(一)
鬱蒼とした山の中に延々と刻まれたつづら折り。
九葉にとってこの道は、巨大な蛇の食道のようだった。
大きな口を開けてひっそりと獲物を待ち続け、一度飲み込んだら決して外に出さず、緩やかに消化する。哀れな獲物は、気が付く頃には、その巨体の一部と化しているのだ。
歴史の影法師の中に生きる者たちの里は『神垣ノ巫女』の結界のみならず、このような天然の要害にも守られていることが多い。それにしても、この山道はいささか以上に不気味だった。
陽の光は一応届くものの空は狭く、どれだけ上っても目に映るのは、好き放題に伸び、ねじくれた木、木、木。いつまでも同じ道を歩いているような錯覚に陥る。
それに、ざわざわ、ざわざわ、と風でこすれ合う葉の音がしつこく耳に残り、聴覚はおろか、他の感覚すらも狂わされそうだった。
しかし、それはあくまでも、九葉一人の感想だ。彼の連れは、心臓破りの急坂を、まるで飛び跳ねるように駆けあがってゆく。
「九葉ーー! くーよーうーーー!」
少女というよりも童女に近い、甲高い声が遥か先方から九葉を呼んだ。
華奢で小柄な女だ。
声の質を裏切らず、小さな顔からは学生じみた幼さが抜けきらないが、彼女は九葉と同じ二十四歳だ。一般的な評価を当てはめるなら、可愛らしい、といったところか。
大きく身振り手振りをするたびに、癖のある長い黒髪もふさふさと動く。細い腕をブンブンと振る姿は、飼い主に散歩を急かす子犬のようだった。
溌溂とした笑顔は、今日がとても素晴らしく、そして、明日はもっと素晴らしいと、信じて疑わない。
九葉が追いつくと、女は、両手に手を当て、ぷっと子供っぽく頬を膨らませた。
「もう、だらしないわねえ! こんな坂道でへばっちゃうなんて。君、最近運動不足なんじゃない? ずっと書類仕事ばっかりしてるからよ」
「そうだな、お前の言う通りだ。すまん、
さして言い訳をする理由もなかったので、九葉は素直に女―――早華に謝った。
すると、早華のふくれっ面は、瞬く間に満面の笑みになった。つん、と少し横を向いて、お姉さんを気取る。
「いいわ、許してあげる。だって、わたしのために無理してお休みをとってくれたんだから」
二人は再び歩き出した。今度は、歩調をそろえて。
早華は愛おしそうに目を細め、青い空を蝕む木々を見上げた。
「懐かしいなあ…。この道を歩いたのは、十二年前。里を出て、霊山の小学府に入学するときだったわ」
「それほどに久方ぶりの帰郷なのか」
しみじみとした早華のつぶやきに、九葉は驚きの声を上げた。
この不気味なつづら折りを上りきると、セキレイというモノノフの里がある。そこは、早華の生まれ故郷だった。
セキレイの里は霊山より遥か西に位置し、片道だけで十日もの日数を要する。往復で二十日、滞在するなら月のほとんどを費やすことになる。いくら早華が書記官という比較的時間に融通の利く職に就いているとはいえ、それほどの長い暇を作り出すのは難しい。しかし、まさかそこまで間が空いていたとは。
「十二年も無沙汰をしていた娘がいきなり戻ってきて、しかも、見ず知らずの男を伴っていては、先方は困惑するのではないか?」
「大丈夫よ。だって、全然ご無沙汰じゃないもの」
九葉の心配を、早華はけろりと一蹴した。
「手紙のやり取りはしょっちゅうしてたし、おじさんは定例会議でよく霊山に来るから、その時は必ず会いに来てくれたわ」
早華の伯父・
九葉も先日の御前会議の折りに遠目からその姿を見た。威風堂々とした佇まいと鋭い眼光は、確かに他のモノノフとは一線を画していた。
「お父さんとお母さんも、年に何回かは遊びに来てくれるし、去年は一緒に新年をお祝いしたわ。
早華は家族や親族の思い出を懸命に九葉に話して聞かせる。彼女の頬は紅潮し、僅かに吊り上がった大きな黒い瞳はキラキラと輝いていた。
血のつながった家族は、早華にとってかけがえのない存在なのだ。
「―――その都度、君のことはみんなに話してたから、困惑したりしないと思うわ」
長い長い話を、彼女はこの一言で締めくくった。
九葉は再び目を剥いた。
「私はそのようなこと、聞いたことはないが?」
「話そうとしても、君が『忙しい』とか『後にしろ』とか言うからでしょ!」
早華がキンキン声で反発するので、九葉は難しい顔で首を傾げた。
「む……、そうだったか」
まったく、と、早華は肩を竦める。
「…ところで、家族にはどう伝えてあるのだ、その……私のことは」
九葉は神妙な面持ちで早華に尋ねた。
彼女の話を聞いて、この先に待ち受ける「御役目」の難易度を、できる限り正確に把握しておきたくなったのだ。
「もちろん君のことは『いい人』って伝えてるわ」
早華はこともなげに言った。
「上司を毒殺して後釜についた、とか、対立してた先輩が突然クビになったのは君の仕業だ、とか、君のことを色々と言う人はいるけど、わたしはどれも真実だとは思ってないわ。だって、君はとっても優しくて、いろいろなことを教えてくれるもの」
釈然としない九葉に、早華は大切な宝物を取り出すように、ひとつひとつ告げる。
「空はどうして青いの? 風はどこから生まれるの? 鳥はどこへ飛んでゆくの? 全部君が教えてくれたわ。君といると、これまで不思議だったことが不思議じゃなくなって、世界がどんどん広がって、とっても面白いわ」
早華はぱちりと片眼を瞑ってみせた。
「大丈夫。君の『ありのままの姿』を、みんなはちゃんと知ってるわ。きっと仲良くなれる」
「『ありのまま』、か……」
九葉は呟いた。ひどく遠くを見つめながら。
「もちろん、寝言が凄いこともね」
早華が意地悪い顔でニヒヒヒと笑う。九葉は露骨に顔をしかめた。
「ねえ、九葉」
改まって、早華が呼びかけた。
「なんだ」
九葉は仏頂面で応える。先ほどの意趣返しに皮肉の一つでも続けようとしたが、とどまった。
いつも煩いくらいに明るい彼女の横顔が、寂しげに沈んでいたからだ。
ぽつり、と、小さな唇が語り出す。
「里を出るとき、お父さんとお母さん、それにおじさんがずっと霊山までついてきてくれたわ。その時わたし、とってもつらくて、寂しくて、悲しかった。みんなと離れ離れになっちゃうから」
当時の気持ちを思い出したのか、早華は大きな黒い瞳を閉じ、きゅ、と唇を噛みしめた。
何かを堪えるようにしばらく黙り込んだ後、九葉に笑いかけた。
「でも、今はとっても幸せよ。嬉しいの、君とふたりでこの道を歩くのが」
そう告げたときの彼女の笑顔は、明るい太陽のようでありながら、どこか大人びていた。
この身に降りかかった悲しみを受け入れ、慈しみ、これより訪れる幸せへの期待と希望に満ちた、幸せな「女」の顔だった。
「すごく楽しみだわ、家族のみんなに、君との……、……」
そこまで行って、早華の声が萎れた。明るく笑う顔がみるみる下を向き、赤らんでゆく。
九葉は首を傾げた。
「どうした、私との、なんだ?」
「だから、その…あ、アレよ……ほら……わかるでしょ」
早華は舌を向いたまま、歯切れの悪い口調で言う。
はて、と九葉はしばし考え、ああ、と声を上げた。
「婚約報告か」
「わー! わー! わー!」
さらりとした九葉の一言を掻き消すように、早華は叫んだ。手足をバタバタと動かし、顔をさらに赤らめて。
「なんだ、違うのか」
「ち、違わない! 違わないけど! でも、はっきり言わないでよ、もう! 恥ずかしいじゃないの!」
叩きつけるように言い、赤い顔でキッと九葉を睨みつける。
九葉は無言だった。ただ、勝ち誇ったような笑みで以って婚約者に応えた。
その時、早華の中で、何かが臨界点を越えた。
「もうっ……、九葉のおバカーーーーーー!」
甲高い声が、深い深い森を突き抜け、蒼天へ駆け抜けた。