「馬鹿な。それでは、この里の結界はどうなっている?」
堂衛から『神垣ノ巫女』の容態を聞かされ、九葉は思わず声を上げた。
鬼や瘴気を撥ね退ける結界の生成は『神垣ノ巫女』だけがなしうる奇跡だ。ただしこの結界は、ひとたび張ってしまえば延々とそこに存在するわけではなく、巫女本人が支えなければならない。よって、彼女が里から遠く離れたり、病などで人事不省に陥った場合は、結界が消失する。
しかし、今の弥紗は到底力を行使できる状況ではないにも拘わらず、結界は正常に作用していた。里を囲む結界子は健常な光を放ち、問題なく守られている。今、この瞬間でさえも。
この結界はどうやって維持されているのだ?
「
と、堂衛は答えた。
「どういう仕組かは皆目見当もつかぬが、そのカラクリには一度張られた結界を維持する力がある。つまり、今この里を守っているのは十年前に弥紗様が張られた結界というわけだ」
九葉は密かに生唾を飲んだ。やはり、この不正は天極が絡んでいたのか。
恐らく天極は、売り上げの一部を秘密裏に受け取っている。対外国の政策の一環としての西洋化、外様との例外的な交流という隠れ蓑を用意したのも彼だろう。
この下劣極まる金策を持ち掛けたのは、堂衛か、それとも天極か…しかし、今はそんなことはどうでもいい。
「ところで、なぜ俺がお前にこうもあっさりと秘密を話すか分かるか?」
今度は逆に、堂衛が訊いた。
「ご親切にも、冥土の土産を拵えてくださっているのですか?」
「違う」
敵意を剥き出しにした九葉の答えに、堂衛は苦笑した。
「部下たちの間では『冥土の土産としろ』という意見もないわけではないがな。むしろそちらのほうが多数派だ。しかし俺はお前を殺したくない」
「…殺したくない?」
九葉は思わず聞き返した。命を奪うに値する秘密を知ってしまった自分を生かして、彼は何をするつもりなのだ?
堂衛は暗く湿った石畳の上に胡坐をかき、九葉と目線を合わせた。
「俺とお前、男と男、腹を割って包み隠さず話したかったのだ」
と、堂衛は言った。罪人とは思えぬ、まっすぐな目で。
「早華はお前に心底惚れている。それに、俺はお前のような才気ある若者が好きだ。お前を家族として迎えたいという思いは今でも変わらん」
九葉は厳しい眼差しで堂衛を見返したが、内心は唖然としていた。
彼は、昨晩の宴で「早華を幸せにしてくれ」と頼んだ時と同じ目をして、こう言ったのだ。
この、身の毛もよだつ悪事に加担しろ、と。
「私が承諾するとでも?」
「ああ」堂衛は至極真面目な顔で頷いた。「お前は早華の許嫁だからな」
「ご自分の姪を人質とするおつもりか?」
「そうではない」
堂衛は首を左右に振り、こう言った。九葉の目をまっすぐ見つめて。
「家族とともに豊かに暮らすこと。これから生まれてくる子や孫が幸せであること。これが早華にとって最も幸せな道だからだ」
九葉は冷ややかな態度を崩さない。
堂衛は、ふっと体の力を抜き、柔らかく笑った。
「九葉。俺はな、実をいうと、外様の騒乱も、夷狄の脅威も、どうでもよいのだ。俺の家族さえ幸せであれば」
「この里を砦として、夷狄の侵略からこの里や『鬼ノ府』を守るという話は、嘘だと?」
「『鬼ノ府』の体制が崩れれば、外様にすり寄る。夷狄の侵略を受けたならば、その支配の中で暮らす術を探す。その時に金は役立つだろう。俺の矜持や評判など、家族の幸せに比べたら軽いものだ」
この里の支離滅裂な西洋化の理由を、九葉はようやく理解できた。歴史の流れも日ノ本の情勢も、『鬼ノ府』の存続も二の次。堂衛はただ、財を集めたかっただけなのだ。己の子や孫、その子孫を豊楽長久たらしめるために。
嘘の上に嘘を積み上げ塗り固めた彼という存在の中で、これだけが真実であり、核なのだ。
「そのご家族のために、女を辱め、幼い子供も餌食となさるか」
九葉が冷たく問うと、堂衛は目を瞬き、直後、笑って頷いた。
「ああ、そういえば、お前はすでに阿羅彦に会っているのだったな」
九葉の腹の中にどす黒い感情が湧いた。
阿羅彦。堂衛が旅の途中で鬼から救ったと途南は説明したが、九葉はもう信じていない。あの話は嘘だ。万が一、彼が部外者の目に留まった時のために用意された作り話だ。彼は―――
「あの子は、神垣ノ巫女・弥紗様の子ですね」
「うむ。お前は察しがいいな」
堂衛は九葉を褒めた。まるで父親のように。
「この程度で察しがいいなどと、冗談も大概になされよ」
九葉は醒めた声で返した。薄っぺらい世辞である。察しも何も、弥紗と阿羅彦の顔はそっくりだった。
父親のことは聞きたくなかった。女を犯した下郎のことなど。
堂衛は黒い瞳を輝かせ、上体を前に傾けて九葉を覗き込んだ。
「ほう。ならば、お前はこれ以上に何を『察した』のだ?」
「此度の辻斬り騒動、犯人は阿羅彦であり、阿羅彦ではない。彼が手にかけたのは犠牲者のうち半数程度。残り半数を殺めたのはこの里のモノノフ部隊ですね」
「ふむ」
面白そうに頷く堂衛に嫌悪感が募る。九葉は露骨に顔をしかめたが、話は止めなかった。
「あなた方は辻斬りの捜査に多大な労力と時間を割いた。しかしそれは犯人を逮捕するためではない。犯人につながる証拠を隠滅するためだ」
一年も犯行が続いている割に、手がかりが異常に少なかった理由はこれだったのだ。
阿羅彦が人を斬る動機は定かではない。しかし、これだけは言える。彼は、無差別に人を斬っているわけではない。そう見えるのは、堂衛率いるモノノフ部隊が目撃者や事件の真相に気付いた者を秘密裏に処理しているからだ。
もちろん、人々はそんなことは知らない。堂衛の指示で殺された者たちもまた辻斬りの犠牲者だと思い込んでいる。実際、堂衛はそのように説明しているだろう。
これが、夜な夜な出歩き、出会った者を無差別に殺す『辻斬り』の正体というわけだ。
そして、堂衛がそうまでして阿羅彦を法の裁きから遠ざける理由はひとつしかない。
彼と初めて出会った夜が脳裏に蘇る。子どもの白い肌に刻まれた、いくつもの痣。あれは―――
「あなたは、阿羅彦にも『客』を取らせていますね」
「まったく、お前の爪の垢を煎じて
堂衛は九葉を褒め称えた。場違いなほど晴れやかな笑みで。
「此度の件といい、あれには生まれた当時から悩まされっぱなしだ。ひどい難産で、弥紗様は女としての機能を失ってしまった。しかし、禍福とは糾える縄だ。阿羅彦はあのように美しく生まれつき、客にもすこぶる受けがいい。弥紗様はもう子を望めぬが、まだ阿羅彦がいる。あれが設ける子もまた、美しく育つだろう」
身の毛もよだつ展望を、堂衛はまるで、馬の飼育の話でもするように語る。
彼はこれからも、弥紗と阿羅彦を、そして、その末裔たちを延々と辱め、飼い続けるつもりなのだ。下劣な商売の道具として。他ならぬ、自分たちの富のために。
とうとう九葉は声を荒げた。
「あなたという方は」
「鬼畜だ、と言いたいのだろう」
堂衛は九葉の言葉を遮った。
「血も涙もないと思ったのだろう。しかし、家族のためなら俺は鬼にも畜生にもなれる。血も涙も差し出す」
堂衛の低い声には―――強い眼差しには、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
たとえことが明るみになり、裁きの場に引き上げられても、この態度は崩さぬことだろう。
そして彼は、九葉に今一度言った。加われ、と。
「九葉、この世は常に、何かの犠牲の上に成り立っている。いくら綺麗ごとを並べようとも、世を支え、守るのは結局のところ犠牲だ。そして、生贄の血を捧げる仕事を、誰かがやらねばならん。お前には俺と共に戦ってほしい。愛する者たちを守り、幸せにするために、血に