深い山を歩いていたら、目の前に突如、絢爛たる異境が姿を現した。
それが、セキレイの里を一目見た九葉の感想だった。
里を守る白亜の壁の内側には瓦葺に純白の漆喰の壁を持つ木造建築が整然と並んでいる。しかも、どれもこれもが二階建て、もしくは三階建てで、外様の外国人居留地でしかお目にかかったことのないガス灯が至る所にそびえ立っている。
堀を渡り、この里では唯一の出入り口となる巨大な正門の前で九葉と早華は三人の人物に迎えられた。
五十代と思しき年配の夫婦と、少し離れたところに、従者めいた背の高い初老のモノノフが控えめに立っている。
夫婦は人のよさそうな顔で穏やかに微笑んでいたが、早華の姿を見るなり表情を崩し、駆け出した。
「早華……!」
「お父さん、お母さん……!」
三人は堀にかかる跳ね橋の真ん中でひしと抱き合った。
夫婦は早華の両親だった。
「おかえり、早華。お仕事ご苦労様…!」
母が、皺の目立つ目尻から涙をこぼしながら言った。彼女の印象は一言でいうと「三十年後の早華」。真新しい萌黄色の小袖に包まれた体は小さく、頬の肉のたるみこそ隠せないが、大きな黒い瞳と小さな唇は早華にそっくりだった。髪も、肩口で切りそろえ、側頭部を中心に白いものが目立つが、つむじの位置やすとんとした太ましい質感が早華と同じだ。目じりに小じわが目立つ顔は化粧をしているが、乗り方がぎこちない。久方ぶりの娘の帰郷のためにめかし込んだのだろう。
「よかった、無事に帰ってきてくれて…! お前の道中がずっと心配だったんだぞ…!」
噛みしめるように父が言った。褐色の着流しを身に着けた体は、長身だがひょろりとしている。短く刈った髪は半分以上が白い。彼は、里のお頭・どうえの弟にあたるが、威風堂々とした兄と比べると貧相な男だった。しかし、人当たりがよく、娘を腕に固く抱きしめ、人目も憚らず涙する顔には人間味が溢れている。
「ただいま、お父さん、お母さん。わたし、帰ってきたよ……!」
早華は両親の腕の中で、声を上げて泣き出した。
これまでずっと堪えていたものが一気に弾けたような泣き方だった。
たった三ヶ月先に生まれたからという理由で、常に九葉に対して年上ぶり、寝ているとき以外は子犬のようにキャンキャンと喧しい彼女だが、愛する家族と離れ離れの暮らしによる不安と寂しさは、彼女自身が思っていた以上に大きかったのだろう。
「早華、道中で危ないことはなかった? 最近は霊山の近くにも鬼が出るなんて聞くから」
再会の感動が落ち着いたところで、母は娘の髪を撫でながら訊く。
「大丈夫よ、お母さん。旅はずっと順調だったわ。鬼は出なかったし、天気も良かった。それに、わたしひとりじゃないから」
早華は母に対して満面の笑みで頷き、九葉を振り返った。
「お初にお目にかかります。早華殿とお付き合いをさせていただいております、九葉と申します」
普段の哄笑を封印し、できるだけ優しく笑みを浮かべ、穏やかに会釈をした。
早華『殿』が引っ掛かったのか、更衛の肩越しに見える早華がブッと吹き出したが、敢えて無視した。
夫婦が顔を輝かせ、駆け寄ってきた。
「早華からお話は伺っておりますわ。母の
「私は父の
両親は九葉の手を取り、それぞれ名乗った。こちらを見上げる二人の表情は明るく、目は熱く潤んでいる。今のところ、悪い印象は抱かれていないようだ。
「この度は親子水入らずで過ごすところ、参上の許可をいただき恐れ入ります」
「とんでもない! 私たちのほうこそ、お会いしたいと常々思っておりましたのよ!」
「よかったなあ、母さん。真面目でしっかりした方じゃないか」
「そうね、お父さん。この方なら安心だわ」
二人は娘の未来の夫を口々に褒めそやした。
九葉は戸惑うばかりだった。婚約者の両親の心象は芳しいに越したことはないが、恨みや憎しみ、妬みなど、負の感情との付き合いに慣れた彼は、これほどに歓迎されると、逆に居心地の悪さを感じてしまう。
やがて、九葉への手放しの賛辞は若いふたりの霊山での日々に対する興味へと移り変わった。
「九葉殿は軍師見習いとして本部にお勤めだそうね。お仕事は遅くなりがちなの? 娘はこう見えて寂しがりだから、結婚したら早めに帰宅していただけると嬉しいんだけれど、いかがかしら?」
「娘はしっかり勤めておりますか? 明るくて心の優しい子ですが、そそっかしいところがありますから私はいつも心配で」
「更鵠様、奥様」
九葉が辟易し始めたころ、控えめな、しかし冷えた水のように染み渡る男の声が夫婦に呼びかけた。
これまで無言で控えていたモノノフが、初めて口を開いたのだ。
彼の印象は、一言でいうならば地に伏してまどろむ獅子。
筋の通った高い鼻と薄い唇に、水色の瞳。短い白銀の髪は後ろに無造作に流し、額のあたりがやや薄くなっている。
年齢は五十代の半ば。体にぴったりと張り付くような軽鎧を纏う肉体は、夫婦と違って引き締まっており、佇まいは柔和でありながら隙がない。彼の肩に担いだ長身の銃の裏に、九葉はいくつもの過酷な戦場を見ることができた。
早華の出迎えとして夫妻に同道させられるとは、お頭からかなりの信頼を得ている人物なのだろう。
彼は高いところにある頭を恭しく垂れて進言した。
「恐れながら、早華お嬢様とお客様は長旅でお疲れのご様子。続きは『お城』のほうで伺われてはいかがでしょうか」
ここで夫婦は我に返った。
「まあ、いけない。私ったら…」
「大変申し訳ない、九葉殿。一人娘の十二年ぶりの帰郷故、つい…」
二人は自分たちのはしたなさを恥じ、九葉に謝罪を繰り返した。
「私のことはお気になさらず」
九葉がたしなめると、二人はますます平身低頭した。
「まったくもう、お父さんもお母さんも、はしゃぎすぎよ」
早華が両手を腰に当て、やれやれ、とため息をつく。
目が合うと、彼女は照れ臭そうに笑った。
出迎えのモノノフは
この璃庵の案内で、九葉と早華はお頭の屋敷へと案内された。
その道中は、珍妙奇天烈な夢のように異様であった。
今日は平日で、特別な祭りはないというのに、人々は上質の着物を身に着け、洒落た装飾品で身を飾り、大勢が行き来している。
里を貫く大通りの両脇に並ぶ店の軒先に並ぶのは、パン、白や桃色の薔薇、純白で華奢な西洋茶器、ソファと呼ばれる西洋の長椅子、白くヒラヒラとした絹を襟足や袖にふんだん詰めて花弁のように波立たせた、ドレスという衣服、紅玉や青玉の宝飾品に、象という大陸に住まう巨大な生物の牙…
いずれも『
「このような田舎の山里に、なぜ西洋の品が、と疑問にお思いですかな?」
唐突に、璃庵が歩きながら話しかけてきた。
「いえ、そういうわけでは…美しい町並みに見入っておりました」
九葉が畏まると、璃庵はおっとりと笑った。
ちゃり、ちゃり、と、彼の広い背中の上で、銃の固定具が鳴る音がやけに大きく聞こえた。
「わたしもびっくりしちゃったわ、璃庵」
早華が九葉の横から声を上げた。彼女の態度は気安い。この璃庵という男、この里で長くモノノフとして勤めているのだろう。
「おじさんやお父さんから話には聞いてたけど、こんなにごろっと変わっちゃってるなんて思わなかった。昔は建物もお店もずっと小っちゃくて少なかったのに」
この里のありさまは、彼女の故郷の記憶とも大きな隔たりがあるらしい。
「お頭主導のもと、十年ほど前に大規模な区画整理と再開発がなされたのです。より民の暮らしを豊かにせんという計らいでございます」
「ふぅん…。おじさんのすることって、凄すぎて、時々分からなくなるわ」
ふっすー、と、早華は鼻から大きく息をついた。璃庵は歩を止めぬまま、穏やかに言う。
「早華お嬢様には馴染みなきものが増えておりましょう。明日にでも、九葉殿とともに散策されるのが宜しいかと」
「明日?」早華は目を瞬かせた。「今日じゃいけないの?」
「私が同行することはすでに決定事項なのか。と言うか、まだ歩くつもりか」
九葉がすかさず口を挟む。長い山道を越えたばかりで、こちらは疲れ切っているというのに。
「君はもともと運動不足気味なんだから、ちょうどいいわ」
早華はこう言うものの、客観的に見て、あの長く険しい山道は、常人をはるかに凌ぐ脚力を誇るモノノフであっても容易いものではない。
彼女にとって帰郷とは、旅の疲れもなかったことになるほど嬉しいものらしい。
その感覚が、九葉にはわからない。
璃庵は軽やかな笑い声をあげた。
「いけない、というわけではありませんが、もうじき日が暮れます。それに、お頭がお二人のためにささやかながら宴の用意をしておりますので、まずはそちらにご参加いただければと」
宴と聞いて、早華は、やったぁ、と歓声を上げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。それを見ながら詩音と更鵠は、
「いつまでも子どもなんだから…」
と、嫁入りの決まった我が子に対し、どこか懐かしさを含んだ笑みを漏らした。
「さあ、着きましたぞ」
璃庵が足を止めた。
九葉は―――いや、九葉と早華は、言葉を失った。
異様がひしめくこのセキレイの里であるが、その最たるものは、目的地たるお頭の屋敷であった。
その高さと広さはさることながら、きつく反り返った石垣に囲まれ、物見櫓がいくつも並び、塀には狭間(鉄砲や弓で攻撃するための穴)まで開いており、名古屋や松本にある、外様の領主の居城の如き威容で里を見下ろしている。九葉は璃庵がお頭の住居を『お城』と呼んだのを思い出した。
それでいて、屋根や窓、外壁から覗く庭木など、至る所に西洋の意匠が施されおり、まさに この里の象徴と呼ぶべき建造物であった。
驚きのあまり立ち尽くす娘のそばで、
「おや、そういえば早華には伝えていなかったか」
「先々月に完成したばかりですからねぇ」
早華の両親がほのぼのとした口調でそんな会話をした。
問うように早華が振り返ると、更鵠はこう説明した。
「このお屋敷はお頭の住まいだが、『鬼ノ府』本部と『神垣ノ巫女』の御座所が統合されているんだよ。有事の際に、より速やかに命令伝達が行われるようにね。最近はどの里も大きな戦がないから、こういう補強は疎かにしがちだが、我々は歴史の影に生き、”鬼”の脅威を知るもの。常に戦いに備えておかねば」
彼の口調は終始得意げだった。
はー…と早華は感心したため息をついたが、九葉は内心穏やかではなかった。確かに理屈は正しいかもしれない。しかしこれでは、お頭の権限が過剰に強まる恐れが―――…
そう思った時、巨獣の咆哮に似た大音とともに、大手門が開いた。
夕刻に差し掛かりともされた大量のかがり火の中心に、威風堂々たる様子で立つ男があった。
はっきりとした目鼻立ちは弟の更鵠と似ている。しかし、全身から放たれる太陽のごとき覇気は、弟には、いや、この里の誰にも持ち得ぬものであった。
五十も半ばに差し掛かる年頃だが、肩口で切りそろえられた髪は黒々としてつやがある。黒を基調とした豪奢な外套の上からでも、その体躯は逞しく引き締まっていることが見て取れ、西にその人ありと謳われた大剣豪がいまだ健在であることを物語っている。右頬と左のこめかみに走る大きな傷跡が、歴戦の猛者だけに与えられる勲章めいて彼の熱い面構えに猛々しさを添え、その堂々たるたたずまいは大きな黒獅子を彷彿とさせた。
間違いようもない。この人こそが、セキレイの里のお頭・
その面貌は見知っていたが、正対すると、威圧感は倍増しになる。
意志の強い太い眉の下の鋭い眼が姪の姿を見つけ、
「戻ったか、早華」
声もまた、獅子の如くに逞しく太かった。
「ただいま、おじさん!」
早華が弾んだ声で応えると、どうえは、うむ、と大きく頷いた。
次に、一家のそばに控えめに立つ璃庵に目を向け、
「璃庵、ご苦労だった」
労いの声をかけられると、璃庵はしめやかに一礼して、その場を去った。
そして、覇気に溢れた双眸は、次は九葉に向けられた。
「貴殿が九葉殿か」
九葉は恭しく頭を垂れた。
「お初にお目にかかります、お頭。この度は…」
「あー、よい、よい」
ざっくばらんとした口調で口上を遮られた。と思ったら、どうえの巨体が、風音を立てて影のようにぶれ、その一瞬ののち、九葉のすぐ目の前に彼の姿があった。
がしり、と太い腕で首根っこを捕えられる。
「堅苦しい話は抜きだ。まずは飲め! そして食え! すべてはその後だ!」
堂衛は高らかに叫び、豪笑した。そして、呆気に取られる九葉の首を捕えたまま、どかどかと屋敷の中へと歩き出した。
「我が姪の慶事と若き二人の門出だ、盛大に祝ってやるぞ!」
早華は「ちょっと九葉、待ちなさいよ!」と、なぜか九葉に抗議し、彼女の両親にして堂衛の弟夫婦は「兄さんは相変わらずだなぁ」「ええ、相変わらずにぎやかですこと」と、まるで他人事のように笑っていた。
堂衛に引きずられ、家人たちの好奇の目を一身に集めながら、九葉があらかじめ集めておいたセキレイの里の情報を思い出していた。
西の辺境に位置するその里は、発祥から八百年強と、歴史は比較的深い。西側における外様の情報収集拠点としての役割を長らく担い、外交員たちに仮の生活の場を提供することで発展してきたが、
川は流れているが、食用の魚は乱獲の末ほぼ姿を消した。農業に適した土地はなく、里を取り囲む山の木々は木材とするには不向き。結果石を埋蔵する山を背にしているが、硬度の高い鉱石が複雑に混ざっているため採掘は不可能。また、この百年近く、里周辺に際立った異変もないため、周辺の堀の補強や砦の新設など、軍備増強の候補に挙がることもなかった。
気候や各々の歴史により、里の文化に差異はあるが、この里は異常だ。外様に、しかも欧州にかぶれていた。
早華の反応からわかるように、少なくとも十二年前はこうではなかった。この著しい変化が、険しい山に閉鎖された里の内側から自然に起こるとは思えず、これほどの規模の街並みを、手前の資産だけで拵えることができるとも思えないが…