また、今年が終わる。
中庭で古木を眺めながら、珊揮はそんなことを想った。
年を見送ることが何度目なのか、珊揮はもう止めてしまった。
つまり、珊揮は自分の年を正確に知らないということになる。
もはや年齢などどうでもよくなるくらいに、珊揮は生きていた。
雁で今の王が立つ前から、珊揮は生きているので五百年以上生きていることは確実だ。
前の王の頃のことなどは、昔のこと過ぎて現実味が薄らいでしまっていた。
珠鳳という娘がいた。美しく、才たけた娘だった。優しく、強い娘だった。
けれど、死んでしまった。ひどい死に方だった。
あの時の胸を突き破るような強い感情も、今ではもう思い出に過ぎない。
ひどい男だと、珊揮は自嘲した。
あんなに愛していた娘の死を、こんな風におだやかに思い出せる日が来ようとは、思いもしなかった。
「珊揮」
シミジミとしている珊揮の背後から、不機嫌そうな声が響いてきた。
いつからそこに居たのだろうか。珊揮が振り返った先には、天女の姿をうつしとったような人物が立っていた。小雪混じりの風景の中では、それがいかにも儚い存在のように見えるのが、奇妙におかしい。
「なんだい?」
「メシ」
天女は、単語しか発しない。
「私に『メシを作れ』と言ってるのかい?」
珊揮は、わざとそんな風に言って、戒莉を怒らせることが好きだ。
「飯ができた。はやく食え」
案の定、戒莉はそれだけ言うと、ふいっと踵をかえして部屋に帰っていった。その勢いに、扉も悲鳴を上げて閉まった。
「やれやれ」
誰も見ていないだろうに、珊揮はそう肩をすくめた。
そうしてもう一度、古木を振り返った。
今は花もなく、葉も落ち、実も結んでいない木だ。
誰もいない。
ただ、はらはらと雪が散っていた。
寂しい景色だ。
あの日、こんなたたずまいの何もないはずの枝に、あの娘が吊るされた。
忘れては、いけない。
珊揮は己れに命じる。
愛しいものを再び失わないために、あの日の痛みを忘れてはいけない。
卓の上にはただひとつ、もうもうと湯気を立ち上らせる土鍋がでんとのっている。
「メシって、これかあ」
「嫌なら食うな」
気短かな言葉だけを残して、戒莉は鍋の中に箸を突っ込んだ。
「嫌じゃないよ。むしろ、嬉しいねえ」
珊揮は、そう微笑んだ。
戒莉ができる料理はこれだけだ。
ただし、野菜や肉、魚なんかをぶつ切りにして湯で煮ただけなので、これを料理と言っていいのかどうか少々疑問だ。
出汁もとらないし、味付けも取り皿にとってから塩を軽くふるだけなのだ。
初めてこれを出された珊揮は、恐る恐る口をつけたものだが、これが意外に美味い。
そう珊揮が褒めると、戒莉は毎日のようにこれを作った。
これには、さすがに珊揮もたまには違うものを作ってみたらどうかと言わざるを得なかった。
以来、しばらく戒莉はこれを作らなくなった。
いや、これどころか、何も作らずに今に至ってしまった。
今年は、堺仁と常弘が寺小屋の生徒の家に御呼ばれに行って留守だ。誰が夕餉を作るとも決めてはいなかったが、戒莉はしぶしぶ土鍋を火にかけたらしい。
珊揮は、湯気の向こうで怒っているという顔をしている戒莉を眺めながら、その料理ともつかない料理を食べた。
「やっぱり、美味しいねえ」
「うるさい。黙って食え」
不機嫌だ。
「お前は、いつも怒ってばかりだね」
「別に」
「それそれ、その『別に』も問題だね」
溜息などひとつ、珊揮は落としてみせた。
戒莉は、ぐっと口を結んでしまう。
「昔のお前は、もっと可愛かったのにねえ」
「俺は、もう可愛いなんていう子供じゃない」
吐き棄てる。
確かに、戒莉は可愛いだけの子供ではない。
年が改まれば、おそらく成人となる。
普通の者ならば給田を受けるような年だ。
しかし、戒莉には土地は与えられない。雁の民ではないからだ。
「お前が大人だって言うのなら、きちんと人付き合いが出来るようにならなくちゃあねえ」
しごく尤もなことを言っている自分に、珊揮は内心舌を出していた。
偉そうなことを言ってはいるが、珊揮は戒莉が人当たりのよい人間になるとは思って居ないし、そうなって欲しいとも実は思って居ない。
「……」
何も言わない代わりに、戒莉の口は食事へと向かう。おそらく、いつもより食べているだろう。
珊揮も何も言わずに、鍋をつつく。
沈黙と、鍋からあがる白い湯気だけが、辺りを満たしていった。
「珊揮」
居た堪れない空気に、音を上げたのは戒莉の方だった。
「なんだい?」
まるでずっと会話を続けてきたような自然さで、戒莉は微笑む。
「あんたの言ってることは、分かる」
随分としおらしいことを言い出すものだ。
「分かるけど、俺はどうしたらいいのか分からない」
珊揮は、益々笑みを深くした。
やはり、戒莉は可愛いままだ。
「まあ、お前の愛想が良いのは、気味が悪いからね。まあ、やっぱりこのままでいいかもね」
満足気に、しゃあしゃあと珊揮は言った。
「な……んだよ、それは!」
戒莉は、呆れ半分、怒り半分という複雑な表情で語気を強めた。
「ああ、お前は本当に可愛いねえ」
戒莉の感情の比率が、怒り十割になったのは言うまでもない。
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珊揮は、秘蔵の酒を取り出して戒莉に勧めた。
戒莉は、酒に弱いというほどでもないが、強いということもない。ただ、酒が入ると、常よりは雄弁になる。
最初は、それを警戒した戒莉はあまり酒に口をつけなかったが、徐々にその城壁が崩れ、次第に杯が重なっていく。
もはや珊揮の思うツボだ。
「そういえば、あのお嬢さんとはその後どうなったんだい?」
頃合いを見て、珊揮はそう切り出した。
一言でいうと、戒莉はとろんとしていた。
地が白い分、肌が紅く染まっているのがよく分かった。目が潤んで、まぶたがやや重たげだ。
「なにもない」
ぶつと、断ち切るような声音に珊揮は、満足した。
「じゃあ、あの未亡人とはどうなったんだい?」
「隼蘭のことか?」
「そうそう」
珊揮はうなづきながら、あの女はそんな名であったのかと思った。
「隼蘭は、分からん」
底に残った酒を、戒莉は一気に飲み干した。
珊揮は、すかさず空になった戒莉の杯を酒で満たした。
「分からないってとういうごとだい?」
「文字どーり。何考えてるか分からないんだよ! よりが戻ったのか、そうでないのか、全然分からない」
戒莉の語尾が下がっていった。
なるほど、よりが戻ったかと思ったが、また拒絶されたようだ。お気の毒なことだと、珊揮は微笑んだ。
「あと、あの人妻は?」
畳み掛けるように、珊揮は問いかけていった。
「人妻?」
首を少しかしげて、戒莉は酒をちらりと舐めた。
「人妻がいただろ。ほら、寺小屋にも押しかけてきただろう。あれっきりなのかい?」
「ん?」
記憶を懸命に探っているが、戒莉の中には人妻の該当者が見当たらないらしい。
と、戒莉の手元から杯がこぼれ落ちた。
今日は少し飲ませすぎたかもしれない。
珊揮は、席を立って、戒莉の衣服にかかった酒をふいてやった。
戒莉は、特に抗う様子もなく、ぼんやりと自分の粗相の後始末をする珊揮を眺めていた。
「俺は、人妻には手は出さない。あんたとは違う」
戒莉の口がそちらへと開いた。
目もとは険しいが、何故か口元が笑っている。
「俺は一度に何人もとつきあわないし、女と別れたからって直ぐに別の女と付き合わらい!」
やや、発音があやしい。
戒莉はそう叫ぶと、酒瓶を勢いよく掴み、そのまま口をつけて傾けた。
「おいおい、ちょっと待ちなさいよ」
珊揮は、慌ててその酒瓶を抑えた。
ごくりと、戒莉の喉が鳴った。
「ああ、飲んじゃった」
がくりと、珊揮は肩を落とした。
戒莉の頭はゆらゆらと揺れたが、なんとか倒れずにそこに留まっていた。
「大丈夫かい。ああ、ほんと呑みすぎだね」
「そんな、に飲んでない……ゾ」
戒莉はその主張を繰り返した。
その唇から零れた息は、いつもより熱を帯びており、実に酒くさい。
これはもう、眠らせた方がいいだろうと、珊揮は戒莉の肩を掴んだ。
「俺、に、触るな……ヨ」
その言葉とは裏腹に、戒莉の体は均衡を失い、正面から珊揮の胸元にもたれかかった。
「もう、横になった方がいいね」
珊揮は、戒莉を抱えながら、その背を軽く叩いた。
ふっと、戒莉の体から力が抜けた。
「サン、キ」
その声は小さく、かすれて消え入りそうだが、確かに珊揮を呼んだ。
「なんだい?」
ごく、当たり前のように珊揮は応えた。
「オレ、ここに……ココにいたい、んだ」
心から搾り出すように、戒莉は切れ切れにそう呟いた。
珊揮は、こんどは戒莉の背をなでた。
「そうだね。ここに、いたらいいよ。戒莉がそうしたいなら、ずっとここにいなさい」
それを聞いたのか、聞かなかったのか、戒莉はすとんと眠りに落ちた。
よいお年を!
『くる年』につづきます。