春彦の提案から始まった缶ジュースを賭けた早掛け対決。放流直後なのでなでしこと桜にもチャンスがあるかと思われたのだが、やはり一番に魚をヒットさせたのは春彦だった。
「きたぞー?」
「はやいっ!? やっぱりハル君かぁ~」
初心者のなでしこと桜をよそに一投目であっさりと魚を掛けた春彦。しかしあともう少しでネットインというところで、針が外れ逃げられてしまった。
「あ、バレた。まあいいか」
「むぅー、逃げられたのに余裕そう…」
基本的にカエシのないバーブレスフックが義務付けられるエリアトラウトではバラシは日常茶飯事。1番に釣らずともとりあえずビリにならなければ良いので、春彦は特に焦るでもなく余裕の表情だった。
しかしそうやって春彦がバラした直後、次に魚をかけたのは春彦ではなく意外にも桜だった。
「あ、来ちゃったわね」
「あぁーお姉ちゃんまでぇ… 逃げろー、逃げろー…」
負けたくないなでしこは桜の方に向かって怪しげな念を送る。だがその願いは叶わず、桜は引き寄せた魚をすんなりとネットに収め、下馬評を覆して桜が一番に釣り上げてしまった。
「ありゃま、先に釣られちゃいましたか」
「運が良かっただけよ。でもとりあえずこれで1抜けね」
桜が抜けたことでなでしこと春彦は一騎打ちの勝負となった。春彦の方は特に焦る様子もなく釣りを続けているが、なでしこの方はというと相手が春彦なだけにプレッシャーを感じていた。
「あっ! うあぁ~今きたのにぃぃ~」
プレッシャーで焦っているせいか、なでしこはせっかく来たアタリにも冷静にアワセられない。横では今にも魚をヒットさせてしまいそうな余裕綽々といった雰囲気の春彦。このまま順当になでしこが負けてしまうのかと思われたその時、彼女の脳裏に予習で観た動画のミラクル釣り師の言葉がよぎった。
『竿にアタリが来てからじゃ遅い!アタリはラインで取るんだ!』
ロッドを水面と平行にして、ラインのたるみの変化でアタリを取るテクニック。思い出せば春彦はスプーンを使うときは、ずっとそうやってロッドを寝かせていたことになでしこはふと気がついた。そこでなでしこは藁にもすがる思いで、見よう見まねでそのやり方を試してみることにした。
(たしかこうやって、竿をまっすぐにして糸のたるみをよーく見て…)
そしてルアーの着水地点から2メートルほど引いてきたとき、それまでほぼ変化のなかったラインが不意に不自然に大きくたるんだ。すかさずなでしこは反射的に鋭くアワセを入れる。
「よしっ! きたよーっ!!」
「こっちもきたぞー」
なでしこに待望のヒットが訪れるが、ほぼ同時に春彦も魚をヒットさせダブルヒットとなる。どちらが先にバラさずに釣り上げられるかの勝負になるが、すんなりと魚を寄せる春彦に対してなでしこの様子は違っていた。まるで魚が寄ってこず、それどころかリールからドラグ音が響き、ラインがどんどんと引き出されてしまっている。
「ハ、ハルくーんっ!?」
「ムッ… これは結構なサイズかもしれん」
先程までの魚と比べ物にならないほど強烈な引きに、先に釣り上げた春彦も勝負のことなど忘れ、なでしこのサポートに回るためにランディングネットを手にした。
「うわわっ!? ハル君どうしよう!?」
「落ち着いてロッド立てて、 引かなくなったらリールを巻いて」
春彦の指示を聞きながらなでしこは必死に魚を寄せようとするが、ラインが引き出されるばかりで魚はどんどんと遠くに走っていっしまう。
「マズイな、このままだとバラしたり他の人のラインに絡まる… 仕方ないからこのまま歩いて追いかけるぞ! ラインを緩めるなよなでしこ!」
「は、はひっ…!」
ラインが細くパワーが乏しいトラウトタックルなので無理は禁物だが、このまま走られ続けるのもまずい。そこで春彦は自分のもとに魚を寄せるのではなく、自ら歩いて魚を追いかけてランディングする作戦に出た。春彦は周りの釣り人に声をかけながら、いっぱいいっぱいのなでしこを連れ魚の逃げる方へ移動していく。
「ちょっと走られちゃって、すいません前通ります!」
「はいよ。お、結構引いてるな、お嬢ちゃん頑張れー」
「あ、ありがとうございます!」
「彼氏君しっかり取り込んであげなよ」
「あ、はい…」
釣りをする若い女子がとにかく貴重な存在だからか、周りの釣り人達も快く協力してくれるばかりか応援まで飛んでくる。そしてその女子と一緒にいる男子は当然のように彼氏だと勘違いされるわけで、春彦はなんともいえない複雑な気分になりながらも、協力してくれた釣り人たちに頭を下げていった。
周りの釣り人の協力を得つつ魚を追いかけていくこと5分、泳ぎ回って疲れてきたのか魚の走りに勢いがなくなり、タックルのパワーに抗えなくなってきた。
「流石に疲れてきたか。よし、無理せずじっくり寄せてけ」
なでしこがポンピングをして慎重に引いていくと、やはりもう抵抗する体力が残っていないのか、すんなりとはいかないものの確実に魚は岸に寄ってくる。そして岸際まで引き寄せられたところで、ようやくその巨大な魚の正体が判明した。
「おぉ! イトウだっ!」
「すっごい大きさだよハル君!」
掛かったのはなんと幻の魚とも呼ばれる魚、イトウだった。ゆうに60センチを超えるその魚体に流石の春彦も驚きの声を上げる。
「よーし、ゆっくりゆっくり。そのまま体ごと後ろに下がって…」
なでしこに指示をしながら、引き寄せられたイトウを春彦がネットで取り込もうとする。しかしあともう少しというところで最後の抵抗とばかりにイトウが暴れまわり、冷たい水飛沫が春彦の体に浴びせられた。
「大丈夫ハル君!?」
「冷ってぇーっ… 堪忍しろこのっ…!」
水をかけられ怯みはしたものの、もはやその程度の抵抗ではどうなることもなく、力なく浮き上がってきたイトウは春彦がランディングネットによってしっかりと取り込まれた。
「よし! やったぞ!」
「やっと釣れたぁ…」
喜ぶ春彦とは裏腹に釣った本人であるなでしこはイトウの強烈な引きと巨大さに圧倒されてしまった様子。釣り上げたイトウは75センチの大物で、この管理釣り場で放流されているものではかなり大型の部類に入る個体だった。
ちなみに幻の魚と説明したイトウだが、あくまで幻なのは北海道の一部にしか生息していない野生の個体のことであり、養殖されたイトウは最近では多くの管理釣り場に放流され、それなりのタックルがあれば気軽に狙えるターゲットとなっている。なかなか釣れないので珍しいことには変わらないのだが。
かくして苦戦の末釣り上げた大物に、周りでギャラリーとなっていた釣り人からもぽつぽつと拍手が上がり、なでしこは得意げで、春彦はちょっと気恥ずかしそうにしていた。
そうして大物を釣り上げたあと、一応勝負には負けたかたちとなったなでしこがジュースを奢るついでに、3人は一旦釣りをやめて休憩することにした。
「はぁー、やっぱり釣りって楽しいねー」
「そりゃ良かった。誘った甲斐があったな」
負けて2人に奢る羽目になったというのに、大物を釣り上げたなでしこは満足そうにココアを飲んでいる。
「キャンプだけじゃなくて釣りも初めちゃおっかな?」
「ふむ、いいんじゃないか」
「自分の道具で釣りするのも面白そうだよねぇー」
なでしこは魚釣り2回目にして釣りの魅力に染まってきているようで、早くも自分の釣具を揃えることに憧れを持ち始めているようだった。
「でも危ないから1人で行くのはやめなさいよ?」
「わかってますぅー、ハル君がいるから大丈夫ですぅー」
なんだかんだ妹思いな桜は、アクティブな性格のなでしこが1人で大自然に飛び出してしまわないか心配なようだが、そこはなでしこもちゃんと心得ているらしい。
「まあ確かに1人は危ないけど、必ずしも俺とじゃなくてもいいんじゃないか? ほら、お父さんとかと行くのもいいんじゃないか?」
「んー、でも私ハル君と釣りするのが好きだから」
「えっ?」
不意打ち気味のなでしこの発言に春彦は思いっきり変な勘違いをしそうになる。
「だってハル君のが釣りも料理も上手だし、私じゃ釣った魚捌けないしね」
「あぁ、まあそうだな…」
特に狙って言ったわけではなかったのだが、なでしこの発言は思春期の男子高校生を勘違いさせるには十分すぎるパワーを持っていた。いくら桜に惚れているとはいえ、女子として普通に可愛いなでしこにそんなことを言われれば春彦とて平静ではいられない。加えて桜をはじめ周りからもそういう目で見られている節があるため、嫌でもなでしこのことを意識してしまい、春彦は心に揺さぶりをかけられていた。
(良くないな、これは…)
すでに想いを寄せる人がいるというのに、その人とは違う他の女性に心を動かされている。こういうのはある程度仕方のないことなのだが、恋愛経験などない春彦にはそれがとても不誠実な気がしてならなかった。考えても納得のいく答えが出てこず、気がつくと飲んでいた紅茶の缶が空になっていた。
「よし、再開するか。とりあえず桜さんは残り1時間だから、ちょっと早めだけど11時に一旦釣りやめて昼飯でいいすか?」
春彦は空き缶を捨てて再びロッドを持つ。何かしら悩んだときは釣りをして思考をリセットする。それが昔からずっと変わらない春彦のスタンスなのである。
「ええ、昼時はバーベキュー混むらしいからそれがいいわね」
「私もそれでいいよー」
そうして一時間ほど釣りをした3人は一旦竿を置いて、バーベキューで釣ったトラウトを焼いて昼食と相成った。
「ハル君、もう食べていいかな?」
「まだ火にかけたばっかだろ。てかよだれを拭け」
昼にはまだ少し早いというのに、炭火で焼かれるニジマスをなでしこは穴が空くほど凝視している。春彦が火の通り具合を見つつ焼いていくと、程なくして皮に焦げ目がついてきて香ばしい川魚の香りが煙とともに漂ってきた。
「よし、これはもう食べていいぞ」
「いただきます!」
なでしこがニジマスの背にかぶりつくと、齧った跡から覗く白い身から湯気が立ち上った。
「んんーっ! おいひ〜っ!」
ニジマスの塩焼きの旨さになでしこがふにゃりと顔を綻ばせる。
炭火で焼いたニジマスは丁度良く火が通っており、口に入れた瞬間に川魚の風味が広がる。程よく振られた塩が淡白な身の味を引き立たせ、シンプルな料理ながら外飯効果も相まって味は絶品だった。
「同じ魚でも普段食べてる魚とは結構違うものね」
「普通の食卓じゃ川魚なんてあんま食べないですしね」
「こんなに美味しいならもっと食べてもいいのにねー?」
「あんたそれ何匹目よ?」
「んふふー、4匹めー♪」
焼けたそばから次々とニジマスを平らげていくなでしこに、いつものことながら桜はちょっと呆れ顔。しかしながら本気で呆れているわけではなく、表情とは裏腹にその眼差しは妹を見守る優しげなものだ。
「なんか自分で釣ったからかすっごく美味しく感じるね」
「そうだな。それが釣り人にしか味わえない味だよ」
「なんか野生に戻った気分かも」
「ははっ、なんだそりゃ? まあちょっと分からんでもないが」
なでしこと話す春彦の表情も穏やかなものになる。
美味しいものを食べている時のなでしこはとにかく幸せそうで、それを見る周りの人も笑顔にしてしまう不思議な魅力に溢れている。桜と食事をしているというのに、春彦の視線は彼自身も気づかぬ内に自然となでしこの方にばかり向いてしまっていた。
(ハッ…!)
気がついた時にはもう遅かった。春彦が視線を動かすとさっきと同じように微笑ましげな眼差しを送っている桜の姿が…
(違うんだぁぁぁぁ…!)
自分の意思とは関係なく揺れ動く気持ちに頭を抱えて苦悩する春彦だった。
◆
昼食のあとまた2時間ほど釣りを楽しんだ一行は、少し早めに帰り支度をして14時頃に釣り場を後にした。春彦となでしこは一日券を買っていたので釣り場が閉まる17時までは釣りができたのだが、春彦が各務原家で夕食を振る舞うことになり、早めに切り上げることにしたのだ。
「いやぁー、春彦君が料理までしてくれるなんて助かるなあ!」
「私達じゃこんなに色々作れないものね?」
塩焼きにバター焼き、フライにアクアパッツァと、春彦が腕によりを掛けて作ったトラウト料理の数々に、なでしこの両親はこれ以上ないほど上機嫌だった。
「いえ、桜さんに車出してもらいましたしこれくらい全然…」
「私が自分から申し出たんだし気にしないでいいのよ?」
「そうだよハル君。 私が出かけるときはお姉ちゃんいっつも車出してくれるんだから、ハル君なら1回2回なんて全然だよ!」
「得意げに言うことじゃないでしょ」
自慢げに言うなでしこに桜が釘をさす。
まるで体の良い足扱いにも聞こえるなでしこの発言だが、一応本人は頼れるお姉ちゃんと伝えようとしただけである。桜もそれをなんとなく分かっていて、分かっていながらもツッコミを入れたのだ。やはりというか、なんだかんだ姉妹仲は良い2人だ。
「こんなに美味い料理は毎日は無理でも週一くらいは食べたいな!」
「そうだ!ハル君をお嫁にもらえばいいんだよお父さん!」
「いや俺の性別どこ行ったよ?」
「いいわねそれ」
「いや桜さんまで何言ってるんすか?」
常識人ポジションだと思っていた桜の悪ノリに春彦は困惑する。魚介限定ではあるが料理上手で人当たりも良い春彦は、すっかり各務原家の人々に気に入られていた。
それは春彦も悪い気はしていなかったのだが、同時に複雑な気分でもあった。各務原家の両親もどちらかといえば、桜よりもなでしことそういう関係になることを期待している節があったからだ。なので各務原家の好意で桜に家まで車で送ってもらうことになっても、春彦はあまり素直に喜べなかった。
「ありがとね春彦君。釣りを教えてもらった上にうちで夕飯まで作ってもらって」
「いえ、これくらい全然… でもちょっと意外でしたよ? なでしこだけじゃなく桜さんも釣りするなんて」
「前になでしこが春彦君と釣りに行ったとき、あの子すごい楽しそうに話してたからちょっと興味が湧いたのよ」
「そうですか…」
桜にそう言われて春彦の顔が少し赤くなる。なでしこのことだからさぞ楽しげに、自慢げに話していたのだろうと思うとなんだか照れくさかったのだ。
「最近はキャンプにハマったと思ったら今度は釣りに行くなんて言いだして、あんな子だから色々やってみたいのは分かるんだけど…」
(やっぱり心配してるよな…)
はっきりと言わないものの、桜がそう思っていることが春彦には分かった。自分が心配させる一因を作っていることに春彦は少しだけ罪悪感を覚える。
「でも春彦君が付いてれば大丈夫そうね。しっかりしてるし、あの子のことちゃんと見てるし」
今日のことを振り返りながら、桜は穏やかな口調で春彦に言った。
「なでしこのこと、これからものことよろしくね? 春彦君」
「…はい」
ほんの少し間を置いて春彦は返事を返した。他ならぬ桜の頼みなど二つ返事でそう答えられるのだが、このときばかりはそうはできなかった。桜が言ったよろしくという言葉はつまり、単に友達として仲良くという意味だけでないということが、春彦にはなんとなく分かっていたからだ。
意中の相手にその妹との恋を応援され、それだけならまだしもその妹のことも少し気になり始めてしまっているというのは、恋愛経験のない高1の男子にとっては些か複雑な悩みだった。
(なんとかしなきゃダメだよな…)
車窓から外を見ながら春彦は小さくため息をついた。帰り際に「また行こうねハル君!」と笑顔で自分を見送ったのなでしこのことを思い浮かべて。
私事ですが、先日バイクを盗まれてしまいました。
この小説の主人公の愛車としているアドレスV125S…
貯金して新車を買うまでの繋ぎとして購入した中古の安物でしたが、免許取ってから1年ちょっと付き添った相棒だったのでわりかしショックです…
来週には新車を納車する予定ですが、今度はもっと大切にしようと思います。