「――オルゲリックさんっ!」
またこの展開?
と、強烈な既視感を抱きながらも。
私は授業前に駆け寄ってきたアニスを、辟易した目で見据えた。
声をかけてきたということは、たぶん相応の用件があるのだろう。この前はルフにナンパ(という名の偽装工作)をされていたことに対する“相談”とやらだったが――今回はいったいなんなのか。
明らかに迷惑そうな私の様子に、アニスはおずおずとしながらも言葉を口にした。
「そ、その……! わたし、いろいろ考えてみたんです!」
「は、はい……?」
何を?
「だから、この前の……上級生の方のことですよ!」
えっ?
不意を衝かれた私は、呆然としたような表情を浮かべてしまった。だが、徐々に頭の理解が追いついてくる。上級生――それはルフのことにほかならなかった。
そしてアニスは、ずっと彼の存在について考えを巡らせていたらしい。
…………。
そういえば、ルフが学園のメイドと付き合うためにあえて軽薄な男を演じていたことは……私以外にはまったく知られていないんだった。
つまり、一連の裏事情を把握していないアニスからすると――ルフ・ファージェルという男は自分に気があって声をかけてきた人物のままなわけで。
……もしかして、そういうこと?
「やっぱり他人というのは……付き合ってみないと、本当の人柄というのは見えてこないわけですし」
「あっ……」
「人のうわさとか外聞とかって、アテになりませんよね?」
「いや、その」
「せっかくお誘いを頂いたんですから……一緒にお茶をしたりして、話をしてみるのも悪くないと思うんです」
オルゲリックさんもそう思いますよね? と純真な瞳で尋ねてくるアニスちゃん。
はい。人生は何事も経験が大事なので、ナンパにちょっと付き合ってみるのも良いとは思います。
うん……。
でも、それ演技だから! 本人はぜんぜんその気がないから! 真面目に考えちゃダメだって!?
「お……およしなさい」
「えっ? ど、どうしてですか……?」
「どうせあんなヤツ、ロクでもない男に決まっていますわッ! 表では何人も粉をかけておきながら、裏では本命の女性とよろしく付き合っている最低などクズでしょうよッ! 貴族の風上に置けない悪徒でしてよッ!」
本人がいないところで散々な罵り方だが、真実はそれほど間違っていないから私は許されると思う。
辛辣な言葉でアニスをとどめようとした私だが――不運なことに、彼女はあまり納得していない様子だった。
「そ……そんなふうに決めつけるのは、よくないですよ!」
などと良い子ちゃんぶって反論してくる。くっ、性根が優しすぎるのよ。まったく面倒くさい!
「ほ、ほら……もっとマシな殿方がいっぱいいるでしょう。お付き合いするなら、そういう方と仲良くしなさい」
「……たとえば、誰ですか?」
「え、ええっ? そ、その……フォルティスとか?」
「なんで自分の婚約者を挙げるんですか!?」
しまった、咄嗟に出てくる身近な人間が彼しか思いつかなかった……。
というか、アニスに縁がありそうな男の影がまったくないんだけどっ!? どうなってるのよ、この世界……。
焦って説得ができない私に対して、アニスは覚悟を決めたような瞳で言い放った。
「とにかく……次にお会いしたら、あの上級生の方とお話をしてみたいと思います」
……これもう止めるの無理じゃない?
アニスちゃん、その男のルートはこの世に存在しないのよ……。そう言いたいのを抑えた私はため息をつき、もう諦めることにした。
「……勝手になさい」
「はい! がんばります!」
意気揚々と頷いたアニスは、そのまま自分の席へと戻っていった。
ああ、何も知らないって悲しいことね……。
私は彼女を哀れみながら、その日の授業を受けるのだった。
◇
で、意外とアニスとルフが鉢合わせるのに日にちもかからず。
ある日の放課後、たまたま通りすがったルフに対して――アニスは声をかけて呼び止めた。
ルフのほうは例の出来事があったからか、もうナンパ男を演じることはやめているようだった。今後は小手先のごまかしに頼らない、ということだろう。その点はある程度の成長がうかがえた。
「あの……わたしのこと、覚えていらっしゃいますか?」
「えっ? ……あ、ああ。きみか」
向こうから話しかけてくるとは思っていなかったのか、ルフは困惑した感じで対応していた。
はてさて、どういう展開になるのやら……。
そう思って眺めていると、私の隣で眼鏡をかけた小娘がぽつりと呟いた。
「不審者」
「うるさいわね」
廊下の曲がり角の陰から二人の様子を覗いていた私は、ミセリアのツッコミを無視して観察を続けることにした。
アニスは「よかったら、今度……お茶でも飲みながら話してみませんか?」と、ルフに直球なアピールをする。女性側から誘ってくるのは完全に予想外だったらしく、彼は明らかに動揺を見せていた。ナンパはただの演技だったので、さぞや本人も対応に窮することだろう。
「いや……その……」
口ごもっているルフだが、まさか相手をその気にさせるような発言ができるはずもない。彼が愛する女性はアイリただ一人なのだから。
――おそらく彼の心境としては、申し訳なさが大きかったのだろう。
ようやく口を開いたルフは、真剣な表情で謝罪の言葉を紡ぎはじめた。
「……すまない。きみに声をかけたのは、本心じゃなかった。ボクにはすでに恋人がいて……きみと仲良くすることはできないんだ」
「え……」
アニスはものすごくショックを受けたような表情で固まった。
あっちからナンパしてきて、悩んだ末にオッケーを伝えたら、どういうわけか断られた。そんな悲惨すぎる状況に陥ったら、頭が真っ白になるのもやむなしである。うーん、悲劇のヒロイン……。
さすがにアニスのことが可哀想だと思ったのか、ルフは苦しそうな表情でその言葉を絞り出した。
「……腹立たしいと思うのも仕方ないかもしれない。本当に悪かった。その……もし、きみの気が収まらないなら――」
一発、殴ってくれても構わない。
などと男らしくルフは言いきった。自分の非に対する報いを甘んじて受け入れる姿勢は、まあまあ評価できる部分だろう。
さて、問題はアニスのほうだが――
彼女はしばし無言だったが、やがて大きく息をつくと「わかりました」と静かに頷いた。
……あれ?
頷いちゃうの?
「――いきますよ」
アニスはそう告げると、右腕をしっかりと引いた。
ビンタでもするつもりなのかと思ったが――私はすぐに違うことに気づく。
手は開いておらず、甲を下向きにして構えていたのだ。
私にとっては、見まごうはずもない。
それはまさしく……空手の正拳突きの姿勢だった。
彼女はすぅっと呼吸をすると――
「えーい!」
――上段へ向けて拳を繰り出したッ!
腕の回転に加えて、腰の捻りも合わせた理想的なパンチ……ッ!
それはまっすぐ、ルフの首元へと飛んでいき――
ちょうどアゴの先端を、拳頭が刈り取るかのように打撃したッ!
絶妙な部位への攻撃を受けたルフは、ぐらっと頭を揺らすと……そのままバタリと後ろに倒れ込んだ。打顎により脳が揺り動かされ、脳震盪に陥ったのだろう。決闘であれば間違いなく勝負ありの一撃だった。
…………。
たぶん狙ってやったわけじゃなくて、まぐれなんだろうけど。
アニス……あなた、どこでそんな拳の打ち方を学んだのかしら?
私がそう思っていると、また隣からぼそりとミセリアの声が発せられる。
「悪影響」
「はぁ? 私、べつにあの子の前で人をぶん殴ったりしてないし――」
「風魔法の授業」
アッ、そういえば正拳突きの手本をそれで見せていた……!
ということは、見よう見まねで打撃のフォームをコピーしたということだろうか。ううむ、なかなかの才能を感じるわね……!
「だだだ、だいじょうぶですかーッ!?」
パンチの威力が自分でも予想外だったのか、彼女は取り乱しながら倒れたルフに声をかけていた。
そんなアニスの様子を眺めながら、やっぱりあの子も体を鍛えてみるべきなのでは、と私はひそかに思うのだった。
――ちなみに女子から一発KOを喰らったことが新しいうわさになり、ルフの評判がさらに下がったのは言うまでもない。
◇
「……で、ルフに説教をしてやったと?」
食堂棟の二階ホール。その窓際のテーブル席でチェスボードを広げながら、私はフォルティスと雑談を交わしていた。
話題となっていたのは、ルフのうわさにまつわる顛末である。女遊びの激しさをわざと演じていたこと、平民のメイドと本気で恋をしていたこと、そして――貴族の身分を失ってでも彼女を選ぶと言い放ったこと。
それを包み隠さず話したのは、単純にフォルティスの人柄を信用してのことだった。彼は軽はずみに、友人が不利になるようなことを口外するタイプではない。それに古臭い価値観を重んじる主義でもないので、おそらくルフに対してはある程度の共感を示しているはずだった。
私は紅茶で唇を湿らすと、チェスの駒を動かしながら言葉を返した。
「……わたくしとしては、発破を掛けたつもりですわ。甘い考えは持たずに、覚悟して道を歩みなさい――と」
「ふぅむ……」
フォルティスはため息が混ざったように呟くと、チェスの盤面を睨むように見下ろした。私のほうが優勢に進めているので、次の手にかなり悩んでいるのかもしれない。
あるいは――ルフのことについて考えているのか。
故郷では縁のあった友人として、いろいろと思うところはあるのだろう。それに道理を違えた恋というのは、フォルティス自身にとっても他人事ではなかった。私だけが知識として知る“世界”において、本来の彼は婚約者よりも別の女性を好きになっていたのだから。
「…………」
フォルティスはうつむいたまま無言だった。その瞳はチェスボードに視線を向けているが――どこか遠いところを見つめているようにも感じられる。
じっくりと長考した彼は――次の一手を動かしながら、私に言葉を投げかけた。
「――ルフとは、デートをしたんだな」
「……はぁ?」
私は間の抜けた声を上げてしまった。まさか、話がそこの部分に戻るとは思っていなかったのだ。
たしかに、ルフを脅してデートをさせたことについては説明していた。だが、そこはとくに掘り下げるような点でもないのではなかろうか。
相手の意図を測りかねた私は、疑うような目つきでフォルティスの表情をうかがった。
「……人物評を確かめるために彼を誘っただけでしてよ。深い意味はありませんわ」
「ああ……わかっているさ」
真剣な面持ちで頷いたフォルティスは、すぐに言葉を付け加えた。
「ただ――俺たちは一度もデートをしたことがない、と思ってな」
私は口にしようと持ち上げていた紅茶のカップを、おもわず静止させてしまった。
まさか……そんなことを気にしているとは、考えもしなかったのだ。
婚約者、という間柄は親が決めたことであり――
彼も私には大した感情を抱いていない――そう思っていたのだが。
「――そうですわね」
私はようやく紅茶に口をつけ、ただ事実に同意する言葉だけを返した。
それで話が終わるのなら、それまでのことだ。
だが、もしフォルティスがそれ以上のことを言うのならば――
「ヴィオレ」
彼が名前を呼ぶ。意志を感じるような声色だった。その先の言葉を予想するのは――ゲームの展開を考えるよりも難しい。
私は思考を巡らせつつも、チェスの次なる一手を指すために駒を掴んだ。
その時だった。
フォルティスは何気なく……私に言葉を投げかけた。
「――今度、デートをしようか」
私はまた、途中で動きをとめてしまった。
わが耳を疑いたくなったが、脳はしっかりと言葉を認識している。
「……いいだろう、たまには」
空中に持ち上げた駒を――次なるマスに着地させることなど忘れ。
私はゆっくりと、無言のまま、彼の発言の意味を咀嚼する。
デートするということ――それは一般的には、仲の睦まじい間柄を示す行為だった。
そして私たちが婚約者同士ということを考えれば――
私がルフとしたような、ただのお遊び程度の外出とは比べ物にならないほどの意味を持つことだろう。
だからこそ――
「俺はしてみたい……お前とのデート」
はっきりと、聞き間違えることなどない、そんな誘いを受け――
私は湧き上がった感情を、抑えることをやめた。
――バキッ!
乾いた音が響き渡った。
それがチェスの駒をへし折ったことによるものだと気づいたのは、おそらく目の前にいたフォルティスだけだったろう。
木製の駒など、少し力を入れただけで壊れてしまう。世の中は脆く弱いものばかりだった。もっと強いものが……私は欲しいのだ。
「ヴィオレ・オルゲリックとのデート……」
私は真っ二つになった駒を、丸ごと手の中に握り込んだ。
そして笑みを浮かべながら、フォルティスに語り掛ける。
「できるわよ」
高ぶる感情を“気”に変え――その右手に籠めた。
筋肉は膨大な力を生み。
皮膚は頑強の鋼と化す。
「する方法が一つだけある」
それは――
「――無理やりデートに連れていく」
私は拳に、あらんかぎりの握力を宿らせた。
力の発現によって――チェスの駒は一瞬で砕かれ、無価値な木片と化す。
「嫌がる私の首根っこをひっつかまえて――引きずり出せばいいのよ」
この手の力に曝されたものは、形を保つことさえできない。
ただ握力だけで――チェスの駒は押し潰され、原形がないほど破壊されていた。
もし、私が握り込んだものが人体の四肢であれば――
結果は言わずもがなであろう。
「拒否するなら引っ叩き、張り倒し、ぶん殴り――服従させる」
嫌も応もなく。
そう――暴を
誰よりも、何よりも強い力があれば。
どんな欲望だって、叶えられるのだ。
「そうすれば、フォルティス――」
私はニィッと笑顔を歪めた。
とびっきり満面の笑みを。
わが婚約者へと向けて。
「デートもダンスも……思うがままにできるわよ」
――右手の力を抜き、拳を広げる。
粉々になったチェスの駒の残骸が――盤上に砂のようにこぼれ落ちた。
人間の命をたやすく奪うような、圧倒的な暴力の誇示。
フォルティスは表面上は無表情を取り繕っていたが……耳を澄ませば、その心臓が激しく高鳴っていることがわかる。
彼は――恐れ、怯え、慄き、臆していた。
その様子を一笑した私は――椅子から立ち上がって背を向ける。
何も言うことがないのなら、これ以上は相席するのも時間の無駄だった。
ホールから退出するするために、歩きだした私は――
「――ヴィオレッ!」
フォルティスの叫び声に――後ろを振り返った。
彼は額から汗を流しながらも、私の顔をはっきりと見据えている。その瞳には、強い感情の色が宿っていた。
「……どうなさいました? デートのことですの?」
私は口調を戻して、素知らぬ顔でそう尋ねた。
彼は何かを言わんとしかけたが、すぐに思いとどまったように閉口する。そして苦しまぎれのように、その言葉を絞り出した。
「チェス……」
「……はい?」
「チェスの駒……あとで弁償しなきゃダメだぜ」
――本当は別のことを言いたかったのかもしれない。
だが、はっきり告げるほどの勇気はなかったのだろう。
それでもいい。私を呼び止めただけでも――彼は十分な勇者だった。
そう……婚約者として認めてやってもいいくらいには。
「――そのとおりですわね」
私はフッと笑い――その場を立ち去る。
――暇な時に、デートくらいはしてやってもいいだろうか。
そんなことを、ちょっとだけ思いながら。
ツンデレ。