昨年はろくすっぽ自分では何も書かずに読み専門でいたのですが、一応ちょこちょこ書いてはいました。
これはその一つで、アニメ化と北海道編、ついでに筆者のまあ……アレな事件やなんかがあって、いろいろ印象深かったもので書いてみたものです。
コンセプトは剣対拳。もしもるろうに剣心世界の未来が刃牙の世界だったなら……です。
最初はそれぞれの世界における最強キャラ対決です。
最も、刃牙サイドは勇次郎ではなくご先祖様のオリ主ですが……
ひとまず、メインは剣術対格闘技という事で今後、多めにスポットが当たるのは贔屓の左之助。
剣心よりも刃牙よりもこいつの方が格好いいと思っています、はい。
よければ、つたない作品ですが読んでみてください。
幕末。
徳川三百年の歴史が終わり、後に明るく治むると書いて明治と呼ばれる政府が幕府にとって代わり、後々の歴史に明治時代と呼ばれるようになる直前の時代。
日の本において特に社会の在り方が変わった革命の時代。
その一面として、侍最後の時代という側面もあった。
腰に二本を差して練り歩き、剣腕あれば名を残せる、出世ができると武勇を持て囃した戦国時代は彼方たる三百年の太平は終わりをつげ、時代は激動の革新を迎えつつあった。
しかし、革新の時において侍の力は既に変わり果てた。時代遅れとして刀は神棚に置き忘れられて、西洋伝来の銃器が幅を利かせるようになるのが時流となりつつある。
そんな中で刃が最後に活躍した時代……それが幕末、明治維新の一側面である。
歴史の中の、そんな一幕。そこに彼らはいた。日本の、激動の時代に彼らはいたのだ。
滝つぼの前に二人の男がいる。
滝つぼの前にある岩棚の上で、二人の男が真正面から向き合って対峙している。
どちらも、大きな男だった。
背が高く、肩幅が広く、その全てにみっちりと筋肉が詰まっている男たちだった。
生半可な男では、前に立つ事も出来ずに目をそらしてこそこそと逃げていくことしかできない迫力に満ちた男たちだった。そんな二人が向き合って、一体何を始めようというのかは言うまでもない。
立ち合いだ。
決闘、果し合い、勝負。いろいろな呼び方があるが、つまりはどっちが強いのかを腕づくで決めようとしていた。
滝を背にしている男は、長髪で白いマントを羽織った奇妙な格好をしている。筋骨隆々で野放図に伸ばした髪を後ろでまとめているが丁寧に髭を剃っているせいか不潔な感じはしない。滝の前に立つのが絵になるような益良雄だった。
手には白鞘を一振り持ち、鯉口を切って抜かんとしている姿が憎い程様になっている。
「白鞘か……」
対峙しているもう一人の男が、その姿に何を見とがめたのか。滝の音にも拘らず周囲に届いた太い声が不満さを隠しもせずに相手に届いた。
「不満か?」
「押しかけたのはこっちだ。文句はねぇよ」
言葉と内心に大きな差異がある事が声色でありありとわかる。その様に、しかして白鞘を構えた男はにやりともせずに背後にある滝つぼの底のまた底のような静かさを保ち続けている。
水底のような剣士と対峙して不平面をしているのは、炎のような男だった。
剣士は身長にして6尺を超えるだろう。それにふさわしい隆々たる筋肉を備えている雄姿は、およそ日本人離れをした体格だと言っていいのだが、相対している男もまた同様に常人の域を超えた益荒男であった。
身長も同じ程度はあり、筋肉に至っては剣士を上回っている。真っ黒な彼の服装が何故だか清国の支那服に似ているおかげでそれがよくわかる。支那服に、支那靴……奇妙な服装だった。この日本で殊更にそんな恰好をするよほどの変わり者なのだろうが、服装の印象を消し飛ばすような強烈さが男自身にあった。
男の力強さの具現のような四肢の上には太い首があり、その上にある顔は線の細さとは無縁の太さがあった。獅子か虎か、野獣のような力強さを見せつけるような容貌だ。
その彼の頭髪は驚くほどに赤く血のようであるが、時折風に吹かれる様は炎のようでもある。
いいや、獅子に例えられる容貌の為に鬣のように見えるのだ。
獅子の王冠のような髪が紅の為に、あるいは日本人ではないのかもしれないと思わせるが顔立ちは間違いなく日本人の物だ。だが日本人だ異国人だと言うよりも先に、人は彼を見れば自ずと一つの物を連想せざるを得ない。そういった容貌をしている。
赤い髪、雄々しい体躯、太々しい面構え。
鬼。
剛力の妖怪を思い起こさずにはいられない男だった。
「負けた時にそれを言い訳にする男だったら、それはそれで構わねぇからな」
言いながら、鬼のような男は笑って両手を広げた。熊が立ち上がって威嚇する時のような恰好だった。
構えたのだ。そうだ、武器を持った男の前にもう一人男が立っているならば、戦う以外に何もない。
「吠える小僧だ」
剣士はゆっくりと見せつけるように白刃を抜いた。滝の水飛沫を切り裂きそうな銀色の煌めきが男の腕から伸びている。胴ががら空きの無防備とさえ言えるような体勢だが、鬼にはそれを怯む様子は全く見られない。それどころか明らかに恐ろしげな顔をさらに恐ろしく見せる笑顔を浮かべる。
いや、これは笑顔ではなく獅子のように牙を剥いているのだ。
「いいねぇ……抜いたら倍の大きさに見えるじゃねぇか」
刃と牙がぶつかり合って、刹那に鎬を削る時間が始まった。
「飛天御剣流、第十三代目継承者……比古清十郎」
白刃は顔の横で霞の構えを取る。
あるいは一般的な霞構えではなく、彼の言う飛天御剣流に伝わる独特の派生を持つ構えであるのかもしれないがそれを同門以外が知る事はできない。
「昨今じゃ“陸の黒船”なんて呼ばれている飛天の継承者様が御大層な名乗りをくれて悪いが……俺はそんなものは持っていなくてな」
赤毛の男はどう見ても素手だった。本身の輝きを前にして素手で挑むなど、正気の沙汰ではない。彼が来ている上着も袖は短く、上下ともに体の線を出しているので隠し武器を仕込んでいるようにも見えない。本気で、刀相手に素手の勝負を挑もうとしているのだ。
「姓は範馬、名前は……勇志郎」
だが、男は笑っている。物がわかっていないのではなく、虚勢でもなく、本当に楽しそうに笑っているのだ。
「この俺を相手に、本当に無手で挑むような馬鹿がいるとはな。今ならまだ、斬らずに見逃してやれるぜ?」
笑いもしない比古の言葉は挑発ではない。刀剣に対して素手で挑むなど愚の骨頂、尻に帆をかけて逃げ出すのは無様ではなく賢明と言える話だ。しかも持っているのが腕に覚えのある一流派の看板を背負っている男であるのなら挑むのは奇抜な自決、挑まされるなら処刑だ。
しかし、死を免れないはずの現実を前に鬼のような男、範馬勇志郎は何も言わずに笑みを深めた。これからお前を頭から貪り食ってやるぞという鬼の笑みだった。
「……言っても無駄か」
刀そのものの鋭い面差しが身の程知らずめ、と言っている。
ふう、とため息一つついた比古は眼を鋭くして細めて範馬をにらみつける。それだけで場の空気が一層張りつめ、ただの素人なら首を締めあげられたような息苦しさを感じて喘いでしまう雰囲気が作り上げられた。まるでその場は音がするほど引き絞られた弓弦のようだった。
その中で範馬はにい、と笑い続ける。刀も比古清十郎も飛天御剣流も、その全てが何するものぞと笑っている。
範馬の笑みを両断するように光が奔った。それは残像以外は人の視界に残さないような高速の一太刀だった。目にもとまらぬという言葉が当てはまる見事な脳天唐竹割の一閃……それは赤い鬣を無造作な程にあっさりと真っ二つにした。
だが彼の白刃は腕に何の重みも返さず、正に手応えがない。残像を瞳に映し出す一太刀が切り裂いたのは、それもまた残像だった。
自慢の一閃を軽々と躱された驚きに目を見開いた比古が見たのは黒い背中だった。
「!」
その背中が地震にあったかのように揺れた。
右側から二の腕に強烈な衝撃が襲ったと比古が自覚したのは、自分に向かって背中を向けつつ右足を伸ばした範馬を見つけたからだった。全てが見えるほどに範馬の広い背中がどんどんと小さくなったのは、巨躯の比古が一丈も蹴飛ばされたからだ。
比古が足を踏ん張って自分を留めなければ、更に倍も距離は伸びていた事だろう。まるで冗談のような常識外れの脚力だった。剣士として徹底的に心身を鍛えている上に天与に恵まれている比古の太い腕でなければ簡単にへし折れていただろう。
「……気持ちよく飛ぶには、ちょっと手加減しすぎたか?」
範馬が背中越しに嗤った。
自分を軽く見ていた相手に対する強烈な挨拶だった。
「……その場で背を見せて回る事で刀を躱し、更に蹴りに繋いだか」
比古の顔は仏頂面に隠された憤激が透けて見えるようだったが、素直にそんな感情を相手に出すほど男の面目は安くない。そうやって敢えて努めての平静を装っているが、腹の底では倍返しを確定していた。
「わざわざ片足になるような間抜けがいるとは思わなかったぜ? 好んで安定を欠いてどうするよ」
武芸の生まれた戦場では乱戦が基本であり、足場も常に悪いのが当たり前だ。転びやすく、動きづらい片足立ちなど好んでやるのはあり得ないと言っていい。攻撃は常に刀か槍であり、手がそれを使って足は体を運ぶものというのが基本である。範馬の攻撃は、それら全てを無視していた。
「まあ名付けるとすれば……後ろ回し蹴り……ってところか?」
だが、比古は同時に今だけならこの技が有効だと認めていた。
回転する事で斬撃を躱し、体の陰から意表を突いた蹴り足が飛んでくる。大いに癪に障るが、自分でなければ急所に命中して一撃必殺となりかねないと認めざるを得ない。足の攻撃がこれほどの威力を持っているとは、剣術家の比古清十郎には想像もしていなかった、あるいは想像の必要もなかった事実だ。
「さあな、名前なんざどうでもいい。それよりも重大なのは……俺の強さとお前の強さだ。まさか、これっぽっちで見せ場もなく終わるつもりじゃないだろう」
笑う顔は、いかにも嘲っている。
「飛天御剣流ってのは、よく飛ぶからついた名前じゃねぇだろう?」
誰を?
「若造」
比古清十郎を。
「おまえはちょっと」
飛天御剣流継承者を。
「図に乗りすぎだ」
それは、許しておけるわけもない。
そんな腑抜けが、刃を振って人を殺すはずがない。嘗められたのを見逃せるようなら、人を斬るような真似はしない。人を殺すような奴は、嘗められるのを許せない。
範馬の嘲弄を払拭するには、それごと斬る以外の選択肢など剣士は持ちえないものだ。あるいは、持ってはいけないと言うべきかもしれない。
比古は湧き上がる衝動を止める意図などみじんも持ち合わせず、むしろ衝動以上の意思をもって加速した。その身ごなしは巨躯でありながらも飛燕のごとく一足飛びに彼我の間合いを踏みつぶす。範馬も棒切れではなく即座に反応して拳を振るが、それを振った先にいるはずの飛天御剣流当代は霞のように消え果てて、思わず面食らう。
その刹那の隙間に彼を影が覆った。
なんの、誰の影かと言われればそれは言うまでもない。
比古は目の前に立つ鬼さえ出し抜いて一瞬の内に宙を舞った。
どこから見ても身軽とは思えない巨躯の比古が人並外れた範馬の頭よりも高い位置に一瞬で飛び上がり、そこから両手で目いっぱいに膂力と体重、そして落ちる力そのものを籠めて脳天を両断するべく振り下ろす。それは正に一刀両断、人を脳天から股間にまで一直線に叩き切る埒外の一刀だった。
宙を舞う剣の技など人の為す事ではない、翻る白も翼のようでその有様は天狗の如し。鬼のような男に、天狗のような男が切りかかっている人外魔境さながら、おとぎ話の果し合いが人知れず行われている。
風を置いていかんとする太刀、それを範馬は見上げていた。もちろんこのままでは死を免れない。
だがなんと、躱せないのか微動だにしないで見上げる範馬の目の前、紙一枚分で比古の一太刀は止まっていた。
「……避けないのか、それとも躱せなかったか?」
「躱す必要がどこにある」
範馬は目の前にある白刃を怯みもせずに見上げている。いや、怯むどころか怒りさえ感じられる形相になっている。
「放つ闘気、踏み込みの位置、振り下ろす速さ、悉くが偽り。止める事など最初から分かっていた」
今の神速でどうすればそこまで見抜く事ができるのか。あり得ない慧眼に比古は笑いを浮かべた。面白い、と笑っていた。
「この俺を侮り、嬲る為に太刀を止めたかぁっっ!」
大喝一声、屈辱に震える範馬の仁王立ちする様は正に鬼の如し。だが万人が恐れ怯え震え上がるに違いない範馬を見てなお、比古清十郎はむしろ笑っていた。
「その通りだが?」
鬼であろうと何するものぞ、と笑い続ける比古はしてやったりと顔に来ている。自分の意図を見抜かれたのは失敗だったが、矜持が思いの他に高いらしい鬼は顔を真っ赤にして怒りを顕わにしている。コケにされた仕返しは十分に果たされた。
「……バラバラにしてそこの滝つぼに放り込んでくれるわあっっ!」
範馬はそのまま拳を作った。
よく日に焼けた浅黒い腕に血管が浮かび上がり、腕の筋肉が盛り上がる。その様はまるで山脈が隆起しているようだった。力こぶなどという呼び方が的外れでしかない、皮一枚の下にある筋肉は鋼の発条でできていると言われても思わずうなずけてしまうだけの迫力があった。
それが互いに引き合い、縮めあい、一体どれだけの握力を生み出して自分の拳を握りこんでいるのかミシミシといやな音がしてくる。そんな自分の手から聞こえてくるうめき声のような音を心地よさそうに聞きながら、範馬は腕を大地に全力で突き下ろした。
「ぬうっ!?」
そして、大地が揺れた。
泰然自若としている比古だったが、音と同時に繰り返し揺さぶられている自分に、驚愕の声を隠せなかった。範馬の振り下ろした拳一つで、まるで小さな地震のように彼らの立つ地面が揺れたのだ。
周囲で鳥が飛び立ち、葉が舞い散り、石が転がっていく。ずしん、とひときわ大きな音をたてて一抱えはある岩が落ちていった。
「…………」
揺れはほんの一瞬でおさまった。しかしそれが錯覚ではないという証明が判のように大地に刻まれていた。範馬の拳を中心に、巨大な罅が岩に深く広く刻み込まれている。範馬当人が大の字になって覆いかぶさっても収まらない程の巨大な罅は、彼の引き起こした小さな災害の力を理不尽に物語る。
人間の所業ではない。それだけの力を発散してもなお範馬の怒りは解かれた様子はない。範馬勇志郎の怒りは矜持と同様に天井を持たないようだった。
「まるで鬼のような剛力だが……」
それでも比古清十郎は笑う。
範馬の怒りは天井知らずなら、この男の強気も天井知らずだ。
「古来より、鬼は侍に退治されるものさ」
なるほど凄まじい強力。
あの拳に殴られれば、頭や胴なら一撃で死んでしまうだろうし、手足はへし折れる。それどころか場合によってはちぎれ飛んでしまうかもしれない。
で、それがどうした?
ただの拳でそんな威力を持っているのは、なるほど瞠目に値する。だが、刀は同じ事かそれ以上の事が出来て当然だ。
刺せば死ぬ。斬れば死ぬ。手や足を斬れば切り離せるし、そうなれば待っているのは失血死か、痛みでさっさと死ぬかもしれん。
強力ごとき、畏れるに能わず。ただ、ようやく刀に追いついてきたというだけよ。
それが目を見張る怪力であろうともごまかされず、当たり前の事実だけを比古は見つめる。いつも通りの振る舞いをいつも通りにすればいいだけだった。
殺られる前に殺る、いちいち口に出す前もない当たり前の事だ。
「先ほど言っていたな? 飛天御剣流とはこんなものかと」
滝の飛沫が白刃へと飛び散り、なんと弾けるのではなく断ち切られていった。
「特別に飛天御剣流を教えてやる」
いたって冷静なままの比古であったが、すまし顔をいつまでもしているわけにはいかなかった。飢えた獣のようにがっついた範馬が、勢いに任せて比古に襲い掛かってきたからだ。見せつけてきた力を思うがまま振り回す姿は、武芸者ではなく獣という方がよりふさわしい。
「図に乗るな、比古清十郎ォッッ!」
一直線に突っ込んでくる有様は、熊とて逃げ出すだろう。それを受けとめる比古の胆力は尋常ではなく、それを支えるのは腕前への自負心であり、その為に比古は範馬の突撃を躱しもしなければ迎え撃ちもせず懐まで呼び込んだ。逃がさないという決着の意思と、入られてもどうにでもできるという自信だ。
範馬はその心そのものを砕く為に影を置いてくるような勢いで下から蹴りを出した。
横蹴りは槍のような鋭さで比古を貫こうとするが風のように素早く身をひるがえした剣士は、むしろ足を切り落としてやると刃を閃かせる。それに対して範馬は引くことなど思いもよらないという鬼気迫る様でなんと光る刃へと一歩踏み込み、一気に懐にまで入り込んだ。
素手で刀に挑む大馬鹿者と承知してはいたが、まさかここまで引く事を知らない男と思わなかった比古は、見事に左手で柄本を抑え込まれてしまった。
にい、と範馬はここで笑った。バラバラにしてやるという宣言を実行するぞと顔に書いて、彼は空いた右手を拳にして握りこんだ。
形勢はここで逆転する。素手と刀、有利不利は間合いによって大きく変わる。比古はそれを知識で知ってはいたが、素手で彼に挑むような無謀は今まで一人もいなかったために対応が遅れてしまった。
刀は一本、しかし丸腰は五体全て悉くが武器であるのだ。
「吻っ!」
拳がアバラに抉りこまれる。その重さに比古は痛みよりも先に驚きを感じた。
斬られるのとは違う、殴られるという痛みの異質。もちろん殴る蹴るを知らないわけではないが、チンピラの喧嘩とは違う、技術として成り立っている拳は痛みと重みが違った。
比古の聞いた事のない音が体内でしたが、肋骨がへし折られた音だと直感で理解する。
その勢いのまま吹き飛ばされそうになる比古だったが、範馬は逃がすものかとばかりに腕を離さない。
いったいどれだけの力を秘めているのか、比古清十郎という男は一挙に吹き飛ばされてしまい、彼の腕をつかんでいる範馬もまた糸に繋がっている凧のように影を重ねて飛んでいく。
大の男二人を自分自身の拳一つで吹き飛ばす冗談じみた光景は、見たもの誰も信じられはしないだろう。それぞれの足を使っているのだと決めつけるのがせいぜいだ。
しかし嘘偽りなく打撃でまとめて吹き飛んだ二人……正確に言えば吹き飛んだ一人と吹き飛ばした一人は三歩分ほどの距離も低く宙を舞い、そのまま着地する……かと思いきや、やにわに比古が捕まれた腕を何と逆用して範馬を背負い、地面に叩きつけるようにして投げ落とした。
「ほう?」
しかし、それをやすやすと食らう範馬ではなかった。そもそも腕を捕まえているのは彼なのだから、逃れるには手を離せばいいだけだ。未練なくそれを実行した範馬は巨体を猫のように軽々と地面へ下ろしてみせる。そこへ間髪入れずに、比古は襲い掛かった。
範馬が音もたてず着地している間に、納刀した得物を腰だめに構えつつ鬼へと突進する。
「居合か」
居合とは剣を鞘から抜くための動作だ。基本的には無防備な納刀の状態から素早く身構える為の技である。しかし、当の昔に抜刀している男が一体何を考えてそんな真似をするのか?
面白い、とおもちゃを見る子供の目で比古を迎えた。さあ、何をやるのだと心を弾ませている。それを目ざとく見付けた比古もまた、目の玉をひん剥かせてやるぞと勇んでいた。自分の命を賭け金にして繰り広げられている屍山血河だ。
「!」
間合いに入った途端、比古は出し惜しみなどなく直裁に刀を抜いた。その速さに範馬は目を見開いた。
抜刀が、著しく速くなっている。勘違いではなく、間違いなく速い。刹那の間で仕組みを考える余裕などないが、事実は事実として認識して範馬は赤毛に包まれた頭を振った。刃先の目標は彼の顔面、下から上へと切り上げる一太刀が鬼の面を襲った。
だがその風を切り裂く正に疾風の一閃が切り裂いたのはあくまでも風のみ、範馬の髪一本たりとも切り裂く事は出来ずに鋼は伸びていく。体を開いて寸前で光を避けた範馬は、にやりと笑いながら目で軌跡を追う。
「!」
範馬は軌跡の後を追いかける影を確かに視界の端に見た。見えただけであり、既に動いた後の身体ではそのままなす術はなかった。
大きく開いた直後の右半身から重たくて鈍い音と共に、その日一番の衝撃が鬼を横殴りに襲った。
「!?」
強烈な一撃は大熊の平手打ちでも受けたかのようだったが、其れの半分よりも細く鋭い物だった。肘の急所を的確に狙うあまりの力を受け止めきれず、自身を吹き飛ばすあまりに強烈且つ予想外の一撃に驚きつつも、範馬は決して比古から目を逸らさないで睨み続けて自分を襲った一撃の正体を見つけた。
「鞘か!」
比古は右の手に刀を、そして左の手に鞘を握って双方を共に振り抜いていたのだ。
範馬の知る琉球の“手”と言う体術に諸手突き、他にも夫婦手と言われる技があるが似ていると思った。最初の一閃を躱した後に続いて時間差をつけて襲いくる隠し矢のような一撃はまさしく心の隙を突く。刃であれば腕が落ちて当然と言う苛烈な殴打は、範馬の鋼の糸を束ねたように太い腕でなければ二度と腕が使えなくなっていても不思議ではなかった。
「くふっ」
この恐るべき比古の……いいや、飛天御剣流の技の冴えを前にして範馬はじくじくと痛みを訴える腕をさすりつつ俯いた。
バラバラにしてやるとまで言い放ったのを遠くへ置いていくほどに 慄いているのか。
恐れているのか。
いや、そんな男ではなかった。
そんな男を指して、誰が鬼のようだと思う物か。
鬼のような男であれば、このような時には……そう、むしろ笑うのだ。
顔を上げた範馬は笑みを浮かべている。だがそれは牙をむき出しにしたというか、さもなくば獲物を喰い尽くす為に口を開けたとでもいうべきか、そういった野獣じみた印象が目立つ笑顔だった。
「面白れぇなぁ、比古清十郎」
打たれた肘を見下ろし、さも面白いと掲げてみせる。そこは赤く痣ができており、おそらく青黒く内出血してくるのは明白だった。骨折しているのかもしれず相当な痛みはあるのだろうが、それを範馬は笑っていた。
「飛天御剣流、思っていたよりも面白そうだ。腕自慢と喧嘩もしたし、御大層な看板を背負った武士もどれだけぶちのめしたか知れやしねぇ……だが俺の体にこれだけきっちり打ち込みやがったのはお前しかいねぇ」
範馬勇志郎、道場破りの常習であると告白する。実を言えばこの男、その筋では知る人ぞ知る悪名高き有名人であったのだ。
「初耳だな。それだけ自慢の腕なら、いくら山暮らしの俺でも耳に入っていそうだが?」
言いながらも嘘ではなかろうと思っている比古だった。彼の見たところ、この範馬という鬼のような無頼の男はそこらの町道場など鼻息で吹き飛ばすほどの武芸達者だ。
「知るか。大方袋叩きにしようとした無手に、弟子も含めてまとめて負けたのが恥だったのではないのか?」
道場破りをする際には、古今無事に帰れるはずがないというのは当たり前である。何しろ看板を掛けての一大勝負、負ければ恥さらしの笑いものとして袋叩きにされ、勝ってもこのまま帰してなるものかとやはり袋叩きにされるものだ。
そんな目に合わない為にあれこれ策を弄したりするのが当然の不文律なのだが……範馬勇志郎という男、なんと天下の江戸をはじめとして乗り込んだ道場は全て本当にふらりと乗り込んでいる。
目についた道場に気まぐれのように殴りこんで師範代を叩きのめし、逃がしてなるものかと囲んでくる道場の門下生も道場主も、悉くを当然のようにぶちのめす。手に持っているのが竹刀だろうが木刀だろうが、果ては真剣でもお構いなく嬉々として返り討ちにした。
この暴風のような男は看板などに興味はないので死屍累々を背中に悠々と帰っていくのだが、負けた方は素手にボロ負けした挙句に流派の誇りを形にした看板なんぞ知った事ではないと放り出されていくので何重にも立つ瀬がない。
よほど口の軽いもの以外はだんまりを決め込むので、結果として知る人ぞ知る災害のような道場破りの誕生となったのだ。
「確かに恥だな」
「安心しろ、すぐに同じ穴の狢にしてやる」
不敵に笑う範馬だが、比古にとっては強がりもいいところだった。それだけの手応えを感じていた比古がちらりと見降ろしたのはヒビが入った白木の鞘だった。
殊更に頑丈という訳ではない上に中が空の鞘だが、それでも破損するほどの勢いで急所に打ち込んだのだから無事で済むはずがない。骨の折れた感触こそしなかったが、確かな痛打は与えているのは必然だ。
「強がりと言いたいが……戦う事を楽しむ輩か。腕を折られてもそれは止まらないか」
比古の声には小さく、しかして確かに嫌悪か軽蔑のような色が混ざったのを範馬は感じた。
「いけないか? 戦いを愉しむ事」
対して範馬もまた同じような色を声に混ぜた。
「貴様は戦いの中に余計な何かを混ぜ込むのを良しとするのか」
範馬は苛立っている。理由が何かを半ば理解しつつ、比古はそれ以上考えるのをやめた。相手の考えを察する事は出来ても共感ができそうになかったからだ。
「飛天御剣流の理は時代の苦難から弱き人々を守る事。戦いに楽しみを見出す事などない」
同時に、比古にしてみれば楽しいと思うような戦いは一切なかった。
彼は強く、その強さにとって戦闘は悉く作業でしかなかったからだ。
飛天御剣流は近年では“陸の黒船”などと言われるほどに圧倒的な強さを誇る流派であり、比古清十郎は更に彼自身も強かった。
体格に恵まれ、その結果として力に恵まれ、剣術そのものも類稀な勘であっという間にモノにした。生まれながらに強者である男が、強い剣術と出会った結果が比古清十郎という圧倒的な強者を生んでいた。
圧倒的すぎる強者の比古清十郎にとって剣を振るうという事は作業のようなものであり、血沸き肉躍るという感覚は幼いころにどこぞの道端にでも置いてきてしまった。そこらの食い詰め野盗崩れを斬っても、この範馬のように飛天御剣流に興味を抱き挑んでくる兵法者に出会っても、湧き上がる興奮も背筋を奔る戦慄も無縁の強者だった。
はっきりと言えば、範馬とのやり取りは彼にとって異例ともいえる苦戦だった。体に数度撃ち込ませるなどいくら拳でとは言っても未体験もいいところだ。
範馬の拳が刀であったのなら、あるいは……と考える自分を密かに笑った。今ここにある現実に“もしも”などない。
「闘争が目的ではなく手段か」
範馬勇志郎。
縁もゆかりもない、突然現れたこの男を前に刀を握っているとこれまで感じなかった感情を覚えてしまう。
背筋に何かが奔るような、腹の底から何か熱いものが沸き上がってくるような……
「貴様は確かに強いが……どうやらそれだけか。惜しい話だが、俺とは合わんようだな」
逆に範馬は、決して闘志を失ったわけではないがどこか詰まらなさそうに冷めてきている。つばでも吐きそうな、そんな顔をしていた。
「残念であり、つまらん話だ。貴様に斬られただろう侍も報われねぇな。戦いに甲斐も見出していねぇ男に負けたとあっちゃあ立つ瀬がねぇ」
「勝手に押しかけてきて喧嘩を売った男が、勝手な事を抜かしやがる」
興奮は抑え込んだ。
剣を振るうのであれば、それは手かせ足かせになる。ただいつものように斬れば、それでお終いになる。
「勝手、か。ああ、そうだな。勝手な物言いだ。それじゃあせめてもの詫びに……いい物を見せてやるよ」
範馬はひどく虚しい気持ちになった。
比古清十郎は強い。強いのに、その強さに、自分との仕合に何も感じていないようだった。
それだけでもおかしいのに、こいつは自分の強さにもこれといった思い入れとか感慨とか言うものを抱いていないのかもしれないとさえ思った。
負けるつもりもないだろうし、強さに自信はあるのだろうが、こいつは自分とは違う男だと範馬は比古に見切りをつけた。
これだけ強くてもつまらない男がいる、だなんて範馬は思ってもみなかった。
惜しいな、と思っている自分に気が付かないままに二人はそれぞれ戦いを終わらせると決めた。
徐に範馬は右腕を持ち上げた。打たれたはずの腕だったが、痛みを感じている様子もなく拳を作っている様子に比古は顔には出さずに済ませたが内心では驚いていた。
「双龍閃を食らった腕をあえて握るか」
双龍閃とは随分と御大層な名前だと思った。自分の一閃を龍に例えるとは、随分と大げさで驕った奴らだと範馬は飛天御剣流そのものを笑った。強がりなど一切ない、本当に鞘の一撃が効いていないと語る顔だった。
「白鞘が失敗だったな……鉄ででも拵えておけば俺の肘でも肩でも壊せたかもしれんだろうが……」
白鞘とは基本的に使わない際に保管する為の鞘だ。当然頑丈さなど求められてはいない。対して通常の鞘は頑健さを求められ、場合によってはそこに様々な仕込みをしている侍もいる。
だが、言わずもがな木だろうと鉄だろうと剣術を修めた男に打たれて平気でいる範馬の方が異常という方が適切である。
「次は壊すなどと優しい事は言わん。切り落としてやるさ」
「……フン」
比古が口にする挑発に範馬は乗らなかった。いや、乗らなかったのではなく心に響かなかったのだ。
「さて、お前が見せてくれるいい物ってのは……まだか? まさか打たれた右腕を構えたのがいい物ってわけでもないだろう」
比古は露骨な範馬の内心の動きを感づかないほど鈍感ではない。悟った範馬の変化に無自覚ながら焦りと憤りをかき混ぜて一つにしたような強い気持ちが湧きだしていた。
ケンカを売ってきたくせに、そんな顔をしているんじゃない。俺を嘗めるな、全霊で挑んで来い。
言葉にすると、そんなところだろうか。
範馬が比古清十郎に失望しているのが、腹立たしかった。それは当たり前だが、同時に比古清十郎がそれまで作業でしかない闘争に前のめりになるような愉しさを見出し始めたという先触れでもあった。だが、当人がそれを知らん顔だった。
いや、実をいうと気が付いていないという訳ではなかった。
ただ、そうあってはならないと押し込めたに過ぎない。
それは、飛天御剣流の継承者として不適格な心の動きだからだ。
弱者の為に剣を振るという御剣の理は、およそ異端だ。世の剣人は悉くが自身の為にこそ武芸を磨く。立身出世のため、勝ちたい相手がいる、単純に強さに飢えていたなど、様々な理由はあれどその根本には自分がいる。
例外はそういう家に生まれついたから習うのが当然という道場や名家の跡取りなどだろうか。
飛天の剣は異端にして最強。己以外の為に剣を振るうのは代々の継承者たちが見出した最強としての自負の表れかもしれない。
そして、培われてきた自負が比古清十郎を縛る。
果たして、自分自身忘れてしまう程に長い剣術追及の遍歴の中でこれほどまでの強敵と出会った事があっただろうか。
幼いころに出会った敵わない壁としての大人たちではない。
自分に敵う事など一つとしてなかった同年でもない。
彼以外の誰もが当たり前に何度も出会っている真っ当で対等な敵手。
そうだ。
比古清十郎にとって、この突然現れた素手の男は数多の侍では届かなかった対等の相手だ。よもや出会えるとは思っていなかった好敵手という奴なのだ。
自分自身気が付かずに求めていたかもしれない、いつしか諦めていた稀有な出会いだったが、素直に乗るには飛天の理が足かせとなった。己の思うまま天狗のように飛ぶには、他者の為の剣であれという尊い志が邪魔だった。
「冥途の土産だ。せいぜい……」
範馬は比古の内面を全て洞察した訳ではない。
飛天の理など彼にとって知った事ではなかったからだが、自分との闘争に愉しさも意義も見出しておらずただ火の粉を振り払うための作業に過ぎないとだけはわかった。
それがひどくつまらない。
なまじ比古清十郎が強いが故になおさらに詰まらない。
まるで名画が汚されているような、上等の好物に蜂蜜でもぶちまけられてしまったような心境だった。名画であればあるほど、好物であればあるほどに台無しの感が強くなる。
今の範馬が果し合いを捨てないのは、始めたのだから終わらせなければならないという義務感と、台無しになってもなお比古清十郎は強いのだという捨てきれない魅力故にだ。
「目の玉ひんむけや」
範馬は徐に上着を脱ぎ始める。比古が不意打ちを仕掛けてくるとは思っておらず、もし斬りかかってきても対処できるという自信から敢えて隙を見せていた。
両腕は使えず、一瞬顔も隠れたが比古はあえて何もしなかった。待ちの態勢を取っているのは、彼自身の葛藤に四肢を縛られているからでもあった。
現れたのは見事なまでの肉の鎧だった。
比古清十郎がこれまで見た事がないほどの見事に作りこまれた肉体、丹念に作り上げられた理想的な……いいや、戦闘の中でこそ磨かれていった理想的な闘技者の肉体美がそこにある。剣術ではなく無手で戦うこそ出来上がった強靭でしなやかな筋肉を頑健で巨大な骨格に限界値まで積み込み、最も理想的な配分で張り付けている。
なるほど見事だ。
さあ、ここからどんな“いい物“が出てくる。
こいつは、一体どんな技を持っている?
比古が恐々とではなくむしろその真逆な自分の内心に気が付かないまま、範馬のとっておきを待ち構えていると、彼はなんとその場で背を向けた。
無防備にもほどがあるが、それを隙と斬りこむなど比古にはできなかった。無粋、というのが最も近いだろうが少し違う……自分の命を狙い、勝利を奪おうとする敵手を面白いと待ち受ける剣にいかれた馬鹿者の考えが飛天御剣流継承者である男の中にはっきりと生まれていた。
範馬は、その期待に確かに応えた。
めりぃ、とかみしぃ、とかいう音が聞こえてきた。範馬の中で肉と骨と腱が、軋んだり擦れ合ったり膨らんだりしている音だ。
誰もが何度となく自分の体内で聞いた事のある音だ。それが外界の空気を震わせている。範馬の背中から聞こえてくる音だった。
「ただひたすらに戦い続けて幾程か……一体いつの頃からか、自分でも知らない内に俺の背中に棲みついていた……鬼だ」
背中の筋肉が膨れ上がっている。
全力を放つために、本気となったが故に打撃の要、腕に力を与える背筋が盛り上がっているのだ。
「…………」
比古清十郎は、範馬勇志郎の背中と目が合ったと思った。
「肉の面、か……」
声が震えていないのはさすが飛天御剣流継承者、比古清十郎。しかして声を発するまでに一拍於かざるを得なかったのは、むべなるかな。
範馬の背筋が、比古の目の前で見る見るうちに異様な形へと変質していた。
盛り上がった筋肉の形が、さながら人の顔のように見えるのだ。背中一杯に浮かぶ巨大な肉の面が比古をにらみつけているかのようだった。まぎれもない異形に瞠目せざるを得ない。
人が人ではない何かへと変貌するという意味では、西洋における伝説の狼男の変化にも似ていたかもしれない。この異様さは実際に目の当たりにしなければわかるまい。
ただの肉が面らしく見えるのではなく、そこから感じる熱を持っているかのような強烈な圧力は肌に感じるようだった。
「これがお前の本気か」
範馬の背中から、陽炎が漂っているかのようだ。
まさか妖気だとでも言うまいが、それもおかしくはないとついつい迷信深く信じ込まされてしまいかねない異様だ。
頬に汗がにじむのを冷や汗などと比古は断じて認めなかったが、元々持ち合わせていない油断という愚物をさらに自分の中から欠片も残すまいと喝を入れざるをない。
その為に、比古は自分も一つ披露する事にした。
「そっちが御大層な開帳をしてくれたんなら、俺も一肌脱いでみようか」
「ああ?」
比古のやった事は、いたって平凡だった。肩にかかっている白外套を脱ぐ。それだけだ。
「ほう……」
範馬はそれに感嘆の声を上げた。地面に落ちた外套が、布切れ一枚とは思えない重たい音をたてたからだ。音から察するに最低でも五貫以上あるに違いないと思わせる重量感。こんなものをつけて常人の域を超えた戦闘を繰り広げた比古清十郎は、人の域を超えているに疑いない。その事実に範馬は喜と哀の感情をそれぞれ同量分増やした。
面白いと思い、惜しいと思う。
「飛天御剣流継承者に代々受け継がれている白外套……重さは十貫、筋肉に反したそりの発条を仕込んである。まあ……力を抑えるため……と言えば貴様は怒りだすだろうがな」
「ふん……」
範馬は怒りを見せなかった。自分を甘く見ていたことに腹が立たない訳などないが、やはり比古清十郎は自分とは別種であるという意識が怒りを湧かせなかった。これほど強い男であるにもかかわらず、自分の中から沸き立ってくる高揚感がないという考えもしなかった事実に範馬は自分自身で驚いている。
戦いの中に、それ以外の目的をもって立つ。それがどうしようもない不純で不真面目なものであるのだと、範馬は比古を見ていると怒りではなく不快さを禁じえなかった。
比古は腕を振るった。
無造作なそれに、大地が切り裂かれる。いや、切っ先が触れていなかったのを範馬の慧眼は見逃さなかった。かすめてさえいない、純粋に風圧だけで何寸の切れ込みを刻んだのか。
範馬はそれを見て、こみ上げてくる熱い気持ちに興奮を禁じる事が出来なかった。しかし同時に、何をあれこれ考えているのだと自問し、自答した。
「下らぬことを、いつまでも考えていたようだな」
「………」
「貴様が何であれ、何を考えていようとも、俺にはどうでもいい事だった」
ただ、強ければそれでいい。
「それ以外の何もかも……こういった会話そのものも……」
「!」
「闘争を物に例えるなら……不純な混ざり物だ!」
大きく振りかぶった見え見えの一発が比古を下から突き上げるように襲う。本来ならそれは卓抜した剣術家である比古清十郎どころか素人の喧嘩自慢でも簡単に避けられるほどの大振りでしかないはずだった。
だが、気が付けば比古はすさまじい衝撃を体に受けていた。まるで牛の体当たりでも受けたかのような強烈な衝撃に痛みよりも先に驚きが彼を貫く。
「見えん、だと……っ!」
刀は切っ先の速さにおいて人の視力を超える。
それは竹刀であろうとそれ以上に重たい真剣であっても変わらない事実だ。比古はそれが一度に複数であっても間合いから逃げるのではなく間合いの中で楽々と躱す超人であるのだが、その彼が見切れないほどの速さ、そして強さで範馬は襲い掛かってきたのだ。更にそれは一撃では終わらず、連撃……絶え間ない上に比古の予想もしない場所、角度から襲い掛かってきた。
「ち……」
熱い。
比古の体に青あざではなく裂傷が刻み込まれていく。打っているのではなく、切り裂いているのだと範馬の手首から先の様々に変化する形が突き付けてきた。
かろうじて急所だけは守りながら、比古は面白いと思った。
自分の知らない技、自分と真っ向からぶつかり合える力。それを併せ持った範馬との戦いのさ中、純粋に面白いと思ってしまった。
飛天御剣流継承者としては恥ずべきかもしれない。だが、そんなこんなを考える余裕などないはずの火花散る戦いの真っただ中で比古はまじりっけなしに面白いと思ってしまった。
痛く、苦しく、自分の命を狙う凶拳に襲われながら、流す以上の血が全身に行き渡り、煮えるほどに沸き立ってならなかった。
「喝っ!」
沸き立つ衝動そのものを籠めた一太刀が範馬に向かう。疾風のようにという言葉のままに迫る銀光を範馬はそれ以上の速さでもって飛び上がって躱す。比喩抜きで猿のような敏捷性だったが、比古は追いかけもせずに息をついた。
範馬に追いつかないと思ったのではない。
身をひるがえして着地した範馬の胸に、袈裟懸けの傷がばっさりと刻まれているのだ。
「躱したと思ったが……見切りが甘かったか」
「飛天御剣流の肝は見切りと速さだ。躱し切ろうなんぞ愚の骨頂よ」
比古の全身には数多の傷が刻まれている。だが出血量において一太刀で五分へと持っていった。刀とは、切り裂くとは殴ると一線を画したこういう意味を持っているのだ。
「その割には血が滴っていい男になっているな」
「気色の悪い」
無数の小さな傷をこしらえた範馬。一太刀で全てを逆転した比古。
不公平とはどちらも思っていない。そう思うなら最初から範馬は刀でも槍でも持っていた。何なら銃でもいいだろう。素手がいいから、範馬はこの道を生きているのだ。自分の五体が何よりもいいからこそ、丸腰で戦っているのだ。
「お前の強さは認める。さっきの攻撃も、その前の立ち合いも、全てそこらの剣士じゃあ一撃で殺せていただろう。躱すも受けるもない。俺でなければ、一呼吸で勝負は終いだ」
「…………」
「だが、俺の方がもっと強い」
範馬は何も語らない。これ以上の語らいは闘争ではないからだ。闘争であるのなら、闘いで全てを語るべきだ。
それでも、やはり上向きになる口の端を抑える事は出来ず、そもそもそんな我慢などするつもりもない。
「証明してみせな」
笑う。
確かに面白い。
刀とはこれだ。
武器とはこれだ。
一太刀で何もかもが覆る攻撃力。そんなものをぶつけあうたった一つの些細な誤りが致命に至る、自分と相手の作り出した運命の細工を完璧に紐解かなければ生き残れない難事。
「見せてやるさ、この一太刀……いいや、この技でな」
そう言って、比古は得物を正眼に構えた。
がちがちの基本的な構えをとるのはここまでの攻防で初めてだった。
「…………」
対して範馬は両腕を熊のように高く掲げる。
果し合いを始めた時と同じ……いや、更に絞り込んだ両手で天を示すような構えだった。
正統派の比古のそれと対照的に、いかにも異端で隙も多い体勢だった。
両者の間に横たわる空気がかき回され、渦を描いて中間点に収縮しているかのようだ。そこでは陽炎のように揺らめいて妖気のように澱んでいる。
一触即発。
比古清十郎が外連味たっぷりに技を見せてやると嘯いた時から、幕引きは始まっていた。
さあ、今がその時。
双方は五体に満ちる闘志を解放し、全身余す事無く使い切って生み出した巨大な力を殺意を籠めてぶつけるべく最初の踏み込みを一歩。
「あひゃはひゃひゃひゃは!」
まるで夏場の背後から飛んでくるやぶ蚊のように唐突に、彼らの気迫と闘志に冷や水をぶっかける甲高い奇声が下品に響いた。
「ああ?」
「あん?」
揃いも揃っていいところで極めて無粋な冷や水をかけられたおかげで、露骨に険悪な形相になった両雄はそれぞれ声がしたと思しき滝の方を見上げた。
「わひゃひゃひゃは……げほほっ!?」
何やら笑いすぎてむせこんでいるらしい赤毛の小僧がいた。年の頃は十程度だろうか、痩せぎすで小柄、眼下の屈強な二人とは対照的に華奢な少年である。
滝つぼを見下ろす位置、ちょうど淵のあたりで身をよじりながら大笑いしているのは非常に危険だが、不幸にもそういった点を気にするような大人はおらず、ただ不機嫌な眼差しを子供に向けているだけである。
「おい、あの小僧は何だ」
まさに決着の一瞬を踏みつぶすには最適の瞬間に水を差してきた小僧に、範馬は大人げなく犬歯を剥きだす。顎で示された比古は比古でひどく冷めた無表情で滝の上を見上げた。
「……知らんな」
双方構えを崩す事はないが、共に闘争の空気を見失いつつあった。
「……ここはてめえの地元だろうが。あの珍妙なガキがお前の息子かなにかでなけりゃ、こんな山の中に降って湧くか?」
「知らんな。あんな頭の逝った目をして奇声を上げるようなガキは俺の目の届く範囲に置きたかない」
心の底からの本音を答えて、比古はどうしようかと顔には出さずに困り果てた。
今、正に決着の一瞬をものの見事に台無しにする絶妙の合いの手を入れてきた小僧にはいっその事見事とまで言いたくなるほどだが、褒美の拳骨をくれてやるには場所が遠すぎた。
「……ちっ」
実に忌々し気に舌打ちする範馬も朧げに双方の関係を察しているようだが、いずれにしても一体どうするべきなのかこの両雄をしてどうにも決断しがたい白けた空気が流れてしまった。
「なんだ、あのガキは。酒でも飲んでいやがるのか」
「もしも俺の酒をくすねたってんなら叩き切ってやる」
傍目に見ても頭がおかしいとしか思えない目つきの小僧に二人は揃って似たような表情をする。せっかくの場を壊した小僧を殴るか斬るかしたいところだが、自分たちの腰にも満たないちび助にむきになるのもしょうもない。
そんな顔だ。
さて豪傑二人を困惑させるという偉業をなした小僧だが、なんともふらついた足取りで目は虚ろ、けたたましい奇声を上げ続けており、なるほど酔っぱらっているというのもうなずける有様だった。しかし、彼は殊更にちび助と言われるような子供であり酒を飲むなど様々な意味で言語道断である。
いずれにしても千鳥足の見本かもしれない優雅とは正反対の足取りで、あっちへふらふらこっちへふらふらと耳障りに笑いながら歩き続ける彼をどうにかしないと、決着もくそもない。
さて、一体どうしてくれようかと件の少年を苦々しい気持ちで見上げた比古だったが、彼の鋭敏な聴覚が異音を捕らえた。がり、という小さな音が滝の水音にまぎれて消えていったのだ。
「!」
咄嗟に仰いだ比古の目の前で、件の少年が滝つぼに飲み込まれていった。
とうとう足を踏み外しやがって、あの阿呆!
内心を口に出すだけの間もなく、比古は問答無用で滝つぼへと身を躍らせた。咄嗟に、命とも言える流派伝来の宝刀さえも手放して。
「剣心!」
「…………」
範馬は自分に目もくれずに消えてしまった男に何を思ったのか、ただただ太くため息だけをついた。
怒りはなく、失望もなく、ただ苦虫をかみつぶした仏頂面で、彼はゆっくりと身をひるがえした。その遅さの分だけ彼の内心の未練はうかがえたが、後ろを振り返る事だけはしなかった。
「……ち……なんだか知らねぇが、拍子抜けさせてくれやがって……なんだあのガキ、酒でも飲んだか、おかしな茸でも食ったか?」
らしくもなく独り言をぶつぶつとぼやきながら、彼はのったりと猛獣のようなしなやかな動きでその場を後にした。去っていく広い背中の向こうで、水をさんざん飲み下した赤毛の少年を抱えて濡れ鼠となった比古が滝つぼから這い上がっているが目をくれる事はなかった。
「…………」
その背中を呼び止めるような真似を取れるような男ではない比古清十郎の胸に、苦々しい敗北感に近い思いがじんわりと血のように滲む。
奇しくも、打ち合わせたように範馬も心臓の奥に同じような疼きを感じていた。
決着のつかない、放り出された勝負。
それがどうしようもなく、強者二人をこれ以上ない程に煮え切らない苛立ちの中に放り込んでいる。
双方、他に類を見ない強者であり腹の中にくすぶるものを抱き続けるなど、人生においてこれまであったかどうかさえ疑わしい。
一体どうすればこの気分が晴れるのか。
互いに決着を付ければよいとわかってはいたが、ここで追いかける事も振り返る事もできるはずがない。彼らはそういう男たちであり、そうあり続けたい男たちであったからだ。
「ち……タンスイ? とやらでも探してみるか……?」
風に吹かれて赤毛の鬼は立ち去った。
その背後で、比古はずぶぬれの少年を米俵のように抱えつつ……二度と互いが出会う事はないだろうと確信に近い思いを噛みしめていた。同時に、強く深い悔恨も。
なんと惜しい機会であったのかと、完全に手を離れてしまった今なら素直に思う事ができる。
果たして、いつ以来だろうか。
ワクワクする。興奮する。充実するという刹那の瞬間を味わったのは一体いつだろうか。
それも対等の、いたって真っ当で他愛のない勝負でこんな楽しさを味わったのは、一体いつ以来だろうか。
比古にはついぞ思い出せない。
台無しになってしまった刹那があまりに惜しい。
壊れてしまったのは決して珍妙な乱入のせいではない。ただ、比古清十郎が勝負に誠実ではなかったからだ。
比古清十郎が。あるいは飛天御剣流そのものが。
いや、飛天の剣ではないのだろう。弱者を守るための剣と勝負に誠実である事に両立は不成立ではないのだ。
ただ、そこのところを強すぎた比古清十郎が勘違いをしていたにすぎない。
間違いだった。今ならば、手放してしまったからこそ素直にうなずける。
間違いは、正さなければならない。
どこの誰とも知れない赤毛の鬼との邂逅は、その為の教訓として比古清十郎の中に苦味のある記憶として刻み込まれた。
「あひゃひゃあ! ひゃひゃひゃ! ぼげ!?」
なんとなくいい拍子で笑い声をあげている小僧にとりあえず拳骨をくれてやると、少年の懐から茸が一つ二つ転がり出てきた。閉じかけの傘のようなけったいな形状を見た比古は思わず呆れてしまった。
「……このクソガキ……ワライタケを喰いやがった……」
ワライタケ。
遠い先の時代、彼らの子や孫が老人となっている平成という時代においてマジックマッシュルームなどと言われ禁制品となっている毒キノコの類である。
食べると数時間は笑い出したり踊りだしたり、あるいは幻覚を見たりするが子供でも命に支障はない。
「もっとも、そんなのが滝に落ちれば死んで当然だがな……」
未だに笑い続け、自分が命の危険にさらされていたという自覚が全くなさそうな少年を疲れ果てた似合わない眼差しで見下ろし、比古は疲れ果てたため息をついて既に見えなくなった赤毛の鬼を思い返す。
逃がした魚は大きい、という言葉が訳もなく頭を過ぎり、彼は少年にもう一度先程よりも強く拳骨を振り下ろしたのであった。