【完結】Lostbelt No.10033 黄金少女迷宮 ゲスタ・ダノールム   作:388859

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崩れ脈動する世界 Version_Omega

 光が引いていくのを目蓋越しに感じ、藤丸立香は目を開いた。

 

「…………」

 

 最早デフォルトになるまで刻まれた耳鳴りと頭痛に顔をしかめながら、藤丸は自身の状態を確認する。

 手は動く。足も動く。五体満足ではあった。けれど心は、完膚なきまでに打ちのめされ、意識は奈落の底まで霧散しかけている。

 ここにたどり着くまで、藤丸は何度も死んだ。首を切り落とされたのが始まりで、それから十七回も大切な少女が死ぬところを目撃し、その度に死んだ。

 二十にも届く死の繰り返し。一見、たったそれだけで人類最後のマスターが折れてしまうだなんて、思われるかもしれない。

 だが、忘れないでほしいのは、あくまで藤丸立香がただの人間であることだ。

 いかに数多の特異点や異聞帯を踏破し、出会いと別れを繰り返したとしても、彼が強くなったわけではない。それは一人でマシュを救えず、そうして絶叫したあの十七回の悲劇が証明している。

 その前提条件を決して忘れるな。

 藤丸はそのことを再度頭に叩き込んで、周囲を一望する。

 

(……)

 

 幻覚などで無ければ、どうやらそこは何処かの公園らしかった。大きな川の程近くに立地しているそこのベンチで、海を眺めるように、藤丸はだらん、と座っている。

 カモメか烏か、ぼやけた意識の中ではそれすら区別はつかないが、空を気ままに飛ぶ姿はうらやましい。波の音が耳鳴りを解きほどくように響いてきて、藤丸はようやく座り直した。

 これまでの傾向からすると、恐らく藤丸が何か考える前に、事態は動き始める。一つ目も二つ目も、結局藤丸は最初から最後まで振り回されっぱなしのままだった。

 オティヌスは、この世界が最終テストだとも言っていた。一体どんなゲテモノ、地獄が待っているにせよ、藤丸の精神はもう限界だ。今までのように受け身では、それこそ本当に心が折れてしまう。

 ゴールはすぐそこだと、そう思い込む。思い込んだところで、やるべきことが藤丸にも見えてきた。

 

(……こっちから、動くしか、ない)

 

 ぐ、と拳を握ると、全身の血管が不自然に脈動した。まるで動くのを拒否するようなそれを強引に振り切り、藤丸は手の甲を視認する。

 令呪。ここではただの飾りにも等しいそれは、藤丸を唯一汎人類史と繋ぐ楔だ。

 

(動かないと、何も始まらない。これで最後だ。ここを越えなきゃ、オティヌスに挑戦する権利すらない。ここまできてそんな幕切れ、受け入れられるもんか)

 

 まるで鉛でも骨に詰まっているかのような鈍重な動きだったものの、藤丸は自分の頬をつねると、気合いを入れて目を開く。

 オティヌスは必ず、すぐに仕掛けてくる。些細な失敗が命取りになるのは明らかだ。だからこそ、目を凝らして公園を注視しなければならない。

 勝てる確率はほぼゼロ。

 だが、どんなときもゼロではないと、いつも誰かが言ってくれた。

 だから諦めない。最後の最後まで。

 

(終われない。こんなところで野垂れ死ぬなんて、誰よりも俺が許せない。絶対に帰る、たった一人でも最期まで諦めるな!!)

 

 あるいは。

 その考えは単なる現実逃避に近かったのかもしれない。

 心をすり減らし、命をまるで使い捨てのマッチみたいに消費しても、解決の糸口すら掴めない。誰も助けになんてこない、孤軍奮闘を強いられる環境に、藤丸の精神は可笑しくなっていたのかもしれない。

 だからだろう。

 立ち上がる直前になって、こんな声を聞いた。

 

「……って、まってくれ」

 

 中性的な声だった。言葉は分かる。日本語のようだが、少し独特な訛りがあった。

 やはりあちらからきた。一体誰なのかなど論じる必要はない。誰であれ、ここは異聞帯。藤丸立香にとって、それは振り下ろすナイフに近いのだから。

 だから身構えろ、乗り越えるために、

 

 

「待ってくれ、シータ。()を置いて一人で進まないでくれ」

 

「あら、ごめんなさいラーマ。あなたと一緒にいられると思ったら、何だかいつもより早足になっちゃって」

 

 

 一瞬。

 藤丸立香は、呼吸すら忘れて、息を呑んだ。

 ベンチにしがみついて、声の方へ顔を向ける。

 赤毛の男女だった。仲睦まじく手を繋いだ二人は、幸せそうにはにかむと、公園の林の方へと歩いていく。

 ラーマ、そしてシータ。藤丸は知っている。第五特異点や、カルデアで助けてもらったことを。

 だが、あの二人は離別の呪いのせいで、同時に召喚されること自体が不可能ではなかったか?

 

「……、」

 

 確かめられない。

 藤丸には、こうして見送ることしか許されない。

 故に公園に響く声は、少年以外のものだった。

 

「ねえねえおかあさん! 今日のご飯はなにー?」

 

「そうねえ。うーん……じゃあ今晩はあなたの好きなハンバーグにしようかしら。ね、ジャック?」

 

 顔に傷なんてない少女と、その母親。

 

「むー! ねえありす(あたし)、ジャックは今日ハンバーグらしいわ。アリス(あたし)も同伴したいしたーい!」

 

「ダメよあたし(アリス)。ママがミックスパイを作って待ってるわ。お茶会はまた今度。ほら、帰りましょう?」

 

 瓜二つの双子のような、まるで童話から飛び出したかのような少女達。

 二組は各々、それぞれの幸せを噛み締めて、何処かへと去っていく。

 彼女達にも見覚えがあった。

 ジャック・ザ・リッパー、ナーサリーライム。そして彼女達の隣にいたのは、藤丸の記憶が、いつか見た夢(・・・)が正しければ、過去の聖杯戦争で彼女達のマスターだった人物。

 本来サーヴァントは記憶を持ち越さない。だが稀に、その記憶が印象に残ることがあれば、あり得ない話ではない。

 だが、それはあくまで別の世界の話だ。

 少なくとも、汎人類史では決して実現することなど不可能だった。藤丸立香だから、ではない。汎人類史には、彼らの記憶の中の想い人など、存在しない。

 

「……そんな」

 

 まるで、真綿で首を何重にも絞められているかのように、目の前が眩む。立ち上がることはおろか直視することすら、藤丸には出来そうもないのに、視界の隅から入ってくる。

 ロビン・フッドは騎士のような老人と並んで、煙草を吸っていた。フランケンシュタインは作った花冠を、眼鏡をかけた少年にプレゼントしていた。カルナは少しぽっちゃりした女性と共に、何故かランニングをしていた。

 ブーディカはかつて死に別れた娘達と、楽しくピクニックをしていた。

 一人や二人の騒ぎではない。そこら中で、同じようなことが起きていた。

 

「わー、女神様だー! ねーねー、アイスちょーだい! まだもってるんでしょ?」

 

 公園の一角で、子供達にそんな調子でねだられていたのは、スカサハ=スカディだった。彼女は困ったように振る舞いながらも、何処か嬉しそうにアイスを子供達に分けていく。

 まるで、ずっとそうしてみたかった、そんな風な顔で。

 

「さ、やれよ」

 

 この、誰にも敵意などない状況で。

 その声だけは、明確な悪意と共に聞こえた。

 魔神オティヌス。

 

「全員取り戻すのだろう。ここで幸せそうに暮らす全員を、お前の奴隷として取り戻し、私を倒すのだろう? ああそうだ、サーヴァントがいれば私など怖くないのだろうし、それがいい」

 

 オティヌスが背後からその肩に指を置いて、ノックする。とんとん、とんとん、と。

 

「さあやれよ。令呪を見せて、言ってやれよ。俺がマスターだ、と。俺のために一緒にこの世界を壊そうと。ほら言えよ」

 

 藤丸は。

 目を背けることすら、出来なかった。

 ただ延々と、目の前の景色を眼球に反射させていた。

 

「世界を壊すのは簡単だよ。私を殺すか、マスターを殺すか。はたまたこの主神の槍(グングニル)を壊すか、機能不全にするか。今の私はあくまでサーヴァント、百パーセント魔神の力を扱えるわけじゃないし、挑めば存外簡単に勝てるかもしれんな」

 

 主神の槍(グングニル)とオティヌスが呼んだのは、いつも彼女が扱うあの黄金の槍だった。

 それが目と鼻の先にある。

 壊せば、少なくともオティヌスは魔神としての力を失う。

 ようやく見つけた糸口。

 

「そら、あと少しだ。一発殴ったら、何かの拍子で世界が弾けるかもしれんぞ?」

 

 だから、と。

 女神は甘い吐息のように、言葉を呟く。

 

 

「壊してみろよ、人間。汎人類史が正しいというなら、お前達が正しいというなら、幸福な世界だって踏み台にしてみせろ」

 

 

 思わず。

 藤丸は胃から込み上げてきたものを、丸ごと吐き出した。胃液が空になるくらい多くをぶちまけて、それでも、胃そのものが千切れそうなほど痛かった。

 これまでオティヌスは、絶対的な悪だった。藤丸立香を追い詰める、ただそれだけのために世界を歪め、悲劇を生み出し、それを量産してすり潰そうとしてきた。

 藤丸が戦ってこれたのは、そうした悲劇が許せなかったからだ。

 なのにこんなものを、盾にするのか。

 こんな、都合の良すぎる世界を。

 

「人の理を押し付けるな、と前にも言ったが」

 

 目の前の偉業を難なく成し遂げたオティヌスは、えずき続ける少年に囁く。

 まるでそれは、恐怖に震える子供を、抱き締めるような形だった。

 

「世界は別にお前を必要などしていない。仮にお前がいなくとも、問題なく世界は回っていく。そこに幾つかの誤差は生じるかもしれんが、まあ、世界というものはそこまで弱くない。なんやかんやと続いていくのさ」

 

 分かっている。

 分かっているのに、理解するのを脳が拒んだ。

 

「お前は世界を救おうとして、幾つかを取り溢した。私は、その取り溢しを無くし、ついでに過不足なく救いを施した。ここはそれだけの世界。それだけの結果が広がる世界だ」

 

 藤丸は、何も言えなかった。

 ただじっと黙って、ひたすらに考える。考えて、考えて。

 

「……こんな」

 

 ただの少年は、勇気を振り絞るように、言葉を出す。

 それが、この世で一番卑屈なことだと分かっていながら。

 

「……なんだよ、それ」

 

「……」

 

「みんなが、夢に見てるくらい恋焦がれても。いつ、何処の世界かも分からないんだぞ。そんな相手、どうやって再会させろって言うんだよ。ラーマとシータだってそうだ。死後も続く呪いとか、そんなの、三流にもなれない魔術師に、どうにか出来るわけないじゃないか」

 

「ああ、そうさ」

 

「スカサハ=スカディだってそうだ。俺じゃ無理だった、救えなかった。彼女だけじゃない。過酷な異聞帯にだって、俺の知らない幸せがきっといっぱいあった。でも、どうしろって言うんだよ。そんなの把握しきれるわけない、俺なんかが救いきれるわけないだろ」

 

「お前を責める人間は何処にもいないよ」

 

 そう。少年を糾弾する声は一つもない。

 でもだからこそ、少年はこれ以上ない自責の念で引き裂かれていく。

 それは恐らく、この世で最も自分勝手で、何処までも残酷な拷問だ。

 遠くで、談笑しながら歩く一団が見える。

 民族衣装を着込んだ子供達と、厚着をした獣人達。

 北欧異聞帯、そしてロシア異聞帯の住民達。

……きっと、違う世界なら。死ぬこともなければ、こうやって手を取り合うことすらもあり得て。

 そんな一段の先頭で、鹿撃帽を被ったヤガと、金髪の少女が並んで、歌を歌っていた。

 パツシィとゲルダ。

 藤丸立香が止まれなくなった理由。

 そんな二人も今は、目と鼻の先にいる。

 きらきら光る、夜空の星のように。

 

「そうだよ……俺じゃ助けられなかった。パツシィも、ゲルダも! 世界のために、異聞帯の人間を丸ごと俺は見殺しにした!! 汎人類史を守ったなんてとんでもない!! 俺は、誰かのために、この景色を踏み潰しただけだ……!! それを託されて、それで前に進んでるって、思い込んだだけだ!! そう納得しようって、逃げてただけだ!!」

 

「お前さえ納得すれば、あとはみんなお前を迎えてくれるさ」

 

 例え、どれだけ。

 どれだけそれが、脆かったとしても。砂上に立つ、城のような危うさしかなかったとしても。

 藤丸には目の前の景色が、間違っているとは到底思えなかった。踏み越えたいと思えなかった。

 少なくとも。

 二度も誰かのエゴで壊れた汎人類史よりは、誰もが幸せそうに見えて、仕方なかった。

 

「……そんなの……俺みたいなのに、どうしろって言うんだよ……」

 

 正しいから、そのために何もかもを犠牲にすべきなのか。

 間違っているから、全て捨てなければいけないのか。

 答えは誰にも分からなかったし、この先出ることもないだろうと思っていた。

 けれど、ここまで明確な結論を前にして、まだそんなことを言えるのか。

 数え切れないほどの悲劇が、全て幸福に変わったとすれば、それは素晴らしいことだ。誰も傷つくことなどない、誰も犠牲になることもない、そんな世界だ。

 それを否定出来る人間など、この世の何処にもいない。

 いないのに。

 

ーー俺は、テメェを、絶対に許さねえ。

 

 ああ、聞こえてくる。

 戦えと。生き残れと。

 そうして踏み越えていけと、声が、聞こえる。

 最早そんな声すら、目の前の光景の前では意味なんてないのに、藤丸の耳には、聞こえてくる。

 それはまさしく呪いだった。

 永遠に忘れることが出来ない、血を流し続ける傷だった。

 

「そんなやせ我慢、もうしなくていいだろう」

 

 それが、掻き消される。

 オティヌスの言葉だけが、木霊する。

 

「お前には、どうすることも出来なかった。お前はそうやって我慢することでしか、戦ってこれなかった。ああ、そうだとも。平気な顔をして、馬鹿のフリをして、何も感じていないように足を動かせば、お前は優秀な駒程度にはなれた。そうなることで世界を救えるなら、そう思っただろう?」

 

 見透かされている。

 誰にも、きっとマシュやダ・ヴィンチですら見抜けなかったことを。

 まるでそれはとてつもなく重い荷物を、代わりに背負ってくれたような、そんな解放感すら錯覚させる。

 

「だが、もうそんな必要はない。世界は、救われた。お前が一番痛かっただろう、苦しかっただろう。それを仕舞い込んで、わざわざ戦う必要など、もうないんだよ」

 

 我慢する必要なんてない。

 全てを投げ出したっていい。

 なんて、甘美な響きなのだろう。

 何かが着実に、傾いているのを感じる。それは恐らく一度傾けば、もう二度と起き上がれないことを指していた。

 そして。

 ころころ、と少年の足元にボールが転がってきた。

 

「……、」

 

 オティヌスがすっ、と静かに離れる。邪魔になると思ったのだろうか、いつの間にか吐瀉物なども清掃された後になっている。

 藤丸は自由になっても、まともに動けるほどの余力は残っていなかったが、目だけは、誰が来たのかを捉えた。

 眼鏡をかけた、パーカー姿の少女と。

 杖を持った、絵画染みた美しさを持った女性に。

 白衣を上から羽織った、覇気のない男性を。

 いつか見た、懐かしい景色を。

 この時間に戻れるのなら。

 ずっとそう思っていた、世界が、広がっていた。

 

「あらら、また随分蹴り飛ばしたねえ。患者とはいえ、子供は加減を知らないもんだ」

 

「ぜえ……ぜえ……き、君は随分と余裕があるな、レオナルド……? くそぅ、僕もサーヴァントのままだったらこんな息切れすることもないんだろうなあ……!」

 

「ドクターは普段から運動をしない人種なんですから、患者さんとのレクリエーションくらいは進んで参加してください。仮にも医師なんですから、自身の健康管理には気を付けるべきかと」

 

「う、研修生にすら心配されちゃうか……そっかあ……僕、そんなに顔色悪いかなあ? これでもたまにはサボってるんだけど……」

 

「ハハハ、道理で書類仕事が終わらないわけだ。君ってば本当にアレだな、生き方がヘッタクソだなぁ」

 

「ドクター、健康管理とサボタージュは別ですからね? ダ・ヴィンチちゃんも笑っていないでもっと厳重に注意を……っと」

 

 視線が、重なる。

 転がってきたサッカーボールを境界線に、藤丸と、目の前の三人には、どうしようもない距離があった。

 世界と世界を別つそれよりも、なお、遠い。

 そんな断崖だけが、広がっていた。

 

「あの、すみません。ボールを、その……」

 

 言われて、藤丸は反射的にサッカーボールを手に取る。

 だけど、そこで手が止まった。

 これを返したら、目の前の三人が消えてしまうのではないか、と。いやそうあってほしいと、醜い心がそう叫んで、渡せなかった。

 

「……ん? 大丈夫かい? 僕の見立てだと、調子が悪そうにも見えるけど」

 

 屈んで、ロマニがこちらの顔を伺ってくる。

 ああ、心配させてしまっただろうか。またそうさせてしまったのか、自分のせいで。

 いつものようにぐ、と笑顔を作る。それで終わり。弱くて、醜い藤丸立香は、それで誰にも見えない。自分の心の中に閉じ込めておける。

 今までだってそうしてきた。

 だから、大丈夫。

 

「いえ、大丈夫ですよ。はい、これ」

 

 ボールを返却しながら、ふと。

 もしも、右手の令呪を見せていたら、何か変わっただろうか。そんなことも、脳裏を過った。

 けれど全ては後の祭り。

 マシュはサッカーボールを受け取ると、二人を連れて公園へと戻っていった。そこには楽しそうに、子供達の輪へ戻っていく姿が見えた。

 消えない。

 確かに、その景色は現実にあって。

 だからこそ、その一挙一動が、どうしようもなく胸の奥をぎゅっと絞め付ける。それがこの奇跡を未だ認めていないようで、藤丸は逆に申し訳なかった。

……何が汎人類史だ。何が人類最後のマスターだ。

 こんな喪失感を、与えて、与えられて。一体何の資格があって、こんな。

 

ーー……そりゃ、きっと罪深いんだろう。無かったことになんて出来ないんだろう。

 

 記憶の底から、声が響いてくる。いつもなら奮い立つ言葉が、先程の光景を見て、違う意味に聞こえてくる。

 

ーーでも、ダメだ。だって、お前達の世界の方が、

 

「……美しくなんてない」

 

 ぱん、と膝を叩いた。数回叩いて、虚しくて、去来する様々な感情を何処にも向けられず、藤丸は言葉にする。

 

「君達がいない世界より。君達が生きている世界の方が、絶対に。美しいんだよ」

 

 当たり前のことだった。

 それは考えるまでもないことだった。

 だからこそ、今ここで、それを出されて、藤丸立香は。

 

「さて。それで、どうする?」

 

 と。

 オティヌスは、思い出したように問いかけた。

 

「どうあれ、お前の取れる選択肢は二つだ。ここで死ぬか、それとも挑むか。二つに一つ、いつものことだろう。悩むこともあるまい」

 

「……何を、……?」

 

 これ以上何をするのか。

 何を望むと言うのか。

 

「これはまた不思議なことを聞くな。私は別になにもしないよ。する必要がない。だから逆だ、これは忠告だよ。ここを作り出した神としてね」

 

 ベンチに乗り上げる形で、オティヌスは、

 

「この世界は完璧だ。しかし、先程も言ったが、私の魔神としての力は完璧ではなくてね。精度は最高でも八十パーセントほど、と言ったところか。つまり、少しの異分子が入り込んだ状態だと、崩壊がいつか来る。それがいつかは定かではないが、この世界が滅びるとしたら、その異分子だけがネックだろうな」

 

「……それ、は」

 

「お前だよ、藤丸立香」

 

 つまり。

 隻眼の魔神は、誰でも分かる簡単なことを、口にした。

 

 

 

「ーーーー世界を守りたいなら、自害しろ。それ以外に、この世界を繋ぐ道はない」

 

 

 

「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………、ぁ…………?」

 

 

 

 声が、滑り落ちた。

 心が、砕けて。

 散らばった、音がした。

……オティヌスは冷めた目で、それを黙殺する。

 

「私がケリをつけたっていい。しかし我がマスターはお前が自ら死を選ぶことをお望みらしくてな。難儀な女に目をつけられたものだな、お前も。同情はしないが」

 

 世界が、遠い。

 呼吸を一回するのに倍以上の時間がかかって、生命維持のための酸素すら、まるで足りていない。

 

「だから、二つに一つだ。この世界に挑んで死ぬか。それとも世界を守って死ぬか」

 

 神々の王の名を持つ少女は、槍を掲げ、高らかに宣言する。

 

 

「全か個かーーさあ、人類の命運はまたもやお前に託された。裁定してみろ藤丸立香。精々その善性とやらで、世界を救ってみせるんだな」

 

 

 それだけだった。

 藤丸が気付いたときにはもう、オティヌスの姿は見当たらない。

 そして、少年はまた一人。

 その両肩に。

 この世総ての善という、果てしない夢物語が、のし掛かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 一歩だって、その場から動く力が湧いてこなかった。

 藤丸立香は顔を手で覆い、なるべく世界から自分を引き剥がそうとしていた。しかしダメだ。隙間から見える黄金の世界は、まるで縫い付けられたように、少年の体をベンチに固定している。

 最早、目標など無かった。

 どうやっても、取っ掛かりが見つからない。これ以上何をすればいいのか、どうしたら歩けるのか、藤丸には見当もつかない。

 だって、これからどうする?

 元の世界に帰るには、オティヌスを倒さなければいけない。それはつまり、この目の前に広がる世界を、壊すということだ。そんなことして一体何になる? ここまで戦ってきたのは、目の前に広がるような景色を、守るためだったはずだ。守れなかったもののために、せめてあるものを守ろうと、そうしてきたはずだ。

 なのに、それを壊すというのか? 自分が生き残るためだけに?

 

「…………」

 

 汎人類史は確かに救われていない。今も異聞帯は数多くあって、きっとそれをどうにかするためには、藤丸の存在は必要なのかもしれない。

 だけど、自分はこんな世界を壊してでも、生きる価値があると言えるのか?

 そんなことをして、元の世界に帰って、どんな顔をしろというのか。

 黙々と、一人でそんなことを考えて。

……そんな思考を、果たしてどれだけの時間繰り返していただろうか。

 時刻は既に、夕方になっていた。

 周囲は小麦色に染まり、公園からは人が消えていた。いるのは、電線に乗った烏くらいか。けれど、藤丸の脳裏には決して忘れられない奇跡が、ずっと焦げ付いている。

 それでもまだ、立ち上がるための鍵をずっと探している自分が、心底、嫌になっていく。

 探してどうする。

 見つけてどうする。

 ここにあるものを壊して、元の世界に戻れば、お前は本当にそれで満足なのか。

 悪戯にこの奇跡を放棄して、それで得たものは、本当に大切なものか?

 そこに一切の、私利私欲がないと言い切れるか?

……否。そこには、藤丸のエゴしかない。エゴだけで世界を破壊し、踏み越え、自分が正しいと土足で走り回るだけだ。

 それは、藤丸立香しか救わない。

 その旅は、他の誰かを救うことなどない。

 世界なんて救わない。

 だとしたら。

 全と個。初めから、優先するべきものが何かなんて分かっている。

 

「……、ああ」

 

 長い長いため息が、少年の口から漏れた。

 救われるべきはどちらか。

 それは。

 犠牲の上で成り立つ世界などではなく。

 きっと。

 ありふれた幸福を、誰もが手に入れた世界であるのなら。

 裁定は、下される。

 

 

「なんだ。俺が、死ねば、よかったのか」

 

 

 理解して。

 その事実を呑み込んで。

 どうしてこんなにも簡単なことが、ずっと分かっていなかったのだろう、と藤丸は思ってしまった。

 幾多の世界で足掻いてきた。

 一度も折れることなく、走り抜けてきた。

 だけど、もう無理だ。

 これ以上はもう、何処にもいけない。こんな可能性を見せられて、それでも、我慢する理由が何処にも見当たらない。自分より上手くやれた結果があるなら、それに飛び付く。今までだってそうしてきた、そしてそれは、これからもそうだろう。

 たった一人が死ぬだけで世界が救われるなら、一番お手軽な解決法だ。それが自分のような、誰の記憶にも残らない人間なら尚更。

 藤丸だって、彼らの笑顔を守りたい。

 そんな資格が今更自分にあるのかも分からないけど、そんな力は自分にないことは知っているけど、それが出来るのは、やはりこれしかない。

 何も出来ないのなら、せめて。これぐらいは、させてほしかった。

 

「……うん」

 

 だから。

 きっと。

 これは。

 正しい。

 

 

「分かったよ、オティヌス。俺、死ぬよ」

 

 

 余りにも呆気なく、藤丸は立ち上がった。

 ふらふらと、まるでシャボン玉のように。空に浮かんで、そのまま弾けてしまいそうな足取りで、黄金色の世界へ消えていく。

 

 それが。

 世界を救う、最期の戦いの始まりだった。

 

 

 

 


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