【完結】Lostbelt No.10033 黄金少女迷宮 ゲスタ・ダノールム 作:388859
けれど体験して、こんなにも辛いことなのか、と驚いた記憶は今も新しい。
人は自分を嫌い、世界は自分を置いていく。
変わらないのは自分だけで、
それでも、この体がこれからも機能し続けることは明らかだった。
朝から夜になり、夜から朝へ流れるように。この体は変わらないまま、されど骨董品のように古帯びていくわけでもなく、外見だけは瑞々しさを保ち、悠久の時を生きていく。
それは確かに、ある意味で生命としては究極的なあり方だったかもしれない。
けれど、そのあり方は一人の命しか生かさなかった。
だから、心が満たされないのも当然のこと。
何をすれば満たされるのかも、何を得れば悦楽に浸れるのかも分からない中、限りない命をただ浪費する。
いや、それは浪費というよりは垂れ流しか。まるで蛇口を捻って、そのままバスタブをお湯で溢れたままにしておくように。
結局の話。
振り返ってみて、気付いたのだ。
ああ。
この生命には、果たしてどんな意味があるのだろう、と。
たった一度で良い。
この虚無の塊に、一度で良いから、幸福を与えてほしかったのだ。
限りある命だからこそ、許される幸せなのかもしれないけれど。
限りない命だからこそ、不幸だなんて言ってはいけないかもしれないけれど。
それでも、
まだ、何も始まってすらいないから。
まるで白馬の王子を待つ、お姫様のように。
不死という揺りかごに揺られて、私はその時を待ち続けている。
……その願いが。
根本的に間違いだったと、そう気づくまで。
意味が。
分からなかった。
確かに、藤丸立香はこの世界の人間ではない。そういう意味では確かに、マシュと一緒にいることは忌避されるべきことだし、何なら殺し合いに発展することもあるだろう。
しかし、カドックはそれを知らない。知るハズがない。なら彼が言いたいのはそういうことではない。
「初めは……そうだな。小さな、ほんの小さな違和感だった」
平和な世界のハズだった。
全てが終わり、この世界は元の輝きを取り戻し、太陽の光を反射出来るほどの建造物が無傷で並ぶくらいには、人の世界が再生していた。
剣呑な気配とは無縁の、優しい世界。
それが。
余りにも簡単に、崩れていく。
「僕は君らみたいに優秀なわけじゃない、だからこの違和感が間違っていた可能性はあった。でも僕だって、目の敵にしている相手の顔くらい、間違えたりなんてしない」
カドックが、指を突きつける。
まるで名探偵が思考している間に、他の人間が被害者を犯人と間違えて弾劾するみたいに。
「そうだ。お前は藤丸立香じゃない。お前はお前で間抜けな面してるけど、そこまでだ。少なくとも、全てを終わらせたアイツは、お前のように惚けてばかりじゃない」
「………………」
ぞわり、と。
何か、肌の上を走り回るような感覚が、藤丸を襲う。それはつい最近、感じ取ったことのある虫の知らせだ。
そう、例えば。
カルデアが凍り付けにされ、地球が漂白されてしまった、あのときのような。
一つの終わりが今始まってしまったような、そんな感覚。
(……なんだ……? なんで、今になっていきなりこんなことになったんだ? ついさっきまであんな、殺し合いとは程遠い話をしてたのに……催眠とか、洗脳の類い? あの人の頭を簡単に潰すオティヌスなら、それくらいやりかねないだろうし……)
……と、本当に決めつけていいのか?
何も間違ってなどいない。判断材料が少ない以上、今はそれで良いハズだ。
しかし藤丸の中で、どうしようもなく心がざわつく。
考えることを決して止めるな、と本能が叫ぶ。思い出すのは、マシュの頭が爆ぜるあの惨劇。一手仕損じただけで、アレ以上の地獄が始まると、理性が警鐘を鳴らしている。
「ちょ、ちょっと待ってください、カドックさん!」
マシュが盾で身を隠しつつ、カドックに説明を求める。その姿は、見慣れつつあるオルテナウスの霊基だった。
「先輩が、藤丸立香が偽物だなんて、何かの間違いです。サーヴァントである私が、マスターを見誤ることなんてあり得ません。私と先輩は今も、令呪によって繋がっていますし……!」
「……ふん。相変わらずの藤丸至上主義だな、キリエライト。だから、こんな簡単なことも分からないのか?」
鼻で笑うように。
カドックは、告げた。
「ーー藤丸立香は、
それは。
それは、とても可笑しな指摘だった。
藤丸立香は、誰か言うまでもなく男であり、何よりそれを疑う必要などない。成り代わるとしても、性別の違う相手に成り代わろうなど誰が思うだろうか。
だから、それはまさしく鼻で笑える指摘だった。
なのに。
藤丸の中で、一つの疑念が浮かんだ。
そもそも。
……ここは、自分の知る世界とは、全く違う別の世界ではなかったか?
そうであれば。
そこに入り込んで、馴染んでしまったのが自分であったのなら。
元々
「……うそ」
だからだろう。
マシュのそんな、震えた声を聞いて、疑念が確信に変わったのは。
「……待ってよ、マシュ」
「……わ、わかってます。先輩は先輩です、そのハズなんです。でも」
「お前の記憶は違うと、訴えてる。そうだな、キリエライト?」
マシュは答えなかった。
しかし、その表情はもう先程まで自分を信じてくれていたマシュと、違いすぎる。
恐怖。
記憶と現実の食い違いにマシュは、明らかに怯えていた。
「そして、それはコイツらも同じだ」
カドックが目を周囲へ向ける。
釣られてみれば、既にここ一帯にはサーヴァント達が勢揃いしていた。
ある者はカドックの後ろに、ある者は藤丸の背後に、ある者は建物の屋上に、またある者は、ある者は、ある者は……。
総勢百人以上。その誰もが、藤丸立香とかつて契約していたサーヴァント達である。
しかし、その瞳に信頼はない。そこにあるのは、絶対零度よりもなお冷たい、凍死させるような視線だけ。
藤丸の心臓が早鐘を打つ。ここまで明確に、死をイメージしたのは久々だった。
動けない。喋れない
逃走も弁明も。この場では、この世界では何の意味も持たない。いずれかを行えば、藤丸の頭か、舌か。どちらかが地に落ちるだろう。
「マスターの名を騙るとは……何と度しがたい。そして何と愚かか。間抜けにも程があるだろうて」
「騙された我々も我々だが。まあ、先に騙したのはあちらだ。それ相応の対価は払ってもらおうか?」
「本物のマスターは無事だろうか……あの偽物が人質に取らないとも限らん、警戒を怠るべきではないな」
いっそ不可解なほど、真っ直ぐな敵意だった。何らかの作為を感じるほどの。
いや、実際作為的なのだろう。オティヌスによっていくらでも世界が改変されるのなら、藤丸立香が敵と見なされる世界だって、作れても可笑しくはない。
しかし……ここまでか?
彼らとは、同じ時間を生きてきたわけじゃない。同じ世界で生きてきたわけでもなければ、同じ経験をしてきたわけでもない。
でも、こんなに違うモノなのか?
こんなにあっさりと、疑えてしまえるのか?
つい数時間前まで、親愛の情を向けていた相手を、殺しかねない殺意まで加えて。
本当にそうなのか?
やはり、洗脳や催眠の類いをオティヌスは……。
「よお」
聞き間違えるハズがなかった。
藤丸が振り返れば、誰かが近くの街灯の上に足を投げ出し、腰を下ろしていた。
ウェーブがかったブロンドの髪に、魔女のような長帽子。ほぼ半裸にも見える戦装束をマントで隠した女。
「オティヌス……!?」
「懐かしさすら覚えるな、その何も分かっていない顔。だからこの神が、お前の疑問に答えてやろう。別に洗脳や催眠などしていないよ。する必要すらないからな」
そんなわけがない。
藤丸はカドックやマシュ、サーヴァント達の存在も忘れ、オティヌスに食いかかる。
「どういう意味だ!? お前がこうやって介入する前は、こんなこと言い出さなかっただろ!?」
「順番を間違えるなよ。私が介入したから、こうなったわけじゃない。元々こういう世界だ。ただ、見え方を少しばかり変えたがな」
「見え方……?
「ところで、余所見をしていて良いのか?」
慌てて、藤丸が視線を戻す。が、
(……カドックもマシュも、オティヌスには反応してない。見えていない、のか?)
オティヌスという異分子の出現に、この場に居る者は全く反応していない。それどころか、藤丸の挙動すら気にしていない。
これもオティヌスの仕業か。
北欧の主神を名乗るサーヴァントは、今も外灯を我が物顔で占拠している。どうやらこのまま傍観するらしい。
「よく思い出せ、キリエライト」
カドックの話は続く。
「お前の髪を毎日櫛でといていたのは誰だ。そのリップをもらった相手は誰だ。よく談話に花を咲かせていたのは誰だ? 本当に、後ろにいる男か?」
「……ちが、……いいえ、そんなハズは……」
「……っ。待ちなよ、カドック」
たまらず、藤丸が前に出た。
とにかく流れを断ち切らないといけない、その一心で。
怒濤の勢いで向けられる殺意の数々に、足がすくみかけるが、それでも藤丸立香は問いかける。
「ついさっきまで、友達みたいに接してくれてたよね? それがどうして、急に俺を偽物だって言い出したんだ? 何か、切っ掛けがあったんじゃないのか?」
「……ああ、あったさ」
「だったらそれを教えてくれ。誤解を解くためなら、何だって答えるから」
「……何だって、答える、か」
薄く。
カドックは笑みすら浮かべていた。
しかしそれは親愛に満ちた顔ではない。
何を今更と、糾弾するような、そんな顔だった。
「もしも、全く同じ記憶が二つあって。その違いが性別だけだったら、お前はどうする?」
「……え」
一瞬。
脳が言葉を認識しなかったのかと、そう勘違いしかけた。
だが、カドックはそんな藤丸の逃げを徹底的に潰す。
「分からないか。今僕や、キリエライト、サーヴァント達全員に、お前と本物の藤丸立香、人類最後のマスターの記憶がそれぞれある……そこまでは、いい。所詮男と女、人物が違えば記憶がどうやったって違ってくる。だが」
忌々しいと言わんばかりに、彼は髪をガリガリと掻き上げる。
「……同じなんだよ」
「同じ……?」
「記憶が。お前とアイツの記憶は、
ガツン、と頭を殴られたかのようだった。
……つまり、カドック達は今、藤丸立香との記憶が二つある状態なのだ。
脳に一人の人間の記憶が二つあるという状態が、どれだけ認識能力に悪影響を及ぼすか、想像に難くはない。パソコンに全く同じデータを、ラベルだけ変えて保存するようなモノだ。
知っているようで、知らない人間。
知らないようで、ずっと知っていた人間。
「辿った旅も、辿った戦いも、全て同じだったとして。そこにある違いが性別だけだったとして……そんな、そんなもしもが本当にあり得ると思うか? あり得るわけがないだろう。だとすれば、そんな道筋を真似した馬鹿が居たと考えるのが当然だ……!」
ぎょろ、と銀髪の下で瞳をすがめるカドック。
ようやっと。
藤丸にも、カドック達の怒りが分かった気がした。
彼らが陥っている状況は、この世界を救った藤丸立香への冒涜に他ならない。完璧な複製であっても、本物を記憶していれば安っぽく見えてしまうのは当然だ。
どちらが本物なのか、それが問題なのではない。
全てを丸く収めた奇跡を、こんな簡単に模倣された……それが、彼らにとって一番許せないのだ。
だから、
「……先輩……は」
そんな顔を向けられても、何も答えられない。
「あなたは、誰ですか?」
「……」
……果たして、藤丸はなんと答えればよかったのだろうか。
嘘でも良いから、藤丸立香だと答えればいいのか。それともマシュの知る藤丸立香ではないと言えば良かったのだろうか。
全ては後の祭り。
めぐるましく変わる状況に、藤丸の頭は最早思考を放棄しかけていた。だから、黙り込んでしまった。
「……どうして、何も言ってくれないんですか……?」
「……それは」
誤解を解こうとしたわけじゃなかった。
ただ、口を突いて出た言葉がそれで。
言い切る前に、藤丸の
「…………ぁ………………?」
全ての思考が、断絶する。
さながら、プラモデルのパーツがぽろ、と外れてしまったような光景だった。違うところがあるとするならば、それは塗料よりも粘っこい鮮血が、肩口から飛び出したことか。
現実に脳が追い付いたのは、飛んだ片腕にあった痣を見たから。
令呪。サーヴァントとの契約の証であり、絶対命令権の意味合いを持つそれが、何度かバウンドし、アスファルトに転がる。
「ぁ、ああああ、ああああああああああああああああああああああッ!!????」
感じたこともない激痛が、藤丸の全身を走り抜ける。閃光花火を体の中で着火させたみたいなそれは、藤丸自身の絶叫すら嘲笑うかのように、全てを途絶えさせ、弾ける。
「……芋虫が。性懲りもなく、まだ騒いでいますね」
かろうじて膝をつくだけに留めた藤丸が、声を見やる。
そこに居たのは、幽鬼だった。
肉感的な体とは正反対の、落雷のような殺気。ゆらゆらと、頼りなく揺れながら歩を進める彼女は、血糊がついた刀を片手に、唇の端を笑いで染めていた。
「頼、光、さん……!?」
バーサーカー、源頼光。
本来ならば絶対裏切ることはないだろう、母親のような存在。
だが、だからこそーー子に取って変わろうとする輩を、彼女を決して許しはしない。
「……本当に、私としたことが。マスターを守れず、こうしてむざむざと敵の奸計にはまってしまうなんて……けれど」
頼光はアスファルトに転がった藤丸の片腕を一瞥すると、踵で踏みつける。
余りに呆気なかった。
サーヴァントとの繋がりでもある令呪は、いとも簡単に、藤丸立香の目の前で四散する。
「ええ、ええ。我が子は必ず助けます。ですから、あなたも協力してくださいね? 腕か足のどちらか、選ばせてあげますから」
刀の先から紫電が迸り、源氏の英霊はそれを身に纏う。
ひっ、と藤丸の喉から空気が漏れた。膝は瞬く間に折れ、尻餅をつく。戦意などなかった。そんなものはとっくに壊された。
「……はあ。だから言っただろう。お前の心を折ると。なのにこうまで愚図だといっそ泣けてくるな」
オティヌスの嘲りすら、藤丸の耳には入ってこなかった。
……いっそ。
いっそのこと、殺してくれるなら。
どれだけ良かったことだろう。
しかし彼らは殺さない。
彼らにとって本物の藤丸立香に繋がる鍵は、この藤丸だけだ。
だからそれが済むまでは殺さないし、その逆も然り。この藤丸がいかに泣き喚き、泡を噴こうと関係ない。藤丸立香を騙った偽物が無様な姿を晒すのなら、彼らの胸もすくことだろう。
令呪はない。そんな届くハズのない命令すら、今の藤丸には許されないのである。
狂戦士が、近づく。
最も守るべき我が子の血を、一身に浴びて。
「一つ、お尋ねしたいのですが。我が子は、愛しいマスターは何処ですか?」
知らない。
そんなものは知らない。
答えることすら出来ない藤丸に、バーサーカーは艶やかに笑う。
「ああいえ、答えなくても構いません。その頭蓋を叩き割り、その思念を撒き散らせば、後は他の英霊達が我が子の居場所を突き止めましょう。ですから、そうですね」
紫電が、走る。
源氏の大将はその狂気を刃に乗せ、夕空へと振りかぶるーー!
「ーーーー思う存分喚け、虫。それが貴様に許される死に様だ」
その、寸でのことだった。
ゴァッ!!!、と。
大きな盾が、雷光の振り下ろしを防いだ。
激突は、猛烈な烈風を生んだ。吹き荒ぶ嵐は近くの建造物すら巻き込むと、まとめてひしゃげ、藤丸も体が吹き飛びそうになるのを堪えるのでやっとだった。
しかし。
そんな中でも、盾を構えるマシュは微動だにしなかった。
まさしく、堅牢な城。
藤丸が横で転がる道路標識のようにならずに済んでいるのも、マシュのおかげだろう。
源頼光が後ろへ下がる。
本来藤丸へ向けられる視線は、既に
「……何故?」
頼光の問いは、それだけだった。
藤丸以外の全員が目を細めている。何故、という言葉が顔にありありと書かれているが、それは藤丸も同じだった。ともすればマシュは、彼ら以上に藤丸のことが許せないハズ。
なのに、
「……何故あなたが、その虫を守るのです? 私と同じくらいにはマスターを慕う貴女からすれば、それは何より許せない相手でしょう?」
頼光の言う通りだ。
この場で藤丸を最も許せないのは、彼女だ。誰よりも同じ時間を生き、誰よりも同じ場所で生きてきた。マシュにとって、藤丸はそんな思い出を汚した相手だ。殺しはすれ、守る必要など何処にもない。
しかし。盾の少女は、揺るがない。
「……彼が偽物かどうかなんて、今の私には分かりません。ですが、一つだけ言えることがあるのなら」
一人の人間として、マシュは宣言する。
「ここで彼を見殺しにしては、私は私でいられなくなる。この盾は人々を守るためのモノ。その役目すら失うのは、サーヴァントとして見過ごせません」
いつもと比べれば、随分硬い態度だった。彼女から朗らかな笑顔は消え失せ、苦々しい表情が詰められていた。
それでも、マシュが守ってくれた。そう考えるだけで、砕けそうになっていた藤丸の心が奮い立たされる。
そうだ。
(……やられて、たまるか)
ようやく、極地用のカルデア制服を藤丸は起動させると、肩から吐き出されていた血が徐々に止まっていく。礼装の四分の一が切り落とされてしまったものの、機能自体は働いてくれている。
(ここで終わってたまるか。こんなところで倒れたら、今まで出会ってくれた人達に顔向け出来やしない……!)
「立てますか?」
マシュの確認に頷くと、藤丸は、
「ありがとう……やっぱりマシュは頼りになるよ。助かった」
「……あなたのことを、百パーセント信じたわけではありません。私はただ」
「どっちも同じように大切だから、どっちも守りたい、でしょ?」
「、……」
思わず、藤丸は笑ってしまった。
こんな状況にあっても。
彼女と心を通わせていることが、妙に心地良かったのだ。
「……今はそれでいいよ。助けてくれたことが嬉しかった、だから感謝したんだ。信じてくれだなんて言わない。助けてくれだなんて言わない。ただ」
「ええ。私のクラスはシールダー。必ず、あなたを守ってみせます!」
ああ、なんて安心するのだろう。
藤丸は一人、心の内で思う。
この背中にいつも助けられてきた。この盾に、いつも守ってもらってきた。
そしてそれは、サーヴァント達も少なからずそう思っているに違いない。
マシュがこちらに付くのならば、カドックはともかく、サーヴァント達も藤丸への疑いを少しは止めてくれるかもしれない。何にせよ、今すぐ殺そうと乱痴気騒ぎを起こすこともない。
「さてな。お前の都合の良いように動けばいいが」
が。
そんな希望を、魔神は嘲笑う。
「……何が言いたい?」
「楽観的に考えすぎだと言ったんだよ。まさかお前、今更仲良しこよしで手でも繋げば世界を救えると思っているんじゃないだろうな?」
藤丸が瞬きすると、オティヌスは既に街灯の上には居なかった。何処だ、と目を凝らしていると、背後から藤丸の頬を撫でるかのように手が伸びる。
オティヌスだ。
「お前は今まで何を見てきた? 世界が滅びても、人は好き勝手な理屈ばかり続けてきたろう? あげくの果てには救われた世界を、わざわざもう一度破壊するなど、最早愚かの極みとしか言えんよ。そんな世界に生きているのなら、少しは危機感を覚えていると思ったがな」
「……、」
「まだ分からんか。なら、特別にヒントをやろう」
魔神の手が、背後へと消えていく。
振り返ろうとしたときに、その声は滑り込んだ。
「女の藤丸立香など、そんなモノは
影すらなく。されど声は藤丸の耳へ、事実だけを告げる。
「法則はたった一つ。お前をマスターとして
……それが、どういう意味か。
一瞬、藤丸立香には分からなかった。
それでも、何かが脳の隅で引っ掛かった。それは引っ掻き傷を作ると、そこから思考が一気に加速する。
位相とは、剪定事象のようなモノだと、オティヌスは言っていた。
剪定事象。
可能性があったかもしれない世界。
もしも。
……そんなことが、あり得るのだろうか。
もしも、サーヴァント達が、藤丸立香を信ずるに値しないと、そう思っていたなら……?
「…………まさか」
あくまで、例えばの話。
例えばの話だが……マスターとして不十分な人間がいたとして。それでもその人間がマスターになるしかなかった場合、サーヴァントはこう思ったりしないだろうか?
なんでこんなマスターなんかに、と。
そしてこうは思わないだろうか?
ああ、まともなマスターだったなら……と。
……先程の比などではなかった。
爆発的に膨らんだ予感が、急速に心臓を締め上げていく。
そして。
やはり踊らされていることに気付かないまま、源頼光はこう言った。
「ああ、マシュさん。可哀想に。その男に操られてしまっているのですね……ならば
ーーその虫は、本当のマスターの居場所を知っているのかもしれないのですから。
・禁書に余り詳しくない方向けに、位相、魔神、オティヌスについての解説
オティヌスは、とある魔術の禁書目録に登場する魔神の一人。禁書において魔神とは、魔術を極めた末に神格を得た人間のことで、オティヌスも例に漏れず元々はちゃんとした人間だったりする。
魔神はあらゆる魔術を極めた末の到達点であり、それによってあらゆる位相を操ることで、世界の改変すら行えるようになっためっちゃヤバイ神様。
位相とは、所謂宗教的概念のこと。キリスト教、仏教、イスラム教などで語られる、例えば天国、地獄、黄泉や冥府にニライカナイなどと言った異世界のことを指す。禁書ではこれらの異世界が存在しており、現実世界に影響を及ぼしている。
この宗教的概念=位相は、言わば幾つものフィルターを通すようなもので、それが無ければ世界の見え方も色も変わってくる。ならばその位相を操ることが可能であれば、世界は違う意味をもってしまう。
具体例を出すと、この話の元となった新約とある魔術の禁書目録9巻では現実世界が滅亡した後、唯一生き残った上条さん相手にオティヌスは滅茶苦茶大人げない精神攻撃をしたり。つまりこの作品も自ずとそうなるので、これからの展開をお楽しみください。オティヌスはそれなりに弱体化してはいますが、絶望感を上手く出せたらなと思います。