小沢春彦は普段はマメに勉強することはないが、テスト期間はしっかりと勉強をするという、やるべきときはやる切り替えタイプだ。だからこそ明後日からテスト期間開始を明後日に控えたこの時期、春彦としては授業が終われば帰宅して勉強したいわけなのだが。
ちょっと訳あって、この日の放課後は学校の理科室に向かっていた。春彦の足取りからはどことなく行きたくなさそうな雰囲気が漂っている。
「おーす来たぞ… ってなにやってんだ?」
春彦が理科室に来てみると、木皿をやすりがけする千明とあおいに、そして見慣れない黒髪でショートヘアの女子生徒がカセットコンロで調理じみたことをしていた。
「おー春彦、今新しく買ったスキレットのシーズニングやってたんだ」
「シーズニング?」
聞き慣れない単語に春彦が訊き返すと、千明たちはシーズニングという鉄フライパンを使う前の慣らし作業をしているところだという。
「一応テスト期間なのにそんなことしてていいのか?」
「平気だってー」
問題なしといったようすで余裕を見せる千明だが、その言葉に根拠などというものはなにひとつない。千明と長年の付き合いである春彦も、彼女がロクに勉強していないことをすぐに察したが、言っても無駄そうだと小さくため息をついた。
「追試になっても知らねーぞ」
「マジメだなー春彦は」
千明の計画性のなさはいつものことかと早々に彼女を見捨てた春彦。そして春彦の関心は千明から、おそらく初対面なスキレットのシーズニングをしているショートヘアの女子に向いた。
「えっと、初めましてだよね?」
「うん、初めましてだね。斉藤恵那です。えーと、リンの友達って言えばわかるかな?」
「ん? あぁ、なるほど。志摩さんの… あ、俺の名前は」
「小沢春彦君、だよね?」
「え、知ってたの?」
女子の情報網とはあなどれないもので、春彦の方はほぼ初対面でも、恵那からすればリンやなでしこ経由で春彦の基本的なプロフィールはすでに知っており、噂の人物とついに対面したといった感じだった。
「なでしこちゃんから色々聞いててね。野クル唯一の男子部員だって」
「なるほどね、色々知ってるわけだ」
「大垣さんの幼馴染で、釣りが趣味で魚料理が上手で」
「おぉ、そんなことまで聞いてんだ?」
「それから野生児だって」
「そこは知ってほしくなかったな…」
必ずしも悪いイメージがつくとは言い切れない情報ではあるが、解釈のしかたによっては色々と勘違いされかねないキーワードだ。まあ良い印象の方が多そうだとポジティブに捉え、春彦も大して落ち込みはしなかったが。
「てかなんか用だったのか? マジメな俺は帰って勉強したいんですけど」
「あぁ、スキレットとこの木皿見せたかっただけだぞ?」
綺麗に仕上がったスキレットと木皿を自慢げに見せつける千明。それを見た春彦は大きなため息をついた。
「…あっそ、じゃ俺帰るわ」
「おおう待ていっ!? いま重要な新情報が入ったぞ春彦隊員!」
千明は着信の入ったスマホを掲げ、帰ろうとした春彦を慌てて呼び止めた。送られてきたのはなでしこからのメッセージで、『テスト終わったらみんなでクリスマスキャンプやりませんか!!』という提案だった。ご丁寧に赤いニット帽を被り、白いマフラーをヒゲに見立てたサンタ風の自撮りまで添えている。
「クリスマスキャンプやて」
「野クルらしくていいじゃんか」
「ナイス提案だな」
なでしこからの提案に春彦と千明は乗り気。しかし野クルメンバーでひとり、あおいだけは浮かない表情だった。
「私はクリスマス彼氏と過ごすからムリやなー」
「彼氏いたのかきさまーっ!!」
寝耳に水の千明が驚愕に目を見開く。しかしあおいのカミングアウトはこれだけでは終わらなかった。
「実はハルと付き合っとるんよ私~」
「お前らデキてたのかーっ!!」
隣りにいた春彦の腕に自分の腕を絡めるあおいに、もはや怒声と言ってもいい大声で詰め寄る千明。
いつの間にかあおいに彼氏がいたというだけでも驚愕だったが、その相手が自分と最も近しい異性である春彦となると、もう千明はパニック状態だった。
「うそやでー」
「嘘に決まってんだろ」
驚きでひっくり返りそうな千明にさらっとネタばらしをするあおい。冷静になって考えれば再会して半月ほどでそのような関係まで発展するなど、ふたりの性格を鑑みればほぼありえないこと。だがあまりにも衝撃的な発言に、千明は冷静に思考することができなかったのだ。
あおいのホラ吹きになし崩しで付き合わされた春彦が、ちょっぴり不機嫌そうにジト目であおいを睨んでいる脇で、部外者ながらある程度3人の関係を知っていた恵那もあおいのホラにそこそこ驚いていた。
「なあんだ嘘かぁーびっくりした、私てっきり小沢君は大垣さんと付き合ってると思ってたから」
「「は?」」
一難去ってまた一難。さらっと恵那から投げ込まれた爆弾に、春彦と千明のふたりは同時に恵那のことを見やる。そして予想外の方向からあらぬ誤解を受けていることを知ったふたりは、当然その誤解を解こうと必死になった。
「いや、なにさその事実無根な話。今も昔も俺はこいつと付き合ってたことなんてないからね?」
「そうだぞ? そしてこれからもあたしらは付き合うことはないっ! たぶんな!」
身を乗り出してあらぬ疑いを突っぱねるふたりに、恵那は目をぱちくりとさせて身をすくめる。
「仲悪いの?」
「仲はいいです!」
「でもそういんじゃないから!」
必死の形相と語気はそのままに、がっしりと肩を組む春彦と千明を見てくすっと恵那は笑った。なるほど、こういう仲なんだと。「ごめんごめん」と誤解が解けた風に謝る恵那だったが、なんだか新たな誤解が生まれていそうな気がするのは気のせいだろうか。
ともあれ野クルの三角関係疑惑は一応の収拾を見せ、話はもとのクリスマスキャンプの話題に戻っていった。
「そうだ! 斉藤さんもクリスマスキャンプどう?」
「えっ、私?」
楽しそうに3人のクリスマスキャンプの話を聞いていた恵那にあおいが提案する。
「デイキャンプにすれば寝袋いらんし、一緒にやらん?」
「うーん、寒いの苦手だけど… ちょっと楽しそうだなぁ…」
部外者である自分への思いがけない誘いに恵那は少し考える。リンやなでしこといった知り合いから、ことあるごとにキャンプの魅力を聞いていた恵那にとって、あおいからの誘いは少なからず魅力的なものだった。
いままでは話を聞くばかりだったけれど、ここらで思い切って足を踏み出してみるのもいいかもしれない。恵那の心はクリスマスキャンプへと傾き始めていた。
「決めるの、テスト終わってからでもいい?」
「うん、ええよー」
恵那の気持ちは7割方決まってはいたが、まだ最後の決断は下せそうになく、とりあえず答えを先延ばしにする。
そして「リンも来てくれたらなぁ…」と誘っても来てくれなさそうなソロキャン少女のことを思い浮かべ、椅子から腰を上げた。
「そろそろ私帰るね? じゃあね、犬山さん大垣さん」
「うん、またなー」
「じゃーなー」
立ち上がった恵那はあおいと千明に挨拶して手を振り、間を開けて春彦の方を向いた。
「じゃあ小沢君、頑張ってね?」
「なにを?」
「ふふっ」
春彦が訊き返すが、返ってきたのは微笑みだけ。恵那はそのまま理科室から去っていってしまった。意味深な発言を残していった恵那。自分に向けられた言葉にまるで心当たりのない春彦は、結局その言葉について深くは考えなかった。
◆
志摩リンはバイトで本屋の店番をしていた。一応学校は明後日からテスト期間はあったが、そこはテストに向けて前もって勉強していたリン。このままテスト期間中もバイトをしても、全教科満点とはいかなくともそこそこには良い結果が出せるだろうと問題にはしていなかった。
リンが働く武田書店は身延町にある書店だ。田舎の小さな書店だけあって、時間帯によってはほとんどお客が来ない時もあり、かくいう今もそんな時間帯だった。店内の掃除などの雑務もあらかた済んでおり、これといってやることもないなか流石に暇だと感じて、リンは暇つぶし用に置いていた小説を読もうとした。
そんなときだった。
まるでタイミングを見計らったかのように入り口のドアが開き、店内にお客さんが入ってきた。すみやかに読もうとしていた小説を置いて入ってきた客の方を見やる。入ってきたその客は自分の通っている本栖高校の制服を着た男子生徒で、よく見ると見覚えのある顔であることにリンはふと気がつく。
しばししてその男子生徒が本を持ってカウンターにやってくる。「お願いします」の言葉とともに、カウンターに来月号の釣り雑誌が置かれた。
「あれ? もしかして志摩さん?」
「どうも…」
入ってきたのに気がついていて良かったとリンは内心ほっとした。やってきたのはあの野クルメンバーのひとりで、唯一の男子にして自分の中ではまだ謎多き人物である小沢春彦だった。この間の気まずい初対面もあって、気付かずにいきなり対面したら、また良くない表情をしてしまうところだった。
「奇遇だね? ここでバイトしてんだ?」
「まあ、一応…」
雑誌の会計をしながら返事を返すリンの言葉はまだかなりぎこちない。なでしこ経由である程度は相手のことを聞いてはいても、流石にお互いのことを知らなさすぎる。しかしここでこの前のように気まずいまま別れてしまっては、また会うたびにこんな空気を味わうことになる。それもそれで面倒だと思ったリンは、とりあえず何か話そうと話題を探した。
「釣り、好きなんだっけ?」
「うん、まあね。実はキャンプよりもそっちがメインの趣味なんだ」
リンから振られた話題を春彦が上手く広げてくれた。とりあえず嫌な間は埋まったと安心してリン話を続ける。
「じゃあ、なんでまたキャンプ始めたの?」
「釣りから派生したって感じかな。実は本格的に始めたのは野クル入ってからなんだよね」
「大垣に誘われて?」
「そんなとこかな」
春彦は話し始めた。釣りがきっかけでキャンプに興味を持ち千明と仲良くなったこと。転校するときに交わした千明との約束、そしてついこの前山梨に帰ってきたことを。
「正直帰ってこれるなんて思わなかったし、約束ももっと後になると思ってたけどね」
「それでも約束は覚えてたんだ?」
「まあね」
「へぇ、なんかロマンチックな感じだね?」
「え、そうかな?」
思ったままのリンの感想を聞いた春彦が怪訝そうに首をかしげる。
「いや、勘違いしてるかもだけど、千明とは別にそういう仲じゃないよ?」
「そうなんだ… 大垣泣いてたっていうからてっきり…」
再会したときに泣いてしまうなんて、よっぽどの仲でない限りないことだ。部外者であるリンはそんな想像から勘違いをしてしまったわけだが、このへんはリンでなくともそう思ってしまうことだろうし仕方ないだろう。
「あはは、斉藤さんにも間違えられたよ。友達だよね?」
「うん、まあ…」
自分だけじゃなく恵那も同じ勘違いをしていたと知ったリン。自分の考えがそうおかしいものじゃなかったのかもしれないと考えると同時に、他人からそこまで恋人同士だと思われるなら、もういっそ付き合ってしまってはいいのではないかと余計なことも考えた。
そんなことをリンから思われているとは知る由もない春彦。とりあえず前ほどは警戒されてないなと一安心していた。
「キャンプ好きなんだっけ? ウチの野クルには入らないの?」
「なでしこからも誘われたけど、ひとりでキャンプするのが好きだから…」
「あーそっか、ソロキャン好きなんだよね? なんかしつこく勧誘したみたいになって悪いね」
「いや、全然っ」
謝る春彦に首を振るリン。また気を遣わせてしまったと、すぐに別の話題に移ろうとする。
「そういえばこの前、イカスミパスタ作ったんだよね? なでしこから写真来たよ」
「あぁ、アレ適当に作ったやつだし、なんか恥ずかしいな」
「自分で釣るだけじゃなくて捌いて料理するなんてすごいと思うけど?」
「昔からやってて慣れてるだけだよ」
はにかみながらリンに答えた春彦の言葉に嘘はない。
小沢家では春彦の父や母は魚を捌かないため、釣った魚は必然的に春彦が捌いて料理することになる。小学1年生から釣りを始め、その頃からずっと釣った魚を自分で調理してきた春彦にとっては、魚を捌くことなんて今更なんでもないことだった。
「すごいなんていうなら志摩さんだってすごいじゃん? キャンプ道具積んだ原付でこの寒い中100キロ以上走って長野でキャンプしたりさ」
「まあ、大変ではあったけど…」
春彦の言う通り、寒いし疲れたし苦労はした。
でも、それでも…
道中休憩がてらに入った店で食べたボルシチ、静かなキャンプ場で作って食べたスープパスタ、そして高ボッチ高原からのあの景色。どれもリンの記憶に深く刻まれていて、それらは苦労して走らなければ体験できなかったことだ。
「それでもやっぱりまた行くと思う」
キャンプの思い出を回想しながらリンはしみじみと言う。春彦はキャンプの魅力にとりつかれているリンのことが、釣りという趣味に魅了された自分とどこか重なって見えた。
キャンプと魚釣り。趣味は違えど、リンも春彦も昔からアウトドアにどっぷりとハマっている者同士。そんなふたりには不思議とどこか通ずるものがあるらしい。
「楽しいしね、キャンプって」
それはお世辞ではなく春彦の本心だった。野クルに入部したことをきっかけに、本格的なキャンプの魅力に触れたからこそ出てきた言葉だった。
「野クルは冬休みもキャンプするの?」
「その予定かな。なでしこの提案でクリスマスキャンプやることになったよ」
「そうなんだ。なんかなでしこらしいな」
「あいつのことだし、たぶん志摩さん誘われると思うよ?」
春彦の言葉に、リンは麓キャンプ場でなでしこと交わした会話を思い出した。
『気が向いたらみんなでキャンプしようよ』
『わかったよ…』
あのときはまだ誰かとキャンプしようだなんてリンも本気で考えてはいなかった。でも麓キャンプと四尾連湖キャンプ。なでしことふたり、自分以外の誰かと初めてキャンプをして、誰かとキャンプするのもそんなに悪いものじゃないかもと思い始めていた。
でもなぁ…
やっぱりまだ大人数でというのはリンには抵抗があった。それに野クルには自分の苦手な大垣千明がいて、それもちょっと引っかかる部分ではある。
「なでしこだけならまだいいんだけど…」
「あー、もしかして千明のこと苦手な感じ?」
「うん、ちょっと…」
リンの表情を見た春彦は苦笑いをする。物静かなリンと賑やかでふざけるのが好きな千明。ふたりの相性が良さそうでないことは、春彦にはなんとなくわかっていた。
「うっとおしいとこもあるけど、あいつも別に悪いやつじゃないよ? まあ、俺が言っても信用できるかは分かんないけどさ」
「いや、そんなこと…」
はじめこそ千明と相当仲の良い人物というだけで、春彦に対しなんとなく近寄りがたいという偏見もありはしたが、いざこうして話してみると、リンにとっては自分が苦手とする大垣千明と比べれば、春彦はそれなりに話しやすい相手に思えた。
「まあ、もし誘われたら考えてあげてよ」
「うん、わかったよ」
「んじゃ、そろそろ失礼しようかな。なんか長々とごめんね?」
「いいよ別に、お客さんいなくて暇だったし」
「そっか。じゃあまたね」
軽くリンに手を振ると、春彦は雑誌の入った袋を抱えて店を出ていった。
春彦が去って再び静けさが戻った店内でリンは小さくため息をつく。予期せぬ偶然の対面に驚きはしたが、リンから見た春彦はそこまで悪い印象ではなかった。
野クルに入らないのかとか、クリスマスキャンプのことだとか、それなりに気を向けさせるようなことも言いはしていたが、どこか一歩引いた話し方をしていて、リンとってはわりと接しやすく感じた。
あれが野クルの黒一点か、なんか肩身狭そうだな…
あの性格で野クルの面子の中じゃ苦労するだろうなとリンは同情する。僅かながら親近感というか、なんとなく自分と似たところがあるやつだと、リンは春彦に対し思っていた。
次いつ話すかは分からないけどな。
春彦との接点のなさにそう考えたリンだったが、そう遠くない内にその機会が来るとは、まだこの時は考えもしていなかった。