武闘派悪役令嬢   作:てと​​

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武闘派悪役令嬢 004

 

 ――薄暗い空間には、本をぎっしりと詰められた書架が等間隔で並べられていた。

 学園の敷地内にある図書館、その開架書庫内を私は歩いていた。日焼けを防ぐために窓は設けられておらず、微弱な魔法照明をところどころに設置しているだけなので、まるで夜の道を散歩しているような気分だ。

 

「……暗いわね」

 

 普通の魔術師だったら魔法で灯りを点けながら行動できるのだろうけど、私はそんな初歩の技術も扱えないので、転ばないように気をつけながら進むしかない。こういう場面になると私は、肉体的な力のみに特化した弊害をいたく実感してしまうのだった。

 周囲を明るく照らしたり、火を点けたり、清潔な水を作り出したり、物を宙に浮かべたり、あるいは魔力の特質によっては治癒をおこなえたり。そういう便利で使い勝手のいい魔法というものを捨て去るのは、日常生活の過ごしやすさを犠牲にする選択でもあった。……まあ、後悔はしていないけれども。

 

「……行き止まり、か」

 

 眼前には、重厚な扉が立ちはだかっていた。この先に、下の階層に通じる階段があるのだ。だが扉を開けるためには、司書から鍵を貰わなければならなかった。

 地下の閉架書庫は、基本的に魔法学園に所属している教師や、外部からやって来る専門大学の教授、もしくは名のある研究者にしか利用できない場所だった。そして、この下のどこかに、デーモンの召喚を可能とする魔本が眠っている。しかしながら――私の身分では詳しく探ることはできそうになかった。

 もちろん物理的に扉をぶち破ろうと思えばできるが、そこまでしたら最悪、退学処分になってしまうだろう。兄が大学教授という身分なので、彼に頼んでどうにかする手段もなくはないが……いろいろと説明が難しそうだし、大量の書架の中から、確実に魔本を見つけ出せるという保証もなかった。

 

「――あー、やめやめ」

 

 暗中で頭を悩ますことに疲れた私は、盛大なため息をついて思考を放棄した。

 どうせ魔本を求める教師――フェオンド・ラボニが事を起こすまでには、それなりの猶予があるはずだ。私の“知識”どおりであれば、あと一年と数か月も先のことである。……知識どおりであれば。うん。大丈夫だろう、たぶん。

 もう登場人物の人間関係がいろいろ変化して、どういう影響があるかもわからない事実から目を逸らしつつ、私は書庫の中から抜け出した。図書館の読書スペースに出ると、急に明るくなって思わず目を細める。まだ日が沈んでいない時刻のため、窓からは穏やかな陽光が差し込んでいた。

 

「……おや。お探しの本は、見つけられませんでしたか?」

 

 私が手ぶらで戻ってきたのに気づいたのか、カウンターから金髪の男性が声をかけてきた。

 柔和で人の好さそうな顔をした、二十代半ばの優形(やさがた)の青年である。彼が座っている場所がカウンターの内側ということから察せられるとおり、この図書館を管理している司書であり――私が“知識”としても知っている人物であった。

 もともとは図書館の書庫を確認したかっただけで、探している書籍などなかったのだが、私はとりあえず話を合わせることにする。

 

「ええ……まだ、わたくしの知識では理解が及ばなそうな、むずかしい本ばかりで……。学園で基礎をきちんと学んでから、足を運ぶべきでしたわね」

「むむっ、それは残念なことで……。あっ、でしたら。もしどんな内容がご希望だったのか教えていただければ、私が初心者向けのものを探して――」

「い、いえっ!? そ、それには及びませんわっ! ウルバヌス先生のお手を煩わせるなんて、わたくしにはとても心苦しいことですので……」

 

 ニコニコと善意全開で話しかけてくる若い司書、リベル・ウルバヌスに対して、私は引き攣った顔で拒否の意向を示す。この人、もしかしてどんな学生にもこんな調子なのだろうか。私なんかに構うよりも、主人公のアニスちゃんとでも仲良くしていてください。

 

「そ、そうですか……? ですが、気が変わったらいつでも声をおかけくださいね。私のおすすめの本を紹介しますので」

 

 どんだけ本を読ませたいんだ、きみは。

 

「え、えぇ……機会があれば……。――ところで、ラボニ先生はよく図書館を利用されているのでしょうか? わたくし、あの方がとても熱心な研究者でもあると聞き及んでおりまして……」

「ラボニ先生ですか? ……そうですねぇ。最近はちょくちょく、閉架書庫の小難しい古書を紐解いているご様子ですが――」

「あら、やはり素晴らしい先生なのですわねっ。わたくし、勉強があまり得意ではありませんので……ラボニ先生と懇意にさせていただければ、と思った次第でして」

 

 おほほほ、と気色悪い笑いを浮かべながら、私は適当な言葉を並べ立てる。

 どうやらフェオンド・ラボニは、すでに魔本を求めて活動しているようだ。それが本来の物語の流れより早いのか遅いのかは、ちょっと判断しかねてしまうが。まあ、悪い方向に傾いていないことを祈るとしよう。

 その後も情報収集のために会話を少し続けたが、たいして有益な話は引き出すことができなかった。いちいち本を勧めてくるのを受け流すのにも疲れてきた私は、タイミングを見計らってリベル・ウルバヌスとのやり取りを終えることにした。

 

「ふぅ……」

 

 図書館を出た私は、疲れたように息をついた。

 最後まで温和な表情と言葉遣いで対応していた彼は、なるほど人気が出るのも頷ける人柄であった。ほんわかした雰囲気でありながらも、重大な場面ではシリアスさと大人らしさを発揮して格好いい行動をする姿は、多くの乙女が惚れたとかなんとか。……うん、どうでもいいね。

 結局のところ――私がリベル・ウルバヌスと関わることは、あまりないだろうから。

 

「さて……」

 

 司書たる彼は、本というものを通じて、主人公と交流を深めていった。

 文学に興じる心、そして魔法への関心。リベル・ウルバヌスと交わるならば、そういったものが必要不可欠なのだ。主人公たる、アニス・フェンネルのように。

 

 ――私は拳を握った。

 

 入学直後よりも明らかに増した筋肉量が、平均的な女性をはるかに上回る膂力を生み出していた。たとえ意図的に“気”を遮断しても、おそらく学園内のほとんどの男性より強い力を発揮できるだろう。まあ、それは魔法の行使に腕力を必要としないというのもあるが。

 かつては拳で樹木をへし折ることに成功したが、あれから体を多少鍛えたいま、はたして私はどれだけの力を発現できるのだろうか。筋力の量、そしてそれに流し込む気の質。その合一によって引き出される破壊力は、加算なのか、それとも乗算なのか。力に限界はあるのだろうか。どこまで伸ばしてゆけるのだろうか。どこまで到達できるのだろうか。世界は疑問に満ちていた。未知に溢れていた。知りたい、と私は心の奥底から思った。

 

『……この世界には、わからないことがたくさんあります。何かひとつ解き明かしても、また一つ新しい疑問が湧き出てくるのです。でも、そうやって未知を探求してゆくことは――きっとあなたを成長させて、強くしてくれるんですよ』

 

 ふと、リベル・ウルバヌスがアニス・フェンネルに贈った言葉がよぎった。

 私は読書と勉強にはあまり興味が湧かないけれど――

 何かを追い求めて、成長して強くなる。それは素晴らしいことなのだと、私は自分の手を痛いくらいに握りながら同意して、ふっと笑うのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

「――お……オルゲリックさんッ!」

 

 緊張した面持ちの同級生――アニス・フェンネルが、私の前に立ちはだかって名前を呼んだ。

 彼女の手を見遣ると、ぐっと意志を籠めるかのごとく拳が握られていた。まるで宿敵と対峙し、決闘を申し込む直前のような気迫だ。

 ギロリ、と私は彼女の目を見た。息を呑んだアニスは、けれども視線を逸らすことなく私を見据えている。たいした胆力だった。

 彼女は心を落ち着けるように深呼吸をしてから、きッ、と瞳に強い力を宿しながら、私へと言葉を解き放った。

 

「――い、いっしょの席に座りましょうッ!」

「お断りいたしますわ」

 

 冷たく即拒絶すると、アニスはが~んという音が聞こえてきそうな顔を浮かべて固まった。どれだけショックを受けているんだ、きみは。

 

 ――授業が始まる前に、アニスがやってきて私に同席を誘う。

 この意味不明なやり取りは、なぜか毎日のように続いていた。どうしてこんなことになっているかというと、心当たりは……あった。めちゃくちゃあった。

 

 アニス・フェンネルという少女は、ひとを気遣って積極的に自分から声をかけるタイプである。あの親友ポジションの女の子(名前を思い出せない)と友達になったきっかけも、まさしくアニス側から話しかけたことによるものだった。

 そう――グループから孤立した同級生に、どうにか仲良くなろうと努力するのが、アニス・フェンネルという人物だった。

 

「ど、どうして、ですか……?」

 

 うるうると涙ぐんだ目で尋ねてくる彼女を見ると、なぜだか私が悪役のような気がしてしまう。

 ……あれ? 悪役だよね、私?

 そう、そういえば、悪役でいいんだ。なんだか忘れそうになっていたことを思い出し、私はアニスを馬鹿にするような表情を浮かべて、「おーっほっほっほッ!」と馬鹿っぽく笑い声を上げた。

 

「群れをつくるのは、弱い者たちがその脆弱な身を守るためにする行為ですのよ? この、わたくしッ! 貴族の中の貴族、オルゲリック侯爵家の血筋たる“強者”がッ! あなたたちのような下賤で弱い方々とッ! お友達ごっこをしようはずがありませんのよッ!」

「で、でも、みんなと一緒のほうが楽しいし……」

「おほほほほッ! 弱者らしい軟弱な思想ですのねぇ? 仲良しこよしをしていないと、不安で不安で仕方ないのかしら? つねに己に絶対的な自信を抱き、孤高に身を置くこと――それこそがッ! 強者たるわたくしには、もっとも相応しいことですわッ」

 

 よくわからないことを堂々と言い放つが、私自身も自分で何を言っているかサッパリ理解不能だった。群れ? 孤高? いや、どうでもいいよ……。

 とにかくアニスを追い払うために適当な言葉を並び立ててやると、彼女は今にも泣き出しそうなほど悲しい表情を浮かべて、「うぅ……あ、明日も誘うからね……」と涙声で去っていった。明日もこのやり取りするんかい。

 しょうもなさすぎる漫才を終えて、私はため息をつきながら席に着いた。アニスもいつも座っている前方に戻る――かと思いきや、なんと今度はミセリア・ブレウィスのほうへと赴いていた。

 

「――ブレウィスさんッ!」

「なに?」

「い、いっしょの席に座りましょうッ!」

「私があなたの隣に座る理由がわからない」

 

 頭が痛くなってくる光景だが、ご本人は随分と真面目なようである。私の時と同じように、アニスは仲良くしようとあれこれ話しかけているが、ミセリアは淡々とつれない返事を繰り返すばかりである。

 私とミセリア。やっていることは誘いの拒否で同じだが、内心の考えについては果てしなくかけ離れていた。私はアニスの性格や心情がよくわかっているが、ミセリアの場合は本気で友達になることの意味を理解できないのだろう。たとえどれだけ優しく、愛にあふれた言葉を投げかけても、心の奥底に響くことがないのがミセリアという人物だった。

 

 ……だった、が。

 しょせん、彼女もただの人間だったのかもしれない。今ではそう人物評を改めざるをえなかった。あの表情を見たあとでは。

 

「……ふん」

 

 私は退屈さに鼻を鳴らし、いつものように握力の鍛錬をしながら、つまらない講義を受け流していた。

 初歩の座学はまだまだ続きそうではあるが、教師によっては魔法の実践について言及する者もいて、その手の話題を耳にするたび頭が痛くなる思いだった。たぶん、というか間違いなく、私は同級生の中でもっとも魔法が苦手な人間なのだろうが――はてさてどうしたものか。正常の魔力の運用など、いまさらまともにできるはずもないので、対応策がすぐには浮かばなかった。まさか異世界に生れ落ちても、学校の授業に思い悩む日が来ようとは……。

 

 うんうんと考え込みながら、タオルを小さいボールの形にまで握りつぶした時には、いつの間にか教師の長話は終わりを告げていた。そんな感じで、今日もすべての講義を消化しおえた私は、われ先にと教室から逃げ出すように歩きだす。

 日没まで時間があるが、どう過ごそうか。筋力トレーニングをするか、打撃の打ち込み練習をするか、それとも手足の骨を鍛錬するか。食事のメニューを選ぶのと同じくらい悩ましかった。

 そしてけっきょく、私が出した答えは――

 

「……どこまで、ついてくるかと思えば」

 

 ――彼女に付き合ってやる。

 なんとなく、気まぐれに、そんな行動を選んだ。

 学園の校舎の裏手、わざわざ人がやってくることはほとんどない場所。そこまでやってきたところで、私はゆっくりと後ろを振り向いた。

 

「…………」

 

 そこには、口を閉ざしたまま私をじっと見据える少女が立っていた。

 ――ミセリア・ブレウィス。眼鏡の奥、灰色の瞳には、やはり感情らしいものが見えなかった。いったい何を考えて、私の後ろをつけてきたのか。

 私はわずかに目を細めながら、口を開いた。

 

「あらあらっ! こんなところまで追いかけてくるなんて、わたくしのファンにでもなったのかしら? まあ、この花のような美しさと、高貴なる血を兼ね備えたわたくしに、あなたのようなちんちくりんの小娘が憧れるのも無理はな――」

「この前のこと」

 

 こら、スルーはやめなさい。私がすごい間抜けみたいじゃないの。

 

「あの時、あなたの眼を見た時。不思議な感覚に襲われた」

 

 ははん、と私は内心で笑った。

 明らかに人間的な感情を見せたミセリアだが、おそらく自分自身の理解が及んでいないのだろう。未知と出会った彼女は、その正体を確かめるために、こうして私のもとへ臨んだということか。

 

「あれは、なに? あなたは、何をした?」

「――それは、あなたが一番よくわかっているのでなくて?」

「…………?」

 

 意味がわからない、と言うように、ミセリアは首をかしげる動作をする。顔は無表情のままでそんな仕草をするさまは、どこか機械的でちぐはぐな印象を抱かせた。

 

「ある種の行為に対して、ある種の反応がかえってくる。それは生きている存在であれば、共通のことですのよ。――人も、動物も、同じように」

 

 彼女は知っているはずだ。傷つけられ、死を与えられそうになった生物が、どんな反応を見せるのか。生命が苦痛に喘ぎ、恐怖に陥れられる姿――彼女はそれを自分の手で生み出し、眺めてきたはずだ。

 

「……人も?」

「ええ。わたくしも、あなたも、同じ人間であり、動物と同じ生きている存在。おわかりかしら?」

「あなたは同じ人間に見えない」

 

 人でなしと言いたいのかしら、このガキ?

 

「おーっほっほっ! わたくしは、そんじょそこらの凡人とは違いますからねぇ! あなたのような浅はかな輩からすると、わたくしが次元の違う神々しい存在に見えるのも致し方ないことですわよ!」

「…………」

「何か反応しなさいよ」

 

 私は自分と相手に呆れながら言った。セルフツッコミほど悲しくむなしいものはない。

 無言で私を見つめつづけているミセリアは、やっぱり何を考えているのかよくわからなかった。私の学に欠けた適当な言葉を、まじめに脳内で咀嚼しているのだろうか。だとしたらご苦労なことであるが。

 

 ……なんだか急に、彼女に付き合っているのが馬鹿らしくなってきた。

 そもそも、私がミセリアと関わる意味などもうないのだ。彼女はすでに、私にとっては脅威ではないのだから。のんびり学園生活を送っているような小娘に不覚を取るほど、さすがに私は生っちょろくはなかった。――いくら彼女に魔法の才があろうと、それが相手を打ち倒す力に直結するわけではないのだから。

 

「もう、いいかしら?」

 

 時間を無駄にしたくないので、私はそう彼女に尋ねた。

 さっきから押し黙ったままのミセリアだったが、私が背を向けようとした瞬間、引きとめるように声を上げる。

 

「――あなたに、教えてほしい」

「……なに?」

「人間が生きている、意味を」

 

 なぜ、それを私に尋ねるのだろうか。

 そういう小難しい哲学的なお話は、もっと真摯に受け止めてくれる相手にすべきだろう。たとえばアニス・フェンネルに尋ねれば、きっと彼女は真剣に悩みながら、自分の想いを言葉にしてくれるに違いない。彼女はそういう子だから。

 一方で私は、心を込めた言葉で他人に何かを伝えられるような人間ではない。もちろん自身の思想というものは持っているが、べつにそれを他人にわかってほしい、共感してほしいとは、これっぽっちも思ってはいない。教えを乞われても、まともな答えなど返せないだろう。

 

 私は面倒くさい気持ちを湧き上がらせながら、投げやりで安直な言葉を口にした。

 

「さあ? しいて言うなら――“死なないため”に、生きているんじゃないかしら」

 

 死から逃れるために、私が体を鍛えはじめたように。

 飢えないために、苦痛から逃れるために、たぶんみんな頑張って生きているのだろう。その方向性とやり方は、てんでバラバラだけれども。

 

 ――私はその短い回答だけ済ませると、彼女に背を向けた。

 時間を割いたわりには、まるで意味のないやり取りで後悔があった。彼女と会話している間に、腕立て伏せを何回おこなえただろうか。そう考えると、いっそ苛立ちさえ覚えてしまう。

 背後を向けて歩きだした私に、ミセリア・ブレウィスは――

 

「――――」

 

 気配を感じた。

 彼我の立ち位置、耳に拾った物音、ミセリアという人間の在り方。小さな複数の情報が脳内で合わさった瞬間、ある可能性を導き出し、私に警鐘を鳴らす。そう、その直感を言葉で表すならば――“殺気を感じた”といったところだろうか。

 

「ッ」

 

 咄嗟に身を翻した。

 足が地面を蹴り、体はしなやかに跳ねる。その刹那のあとに、私の真横を鮮やかな炎が掠めた。熱風が皮膚を打ち、ひりひりと焼けるような感覚を抱く。

 ――目が覚めるような思いがした。

 最近は、めっきりと見ることがなくなってしまった悪夢。自分に襲いかかる死の恐怖。退屈に錆びつきそうになっていた心が、差し向けられた殺意で揺り動かされる。間近に感じた炎の熱は、私の心身を十分なほど温めていた。

 

 ああ――

 この感覚を、私はきっと求めていたのだ。

 

「どうして」

 

 疑問の言葉は、私が口にしたものではなかった。

 理解に苦しむような、得体の知れないものを不気味がるような、そんな人間のような感情が、灰色の瞳の奥に垣間見えた。

 

「どうして、あなたは――」

 

 そんな顔をしているの?

 言われて、私はようやく気づいた。口元は意図せず歪んでいた。笑っていたのだ、私は。

 

 ミセリアとて、どんな状況で人間がどんな感情を浮かべるか、経験的には知っているだろう。仲間と語り合った時、何かに成功した時、誰かから賞賛された時、おいしいものを食べた時。そういった状況下で、人はしばしば笑みを浮かべるのだ。逆に害意を向けられた時、生き物がどのような反応を示すかも、彼女は知っているはずだ。実際に、みずからの目で見てきたのだから。

 そんな既存の例に、私は当て嵌まっていない。それがミセリアにとっては、不思議で仕方ないのだろう。わかるはずもない。彼女は彼女、私は私なのだから。

 

 ――わたくしも、あなたも、同じ人間。

 

 それは嘘だった。ミセリアのほうが正しかった。同じではないのだ。違うのだ。

 誰もが異なった肉体、能力、思想、感情、そして感覚を持っている。同じ人間などは存在しない。私でさえも、“ヴィオレ・オルゲリック”という少女とは違う。だから今、こうして、私は笑って立っているのだ。

 私は髪を掻き上げた。もうすっかり慣れた巻き髪の先端は、炎によって焼け焦げていた。一寸でも遅れていたら体が焼き払われていたと思うと――心が熱く高揚した。

 

「おーっほっほっほ! そんな微弱な火で、わたくしを殺せると思ったのかしら? ……本気でやってみせなさい」

 

 私は持っていた鞄を遠くに投げ捨てると、ゆっくりと大きく両手を広げた。すべてを受け入れるかのように。

 全力で殺意を向けられた時に、はたして私はどこまで動けるのか。こんなことを試す機会など、めったにないだろう。ミセリアには感謝をしたいくらいだった。

 肉体はいつでも運動できる状態で、彼女の攻撃を待っている。さあ、早く。あなたの全力を用いて、私に死の恐怖を刻んでみせなさい。

 

「…………」

「どうなさいました? 杖を持つ手に、力が入っておりませんわよ」

「…………」

「その切っ先を、わたくしに向けなさい。さもなくば――」

 

 殺すわよ。

 いつまで経っても動かない相手に対して、沸きあがる怒りを抑えながら私は言い放った。その瞬間、ミセリアは弾かれたように火炎を生み出す。蛇のようにうねり迫る、禍々しい業火だった。

 先ほどの火球よりも、はるかに強く速い炎。

 だが――身構えていた私にとっては、それを捉えるのに苦労はなかった。

 

 地を蹴り、体を逸らし、すんでのところで紅い蛇を躱す。すぐ傍らを死の顕現が通り過ぎたというのに、私は微塵も怯えていなかった。感情的な気持ちに突き動かされていながら、私はひどく冷静だった。

 視界に映る光景、襲い来る攻撃のスピードと脅威度、自分の身体能力。脳は瞬時に、無意識に計算をおこない、その答えを受け取った筋肉が、最適解たる行動を実現する。自分でも驚くほどに、私は完璧に動けていた。

 

「…………っ」

 

 ミセリアは何度も炎をこちらに差し向けるが、私はことごとく回避に成功した。炎の軌跡には、なんとか的中させんとする工夫がうかがえたが――私の身体能力を上回ることはなかった。

 しょせん、彼女は一介の学生に過ぎない。戦闘のプロではない。放たれる魔法には、相手を殺す技術というものが欠けていた。

 もちろん私だって素人だ。だが――“こういう時”を想定して、これまで必死に体を鍛えてきたのだ。双方に力量差が出るのは、もはや必然でもあった。

 

 ――つまらない。

 つまらなかった。こんなものか、と。拍子抜けをしてしまった。実際に魔法という凶器を向けられても、残念なことに私は満足できそうになかった。やはりその程度だったのだろう。ミセリア・ブレウィスという人物は。

 

「……もういい。ここまでよ」

 

 飽きを感じて私はそう言ったが、ミセリアはこちらの言葉が聞こえていないような様子だった。いつもの無感情な顔は忘れ去られたように消え失せ、彼女の表情は焦燥に支配された必死の形相になっている。私の“知識”にはない、見たことのないミセリア・ブレウィスだった。

 われを忘れたような彼女は、もう説得も通じそうになかった。私は内心で舌打ちをすると、スカートのスリット、ポケット部分に右手を突っ込んだ。

 嘗めるように迫りくる炎を、後方に跳躍して回避しつつ、手にあるものを握って取り出す。硬い感触の、球状の物体。それは授業中に握力で潰しきってしまった、布の塊だった。

 

 着地してすぐに体勢を整えると、私はその物体を――ミセリアへと投げつけた。

 素人の力任せの投球。狙いも大雑把で鋭さに欠けていた。しかし勢いよく飛来する投擲物は、彼女に危機感を生じさせるのに十分だったのだろう。

 ミセリアはびくりと杖をとめ、大仰な動作で横に飛び跳ねる。体をこれっぽっちも鍛えてなさそうなわりには、そこそこの反応だった。もっとも――いまこの状況では、致命的な隙となってしまったが。

 

「ッ――」

 

 吸い込んだ息、酸素と気を全身に駆け巡らせながら、私は体を前に傾けた。大地を踏みしめ、躍進するような一歩。彼我の距離にはそれなりの開きがあるというのに、私にはそれが途轍もなく短い間合いだと感じた。まるで、すぐ目の前に、手が届く位置に、彼女が立っているかのように思えた。

 

 一歩目を踏みおえた時、ミセリアはようやく事態を把握したらしい。目を大きく見開き、こちらに杖の先を向けようとしていた。その手の動きは、私にとってはひどく緩慢でのろまに見えた。

 二歩目――軸足にあらんかぎりの力を入れた。靴が地面に沈み込むような感触。そして体を弾ませると、空中を飛ぶような感覚が駆け巡る。人間の脚とは、なんと偉大なのだろうか。たった二足の駆動で、獰猛な獣のように地を跳び、俊敏な鳥のように空を駆ることができる。無限の可能性を感じさせた。

 リベル・ウルバヌスが言ったように、世界は未知で満ち溢れていた。限界などはない。探れば探るほど、新しい発見とたくさんの疑問が訪れる。私が体を動かすたび、その成果を新しく知り、そしてどこまで成せるのか疑問を抱くように。探求すればするほど、人は強く成長できるのだ。

 三歩目。それで事足りた。私はミセリアの前に立っていた。理想的な肉体運用を遂げられて、じつに気分がよかった。泣きそうな顔をしている彼女とは、正反対の表情を私はしていた。鏡を見れば、きっと爽やかで清々しい笑みが映っていたことだろう。

 

「あ…………」

 

 情けない声を漏らしたミセリアは、それでもなお震える手で杖を向けようとする。彼女の魔力が魔法の形を取る前に――私は腕を動かしていた。

 

「ぐぁっ……」 

 

 細い首だった。少し力を込めれば、簡単に折れてしまいそうなほどに。彼女の体はたやすく宙に浮いた。背の低い彼女の瞳が、同じ目線の高さになる。苦しそうにもがくミセリアは、もう私にとってなんの益にもならない矮小な存在だった。

 ずり落ちた眼鏡の奥にある眼には、何やら水のようなものがにじみ出ていた。なんだろうか、と少し考えて、私はようやく思い至った。なるほど、涙を流しているのだ。彼女も泣くことができたのだ。ほかの人間と同じように、彼女も豊かな感情を持った生き物だったのだ。おめでとう、と言うべきなのだろうか。ミセリアもきっと、これで人の感情がわかるようになるかもしれない。ひとりの少女が狂気に道を違えることもなくなったのなら、これほど素晴らしいことはない。よかったよかった。

 

「…………?」

 

 何かが地面を濡らしていた。ミセリアの体から滴り落ちるそれは、涙ではなかった。彼女の股間に視線を向けると、スカートには染みが広がり、ちょろちょろと液体が漏れ出していた。

 それが失禁だと気づいて、あわててミセリアの顔を見遣ると――彼女はいつの間にか白目を剥き、だらりと重力に従って体を弛緩させていた。

 あっ……ヤバいやつでは……?

 

「ちょちょちょちょっとあなた軟弱すぎではありませんことッ!?」

 

 猛烈に動揺しながら、私は掴んでいた手を離した。どさりと地面に転がったミセリアは、口から泡のような唾液を吹き出す。意識はどう見てもなかった。

 ししし死んでないよねっ? こんなところで殺人犯になったらシャレにならないよっ!?

 

「ほ、保健医ィーーーーーッッッッッ!」

 

 私はミセリアを抱えると、全力でダッシュした。それはもう本気で、全身全霊をかけて疾駆した。人生でいちばん激しく速く、虎や獅子もかくやというスピードで私は走った。まるで風と同化したように、私は学園の医務室へ向かって駆け抜けた。

 

 ――人間に、限界はない。

 

 私はそれを、この日にもっとも強く理解したのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 窓から差し込んだ夕日が、室内を赤く染めていた。

 ベッドに目を向けると、すぅすぅと寝息を立てているミセリアの顔があった。少し前に泡を吹いて気絶していたのが嘘みたいに思えるほど、穏やかで可愛げのある表情だ。こうして眺めていると、彼女もただのうら若い少女でしかなかった。

 

 あの後、医務室に駆け込んだ私は、学園の教師兼保健医のアルキゲネス先生にミセリアを診てもらった。幸いなことに酸欠で失神していただけなので、命に別状はなかったようだ。無事を確認できた時の私の安堵がいかほどだったか、もはや語るまでもないだろう。

 

「……はぁ」

 

 精神的な疲労を感じて、私は思わずため息をついてしまった。

 ラーチェ・アルキゲネスは所用で席を外しているので、医務室のベッドで寝ているミセリアのそばには私が付き添っていた。しかし先に害意を向けてきた相手のために、こんなことをしている自分はなんとも不思議である。彼女が目を覚ましたら、私に対してどんな行動を取るのだろうか。杖は校舎裏に落ちたままなので、さすがにこの場で攻撃を仕掛けてくるとは思えないが。

 

 そういえば、お互い鞄などの荷物もあそこにほっぽり出したままなので、それも回収しにいかなければならない。面倒事が多すぎて頭痛を感じてしまう。

 あれこれと悩ましく考えていると、ふいに小さなうめき声が上がった。どうやら、やっとミセリアが意識を取り戻したようだ。

 

「ずいぶんお寝坊さんね」

 

 少し皮肉げに言葉を投げかけてみたが、彼女は半目で天井に顔を向けたままだった。やがて、その灰色の瞳がきょろきょろと何かを探すように動く。……ああ。

 

「はい、どうぞ」

 

 私はテーブルから眼鏡を持ってきて、ミセリアに渡してやる。それを受け取った彼女は、ようやく視界を得ることができたようだ。レンズ越しに私の顔を見て――びくりと小動物のように体を強張らせた。……反応、遅くない?

 

「……気絶したあなたを医務室に運んだのよ。警戒するのはやめなさい」

 

 面倒くさくなった私は、素の口調で語りかけた。微妙に疲れるのだ、あの話し方は。

 

「で、とくに体調におかしなところはないかしら?」

「…………」

「もしもーし? 聞いてる?」

「…………生きている」

「そりゃ、見ればわかるでしょ」

 

 上体を起こしたミセリアは、ぼんやりとした様子で首筋に手を当てている。私が頸部を掴んだ時のことは、ちゃんと覚えているのだろう。こちらとしては後遺症などがないか心配なのだが、いったいこの子は何を考えているのやら。

 コミュニケーションの取りづらい相手にどう話せばいいのかと悩んでいると、ミセリアはふいに私をじっと見据えてくる。その瞳には、どこか人間らしい意思のようなものが宿っているように見えた。

 

「……あの時」

「うん?」

「……あなたに、殺されると思った」

「あのねぇ……あなたの命を奪っても、なんの得にもならないでしょ」

「でも、首を絞めた」

「…………」

 

 いや、違うんです。あれは、つい、こう、勢いでやってしまったんです。そういうつもりは、まったくありませんでした。

 心の中で弁明をするが、事実が変わることなどない。私は罪悪感を湧き上がらせて――

 ……ちょっと待てよ。そもそも、先に殺しにかかったのはミセリアのほうでは? ならば、あれは正当防衛と呼ぶのではなかろうか?

 脳内でひとり議論を繰り広げている私をよそに、ミセリアはぽつりぽつりと言葉を漏らしてゆく。

 

「……笑いながら、私の首を絞めるあなたを見て――死ぬ、と思った」

 

 こら、私を笑顔で人を殺すサイコパスのように言うんじゃない。きみとは違うんだ、きみとは。私は命の尊さをきちんと知っている、善良な人間なんだぞ。

 

「でも……死んでいなかった。生きていた」

 

 まあ、ちゃんと医務室に運んであげたしね。というか……よくよく考えたら、自分に殺意を向けてきた相手の命を大事にするって、私すごく偉くない? もしかして、聖人なのでは? これはもう、悪役令嬢ではなく聖女を名乗ってもよいのでは?

 

「生きていて、死んでいなくて……よかった。そう思った」

 

 ……ん?

 適当に聞き流していたのだが、何やら彼女の話はやけに感情的な色合いが感じられた。私の知るミセリアとは、まるで違う人物のようだ。校舎裏でも普段とは似つかない人間らしい表情を見せていたが、やはり彼女になんらかの変化があったということだろうか。

 ここで何かもっともらしいことを並べ立てておけば、もしかしたらミセリアも真人間に戻れるかもしれない。そう考えた私は、口八丁に言葉を紡ぎだす。

 

「そうね……。誰もが命を失うのは怖いと思うものよ。死にたくない、という感情はみんな持っているの。それは人間だけじゃない。動物だって同じように、死を恐れて生を求める存在なのよ。だからこそ、無為にほかの生き物を傷つけるのは良くないことよ。それを覚えておきなさい――」

「私……生きている……よかった……」

 

 聞けよ。何ひとりで安堵してんだよ。私が話していること無視すんなよ。

 ここで私の高説を聞いて、生命の尊さを知るのが筋っていうものだろうに。私は怫然とした感情を抱きながら、思わず口走ってしまった。

 

「もういちど、首を絞められたほうがいいんじゃないかしら……」

 

 私の言葉を聞いた瞬間、ミセリアはハッと私の顔をまっすぐ見つめた。そこには恐怖に慄く彼女の姿が――なかった。

 

「――名案」

「はい?」

「もういちど――」

「は?」

「生きていて、よかった。そう思った時の、感覚を――」

 

 ミセリアの繊手が、私の手を取る。引き寄せられた右手は、すっぽりと彼女のか細い首筋に宛がわれた。このまま持ち上げれば彼女の脳は酸素の供給が断たれるし、力を込めれば頸椎を折ることさえ可能だろう。

 …………?

 いや、なんで?

 

「私の首を――」

 

 過去の甘い思い出に浸るかのように、ミセリアはどこか嬉しそうな笑みを浮かべてスタンバイしていた。

 …………。

 あっ! この表情、ゲームで見たやつだ!

 なるほどなぁ……あの時の笑顔、こういう類のヤツだったのかぁ……。

 郷愁のような念を覚えながら、私はミセリアの抱いた感情に納得して笑った。

 

 

 

 

 

「――って、んなことあるかァーーーーーッッッッッ!」

 

 私は脱兎のごとく逃げ出した。それはもう本気で、全身全霊をかけて疾駆した。人生でいちばん激しく速く、虎や獅子もかくやというスピードで私は走った。まるで風と同化したように、私は学生寮の自室へ向かって駆け抜けた。

 

 ――人間に、限界はない。

 

 私はそれを、この日にもっとも強く理解したのだった。

 なお、前回のことは撤回したものとする。

 


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