目標の達成に不断の努力をする、尊敬すべき戦士だった。
ああ……そういうところが、愛おしくて好きよ。
私は地面に倒れ込みながら、笑みを浮かべた。前方で杖を振ろうとするミセリアの気配がする。彼女は体勢を崩した私に、きっと本気で殺意の魔法を向けてくるのだろう。
だけど、残念ながら――
私はその程度では、殺すことなどできない。
「……ッ」
ひとは転倒した時、咄嗟に手を地面に向けるという。
その反射的動作は、もちろん私にも備わっていた。前に差し出した両手のひらが、大地と接触する。
そして……支えがあれば、肉体を運動させることが可能だった。
――腕を十分に曲げ、強く力を流し込む。
両手はバネをイメージする。倒れ込んだ勢いをコントロールしながら、適切なタイミングを見極める。
遠い昔、体育の授業で習ったのは倒立前転だったか。
だが、今はそれより高度な動きをしようとしている。習ってもいない技。それを私は……可能とする肉体を持っていた。
――
力を発揮し、解放し、体を跳ねさせる。私の肉体は地面から離れ、宙を舞った。その高さは、跳躍というよりも飛翔に似ていたかもしれない。空中で私は――ミセリアと目を合わせた。
顔を天へ向け、口を半開きにした彼女の表情は――呆然としているように見えた。いかに冷徹な思考回路を持つ彼女でさえも、想定外の事態には即座に対応できないのだろう。
体をひねり、着地をした瞬間――私は手を動かしていた。
ミセリアには振り向く暇すら与えず。後方から首の根っこを掴み、その命を握っていた。
この手に力を込めれば、彼女の細い頸骨は即座に折れるだろう。あるいは本気で握れば――胴体と切り離すことさえ可能だった。
そう、生殺与奪の権利を持っている私は――まぎれもなく勝者であった。
「――降参」
と、ミセリアはぽつりと呟く。その声色は平坦だったが、私には聞こえていた。――彼女の心臓は、平時より鼓動が早くなっている。
心が恐怖を感じずとも、体は怯えていた。肉体は正直なものだ。ミセリアはれっきとした、正常な人間だった。
「道具と罠を使ったのは評価できるわ。よく落とし穴なんて用意したわね」
「通用しなかった」
「それでも――あなたはこちらの予想を上回った。合格よ」
私に勝とうとして工夫し、そして実際に思いもよらぬ戦法で驚かせた。その事実だけで、私は十分に満足している。
ただ勝ち負けの結果が重要なのではない。前を目指す在り方と、心の持ち様が大切なのだ。その勝利への精神的な志向こそが、私には美しく気高く愛おしく感じるのだった。
――それをミセリアに言っても、理解されることは難しいのだろう。いや、ほかの人間にとっても共感しがたい嗜好に違いない。
だが周囲に同意される必要もなかった。私は自分のために、誰がためでもなく、意のままに楽しめればいい。
ただ我が儘に、礼儀知らずに、自分勝手に、傲岸不遜に――
そう、まるであのヴィオレ・オルゲリックという少女のように。
「――次は私を殺せるように、がんばりなさい」
「わかった」
平然としたミセリアの答えに、私は満足して手を離した。きっとこの子なら、次回も本気で策を練って挑んでくれるだろう。そんなふうに信頼できているということは――私とミセリアがただの友達という枠を超えた、“親友”であることの証だった。
「……っと」
私は手をはたいて土を落とすと、ポケットからハンカチを取り出した。それでミセリアの首に付着してしまった土汚れも綺麗に拭き取る。
「よし、これでいいわ」
「…………」
「さぁて……いちど寮に戻ってから、夕食を取りに食堂へ行きましょうか」
「…………」
「……なに? どうしたのよ」
こちらに振り向くことなく、ずっと無言で立っているミセリアに、私は疑問の声を上げた。何か気になることがあるのだろうか。
私の問いかけに対して、彼女はゆっくりと口を開き――
「地面」
「はい?」
あっ。
「落とし穴がそのまま」
「…………」
……これ、前にもなかったっけ?
「……一緒に埋めましょうか」
穴を作ったのはミセリアだが、その理由をたどれば私との約束に行き着くわけである。責任は半々といったところだろう。
仕方なく私がそう提案すると――ミセリアはどこか満足げにこくりと頷くのであった。
今回は息抜きの百合パートでした(大嘘)