のちに九葉は振り返る。この一件において、これは最も悪い偶然であり、失態であった、と。
この里の屋外で活動しているのは自分たちを除けばモノノフ部隊ばかりだと思っていたし、こんなところで早華と鉢合わせるとは夢にも思っていなかった。
阿羅彦は高みからこちらを見下ろしていたためか、早華の位置を把握していたようだが、警告する前に鉢合わせてしまった。
座敷牢で堂衛が語った通り、早華は無事だった。投獄された九葉と違い、彼女は自宅で一晩過ごしたためか、怪我はなく、身綺麗にしている。しかし、その表情は冴えず、彼女の代名詞といえる、やかましいほどの活力はなりを潜めていた。彼女も、実家の暗部を知ってしまったのだろう。恐らくは、阿羅彦のことも含めて。
傍らに立つ阿羅彦の顔から表情が抜け落ち、射干玉の瞳が氷のように冷えた。手の中でくるりと直刀を回転させて手首を柔らかくしながら九葉を背に庇うように立ちはだかる。
それを見て早華は怯えたような表情になり、一歩後退した。
九葉は阿羅彦を背後に押しやり、早華に話しかけた。
「早華、ここで何をしている?」
「君を探してたのよ。……逃げたって聞いたから」
早華の様子はぎこちなかった。この様子では、彼女もまたすべてを知ったのだろう。この里を急激に栄えさせた忌まわしき仕組みも、阿羅彦の出生も、そして恐らくは、九葉の鵬翼への仕打ちも。
九葉は注意深く観察する。
堂衛が彼女を九葉・阿羅彦捜索の人員に加えるとは思えない。やはりおなじみの独断行動であろうか。となると、用件は限られてくるが、それでも九葉は敢えて訊いた。
「私を探して、どうするつもりだ」
早華は気まずそうに黙り込んだ。
片腕で阿羅彦をけん制しながらじっと待つと、
「もう知ってるんだよね、おじさんたちがしてたこと…」
やがて、早華がぽつりと訊いた。
「…ああ」
「これから、どうするの?」
「この里で行われていた悪事を暴き立て、阿羅彦とその母を救出する」
九葉は隠すことなく決意を述べた。
早華の黒い瞳が大きく見開かれ、しだいに目尻が悲しげに下がった。
「そう…だよね。普通は、そうするわよね…」
早華は弱々しい声で呟いた。
薄暗い路地裏で向かい合う男と女の間に、障害物は何一つあり得ない。しかしこの瞬間、両者の間の空気は、冷たく、そして重苦しいものになった。まるで、分厚い鉄の壁のように。
「お前はどうする、早華?」
今度は九葉が問うた。
「我々とともに悪事を暴くというなら、拒みはせぬが」
早華の幼さの残る顔が歪んだ。まるで、鋭い棘に全身を刺されたかのように。
その痛みを堪えるかのように、彼女はしばらく、じっと唇を噛みしめて俯き、やがて真っすぐに顔を上げ、九葉を見つめた。濡れた黒い瞳に、決意を宿して。
「九葉、わたしたちと…いいえ、わたしと一緒に来て」
「それはつまり、この言語道断の所業に加担せよ、ということか?」
「違うわ」
「お前たち家族を幸せにするために、他の家族に人以下の扱いを強いろ、と言うつもりか」
言葉を変えて問い直すと、
「違う、そうじゃないわ!」
早華は金切り声で否定した。
「わたしだって、本当は許せない。悪いことだってわかってるの…でも…仕方なかったのよ、みんなにはお金が必要だったの。わたしのお母さんは、そのお金がなきゃ死んでたから…。みんな好きでこんなことしてるわけじゃないわ。本当はやめたいと思ってるの」
早華は語る。黒い瞳に大粒の涙を溜めて。
自らを落ち着かせるように、一度深く呼吸をし、
「だからわたしは、弥紗ちゃんを犠牲にしなくても、みんなで幸せに暮らせる方法を、この里で探すわ。みんなも本当は苦しんでるの。だから、いつの日か必ずやめさせてみせる。わたしたちは『家族』だから、助けてあげなきゃ」
だから共に来てほしいと、早華は言った。
彼女は伯父を見誤っている、と九葉は思った。あの一家は弥紗のために自分たちの生活水準を引き下げるつもりはない。罪悪感などとうの昔に失い、取り戻すことも決してない。阿羅彦を使って弥紗のような性玩具を繁殖させようとすらしている。それこそ家畜のように。
そして、早華の決意が早々に挫けることも容易に想像できる。家族を何よりも大切に思う性格からして、彼女はこの里の異常な環境に飲み込まれ、伯父たちと同化するだけだ。
しかし、九葉はそれを説く気はなかった。彼女が聞く耳を持たないことはすでに承知している。だから、霊山でそうしていたように、彼女の話に耳を傾け、解決に向けて冷静に問題点を指摘した。
「具体的にどうするのだ?」
問うと、早華はひどくまっすぐな瞳で九葉を見つめ、
「わからないわ。だから君の力が必要なの」
と、言った。己の決断に一切の疑いを抱かぬ、強く、真摯な口調で。
「君ならきっと見つけられるわ。弥紗ちゃんも、おじさんたちも、どっちも救えて、みんなで幸せになれる方法を。時間はかかるかもしれないけど、わたしたちなら、必ずできるって信じてる」
早華の表情には笑みこそなかったものの、彼女が語るような、明るい未来を確信していた。まるで、厳しい嵐で磨き上げられた空のように澄み渡っていた―――まだ、何も乗り越えていないというのに。
「だからお願い、九葉、力を貸して。…本当は、みんないい人たちなの…」
最後に早華は、もう一度希(こいねが)った。
九葉は終始能面のような無表情を保ったままだった。
早華は知らなかった。彼女の言う『誰も犠牲にしなくてもよい未来』を作り上げるだけの力を、彼女自身が持ち合わせていないことを。
彼女は危うかった。理想を語りながら、肝心の方法については九葉頼みにしていること、そして、なぜか九葉が彼女に協力すると信じて疑わないことが。
矛盾、不明、理不尽は山ほどある。
しかし、今更指摘したところで何になる? 早華とはもともとそういう女だったではないか。
だから九葉は、指摘を一つにとどめた。
「その方法を見つけるまでの間、弥紗と阿羅彦は男たちに姦され続けるのか」
「そ、それは……」
早華は言葉に詰まった。とっさに反論できなかったし、何より、九葉の返答があまりにも早華に対して冷たく刺々かったからだ。
九葉はこれまでにも、早華の思い付きに対していつも冷静な意見を述べたが、それは、彼女を手伝ったり、危険から守るためであった。しかし、今の九葉からは、一切の思いやりが感じられなかったのだ。
「もうじき弥紗は死ぬ。その後はここにいる阿羅彦が一人で凌辱を受けることになるのだぞ」
阿羅彦が驚いたように見上げてきたが、九葉は話を続けた。
「お前は年端もいかぬ子どもを生贄に得た金で飯を食いながら、その方法とやらを考えるつもりか」
「だ、だったら、尚更急いで方法を―――」
早華は途中で言葉を失った。
自身を殺そうとした辻斬りの顔が目に入ったのだ。美しい目鼻立ちは、幼いころの弥紗に―――記憶の中の幼馴染がそのまま現れたようにそっくりだった。
そうして気づいたのだ。自分はいま、これからも体を売り続けろと、本人の目の前で語ったに等しいことに。
違う、そんなつもりはない。私はそんな、ひどい人間じゃない。いくら辻斬りの犯人とはいえ、こんな小さな子どもにそこまでひどい扱いをすることは、望んでいない。
私はただ、みんなが幸せになれる道を探したいだけ。
どう言えば、九葉にきちんと伝えられるのだろうか。自分の想いを。みんなの本当の願いを。
こんなに強く思っているのに、彼にきちんと伝えるための言葉が出てこない。
そんなもどかしさと早華が格闘していると、九葉は一つ、小さなため息をついた。そして―――歩き出した。
無言で早華とすれ違った。
「く、――――――」
早華は言葉を失った。
ばさり、と、彼が身に着けたモノノフ装束の衣擦れの音が大きく聞こえた。それは、何か大切なものが切れる音のように不吉で、体の芯を凍らせた。
すれ違う瞬間に見えた九葉の顔からは、一切の表情が消えていた。そしてそれは、隣に並ぶ阿羅彦と、判で押したように似通っていた。
慌てて振り返ると、九葉は振り返りもせず、淡々と言い放った。
「婚約者として、私がお前に伝えるべきことはすべて伝えた。さらばだ、早華」
早華は呆然と立ち尽くした。
堂衛ほどの上背はないが、広く厚い九葉の背中が見えた。何度もおぶさったはずのそれは、今はまるで、早華の悉く否定している壁のようだった。
みんなが幸せになる道を探りたい早華。
第一に阿羅彦と弥紗を救い出そうとしている九葉。
どちらも悪いことではないのに、共存できない願ではないはずはなのに、しかし、早華はこの瞬間に自覚した。
自分たちの道は分かたれた―――九葉との関係は絶たれてしまったのだと。
あまりにも唐突で、理不尽な終わりだった。
どうしてこうなってしまったのだろう。
彼はいつだって何でも教えてくれて、いろいろな難しい問題をあっという間に解決してくれた。出会ったころから、ずっとそうだったのに。
少年の華奢な背中が目に入った。
阿羅彦。弥紗の息子で、里を脅かし、伯父たちを苦しめていた人殺し。
その彼を、九葉は付き従えて征く。婚約者である自分ではなく。
とかく悪評を買いがちな彼を一番理解してあげていた自分をひとり薄暗い場所に置き去り、出会って数日足らずの、殺人鬼の少年の手を取って。
二人の後ろ姿にはなんの違和感も見いだせなかった。まるで何年も共に戦った主従のように。
この里を訪れたのも、最初からこの二人連れであったかのように。
ピィィーーーーーーーーーーーッ!
路地裏に、甲高い呼子笛の音が響いた。それは建物と建物の間で反響し、路地裏から大通り一帯に溢れた。
九葉と阿羅彦は驚いて振り返った。
早華だった。早華が、呼子笛を吹き鳴らしていた。
「こいつ……!」
阿羅彦が唸り、斬りかかろうと刃を振りかざすが、
「やめろ、阿羅彦。時間の無駄だ」
九葉はそれを止めた。
今更早華を斬ったところで事態は変わらない。機は既に逸していたのだ。
遠くから複数の男たちの怒声と足音が聞こえてきた。
二人は弾かれたように路地裏を走り出した。