第1話前編 各務原姉妹と管釣りデート その1
1月も終盤に差し掛かりそろそろ2月に控える定期テストが見えてきたある日の夜、春彦は自室でバイトのない次の週末に向け釣行計画を立てていた。
「うーむ、次は何行くか… 海はこの前行ったしあんま遠出する気分じゃないしな。とはいっても川はまだ禁漁期だし…」
色々と釣り場を吟味する春彦だったが、ふとあることを思い出しカバンに入れいた財布からあるカードを取り出す。
「おし、やっぱり貯まってる」
それは管理釣り場のポイントカードだった。管理釣り場を利用する毎ににスタンプが押され、10個スタンプが貯まると一日分の半額券になるというもので、春彦のカードにはそのスタンプがちょうど10個押されていた。
「やっぱ親父と2人で行ってるから早く貯まるよなー」
その管理釣り場では別々のカードに貯まったポイントを1枚のカードに総合できるのだが、春彦は毎回父親と行っているおかげで本来は10回利用しなければならないところを半分の5回でポイントを貯めることができた。払う金額自体は10回分と変わらないのだが行く回数は半分で済むというわけなのだ。
とまあそんな具合にちょうどよく手に入った半額券を使うつもりでいた春彦だったが…
「そういや、なでしこと行った時もニジマスが釣れたっけな…」
トラウトの管理釣り場へ行く計画を立てようとした春彦は、以前なでしこと本栖湖で鯉釣りに行ったときのことを思い出した。
「誘ってみるか…?」
釣りをしている時のなでしこの楽しそうなあの顔が頭に浮かび、春彦はこの自然とまた彼女を釣りに誘おうかと考え出す。
なでしこにメッセージを送ろうとスマホを手に取る。自分から誘うというのはデートのようで少し気恥ずかしくはあったが、色気より食い気ななでしこに限ってそういった勘違いはないだろうと、結局春彦はなでしこを釣りに誘うメッセージを送った。
『行くよ!海でも川でもどこでも行くよ!』
「はやっ」
30秒もしないうちになでしこから返信が返ってきた。料金が半額になるなら用事がなければ二つ返事で来るだろうとは予想してはいたが、魚釣りに行かないかと誘われてこの食いつきようはとても女子高生と思えないアグレッシブさだ。
『じゃあ持ち物とか集合時間とかはあとで言うから』
『オッケー! あぁ~魚釣り楽しみだなぁ~』
そして週末、釣行当日の朝、春彦は自宅の前でなでしこが来るのを待っていた。もうすぐ着くというなでしこからのメッセージから数分経つと、春彦の家の前に一台の車がやってきて停車した。
「ハル君おはよー。ほら、寒いから早く荷物積んで乗って!」
「あ、ああ…」
どこか緊張した様子でなでしこと挨拶を交わす春彦は、トランクを開けて荷物を詰め込むと、後部座席のドアを開けて車に乗り込んだ。
「おはよう春彦君、今日はなでしこのことよろしくね?」
「お、おはようございます…! そのっ、こちらこそこんな朝早くからすみません…」
「気にしないで?さ、車出すからベルト締めて」
「はいっ…!」
そう、車を運転していたのはなでしこの姉であり春彦の憧れの女性でもある桜だった。本来は春彦の父が車を出す予定だったのだが、何から何まで向こうに任せるのは悪いとなでしこから話を聞いた桜が送り迎えを買って出てくれたのだ。
憧れの桜の運転する車で送ってもらうなど本来は喜ぶべきことなのだが、ド緊張している春彦にとってそれは幸せなのかといえばなんとも微妙なところか。
そんなこんなで初めは落ち着けずにいた春彦であったが、そのことにまるで気が付かないなでしこが話をしてくれるおかげで、徐々にではあるがこの空間にも慣れてきて緊張もほぐれてきた。
「早く着かないかなー、釣れるといいなぁ」
「管釣りだし一匹も釣れないってことはまずないよ」
「大物が釣れちゃうとかあるかな?」
「あそこの釣り場はアベレージが大きいし、本栖湖で釣ったくらいのももしかしたら釣れるかもしれないな」
釣りをする前から楽しそうに話をして期待を膨らませているなでしこ。
「あ、でもルアーフィッシングって本物のエサじゃないんでしょ? 初めてでちゃんと釣れるかなぁ…?」
「まあ、基礎さえ覚えれば大丈夫だと思うし、ちゃんと釣れるよう俺が教えるよ」
「そっかぁ。ハル君が教えてくれるならできそうな気がする! それに家でちゃんと予習もしてきたし!」
「予習って、お前ほんとに教えたの見て勉強してきたのか?」
「もっちろん!」
実は釣りに行く数日前、少しでも上手く釣りたいというなでしこの頼みで、春彦は釣り初心者のなでしこにもわかりやすいような初心者向けの動画のURLを教えていたのだが、しっかりとそれを見て勉強してきたのは春彦にとっては少し意外だった。
「へぇ、じゃあ俺が教えることはそこまでないかもしれないな」
「魚が釣れたら『フィーッシュ!』て言えばいいんだよね?」
「それは恥ずかしいからやめろ」
「えぇーせっかくこの帽子も家で探して持ってきたのにー…」
「あの人のそういうミラクルなとこまで真似しなくていいから」
あくまで春彦はエリアトラウトの基礎を分かりやすく解説しているところに目をつけて教えたのだが、感性豊かななでしこは釣り方よりも動画に出てきたミラクル釣り師の強烈なキャラクターの方が印象に残ってしまったらしく、わざわざ彼のトレードマークであるカウボーイハットまで持参していた。
「ま、なんも分かんなくても俺が教えるからいいんだけどさ」
「ちゃんとそれ以外も覚えてきたよっ!?」
なでしこは慌てて動画で予習してきた釣り方をあれやこれやと説明してアピールしだし、春彦はその様子を微笑ましそうに見ていた。
「そういえば春彦君、釣り場は釣りする人しか入れないの?」
「いえ、釣りをするのは有料ですけど、しない人も無料で入場して見学できます。見学するのが退屈なら、釣り場にあるロッジがレストランになってますし、近くにもいくつかお店とかあるんで、俺となでしこが釣ってる間車で回ってみたらどうですか?」
「そうなの、ならちょっと見学したら色々回ってみようかしら」
興味を示した桜に春彦はすかさず事前にリサーチしておいたおすすめの店を紹介しようとスマホを取り出すが、桜は少し考えたあと意外な質問を春彦に投げかけた。
「ねえ春彦君? 釣りをするのにはいくらぐらいするの?」
「えっ? ええと… 3時間から利用できて、3時間2300円、半日で3000円、1日で4000円ですけど… 桜さん、やってみたいんですか?」
「なでしこがやたら楽しみにしてるからちょっとね。じゃあ3時間だけやってみようかしら? 悪いけど春彦君、なでしこと一緒に私にも教えてもらえない?」
「はいっ! 俺でよければっ!」
「よければって、教えられる人ハル君しかいないよ?」
「やかましいっ…!」
急遽桜も釣りをすると言い出したことで、なでしこだけでなく桜にも釣りを教えることになってしまった春彦。憧れの桜相手に果たして春彦はミラクル釣り師のようにきちんと釣り方をレクチャーできるのだろうか。
身延町から車を走らせること約1時間、春彦達3人は甲府市にある春彦行き付けの管理釣り場に到着した。受付を済ませて釣り場に入ると、敷地内の大小4つの池では朝イチでやってきた釣り人たち15人ほどががすでに竿を出していた。
「うわぁ、結構広いねー。あっ、ここ富士山が見えるんだ!」
「まだ早いのにもうこんなに人が来てるのね」
「基本朝イチが一番釣れますから。少しでもいい釣座を取ろうと営業前から待ってる人もいるんです。でも今日は土曜にしちゃ少ない方ですよ」
2人に説明しつつ、春彦は釣り場を見渡して手頃な釣座を見つけてその場所に2人を連れて荷物を下ろした。そして手早く3人分のタックルを組み上げると、なでしこと桜にそれぞれタックルを渡した。
「うわっ、鯉釣りの竿と全然違う! 細くて軽いしそれにすっごく柔らかい!」
トラウトロッドのオモチャのような軽さと柔らかさに、前回鯉釣りを経験したなでしこが驚きの声を上げる。
基本的にエリアトラウトは軽いルアーを飛ばすことが前提となるため、使用する専用ロッドは非常に細く柔らかい作りになっている。竿の柔らかさでロッドがよく曲がるため、重りが軽くても振りかぶった反発が生まれやすく、トラウト用の軽いルアーでも容易に飛ばすことができる。硬さや長さといった竿の性質というのは、仕掛けや対象魚によって用途別に細かく種類があり、千差万別なのだ。
「地面においてうっかり踏んづけでもしたら大変ね。春彦君のだし気をつけて扱わないと」
「いやいや! たかが一本や二本折れても平気なんで、気にせずガシガシ使っちゃってください!」
嘘である。
桜となでしこに貸したのはそれなりに値が張るロッドで、本当は折れたら春彦としては大変ツライ。だが桜の手前そんなことはおくびにも出さずにやせ我慢しているのだ。ちなみにもしこのロッドが折れたなら、一本で諭吉2人ほどが無駄になる計算である。
説明を終えたところで春彦は早速2人へのレクチャーを開始した。
「ルアーフィッシングっていうのは基本的にルアーを飛ばして、それをリールを巻いて手前まで引いてくる釣りです。なんでまずは基本となるキャスティングから教えていきます」
「おぉー、なんか本物の先生みたい!」
桜にも説明するため自然と敬語になる春彦のレクチャーは、なでしこの言うようにさながらインストラクターのように見えなくもない。
「持ち方は中指と薬指の間にリールの足を挟んでこう。なでしこは覚えてるよな?」
「はい!ちゃんと覚えてます先生!」
「先生はやめろ…」
前回の鯉釣りでスピニングリールを扱いを覚え、一応事前に予習もしてきたなでしこが得意げにロッドを掲げる。
「まず竿先からラインを15センチくらい垂らして、人差し指にラインを引っ掛けてベイルアームを起こす。これで指を離せばラインが出る状態になります。そしたらそのままロッドを上に振って、前に振りかぶって時計の10時くらいの位置で放すっ!」
春彦がロッドを振りかぶるとラインがリリースされ、糸の先についたルアーが低い弾道を描いて綺麗に飛んでいった。
「おぉー! かっこいいー!」
「とまあこんな感じです。基本的には肘から先、スナップを効かせて手首を振るだけで飛ばせます」
「よーし、早速やってみよっと」
春彦のレクチャーを聞いたなでしこがルアーのキャスティングに挑戦する。
「それっ!」
鯉釣りをしたぶん経験を生かして上手くできただろうと気合十分でロッドを振りかぶるが、ルアーは前には飛ばずにボチャンという音を立ててなでしこの目の前の水面に落下した。
「あ、あれぇ…?」
「速く振ろうとして力みすぎたな。もっと力を抜いて、糸を放す時に惰性を残さずピタッとロッドを止めて。飛ばしたい方にピタッと指差しするイメージでもっかいやってみな?」
「うん! えっと… 振ったらピタッと!」
春彦に言われた通りにキャストすると、先程とは打って変わってルアーが前方に綺麗に飛んでいった。
「やった! できたよハル君!」
「おし、今度は上手いぞ」
「なるほどね… ええと、よっと… こんな感じかしら春彦くん?」
「いや、普通にできてるんですけど…? 桜さんもしかしてやったことあります?」
「いいえ、これが初めてだけど」
驚いたように桜のキャスティングを褒める春彦だが、別に彼女を贔屓してよいしょしたわけではない。ただ純粋にそういう感想が出てしまうほど彼女のキャストはそつない出来だった。
「むぅー…」
桜のことを褒める春彦になでしこは少し気に入らない様子で唇を尖らせている。
「どうした?」
「私のキャスティングも褒めてほしいなぁー?」
「いや褒めたろ」
「私褒められて伸びるタイプだし、もっと褒めてほしいかも」
前述の通りなにも春彦は桜を贔屓しているわけではないのだが、なでしこにとってはちょっと不満なようだ。
「じゃあ次はもっと褒めるから…」
「春彦君、その子厳しくしたほうがいいタイプよ」
「えぇーっ!? お姉ちゃんん~~…」
桜からのアドバイスに涙目になるなでしこ。別にこれは意地悪でもなんでもなく、桜はなでしこの性格を知った上でそう言っただけでありちゃんと事実に基づいた発言なのである。なのではあるが、実はなでしこの意図は2人とはちょっと違うものであったり…
「さて、じゃあ次はキャストした後ですけど、キャストしたらまずベイルを戻して、軽く竿を弾いてラインを水面から離してゆっくりと一定の速度で巻いてくる。スプーンの釣りは基本なんだけど…! …っとおー釣れちゃったな」
「え、もう!? まだ一回しか投げてないのに!」
「今はいい時合だから結構簡単に釣れるぞ?」
見本の一投目で春彦が早くも魚をヒットさせ、そのままスムーズなやりとりで魚を岸際まで引き寄せていく。
「釣れたんでついでに取り込みも。魚を引き寄せたら左手にネットを持って、こうやってロッドを後ろに引いて網に入れるっと、ざっとこんな感じです」
「「おぉー」」
見事な手際になでしこと桜は思わず声を上げて取り込まれた魚をまじまじと見やった。
釣り上げたのは25センチほどの小型のニジマスで、春彦のルアーはお手本のようにしっかりと上顎にかかっていた。
「釣り上げたら魚をむやみに陸にあげずに水につけたままあまり魚体に触れないよう手早く針を外す。あんま魚に触りたくない場合はこのハサミみたいなフォーセップとかを使って下さい。」
「私は魚大丈夫だよ」
「私は使わせてもらおうかしら」
「じゃあ桜さんに渡しておきますね。さて、んじゃ2人も実際にやってみましょう」
釣り上げるまでの大まかな流れを説明を終えると、釣り初心者のなでしこと桜も教わった通りにキャスティングして釣りを始めた。
「わっ! いまゴンってなったよ!」
「それがアタリだな。もっとググって引かれたらさっき俺がやったみたいに素早くロッドを立ててアワセてみ?」
「あら?もしかしてこれ釣れてる?」
「あっ、釣れてます釣れてます! 竿を立ててリール巻いて引き寄せて下さいっ」
なでしこにアタリが来た横で早くも桜が魚をヒットさせる。なんとか最初の一匹を釣らせようと必死な春彦とは反対に、いたって冷静に指示を聞きながら桜は魚の抵抗をいなし難なく取り込みを成功させた。
「あぁーお姉ちゃんに先越されたぁー…」
「ふぅ、こんな大きさでも結構引くのね」
「おめでとうございます桜さん」
見事桜が釣り上げたのは30センチほどの小型のニジマスではあったが、釣り上げた桜本人はニジマスの小さな魚体に見合わぬ引き味に少しばかり驚いたようである。
「ここの魚は状態がいいのが多くて小さくても結構引くんです」
「ええ、確かにこうして見ると綺麗な魚ね」
釣り上げた魚は小型ながら虹鱒の名にふさわしい綺麗な赤と緑の模様が入っており、ヒレの欠損や傷もない良好な個体だった。
「なるほどね、これは結構楽しいかもしれないわ」
「いいなぁお姉ちゃん… あぁっ!? あ~またきてたのにぃ~…」
桜の方を気にしていたなでしこはまたアタリを逃してしまった。
「ほら、一回逃しても集中を切らすなって。巻いてりゃまた食ってくることも多いから」
「う、うんっ… 集中集中…」
春彦に諭されなでしこは手元に神経を集中させてリールを巻き上げていく。
「きたっ! 今度こそきたよーっ!!」
ルアーを回収する直前、岸から僅か2メートルほどのところで魚がなでしこのルアーをひったくった。今度こそしっかりとアワセを決めたなでしこは、興奮して喜びながらも春彦の教え通りに魚を引き寄せて取り込みを成功させた。
「やったぁーっ!」
釣れたのはまたしても小型のニジマスではあったが、初めてルアーで釣った魚になでしこはとても嬉しそうな笑顔で喜びを表現した。
「な? 釣れたろ?」
「うんっ! ハル君の言う通り、集中だねっ!」
「うむ、集中は大事だ」
こうしてなでしこも一匹目をキャッチし、基本を覚えた2人は20分も続けると釣りに慣れてキャストなどの動作が様になっていた。
「そういえば、釣った魚は食べられるのハル君?」
「ああ、持ち帰って食べることもできるし、あっちのバーベキュー場で焼いて食べることもできるぞ?」
「ほんとにっ!? じゃああとで焼いて食べようよ~?」
「んじゃ昼になったら向こうで焼いて食べるか」
後で食べる鱒の塩焼きを想像してよだれを垂らすなでしこ。
「あ、でも持ち帰りの分も欲しいなぁ…」
「普通にたくさん釣れるから大丈夫だって」
「そっかぁ、じゃあ3人で頑張って100匹くらい釣ろーっ!」
「そんな釣れるわけないでしょ…」
「いや、一人でも普通にそのぐらい釣るんで3人ならいけますよ?」
桜の言葉を否定してあっさりと言い切った春彦の言葉に、食への妄想がなでしこの頭の中いっぱいに広がっていく。
「100匹釣れたら2日はニジマス食べ放題だよぉ~」
「いや持ち帰れんのは一人10匹までだから… てかお前んちは100匹を2日で食えんの…?」
50ニジマス/日という常識外れの消費ペースに春彦は若干引き気味になるが、あながち冗談でもないのではと思えてしまうところが各務原家の怖さといったところか。
1時間ほど経過し時刻が午前9時を回った頃、それまでコンスタントにきていたアタリが一気に減り、なでしこと桜の釣るペースが目に見えて落ち始めた。しかしそんな2人の横で朝イチよりはペースダウンしているもの、春彦は未だにペースよく魚を釣り上げている。
「私はとお姉ちゃんは釣れないのにハル君は相変わらず釣れるね?」
「時間帯もあるけどそろそろルアーを変えた方がいいかもな。ずっと同じのばっか投げてると魚が見切って反応しなくなんだよ」
「なるほどー。でもこんなにたくさんある中からどうやって選ぶの?」
「状況から判断して色や重さ、形と色々試してみる感じかな」
釣れるルアーというのは状況によって変わるためこれといった選び方の正解はないのだが、ある程度の傾向として魚の活性が高い時は派手な色、渋い時には色のトーンを落としサイズを変えてシルエットを小さくしたりすると釣れる場合が多い。とにかく色々なルアーを試して当たりを探していくのだ。
「あ、この色は反応良いわね」
「俺が使ってるのと似たカラーですね、釣れなくなったらまた変えてみて下さい」
「ハルくーん、私の方はやっぱり釣れないよ〜」
「じゃあスプーンじゃなくてクランク使ってみるか?」
「クランク? 回すの?」
「そのクランク違うわ」
なでしこのヘルプを受け、春彦はスプーンが入っているのとは違うケースをタックルボックスから取り出すと、その中に入っていたスプーンとは異なるプラスチックのルアーをつまみ上げた。
「わぁ、これカワイイ~。こんなのが釣れるの?」
「ああ、ちょっと試してみ?」
クランクベイトはスプーンと並んでエリアトラウトにおいてとてもベーシックなルアーのひとつだ。スプーンとの違いは動きもそうだが、空洞のプラスチックボディから生まれる高い浮力が特徴で、巻くのを遅くするほど沈んでしまうスプーンとは対照的にクランクはゆっくり巻くほど浮力が働いて浮くのだ。この特性を利用してスローに
攻めることでやる気のない魚が口を使う場合がある。
渡されたクランクを付けたなでしこが再びルアーをキャストする。
「基本はスプーンと同じでゆっくりと一定のペースで巻く。このルアーならさっきより気持ち遅めにな」
「ゆっくり、ゆっくり…」
言われた通りに巻いていると、突然明らかにルアーの引き抵抗を超えた力でググッと竿先が引き込まれ、すかさずなでしこがアワセを入れた。
「きた!きたよハル君!」
久しぶりのヒットに嬉しそうな声を上げるなでしこだが、先程のようにすんなりと魚が寄ってこない。ドラグ音が響いてラインがリールから引き出されている。
「な、なんかさっきより大きいかも!?」
「ドラグはちゃんと調整してるから落ち着けな。鯉釣ったときみたいに上手くいなしてけ」
魚のサイズ自体は先程より大きいようだが、引きや糸の引き出され方からそこまで大物でもないと判断した春彦は、あえてランディング(取り込み)を手伝わずに隣でなでしこを見守る。
ほどなくして寄ってきたのは40センチには届かないくらいの中型のニジマスだった。暴れ回って疲れたのかもうそれほど抵抗せずに、なでしこが伸ばしたネットにすんなりと収まる。
「やったよハル君! これ結構大きくない?」
「36センチってとこか。まあまあのサイズだけど、とりあえず今んとこ今日イチだな」
「ふふん♪ 今日から師匠と呼んでくれていいんだよハル君?」
「ここはこの倍ぐらいのやつだっているんだぜ? 調子乗ってると俺どころか桜さんにも抜かされるぞ?」
なでしこが釣ったのはアベレージより少し大きいサイズではあるが、それなりのサイズを釣ったのがよほど嬉しいらしく写真まで撮って喜んでいる。
「さて、俺もそろそろデカイやつとか狙ってみるかな」
「ふふ、ハル君さては結果クヤシイのですかな?」
「お、言ったな? さっきのよりデカイのあっさり釣ってやるから」
そう言って春彦は小さなルアーケースとネットを持って他のポイントへと移動して行った。そして10分ほどしたところで戻ってきた春彦の手には、なでしこが釣ったものより明らかに大きな魚が入ったネットが握られていた。
「ほら、釣ったぞ?」
「えーっ!? なにこの魚!?」
魚が弱らないよう水に入れられたネットの中を見てなでしこが驚いて目を丸くする。
春彦が釣った魚は大きさも立派だったが、それよりも目を引くのは魚体の模様だった。形そのものはニジマスのそれだがその魚体は鮮やかな山吹色で、魚に詳しくない人が見れば熱帯魚かなにかと勘違いしてしまいそうな姿だった。
「アルビノって聞いたことないか? こいつはニジマスのアルビノ個体なんだよ」
アルビノ。メラニンの生合成に関わる遺伝情報の欠損により先天的にメラニンが欠乏する遺伝子疾患で、この疾患を持つ個体は体の色素が抜け白くなるのだが、ニジマスの場合は白ではなく朱を帯びた黄色となる。そして突然変異で偶発的に生まれたニジマスのアルビノ個体を養殖したものが今春彦が釣り上げたようなニジマスなのだ。
「へぇー、普通の魚に混じって黄色っぽいのが泳いでたけどこれだったのね?」
「はい。ちょっとレアなやつですけど、頑張って狙ってたら釣れました」
桜もいる手前謙虚に振る舞う春彦だが、その表情はやはりどこか得意げに見える。内心はかなり嬉しくていい気分に違いない。
「狙って… ってどうやって?」
「ああ、ミノーを使ったんだよ」
なでしこに尋ねられた春彦は、先程のクランクとは異なる小魚に似た細長いプラスチックのルアーをつまんで見せた。
「このミノーはスプーンやクランクとは違って、ロッドを動かしてアクションさせるタイプのルアーでな。まあちょっと見てみな」
春彦がロッドから少し糸を垂らしルアーを水中に入れた状態で鋭く竿先を動かすと、水中のルアーはまるで小魚が逃げ惑うように左右へ素早く動いた。
「この動きで魚の捕食スイッチを入れて食わせるんだ」
「ほえー、本物の魚みたい」
ミノープラグとは細身の小魚を模したプラスチック、または木材で作られたルアーで、種類によってアクションの違いはあるものの、基本的には肉食魚が好む小魚の泳ぎを模した動きをする。春彦がアルビノを釣り上げたミノーはその中でも能動的にアクションさせるタイプの種類で、上手くアクションさせればピンポイントで狙った魚を反応させることもできるのだ。
「とまあミノーイングはそういう釣りなんだが… やってみるか?」
「うん!」
「じゃあまずは俺が手本を見せるから」
春彦は見やすいようにわざとミノーを岸際にキャストすると、ツンツンと小刻みに竿先を振ってルアーをアクションさせてみせた。
「これがトゥイッチング。小刻みに動かして移動距離を短めにより長く魚にアピールするやり方だ」
「なるほどー」
「もう一回やるからよく見てな」
春彦はそう言って今度は少し遠くに投げて魚のいる場所にルアーを通しトゥイッチする。すると何匹かの魚が小刻みに動くミノーに反応し、目の色を変えてミノーを追ってきた。
「おぉー! 魚が付いてきてる!」
そして驚くなでしこの目の前で1匹の魚が引ったくるようにしてミノーに食いついた。針を外そうと魚が暴れバシャバシャと水飛沫が上がるが、春彦は意に返さず引き寄せるとネットを使って一気に取り込んだ。
「とまあ上手く動かすとこんな風に食ってくるわけだ」
「すっごーい! 簡単に釣れた!」
魚がルアーに食らいつく瞬間を間近で見たなでしこはその迫力ある光景に思わず声を上げ拍手した。
「あれ?これもニジマスとちょっと違う?」
「こいつはブラウントラウトっていう、ニジマスとは別の種類のトラウトだ」
「そうなんだぁ。そういえばここの魚って何種類くらいいるの?」
「んー、たしか6種類くらいだったかな」
「鱒ってそんなに種類がいるのね」
「日本原産のに加えて交雑種とかもいるんで、一口にトラウトといっても結構な種類がいるんですよ」
そんな豆知識を披露しながら春彦は釣った魚をリリースし、なでしこに自分が使っていたタックルを差し出した。
「よし、じゃあこれ使ってやってみ?」
「? 交換しなくてもルアーを私のに付け替えればいいんじゃないの?」
「そのロッドじゃミノーを扱うには柔らかすぎんだ」
ロッドで細かくアクションを付けるミノーイングにおいては、スプーンやクランクで使う柔らかいロッドでは竿の動かしてもロッドが吸収してしまうため思うようにルアーを動かせない。なので一般的にミノーイングでは硬めのロッドを使うのである。試しに春彦がロッドを振ってみせると、スプーンを使っていたものと比べて明らかにしなる量が少なく硬いことが見て取れる。
タックルを手渡されたなでしこは早速ミノーをキャストし、春彦の指示に従ってロッドを動かしてルアーをアクションさせようと試行錯誤を始めた。
「こんな感じかな?」
「ちょっと水深を外してるな。トゥイッチする前にもう少しリールを巻いてルアーを潜らせて、水草のすぐ上を通すようなイメージでやってみ?」
春彦がやったようにルアーをアクションさせようと頑張るなでしこだが、基本的にリールを巻くだけだったスプーンやクランクとは勝手が違い、魚を反応させることはできても食わせるまでには至らずなかなか魚をヒットさせることができない。
「うぅー、難しいなぁ…」
「うーん。漫然と動かすんじゃなくて、魚の反応を見ながらアクションさせるイメージしてみ? 逃げ惑う動きで魚を興奮させて、一瞬止めたり小刻みに震わせたりして食わせる隙を与えるんだ」
「よーし、もう一回!」
春彦の話を反芻しながらなでしこは再びルアーをキャストをしてアクションを加えてく。狙った水深までルアーを沈めトゥイッチングをして魚にアピールすると、ルアーの動きに本能的に反応した魚が付いてきた。しかし岸際まで追っては来たのだが、後もう少しというところで魚が反転して行ってしまう。
「あぁー惜しいっ」
「今の魚を狙ってすかさずキャストして。今度は岸際まで集中を切らさず、誘い続ければ多分食うよ」
すぐさまなでしこが先程の魚を狙ってキャストする。ルアーが動き始めると興奮状態の魚がそれを捉えようと何度も突進を繰り返しまた岸際まで追いかけてきた。そして食わせる間を作ろうとなでしこがアクションを止めた瞬間、惰性でフラフラと姿勢が崩れたミノーに追ってきた魚が猛然と襲いかかった。
「やった!」
岸際で大きな水飛沫が上がりなでしこのロッドが大きく弧を描く。ドラグ音が鳴りラインが引き出されるがまだそこまでのサイズではなく、少し経つと疲れてきたのか抵抗が弱まり引き寄せられてきた。
「やったー! ミノーで釣ったよハル君!」
「この模様… これもニジマスとは違う魚?」
「ええ。ブルックトラウトって種類です」
釣れたのはイワナに似た魚体に背びれの虫食い模様が特徴のブルックトラウトで、鼻曲がりしはじめた40センチほどの良型だった。
「ハル君見た!? 目の前で釣れたよ!」
「ああ、最後の止めで上手い具合にルアーがふらついたのが効いたな」
「難しかったけど釣れるとすっごい嬉しいね!」
なんとなく釣れたのではなく、試行錯誤して狙って釣った価値ある一匹になでしこは満面の笑みを浮かべる。ミノーイングに挑戦したなでしこは図らずも自然と釣りの醍醐味を体感していた。
そんななでしこをどこか懐かしむような眼差しで見つめる春彦。今でこそかなりの腕前である春彦ではあるが、最初は釣りのいろはも分からず、あれこれ釣りの本を読んで試行錯誤した時代があり、喜ぶなでしこの姿が過去の自分と重なって見えていた。
「よかったな釣れて」
「うん! ハル君が真剣に教えてくれたおかげだよー」
「そんな真剣そうだったか?」
「私にはそう見えたよ?」
なでしこには自分が釣りをする片手間で気楽に教えているつもりだったのだが、知らず知らずのうちに春彦は自分が釣りをするのも忘れて真剣に彼女に釣り方を教えていたようである。
「そうか… まあなんつーか、せっかく来たのに釣れないと申し訳ないだろ?」
「そんな気を使わなくてもいいのにー」
なんとなく恥ずかしくなって適当に誤魔化した春彦だが、なんとなく視線を外すと微笑ましげにこちらを見る桜の姿が…
(ハッ…!? なにかあらぬ誤解を桜さんにされている…!?)
「違います!違います!」と言わんばかりに必死に表情と身振りで伝えようとするが、どうやらあまり意味はいようで、千明の件に続いてまたしても憧れの桜に勘違いされてしまう春彦であった。
『フィッシングリゾートにお越しの皆様にお知らせいたします。まもなく放流が行われますので放流車の通行にご協力お願いいたします』
「放流?」
釣り場に流れるアナウンスになでしこは何か起こるのかと首を傾げる。
「新しく魚を放すんだよ。チャンスタイムだからルアーを派手な色のに変えときな」
「う、うん」
放流の意味が良くわからないまま、なでしこは言われたとおりにスプーンを赤金の派手なものに付け替え放流とやらを待った。するとアナウンスから少しして荷台にタンクのようなものを積んだ小型のトラックが釣り場に入ってきた。そして水際に停車したところでスタッフが太いホースのようなものを伸ばすと、そこから水と一緒にドバドバと大量の魚が釣り場に放流された。
「わぁー! ああやって魚を池に入れるんだね!」
「面白がってる場合じゃないぞ? ほら、そろそろこっちにも来る」
春彦達がいる場所にも放流車がやってきて魚が放流される。すると放流されて数分もしないうちにそれまでの釣れ方が嘘のように入れ食い状態となり、水面が一気に賑やかになってきた。
「また釣れた! 一投一匹だよ!」
「どうだなでしこ! これが放流だ!」
「ここまで釣れると流石に忙しいわね…」
どのルアーを投げようと、どんな釣り方だろうととにかく釣れまくるフィーバー状態。価値ある一匹を追い求める釣りもいいが、こういう釣りもまあ楽しいもので3人はしばしの間釣れまくるこのひとときを楽しんだ。
「なあなでしこ。今せっかく釣れてるし、ちょっと勝負しないか?」
「勝負ってどんなの?」
「早掛け対決だ」
早掛け対決とは、その名の通り誰が一番早く一匹釣り上げるかを競う競争であり、こういったグループでの釣りではお決まりのゲームなのだ。
「ビリは勝った2人にジュース奢るってのはどうだ?」
「フフフ、受けて立つよハル君!」
というわけで春彦、なでしこ、桜の3人で行うこととなった早掛け対決。圧倒的な釣り経験を誇る春彦が下馬評通りあっさり勝ってしまうのか… はたまた放流効果で意外にもなでしこと桜が先に釣ってしまうのか… 果たしてビリになって缶ジュースを奢るハメになるのは一体誰なのか… 後編に続く…!!
お久しぶりです。
色々言い訳したいとこですが、とりあえず更新が遅れて申し訳ありませんでした…
今回からルート分岐します。当分はそっちがメインになりそうですが、本編の方も書き次第ちょくちょく追加する予定です。