暗夜を往くもの ~特務隊誕生秘話~   作:海羽

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(二)

 九葉はまず、阿羅彦の案内で弥紗の拝殿に立ち寄った。

 そこは九葉と早華が凶行を目の当たりにした寝所であったが、その道中は、昨日、気を張り詰めながら進んだのが嘘のようにあっけないものだった。

 神器を安置する祭壇のように飾られた最上階に、神垣ノ巫女・弥紗は、真新しく上質な寝具の中に横たわっていた。客はなく、香のにおいも薄い。彼女は、純白の絹に橘色の飾り紐で飾られた『神垣ノ巫女』の衣を纏い、弱々しい寝息を立てている。

「…これが、弥紗です」

 阿羅彦はそっと弥紗の枕元に片膝をつき、声を抑えて言った。

 九葉はいたたまれない気持ちで彼女を見下ろした。

 昨日は遠目でよくわからなかったが、近くで見る彼女の姿は痛々しい限りだった。

 目鼻立ちこそ阿羅彦と同じく美しいが、顔には血の気がなく、頬はこけ、眼下には影が刻まれ、白く長い髪にはつやがなく、首も肩も細い。

 彼女は衰弱していた。白粉で誤魔化していたのだろう。

 弥紗の長い睫毛が震え、痩せた瞼が開いた。人の気配で目を覚ましたようだ。

 赤い瞳がぼんやりと辺りを見渡し、

「あ…あぁぁぁ、あああああああッ……!!」

 九葉を見つけた時、弥紗は悲鳴を上げた。

 まるで恐ろしい鬼にでも遭遇したかのように床から飛び出し、逃げようとするが、足腰が弱っているのか、立ち上がることができない。細い足で床を擦りながら懸命に九葉と距離を置こうともがいている。

 九葉は身を強張らせた。外には見張りがいる。彼女がこのように騒いでは彼らが駆けつけるかもしれぬ。

「弥紗」

 阿羅彦が慌てて腕を伸ばし、母の痩せた体を抱きしめた。

「弥紗、この人は九葉様だよ、いい人だ。大丈夫、大丈夫だから…」

 薄い胸に抱き寄せて、懸命に囁く。母というよりも、小さな妹に対するような接し方だ。背をさする手の動きも慣れている。また、これだけ騒いでも見張りのモノノフは一向に駆けつけない。彼女がこのように錯乱するのはすでに珍しいことではなくなっているらしい。

 弥紗は、九葉がどうこうというよりも『男』が恐ろしいようだ。心を壊されても、男に対する恐怖ばかりは残ってしまったらしい。そして、このような状態に陥っても、凌辱は続けられている。

 衣の裾がはだけ、細い足があらわになった。

 股の間から液体が漏れ、裏地を汚していた。異臭がするが、尿とは違う。精神のみならず、肉体も病も患っているようだ。

 この拝殿に焚かれた香は、催淫作用だけではなく、認知能力を低下させる効果もあるようだ。そのようにして異臭と弥紗の衰えを誤魔化していたのだろう。

 彼女は死が近い。直感的にそう思った。

 なるほど、阿羅彦がいかなる凶行に走ろうとも、堂衛は庇わざるを得ないわけだ。

 九葉はゆっくりと床に両膝をつき、次いで両手をついた。

 そして、恐怖で顔をひきつらせ、幼い息子の胸にすがって泣く神垣ノ巫女に、深々と頭を垂れた。

「九葉様?」

 阿羅彦が戸惑いの声を上げた。

 神垣ノ巫女と呼ばれる女たちは、自らの命を削って力を行使し、里を守護する。古くから続くこの仕組みに疑問はあるが、それでも、彼女たちが万民からの尊敬を受けるに値することは確かであり、少なくとも、このような場所で欲望のはけ口となるべきではない。

 弥紗はこれまで、敬意を受けることも、役目を放棄して自由を得ることもできなかった。だから、せめて敬意ばかりは捧げておこうと思ったのだ。

 彼女は阿羅彦の胸にしがみつき、ひたすら泣き続けていた。

 九葉は静かに頭をあげ、怪訝な顔をしている阿羅彦に静かに告げた。

「お前の母は本来、このように傅かれるべき存在だ」

「母……?」

 阿羅彦は不思議そうに首をかしげた。

「お前をこの世に産み落とした女のことだ」

「それは知ってるけど…弥紗が、僕の……?」

 少年は呟いて、目を丸くして弥紗を見下ろした。

 彼が実母を名前で呼ばわることに違和感を覚えていたが、どうやら、弥紗との血のつながりさえも知らなかったらしい。

 堂衛は、この母子に性玩具としての役目以外は何一つ与える気はなかったのだ。

 胸にこみ上げる苦いものを押し殺し、九葉は阿羅彦に問うた。

「この辺りで、使い方のわからぬ怪しげな道具を見たことはないか?」

「……怪しげな道具って、なんですか?」

 阿羅彦は首を傾げて聞き返してきた。

「この里の結界を維持しているカラクリだ」

 と答えておきながら、九葉もまた、結界維持のカラクリがどの程度の大きさでどのような形をしているかは皆目見当もつかなかった。

 阿羅彦は不思議そうな顔で、今度は逆の方向に首を傾げている。城の隠し通路を熟知している彼が、怪しげな道具と聞いてこの様子では、神垣ノ巫女の拝殿は「はずれ」とみていいだろう。

 念のために九葉は拝殿を一巡りしてみた。しかし、それらしきものは見つからなかった。

 となると、カラクリは、里の外れの祠にあるのか。

 九葉は弥紗の台座に戻り、阿羅彦、と声をかけた。

「私の望むものに興味があるか?」

 弥紗を宥めていた阿羅彦が顔をあげ、躊躇いがちに、こくり、と頷いた。

「ならば見せてやる」

 と言って、九葉は―――笑った。

 眉間に深いしわを刻み、唇の端を歪に吊り上げ―――その笑みはまるで、仮面を取り払ったかのように自然で、男に似合っていた。

「まずはこの里に風を通す―――結界を維持しているカラクリを破壊するぞ」

 


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