ピピピピッ、ピピッ
5:30。
宮内家。
鳴り始めた目覚まし時計は、すぐに止められた。
「ん……」
れんげは半分覚醒し、ぼっとした顔で──目が半開きなのはいつものことだが──視点をどこに合わせるもなく仰向けに横になっている。
「あ、すまん、起こしてしまったか」
ツリ目をぱっちりと開けた一穂が、布団から上半身を起こし、れんげに向かって申し訳なさそうに言った。
「ん……大丈夫なのん。ウチは早起き平気なのん」
仰向けで正面に天井の方を向いたまま、れんげは小声でそう言った。
「そうか。でもまだ寝てていいぞ」
「んーん、この際だから起きるのん」
れんげはそう言って上半身を起こした。
一穂は洋服箪笥を開けて着替え始める。フォーマルな女性用パンツスーツ。
れんげも和箪笥を開けて着替えを取り出し、着替え始める。
「朝御飯はパンでよかったか?」
「大丈夫なん」
れんげは、一穂の問いに答えながら、着替えを終えて居間に行く。
旧い農家らしい木造住宅である宮内家だが、掘り炬燵のある居間からカウンターダイニングが覗く構造にリフォームされている。それ自体はれんげの記憶している“宮内家”と変わりなかった。
ダイニングのテーブルの上には、マーガリン入りバターロールとミニサラダというメニューで、2人分の朝食が用意されていた。
が。
時計が6:00を指そうとしている状況で、一穂は既にスーツの上からライダージャケットを着込み、ヴィンテージスタイルのバイクヘルメットを身に着けようとしているところだった。
「? 姉々、バイクのヘルメット被って食事するん? こっちの姉々もやっぱりちょっと変わってるのんな」
「え……いや、私はもう出勤するところだが……」
れんげの言葉に、一穂は、そのれんげを振り返りつつ、後頭部に汗をかくような様子でそう言った。
「?」
小首をかしげかけた、れんげだったが、シンク脇の食器カゴにすでに洗い終えた1人分の食器があることに気がついて、はっと気がついた。
「あ、そっか、こっちの世界ではひか姉うちにいる設定だったんな」
「設定て……まぁ、そういうことだから、私は出るぞ」
れんげの言葉に、一穂は少し唖然としつつ、居間から出ていこうとする。
「ああ、昨日の今日だから、もし家出る前に気分が悪くなったりしたら、私に電話するか、携帯が通じなかったら、ひかげに言うなり、小鞠に電話するなりするんだぞ」
出て行き際にれんげを振り返って、一穂はそう言った。
「わかったん。姉々行ってらっしゃいん」
「ああ、また学校でな」
れんげの送る言葉に笑顔を返してから、一穂は、家の母屋から出ていった。
ガレージに停まっているハーレー・ダビッドソン……に似せて改造されたホンダCBX400 CUSTOM。
一穂が大型二輪免許を取り損ねたことから、某後輩がどこぞから拾ってきた、その時点である程度改造済みだったCBX400 CUSTOMを更に弄くったもの。ハーレー風のフェアリングやリアフェンダー、水平マフラーにワイヤースポークのホイールと種車のイメージはガラリと変わってしまっている。見た目純正のままなのはインパネ周りぐらいか。
前日に頭から入れてしまったため、暖機運転を終えると、一穂は、後輪左右のサイドボックスにハンドバッグとスポーツバッグをそれぞれ入れた後、バイクを後ろに向かって手で押し出す。充分に旋回できるところまで下がると、リアに背ずりのあるシートにまたがり、ターンして宮内家の敷地から出ていった。
水田に時折畑の交じる田園地帯の県道を走る姿は颯爽ともしていた。これでマフラーでもなびかせていたら情景も含めて完璧な光景だったろうが、二輪車ライダーがつけるロングマフラーの他車による巻き込み事故が問題になったことがあるため、一穂は教職者ということもあってそれは避けている。
時折すれ違う車は、軽が多いものの、それも含めて意外に乗用車が多い──4ナンバーの軽ボンネットバンも目立つが──。この時間帯に走っているのは、街に向かう通勤車だった。時間がフリーな農作業の軽トラや農耕機は、かえってまだまばらにしか見えない。
7:00、少し前。旭丘分校着。
当然まだ無人の校舎の玄関に向かう。昼間に家宅を施錠する習慣が根付いてない地域だが、流石に公の建物ということで夜間は施錠されている。一穂はハンドバックから取り出した鍵で玄関を開けた。まだ警備会社による機械警備の類は設置されていなかった。
本来まだ勤務時間前。一穂は職員室に荷物を置くと、その場で着替えを始めた。スポーツバッグから取り出したジャージ姿になると、スーツは職員室内のロッカーにかける。
同じくスポーツバッグから取り出したタオルと、自分の職務机の引き出しから取り出したデジタル式のストップウォッチを手にすると、一旦校舎内から出ていく。
玄関前で体操をし、身体を充分にほぐすと、
「よしっ」
と、一穂は軽いペースで走りながら、一旦旭丘分校を後にする。
朝一番に分校にやってきて、鍵を開けてから、勤務時間前までジョギングをする。それが“この”宮内一穂の日課だった。
同じ頃。宮内家。
「ひかげちゃーん、早くしないと遅刻するよー」
外から聞こえてきたのは、富士宮このみの声。
──そういえばこのみ姉はどうなってるんな……
れんげが朝食を摂りながらそんなことを考えていると、
「ひはひふぬ、まっへへー」
と、ひかげが「今行くん、待っててー」と、サラダを消化に悪そうな勢いで頬張りながらそう言った。そして、直後にパンを口に齧りながら、制服のタイを直しながら玄関を飛び出していく。
れんげは、パンを咀嚼しつつ、このみを見ようとひかげの後を追ったが、飛び出すひかげの開閉する玄関からちらりと見えただけだった。
着ている制服はれんげの記憶しているものと同じ。ただ、ひかげの着ているそれとは異なった。
とは言え街まで鉄道で出るのだから、一緒に、ということなのだろう。ついでに言うとズボラなひかげの尻叩き役でもあるのかもしれない。
さて、ひかげとこのみは最寄りの駅に向かう。
その駅も、──本人はここにいないが──れんげの記憶とは少し違っていた。1面の簡素な駅ではなく、島式ホーム2面の交換駅になっていた。
小型の自販機が備え付けられた待合室も備わっている。もっともその構造体は2軸型LE-Carを重機で切断した成れの果てだった。
有人駅になっているわけでもない。ポイントの転轍機はあるが基本は自動遠隔操作だ。
「ひかげちゃん、もう高校生なんだし、もっと余裕持って行動しようよー」
「いいんに。ちゃんと間に合ってるんから」
このみの言葉に、ひかげはだるそうに言い返す。
駅の下り線にはすでに列車が入っていた。2両編成のディーゼル気動車。キハ500形という、国鉄の廃車発生品とキハ55形の図面をもとにでっち上げた自社仕様の気動車が、国鉄・JR払い下げのキハ30形を従えている。キハ500形は両運転台仕様だったが、ラッシュ時間帯で2連結になっており、車掌が乗っていて、先頭の『ワンマン』表示機も伏せられている。
その下り線の列車が待っていた上り列車が到着する。こちらはJR払い下げのキハ52形が、やはりキハ30形を従えていた。同じく『ワンマン』表示機を伏せている。
このみとひかげはその上り列車に乗り込んだ。間もなく扉が閉まる。どの車両も原型のDMH17エンジンは下ろしていて、コマツ製エンジンの音を響かせながら、上りと下りはほぼ同時に、すれ違って発車していった。
同じく、ほぼ同時刻。越谷家
「ねーちゃーん、もう起きたー?」
夏海が、ノックもせずに小鞠の部屋の襖を開けた。
「あー、もう起きてるよー」
その小鞠は着替えの最中だった。もし起こしに来たのが卓だったら何かが飛んでくるシーンである。
「そっかー、でかちゃんは着替えに時間がかかるからしょうがないかー」
「でかちゃん言うな! だいたい着替えに身体のでっかいちっこい関係ないし!」
夏海の言い種に、小鞠は、ムキになって声を荒げる。
179.5cmと言い張っているが実際には180cmを僅かに越えている長身は、女性にしては少しがっしりしているが、ニアEのDカップ持ちでくびれるべきところはくびれている。そんな規格外中学生が、下着姿で、妹に向かって腰に手を当ててあられもなく正面を見せている。画像でお見せできないのが非常に残念である。
「はいはい、朝御飯の支度できてるから急いでねー」
襖を閉めつつ居間に向かって去っていく夏海を、小鞠は、ムスッとした表情で見送ってから、着替えを再開した。
越谷家は家こそ農家の造りだが、生計の主、つまり雪子の夫で卓・小鞠・夏海の父親はサラリーマン。その為すでに出勤している。
残った4人で朝食の食卓を囲んでいるのだが……
「夏海、ご飯食べてるときぐらい参考書下ろしなよ」
中3の数学の参考書を片手に朝食を採っている夏海に、小鞠が、少し顔をしかめながらそう言った。
「えー」
それに対して、夏海は、不満そうと言うには淡々とした口調でそう言った。
「いいじゃないそれぐらい」
雪子は、クスクスと笑いながら、小鞠の方を窘めるように言う。
「もう、お母さんは夏海には甘いんだから」
小鞠は、そう言って口を尖らせる表情をしてから、自分の朝食を再開した。
そして卓は黙々と味噌汁をすすっていた。
7:40、少し過ぎ。
越谷家近くの交差点。と言っても、舗装こそされているが細い農道同士のぶつかり合いで、別に信号があるわけでもない。
「あ、れんげおはようー」
「れんちょんおはよう」
小鞠と夏海が、そう声を上げると、
「にゃんぱすー」
と、その正面かられんげの声が返ってきた。
しかし、れんげは、ちょうど交差点で越谷姉妹の真正面に来たとき、
「そういえば、ウチはやっぱりにゃんぱす言ってたのん?」
と、2人に訊ねた。
「そう言えば……」
小鞠が、顎に手を当てて、軽く上を向いて逡巡するようにすると、
「ウチらから見たれんちょんは、特に違和感ないんだよね」
と、夏海が、その小鞠に一旦視線を向けて、そう言った。
「はー、そうなんな」
れんげは、少し意外そうにそう言った。
「まぁ今は気になってないだけで、この先、細かいところで相違点はあるかもしれないけど」
夏海が言う。
ちょうどその時、別の方角から声がかけられた。
「せんぱーい、れんちゃーん、おはようございまーす!」
3人が振り返ると、そこに蛍がやってきていた。
実は身長150cmとそれでも小5にしては大きめなのだが、れんげから見るとずいぶん小さくなったように見える。しかも小鞠の隣を歩くので、尚更である。
やがてバス停に到着。褪色したベンチが置かれただけのバス停はれんげも見慣れたものだったが、やがてやってきたバスは、見慣れた都落ちの中型バスではなく、かなり小さいものだった。
マイクロバスである三菱ローザに代々存在する路線仕様車で、今やってきたものは先代のそれだった。
れんげがふと、バス停の時刻表を見ると、自分が知っているより本数がだいぶ多く、始バスがだいぶ早く、終バスは遅くなっているように見えた。もっとも平日のみ。休日ダイヤはやっぱりスカスカだった。
「人だけが違うと思ったら、それ以外も違うんな」
言いながら、後部乗り口から、整理券を取りながら乗り込んだ。チン、と整理券発券機が発する音は聞き慣れたものだった。
8:20頃、旭丘分校。
既に旭丘分校の生徒たちは教室に集合していたが、その後から一穂がジョギングしつつ入ってきた。
すると、その一穂を追うようにして、ゴールドのフォルクスワーゲン タイプ1が入ってきた。所謂『初代ビートル』である。
ワーゲンは一穂のバイクも停まっている駐車スペースに止まると、右ハンドル仕様の運転席から、初老の男性が降りてきた。
「一穂く──じゃなかった、宮内先生、相変わらず精が出ますな」
ニコニコと嫌味のない笑顔で、少しくたびれたスーツ姿の男性はそう言った。
「おはようございます、伊勢崎先生。いやぁ、こう空気が美味しいと、毎日少しでも味わっておかないと損な気がして」
「はははっ、変わりませんな」
男性教諭──伊勢崎豊はそう行ってカラカラと笑った。
通常ただ『旭丘分校』とだけ呼ばれるが、実際には、“たまたま”同じ地所に存在する日和第三中学校旭丘分校と、旭戸小学校旭丘分校という、2つの学校である。
伊勢崎は一穂が分校生だった頃から中学校分校教師だった。もっとも生来ののんびりさに加えて加齢も手伝ったのか、最近は教室はもっぱら一穂に任せっぱなしだったが。
「それでは私は教室の方に」
タオルで顔の汗を拭きながら、一穂が、そう言った。
「では私は日報でも書いておきますかな」
伊勢崎はそう行って職員室に向かった。
「諸君、おはようっ! 朝の会を始めるぞ!」
教室の方から聞こえてくる一穂の声を他所に、伊勢崎は自分の職務机に向かい、『わかば』をくゆらせながら、もはや骨董品以外の何物でもないPowerMacintosh6100/66AVを起動していた。