授業中──
「ここはこのxにこっちの式の解を代入してだな……」
「あ、そっか、それで……おお、解けた」
ジャージ姿のままの一穂が、小鞠に指導していたが、
「よし、じゃあ他の問題も同じ要領でやってみろ」
「うん。ありがとかず姉」
と、小鞠の机の右側で屈んでいた一穂が顔を上げ、教室の前の方に向きを変える。
そして、続けて小鞠の前にいる夏海に視線を移す。
「おい夏海、お前にとっちゃかったるいくらいなのはわかるが、一応義務教育なんだから出された課題ぐらいはやってくれ」
例によって中学3年生の参考書を開いてシャーペンでごちゃごちゃと書き込んでいた夏海を見て、一穂は、やや険しい、困惑気な表情で言った。
「ん? ああ、それならもう終わったけど」
『基礎からわかる中1 数学』という表紙のドリルをペラペラとやりながら、夏海は一穂を振り返りつつ、素っ気なくそう答える。
「だったら先に提出してからにしてくれ」
一穂が、ため息混じりの言葉でさらに言った。
「いやだってあんまり早くても他に勉強しているしかないし、他のことでヒマ潰すにしても、れんちょんでも終わってくれないとオセロもできないし、その時でいいかなと」
一旦教卓に戻る一穂に続いて、夏海が、自分の席から立ち上がって、ドリルの課題のページを開きつつ、そう言いながら一穂と教卓をはさんで向かい合った。
「相変わらず勤勉なんだかめんどくさがりなんだかよくわからんなお前は」
一穂は、妹のひかげのような半開きの目になって、困ったような苦笑交じりにそう言った。
「しかしここまで勉強するからには、それなりに進路でも考えてるのか?」
一穂が、目をまばたきして開き直しつつ、夏海にそう聞いた。
「うーん、高校でどうなるかわからないけど、今のところ最終目標は筑波大の理工か情報かな」
「そ、そこまでビジョンがあるのか……」
サラリと答えた夏海に対して、一穂は唖然としたように、呟くように言った。
「しかし、目標があるのはいいが、ここまで来たらSラン考えてもいいんじゃないか?」
「行く自信はあるけど、んー、なんつうか東大とか色々しがらみありそうじゃん?」
一穂が気を取り直したように聞き返すと、夏海は気怠げな声でそう答えた。
「あー、お前学生運動とかめんどくさがりそうだもんな」
「そうそう」
一穂が、再び呆れたように目を半開きにしてそう言うと、夏海は口笛をピーッと鳴らしてからそう言った。
「まぁ、院生になって博士号は取れたらいいと思ってるけどね」
「なっ!」
おどけ混じりに言った夏海の言葉に、反応したのは背後にいたれんげだった。思わず立ち上がっている。
「博士(はくし)ってハカセのことなんな!? なっつんハカセになるん!?」
「んー……」
興奮して問いかけるれんげに対して、夏海は振り返りつつ、
「なんかれんちょんの思ってるそれとは微妙に違う気がするけど、そうなるかな」
と、そう言った。
「ハカセになったらすごく速く走れたり地球割ったりできるロボットとかわざとスッコケてタイムスリップするタイムマシンとか宇宙戦艦とかつくったりするんな!」
れんげは、さらに興奮して、席から乗り出し気味の姿勢で夏海に言う。
「いや、さすがにそれはマンガの世界だから……っていうか、れんちょんなんでそれ知ってんの……」
逆に、夏海は、唖然として言い、そして訊ね返した。
「ひか姉が録画してたの見たん」
「そう……ちなみにどっちの方?」
「よくわからないけど、“ついとうほうそう”って言ってたん」
「昔の方か……」
れんげとのやり取りで、事態を理解した夏海はがくん、とうなだれる。
「ひかげ録画してたのか。それ、まだレコーダーに残ってるか?」
れんげに対して、一穂が訊ねた。
「保存版って言ってDVDに落としてたん」
「そうか」
一穂の唇の端が釣り上がる。
「あれ?」
夏海が、はっと気づいたように一穂を振り返る。
「かず姉でもリアルタイムはリメイクの方っしょ? ウチらなんかネットで知ったクチだし」
「そうなんだが、一度聞くと断然、初代の方がイメージだな」
「ふーん。かず姉は渋い系が好みかー」
「好みとか言うな」
夏海の問いかけに対する一穂の答えに、夏海が呟くように言うと、一穂が一瞬糸目になってそう言った。
「……で、話が随分脱線してしまったが」
一穂がそう言って咳払いをする。
「いきなり大学に話がぶっ飛んでしまったが、高校はどうするつもりなんだ?」
気を取り直したように、一穂は、夏海にそう問いかけた。
「むしろそっちを今悩んでるんだよねー。ひか姉の行ってるあたりにするか、それともどこか都市部に出るか……」
「ほう」
一穂は意外そうに言うが、
「高校生で1人暮らしってのはなんだか家事とか手続きとか色々めんどそうだし、かと言って家(うち)から通うと、家事は気にしなくていいけど登下校に時間かかるし……」
という、夏海の言い種に、一穂と、さらにれんげまでもが呆れたにように呆然と立ち尽くした。
「なんかなっつん、“ウチの知ってる”なっつんとは全然別人に思えてたんけど、観察してると意外と根っこは一緒なんな……」
れんげがそう言うと、夏海は、口元を引きつらせたかと思うと、くるっ、と一穂の方を向いて、
「自分の実力と家庭の事情に合わせて真面目に考えたいと思います!」
と、直立不動の姿勢で、ハキハキとした口調で一穂にそう言った。
「ホントにトラウマレベルで嫌なんだ……」
それまで課題をこなしつつも、話題に耳を傾けていた小鞠が、呆れたような苦笑でそう言った。
“れんげの知っている旭丘分校の面子”で、“こちらの旭丘分校の面子”のうち、小鞠と蛍はむしろそちらを羨ましがっている。もっともれんげから見ると“隣の芝生は青い”だけなのだが。
しかし夏海だけは「なんでそんなにアホなん……」と思いつめるほどで、話題に出されるのを嫌がっていた。一穂も“だらしない自分”にショックを受けていたが、夏海のそれほどではない。
その時、それまで話題の外にいた蛍が、自分の席から立ち上がると、おずおずっと夏海の背後まで歩いてきた。
「お、どうした、蛍」
一穂が訊ねると、
「すみません、ドリル終わったんで……」
と、蛍がおずおずと課題のページを開いたドリルを差し出しつつ、そう言った。
「おお、すまんすまん。私としたことが授業中だと言うのに妙な話に没頭してしまった」
一穂がそう応える。夏海が少し避けて蛍と一穂の正面を開けると、一穂は蛍からドリルを受け取った。
「蛍、そういう時ははっきり声出して割り込んでいいよ、夏海ってサブカル混じりの話題になると止まんないから」
自分の課題を終わらせつつ、小鞠が、蛍たちの背後からそう声をかけた。
「うっさい、姉ちゃんのスマホやPC、Wi-Fiから弾くぞ!」
「そんなことしてもお兄ちゃんに直してもらうもんね」
夏海は件(くだん)の嫌な思いもあり思わず声を荒げてしまう。それに対して、小鞠も大人気なくそう言い返した。
「ま、まぁまぁ、小鞠先輩も夏海先輩も、この程度のことで喧嘩しないでください」
発端を作ってしまったかのように感じた蛍が、慌てて仲裁に入る。
「それに授業中だぞ。話題に乗ってしまった私も悪いが、私語一切禁止とは言わないが怒鳴り合いはやめろ」
蛍を支持するかのように、一穂が、若干きまり悪そうな表情になりつつも、はっきりとした口調でそう言った。
「まぁいいや、ほたるん課題終わったんなら一緒に何かして時間潰す? 将棋でもオセロでも」
夏海が、ため息を付いてから、気を取り直したように顔を上げて、蛍にそう言った。
「待ってん。ウチももうすぐ終わるん。遊ぶんなら一緒に遊ぶん」
蛍が答えるより先にれんげがそう声を上げた。机に座り直して鉛筆を走らせる。
「じゃあ、まだ結構時間あるし、れんちゃんと先輩が終わってから外に出ませんか?」
「いいよ」
蛍が提案するように言うと、夏海は、蛍にそう答えてから、小鞠の方に視線を移した。
「ってわけだから、早くしてなーでかちゃん」
「でかちゃん言うな!」
「お前ら……」
夏海の言い種に声を荒げる小鞠、そしてそれに頭を抱える一穂。
そして、卓は黙々と課題をこなしていた。
「ほい、ほいっと」
「わっ」
小鞠が焦れた瞬間に、その隙きをついて夏海がその正面から背後に移動した。
小鞠が振り返ったときには、既に夏海の手から放たれたボールが弧を描きながらゴールポストに吸い込まれていく。
「な、なっつんすごいん! こまちゃんでも防ぎきれないのん」
「まぁ、健全な精神は健全な肉体に宿るってね。勉強出来るようになるには身体もある程度動かせないと」
拾い上げたバスケットボールを指先でくるくると回しながら、歯を見せて笑いつつ、夏海は、そう言った。
「他のスポーツじゃ全然なのに、ホントひとつのことに入れ込むと強いんだよね夏海は」
悔しさ混じりの表情をしつつも、小鞠は夏海を振り返ってそう言った。
「まぁ、基礎体力だけじゃでかちゃんやかず姉にはどうやっても勝てないしね」
「でかちゃん言うな!」
耳ざとく聞きつけて、小鞠が声を荒げる。
「そっか、今のれんちゃんは知らないんだ」
蛍が、はっと気づいたように言いつつ、れんげと視線を合わせる。
「ウチが知らないことなん?」
「うん、“こっちの”夏海先輩、バスケットだけはすごい強くてね、本校のバスケ部に入ってるぐらいなんだ」
「おおー、なっつんすごいんな!」
「うん、週に2回、本校まで練習しに行ってるんだよ」
「まぁ、試合とかじゃ流石にベンチスタートがいいところだけどね」
蛍の説明に感嘆するれんげに対し、夏海は苦笑交じりにしつつも僅かに照れたようにそう言った。
「どうせならなんか球技がいいと思ったんだけど、人数揃えるのにさ、3on3なら分校だけでも人数そろうかなって始めたんだけど、入れ込んでるうちにそこそこにはなったっつうか」
指で回していたボールを両手で抱え直しながら、夏海は口元で笑ったままそう説明する。
暫くの間、夏海が、小鞠に協力してもらいつつボールを使ってパフォーマンスをれんげに披露していると、
「おーい、皆ー、給食の時間になるぞー、中入れー」
と、玄関に現れた一穂がそう声をかけてきた。
「よし、終わりの会これで終了! みんなお疲れ様だ!」
一穂が、出席簿でトン、と教卓を鳴らしながらそう言う。
つまり、放課後。
「今日は帰ったら何をしますか?」
旭丘分校を出てきた生徒たちはバス停に向かう途中。蛍が切り出した。
「うーん、今日夏海は?」
「ウチは通信講座の課題があるから、今日はパス」
小鞠が訊ねると、集団の先頭を歩いていた夏海は、軽く振り返るようにしつつ、手を上げて答えた。
「なっつんはやっぱり勉強なんなー」
れんげは夏海の隣に移動してきて、横目に視線を向けながらそう言った。
「ガチガチに根を詰めるよりは計画的に効率よく学習する。これがウチの基本方針」
夏海はれんげにそう答えた。
「その割には、手すきの時間はいつも参考書読んでる気がするんですが……」
背後から、蛍が声をかけてきた。
「これはあくまで余力を使ってるだけだからね。他にやることがあればちゃんと時間を割り当てるよ。遊びの時間だってほしいし」
「でも食事中はやめてほしいんだけど」
夏海の説明に対して、すぐさま小鞠がジト目で突っ込んだ。
「そんなことしてるんですか?」
蛍が、小鞠に聞き返す。
「朝御飯の最中はだいたい読んでるよ」
「そうなんですね。給食の時はそんなことしてないから知りませんでした」
小鞠が答えると、蛍はキョトンとしたようにしながらそう言った。
「あ、そろそろバスくるよ」
夏海は、制服のポケットからスマホを取り出してそう言った。ほとんど時計として持ち歩いているようなものだが、旭丘分校のあたりは3Gは電波が拾えている。
「誤魔化した」
早歩きになる夏海に、小鞠が再びジト目を向けて言う。
「でも、ほんとに来ますよ」
蛍もいい、4人全員が小走りになる。
4人がバス停に着くのとほぼ同時に、バスがやってきた。
れんげからしてみれば増えているが、それでも1時間に1本が基本、ラッシュ時間帯に2・3本あるかどうかである。
「あちゃー、ぶんぶくさんが来たよ」
やってきたバスを見て、夏海がそう言った。
それは2代目三菱ローザの路線仕様だった。
「あのバスぶんぶくさん言うん?」
れんげが夏海に訊ねる。
日和地区の振興策として公共交通機関のテコ入れが行われたのだが、その結果、他所から路線仕様のローザをかき集めることになった。殆どが先代に当たる3代目だったが、数台、地方都市出身の2代目が混ざり込んだのである。
マニアなら垂涎モノの光景だろうが、子どもたちにとってはエンジン音がやかましい割に加速の鈍い、くたびれたポンコツでしかない。もっとも3代目にしても今の中学生より年寄りなのだが。ちなみに現行型4代目も新車で2台だけ導入されている。
「っていうか、そもそもぶんぶくさんって言い始めたの、れんちょんだったんだよね」
「? ウチ知らないのん」
夏海の言葉に、れんげが小首をかしげた。
「うん、だから……“こっちの”れんげがね」
背後から、小鞠が苦笑しながらフォローするように言う。
「おお、そういうことなんな」
そう言いつつ、れんげは開いた後部乗車口に上がり、整理券を取る。
「? どうしたんですか、夏海先輩」
夏海は、先頭を歩いていた割に、なかなか乗り込まず、バスの扉の縁に手をかけて俯いている。その夏海に、蛍が少し心配気に声をかけた。
「いや……もし“入れ替わり”だとしたら、“こっちの”れんちょんが“あっちの”ウチのこと見てるのかと思うと……」
「そ、そこまで嫌なんですね」
蛍は車外スピーカーから運転手に「お客さーん、早くして下さーい」と言われるまで、沈む夏海の背中を苦笑しながら見ているしかできなかった。