暗夜を往くもの ~特務隊誕生秘話~   作:海羽

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第四章 阿羅彦
(一)


 牢を破った九葉は、脱出の途上で阿羅彦と遭遇した。

 九葉は無言で彼を睨みつけ、身構えた。

 背中を嫌な汗が流れる。

 いい歳の大人がたかが八歳の少年に対して、これは過剰な反応であろう。しかし、九葉は阿羅彦を子どもとみていない。むしろ、最も忌避すべき展開の一つだった。

 じわじわと脳裡に甦る。先ほど九葉たちを襲撃した、羅刹のような斬撃が。それを受け止めたときの両腕の痺れが。死を覚悟した、その時の気持ちまで。

 先ほどは、彼に九葉を殺す意思はなかったようだが、人の意思など時と共に移ろうものだ。彼がその気になれば、今の九葉はひとたまりもない。なにせ今は丸腰だし、こうも正対してしまっては逃げようがない。

 阿羅彦は射干玉の瞳を見開いてじっと九葉を見つめた後、

「あ…、一人で出られたんですね…」

 ぽつりと呟いた。声変わりを迎えていない高い声は、重い闇の中では一際涼やかに響いた。同時に、美しい顔が、はにかむように笑った。

 しかし、九葉は彼の一挙手一投足に見惚れる余裕はない。彼が次に踏み出す一歩は、九葉に直刀を見舞うための踏み込みであるかもしれないからだ。

「何をしに来た。私を仕留めに来たのか」

「あなたを助けに…閉じ込められたって聞いたから」

 慎重に問うと、阿羅彦はそう答えた。

「助けに、だと?」

 九葉は眉を眇めた。

「先ほど私に刃を向けたお前が、今度は私を助けに? 意味が分からんな」

 揶揄すると、阿羅彦の整いすぎた顔が悲しげに沈んだ。まるで父親から叱責を受けた少年のように。

「ごめんなさい。あの女だけを斬りたかったけど、上手くできなかった」

 やはり、先ほどの攻撃は早華だけを狙っていたようだ。同時に九葉は内心で安堵する。九葉は殺さないという阿羅彦の方針は、今も変更はないらしい。

「何故、あれを殺そうとした?」

 九葉は再び問う。今度は、まるで幼い少年に対するように、穏やかさを心がけて。

「ずっと、あなたを助けたいと思っていました。あなたは僕や弥紗と同じだから」

 阿羅彦はぽつりと言った。

「お前はこれまで、お前たちを穢した者を斬り続けていたのか?」

「優しいひともいました。僕に剣を教えてくれたひとみたいに。でも、僕たちを殴ったり、ひどいことをする奴もいた」

 彼の剣は、客の一人が寝物語に少し教えた技を我流で磨き、さらに斬り覚えたものらしい。それにしても、あの強さはただ事ではない。あるいは神垣ノ巫女の血を引くゆえか、何か剣技以外の力が働いているのかもしれぬ。

 阿羅彦はさらに語る。

「あなたはひどいことをされた弥紗と同じ顔をしてたから。苦しくて、つらくて、ずっと我慢してたから…」

 それは、幼い少年の持ちうる、純粋な善意だった。

 そう語ったときの阿羅彦の表情もまた、年相応の顔をしていた。

 つまり彼は、九葉が早華の性の玩具となっていると思い込んでいたのだ。自身や弥紗が毎夜辱められているように。

 九葉は唖然とした。早華と過ごす自分は、凌辱された女と同じくらい悲惨な表情をしていたというのか。

 阿羅彦の解釈には仰天するばかりだったが、しかし、彼の境遇を思うとそれもまた無理からぬことだと思い直した。

 交わるか、斬るか。彼は、これ以外の接し方を知らぬ―――これ以外を教えられなかったのだ。

 なお、一連の辻斬り事件の真相は彼の話で余すところなく補完された。

 阿羅彦が人を斬る動機は、床で己や弥紗にとりわけひどい仕打ちをした者たちへの報復だったのだ。

 九葉は半ば呆然としていたが、やがて苦笑した。

「それはお前の勘違いだ」

 阿羅彦は目を見張った。驚く少年に九葉は説明する。

「私はお前の母のように意思を奪われているわけでもなければ、何も考えずにつらさを我慢しているのでもない。望むものを手にするために、自らの意志でこの境遇に身を堕としているのだ。あのような小物どもに、なす術なく命を搾られ続けるお前たちとは違う」

「…………?」

 阿羅彦は射干玉の瞳を瞬いた。九葉の話が理解できないらしい。いくら大人をはるかに凌ぐ剣の腕を誇るといっても、権謀術数の話は不得手のようだ。

 九葉はこれ以上説明しなかった。その代わり、阿羅彦に尋ねた。

「ところで、お前はこの里の地理は熟知しているな?」

「え…?」

「道に詳しいかと聞いた」

 阿羅彦はおずおずと頷いた。

 こちらの言葉は理解されている。それを確認し、更に問う。

「人が寄り付かず、なおかつ見張りが厳しいところはあるか?」

「見張りが多いのは、弥紗の部屋と、それと…そうだ、里の外れ…川の下流にある祠が…」

 神垣ノ巫女の部屋に、里の外れの祠……。

 九葉は口の中でこの二つを繰り返した。

「私を助けたいと言ったな。ならば、その二か所に案内しろ」

 と、言った。

 阿羅彦は大きく頷いた。

 弱い明かりの中の白い顔は、気のせいか、紅潮しているように見えた。

 九葉は阿羅彦の案内で地下を進んだ。小さな足は迷いなく動き、しかも、九葉にとっても速かった。さもありなん、あれほど素早く斬りつけ、里を跋扈するのだから。しかしながら、時折ちらちらとこちらを振り返る顔には、まるで父親と散歩をするような、年相応のあどけなさがあった。

 道中、座敷牢の中に蹲る複数の男たちを見つけた。皆、死んでいた。身なりから察するに、彼らは看守のようだった。

「これはお前の仕業か」

「僕の邪魔をしましたから。この地下には、ここしか道がないから」

 九葉が男たちを指して問うと、阿羅彦はなんでもないことのように言った。

 恐らくは堂衛が去った後に斬ったのだろう。遺体は灯かりの届かぬところに押し込まれており、この暗がりでは、危機感のない鵬翼は気づくまい。

 阿羅彦は城に張り巡らされている隠し通路を数多く知っていた。何の変哲もない石畳から迷うことなく上階へ続く階段を出現させ、九葉はあっという間に地下牢を脱し、さらに取り立てて特徴のない壁をまさぐって通路の入り口を開いた。

 ふと思い出す。途南が「八歳にもなると鬼よりもすばしっこくなって」とぼやいていたのを。

 阿羅彦はこれらを駆使して『雪月花』の監視の目をかいくぐり、辻斬りをしていたのだろう。

「あ、そうだ」

 狭い隠し通路を通りながら、阿羅彦が声をあげた。

 立ち止まり、九葉を振り返る。

「あなたは僕を知っているみたいだけど、僕はあなたを知らない」

 と、言った。

 射干玉の瞳が、じっと九葉を見上げる。

 そういえば、阿羅彦にはまだ名乗っていなかったと、九葉は今更ながら思い至った。

 不思議なことに、彼に対しては、数年ほど共に行動しているような感覚があり、名乗るのを忘れていた。実際は出会って数日しか経っておらぬというのに。

「私は九葉。…霊山軍師・九葉だ」

 ぽつりと名乗ると、その瞬間、阿羅彦の深淵の瞳の底に、光のようなものが差した。

「なんだ、私の名はおかしいか」

 妙な反応だと思い声を上げると、阿羅彦は懸命に頭を左右に振り、

「そうでは、ありません…。全然、おかしくなんかありませんよ……九葉様」

 小さな唇が九葉の名を呼んだ。涼しげな声には、切なさというか、熱のようなものが籠もっていた。

 

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