「以上が福島での荒魂討伐の報告です」
「ふむ、報告書通り、お前たちは十二分に働いてくれたようだな。二人だけだったことを加味しても十分な成果だ」
福島から帰還したその日の晩、俺は局長室、つまりは紫様に先ほどまでいた福島での事の顛末を報告していた。仕事熱心な皐月さんが車内で報告書を書いていてくれたおかげで簡単な説明で済んでしまった。こんな所にまで気を回してくれる皐月さんに俺は脱帽という以外に言葉を持たなかった。
そしてもう一つ思うところがあった。
「それにしても紫様はずいぶんと褒めてくれますね。少し意外でした。もう少し硬い人物かと思っていました」
「良く働いてくれた部下を労うのは上司としては当然だろう? それにお前に関しては、私から指名してここに呼び寄せたんだ。相応に働いてくれることは最初から期待していた」
今、紫様は俺を直々に呼び寄せたと言っただろうか。
以前聞いていた話との小さな食い違いが妙に気になった。小さなようで決定的に何かを履き違えている。そんな予感がする。
「俺は神社庁からの推薦で出向が決まったと聞いていたのですが、違ったのでしょうか」
質問に対して紫様はうむ、と小さくうなづきこう答えた。
「それも事実ではある。神社庁は折神家への出向者を決める際に出来るだけ本庁への影響を少なくしようとした。その結果、家の権威こそあれ鹿島の血を拒絶し持て余されていたお前を厄介払いとしてこちらに送り込んだ」
そうだ。そのはずだ。しかし紫様の言葉はそこで終わらなかった。
「しかしそもそも、どちらにしても私はお前を鹿島の家から引き抜くつもりだった。それがたまたま神社庁との思惑に重なり、ちょうど良く乗っからせてもらっただけに過ぎん」
「何のために? 戦わない、戦おうとしない『鹿島』に一体何の価値があると言うんです? 刃の落とされた刀に何の意味が……」
今度こそ意味がわからない。鹿島とは荒魂を滅するために存在している。それが鹿島の唯一にして至高の目的であり、それ以外に存在している意味など有してはいない。人間としては破綻していようともとより、人から外れた『人で無し』。
それがどいうわけかこの人は、人で無しにすらなれない穀潰しに、一体どんな使い道を見出したというのだろうか。
困惑する俺など他所に紫様はただ笑い、
「意味があるかもしれないし、ないのかもしれない。お前は闘わずとも荒魂への追跡能力がある。そして時が来ればそれ以上に役立つかもしれない。出来なくともそれでいい。『折神紫』が賭ける策の一つに過ぎない」
どこかはっきりとしない物言いで語った。まるで他人事のように語る策とやらは何も見えてこず、結局何も言っていないのに等しい。
「策というのは?」
「それすらも私自身どうしてなのか思い出せない。20年も前から考えていた気がするのだがどうしてか思い出せん。しかし10年前に気にする必要がなくなった気がする。まったく、こうも記憶がはっきりしないのは歳だろうか?」
それっきり何かを思い出そうとする紫様は考え込み、もう用事は済んだのだから戻っても良いと許しが出た。一礼して部屋を後にする。
部屋を出つつ、閉まっていく扉の先で記憶を思索する紫様はどこか思い出そうとしているのではなく、
●
局長室を出て少し歩くと素早く短い足音はこちらへと迫ってくるのが分かった。
一、二、三と数える間に気配はすぐそばに来て、それと同時に風を切る刃の音がした。
背筋に伝っていく寒気を記号に危機感が俺自身を警告する。直ぐさま身を翻し、頭の上から迫ってくる気配に両手を伸ばす。
量の手のひらが合わさる破裂音がして、その間にニッカリ青江の刀身。無防備な俺の頭部めがけて振り下ろされた刀身を白刃取りしているこの状況は一体どういうことだろうか。
いや、分かっていることは一つある。絶賛白刃取り中のニッカリ青江に力を込め今にも俺の頭をスイカのようにぶつ切りにしようとしている犯人など一人しかいる筈もない。
「アッハッハ! ぎょーおにーちゃん、おかえりー。それじゃあ死合おう!」
加虐的な笑みを浮かべて件の下手人、こうしている間にも結芽は抑えられているニッカリ青江に力を込めて、刃が少しづつ俺の頭を切らんと迫ってくる。
「いやいやいや! 待って結芽! これはマズイって!」
生物の根源的な本能である生存への直感がこのままではやられると見れば分かることを告げる。目の端に溜まりつつある涙が飽和しようとしている中、俺は結芽に止めるように懇願するが当の結芽は実に不満そうにしている。
いかにも私は怒っていますと言わんばかりに、いっそわざとらしいくらいに頬を膨らます。
「夜見おねーちゃんとは勝負したのにどうして結芽とは手合わせてしてくれないの! ウソついた!」
どうやらこの襲撃の原因はそれらしい。要は自分は俺との手合わせてを断れ続けたのに皐月さんとは手合わせをしたことが不満らしい。
結芽の文句に俺は何も言い返せない。戦いたくないと普段から言っておいて俺が彼女のいない所で手合わせをしていた事実は結芽からすれば嘘をつかれたことに違いない。
しかし目と鼻の先に迫るニッカリ青江の刃は迅速にどうにかしなければならない。
どうする? どうするのが一番結芽に納得してもらえる? 足りない頭を必死に働かせる。
「そ、そうだ! 聞いてくれ結芽。あれは紫様からの命令で俺は皐月さんと組むことになるから、円滑な連携のために一度だけ互いの実力を知るためにやったんだ。だからもう手合わせての予定はないよ!」
「でもそれって紫様にお願いしたらぎょーおにーちゃんとの手合わせを用意してくれるってことだよね? 私だってもしかしたらぎょーおにーちゃんと組むかもだし、だったら今から紫様のところへ行こーっと!」
マズイぞ! ただ結芽に手合わせの口実を与えるだけになってしまった。先ほどまでの殺意は何処へやら、結芽はさっさと御刀をしまうと軽い足取りで紫様のいる局長室へ向かって行こうとしていた。なんとか止めようと床に転がったまま結芽の足を掴むが結芽は意に介した様子もなくそのまま進む。
「待って結芽。いや、お待ちください結芽様!」
なりふり構わない有馬様だった。5歳も年下の女の子の足首を掴んだまま引きずられる17歳がいるらしい。来月には18になって6歳差になると思うと余計に悲しくなってくる。
「待たないもーん。紫さまー」
「勘弁してよ、結芽ー!」
制服で床掃除しながら情けない悲鳴をあげながら引きずられていく。このままでは一切手加減も遠慮もない結芽との手合わせが始まってしまう。別に手合わせ自体は断ることも出来る。
紫様もそこへの配慮はしてくれるだろう。しかし問題は残った結芽だ。絶対むくれる。ここまで断り続けると口も聞いてくれなくなるかもしれない。戦いたくはなくともそれも避けたい。あっちを立てようと思うとそっちが立たないというどん詰まりに陥っているのは自覚しているがどうしたらと悩みながら叫ぶしかできない。
その時、普段は静かな折神宗家の中で聞きなれない乾いた音が響いた。
その音を聞いて結芽は足を止め、俺は叫ぶのを中断した。二人して目を合わせ、互いに心当たりがないのを確認すると音の方へと向かった。
●
「なんだその目は! お前にここまでしてやったのは誰だと思っている! それなのにおめおめと帰って来て!」
俺を結芽が柱の陰から覗き込むとヒステリックに叫ぶ、怒りをあらわにしている女性を見つけた。どうやら誰かに向かって怒鳴っているらしく、全身を使って怒鳴り散らしていた。
怒られている相手は彼女が壁となってよく見えない。
「うわー……。あれ鎌府女学院の学長だよ。いっつもあんな感じで怒ってるおっかないおばちゃんだよー……」
「あれが……」
下にいる結芽が先程から叫んだままの人物が誰なのかを教えてくれる。その表情は先ほどまでの明るさはなく、叫んでいる鎌府の学長への嫌な感情を隠そうとしていない。
そういえば先日五箇伝、つまり各地にある刀使の育成を目的にした学校の校長が集まり、その中に彼女もいたことを思い出す。紫様にいかにも心酔していますという風な感じの態度だったのはよく覚えている。そもそもの話、その集まりが各学長への俺の紹介であり、紫様の隣で紹介を受けていた時に何故か彼女に睨まれていたのだ。そんな経緯もあって印象深く記憶に残っていた。
しかしそんな彼女が一体なんの用事でこの折神宗家にやって来て、一体何があれば怒鳴るという事態になるのだろうか?彼女叫びは続く。
「お前にここまでしてやったのにどうして鹿島のガキの力を借りねばならなかった! お前なら一人でも紫様のお役目を果たせたはずだ!」
鹿島のガキ。俺のことだろうか。少なくとも今鹿島に男は俺一人だったはず。怒鳴られている人物は俺に力を借りたから彼女に責められている? しかしそれらしい人物への心当たりを俺は一人しか思い当たらなかった。そして予想は当たってしまっていた。
「鹿島さんの力を借りたのは紫様からの命令です。二人組で事に当たることが紫様からの命令でした」
鎌府の学長と話している人物の姿が見える。いや、見えたのではなく見えてしまった。鎌府の学長が前に出て、皐月さんの頬をぶった。それ以上何もいうなと口を封じるように彼女は皐月さんを叩いたのだ。
「お前が誰と組もうと知ったことではない。紫様からのご命令であるなら尚更だ。しかしよりによって何故、鹿島なんだ。私になんの断りも入れずに鹿島などに借りを作るなど!」
どうやら彼女は皐月さんが俺と組んで荒魂退治に出かけたことが不満らしい。しかしそんなことはどうだって良かった。叩かれた皐月さんの頬。一度や二度ではないようで赤くなって小さく腫れている。
身体中の血液が沸騰して巡っているような感覚。つまり俺は今、頭に血が上りそうになっているのだなと、頭の中の冷静な部分が伝える。
「ヤツさえいなければあの時、紫様の隣で戦っていたのは私だったのだ。それを横から入って来て私から紫様を取っていった泥棒猫めが! しかもお前はよりにもよってあの泥棒猫の息子の手を借りたなどと。お前はどこまで私を馬鹿にすれば気が済むのだ!」
叫びとともに皐月さんに向かって振り下ろされようとしていた平手はしかし、皐月さんに届くことはなかった。
「……ワーオ」
ここから先ほどまでいた場所の間に斬撃が走り、結芽の感心した声がするが、今はそんなことどうだっていい。今は皐月さんのことの方が大事だ。
振り下ろされようとしていた鎌府の学長の手をすんでのところで掴み、俺は彼女と皐月さんの間に割って入る様に陣取っていた。
「……すいませんがこれ以上は俺の同僚への暴力は控えてはいただけないでしょうか」
でないと。
「そうして頂けないと自分でも何しでかすか分かりませんから」
逸る心を落ち着かせ、出来る限り普通に話そうと心がける。
深く息を吸い、吐いて。力の限り威嚇する様に目の前の鎌府の学長を睨みつける。
「鹿島さん……」
突然俺が現れたことに皐月さんは驚いた様につぶやく。しかし一部始終を見られていたことに気負いしたのかそれ以上何も言わなかった。
鎌府の学長は最初こそ驚いていたものの、自分を止めたのが俺だと分かるや否や憎悪の篭った目つきで憎々しくこちらを睨みつけている。
「——っこの! 離せ!」
腕を掴まれたままだったのを彼女は振りほどこうとする。掴み続ける理由もなく、手を離した。掴まれていた部位をかばいながらも憎々しげな視線は変わらずこちらに向いている。
「……フン。鹿島の坊主だな?」
「貴方は鎌府女学院の学長ですね。どうして皐月さんにこの様なことを?」
「お前には関係ない! ……もういい帰る。お前の顔を見ているとあの女の顔がよぎって気分が悪い」
それだけいうと彼女は大きく足音を鳴らしながら廊下の奥へと消えていった。後に残されたのは俺と皐月さんの二人だけだった。結芽はいつの間にやら避難していたらしい。
振り返ると腫れたままの頬を抑え、何も言わない皐月さんと目が合う。
物事が自分を置いて終わってしまい、傍観を強いられていた彼女はキョトンとこちらを見ていた。
「……取り敢えずその傷手当てしましょうか」
彼女は嫌とは言わなかった。
●
既に時計は十時を過ぎ、生憎のこと医務室の勤務医は定時で帰った後だった。仕方なく皐月さんを俺の執務室に招き入れ、応接用のソファーに座らせた。
連れてこられた皐月さんは抵抗せずされるがままだった。部屋に常備してある救急箱から湿布と消毒液を取り出す。
腫れた箇所にガーゼに染み込ませた消毒液を当てると皐月さんは小さく呻き声を上げた。そんな反応を無視して腫れた箇所を隠すように湿布を貼り付ける。
処置を終えて救急箱をしまい、皐月さんと向かい合うように反対側のソファーに腰を落とし顔を少し伏せる。
しかし俺は何も言わず、皐月さんも何も話さず、ただ沈黙が二人の間にあった。
「……何も聞かれないのですか?」
先に動いたのは皐月さんだった。確かめる様な問いかけだった。俺が手当てをするとそれ以上何も聞かないのを不思議がっている様子で彼女はこちらを見ている。
こちらの答えは決まっていた。
「皐月さんが話してくれないなら、聞こうとは思いません。それに大体の予想はしてますから」
これまでの話と状況を整理すれば自ずと真実は見えてくる。あれが皐月さんが恩を感じている高津学長とやらで、彼女に恩義を感じている皐月さんは彼女のされるがままに叩かれていたことぐらい、見ていれば分かってしまう。
皐月さんが恩義を感じているという高津学長があんな人間だとは思わなかったが今それ以上に気になってしまうことが一つ。
「どうして避けようとかしないんです? 無抵抗であんなに……」
「それで高津学長の気が済むならそれでいいと判断したからです」
この人は本当に、どうしてこうなんだ。忠誠心は世間では美徳と言われるだろう。しかしこんなものを俺は素直に受け入れられなかった。。
「それで貴方が傷ついていたら意味がないだろ。そんなに叩かれて……」
手を伸ばし、皐月さんの頬に貼り付けられた湿布に触れる。湿布の上から傷に触られて皐月さんは少しだけ痛そうにしている。
「なのにそんな風に……自分を大切にしてください。誰だって痛いのも怖いのも嫌だろ。誰だって死んだり苦しんだりしたくないって思ってるんだ。俺だってそうだ。だから今も鹿島の血から逃げてる。誰だって怖いものから逃げたっていいんだ」
「そう思うから貴方は本気にならないのですね。死にたくないから本気を、血の力を出さない。……なら、先ほどはどうして? あれが鹿島の力なのでしょう?」
高津学長を止め、皐月さんとの間に割って入った時、確かに俺は封じていたはずの鹿島の力に頼っていた。無意識に空間を切断して距離を破壊して移動して彼女らの間に割り込んでいた。
死ぬのが嫌なはずなのに、それなのにどうして今まであれほど忌み嫌っていたはずの力を使ったのか皐月さんは問いかける。
「それは……」
でもそれに対する明確な答えを俺は持っていなかった。
言葉に詰まり、何も言えず、なぜか申し訳なくなって俯いてしまう。しかし皐月さんは何も言わず、ただ俺が答えるのを待っていた。
そして何の根拠もなく、理由もなく、ただ取り繕うように言葉を吐き出す。
「あの時はただ無我夢中になっていただけです。もう一度同じことがあっても次はきっとないです」
「……そうですか」
声色から察したのだろう、皐月さんはそれ以上は何も聞かなかった。
「手当てありがとうございました。では私はこれで」
立ち上がった皐月さんは一礼すると執務室を後にする。
一人だけになった執務室はいつも通りに静かになって、やっと楽になれた。
ずっと気合いで抑えていた吐き気が限界を迎え、せり上がってくる酸の臭いが感覚を満たす。足腰に力が入らなくなり、力なくソファーに体を預けるように倒れこむ。
原因は分かっている。無意識に発揮してしまった鹿島の力。それがかつて目の前で消えてしまった母を思い起こす。
自分がいつかあのように、同じように消えて無くなってしまうと考えると恐ろしくて堪らない。体が消えて無くなりそうになっていないか確認するように力の入らない手で腕を掴む。
幸いなことに幽かになることもなく確かに腕を掴んでいる感覚があった。
どうやら体はまだ大丈夫らしい。そう思えると安心から緊張の糸が解け、苦しみから逃れるようにフッと意識が遠のいていった。
●
闇の向こうから意識が浮上する。どうやら体調を崩して気絶していたらしい。
しかしどういうことだろうか。確か最後に気を失った時、俺は倒れこむようにしてソファーに向かって気絶したはず。だが目を閉じている感覚は確かに仰向けになっていると主張している。
そして何だろうか? この頭を支えてくれる魅惑的な柔らかさ。そしてほのかに漂ってくる甘い香り。
この世にこれほど柔らかく、そして香しいものがあったのだろうか。少なくとも昨日までの俺はこんな良いものを知らなかった。
そして目を開いて——
「お目覚めですね。体調が良くなったようで何よりです」
「え、ええっと。おはようございます?」
視界いっぱいに皐月さんの顔があった。どうやら膝枕をされていたらしい。
いや、そうじゃない。のんきに挨拶をしている場合ではない。
「ぬわぁ! 皐月さん、一体何がどうして、こうなって⁉︎」
「落ち着いてください鹿島さん。鹿島さんが倒れてうなされていたので起きるまで看病をしていただけです。まぁ、様子を見ていただけではありますが。しかし何もいかがわしいことはありませんでしたよ?」
「そんな心配してませんよ!」
この状況でおとぼけられる皐月さんの心臓の強さを見習いたいところだった。というか頭を両手で頭を固定化されて動かせてもらえない。
しかし気になるのはそんなところではなく。
聞きたかったのは——
「しかし、皐月さん。どうしてここに? 確か自室に帰ったんじゃ……」
「そりゃあ、私がぎょーおにーちゃんに会いに行こうとしたら夜見おねーちゃんに会って、しょうがないから一緒に部屋に入ってみたらぎょーおにーちゃんが倒れてたんだよ。夜見おねーちゃんに感謝だねー」
視界の外。ソファーの背の向こうから声がした。誰であるかなど明白で。声をかけると同時に立ち上がったのか顔が見える。
冷蔵庫に隠しておいたとっておきのお高めのアイスを食む結芽がいた。
「あぁ、そういえば結芽と手合わせをするとかしないとか言い合ってたんだっけ?」
ぼんやりと気を失う前に何をしていたのかを思い出す。発した声は弱々しくかすれ気味にしか出なかった。
アイスを食べていた。結芽はつまらなさそうにしかし、しょうがないかという様子で肩をすくめる。
「ぎょーおにーちゃん、そんなんだからもういいや。体壊してまで戦ってほしいよ何て結芽は言わないからねー。まぁ嘘はついたからアイスは食べるけど」
「結芽がそう言ってくれるならそれでいいけど……」
俺の一言を聞いて結芽は美味しそうにカップのアイスを一口。大事にとっておいたのだけれど、それで許してくれるのならいいか、名残惜しさを感じつつも自分を納得させる。
そんなことを考えていると頭上から視線を感じる。
結芽に向けていた視線をそちらに向けるとこちらを見下ろした皐月さんと視線がぶつかる。
どうしたのだろうか。普段通りの無表情なのだが気持ち少しだけ眉が下がっているようにも見える。
「どうかしました皐月さん」
「……名前」
皐月さんはポツリと本当に聞き逃してしまいそうなか細い声で呟いた。
はて、名前とは一体何のことだろうか?
皐月さんは少し唇を尖らせた。
「燕さんは親しげに名前で呼ぶのに、私や獅童さん、此花さんは苗字で呼ぶのですね」
「えっと……。それは結芽はよく俺の執務室に遊びにきますし、暇な時間は一緒に間食したりしてますし……」
それを聞いて皐月さんの目が細まる。見つめるようにこちらを見下ろす。
「では私たちとは仲良くしたくないと?」
「あ、いや、そういう意味じゃないですけど」
「では名前で呼んでいただいても問題ありませんね?」
では、とは何を指しているのか若干分からなかったが当の本人は満足げに頷いている。横にいる結芽に助けを求めるように視線を送る。
「いいんじゃなーい? 名前で呼んだって。ぎょーおにーちゃん友達少ないし、結芽いいと思うよ」
助け舟どころか追撃で後ろから刺された。というか友達少ないのは余計だ。単に親衛隊にいると誰かと知り合う機会が極端に少ないのだと声高に主張させてほしい。決して俺に友達が少ないとかそういった事実は存在しない。
しかし今はそんな些細なことは後回しだ。重要なことじゃない。女の子を急に名前で呼ぶのに少なからず抵抗感を覚える。
「皐月さん……」
「……」
「皐月さんってば」
「……」
いや、しかしだ、でも、だって。
……。
「よ、夜見さん?」
「はい、なんでしょうか」
しれっと名前呼びの時にだけ返事が返ってきた。しかも笑っているのかよく分からない微妙な微笑付きの返事だった。
「その……、夜見さん。どうして名前呼びに?」
それを聞かずにはいられなかった。
しかし夜見さんは何というか肩の力を抜いたように笑って見せて。
「鹿島さんと仲良くなりたいと思ったからです。嫌でしたか?」
「……もう、何と言うか。俺の負けです。夜見さんの好きにしてください」
「はい、ではそのように。好きに呼ばせていただきます。
不意打ちのようにやって来た自分の名前に顔が赤く染まっていくのを感じる。
「わあー、ぎょーおにーちゃん、お顔がまっ赤だ。おもしろーい」
うるさいぞ結芽、俺だって動揺する時くらいあるんだ。
まったく、夜見さんには勝てる気がしない。
次回から本編の時間軸に突入です。どうぞよしなに