全3話くらいの短編予定。宜しければ最後までお付き合いお願いします。
「おかぁさん! 嫌だよ、死んじゃあ嫌だ! いなくならないでよ!」
精魂が文字通り尽き果て、その姿が幽かになり、向こう側が透けて見えてしまっている母の手を掴もうとする。
しかし伸ばした手は伸びた刀の切っ先に止められた。これから隠り世に消えてしまう母は俺を巻き添えにしまいと確固たる眼差しで俺を見ている。
「良いですか
それが母の最後の言葉だった。母の名を泣き叫びながらしがみつこうと伸ばした手は空を切り、そしてまるで霧のように消えてしまった。後には何も残らず、それこそ初めから俺以外の誰もいなかった様にしか見えない。
母が消えた。それは俺たちに流れる血の力の代償だと母は言っていた。
だから俺は自身に流れるこの赤い血を恐れた。今も流れているこれがいつか自分を母の様に殺すのではないかと思うと、それまで好きだった剣術も御刀も触れることにすら嫌悪感を持つ様になった。
剣神に使える鹿島の家の人間として、それはあまりにも致命的でいつしか俺は居場所を失い、そして……。
●
「もう、ぎょーおにーちゃん。仕事中に居眠りなんてしちゃあダメなんだよ? ちゃんと仕事しないと紫様とか真希おねーちゃんに怒られちゃうよ」
可愛らしい声が俺を眠りから覚醒させる。そうやら自身の執務室で机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
ツンツンと鞘の先で人の横腹を突くこのちびっ子は若干12歳にして、この国の刀巫たちの代表とも言うべき刀剣類管理局局長、折神紫を護衛する親衛隊が四番席の燕結芽である。
年相応にいたずらっ子な様子を見せるこの子は荒魂の現場ではいつも大暴れするため、修繕費などを考慮して留守番を命じられることが多く、そのためによく暇を紛らわす俺の執務室にやって来ていた。
まだ眠気は取れない瞼をこすり座ったままで背筋を伸ばす。
「ふぁー、よく寝てしまった……。大丈夫だよ結芽、ちゃんと仕事は終わってるから別に寝てたっていいんだよ。……まあ、確かに良いことではないね。うん、冷蔵庫のプリンとか勝手に食べていいからみんなには黙っててくれる?」
「いいよー!」という元気の良い返事をすると結芽は冷蔵庫から一番高いプリンを取り出して行儀悪く机に座って食べ始める。お嬢様である此花や真面目な獅童がこれを見たら彼女をたしなめるだろうが、ここにいるのは素行不良の俺とまだまだ遊びたい盛りの結芽。注意する者などいるはずもなかった。
もきゅもきゅとプリンを味わっていた結芽と目が合う。
「んー。ぎょーおにーちゃん、もう仕事が終わったってことはもう今日は何もすることはないんだよね? だったら今日こそ模擬戦しよう! みんな私を戦わせてくれないから暇なんだよ!」
もう100回以降は数えることもやめてしまった結芽のお願いを俺は机に広がった書類を纏めつつ聞き流す。
「いつも言ってるだろ結芽。俺は御刀なんて振るわないし、振るってもお前を満足させられないよ」
「えー。親衛隊に選ばれてるのに? 弱かったら親衛隊に選ばれないんだから、絶対ぎょーおにーちゃんも強いんでしょー? 一回くらい、いいじゃんいいじゃん」
無邪気に戦いたそうな結芽は口元をプリンで汚しながら詰め寄ってくる。俺が折神紫の親衛隊に抜擢されたのは、全国に神社で集められていた荒魂の管理を折神家に移譲する際に折神家の権力に屈した神社庁が実質的な服従を示すために、もう鹿島家としては無意味な俺を人質として出向という名の厄介払いをされたから。などと言ってもきっと結芽には上手く伝わらないのだろう。
そうじゃなければ親衛隊にただの事務係が必要なはずもないのだ。ただの政治的な道具として使い潰されることに甘んじているなどと情けなく、それをただ惰性に受け入れていることはもっと情けない。
いつか自身に流れる血が己を殺すと思うと戦うことそのものにも忌避感が湧く。
「もういいよ! だったらその辺の人捕まえて遊んでくるから!」
俺が申し出を受けないことにしびれを切らしたのか結芽は頬を膨らませて足音を立てて出て行った。
捕まってしまう誰かに申し訳なく思い手を合わせつつも結芽が諦めてくれたことに少なからず安堵する。視線を戻すとちゃっかり食べ終わったプリンの容器が机の上に置いてあった。どうやら片付けは俺がやっておけということらしい。部屋にゴミと汚れた容器を放置しておくのも嫌だから、腰を上げて食堂の洗い場に向かう。
廊下を歩いていると仕事の途中であろう刀使とすれ違う。
刀剣類管理局の中心であるこの折神家には何人もの刀使が毎日の様に出入りしている。行儀の良い者は会釈してくれるが、そうでもない者は無視、酷ければ嫌そうなものを見る目でこちらを見てくる。
それもそうだろう折神紫親衛隊というのは日本全国の刀使の中でも特に優れたものたちによって編成される、いわばエリート中のエリートの集まりであり、刀使達にとっては一つの憧れであり、中には目標としている者もいるのだろう。そんな中に明らかにコネで入った様にしか見えない俺という存在は気持ちの良いものではないのは誰にも明らかだった。
正直に言えば寂しさの様なものはあるが、自分の立ち位置を考えれば万人に受け入れてもらえない事も重々承知しているため甘んじて冷たい態度も受け入れる。総じて実力を示せない者に居場所などあるはずもないのだから。
住み込みで働いている者たちのための給湯室に入り、プリンの容器をゴミ箱に放り込み、洗剤で皿を洗い始める。
たった一枚の皿とスプーンなど時間がかかるはずもなく、男の家事など最低限の適当さでさっさと済まされる。
先ほどまで寝ていたせいか無性に喉が渇いた俺は上の戸棚から紅茶のパックを取り出した。お湯を薬缶に火を入れようとしたところで給湯室に入ってくる気配を見つける。
「……あ」
彼女を見つけ思わず声が漏れてしまう。振り向くとそこにいたのは俺や結芽と同じく折神紫親衛隊に所属する、第三席の皐月夜見であった。どうやら彼女は自分に良い感情を持たない方の人間らしく、あまり親衛隊内でも関わりがない人物だった。
両者共々積極的に人に話さない気質な事もあって会話が絶望的に少なく、さらに皐月さんがこちらを避けている節があり俺が無表情で言葉数少ない彼女苦手にしていたため、会話など最後にいつしたのかも記憶が定かでない。そんな彼女と遭遇してしまい思わず言葉に詰まる。
数秒の間沈黙があり、それに耐えられなくなった俺は手早く出していた紅茶の茶葉と薬缶を片付けて会釈しつつ早足に去ろうとする。
「……紅茶、飲まないのですか?」
すれ違いざまに声をかけられ足を止める。振り返るとこちらをジッと見上げる皐月さんが目に入る。実に彼女らしい淡白な口調で問われる。
「よろしければ淹れますが。紅茶」
●
食堂の四人用の丸テーブルに座る。普段ならば自分の執務室で食事をとるため滅多に使わない食堂は昼時からは時間がずれているため他に人はいない。
思わぬ状況に思わず背筋に力が入り、紫様を前にしたときの様な緊張感に襲われていた。
目の前では上品なティーセットを使って紅茶を淹れる皐月さんがいる。これまでろくに話した事もなく、むしろこちらを避けている様子だったのに、これはどういった風の吹き回しなのだろうか。状況がさっぱり分からない。
「……どうぞ」
俺が顔を伏せ、状況に面食らっている間に紅茶が淹れ終わり、暖かな湯気と一緒に豊かな香りを放つ紅茶が差し出されていた。
「その、どうも……」
取り敢えず出された紅茶を手に取り一口つける。
「おいしい……」
思わず声に感じたことを出していた。紅茶の味など詳しくはないが少なくとも雑にティーパックにお湯を注いだだけでは味わえない美味しさだった。
「それは良かったです」
目が合った皐月さんはそれだけ言うと自分に淹れた紅茶に口をつけ、それ以降は何も言わず自身で入れた紅茶を楽しみはじめた。。皐月さんが入れた紅茶を二人で飲み、会話はなかった。
しかし今度の沈黙はそれまで彼女との間にあった心地の悪いものとは違う種類だったのは間違いない。
ふと気になって視線を紅茶から上げて前を見た。紅茶を飲む皐月さんはいつも通りの無表情だったが少しだけ、本当に少しだけ口角を上げて笑っている様に見えた。
そんな彼女から視線を外せないでいると紅茶を飲み終えた皐月さんと目があった。それまで満足そうな表情が今度は少し悲しそうな様子に変わる。
「紅茶、美味しくなかったですか……?」
どうやら俺の紅茶がまだ残っているのが目に入ったらしい。それに気づき大慌てで飲み干し、空になったカップを差し出す。
「お、おかわりください! 美味しかったです! はい!」
声が大きかったためか皐月さんは少し驚いた様だったがすぐに無表情に戻りカップに紅茶を注いでくれる。
淹れなおしたことでまた紅茶の上品な香りが鼻を撫でる。分かったことは皐月さんは紅茶を淹れるのが上手いらしい。少なくとも使っている茶葉はいつも通りなのに味や香りは全くの別物だった。
紅茶を飲むのにさほど時間はかからず、幾度かのおかわりを経て紅茶はあっという間になくなった。
「ご馳走さまです。紅茶、とても美味しかったです」
「でしたら良かったです」
相変わらず短い会話ではあるが少なくとも今はこれ以上の言葉は不要なのはこの短い相対でよく分かった。少しだけ彼女のことがわかった様な気がした。今日のことに礼を言いつつ去ろうとしたところで横から声がかかった。
「あらまあ。珍しい組み合わせね」
見るとそこにいたのは親衛隊第二席の此花寿々花と第一席の獅童真希の二人だった。二人は珍しいものを見たという様子でこちらに話かけてきていた。
確かに皐月さんと食卓を同じくしたことはこれまで無かったし、それこそ一緒に紅茶を飲んでいるのも初めてのことだった。そう考えると二人の反応はごく自然なものだった。
「偶然ですよ。偶然一緒に紅茶を飲んでいるだけです」
「私はその……、鹿島さんにお願いがあったので」
口を開いた皐月さんに視線を向ける。お願いがあったとは初耳だった。どうやらその用事とやらがあったから先ほどは呼び止めたらしい。しかしわざわざ飛び止めて紅茶を振る舞うほどの用事とはなんなのだろうか。
「はい。私と一度だけ手合わせをして欲しいのです」
「手合わせを、……ですか?」
気がつけば眉をひそめてしまっている自分に気づく。戦うことへの忌避感、ひいては今も熱持つ己の血への嫌悪感がそうさせる。
「そんなことをする必要性はないと思いますが? そんなことのために呼び止めたのならもう二度と話しかけないでください」
あまりに冷たい口調に自身でも驚いていた。驚くほど自分は今不快に思っていたらしい。そんな言葉を受けて皐月さんは申し訳なさそう思った様子もないいつも通りの無表情のまま続ける。
「もし不快に成せてしまったのなら謝罪します。ただ、紫様からそうしたほうが良いと助言を頂きましたので」
「紫様が?」
「あなたの事を多少なりとも理解したいのなら一度刃を交えれば良いと。そうすればあなたという人が分かるだろうと言われました」
試合の申し出に紅茶を振るったらしい。彼女も俺が結芽や獅童からの手合わせを断り続けていることは承知の上だろうに。それほど俺に興味があるとも思えないが。
「まあいいじゃありませんこと。一回くらい。わたくしたちあなたの実力を見てもいないのですし」
「そうだね身内の実力はいざという時の為にも把握しておきたい。それに周囲の君に対する疑念も払拭しておきたい。君も周囲の感情が気にならないわけでもないんだろう?」
やはりというか当然というべきか。此花と獅童からの皐月さんへ援護が入る。両者ともに言っていることが真っ当なだけにこちらから拒否しづらいものがある。
当の皐月さんは変わらずジッと視線でこちらを捉えて離さない。横の二人もこちらの返事を待っているのか、何も言わずにこちらを見ている。
誰も言葉を発さずして数秒、それとも数十秒か沈黙があって。
「……一度だけ。一度だけですからね」
喉の奥から詰まったものを吐き出す様な気分だった。事情を知らない人から見れば単に面倒臭がっている様にしか見えないのだろう。俺も自分の事情を何も伝えてはいないのだから察しろというが土台無理なのだ。
だから一度だけ、それが妥協点だった。
「お願いを受けていただきありがとうございます」
変わらず無表情で皐月さんは頭を下げて礼を伝えてきた。しかし俺はただ苦い表情でいることしかできなかった。
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道場の使用申請をすれば驚くほど早く許可が下りた。どうやらすでに紫様が申請を終わらせていて、こちらが申し出ればすぐに許可を出す手筈になっていたらしい。どこまでも彼の方の手の上のようで、台本通りに操られているような気持ち悪さがあったがこの際無視することにした。
以前、用意だけはしていた『アレ』も既にやはりというか紫様によって道場内に用意してあった。獅童と此花が任されていた用事というのもコレのことだったらしく、二人と食堂で遭遇したのも偶然ではなかったようだ。
ジェラルミンケースを開き、中に収められている装備を制服の上から着込んでいく。準備が終わり、待っていてくれた皐月さんと相対するために距離を置いて立つ。
「何だそれは! どうしてお前は童子切安綱と大包平を持っている⁉︎」
俺の姿、正しくは腰の左右に帯刀された三対合計六本の刀を見て獅童さんが驚きの声を上げる。いや、この場にいる皐月さん、此花さんも同じように驚いた顔を見せ、いつの間にかいた紫様だけは少し得意げな顔を見せていた。
当然だろうその日本の御刀は紫様が振るう彼女の御刀であり、他人に譲渡できるものではない。
そう本物ならば。
「どれもレプリカですよ。前に六本の刀の注文を紫様にお願いしたら紫様、自分の御刀を参考資料に提出して。お陰で式典で帯刀しようものなら晒し者です」
試合に出るつもりも荒魂討伐任務に参加することもほとんどない為、初めてのお披露目がこの場になっていた。本来であれば使う予定もないもの。どうして紫様は自分の御刀を資料にしたのだろうか。お陰でコレを持っていれば悪い意味で周囲の視線が集まってくる。
紫様の横にいる此花は彼女に質問する。
「よろしいのですか紫様?」
「なに、鹿島の人間であるあいつにとって御刀は消耗品。どうせダメになってしまうのならなにを使ったところで同じだろう」
「御刀が消耗品……?」
紫様の言う意味がわからなかったのか此花は首を傾げている。御刀とは折れず曲がらずよく切れる神性を帯びた由緒あるもの。それこそ鍛え上げられてから今日に至るまで錆びることすらない一種の永久機関なのだ。それを用いる刀使からすればそれを消耗品とすることの意味がわからないのは、鹿島の人間を知らないのであれば当然なのだろう。
左腰から一本を引き抜き寝かせるようにして構える。もう10年近くも触っていなかったはずなのに熟練された剣士のように構えは自然に出来た。いやが応にも己に流れる血の力を実感させられる。
皐月さんは腰から御刀を抜きつつこちらの構えを観察している。
「鹿島新當流ですか。名前の通りですね」
「正しくは身内内で伝承している鹿島神道流、神様の方の神道流なんですけど、まあ大体一緒です」
人殺しの流法に違いがあってなんの意味があるのか。死んでしまえば同じだろうに。今も忘れたくて仕方がない人殺しの方法。しかし体は忘れようともしない。
「では私が開始を宣言しよう。両者尋常に、はじめ」
紫様の言葉を合図に手合わせが始まった。
深甚流である皐月さんはすぐには攻めてこない。だからこちらから攻める。一歩前へと。御刀の力を引き出せばそれは十歩の距離を一瞬で詰める機動力となる。
余計な工夫などせず首を狙っての素早い横なぎ。
——一回
これは皐月さんが刀を斜めに構えて防がれる。返しの小手で絡めるように刀を掬い上げられる。そして放たれる深甚流お得意の突き。しかし防御からの突きでは初速が出ない。あげられた刀身を叩くつけるように下ろして突きを下にいなす。
——二回
思っていたより返しの攻撃が遅い?
もっと早い突きが来ると思っていたから対応が間に合っていた。
刀同士が足元で互いを押し合う形に入り一歩下がって仕切り直す。
硬直してしまう。というのも来ると思っていた追撃がなかったから。
皐月さんは御刀を構えてこちらを待っていた。どういうことなのだろうか。今のは攻めるべき絶好の機会だったはず。それをみすみす見逃して構えに戻るのはよく分からない。突きを主体とするなら尚更だ。
「では次はこちらから行きます」
宣言通りに踏み込みが起こった。深甚流の真骨頂である防御を捨てた攻勢一点の突き。刀使の加速術である迅威も合わさって切っ先は弾丸のようにこちらに迫っている。
刀を払うように切っ先を凪いで突きの進行を阻害する。
——三回
どういう訳か簡単に対応出来てしまった。速さは十二分にあるが突きの狙いも甘く真っ直ぐすぎる。これでは対応してくれと言っているようなものだ。
不可解な皐月さんの剣術に不信感が募っていく。
「これだけですか? 自分から手合わせを申し込んで手を抜くんですか?」
「いえ。わたしは本気です。次、行きます」
構え、再度の突き。迫る切っ先は先程よりも早く、瞬きでもしようものならば開く間に体は刺し貫かれてしまっているだろう。
しかしそれはあくまで速度だけの話。これは斬り合いであり、藁の的を切っているのではない。腰を落とし、刃を後ろに、柄を前に出し迎え撃つために構える。
こちらの構えを認めつつも皐月さんは突きの腕を解かず、速度を落とさない。
あぁ、分かってしまった。弱いんだこの人。単純に実力が想定していたよりもずっと低かったから刀が遅く単純に感じたんだ。ならばもう見るものもない。終わらせてしまおう。
呼吸を一つ。
「しぇあ!」
力を込めるために叫ぶ。柄の端を振り上げて突撃する切っ先にしたから叩きつける。体重の乗った突きが逸らされたことで皐月さんの重心がブレる。重心がブレるということが刀を掴む手に力が入らないことを意味する。手首を軽く回し、型の根元、鍔の近くを叩くように斬り払う。
——四回目!
瞬間、持っていた童子切安綱レプリカの刀身が叩きつけれたガラスのように派手な音を立てて砕けた。
だがそれは分かっていたことだ。むしろ四回持っただけマシな方だ。すぐに手を離し、空いていた左手で右腰の刀にを手をかけ引き抜こうとして。
あぁ——、だめだ。本気になってしまう。このまま抜いてしまうと本気になってしまう。それはダメだ。死んでしまうかもしれない。
右手を皐月さんの持つ水神切兼光の柄へと伸ばし捉える。あとは単純に力に任せて奪い取って投げ捨てる。
刀使の防御術である写しは御刀が手から離れた時点で剥がれてしまう。そして手元から水神切兼光が離れたことで皐月さんの写しが解かれる。この写しが剥がれた時点で刀使同士の勝負は決着とされる、そうでなければこのまま続けてどちらかが本当に刀で斬られてしまうからだ。
「勝負あり、そこまでだ!」
そして紫様によって勝負がついたことが示される。流石に掴んで放り投げたままなのは失礼かと思い道場に転がる水神切兼光を拾い上げて皐月さんに渡す。差し出された自身の刀を受け取り納刀する。しかし皐月さんの視線はこちらを向いたままだった。
「まだ何か? 言っておきますがもう一試合などしませんよ。一回だけという約束です」
「あなたは本気を出したくないのですね。それも怠惰ではなく、全く別の理由で。それがあなたの戦いたくない理由なのですね」
驚いて逸らそうとしていた顔を上げて彼女を悔いるように睨みつけてしまう。身内以外に言ったことがない戦わない理由を見破られていた。
こちらの反応など御構い無しに皐月さんは続ける。
「最後の交差、あなただったらわたしを斬り払うことも出来たはずです。それを刀を取り上げることにした。とても冷めた顔を作ろうとしながら。人を切れないのではなく、本気になって戦えない。違いますか?」
自身の推理を披露して皐月さんはこちらの返答を待っている。驚いていた。まさか一試合対峙するだけでこうも己の中を見破られてしまうものなのだろうか。
きっと俺は今、相当渋い顔をしているだろう。秘めた内側を暴かれて気持ちの良い奴などいない。
「わたしは正直なところ、あなたが信用出来ないでいます。戦える力、それも並大抵でないものを持っているはずなのにどうして実力を示そうとはしないのか。それれが不思議でした。実力の無い私のような人間からすれば実力のある人間がそれを発揮しないのはそれだけで不信感を呼び起こすものです。」
「それは……」
ただ死にたくないから本気を出せない、出したくないなどと言えるはずもなく。
「ですが刀を交えてよく分かりました。わたしが知らないあなたというものがあり、それがあなたが戦わない理由で、あなたはそれを持ってある」
「そんな大層なものなんかじゃないです。個人的な理由で戦うことを放棄しているだけ。不審に思われるのも仕方のないことです」
「それでも少しあなたのことが分かって、手合わせをして良かったです。これからもよろしくお願いします」
「……こちらこそ」
●
得るものもない手合わせが終わった。皐月さん一人の理解を得られたところで管理局内のでみんなからの不信感がなくなるわけでもない。
一人道場に残り、散らばった安綱レプリカの破片をちりとりで集めつつ考え事をしてしまう。
理不尽なものだと、道理に合わないと思ってしまう。実力をつけたいと頑張っている者が実力がつかず、戦いたくもない者が実力が備わり続けてしまっている。
世の中みんなに優しくは出来ていないことを改めて感じさせられる。優しかったのならこうして悩まされることもなかっただろうに。
散らばっていたゴミを片し、中身の入ったゴミ袋とジェラルミンケースを両手に道場を後にしようと出たところで皐月さんがいた。
「どうしました? 忘れ物などなかったですよ?」
疑問に思うこちらなど気にした様子もない、いつも通りの無表情で皐月さんは言う。
「紅茶を淹れます。宜しければ飲んでいかれますか?」
どういった風の吹き回しなのだろう。今度もまた用事があるのだろうか。
何か言う前に皐月さんは察したらしい。
「いえ、別に用事はありません。……ただ紅茶を美味しいと言ってもらえたので誘っただけです。迷惑だったでしょうか?」
ただの誘いだったことに少し面食らう。こんな風に誘ってくるとは思っていなかったからだ。
「決してそんなことは。荷物を片付けたら向かいます。食堂で良かったですか?」
「はい。ではお待ちしています」
一礼して皐月さんはすこし小走りに向かっていく。その後ろ姿を眺めていた。
「わたしの知らないあなた、……か」
道場での彼女の言葉を思い出す。皐月さんはどんな人なのだろうか。初めて彼女に興味を持つ自分がいた。