暗夜を往くもの ~特務隊誕生秘話~   作:海羽

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(五)

 客間に戻った九葉は、堂衛から宴がお開きになったことを告げられた。更鵠の意識が戻らず、さらに、鵬翼が酔いつぶれて行動不能に陥ったためらしい。

 呆気ない幕切れであった。

 九葉と早華は別々の寝所に案内された。

 布団に横たわると、全身にどっと疲れが湧き出てきた。

 四肢が布団に根を張り、指を動かすのも億劫だ。しかし頭だけは冴えていて、なかなか寝付くことができない。

 敵地ではいつもそうだ。

 九葉は本日の出来事を振り返った。

 異常なセキレイの里と、お頭一家。途南率いる怪しげな部隊。そして―――

(阿羅彦……)

 ひとたび思い出してしまえば、彼の姿は本日見聞きしたものすべてを褪せさせ、九葉の心を占めて離さない。

 あの射干玉の双眸に、いまだに見つめられている、そんな気がするのだ。

「九葉……」

 寝所と廊下を仕切る障子の向こうから、か細い声が聞こえてきて、九葉は我に返った。

 少しだけ障子が開き、早華が顔を覗かせた。

「早華? どうした、このような時間に」

 慌てて半身を起こし訊くと、早華は睫毛を伏せてもじもじと身じろぎした後、

「そっちに行ってもいい?」

 上目遣いで、彼女にしては歯切れの悪い、弱々しい口調で訊いてきた。

 九葉はそれだけで彼女のおおよその用向きを悟った。

「………ああ」

 と、頷いて彼女を招いた。

 こちらも確認したいことがあったから、丁度いい。

 早華はそそくさと障子の隙間をすり抜け、用心深く締めた後、九葉の布団の傍らにちょこんと腰を下ろした。

 香油でも使ったのか、彼女の髪から花のようなにおいが漂ってくる。

 華奢な体を包む閨着は、この季節に身につけるには生地が薄いものだった。ほっそりとした首筋と鎖骨が晒され、小ぶりな胸の形がくっきりと浮き出ている。

 九葉が灯した行燈の明かりを受けて、幼さが残る白い頬に、長い睫の影が伸びている。

 彼女は何かを求めるようにちらちらと九葉に視線を投げかけるが、敢えて気づかないふりをした。そのせいで、二人の間の空気は必要以上によそよそしいものになった。

 沈黙は永遠に続くかと思われたが、

「あ、そうだ」

 早華が思い出したように声を上げ、頬を膨らませて九葉を睨み付けた。

「さっきはよくも、私を置いて一人で逃げてくれたわね」

 先ほどの宴で、彼女がいとこたちにからかわれたときに、九葉が厠に行くと言って席を立ったことを怒っていた。

「すまん」

 九葉は素直に謝った。彼女を見捨てたことは真実だった。

「あの後、ほんとに大変だったんだからね。鵬翼はうざいし、彗ちゃんはみんなの前で根掘り葉掘り聞こうとするし。そもそも、婚約者を一人置いて逃げるなんて非常識…ねえ、九葉、聞いてるの?」

 九葉はうんうんと頷くばかりだ。

 あそこで気まずい思いをしたのは九葉も同じなのだが、彼女の辞書に気遣いという言葉がないのもまた承知している。

 ある程度彼女の罵詈雑言を流した後、

「早華、途南というモノノフを知っているか?」

 と、九葉はおもむろに聞いた。

「誰それ?」

 早華は首を傾げた。

 九葉は途南の風体を説明したが、彼女は「知らないわ」と首を左右に振った。

 彼は、早華が霊山へ発った後にこの里のモノノフになったらしい。

「その人がどうかしたの?」

「先ほど厠を探していたら道に迷ってな、偶然通りかかった途南殿に案内してもらったのだ」

「そうなの」

 早華の反応は上の空だったが、構わずに九葉は話を続ける。

「その途南殿から聞いたのだが、現在『神垣ノ巫女』が病床にあると、お前は知っていたか?」

 早華が、あっと息をのんだ。

 このことはまだ早華の耳には入っていないと九葉は予測していた。しかし、彼女は具合が悪そうに口を閉ざし、大きな黒い瞳を、なにか縋るものを探すように辺りを彷徨わせ、

「……うん」

 しばしの沈黙ののち、小さく頷いた。まるで、隠していた失敗を見咎められたかのように、表情を沈ませて。

 この様子だと、里帰り以前から知っていたようだ。

「なぜ黙っていた」

 別に黙っていたからどうというわけではないが、九葉は明日の朝、神垣ノ巫女への婚約報告を兼ねた挨拶を計画していた。大抵の里ではそれが暗黙の了解となっているからだ。

 特に、早華はこういった「常識」を守りたがる性質だ。故に、彼女が巫女の病を知っていながら報告しなかったことを不思議に思ったのだ。

 早華を責めるつもりはなかった。しかし彼女は、まるで厳しい叱責を受けたように肩を落とし、俯いた。そして、今にも消えそうな声で語り出した。

「……だって、弥紗ちゃん、すごく美人なんだもの」

 九葉は怪訝な顔をした。

 そういえば以前、セキレイの里の神垣ノ巫女は絶世の美女だと、霊山で噂になったことがあった。ついでに、早華がその時、その有名人と自分は幼馴染で、昔はよく一緒に遊んでやっていた、と自慢していたことも併せて思い出した。

 しかし、それが今更なんだというのだ。

 ぽつり、ぽつり、と、早華は語る。

「それに、頭がよくて、性格もすごくしっかりしてて…弥紗ちゃんに比べたら、私なんてお豆粒みたいだし…」

 膝の上で、小さな手がきゅっと閨着を握りしめる。

 どういうわけか、小さな唇からこぼれるのは、彼女らしからぬ後ろ向きな台詞ばかりだ。

「九葉が弥紗ちゃんに興味を持って、会ったりしたら…心変わりするんじゃないかって……」

 九葉はようやく彼女の心中を理解した。つまり。

 だから、弥紗の名を極力出さぬようにしていた、というわけだ。

 九葉は呆れた。ここまで来て、そのようなことが起こるはずがないのに。

 しかし、早華は震えていた。そのような裏切りが起こりうると、本当に信じていた。

 女は(男にも起こりうるらしいが)結婚が近づくと、唐突に情緒不安定になることがある、とどこかで聞いたことがある。九葉を家族に紹介し、結婚の現実味が一段と増したことで、その落とし穴に嵌ったのだろうか。

「くだらん」

 九葉は鼻で笑った。

 早華の表情が傷ついたように揺らいだ。

 こういう時の対処法は、このように伝えられている。すなわち「軽く流す」。

「その弥紗とやらがどのような女かは知らぬが、私がお前以外の相手と婚約など、ありえんことだ」

 目の前の黒い瞳が大きく見開かれた。と思った次の瞬間、

「九葉……!」

 早華は九葉の胸に勢いよく飛び込んだ。

 急な出来事だったため、九葉は動くことができなった。倒れぬように懸命に踏ん張り、それが早華には嬉しかったようで、彼女はますます強くしがみついた。

 薄い胸が胸板に強く押し付けられるのを、九葉ななすがままにしていた。

 どうやら、彼女は最も欲しい言葉を得られたようだ。

 早華は婚約者の逞しい肩にしばし顔を埋め、やがて顔を上げた。

 熱を溜めて潤んだ黒い瞳が、近いところで九葉を見つめた。

「ねえ、九葉…。わたしね、一人っ子で、ずっと『姉さま』って呼ばれるのに憧れてた…」

 飛びついた拍子に薄い閨着が大きく乱れ、華奢な肩と二の腕がむき出しになっていた。控えめな胸元も…。しかし、早華はそれを恥じることも、隠すこともしない。

 彼女はすべての体重を九葉に預けていた。彼が自身のすべてを受け止め続けると信じて疑わなかった。

「彗ちゃんとか鵬翼とか、近所の子たちは『姉さま』って呼んでくれたけど…でも…ちゃんと、本当の弟か妹が欲しかったの……」

 弱い明かりの中で、幼さの残る頬に紅が差す。

 中途半端に薄衣を纏った細い体が男の胸の上で身じろぎする。

 いつものキンキン声が弱々しく震えて、それが無意識の婀娜となり、男の本能の部分に揺さぶりをかける。

「だからね…、わたしたちの子どもには、きょうだいがいっぱいいて……たくさんの子が『姉さま』って呼ばれるようにしてあげたい……」

 露わになった薄い胸が、九葉の胸板に擦り付けられる。

 小さな唇が行燈の弱い明りを受けて艶めき、熱のこもった小さな息をひとつ漏らす。

「だから…わたし……、赤ちゃん、たくさん欲しいな…ねえ、九葉……」

 早華が求めていることは明白だった。婚約者ならば、応じてやるのが正しい選択だろう。

 九葉は早華の華奢な双肩を手のひらで包み込んだ。

 男のぬくもりに早華は驚いたように軽く身を縮こまらせたが、そっと仰のいて、瞳を閉じた。

 九葉は彼女の小さな唇に己がそれを近づけ―――

―――自分を殺して、嫌いなものと絡み合ってる―――

 頭の中に、少年の澄んだ声が鮮烈に響いた。

 気が付けば、九葉は両手で早華の体を引き剥がしていた。

 目の前で呆然とする早華を見て、胸の奥に苦いものが広がるが、もう後戻りはできない。

「今日は疲れている。明日でもよいか」

 できるだけ優しい声音で告げると、早華の顔がくしゃりと歪んだ。

 彼女はまるでそれを隠すように俯き、誰にも触れられることのなかった唇を強く噛みしめ、そして、

「……わかったわ」

 と、消え入りそうな声で応えた。

 彼女は俯いたまま、乱れた閨着を整えた。このまま立ち上がるかに思われたが、

「九葉……、同じ布団で寝てもいい?」

 断れば、今すぐ倒れてしまいそうな声。問いというよりも懇願に近かった。

「……ああ」

 九葉は頷いた。

 明かりを消し、早華に背を向けるように身を横たえると、彼女は早速布団に入ってきた。

 拒絶するように向けられた背中に早華はぴったりと身を寄せ、ほどなく小さな寝息を立て始めた。

 背中に縋り付く早華の体温に罪悪感が募る。しかし、九葉はとても彼女を抱く気にははれなかった。

 彼の心はいまだに、巫女の座所に通じる回廊にあったからだ。

 そこで出会った、阿羅彦という少年。

 静かな池の上に佇み、じっと九葉を見つめる美しい貌が―――深い闇を思わせる瞳が、いつまでも頭から離れなかった。 

 

 

 

 同じころ、セキレイの里のお頭・堂衛は、城の一角にある四畳半の茶室にいた。

 彼は一人ではなく、二名の部下を伴っていた。璃庵と、途南だ。

 茶室は狭く、ここに坐せば、否応なしに膝を突き合わせ、話し声は必然的に小さなものになる。

 堂衛は堂々と胡坐をかき、璃庵が点てた茶を一口すすり、訊いた。

「あの男、お前たちはどう思う?」

 九葉のことである。宴では親しげに言葉を交わしていたというのに、今、彼の口調は重く厳しかった。

「早華お嬢様の婿に相応しい、良き青年だと思いますよ」

 茶器を片手に、璃庵がのんびりと見解を述べた。

 その隣、肩が触れ合うほど近いところに正座する途南も頷いた。

「尻に敷かれているところも含めて」

 冗談めかして言うと、璃庵はくすりと笑った。

 しかし、主たる堂衛の表情は晴れない。

 彼の大きな手は名物の茶碗を傍らに置き、代わりに懐から手紙の束を取り出した。

 何度も折り曲げられて皺くちゃになった京和紙の書面に厳しい目を落とす。

 宥めるように、途南は堂衛に告げた。

「此度の件は、まぁ…天極様の考えすぎという気もします。歳をとると心配症が極まると言いますからなぁ」

 璃庵も薄い唇を綻ばせた。

「その通り。だから、年寄りの私は見張りをつけて、しばらく見守ることにするよ」

 薄い青色の瞳がすっと細められて途南に向けられ、途南は悪びれもなく、璃庵に笑みを返した。傍目には皮肉の応酬に見えるが、二人の交わす目線は長年の戦友のように気安く、それでいて力強い。

 堂衛はしばらく口を閉ざし、書面を睨み付けていた。二人の腹心の話は聞こえている。途南の見立てや璃庵の提案を否定するわけではない。しかし…。

「早華はあれに惚れている。手荒なことはしたくない…たとえ、天極様のご命令があっても」

 堂衛は重苦しく口を開いた。それは、部下二人への命令であり、願望の吐露でもあった。

 彼の手の中に納まっている手紙は、昨日、極秘裏に天極から届けられたものだった。書面には国籍を問わぬ様々な文字が滅茶苦茶に書き散らされ、しかもあちこちが墨で黒く塗りつぶされている。

 したためた者の正気を疑うような書面であるが、しかし、これを彼らだけが知る法則に当てはめて読み解くと、意味のある文章が出来上がる。

 こう記してあった。

 

『九葉を抹殺せよ』

 


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