るろうに範馬   作:北国から

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 ようやっと御庭番衆編は終了!

 展開やキャラクターの考え方、行動にはいろいろな意見があるんでしょうね……

 これが筆者なりに“こういう風になるのもありじゃないかな”という一つの形です。

 次回からはオリジナルを交えて志々雄編に入る予定。

 他の方々が書いた刃牙作品を最近幾つも読みましたが、やっぱりこう……違うなぁ。

 強者同士の繰り広げる戦いの為の戦い……あれこれ葛藤を描くような話よりもそっちの方が書いていても読んでもらっても楽しそうだ。

 次回からはぐだぐだ言わずに、今まであった看板に偽りがあった部分を取り返せるように書いていこう!


 あ、ぐだぐだと言えば、まさかFGOでぐだぐだが今更来るとは思っていなかった。今年の水着イベントの為に石を貯めていると言うのに、うごご……新規キャラと配布は一体誰が現れるのか、葛藤する……

 でも今は、新規投稿したらまず対魔忍RPGの水着を引くんだ! 来てくれ、水着サマーイングリッド……! 


 ふたばやさん、誤字報告ありがとうございます。恥ずかしいほど一杯だぁ……


あばよ

 緋村剣心と四之森蒼紫。

 

 二人が対峙したのは観柳の豪邸でも特に大きなホールでだった。

 

 周囲に遮蔽物もない広い場所で、まるで道場のように真っ向勝負ができるような有利も不利もない場所と言えた。

 

 三階に通じる階段の前で腕を組んで待ち構えている白コートの男を見据え、剣心は静かに呟くように声をかけた。

 

「……お互い、顔は見知っているが言葉を交わすのは初めてだったか」

 

「そうだったかな」

 

 蒼紫の顔は正しく鉄面皮と言う言葉の見本だった。一対一の勝負の場を用意しているにも拘らず、表情に闘志が感じられない。強者、剣客というよりも兵士と言うべきに見える……しかし、それはあくまでも見てくれだけだと剣心は考えている。

 

 腹の中に戦いへの強い執着がなければ、こんな戦う場を用意して待ち構えたりはするまい。

 

 左之助との小競り合いだけではこの男の真価などわかりはしないが、真っ平でだだっ広いだけの空間に得手不得手を生かすも何もない。

 

 それとも、隠密と言うだけあって剣心にはわからない罠でも隠しているのか。

 

 ……置いてきた左之助がどうなっているのかが今更ながら気にかかったが、それを考えるのを剣心はやめた。目の前の男は紛れもなく集中を徹底しなければならない強敵だった。

 

 蒼紫を見ると、まず体格はよく均整がとれている。手足は長いが体幹は一本筋が通っている。見たところ武器を携帯しているようには見えないが、仮にも隠密の……それも御頭が素直に得物を悟らせると考える方が間違えているのだろう。

 

 だが長物は確実にないだろう。となるとコートの下に隠せるような……隠密らしく手裏剣の類か。あの式尉と言う男も名前も知らない飛び道具の男も、そしてひょっとことやらも真っ当とは言えない武器ばかり使っていたのだから、その御頭と言う蒼紫もこちらの度肝を抜くような奇妙奇天烈な武器を使ってくるのかもしれない。

 

 それとも、般若と同じような手甲の類か。

 

 左之助とは無手の格闘術で戦っていたが、あれが街中だからという訳でもなく主な戦闘術だと言う可能性もないではない。彼らは護衛を主とする御庭番衆……となると、屋内……それも江戸城を含む幕府方の重要拠点において貴人の護衛を勤めていたはず。となると、巻き込みかねない武器の類はむしろ禁じ手であったのかもしれない。だったらひょっとこは元より式尉はいいのかと言う意見もあるが、そこはきっと任務の采配次第なんだろう。

 

「……できれば無用の戦いは避けたい。恵殿を返してほしいだけでござる。そこをどいて、恵殿と観柳の場所を教えてはくれぬか」

 

「ふざけた男だ。あるいは傲慢か? 俺に任務を放り出せと言っているのだからな」

 

 腹の中でどんな感情が渦巻いているにしても、それをうすら寒い程に表には出さず彼はコートを開けて脇を晒した。

 

「二人の場所は腰の刀で問え。俺はこいつで応えよう」

 

 彼のコート下には般若のそれと同じ独特の忍び衣装。その腰にぶら下げられているのは、一本の小さな刀だった。

 

「って、ふざけんな! 脇差一本で勝負する気か、てめぇっ! 人を嘗めんのも大概にしろいっ!」

 

 いきりたったのはそれまで大人しくしていた弥彦である。だが蒼紫はあくまで剣心だけを見据え続けている。その姿には一切の油断も隙もない。

 

「お子様は引っ込んでいろ」 

 

「んだと、てめぇ!」

 

 目も向けずにバッサリ斬り落とされて、この負けん気の強さなら誰にも負けない少年が大人しくしているわけがない。だが、熱したやかんよりも真っ赤になってそろそろ白い蒸気さえ吐き出しそうな少年に後ろからも待ったがかかる。

 

「拙者もできればそうして欲しいでござるよ」

 

 その前に、子供をこんな所に連れてくるのは大人としてどうなんだろうか。これも剣の道における厳しさかもしれない。

 

「勝手にしろい、コンチキショー! ったく、どいつもこいつも!」

 

 いきり立った弥彦から脳天にばしり、と活入れされた剣心がやれやれと見送り、がにまたでずかずかと二人から距離をとる少年剣士は思い出したように振り返って、またぞろ生意気なセリフを抜かす。

 

「いいか、剣心! たかが脇差なんかに手こずってんじゃねーぞ! さっさとすませろよな!」

 

 小僧の嘗めたセリフにも蒼紫は眉一つ動かさず、ついでに筋一本も動かさず距離を開けるのを見送った。隙を突いて、と言う本来は当然のはずの考えを持っていないらしい。少なくとも、今、この時だけは。

 

「まあ……あれが脇差であれば手こずらずに済むのかもしれんでござるがな」

 

「……小太刀の特性を、理解しているようだな」 

 

 困ったように息をついて少年を見送り、改めて向き直る。その顔にはまだ刃のような鋭さは宿っていなかったが、静かに鯉口を抜く動作に隙はない。

 

「小太刀?」

 

「一口で言えば、太刀と脇差の中間の刀でござるよ。刀より短い分、攻撃力では劣るが軽量で小回りが利き、防御に回れば非常に堅固。いわば盾として使える刀が小太刀でござる」 

 

 御庭番衆は護衛が任務。なるほど、その御頭が防御を旨として使える武器を選択するのはある意味正しい。

 

「あれを攻めるのは相当に難儀……」

 

 剣心は弥彦の知る中で最も強い剣客であり、彼は少年らしい純粋さで彼こそ日本一と本気で信じている。その男が攻めあぐねると言い切った事で若干の驚きを感じ、血が上っていた頭が冷える。

 

「そうか。ではこちらから攻めていってみよう」

 

「何!?」

 

驚きの声を悠長にあげている暇もあればこそ。それこそ速さが身上の剣心を驚かせるほどの速さで一気に間合いを詰めた蒼紫が、いつの間にか右手に構えた小太刀で剣心の喉元目掛けて斬りかかってきた。もちろん緋村剣心、そうやすやすと一太刀受けるような間抜けではなくきっちりと鎬で受け止める。

 

 だが、それが蒼紫の狙いだった。

 

 防御用という特性を謳われた小太刀で敢えて繰り出した一撃を剣心は受け止めたが、これは失敗だった。避ければよかったのだ。

 

 だが意表を突かれたおかげで反応が遅れ、躱す事が出来ず受け止めるしかなかった。これは見方によっては、蒼紫が剣心の太刀を封じたとも言えるのだ。

 

「!?」

 

 自分の顔に何かが襲い掛かってきたと見てとった剣心だったが、それを防ぐことも躱す事も出来ずに木偶のように食らった。のけぞりながらも自分の頬傷の上に痣を拵えたのは蒼紫の右内回し蹴りだと何とか見てとったが、間髪入れずに更に襲い掛かってきた左拳の連撃を悉く胸板に食らった。

 

 息が詰まるのをどうにか堪えた剣心が跳ね返った毬のように飛び、速さ重視で三つ太刀を繰り出してみるがあっさりと本領を発揮した小太刀で受け止められた。

 

「……そうか。小太刀で防御し、般若と同じ拳法で攻撃する型か……」

 

 交差して一瞬眼差しを交えた二人は今の数合の明暗を分けつつ距離をとる。相手の戦法を口にした剣心の頬は腫れ、上半身のあちこちにずきずきと痛みを訴えてくる痣が拵えられている。

 

 最初の攻防は一方的だった。

 

「一つだけ間違えているな。般若に拳法を教えたのはこの俺だ。型が同じと言っても重さも速さもまだまだ俺の方が上。結果まで同じと思っていれば痛い目を見る」

 

「…………」

 

 確かに痛い目を見ている剣心が、それを顔に出さずにいるには少なからず努力が必要だった。

 

 骨身にずしりと残る重たい痛み、斬られる痛みには慣れているがこういう種類の痛みはあまり受けた事がなかった……しかし、それは幕末の頃の話だ。最近は、とある加減を知らない上に必死になっている喧嘩屋のおかげでこういう痛みは大分馴染みがある。

 

「本気を出せ、緋村抜刀斎。無用の戦いは避けたい、などと腑抜けた事を言っている貴様を倒しても意味はないんだ。そんな男に剣を振るって何になる」 

 

「…………般若も言っていたが……力を奮う機会が欲しい……とはお主らの本音でござるか」

 

「その通りだ。でもなければわざわざこんな場を設けたりはするまい」 

 

 剣心の声には自然と鋭い物が混ざっていた。だが棘と言うよりも刃の様なそれに対しても、蒼紫は怯む様子など全く見せなかった。

 

「私怨はないが、かつて最強と呼ばれた維新志士である貴様には……この場で死んでもらうぞ」

 

「最強の維新志士であるが故に、か……ならば拙者もあの時般若に返した言葉をお主にも返そう。あの時代に戦った全ての人が求めたのは平和な時代に他ならぬ。ただ力を奮う機会を求めて観柳などと組んだお主らに、拙者も志士として、流浪人としてどちらの意味でも負けるわけにはいかぬ!」

 

「……平和な時代を求めて真摯に私欲なく戦った者など実際にはどれだけいるのか。自分でも信じてはいない綺麗ごとを抜かすな、緋村抜刀斎」

 

 突きつけられた切っ先にも鋭い糾弾にも眉一つ動かさない蒼紫は、むしろくだらない話をするなと一蹴した。新時代の為に、平和の為になどと命を懸けた男などどれだけいるのか? もちろん理想に燃えた男たちの存在を否定はするまいが、それが如何に空々しい口先だけかは今の堕落しきったかつての維新志士と作り上げた新時代が示しているではないか。

 

 しかしてそれならば、腹の底から今のセリフを口にしているように見える最強の維新志士はあくまでも末端の男に過ぎない……という事か。自分たち御庭番衆と同じ、あくまでも人を斬る生きた道具に過ぎないという事だ。十年前に政府要人となることなく野に放たれているのがその証拠……

 

 いや……あえて野に降りたからこそ、このようなセリフを吐ける純粋さを未だに保っているのか。

 

 純粋さ……散々人を斬ってきた大の男に付けるべき言葉ではないが、蒼紫はそれがこの奇妙な十字傷の男に似合っているような気がした。

 

「だが、未だにそんな青臭い綺麗ごとを口にできる貴様は、今の見る影なく腐り果てた……いや、あるいは化けの皮が剥げたかつての維新志士どもと違ってまだまだ意気がいいという事か」

 

 初めて口元が綻んだ。

 

 それを見た弥彦が背筋を寒くした。目が笑っていない男が口だけ笑う顔がこんなにも不気味だなどとは思ってもみなかった。少年が見た事のない、鮫が大きな獲物を見て興奮するとこんな顔をするのかもしれない。

 

「来い」 

 

 静かなままの挑発に剣心は乗った。元より恵を救うためにこの男を避けては通れないが、それを差し引いてもなお見逃せない危険さを剣心はこの男に感じている。

 

 阿片売買などに手を貸すほど見境のない、強力な戦闘集団の長にして自身も強力な戦闘者。動乱の幕末にも滅多に見なかった程の強者が戦いを求めているという事実が剣心には重い。

 

 ここで見逃せば、ただこの男の力を奮いたいと言う子供じみた欲の為に大きな被害が出る。そう考えた剣心の足にこれまでにない強い力が宿り、それは蒼紫にも見切れない程の速さを生み出した。

 

 天才と謳われた隠密御庭番衆の頭をもってしても一瞬姿を見失う程の静から動へ一瞬で到達する高速の動きで、剣心は一挙に長身の蒼紫からも死角になるほどの高さに飛び上がった。

 

 正に蝗のような跳躍は傍から見ていた弥彦でさえも見失ってしまう程で、少年剣士が剣心が動いたと気が付いたのは初動が終わって金属音がした時だった。

 

「上か!」

 

 左之助に放ったそれとは違う、片手の打ち下ろしを頭上から見舞ったが小太刀にあえなく受け止められた。小太刀を破る為に繰り出した速さ重視の伸び有る一閃を止められてしまった剣心は怯みも躊躇いもせずに着地前に納刀して居合を繰り出すが、それさえも鍔元でしっかりと受け止められてしまう。

 

「飛天御剣流の龍槌閃、だったか。そのまま着地を待たずに抜刀術。なかなかだが俺の小太刀はその程度では越えられん」

 

「…………」 

 

 元より承知の上か、剣心は人斬り時代に戻ったような鋭い視線のまま動じずに次の一手を繰り出した。

 

 神速の煌きが下から蒼紫の急所を襲うが、全てが小太刀によって金属音と共に払いのけられる。それらの輝きが連なる様を、弥彦は何も見る事が出来ずただ金属音が連鎖するとしかわからなかった。

 

「無駄だ。防御に徹したのであれば、俺の小太刀はライフルの弾丸でも防ぎきるぞ」

 

 彼が気付いた時には、既に剣心は大きく吹き飛ばされて膝をついている。

 

「剣心!」

 

 弥彦にはわからなかったが、剣心は薄い胸板に立て続けに五発もの拳打を浴びせられていた。

 

 骨が軋み、肉が熱を帯びる。衝撃が内臓を激しく揺らし、呼吸がおぼつかなくなる。膝をついてしまいそうになるのを必死になって堪えているが、袴の中で膝が笑っている事実を相手に悟られていないわけがない。

 

「驚いたな。その華奢な体躯で俺の打撃にこうまで耐えるか……急所を完全に捉える事が一撃もなかった」

 

「……ここ最近の鍛錬のおかげでござるよ」 

 

「あの喧嘩屋と名乗る男が相手か」

 

 剣心と蒼紫の体格は頭一つ分ほども違う。剣心は小柄であり、蒼紫は長身で式尉ほど極端ではないが痩身ではなく見合った筋肉を備えている。

 

 拳に体重を乗せる事も出来ない素人でもあるまいに、これだけ体格差がある拳法家から殴られれば簡単に昏倒さえしかねないはずだが剣心は痛手を受けてはいても耐えている。いかに彼が歴戦の雄であっても、ありえない話だった。

 

 だが、蒼紫は動揺する事無く冷静さを保っている……彼が今しがた口にしたように、剣心が自分の攻撃から丁寧に急所を守り抜いていると気が付いているからだ。打撃は斬撃と異なり、然るべき急所に命中させなければ効力は激減してしまうのだと使い手である彼自身は百も承知である。

 

 剣客が打撃の急所を悉く外す……それもそこらの拳法家など裸足で逃げ出す自分の攻撃を防御し切るなど並大抵の事ではない。これが同じ素手同士の武術家である喧嘩屋ならばともかく、この男がやってのけるのは敵ながら見事と感心さえする。

 

「だがそれでも限度はある。急所を幾ら外そうとも、いずれ疲労と痛みを伴いお前は破壊される……もっとも、そんな悠長な真似をするつもりはないがな」

 

「それはこちらとて同じ事。これ以上木偶のように殴られるつもりはないでござるよ」

 

 ここまで剣心は一太刀も入れる事が出来ていないにも関わらずいいように殴打されている。それを認めざるを得ない弥彦は、蒼紫の冷徹な表情に寒気がして足がすくみ顔も青ざめるのを止められなかった。

 

 強い。それも、氷のように冷たい強さだ。あるいは、からくりのように無機質な強さだ。

 

 剣心との勝負を熱望しておきながら、これだけの有利に眉一つ動かさない異質な姿に弥彦は違和感から生まれる不気味さを受けている。この男が人間には見えなくなりそうだった。

 

 そんな男に自分が信じる日本で一番強い剣客がいいように叩きのめされている。圧倒的にも見える差に、いくら強気で意地っ張りな彼でも自分の中にどうしようもなくみっともない弱さが生まれるのを止められなかった。まるで糞のように見苦しくも情けない弱さが彼の頬に冷汗の形をとって垂れていく。

 

「剣心!」

 

 それは剣心を鼓舞する声ではなかった。むしろ、苦戦のただなかにある剣士にすがるような情けない弱さを籠めた声だった。

 

 だが、剣心はそれに応える。彼はそういう声に応える為に刀を握って旅を続けていた男だからだ。 

 

「大丈夫でござるよ。これしきでやられていては恵殿に申し訳ないし、薫殿に合わせる顔がない。左之には何と言われるやら……それに、あの小太刀を破る手段もやっと見つけたところでござる」

 

 息は荒く、肌はあちこちに内出血が見える。何度か床に打ち据えた際に頭からも血が流れていた。

 

 だが、剣心は刀を手放さずに立っている。勝負を捨てていないと同時に勝機を見出したのだと彼は明言した。

 

 剣心は実のところ勝負に徹する必要などなく、それを当人もちゃんと理解していた。目的を忘れていないというべきか、彼にとっての第一は何よりも高荷恵の救出であり、極端な事を言えばこうやって戦う必要もない。

 

 こそこそと侵入して高荷恵一人を救出すればそれでいいのだ。何なら今から蒼紫を放り出して高荷恵の所に雪崩こんでもいい……蒼紫を振り切れるかどうかは別問題だが。

 

 それをしないのは、そもそも彼女の居場所がわからないのと観柳、御庭番衆全ての決着をこの夜に全てつけてしまうと決めたからだ。そうしなければ結局元の木阿弥であり、おそらく脅しをかけられて屈したであろう恵が同じ選択をする。

 

 正面から殴りこんだのは本人の性格もあるかもしれないが、それなりに考えた上での選択である。それこそどこぞの喧嘩屋のように力押しの猪突猛進が過ぎるが……付き合ってほんの数か月の間に何かうつったのであろうか。

 

「ハッタリ……と言いたいところだが、そんなつまらない真似をする性格ではあるまい」

 

 ゆっくりと間合いを詰めてくる男の眼には油断はなかったが、どこか自分の小太刀を破る起死回生の手段とやらを楽しみにしているような隙があった。もちろんそれは、自分がそれを更に破れるという自負が齎しているに違いない。

 

「見せてもらおうか、その手段とやらを」

 

 闘争を望む心が呼び込んだ隙を剣心がつけるかどうか。お互いが理解している上で今一度の交錯は始まる。

 

 一歩、二歩、三歩、四歩、そして五歩目に剣心は太刀を振り、それに蒼紫は応じた。

 

 間合いが近い、と蒼紫は四歩目で思う。

 

 ここまでの剣心の攻めは四歩目の遠間で一挙に駆け抜けてきた。間合いが一歩近い、それが逆転の手段とやらに繋がる一手なのか。

 

「はっ!」 

 

「遅い!」

 

 片手で振った一閃を蒼紫の小太刀が迎え撃ち、巻き込んで払った。こんなものではあるまい、という期待とこんなものか、という失望が交互に彼の中に沸き起こる中、眼下に見つけた剣心の“起死回生”に目を見張った。

 

「何!?」

 

 剣心は刀の柄ではなく、なんと血を流しながら刃そのものを掴んでいた。だらだらと手元を汚す赤色に目を見張った蒼紫だったが、その隙を突いて切り結んでいる刃を支点に切り返した柄尻が喉を強襲した。

 

 見事に急所の喉を直撃した打撃に初めて顔色を変えた蒼紫は、痛みを訴え始めた喉からうめき声をあげて間合いを広げる。

 

「蒼紫……お主の強さの秘訣は相手の間合いを完全に制する事にある」

 

 それは蒼紫にと言うよりも、むしろ弥彦に聞かせるための言葉だった。この少年剣士を買っている剣心は今、この大苦戦の最中にも自らの奮闘を彼のための教材とするべく心していた。

 

「間合い……」

 

 師の教えを(行儀悪く反発交じりに)聞いていた弥彦もそれを受け止めて、思い出す。神谷薫曰く、間合いとはすなわちそれぞれが一足で攻撃に至れる距離。

 

 それぞれの技量、戦い方、地形、そして武器で間合いは変化していく。間合いを譲らないのが戦法であり、間合いを任意に変化させるのもまた戦法。

 

 とどのつまりは、自分がその時その場で最も有利になるように、最終的に勝利を掴めるように組み立てなければならない戦闘の重要な要素の一つ。

 

 力量が高度であればあるほどに間合いを制する重要性は増していく。相手の間合いを崩し、自分の間合いで闘う事が武術全般悉くにおいて例外なく勝利に必須な要素なのだ。

 

「単純に考えれば長い刀を持つ拙者の方が有利。だが相手の懐に飛び込めるお主であれば、間合いの死角に入りこみ小太刀で刀を封じて拳で攻撃するという密着戦が可能。ならば、こちらも刀を短く持って間合いを同じくすれば……死角はなくなる」 

 

 何の事はない、刀と槍の勝負と同じだ。

 

 刀が如何に槍の穂先を交わして飛び込むかを苦心するのと同様に、この男は小太刀で刀の懐に飛び込むのを苦心してこの回答にたどり着いたのだろう。

 

 剣心がここまで苦戦したのは、刀という物が本来は最も間合いが短い武器だからだ。戦場において主兵装は槍であり、刀はあくまでも副兵装に過ぎない。先ほどまで剣心が口にした戦法を刀は仕掛ける側であり、受ける側ではないのだ。

 

「そうか……左之助の時と同じか」

 

 摑まえられ、腹に膝を繰り返して打ち込まれていた剣心の姿を思い出す。

 

 密着され、刀を振るう余地を潰して拳と蹴りで戦う姿は蒼紫との攻防よりも極端でわかりやすい。

 

 素手との違いは小太刀とはあくまでも道具であり素手よりも果敢に踏み込むことができる事と、もちろん刃であるので攻撃力が段違いという事か。

 

「……なるほど、刃物は引くか押すかしなければ斬れるものではない。握りしめただけでは刃はたたぬ……ましてや切れ味が比較的低い根本ならば振り回しても皮かせいぜい肉が斬れるのみか」

 

 多少痛手の余韻を残すしゃがれた声が補強した。御庭番衆の御頭が、喉の痛打などいかほどでもないと仁王立ちして彼を見据えている。

 

 目にはまだまだ静かな闘志が氷のように固く宿り、このままでは終わらないと語っている。

 

たかだか一撃で逆転などありえない。血も流さずに終わるはずがない。

 

「肉を断たせて骨を断つ……人斬りの真髄、しかと拝ませてもらった」

 

 真冬の凍り付いた湖……いや、底なし沼の様な目だった。傍で見ている弥彦には、どこか人以外の生き物がするような目に思えてならず剣心が闘志を保って睨み返しているのがいっそ不思議に思えるほどに恐ろしい目だった。

 

 これで熱が籠っているのであれば、弥彦はここまで恐ろしくは思わない。だが、まるで蛇か蜥蜴のような目がこれほど不気味だとは少年の短い人生では考えた事もない。

 

「返礼として、御庭番衆の真髄で仕留めてやろう」

 

「!」

 

 掌から血を流しつつ身構える剣心は、蒼紫が電光石火の勢いで襲い掛かってくるかと思っていた。だが、なんと彼はまるでゆっくりと落ちる木の葉のように近づいてきたではないか。

 

 遅い。

 

 振りかぶった小太刀を逆刃刀で受け止めてもなお動きに変化はない。いったい、この遅さは何なのか。

 

「!」 

 

 蒼紫の意図が理解できない戸惑いを抱えたまま戦う以外にない剣心は、それ以上の不可解に襲われた。今しがた彼にのそのそと斬りかかったはずの蒼紫が、なんといつの間にやら背後にいるのだ。

 

 斬りかかられる前に身構える事だけは出来たが、一瞬遅ければ背中から斬られてお終いだったのは間違いなく……まるで人間が陽炎のようになってしまった奇怪な事象には歴戦の剣心も度肝を抜かれた。

 

「なんだ!?」

 

 飛んで間合いを広げようとも即座に追いすがる様は、ゆうらりとした動きと相まって幽鬼のような不気味さだ。惑わされるな、と自身に喝を入れる剣心の掌に鈍い痛みがじくじくと奔り、それは奇妙な錯覚に囚われそうになる彼を刀が叱る様だった。

 

 おかげで気が晴れる。

 

 飛天御剣流と言えどさすがに魂を斬るような剣技はないが、目の前の男は紛れもない現実である。現実でありこちらの剣は当たれば倒せ、向こうの剣が当たれば斬られる。当たり前の現実は決して消えはしない。

 

 頭が冷えた剣心は、相手の奇妙な動きの正体に一つだけ思い至る事が出来た。

 

「これは……まさか剣舞!?」 

 

 ふらりふらりと動く蒼紫は剣心を逃がさんと追い込む為に彼を中心に円を描く。ゆったりとした動きながらも奇妙に速く、剣心からはまるで蒼紫が幾人にも分身して彼を四方八方から囲んでいるようにさえ感じられる。

 

 もちろん剣心も黙ってやられるつもりはなく握りしめた刀から自分自身の血を巻きながらも振り回すが、相変わらず風に吹かれる木の葉のような動きでゆらゆらと躱される。奇妙奇天烈な動きはなるほどこれも一つの隠密らしさとも言えて、蒼紫の口にした御庭番衆の真髄と言う言葉に嘘偽りはなかった。

 

 剣心も長年の戦いの記憶の中にこんな奇妙な動きの敵を見た事はなかったが、それでも経験に裏打ちされた知識のおかげで何とか一つの答えを導き出す事が出来た。

 

 剣舞。

 

 それもただの舞踊ではない、戦闘用の剣舞。戦う為の舞など、字面を鑑みても我ながらおかしな事をと思うが他には言いようがなかった。拳法の技、そして小太刀の技をここまでの戦いでは右と左で別々に使っているようなものだったが、この動きは歩法などを中心に一つに溶け込ませている四乃森蒼紫の戦闘技術の集大成。

 

 この動きは正に緩急自在を目指したものであるらしく、縦に斬ろうが横に薙ごうが悉く躱される。

 

「やめておけ。お前の剣は静動がはっきりと分かれている。そこに慣れすぎたお前にこの緩急自在たる流水の動きは捉えられんよ」

 

 嘯く蒼紫の言葉に嘘はなかった。

 

 速さはないのに捉えきれない。その仕組みが剣心には理解できなかった。攻撃の癖を失くし、繰り返して修練を積み研究を重ねる事で目の錯覚を利用する方法を見出したに違いない歩法は緋村剣心の知る剣術には存在しなかった。

 

 小太刀と言う得物と五体悉くを武器とする拳法だからこそ生まれた門外不出の武技が、戦国から端を発する飛天の長い歴史を凌駕した。

 

 流水といった蒼紫の言う通り、刀で水は斬れず。

 

「死ね」

 

 だからと言って諦める事など出来るはずもない剣心の攻撃が空しく躱され、大きく体が泳いだ瞬間に遂に牙を剥いた。

 

 剣心から見て左側、斜め後ろから逆手に持った小太刀が煌めく。剣心当人、そして傍で死闘を見ていた弥彦にもそれしかわからなかった。

 

 少年剣士の目には見えもしない動きで蒼紫が激しく動いた。かろうじて回転しているとだけしか理解できなかった。結果が分かったのは、白目をむいて倒れる剣心と彼の胸に鮮やかに咲き誇る三つの赤い傷跡を見たからだった。

 

「剣心!」

 

 どさりと音をたてて大の字になって転がる剣心は、弥彦の声に応える事は出来なかった。

 

 彼が倒れたおかげか腰に差さっていた鞘がまるで主の体に突き立っているように見える様は、少年には墓標のように不吉な姿だった。

 

「回天剣舞。かつて江戸城に潜入してきた賊の全てを始末してきた技だ」

 

 倒れた剣心に勝利を確信したのか、蒼紫はあっさりと背中を向けているがそれも当然と言えば当然か。幕末最強の人斬りと言われた男は白目をむき、胸は鮮やかな獣の爪痕にも見える三本傷で穿たれている。

 

「剣……心……」

 

 信じがたい現実に少年は打ちのめされていた。

 

 彼にとって緋村剣心は最強であり最高だった。それが大の字になって地べたを嘗め、あまつさえ命さえ落としてしまった。

 

 正直に言えば、少年剣士は高をくくっていた。

 

 何がどうなろうとも、最後は剣心が勝って終わる。何もかもが大団円になると信じていた……と言うよりも、決まりきった物語のようにそう言う結末があるのだと腹の底の底では思っていたのだ。それがただの思い込みにすぎないのだと悟った少年の心は音をたててひびが入り、へし折れかけていた。

 

「終わりだ、小僧。緋村抜刀斎は死んだ」

 

 今なら見逃すから、立ち去れ。

 

 言外の意味を悟った弥彦は目から溢れそうになる激情を必死に押しとどめながら、声を大にして叫ぶ。

 

「うるせぇ……次は俺が相手だ! たとえ刺し違えてでも、てめぇはこの場でぶっ倒すッッ!」

 

 心が折れかけているのは一目瞭然だった。だが、少年は蒼紫に向かって涙を目に貯めながらも決してこぼさずに啖呵を切って見せた。幼い少年ながら、思わず氷の男が感心するほどの見事な男ぶりだった。

 

「……いい気迫だ。ここで殺すのは惜しい気がする」

 

 向かってくるなら子供でも斬らねばならない。だが、それは惜しいと口走ってしまう程にこの少年は未来に可能性を感じさせる気骨を幼少の今から見せている。こんなガキはそうそういない。

 

「弥彦は神谷活心流の大事な後継者でござる。こんな所で死なせはせんよ」

 

 それに応えたのは、蒼紫にとっては予想だにしない声だった。

 

「剣心!」

 

 そして、歓声を上げる少年にとっては正に待ちわびた声である。

 

「そして拙者もまだこんなところで死ぬわけにはいかぬ!」

 

 それに応えてゆっくりとぎこちなく立ち上がった緋村剣心は、息も荒く痛みと動きづらさに眉をしかめて歯を食いしばりながらも確かに立ち上がる。それ自体に蒼紫は瞠目していた。

 

「……硬い骨を断った手ごたえは確かにあった。貴様、不死身か……?」

 

「まさか」

 

 すげなく応えた剣心が突き出たままの鞘をぽんと指先で叩くと、鞘の先がばらばらと三つの切れ端になって床に落ち、乾いた滑稽な音をたてる。

 

「回天剣舞……まさか鉄拵えの鞘を丸太のように容易く斬るとはな……」

 

 普通は丸太を斬る事など出来ないが、それを容易いと言い切る剣心はやはり達人なのだろう。

 

「そうか……咄嗟に鞘を引き上げて身代わりにしたのか。大した男だ。最強と言われるだけの事はある……いや、俺自身も心から認めよう」

 

 自信をもって繰り出した技が実は必殺ならざる失敗をしていたと知り、蒼紫は怒るでも悔やむでもなく剣心に感心していた。これまでの敵を悉く斬ってきたと言うだけあって、回天剣舞に重厚な自信を抱いていたのだろう。それを砕いた男に怒るどころか褒めたたえてしまう程に。

 

「そして改めて、最強の称号を俺たち御庭番衆のものにしたくなってきた!」 

 

 口にするや否や、疲労困憊、満身創痍の剣心に一気に襲い掛かる。この機を逃すかと先ほどの再現、標的を中心に円を描いて翻弄する蒼紫に弥彦は自分の分かる事など剣心にとっては百も承知でしかないのだとわかってはいても思わず叫ばずにはいられなかった。

 

「気を付けろ、剣心! 回天剣舞が来るぞ!」

 

「言っただろう、この流水の動きはお前にはとらえきれん。ましてや満身創痍のその身体では猶の事だ」

 

 蒼紫の挑発とも事実を突きつけているだけともみえる言葉にも何も言わず、ただ荒い息で蒼紫の動きを目で追うだけの剣心の背後をとった蒼紫は鞘による防御が出来なくなった左側からではなく、敢えて逆刃刀を握った右側から襲い掛かる。

 

「終わりだ、緋村抜刀斎!」

 

 今一度の回天剣舞。遠心力を乗せる事により一度、二度、三度と速さと威力を跳ね上げる大技。

 

 大技なだけに隙が大きいが、それを埋める為に流水の動きと合わせて使いこなさなければならない高度な連携を要求する蒼紫の秘技である。日本武道の中では異質な流水の動きを見切れる猛者は江戸城に潜入した凄腕の中にもおらず、これまでに彼が豪語したように小太刀の回転三連撃から逃れた強者は皆無だった。

 

「剣心!」 

 

 鮮やかに赤い剣心の血と共に、逆刃刀が宙を舞った。まさか今度こそ、と思わず弥彦は甲高い悲鳴を上げたが、少年の叫びを背に受けた緋村剣心は斃れる事無くしっかと立ち続けていた。

 

「……確かにお主の言う通り、拙者には流水の動きは捉えられん。だが、斬りかかる際の一瞬だけは別でござるよ」

 

 これまでの冷徹な無表情を崩して呆然とする蒼紫の見つめる先で緋村剣心の掌が小太刀の刃をしっかりと挟み取っていた。

 

「白刃取り!」

 

 少年が叫ぶまさにその通り。かつて剣豪柳生宗矩が時の将軍に披露してみせた伝説の神業、即ち真剣白刃取りである。

 

 掌の間に刀を挟み込むと言う至って単純な仕組みの技であるが、実際には約束組手以外にできるはずがないとも揶揄されている伝説の技だ。刃に対して無手で挑むなど至難、ましてや高速で振られる刃を掌で挟み込むなど、出来るはずがない。素手という無防備な状態で太刀に襲いかかられれば、武芸者でも自在に動くのは困難。ましてや高速で様々に千変万化の動きをしながら襲い掛かってくる太刀を見切って、掌で挟み込む?

 

 触れるだけでも悪い冗談だ。

 

 更にそれを掌で挟み込むだけで捉える?

 

 よしんば偶然でも何でも挟みこめたとして、薄く滑らかな刀を挟んで捉えるなど、どうすればできる? あっさり通り抜けられた挙句、無防備なところを斬り伏せられてお終いだ。

 

 素人はともかく、剣を少しでも学べばすぐにわかる。

 

 演武や八百長ならともかく、実戦での真剣白刃取りは例え相手が素人だとしても不可能だ!

 

 だが事実、緋村剣心はやってのけた。それも隠密御庭番衆において天才と言われた御頭の秘技を見事に捉えたのだ。もはや天晴見事という他はない。止められてしまった蒼紫はまさかよもやの離れ業に未だ信じられない面差しで固まっている。それはあまりに大きすぎる隙だった。

 

「蒼紫よ、最強の称号が欲しくばいつでもくれてやる。拙者の背負わされた最強の看板など所詮はまがい物。そんなものは拙者にとってうざったいだけ。それよりも、今の拙者にとっては助けを待つ人と帰りを待つ人の方が何万倍も大事でござる!」

 

 挟み込んだ掌を捻り愕然としている蒼紫の小太刀を奪いざま、その柄尻を先ほど逆刃刀で打ち込んだ喉笛に今一度突き込んだ!

 

「ぐは……っ!?」

 

 人間にとって喉は大きな急所である。そこに二度も深々と突き込まれればどうなるか。吐血した蒼紫を見れば火を見るよりも明らかだった。

 

「まだだぁっ!」

 

 だが執念の叫びと共に蒼紫が繰り出した横殴りの拳が剣心の頬を捉えた。

 

「剣心!」

 

 物も言わずにもんどりうって吹き飛んだ剣心、力任せに殴りつけた反動でのけぞる蒼紫、磁石の両極のように離れた両者はそれぞれ力を失い倒れこむ。

 

 剣心は弥彦の叫びに応じて、立ち上がるのは難しいようだが何とか体を起こして笑いかけた。

 

「大丈夫……でござるよ」

 

 明らかに無理をしている様はありありとわかる物のどうにかゆっくりと立ち上がる剣心だったが、あっさりとふらふらやじろべえのように頼りなく左右に揺れる。

 

「いや、ちょっと無理かも……いやいや大丈夫……?」

 

 自分でも大分頼りないと自覚はしているらしく、語尾が奇妙に跳ね上がっている。どこからどう見ても滑稽な程に情けない珍妙な有様だったが、それを見た弥彦は日常のような姿に安心して減らず口を叩く事が出来た。

 

「ってどっちだよ。なんつうか久しぶりだな、そういう顔」

 

「……っと、それよりも蒼紫」

 

「!」

 

 まだまだ未熟な弥彦だったが、残心の重要性は知識としてだけなら知っている。実践できずに剣心に駆け寄ってしまった粗忽を恥じながら振り返ると、そんな少年の悠長さに付け込めない敗者がそこにいた。

 

「……死んでいるのか?」

 

「いやいや、拙者人は殺さぬと誓っているって」

 

 ふう、とため息をつくと疲労を自覚するとともに少しだけ体力が回復する。ようよう足を伸ばして立ち上がる事が出来た剣心が、未来に一流派を担うに間違いなしと見込んでいる少年剣士に今の攻防について“教育”する。

 

「二度の強打で完全に喉を痛めていたのだ。そこにあれだけ力を込めた強打を出せば、強烈な呼吸困難を引き起こすのは必至。その際の激痛も含めて、意識を奪うには十分すぎるでござるよ」

 

「それを狙ったのか?」

 

「いいや……その前に勝負はついたと思っていたでござるが、まさかあそこから全力で拳を振るうとは……恐ろしい闘志ではあるが、結局はそれがとどめとなったのでござるよ。皮肉にも隠密らしからぬ引く事を知らない闘志が敗因となった……」

 

 弥彦は我が身を顧みた。そして自分も同じようにできるかどうかはさておき、蒼紫と同じように最後まで勝負を捨てずに食らいつかなければならないのだと考えていた。

 

 ならば、いつかどこかで自分も同じように倒れてしまうのだろうか。

 

 なら、どこかで引くのが正しいのか。だが、負けてはならない時と言うのはどこかに必ず待っているんじゃないだろうか……そもそも負けても構わない時っていつだ?

 

「今は難しいかもしれないが、いずれわかる様になるでござるよ」

 

 うんうんと悩み始めた弥彦は敵陣中で暢気と言うべきだが、剣心はあえてそれを咎めなかった。今ここで目を逸らさずに死闘を見ているだけでも少年剣士にとっては大殊勲。それ以上はまだ求めすぎだ。

 

「……回天剣舞を受けて倒れたあの時のお主の気合は、拙者にとって心強かったでござる。今はそれで十分……」  

 

「へへっ……っと、そういや剣心もよくあんなの止められたな。白刃取りなんてほんとにできるもんだったんだな」

 

「……あれは蒼紫の太刀筋を何とか読み切れたまで。正直、あそこで回天剣舞以外の技でかかってこられれば拙者は殺されていたであろうな」 

 

 それを聞いて弥彦は話の理屈はわからないながらも、あれは紙一重の勝負だったと剣心の言いたい事だけは理解して青ざめた。

 

 事実、紙一重。剣心にとっても幸運に助けられた勝負だったと言ってもよかった。

 

 白刃取りを成功したのは剣心にとって賭けだったが、それでもこうなると流れを読んではいた。

 

 蒼紫が回天剣舞に絶対の自信を持っている以上、一度の失敗で今までを否定はしない……むしろ次こそはと使ってくるのは目に見えていた。

 

 鞘を破壊した左と得物を持った右、どちらを狙ってくるのか。無防備な方を狙ってくるか、それとも敢えて武器を持った方を狙って虚をつくのかは……同じく蒼紫の自信から逆刃刀を備えた右を狙う可能性が高いと踏んでいた。

 

 そこまで読めていれば、難易度は格段に下がる。むしろただの唐竹割りででも来られていれば、頭を割られていただろう。

 

 それでもなお、この恐るべき太刀筋は彼の心胆を未だ真冬の朝のように寒からしめている。白刃取りはそこまで読めていてもなお賭けだった。賭けに出なければならない程の強敵だった。

 

 弥彦の前でなければ今なおへたり込んでいるだろう。

 

 さらに、この男は拳法使い。

 

 もしも白刃取りに驚き硬直せずに得物を手放せば、即時に素手の勝負に持ち込まれてしまえば……自分の体力から考えて結果は逆転していたに違いない。

 

 回天剣舞に対する絶対的な自信。

 

 そこに端を発する心理的な隙を突いた結果の勝利。

 

 回天剣舞で倒れなかった敵はいないと言う自信に満ちた言葉、そして倒れた剣心を相手に残心をしなかった油断。

 

 緋村剣心はそれを隙とみて、そこを突いたのだ。

 

「さて、観柳を捕まえて恵殿を取り戻さなくてはな……とりあえず蒼紫を起こして……」 

 

 言いながら倒れた御頭に目を向けたが、そこで言葉を咬み千切る。なんと蒼紫は既にゆうらりと立ち上がっていた。

 

「……大した回復力でござるな」

 

 しばらく呼吸を整えてから、蒼紫はひび割れた声を上げた。彼の姿に闘志は見えなかった。

 

「……俺は落ちていたのか」

 

「まあ……十秒ほどでござるか」

 

 剣心は油断をしていないが警戒もしていなかった。俯いている蒼紫の狙いが広言しているように戦いと勝利だというのは、もう信じてもいいだろう。

 

 こんな舞台を用意した上で敗北したのだから、今更挑むのは恥の上塗りだ。

 

 勝負に拘る男が、自分の敗北も受け止められないだろうか……敗北は受け入れなければ敗北ではないと言う信仰を抱いている男もいつか生まれるが、それはさておき……さて蒼紫はどうだろうか。

 

「……何故とどめを刺さない」

 

「今の拙者は流浪人。人斬りではござらん。何より斬らなくともどちらに軍配が上ったのかは……お主程の男がわからないはずがないだろう」

 

「…………」

 

 受け入れがたいが、受け入れざるを得ない。

 

 勝利に対する執念と勝敗を絶対視する美意識が彼の中でせめぎ合い、そして血を吐くような沈黙となった。

 

「蒼紫、一つだけ答えろ。お主程の男、影役とはいえ仕官の話はなかったとは思えん。一つや二つではなかっただろう。だというのに、なんでこんな用心棒まがいのマネをしている? 観柳のような男、力の尽くし甲斐があるとは思えず、また阿片密売を好むとも思えん。どう考えてもここにいるのは不本意であると思える」

 

「……」 

 

「何故だ? 拙者を倒すなどと言う形でなくとも力量を示す機会は幾らでもあっただろう」

 

 既に敵はいない。観柳を逃がすかどうかだけが気がかりだが、あの男の本拠地はここなのだ。今回の襲撃は随分と予想外であったようだから簡単に逃げる用意などは出来まい。

 

 多少の話す時間くらいはあるだろう。

 

「……随分と他人の内情に踏み込んでくる男だ。長州者はそうなのか、随分と不躾だな」

 

「……拙者個人の性分でござるよ」

 

 左之助にも似たような事を言われた気がするが、剣心にしてみれば過去の所業の結果とは言っても自分の名前が騒ぎに拍車をかけたようなので知りたいと思うのも必然だ。

 

「……仕官の話なら腐るほどにあった。御庭番衆の事を新政府が知っているのは必然か、結構な大物政治家の護衛、陸軍の諜報部……敗者であるにも関わらず幾らでもな……だが、それは俺だけだ。ひょっとこや癋見のように異能一芸に秀でているだけの者や式尉のように寝返りをした者、般若は……お前たちは知らんだろうが、面の下に理由がある。他の御庭番衆には誰一人として何の仕官話もなかった」

 

 蒼紫の顔には、相変わらずこれといった激情などない。むしろ淡々として勝者の要求に応えている。ただ、そこに何を見たのか剣心はもちろん弥彦でさえも神妙な顔をしていた。

 

「そんな部下たちを見捨てて御頭の俺一人が仕官など、どうしてできる?」 

 

 あくまでも静かに語る蒼紫の中にこれといった強い情念はない。

 

 それは当たり前だからだ。

 

 御頭として部下を放り出さないと言う意思は呼吸のように当然であり、そこに強い情などない。息を吸うのにいちいち身構える人間など病人以外にいるはずもない。

 

「最後の将軍、徳川慶喜のような醜い裏切りなど……俺はごめんだ」

 

 そこには彼が初めて見せる明確な情……軽蔑と言う強い感情があった。

 

 そして同時に、一人の男として御頭としての誇りがあった。

 

「醜い裏切り?」 

 

「……童の齢では知らんか。最後の将軍徳川慶喜は、戦況が不利になるや愛妾や重臣たちだけを連れて大阪城からさっさと逃げ出した。未だに戦っている万の兵を見捨て、江戸に逃げ帰った後は上野の寛永寺に立てこもり、その後の交渉さえも勝海舟に任せてお終い……正に腑抜けの卑怯者だ」

 

 それはあくまでも、蒼紫から見た一面に過ぎない。

 

 だが、紛れもなく事実の一側面ではあるのだ。

 

「徳川慶喜公は……」

 

「わかっているさ。奴がした事は国内ではなく国外を考慮した結果。諸外国にこれ以上日本が乱れ続ける姿を見せていれば、やがて侵略の手も海を越えてやってくる……いわゆる高度な政治的判断という奴だ」

 

 淡々としているが、そこに籠っているのは理解とは対極であり、敬意とも対極だった。

 

「だが、どんな御大層な理由があろうとも……俺はごめんだ」

 

 蒼紫にしてみれば、徳川慶喜は卑怯者だった。

 

 戦場に愛妾を連れてきただけでも言語道断。更には旧幕府軍が苦戦していた際には配下の兵士に“千兵が最後の一兵になっても戦わなければならぬ”と強く徹底抗戦を説いたにも拘らず自分は一部重臣と愛妾だけは連れてさっさと江戸に逃げ帰った。

 

 これを敵前逃亡以外のなんだというか。最後まで戦えと言ったその舌の根も乾かぬ内にきっちり女だけは連れて逃げたのか。兵を一体なんだと思っているのだ。

 

 掲げられた錦の御旗と大将の逃亡に心折れた兵士の絶望を知れ。

 

 だが蒼紫の憤りなど関係なく徳川慶喜は戦後、少なくとも表面上は苦労とは無縁に見えた。戦後はしばらく閉門して過ごし、謹慎が解かれた後も表舞台には立たず駿府……後の静岡で芸術を中心とする趣味に没頭して生きた。戊辰戦争で死んだ兵士たちと比べてなんと安楽な道だろうか。

 

 また、彼はその後七十代後半まで生きた歴代最長寿の将軍となった。最終的には公爵にまで叙せられ、正室側室に二十人以上の子供を産ませ、潤沢な隠居手当を得ていたと言う。

 

 彼が徹底抗戦を叫んだ戦争で、280人の幕府兵が死んだ。彼らの中には子を成せなかった若者もいただろう。家族を残して死んだ男もいただろう。残された家族はどれだけ苦労しただろう。

 

 だが悠々自適な隠居暮らしの徳川慶喜は、共に静岡に移り住んだ旧家臣の困窮にさえ無関心であるとも聞く。

 

 それどころか彼はそんな駿府の地にもなぜか受け入れられているという。

 

 なんという不公平であろうか。

 

 蒼紫には、そうとしか思えなかった。

 

 これが識者であれば別の考えがあるのかもしれない。これが後の世の歴史学者などからすれば別の見方ができるのかもしれない。

 

 だが、今の世を生きて徳川の側についていた蒼紫にしてみればこの上ない卑怯者の臆病者にしか見えなかった。

 

 高度な政治的判断?

 

 知った事か。その言葉が卑怯者の免罪符以外に使われる事がいったいどれだけあると言うのだ。そのご高説を万民に、何よりも見捨てて逃げ出した後で戦死した部下たちの御霊に説明し、納得させてみろ!

 

 蒼紫は自分の下で新しい世の中に馴染む事も出来ず、生きる道を失った部下たちを思った。

 

「新時代明治になり、新都東京に放り出された部下たちと生きて十年。一人、また一人と新しい人生を見つける事は出来た。それ自体は喜ばしく思ったが……最後まで残った部下が四人。かつて戦うべき時に戦えず生き延びた隠密御庭番衆に残った、戦う事しか知らず、それ以外の何もできない惨めな四人だ」

 

 時代に馴染めない徒花。

 

 新しい時代に生きる道を見つけた彼らを妬む気持ちはない。

 

 それはそれで彼らの努力が正当に実を結んだ結果だ。かつての仲間として、それを羨む気持ちはあるが祝福するだけの気持ちはもちろんある。

 

「……であれば、せめて“最強”と言う艶やかな花を御庭番衆の冠とし、あいつらの為に捧げて誇りとしてやりたかった」

 

「………」

 

 剣心は蒼紫の言葉を聞きながら般若と交わした言葉も思い出していた。

 

 戦うべき時に戦えなかった無念、もしも自分たちが戦えたのなら……そんな思いを消し切れず、新時代に馴染めず、どうしてもうまく生きられない強さ以外を持てなかった隠密達にとって強さの証明、人斬り抜刀斎の持っていた最強の看板は剣心当人には想像もできない程に輝かしい物であったのか。 

 

 彼らの抱く無念の結実として狙われた剣心としてはいい迷惑以外の何物でもないのだが、そこに怨む気持ちは生まれなかった。もちろん剣心の性格から共感は出来なかったが、一定の理解はできた。

 

 自分は時代の勝者側に立てたが、もしも敗者の側に回っていたのなら……流浪人などと新しい時代に生きる事が出来ただろうか。

 

 戦わずに敗者となった。それが彼らの最大の傷であり、もしも戦い抜いたのであれば勝者でなく敗者であっても彼らは納得ができたのかもしれない。

 

「とどめを刺せ。でなければこの先、俺は幾度でも貴様を狙い続けるぞ」

 

 いや、納得など永遠にないのかもしれない。彼らは永久にあの時戦えればという無念を追いかけて……あるいは背中を追われ続けて生きていくのか……彼らの無念は剣心を倒して、それで本当に晴らされるのだろうか?

 

 第三者として聞いている弥彦には、とてもそうは思えなかった。彼らの無念はもはや晴らしようがない。時を遡り戊辰戦争に参戦する以外に彼らの無念は消えるはずがない。

 

「……構わんよ。気が済むまで幾らでも挑んでくればいい」

 

 だが、剣心はそう答えた。

 

「剣心!」

 

 弥彦は無意味にしか思えなかった。何をどうしようとも晴れるはずがない妄執をぶつける対象にされたも同然、壊すまで的にされて、壊れても相手は納得するまい。

 

「だが、今回のような周りを巻き込むようなやり方は許さぬ。それだけは心得てもらうでござる」

 

「…………」

 

 自分が理由で薫や弥彦、左之助……ひいては街の庶民を巻き込むなど言語道断の何者でもない。人を守ると誓った己が人を危険に巻き込んでどうすると言うのか。

 

 かといって、ここで受け入れなければ蒼紫は幾らでも危険な手に出る事が出来る男だ。力量的にも、そしておそらく精神的にもそうだろう……それが隠密だろうと思っている。

 

 そんな男だからこそ、己が引き受ける。

 

 血相を変えてくれた弥彦には申し訳ないが、それが剣心にとっては当然の結論だった。

 

 蒼紫は何も答えない。あるいは、答えられないのか。再び被った氷のような能面の中で何を考えているのか……言動から相手の内面を察する理を備えた飛天御剣流の剣心も全く分からなかった。

 

 ただ、最強を求める心に嘘偽りがなければない程に勝負は尋常なものでなければ気が済まないはずだ。

 

 この一対一の状況を作り上げた現状がそれを証明している。

 

 そこに今回の勝負の結果がどんな変化を齎すか……悪い変化ではない事を願うばかりだが、いざとなれば己の剣で戦うより他はない。

 

 蒼紫が沈黙の中で何を考えて口にしようとしたのか、それを待ちきれない弥彦が急かそうとする程の時間が経過したが、結局は蒼紫の口から返答を聞く事はなかった。

 

「はーっはっはっははあ!」 

 

 それよりも先に、下品な高笑いが乱入してきたからだ。

 

 階段下にあった大扉を開き、武田観柳がたった一人で現れたのだ。

 

「あれだけ大きな口を叩いておきながらも敗北とは、情けない限りですね! 四乃森蒼紫!」

 

「!」

 

 ちょうど剣心と蒼紫の間に立つ位置で観柳が甲高い声で蒼紫を嘲笑っている。剣心達には理由はわからないが、完全に蒼紫を敵視しているようだった……双方の性格を考えればあまり不思議ではないが、不思議なのは余裕を取り戻している事だ。

 

「はろぉう。あなた達があんまりだらだら話し込んでいるから、待ちきれなくて出てきてしまいましたよ」

 

 むしろ興奮しているようにも見えた。

 

 彼の横には布に包まれた人間と同じくらいの大きさをした何かがあるが、それが余裕を取り戻した理由なのだろうか……余裕を取り戻した、と言うよりもおもちゃで遊びたい子供のように見えなくもないのは不気味だが、蒼紫も剣心も観柳を小物と見切っていたのであまり気にしてはいなかった。

 

「観柳……」

 

「ちょうどいい。探す手間が省けたでござる」

 

 それが余裕なのか油断であるのか。

 

 証明するのは観柳が興行の一幕よろしく芝居がかった動作で仰々しく披露した物だろう。

 

「大した自信ですねぇ。だが! これを目の当たりにしても、まだそんな強気で自信満々のままいられますかぁ!?」

 

 それこそ自信満々に見せつけてきたそれを目の当たりにして、正体がよくわかっていない弥彦はさておき剣心と蒼紫は顔色を変えざるを得なかった。

 

「! まさか」

 

「あれは……っ!」

 

 二つの車輪に支えられている大きく長い鉄の筒。

 

 尤もその手の物には馴染みない弥彦は大砲かと思ったが、よく見ると違う。一見した見た目は確かに酷似しているが、砲口の部分が通常の銃口と同じかせいぜい少々大きいくらいしかない上に、砲耳の辺りには手回し式のハンドルが付いている。更にベルト式で給弾される構造らしく、木箱に入った多数の弾丸が自動で補給されるようになっていた。

 

 弥彦同様に緋村剣心、四乃森蒼紫の二人も現物を見た事はないが、知識として一瞬で察せられる程度には知っていた。

 

「回転式機関銃!?」

 

 幕末において日本に三門だけ輸入された兵器であり、端的に言えば高速で連発できる銃だ。構造が複雑な上に重たく、誤作動などの可能性が低くはないと決して安定性はないが、それでも局地的にではあるものの政府軍に大きな被害を出した事で知られている世界でも最先端の武器……いいや、兵器だ。

 

「そう! 回転式機関銃! それも世界中のどこでも正式に配備はされていない最新型の横流し品! 幕末の頃に使用されていたものよりも遥かに高性能だという売り文句、ここでじっくりと確認させてもらいましょうかねぇっ!」

 

 飛びつくように機関銃の後ろに着いた麻薬商人がハンドルに手をかける。

 

 冷や汗にまみれた、引き攣ったような笑みを見た剣心は自分が観柳を怒りに任せて追い詰めすぎたと悟った。おそらくは虎の子であるのだろう機関銃を出すなど当人もこれまで想像だにしていなかったはずだ。

 

 自分と、ついでに何やら確執がある様子で銃口を向けられた蒼紫も麻薬商人を相当に追い詰めたに違いない。

 

 蒼紫と観柳の相性が悪い事などは見てとれていたが、仕事に徹すると思っていた蒼紫も観柳も互いに相当噛み合わなかったのであろうか……いや、そんな悠長な事を暢気に考えている場合ではない。

 

 傍にいた弥彦の首根っこを掴んで闇雲に飛び退ると同時に、耳慣れない乾いた銃撃の音が彼ら三人の耳に痛みを伴って飛び込んできた。

 

 雷鳴のようにと称するにはどこか軽く、しかし屋内である為か反響して鼓膜を痛めつける音に眉をしかめると同時に足元の床が連続して弾けた。

 

 この音一つ一つで人が死ぬのだ。人を殺す為だけの小さな鉄が目にもとまらぬ速さで宙を飛んでいる音なのだという実感を、少年剣士は否応なく突き付けられた。銃声など聞くのは初めてだったが、それでも否応なく高い殺傷能力を思い知らされる……その事実を獣の本能のように理屈抜きでそういうものなのだと察しろと命じてきた。

 

「あはははははっ!」

 

 気が狂った……そうとしか言いようがない程に甲高い笑い声は人に不快感を抱かせるのが間違いないところだが、その悉くは絶え間なく吐き出される銃撃にかき消されていった。

 

「ほうらほうら! もっと頑張って避けないと、当ててしまいますよぉ!」

 

 喉の奥まで見えるほどに大口を開けて狂人の見本のように笑う観柳。彼の撃ちだす銃撃は最新鋭機の名に恥じず誤作動を起こす事も無く絶え間ないが、剣心と彼に捕まえられている弥彦、そして蒼紫は一発も食らうことなく縦横無尽に広いホールを駆けまわり続けている。

 

 遮蔽物一つない開けたホールで、だ。

 

 それがおかしな話だと言う事は弥彦にさえ分かった。いくらこの二人が達人とは言ってもこの状況で、ましてや互いに死力を尽くした満身創痍で出来るわけがない。ついでに剣心は自分という重しも抱えているが、それについては無いものとしておく。 

 

 ともかく、だったらなぜかと言う結論は出ていた。

 

「あんの野郎! わざと当てないで遊んでいやがるッッ!」

 

「あーっははははははっ! 凄いでしょう!? なんと一分間に二百発も撃てるんですよぉ!」 

 

 嗜虐心に満ちた顔を見れば一目瞭然。おもちゃを使いたがる子供が拷問道具の意義を正しく理解した上で遊べば、こんな顔をするだろうか。

 

 子供の弥彦から見て、嫌悪感を沸かせずにはいられないような表情だった。

 

「このままじゃなぶり殺しになるだけだ! なんか手はないのかよ!?」

 

 弥彦の声に悲壮さはなかった。

 

 生来か、それとも育ててきたのか当人の備える負けん気に加えて剣心に対する信頼が彼をくじけさせない。そんな少年の信頼を肌で感じているからこそ、剣心は応えたいと心から思った。

 

「……手がないでもないが……ともかく今は避け続けるしかない」

 

 それでもこんな情けない事しか言えないのが口惜しいが、それでも打つ手はなかった。何よりも、愛刀を蒼紫との攻防の中で落としてしまったままなのが惜しい。

 

「観柳! 貴様、どこでこんな兵器を!」 

 

「“様”を付けんかぁ! 無礼者めぇッッ!」

 

 蒼紫のたった一言でそれまでの楽しそうだった様子から一変して激高すると、蒼紫の両足、膝辺りから鮮血が迸った。

 

「!!」

 

「蒼紫!」

 

 言葉もなくもんどりうった蒼紫に溜飲を下げたのか、いっそ情緒不安定とさえ言える程にころころと形相を変える観柳が懐から葉巻を取り出して見せつけるように吹かし始めた。

 

 強力な武器とそれを使って起こす殺人に高揚しているのは、ことさらに余裕ぶっていても誤魔化せてはいない。つらつらと蒼紫の質問に答える形で自身の構想を自慢する姿には滑稽ささえ伴っている醜さと浅ましさばかりが強調されている。

 

「そう、金! それこそが最強の力! 人類社会が何千年もかけて育んできた最高の力なんですよぉッッ! 剣など下の下、所詮は匹夫の勇! 金を手に入れた私こそが最強とはこれ、自明の理!」

 

 私欲の為に死の商人を目指すと堂々言ってのける観柳は、平和の為と剣を振るってきた剣心にとってこれ以上ない程に相いれない価値観を持つ男だった。

 

 それが汚い手を伸ばしてきたとなれば……断固戦うより他はない。今まで以上に、徹底的に、だ。

 

「なんだぁ、ありゃあ!?」

 

 あちこち傷だらけで苦戦の痕も色濃い左之助が、どういう訳だか敵対していた御庭番衆二人と共に駆けつけてきたのはちょうどその時だった。

 

 御庭番衆の二人は血を流して膝をついている御頭を一目見て血相を変えたが、まだ冷静さを保っているようで左之助の制止を受け入れて何やら話し合っている。それがどんな内容だとしても、合わせる他はあるまい。

 

 ……ここが起死回生の機会だ。

 

 どんな状況にでも必ず応じてみせる。そして、誰一人として死なせはしないッッ!

 

「行けぇ、剣心ッッ!」

 

 斬馬刀を掲げて盾にしながら怨敵目掛けて走る左之助の悪一文字を横目にしながら、弥彦を般若に預ける。今の今まで敵対していた男だが、ためらっている場合ではない。それに……いざとなれば躊躇わないだろうが、いざという時でなければ好んで童の弥彦を手にかけたりはしないだろうと思えた。

 

「ッッ!」

 

 左之助の掲げている斬馬刀は確かに幅広で鉄で出来ているのだから、この場では最も盾にしやすい。彼が銃弾の前に立ちふさがるのは大いに妥当だ。

 

 剣心の中にいる人斬り抜刀斎は冷徹にそう言っていたが、彼の中にいる流浪人は自分が誰かに最も危険な役目を振るのに忸怩たる思いを抱いていた。

 

 だが、だからこそ足をとどめてはならない。

 

 背後で金属が金属を砕こうとして鳴り響く硬すぎる音が彼の足を踏み止まらせる鎖になろうとしても、その鎖を引きちぎって前に出る。目指すのは一つ、己の愛刀のみ。

 

「おうるぅあああぁぁぁっ!」

 

 相楽左之助は咆哮した。

 

 それは連続する銃撃に挑むと言う自殺行為を行う自分を鼓舞する為ではなく、目の前で迫る自分に怯えて表情を引きつらせている腰抜けの悪党を脅しつけてやる為の雄叫びだ。同時に、そのくそったれの兵器から吐き出す弾は全部こっちによこしやがれと言う買い占め宣言でもある。

 

「うわああぁぁぁっっ!?」

 

 商売人として興が乗ったか、左之助の叫びに乗った観柳は商談に乗って斬馬刀に銃弾を集中させる。ばりばり、あるいはがりがりと言う嫌な音がして強すぎる振動が小刻みに喧嘩屋のかざした斬馬刀を砕け散る程に揺らして金属の破片を節分の豆のようにまき散らす。受け止めた腕に伝わる衝撃は骨身を震わせるほどに凄まじかった。

 

 支えている腕から全身に伝わる衝撃は不快で痺れる様なもので、左之助は自分の歯の根が合わなくなるいやらしい感触を噛み潰すために歯を食いしばった。

 

 がんがんと音がする度に、斬馬刀はもつのかと心胆寒くなる。

 

 砕け散ってしまえば、自分も穴だらけにされてしまうのか。それともひき肉みたいになっちまうのか。

 

 今頃他の奴らはちゃんと避難しているのか、剣心は今何をやっている? 馬鹿野郎、人を当てにするんじゃねぇッッ! そんなみっともねぇ事でどうする、こいつは仲間の仇だろうがッッ!

 

 長くはない時間にそんな事を考えながらも、決して足は止まらず一直線に駆け続ける。広いには広いが所詮は屋内に過ぎず左之助はあっという間に観柳へと近づいていき、その一歩一歩ごとに観柳は恐怖に頬を引きつらせて悲鳴のように叫び続けた。

 

「砕けろ砕けろ、死ね死ねしねぇぇぇッッ!」

 

 その悲鳴のような願いに答えたのは神か悪魔か、意外と神のように思えるのは左之助が背中に悪一文字を背負っているからだ。

 

 鋼が砕ける音と言うのを、相楽左之助は今までに聞いた事がない。

 

 だが、全身を震わせる強い衝撃と共にはらわたに響く聞きなれないのがそれなのだと否応なく悟った。

 

 がりごり、がりがりと聞こえてくるその音の不快感が徐々に増してきた。それが斬馬刀の寿命を示しているのだと認めたくはないが、それでも現実はそんな彼の感傷など知った事かと次々銃弾の形で襲い掛かってくる。

 

 あと三発、食らえば砕けるかもしれないと思った。あと三歩踏み込めば、それで糞野郎に拳を叩き込めると確信した。

 

 であるからこそ、届かない。銃弾は次々と撃ち込まれ、一歩進むごとに五発は撃ち込まれている。盾になっているのだから躱してはならないとなれば、間に合わないのは必然だった。

 

 それでも、と引けない男の意地を足に籠めて駆け続けるが……とうとう駆け抜ける事は叶わなかった。

 

「うおぉぉっ!?」

 

 その夜に最も甲高い音が最も大きく響き、掲げられていた斬馬刀が悲しささえ感じさせる有様で砕け散った。それはあるいは、雪のようであったかもしれない。ある種美しい光景を見届ける事も出来ずに、左之助もまたもんどりうって倒れた。

 

 あと一歩。

 

 ほんの、あと一歩だけ届かなかった。

 

「左之助ぇっ!」

 

 見ていた弥彦が悲鳴を上げる。

 

 彼からは斬馬刀が砕けると同時に左之助が倒れたとしか見えなかったのだ。死んだか、と危惧を抱くのは当然だった。

 

「ちいいぃっ!」

 

 だが、喜ばしくもそれが早とちりであったと間髪入れずに身を起こした喧嘩屋の悪一文字が証明する。当人は砕け散ってしまった己の相棒を握りしめて悔しそうに舌打ちをするが、弥彦は心底からほっとした。

 

「くそったれがぁ……」

 

 覚悟の上とはいえ、長年振り回して手に馴染んでいた相棒を実際に砕かれるのは憤懣やるかたない。怒りの形相は伝説の鬼もかくや、しかし京都の鬼には及ばずといった風の左之助だった。戦いの中で砕け散るのは武器の本望かもしれないが、それが剣心のような強者との立ち合いであればともかく観柳などの下衆は正しく論外も甚だしい。

 

「ひゃ、ひゃははははっ! そうですよ、こっちは何しろ最・新・型! なんですからねぇ! そんな骨とう品と言うのも憚られるようなガラクタがそうそうもつわけないんですよ!」 

 

「ガラクタだぁ?」

 

 床にしりもちをついたままの左之助を見下ろし、観柳はここぞとばかりに笑い続ける。もはや破落戸の生殺与奪は自分の思うままだと、いかにも余裕たっぷりで先ほどかいた冷や汗を覚ましている。

 

 銃口に身を晒している左之助に、これはまずいと焦りを見せるのは明神弥彦だったが……どうにかならないかと周囲を見回せば焦っているのはなんと彼一人。

 

「ガラクタでしょう? 結局あなたはこうやって銃口の前で無様にしりもちをついて、的になるしかないんですからね。仕事を成し遂げられない者がゴミなのは、人間でも道具でも同じですよ」

 

「……その物言いにも腹は立つが……てめぇがぼんくらすぎて怒る気もしねぇな」

 

「はああっ!?」 

 

左之助はそのままの体勢で鼻息を吹いた。口でため息をつくのも惜しいと言う風に呆れた感情を吐き出した喧嘩屋はひどく冷めた顔をしており、勝利の蜜をしゃぶっている最中の観柳のご機嫌を損ねるには十分なご面相だった。元々堪忍袋の緒が随分と貧相な性質のようだが、勝利を貪って気分のいいところに冷や水をかけられたおかげで猶の事に拍車がかかっている。

 

「ぼんくらなのはてめぇの方だッッ! この最新鋭回転式機関銃の銃口の前で腰を抜かしているって自覚がねぇのか、薄ら馬鹿ッッ!」

 

「おいおい、破落戸の俺と変わらねぇ根っこがむき出しになってるじゃねぇか、青年実業家様よぉ……つうか、誰が腰抜かしてんだ? 本気でわかっていねぇんだな」

 

 やれやれと腰を払って立ち上がる左之助に口元を盛大にひきつらせた観柳が手にかけたままのハンドルを衝動のままにぐるぐると回した。

 

「もういい、ぼんくらの貧乏人なんぞはさっさとハチの巣になって死んじまえッッ!」

 

「左之助ッッ!」 

 

 弥彦が般若の足元で悲鳴を上げる。だが、その声がホール内で反響して消えてしまうとその先にあるのは奇妙な静けさだけだった。

 

「……は?」

 

 からからと、奇妙にちっぽけな音だけが響いている。それに間抜けな声を上げた観柳を弥彦以外の大人全員があまりにも寒々しい視線の集中砲火にかけた。からから、からからと繰り返し回し続けるのだが何も起こりはしない。

 

 先程までうるさい音をがなり立てて真っ赤に焼け付きつつあった銃口は相変わらず赤ら顔のままだったが、そのまま何も吐き出さずに沈黙を保っている。

 

「……手元をよく見てみろ」

 

 しらじらしい空気を奔ったのは愛刀を取り戻した剣心の鋭い声だった。

 

「は?」 

 

 思わず素直に手元に目をやる観柳は正に隙だらけだったが、後ろにいる御庭番衆一同どころかほとんど目の前にいる左之助さえ手出しはしない。

 

「…………」

 

 観柳は弥彦をじらしているつもりもないだろうがひたすらに何も言わず……正確には何も言えずに青ざめて手元を見下ろしている。

 

「……一分間に二百連発……だったか? 何も考えずに馬鹿のようにばらまけば、あっという間に弾切れにもなって当然だ。貴様がコケにした左之の斬馬刀は、確かに主を守り切ったよ」

 

「はぁ!?」 

 

 素っ頓狂な声を上げたのは実は観柳ではなく弥彦である。

 

 ひょいと抱えていた般若はもう安全だろうと下ろして視点が低くなっていたので機関銃の手元などわからなかったのだろうが、自分以外が妙に冷静でいた理由がよくわかってしまった。そうなると、俄然恥ずかしくもなる。

 

「こんのボケェッ! てめぇ武器商人になるってんなら商品の扱いぐらいきちんとしろいっ! はしゃぎまわって弾切れとか馬鹿みてぇじゃねぇか!」

 

 顔を真っ赤にして起こる弥彦だが、少年剣士に構っているような余裕は青ざめた武器商人志望には全くない。

 

 弥彦以上の怒りを冷たい相貌に秘めた人斬りが目前にまで詰めてきているからだ。

 

「終わりだな、観柳」

 

「ひ、ひ、ひいぃ……」

 

 脂汗をかいている姿は武器商人と言うよりもガマの油売りか。相対する剣心は日ごろの口調も鳴りを潜め、なるほどこれが人斬りとしての顔かと御庭番衆に納得させるだけの鋭い寒々とした雰囲気を漂わせている。

 

「た、たしゅ、け……」 

 

「そう言って誰かが助けを乞うた時……お前は一体どうする?」

 

 剣心は内心で警戒していた。

 

 先程の失態を繰り返してはならないと、もしやまさかの事態を頭の中で様々な仮定を考察していた。

 

 もしや、懐に拳銃を隠してはいないか。あるいは、屋敷内に罠でも隠してはいないか。それとも、爆弾や毒など隠し持ってはいないか。

 

 もしや既に恵に手をかけてはいないか。それとも、彼女をどこぞに隠しては……あるいは逃亡してはいないか。悪事の証拠となる阿片を密かに処理してはいないか。

 

 姑息な悪党に過ぎないと侮っていた結果が先の醜態だ。この男にこちらをいたぶる下劣な意志がなければ皆殺しになっていてもおかしくはない。

 

 機関銃の性能は確かに自慢するだけの恐るべき物があり、自分たちの怪我も疲労も自覚する以上に相当なものだったのだ。その重さは蒼紫の足が証明している。これで傷ついたのが弥彦であったらと思うと背筋が凍る。

 

 それは悉く、武田観柳を姑息な小物と軽蔑と共に軽侮した油断のせいだ。

 

 二階の窓からでさえ自分と目を合わせるのを恐れていたような男がのこのこと自信満々の態で顔を出した時点で、自分はおかしいと思わなければならなかったのだ。

 

 この上、失態を重ねてたまるかと男の意地が剣心の眼を鋭く光らせる。その眼光の剣呑さは、直接叩きつけられている観柳が失禁しないのが不思議な程だった。

 

「命乞いなど、拙者にする事ではないな……貴様の好きな阿片にでもお金様にでも、好きなものを拝んでみせろッッ!」

 

 一足、蒼紫でさえも瞠目してしまう速さで間合いを詰めると電光石火の一撃が観柳の腕をへし折った。

 

 人の骨がへし折れる乾いた音を少年は久しぶりに聞いた。それが嫌な音だと思える自分が剣を学ぶ身としてどうなのかと思い、活人そうあれかしと思うのは逃げではなかろうかとも思った。

 

 これはよい事なのか、悪い事なのか。それを誰かに聞きたいと思わなかったのは、少年らしい意地だ。

 

「ひぎいいぃぃぃ~~ッッ!」

 

 そんな少年の感傷に爪を立てるように悲鳴が上がる。殺人兵器を売りさばく死の商人を目指しているはずの男が痛みさえ堪えられず、お綺麗な上物のスーツを汚しても気にもできず、あまりの痛みにのたうち回って幽霊よろしくぶら下がるばかりの両腕をさらに痛めて悲鳴を上乗せする。

 

 人間をあっさりと殺す兵器を売りさばくと言ってのけた男が、剣など大したものではないと言った男が刀の峰で殴られた痛みに呻き、涙を流して悲鳴を上げている。その姿のなんと浅ましい事か。

 

 なんと醜い事か。

 

「おい」

 

「おろ?」

 

「ちゃっかりおいしいところ持っていくんじゃねぇよ」

 

 いくら怨敵と言えども、左之助の気性から言ってこんな情けない姿を晒している男に追い打ちをかける事は無理だ。

 

 苦虫を噛み潰した左之助に剣心は笑って誤魔化そうとする。それに噛みつく左之助の悪一文字を見ながら、弥彦は二人のわだかまりは本当に溶けたのかもしれないと胸をなでおろす。

 

「仕方ねぇだろ。あのまんまだったら絶対にやりすぎてたぞ」

 

「む……」

 

 それを狙ったのか狙っていなかったのかはわからないが、弥彦はきっとそうに違いないと考えた。それが過大評価なのか的を射ているのか、いずれにしても憧れた男だからこそ弥彦は剣心の行いを大きく高く見積もっている。

 

「ちっ……おい、そっちはこれからどうするんだ」 

 

「……そのような男は斬っても問題ない気はするのだがな」

 

 式尉に肩を借りている蒼紫に代わり、般若が前に出た。

 

「まずは傷を癒すさ。その後は……御頭に付き従うのみ」

 

「ふうん……で、おめぇはどうすんだ? 確か剣心と勝負したかったんだったか……そう言えば、それはどうなった? こいつが割って入って台無しか?」

 

「そんな訳があるか! アホ左之助! 剣心の勝ちだ!」

 

 途中から入ってきた彼らからすれば、そういう可能性もあり得たが、鼻息荒くした弥彦が割って入った所を見ると違うらしい。しかしまあ、怖いもの知らずな少年だ。

 

「……ああ、その通り。そこの童が口にした通り、俺の敗北だ」

 

「潔いこったな」

 

 童じゃねぇと喚く生意気な小僧ッ子に怒りもせず、彼は能面のような表情のままで肯定する。

 

 腹の底で何をどう噛みしめているのかは、左之助にはわからない。だが、こんな勝負の場を整えてまで突きつけられた敗北を飲み込むには相当の力がいった事だろう。

 

 だから、素直に思った事を口にした。

 

 馬鹿にしたつもりはなく、褒めたつもりもなく、ただそう思ったのだ。

 

「敗北は敗北だ。それを女々しくあれこれ言うような情けない真似はしない」

 

 だが、同時にまだ萎えてはいないようにも見える。ああ、こいつはまだ追いかけるつもりなんだなと思った。

 

「……続きがしてぇんなら別に嘴挟むような野暮はしねぇが……世間様を巻き込む今回みたいなマネはすんなよ。そういう喧嘩は詰まらねぇだろうが」

 

「……喧嘩か。その程度がちょうどいいのかもしれんが、せめて果し合いとでも言ってほしいものだな」

 

「冗談言えるのか」

 

「俺は真面目に言っている……それよりも、さっさと高荷恵の所に行ったらどうだ。おそらく無事だろうが、俺は介錯のつもりで彼女が観柳を襲った際に没収した短刀を返したからな。もたもたしていると、取り返しがつかんかもしれんぞ」

 

 それを聞き、剣心は元より左之助も血相を変えた。

 

「なんって事しやがるんだ、この根暗男!」

 

 吐き捨てるや駆けだした弥彦である。本当に怖いもの知らずな少年だ。

 

「ちなみに、高荷恵がいるのは階段の上だ。童、そっちではないぞ」

 

 勢い余ってすってんころりんとお結びのように転がっていった弥彦を眺めていた御庭番衆がはあ……と呆れたようなため息をついた。

 

「……お嬢を小僧に作り替えたみてぇで、生意気すぎても怒る気にはなりませんなぁ」

 

「……いや、まったく」

 

「ああ……言われてみれば確かに似ているな」

 

 妙にしみじみと話をしている彼らに闘争の空気は全くなかった。ここから仕切りなおすような真似は、いくら隠密でもやるまい。

 

「なぁにをぼさっとしてんだ、剣心! 左之助! さっさと行くぞ!」

 

 内輪話をぼそぼそとしている三人はもう放っておいても大丈夫だろうと、剣心と左之助は自分たちの前を通り過ぎざまに一喝していった弥彦の小さな背中の後を追う。さすがにここから不意打ち上等を仕掛けてくるとは、歴戦の剣心も思わなかった。

 

「では、拙者らは恵殿を救出してくるでござるよ」

 

「……抜刀斎」

 

 背中に静かにかけられた声には、寒々とした空気が甦っていた。思わず足を止めた剣心が振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる静かな闘志を湛える切れ長の瞳があった。

 

「俺がお前を倒すまで……誰にも殺されるな」

 

「……承知」 

 

 ただそれだけを口にして、そして剣心は身を翻して走り出す。だが、実のところ腹の中に氷の塊を抱えているようなぞっとする寒気は抱いていた。蒼紫の強さはなるほど、天才の名にふさわしい技量を持っている……今回は勝てたが次回は……そう思うと背筋に奔る寒気を自覚せずにはおられなかった。

 

 だが、今回はもう終わった。今はただ救うべき女の安全だけに集中しよう。

 

 そう考えて走り出しはしたが、少々走った所で突如膝から力が抜ける。

 

「剣心!」

 

「大丈夫、少々よろけただけでござる。それよりも恵殿が心配だ。急ぐでござるよ……」

 

 胸の傷は深く、頭からも血を流している。おそらく見えない所にも様々に傷はあるだろう。何よりも何十人も相手取って疲労していないはずがない……無理をしているのはわかりやすかったが、そこで何かを言うのは野暮であり、何よりもまだ山場を越えただけで事件が解決したわけではないのだ。

 

 それを理解している左之助も弥彦も、ことさらに彼に何かを言う事は出来なかった。

 

「ここか、御頭!!」

 

「助けに来やしたぜッッ!」

 

 背後で聞き覚えのあるだみ声が二つ聞こえてきたが、それらは知った事ではなかった。

 

「……もう終わっているぞ」

 

「ナニィッッ!?」

 

「んな阿呆な!?」

 

 弥彦があきれ顔で後ろを振り返っていたが、どこかで見た極端に対照的な二人組が現れて、彼をして何を言う事も出来ない程の間抜け面が空気をしらじらしいものに変えていた。それを振り切るように足を速める。

 

「おい、ここか!?」 

 

「おそらくは……中から人の気配がするでござる」

 

 がちゃがちゃとそれらしい部屋にたどり着いた途端にドアノブをガチャガチャとひねくり回す弥彦だが、まあ、当然ながら鍵が掛かっている。

 

 もちろん開く訳がないのでさてどうするか、と剣心が考えていると……彼よりもよほど短気な二人が問答無用で蹴り飛ばした。

 

 ぎょっとして目を丸くする剣心だったが、彼らの背中の間……主に弥彦の小さな背中の向こう側にどうやら無事であるらしい恵が身をすくませて立っており、彼女と目が合った。

 

 共に鏡写しのように目を丸くしているのがおかしかった。

 

「さ、左之助……弥彦君……」

 

「うっし、伏兵の類はいねぇな」 

 

「むしろそのぐらい用意しておけってんだ。片手落ちだねぇ」

 

 驚きに身をすくませている恵をよそに、二人の押し込み強盗は狭苦しい部屋を見回している。敵地においては正しい対応であるが、放置されている恵がおろおろとしているのが気の毒ではある。

 

「待たせたでござるな。恵殿」

 

「剣さん……」 

 

 そこでようやく彼女はホッとした顔をして肩の力を抜いた。子供の弥彦と自分に隔意ある左之助よりも、お人好しの剣客である剣心の方が安心できるには決まっている。

 

 だが、剣心の胸板を見て顔が青ざめた。回天剣舞の太刀傷を見つけたのだ。

 

 虎か獅子にでも爪痕を刻まれたような傷は、血塗れの衣服に多少隠されていようとも医術に通じた彼女を青ざめさせるには足りる深さがある。

 

「その、傷……」

 

「ああ、多少手こずってしまったでござる」

 

 胸の傷だけではない。パッと見ただけでも頭から血を流し、あちこちに殴打の痕もある。それを多少と言い切った。

 

「それよりも恵殿に怪我無くてよかったでござるよ」

 

 そう言って優しく微笑むなど、およそ出来た人物だの器が大きいだのと言う言葉で済む話ではなかった。ある日突然こんな危険な事件に巻き込んで、挙句に自分から姿を晦ませた女を助けに来る。散々な目に合ったにも拘らず恨み言さえ言わずに笑いかけてくるなどそんじょそこらの男ではありえない。

 

 恵の態度も様々に問題があったが、客観的に考えて彼女は疫病神としか言えないはずだ。

 

 それを、彼女自身が深く自覚していた。

 

 左之助のように舌打ち程度ならばまだ優しい方だろう。弥彦のように笑いかけてくる事など望外と言える程だ。

 

「……ごめんなさいね」

 

 剣心達はそれを全く自覚していなかった。だから、素人女の動きにさえ対応が遅れてしまったのだ。

 

「勝手に騒動に巻き込んで、こんな危険な目に合わせて、怪我を負わせて……」

 

 彼女にも良心や羞恥心は当然ある。

 

 ただ、それ以上に生き残りたいと言う願望と目的があった。理不尽に出会い、それで心が折れていた……どんな真似をしたとしても、誰を傷つけても、自分が理不尽を振りまく側に回っても仕方がないと思うようになっていた。

 

「だけど、安心して……」

 

 それが神谷道場の日々で癒された。だからこそ、彼女は自分の行いを恥じた。あるいは、観柳にあれやこれやと言われるまでもなく。

 

「災いの種は……今すぐ消えるから」

 

「!」

 

「恵殿!」

 

 恵は目を閉じながら、抜いた短刀を手首に突き付けた。刃が白い腕に浅く食い込んで小さな傷を作る姿を見て、彼女は嫌悪感に襲われた。

 

 この手は綺麗だ。

 

 多くの人を狂わせ、時には苦しめた上での死をもたらした腕であるのに、傷一つない。

 

 それが酷く汚らわしかった。かつては女として誇らしかったし、この腕に刻み込んだ技術が誇らしかったはずなのに、一体どうしてこうなったのだろうか。

 

 決まっている。全ては自分の人を見る目のなさと、そして悪事と暴力を拒み切れない弱さ故だ。

 

「阿片の密造人なんて落ちるところまで落ちて……それでも生き別れた家族に会いたいからなんて、浅ましく希望を抱いて……あいつの言う通り、一体どんな顔で皆に会おうっていうのか……未練がましいにも程があるわよね。でも、最後の最後にあなた達に会えてよかったわ」

 

 昨日までは、できなかった。けれども今ならできる。

 

 いいや、今しかできない。きっと自分に死んでもいい覚悟……死ぬべきと決めた潔さなんて、今この時を置いて他にはないだろう。

 

「待て!」

 

 ああ、止めてくれている……自分のような女が死ぬのであれば、それは喝采で彩られている慶事のはずなのに……惜しまれているようで、それが嬉しい。

 

「ありがとう」 

 

 思わず礼が口から出てくる。本当に頭が下がる思いだった……だからこそ、自分はこの白刃を横に引かなければならない。

 

 手に、肉を切る手応えが伝わってきた。そして手と顔に熱い血が飛び散ってくる。

 

「……え?」

 

 だが、痛みがない。更には短刀が動かない。

 

 閉じていた眼を開けると、彼女の前には悪一文字が立って彼女の短刀を握りしめている。飛び散った血は、左之助の物だ。

 

「てんめぇ……ガキの前で見せつけるように自決しようとか、ふざけんなよ! 大体剣心も弥彦もお前を助けるためにこんな所に乗り込んで来たってェのに、わざわざ目の前で台無しにするつもりか!?」

 

 そのまま力任せにむしり取る。非常に危険な行為だが、頭に血が上っているのかさらりとやってしまった。幸い恵がされるままに短刀を手放したおかげで問題ないが、事と次第によっては指に障害が残ってもおかしくはない。本人は全く自覚がないようだが、医学の知識を持っている恵としてはなんて無茶をするのかと愕然とするほどの暴挙である。

 

「ったく!」 

 

 思わずへたり込んだ恵は、その勢いに押されるように瞳から涙を流した。ぽろぽろと零れるそれは彼女にとって決して流してはならないものだったが、どうしても止まらなかった。

 

 情けない。

 

 そんな権利は自分にはないと百々承知だと言うのに、情けない事に彼女の瞳は次から次へと涙をこぼし続けている。

 

「だって……しょうがないじゃないの。私の作った阿片で今も苦しんでいる人が大勢いるのよ。なのに“無理矢理造らされました”なんて言い訳の一つで、今更自分だけ罪から逃れて甘い幸せを手に入れようなんて……」

 

「…………」

 

 恵の涙に剣心は語る言葉を持たなかった。

 

 剣心が口にした言葉は、正に彼女が口にした言葉そのものだ。だが……それは彼女にとって苦痛であるのだ。

 

「ふざけんじゃねぇ! だから死んで終わりにしようなんざ考えがあめぇンだよ! お前が償いに何をしなけりゃならないのか、どうすればけじめがつけられるのか! そいつを決めるのは剣心でもなけりゃ俺でもねぇ! ましてや阿片を作って散々中毒者を作ったお前なんかじゃねぇ! 肝心な相手を忘れてんのか!」

 

 そんな彼女に対して、左之助は涙も吹き飛ぶような一喝をしてしまった。

 

 これには剣心も弥彦も度肝を抜かれる。ここで恵を怒鳴りつけるなどと言う展開を二人は想像もしていなかったからだ。だが左之助はそんな外野の事など知った事ではないと怒りに任せて叫び続ける。

 

「お前の生き死にも償いも、決めていいのはお前の阿片で狂っちまった奴や、その身内だけなんだよ! 当たり前の話だろうが! そいつらに償いも詫びもせずに、それどころか会いもしねぇでさっさとあの世に逃げ込もうなんざ、この俺が許さねぇ!」

 

 結局この女は自分しか見ていないのだ、と左之助は強く苛立ちを感じた。自分の中にある怒りをうまく言葉にできないせいでそこに拍車がかかるが、それでも言葉を重ねずにいられなかった。

 

「お前が何をしたのか、お前が作った阿片がどれだけの地獄を作ったのか、そいつをきっちり見据えて、死ぬなら恨みつらみの手でせめての気晴らしに殺されて死ねッッ! こんな短刀で綺麗に死のうなんざおこがましいんだよ!」

 

 恵は頭が真っ白になった顔をしていた。正直、左之助の言葉がどこまで頭に届いているのかも疑わしい。それは弥彦も剣心も同様だった。

 

 あまりにも予想外すぎる流れに何をどう言っていいのかわからなかったのである。思いつめて自決しようとまでしている女に口にするには酷な話ではあるが、同時に間違いなく一理ある話でもあった。

 

 彼が口にしているのは、乱暴な口調のせいで間違われそうだがいたって真っ当な話として筋が通っている。

 

「って、おい左之助! てめぇ言うに事欠いてなんて事を言ってんだ! それが死のうとまでしている女に男が言うセリフか!?」

 

「やかましい!」

 

 弥彦が少年としての義侠心から左之助の悪一文字に向かって怒鳴りつけるが、左之助も弥彦相手だからと加減する気遣いもなく強烈な眼光を振り返りざまに浴びせる。強烈な怒りがこもっているそれに弥彦が全く怯まないのは大した度胸だが、それだけだった。彼の目にも言葉にも、喧嘩屋の怒りを抑える力はなかった。

 

 そして、こんな時に黙っているはずがない剣心は何も言わなかった。それは何も言えなかったのかもしれない。ここに来る直前の口論を思い返して、左之助にも恵にもかける言葉は見つからなかった。

 

 そんな彼らの逡巡と葛藤を切り裂いたのは、甲高い笛の音だった。

 

 すわ、観柳の手下が騰勢を立て直したのかと思わず窓に飛びついた一同が見下ろした先にいるのは、巣穴から追い出された蟻のようにあちこちで無作為に走り回る破落戸たちと、その三倍以上の数で少しはましな統率の元で駆けまわる警官たちだった。

 

 夜も深いと言うのに殊更に高い音をたてている笛は観柳の手下ではなく、違う組織に属している人物らだったのだ。

 

「警官隊か! 今頃まあのこのこと……」 

 

「そりゃあこれだけ大騒ぎしていれば街外れでも人は来るか! 早くずらからねーと!」

 

 普通に考えて、剣心達は不法侵入の狼藉者である。どう考えてもお縄になるのは必然。さすがにそれを理解しないおめでたい頭をした馬鹿はその場に一人もいなかった。

 

「ちっ……おら、行くぞ!」 

 

 舌打ちした左之助は一瞬ためらったようだが、恵の手を引いた。乱暴でためらいがちな動きが彼の内心を表していたが、ここで彼女を放置していくこともまたできない相談だったようだ。

 

 一体どういう結末になれば自分が納得できるのか、それが彼にもわからない……あの幕末の頃からこっち、肝心かなめの所では目指す道さえ見えてこないと自分自身のみっともない中途半端さに苛立ちを感じていた。

 

「って、おい!」 

 

 左之助の手は恵に振り解かれた。思わずイラつきを声に出したが、ちょっと間をおいて考えると簡単に思いつく。自分たちの関係を顧みれば怯えて手を振りほどくくらいは当たり前だ。剣心辺りが促せばすぐに動くだろう……そう考えていた左之助だったが、恵の顔が少々驚くほどに毅然として引き締まっているのを見た。

 

「……剣さん。これをどうぞ」

 

 彼女が差し出したのは、梅の花飾りが彫り込まれている平たい薬入れだった。

 

「家伝の血止め薬です。胸の深手をこれで応急処置して、早く医者へ……天井裏に観柳の用意した隠し通路があります。そこを通れば警官隊に出会わずに脱出できますから……」

 

 そこで微笑んだ彼女の顔は、なんだろうか……剣心には菩薩の様な童女のような、なんとも言い難い笑顔だった。

 

「お世話になりました」

 

 三人の間をすり抜けて、彼女は部屋を出ていこうとする。その背中に、剣心は静かに声をかけた。

 

「阿片の密売は死刑……それは承知の上でござるか。恵殿」

 

 剣心はどうしようもなく残酷な事を口にした。だがここで行ってしまえば、それは間違いなく現実となる。

 

 恵は振り向かなかった。それが振り返る事が出来ないからだとその場にいる三人の誰もがわかっている。

 

肩が震えていたからだ。

 

 しかし気丈でありたいと言う彼女の意思が振り向いて剣心にすがりたくなる弱さを何とかとどめた。

 

「ええ……でも私の作った阿片のせいで左之助の友人さんのように死人まで出ているんです。私だけが逃げるわけには……いきません」

 

 彼女の声が震えていた。それはここから言葉という形にしてしまうのが恐ろしくてたまらないからだ。何をどう言おうとも、それはどうしようもない程に恐ろしいものだ。

 

「人殺しの罪は……死罪を持って償います」

 

 そう口にした彼女に、男達三人……弥彦は彼女の抱いた死に挑む覚悟に圧倒されてしまい、剣心と左之助はそれぞれの葛藤から何も言えなかった。

 

 

 

 

 

 恵が部屋から出ると、眼下では既に大捕り物が始まっていた。

 

 既に東京の住人にも馴染み深くなった制服警官たちがあちこちの扉から一斉に大きなホールに入ってきているのが見える。倒れ伏したままの観柳と傍にある機関銃にどよめき、怯みながらも撃たれてたまるかと一斉に観柳に襲い掛かっていた。

 

 もう既に腕も心も圧し折られていた観柳は情けなく悲鳴を上げていたのだが痛みに逃げる事も出来ずに大人しく捕まっている……とは言っても、圧し折られた腕を縛られていたおかげで相当に喚き散らしていたが、その内痛みに耐えかねたのか静かになった。

 

 どうやら警官一同、機関銃に相当怯えているらしく所有者(らしい)などという危険人物の腕が折れていようが足が折れていようが気に留めるようなつもりはないらしい。

 

 おそらく、彼女からは見えない所で私兵団も捕らえられているのだろう。

 

「署長! ありました、阿片です! 地下に隠し倉庫がありました!」

 

 警官の一人が、恵も所持していた阿片の包みを掲げている。署長……おそらく警察署長当人もいるのだろう。随分と大々的な捜査……わかっていても手が出せない相手となっていた武田観柳だが、何がきっかけなのか、ついに決着をつける気になったらしい。

 

「よし、押収だ」

 

「大密売団だ! 一人も逃がすなよ!」

 

 適当にお茶を濁すわけではないというのは、首魁を真っ先に縛り上げている点でも間違いないだろう。

 

 剣心達の殴り込みがきっかけだろうが、もしかしたら元々機会を待っていたのではなかろうか。恵が脱走したのも、もしかしたら元々ばれていたのかもしれない……いや、彼女を確保しようとしていない時点でそれはないか。

 

「……君は?」

 

 そんな事を考えながら階段を下りていた恵を、髭と眼鏡の男が見つけた。さきほど、署長と呼ばれていたのは彼であったような気がする。

 

「そ、その女だあぁっ!」

 

 大人しく、痛みに気を失ったのかと思っていた観柳が大声を上げて叫びだした。目が血走り、頭がどうにかなってしまったかと思うような有様だ。

 

「その女が新型阿片の密造人! 私の片棒を担いだ女だよ!」

 

 大人しくしろと取り押さえている警官達が苦労するような勢いは、まるで痛みを忘れたかのようだ。

 

「言い訳はなしだぜ、恵! 何をどう言いつくろおうともお前が阿片を作ったのは事実だ! 地獄の底までてめぇも道連れだ!」

 

 ご立派な高級品で固めている余裕たっぷりの男だったが、浅ましさの権化となった今となっては青年実業家などと言われている姿はとうにない。恵は、こんな男に今まで翻弄されて怯えていたのかと自分自身が情けなくなった。

 

 そんな男を静かに見つめた後、警察署長であるらしい男は静かに恵に問いかけた。

 

「……本当かね」

 

 この言葉に答えれば、自分の人生が終わる。それを痛い程理解して、口が嘘をつこうとする。あるいは、黙りこもうとする。

 

 適当な言い訳などいくらでも思いつく。だが、それで騙せる程警察も甘くはないだろうし、何よりもそんな真似はもうできなかった……できないはずだ。

 

 この期に及んでも逃げ出したくなる足に、嘘をつこうとする口に絶望する。本当に、なんて浅ましい女なのか。先ほど観柳を情けないと思っていた癖に自分も結局は同類だ。

 

 道連れと言うのは、本当に相応しいようだ。

 

「……は」

 

「いいえでござるよ」

 

 後ろから、誰かが彼女の口を塞いだ。彼女の言葉を遮って続いた声を聴けば、誰が手の主かはすぐにわかる。

 

「け、剣さん」

 

 恵はそう言ったつもりだが、口を塞がれていたので何が何やらわからなくなっている。なんにせよ憎からず思っている男にこんな真似をされて、先ほどまでの覚悟が消えてしまう勢いで顔が赤くなった。

 

「緋村さん!?」

 

 降って湧いたような剣心に驚いた署長の知った顔という反応だった。それも“さん”付けである。

 

「こちらの女性は優秀な医者の卵でござってな。そこの武田観柳に阿片づくりの為付け狙われていたのでござるよ」

 

 殊更ににこにこと……あるいはしゃあしゃあとしている剣心は一応、嘘はついていない。問題なのは、既に脅しに屈して阿片づくりに加担していた実行犯になってしまっている事だ。

 

「な……フカシこいてんじゃねぇぞ、抜刀斎! そいつぁ……」

 

「貴様は黙っていろ」

 

 血相を変えて食って掛かった観柳だったが、剣心の異名そのものの眼光に射抜かれて、腕の痛みを思い出したのか青ざめて黙りこんだ。そんな観柳の悲鳴じみた必死の叫びの中に出てきた名詞を、恵は聞き逃してはいなかった。

 

 抜刀斎。

 

 彼女も名前だけは知っている。幕末最強とも言われる維新志士……あまりにも多く人を殺してきた故についたあだ名が人斬り抜刀斎。

 

 噂だけの存在ではないのかとも思えた男が、今も後ろにいるお人好しの剣客だと言うのか。

 

 到底信じられたものではない、ないのだが……緋村剣心は否定せず、武田観柳もそんな与太を飛ばす意味がない。

 

「そうでござるよな、弥彦」

 

「あん? おうよ! この東京府士族、明神弥彦! 間違っても阿片密造人なんかの為に剣を振るったりはしねぇって!」

 

 確かに、今晩の彼は剣を振るっていないので間違ってはいない。

 

「な? 左之」

 

「……知らねぇよ。俺はただ喧嘩をしていただけだ」

 

 そう言った左之助の顔はどこか寒々としていた。その顔で見下ろされた剣心は、何かを踏み間違えた一歩を進んでしまった気がした。

 

「……やっぱ、おめぇも“維新志士様”だったな」

 

 ふう、とため息をついた彼は三人をおいて前に足を踏み出す。

 

「左之……」

 

「“真実は歪め、都合の悪い事は人に押し付けて正義面をする”……まあ、あの野郎は確か悪党だけどな……」

 

 悪一文字は彼が今どんな顔をしているのかを、決して語らなかった。

 

「あばよ……“抜刀斎”」

 

 左之助当人もまた、自分の中の様々な心を飲み込み切れていなかった。

 

 恵の境遇に同情しないでもない。

 

 細腕の女一人、それまで師匠のような立場だった医師にも騙されて暴力と恐怖で縛られて、悪事に手を染めさせられていた……なるほど、不幸な事だ。

 

 だが、不幸な女だからと言って……不幸を生み出していい理屈があるのか? それをなかった事にしていいのか? 水に流す権利がは誰にある?

 

 剣心はそれを良しとした。少なくとも左之助にはそう思えた。

 

 彼は、それを飲み込めない。

 

「……よお、ヒゲメガネのおっさん」

 

「誰がヒゲメガネか!? こら、遺留品を勝手に持っていくな!」

 

「こりゃあ俺のだよ。壊れちまったが供養くらいしてやりてぇんだ。嘴挟むねぇ」

 

 砕け散った斬馬刀を拾いながら、左之助は適当な綽名を勝手につけた署長に一つ忠告した。

 

「それよりもここにおかしな連中がいただろ? 三人組の」

 

「三人組?」

 

「そいつら、雇われモンの中でも別格だから迂闊に手を出したら皆殺しにされっぞ。怪我人だからって逮捕なんざ諦めた方が身の為だ」

 

「……誰の事かね」

 

 警官として見過ごせない上に、いささかならず沽券にかかわる事を抜かす若造のセリフだが、追求する前に血相を変えた剣心から声がかかった。

 

「ここに三人組の男がいたはずでござる! いや、もしや五人組であったかもしれんが……元隠密御庭番衆の手練れが!」

 

「お、隠密? いいえ、我々がこのダンスホールに突入した際にいたのは武田観柳一名のみ。他には誰も……」

 

「蒼紫が……消えた!?」

 

 一同は揃って血相を変えた。

 

 実力を五体で思い知っている剣心達は元より、警察としても真偽の確認はできていないにしても隠密御庭番衆などと言う看板を背負った戦闘技能者を三人だか五人だかも見失うわけにはいかない。

 

「窓はねぇ……って事は下の出入り口から出たはず……本当にいなかったのかよ、ヒゲメガネ! あんな特徴的で忍んでねぇ奴ら、見落とせるもんじゃねぇぞ!」 

 

「だから誰がヒゲメガネだ!? ここの出入り口はごらんの通りに固めている! 外も同様だ。誰にも気が付かれずに脱出など出来るものではない!」

 

 確かに周囲は警察署が空になったのではないのかと心配になるほどの人員でごった返している。ここを抜け出すのは隠密とは言え並大抵ではない。

 

 ましてや複数、更には足を撃たれた蒼紫を抱えているのだ。いくら蒼紫の実力が抜きんでているとは言っても腕ならともかく足を撃たれたのだから逃亡は非常に困難だ。

 

「……じゃあ本当に隠密らしく、煙みたいに消えたのかよ……」

 

 そういう弥彦の頭をよぎっているのは、巻物を口に咥えた黒装束が印を結んで足元から煙に覆われようとしている姿だが……火を噴くような滅茶苦茶な輩がいるとしても、いくら何でもそんな事はできないはずだ。

 

「てめぇは見ているはずだろうが、阿片野郎! ちゃきちゃき吐きやがれ!」

 

「どひいいぃぃっ!?」

 

 怪我人に対する配慮なんぞ一かけらもねぇと背中で語る左之助に胸ぐらをつかまれて揺すられている観柳が悲鳴を上げている間に、剣心が一つ思いついた。

 

「……いや、今しがた恵殿が教えてくれた。出入口は他にもう一つある!」

 

「あ! 観柳が用意していた隠し通路! 剣さんたちが私の所に来てから警官が突入するまでのわずかの間に、天井裏の隠し通路から逃げ出したんだわ!」 

 

 なるほど、至極真っ当な話だ。仮にも隠密、しかも護衛の御庭番衆と来ては侵入、或いは脱出の為に建物の構造を把握しておくのは至極当然だ。観柳がどこまで教えていたのかは疑問だが、おそらく独自にきっちり掌握している事だろう。

 

「通路の出口は!」

 

「天井裏から壁の中を通って、裏の林に出入り口があります! 案内します!」

 

 恵に案内された一同が警官隊と共に走り出す。左之助もこの危急の時にあれこれ野暮を言う気はないようで、一緒に走り出していた。

 

 本来であれば恵の足に合わせるのであれば遅々とした進みにじれったくも思った所だろうが、今は揃って満身創痍。歯がゆい思いをしたのはむしろ警官隊の方で、剣心達は恵の足に合わせて走るのが手一杯と言う有様だった。

 

 その遅さが同様に傷だらけの蒼紫たちを救ったのかもしれない。

 

「やっぱり……」 

 

「ここから逃げたのは間違いないみたいでござるな」

 

 一同が案内の元にたどり着いた先には、隠し蓋が開けっ放しになって放置されている通路口がどこか寒々とした顔を覗かせている。恵の推測が当たっていたのは剣心の言う通り明白だった。

 

「……しっかし、よくこんなせまっ苦しいところをひょっとこが通れたな。下手すりゃ式尉でさえ肩が閊えそうじゃねぇか」

 

 砕かれた斬馬刀を持ちづらそうに抱えた左之助がまじまじと出入り口の幅を見て、そんな事を言う。確かに縦横のどちらもかなり小さく、おそらく屋敷の主の幅に合わせたのだろうが常人離れした巨体の火吹き男など通れるかどうかは疑問だ。

 

「……あいつだけ置いておくとは思えねぇし、確かあのどでかい野郎の声が後ろから聞こえてきたから、間違いなくいたよな……まあ、いいか」

 

 左之助にしてみれば彼らとの決着はついたのだから、あまりこだわる事もなかった。困るのはおっとり刀でやってきた警官たちの方である。

 

 周囲の警戒、捜索にと所長が矢継ぎ早に指示を出して末端の警官たちが四方八方蜘蛛の子を散らすように駆けだしていく足音に混ざり……奇妙に響く音がした。

 

「!」

 

 それに真っ先に感づいたのは、さすがの緋村剣心である。

 

 彼が勢いよく首を巡らした先には屋敷の高い塀があり、その上に蒼紫と般若、式尉、ついでに狭い抜け穴でも広そうな小さいのも並んで、どうやってあの路を通り抜けたのかさっぱりわからない大きいのが壁の下に立っている。面白いのは壁の下に立っている大きいのと壁の上に立っている小さいのの頭の高さが遠目には同じに見える事だが、それを笑えるような心境の持ち主は今この場にはいなかった。

 

「蒼紫……」

 

 彼はこれ以上肩を貸される事を良しとしないようで、傷ついた足をそのままにしっかりと仁王立ちしている。その左右を固める二人の隠密達も含めて、気概が齎す威圧感は異様さのせいもあり空気を重たくさせているほどだ。警官たちがその重みに心臓を縮みこまされて、不審人物の発見にも拘らず誰も動く事が出来ずにいた。

 

「何をしている! 呑まれるな! 早急に捉え」

 

「やめとけって。お前らが束になっても殺されるしかねぇから」

 

 駆け付けた警官全てが格負けしてしまったのは理解しているが、それでも職務に忠実であれと檄を飛ばした署長を裏社会の破落戸が抑える。抑えた際に少々首がこきりとなったかもしれないが、まあ、些細な事だ。

 

「喧嘩屋か」 

 

 自分の声をかけてくるとは思っていなかったので驚いたが、おそらく既に剣心とは話すべきことは全部話したのだろうと察する。ついでに言えば、敗者が勝者にかける言葉など雪辱の誓い以外にあるはずもない。

 

「お前の師匠が、まさかあの京都の鬼とは思ってもみなかった」

 

「そっちの鬼面から聞いたのかい。なんなら今度、橋の上での結着でもつけるか?」

 

 安い挑発ににこりともせず徹頭徹尾、表情を動かす筋肉の一本も残らず凍りついているような有様だが……彼はそれにうなずいてみせた。

 

「いいだろう、いずれまた抜刀際に挑む為には……お前も俺の強さの糧とさせてもらう」

 

「やってみな。こっちにだって強くならなけりゃならねぇ理由があるんだ。大歓迎だぜ」

 

 左之助の側から熱い何かが、蒼紫の側からは冷たい何かが空気を染め上げて軋ませる。それに恵や警官隊が息苦しそうに眉をしかめていた。

 

「お前に聞きたい事がある」

 

「あん?」

 

「……お前の師はどこで何をしている。あの最強とも災厄とも呼ばれた男は維新からの十年、妖のようにさえ思われているほど噂も聞かなかった……どこで何をして生きていたのだ」 

 

 蒼紫にしてみれば顔も名前も知らない実在さえも怪しい男だったが、だからこそ興味があった。強さという物を極めてわかりやすくも理不尽な形で証明してきた男が実在していたのだ。彼は今この時であっても、知りたくなったのだ。弟子は弟子で、ろくに情報もなく半ば妖怪扱いされる程に実在を危ぶまれている癖にあちこちの強者に影響を与える師匠のあくの強さに呆れていた。

 

「異国にいるぜ。世界を股にかけて戦って……いんや、暴れているってよ。近々帰るなんて手紙が来たから、興味があったら探してみな」

 

「……世界」

 

 世界と言う名詞は当時の日本においては魅惑的であり、それ以上に聞きなれない物でもあった。

 

 世界。

 

 世界を股にかける。

 

 日本の迎えた新時代に十年間も失望を抱えていた彼は、世界は新天地足りうるのかと期待を抱かずにはいられなかった。

 

「世界か……貴様を倒し、抜刀斎を倒し……あるいは幕末の鬼も相手取って、勝ち残れば……海の彼方に生きがいを見出すのも悪くはない」

 

 今この瞬間、どこかの我がまま娘の目標達成難易度が極端に跳ねあがった。

 

 いらねぇ事を言いやがってと八つ当たりなのかそうでないのかよくわからない恨みを買うのは、当然どこぞの悪一文字である。彼が苦無の的にされるまで、決して長い時間は必要ではなかった。

 

「……人斬り抜刀斎」

 

「…………」

 

 御庭番衆に完全に呑まれていた警官たちの目が、一斉に小柄な赤毛の男に注がれる。人斬り抜刀斎と呼んだ男の眼が向いた先を確認せずにはいられなかったのだ。

 

 彼らもまた、当然のように伝説の向こう側に消えた維新志士の名前を聞いた事があった。

 

 この十字傷の男がそれだと言うのか? ……そう言えば、剣客警官隊が街で難癖をつけた十字傷の男に軒並み打ち倒されたと言う噂があった。

 

 その噂の直後、隊が解散されて組織が引き締められたことを踏まえれば、ただの噂ではないと署員一同察してはいたが……よもやまさか、伝説の向こう側から現れたのがこの優男だと言うのか。

 

「いずれ俺はお前の前に必ず立つ。今一度、最強の四文字を手に入れる為に……それが終われば……こいつらと新天地を目指して生きてみようか」

 

 冷徹で、氷のようで……しかしそれだけではない表情をした男が三日月を背負っていた。

 

「生きる道が見えたのであれば、その光明に従ってほしい物でござるがな」

 

「未練を残したままに旅立つつもりはない」 

 

「うあ……お嬢が哀れな……」

 

「……暗に未練ではないと言われてしまったな」 

 

 向こうでぼそぼそと般若、式尉が呟きながら顔を見合わせているが剣心達の所にまでは全く聞こえなかった。

 

「いずれ、近いうちにまた挑む。その時まで……誰にも殺されるな」

 

 その言葉を最後に、隠密達は面目躍如と言わんばかりの見事さで音もたてずに壁向こうの闇の中へと消えていった。

 

「……何をしている! 追え! 追わんか!」 

 

 警察署長が責務の為に金切り声を上げると、場の空気を読んだのか呑まれたのか固まっていた警官一同が一斉に走り出すが、剣心は蒼紫たちなら誰一人とて捕まらないと確信し、そして安堵していた。あれでは追い付く事さえできず、無駄な死人は出るまい。

 

「……大丈夫かよ、剣心」

 

「大丈夫でござるよ。拙者を狙っている内には蒼紫達も悪事に手を貸したりはするまい」

 

 先の戦いの全てを目の当たりにしていた弥彦が、未だ血のにじみ続ける剣心の胸を見ながら心配する。頬には一筋の汗が垂れていたが、そんな弥彦に剣心自身は静かに笑ってみせた。

 

「そういう事じゃなくてだな!」

 

「そうです! あれじゃあ剣さんが!」

 

 金切り声に近い悲鳴を上げる恵も加わったが、剣心の表情は変わらなかった。弥彦や恵の言いたい事が伝わっていないわけでもあるまいに、こんな事を言う。

 

「大丈夫。大丈夫でござるよ」

 

 ただ繰り返している男は事件が終わった事を確信しているのか笑みを浮かべ、少年と女がどれほど危機感を口にしても笑みは崩れない。

 

 自分への危機を度外視しているようにさえ見えて少年たちは頼もしさよりも歯がゆさを感じるが、それは剣心が強いからなのか、それ以外の自分をないがしろにするような理由があるのか。

 

 いずれにしろ、それ以上は剣心も何も言わずに話はそこで終わらせようとしている。弥彦にしても恵にしても、それ以上は踏むこむような華麗な弁舌など持ち合わせてはいなかった。

 

「それよりも、今度こそ帰るでござるよ……本当に」

 

「……」

 

 緋村剣心という男は、一見人当たりがいいながらも……どこかの一線で頑なに強固な壁を作る所がある。恵、そして幼いながら弥彦もまた漠然としたところではあるがそれを感じ取った。

 

 同時に、ふざけるなと言う負けん気を弥彦は彼らしく発揮する。

 

「ったく、次は今度みたいな辛勝じゃなくてすぱっと勝っちまえよな! 見ていて冷や冷やしたぜ」 

 

「ははは……そううまくいけばいいでござるがな。おそらく蒼紫も相当に鍛錬を積んでから来ることは必然。そうなれば、果たして次はどうなるか……」

 

「もうちっと強気になれよ! 今大丈夫って言ったばかりだろうが!」

 

 そんな枠などぶっ壊してやる。水臭いんだよ! 弥彦は当たり前にそう考えた。

 

「……ったく。あれだけ強いってのに、どうしてそんなに切れの悪い事ばっかり言うんだよ。ちったぁ威勢のいいことも言ってみせろってんだ。なあ、左之助」

 

 生意気の見本に応える声はなかった。

 

「あ、あれ? 左之助、おい! どこ行った!?」

 

 弥彦としてみれば、またしても溝が出来ているように見える二人のとりなしのつもりだった。いい大人が大概にしろとも思ったが、ここはこの弥彦様が面倒を見てやらねばなるまいと一肌脱ぐつもりだったのだ……その片方がいない。

 

「あ、あんなところに居やがった!」

 

 背中にでかい悪一文字を背負っているような男が夜の森の中だろうと目立たないはずはなく、ちょっと首を巡らせるとすぐに見つかる。

 

「おい、左之助! 一人でさっさと帰ろうとすんな!」

 

「…………」 

 

 仲間を置いてけぼりにしようとした薄情者の背中に少年の怒った声がかかるが、それを受けた悪一文字は止まらない。

 

「あばよ」

 

 斬馬刀の柄を持った手をそのまま上げて、それだけで彼は一人淡々とした足取りで一人さっさと森から町へと向かっていってしまった。あとに残されたのは三人と、右往左往している警官隊たちだけ。

 

 ……壊れた武器を持った奇妙な青年を警官達がちらちらと隠し見ていたが、署長と語り合っていた剣心と共にいるのを見ていたおかげで実際に彼を職質しようとする職務に熱心かつ不幸になる警官はいなかった。

 

「お、おい!」

 

「……左之」

 

 普段の左之助なら“じゃあな”と言う。でなければ“またな”か。

 

 不吉を感じる弥彦の声には振り向かなかった。そして剣心はただ小さな……左之助には届かない程度の声で名前を呼ぶ事しかできなかった。

 

「…………」

 

 その背中と彼らの距離が、自分のせいだと理解できない程に恵は愚鈍ではない。

 

「剣さん! あの……」

 

 彼女の言葉はそこで喉につかえた。

 

 何を口にすればいいのかはわかっている。だがそれを口にする勇気を彼女は失っていた。正確には、剣心が奪ってしまっていた。死ぬことを恐れず裁きを受けて償おうと言う勇気は彼女にとって一世一代だった。家族と会えなくとも、命を失おうとも、それでも良しとするだけの勇気をそうそう出せる程に彼女は強くない。

 

 そういう生き方を良しとするのは、死を美徳に変える頭のおかしい生き物……つまり侍だけだ。彼女は死を否定するために懸命に働く事を生きがいとする医師を目指す女である。

 

 そして、剣心が彼女の自首を止めた時、恵は内心で自分自身にさえ隠していた本心を初めて悟っていた。 

 

 口を塞がれた際に、それを振りほどくことなく受け入れたのはそれを期待していたからだ。本当のところは死にたくなくて、剣心に止めてほしかったのだ。死ぬことはないと、彼女にとって都合のいい言葉をかけてほしいと思っていたのだ。

 

 そうでなければ、どうして口を塞がれた程度で止まると言うのだ。何故止められた時に受け入れているのか。

 

 嬉しかったのだ。そして安心していたのだ。

 

 気のゆるみと共にそんな自分の弱さと醜さを自覚して、彼女は自分に絶望した。

 

 少なくとも、今の彼女に出せる勇気はない。今この時、それを口にするのは剣心達の心遣いを無にする行為なのだと言う名分が浮かび上がっては彼女の口にから一秒ごとに真実を警察に訴える力を奪っていく。既に、彼女から罰に服する勇気は失われていた。

 

「あの……」

 

 それ以上は何も言えない。

 

 自分の存在が彼らの間に罅を入れても、一人去っていく男の背中を見ていても何も言えなかった。

 

「……」 

 

 そして剣心もまた、何も言えずに悪一文字を見えなくなるまで見送った。

 

 恵を救った事に後悔はない。逆の場合こそ彼は後悔をしただろうと自覚している。しかし……それでも胸中の深いところで木枯らしが吹くのを止める事は出来なかった。

 

「……京都の……鬼」

 

 やがて剣心達一行が静かに帰路についたのを見送った署長が、何か胸に帰する物を抱いているのか表情を強張らせて森の隙間を埋め尽くす闇の一角に瞳を向けながら呟いた。

 

 彼の顔は、まるで闇の奥に怪談の妖怪が実在しているのを見つけた子供のような怯えがはっきりと表れていた。

 

 

 

 

 その後、数日間は平穏でありつつもどこか落ち着かない毎日が続いた。

 

 あれから左之助はほとんど毎日のように顔を出していた剣心との稽古もせずに一向に顔を見せる事がなかった。

 

 同じ町に住んでいながらも顔を合わせる事もなく、あの夜の永の別れと思えるような一幕が彼らの歯間に挟まるように残り続けて、その場にいなかった薫でさえも喉の奥に詰まっている鬱屈とした空気を吐き出せない。

 

 どうしてこうなったのか、と思えばどうにもできない。

 

 恵はそもそもの事の元凶であるが、彼女は暴力で強制されていたのだ。剣心を初めとして神谷道場の誰一人としてそれを責めたりはしない。

 

 基本的に彼らは善良であり温厚である。

 

 だが同時に、左之助の怒りを否定する事も出来なかった。

 

 出発前に起こした剣心との諍いの事を思い出せば、さすがにそれは憚られる。彼らは自覚なく軽視してしまったが、左之助にとって恵は友人の仇の一人に他ならないのは否定できない事実だったのだ。

 

 恵を取るか、左之助を取るか。そして彼らは弱い恵を取った。

 

 ……それは左之助の言うように、阿片に苦しんでいる被害者の無念を踏みつぶすような真似であったのか。しかし阿片に手を出すなどは悪事であり、結果として苦しむのも自業自得である。

 

 母が亡くなり、父が行方不明になって実質死亡してから小娘一人、苦労に苦労を重ねつつも真っ当でお天道様に恥じる事無く生きてきた薫にとっては正直なところ、そう思う。

 

 薫個人にとって、恵は剣心に粉をかけようとしているところもあって好ましくない女だ。

 

 だが懐に飛んできた窮鳥を、好き嫌いでどうこうする薫ではない。

 

 本当に、どうすればいいのか。答えの分からない難問だった。彼女は今回、ほとんど蚊帳の外であっただけになおさらそう思う。

 

「……今日は恵さんのハレの日だもんね。少し気持ちを切り替えないと嫌な終わりになっちゃうわ」

 

 薫はそう言って、道場の方へ目を向けた。道場主らしくひと汗流して鬱屈している気分も流してしまおうと思ったのだ。

 

 ついでに、先ほど素振りを二百本ほど言いつけておいた一人だけの弟子の様子も見ておこう。

 

「あれから剣心も弥彦も、すっきりしない顔をしているしね」

 

 着替える為に自室に足を向けた薫の背中を視線が静かに追っていた。

 

 仮にも一流を担う彼女に注視を気付かせないのは、相応の技量を持つ緋村剣心しかここにはいない。

 

「薫殿にはすっかり気をもませてしまったでござるな」

 

 もちろん申しわけないと思ってはいるが、剣心も不器用な男である。左之助のいう所もわかるが、彼も彼で譲れない所である以上は謝罪をするのは逆に不誠実であるし、どうしていいのか見当もつかずに流れに任せている。

 

 流浪人としてとかく人付き合いの浅い生き方を選んできた彼は、こじれた人間関係をどうこうするような気の利いた振る舞いが出来なかった。なるようになるし、そうでなければ仕方がない。

 

 そんな風に剣心は内心で完結していた。

 

「……ん? ああ、もうそんな時刻でござるか」

 

 しわがれた老人の訪問を告げる声が剣心の耳に届いた。

 

「本当に、お世話になりました」

 

 青空を背負った恵は、未だに壊れてから適当な修理しかされていない門の前で一同に向かい殊勝に頭を下げていた。

 

 彼女の後ろには神谷道場かかりつけの医師である老人がにこやかにして立っており、祖父と孫の構図にも見える。

 

「ごめんなさいね。うちも狭いし、これ以上食客を増やせなくて」

 

 彼女の家の広さで狭いと言われてしまえば、よその家からは大いに嫉妬を買うに違いない。行方不明の父は何者であるのか、なかなか結構な広さの家に道場付きである。世間は左之助が暮らしているような長屋が普通だ。だからかつてはどこぞの地上げ兄弟が辻斬り騒動まで起こして手に入れようとしたのである。

 

 よくも娘一人で維持できているものだ。

 

「いいえ、そんな。こちらこそ住み込みの働き口まで紹介してもらって……」

 

「いやあ、恵さんの様な助手ならいつでも大歓迎じゃよ」 

 

 赤ら顔でにたつくのは一体何を想像しているのやら、恵は多少身の危険を感じ、仲がいいとは言えない薫も心配になった程だ。近いうちに護身術の類を教えておくべきだろうとおせっかいを心に決める。

 

 これが後に近隣の若い女性への護身術講座となって道場を立て直すきっかけにもなるので、人生は常に塞翁が馬である。

 

「あの……剣さん」

 

「おろ?」

 

「左之助の事ですが……」

 

 恵はあれから剣心や弥彦の手当てをしている間も、薫に代わって家事の類を取り仕切っていても、あの喧嘩屋の話は出さなかった。だが、近所で暮らして繋がりが断たれる訳ではないとは言ってもここを出ていくとなればケジメをつけなければならない。

 

「恵殿が気にする事ではないでござるよ」

 

 そう言って剣心は笑う。

 

「…………」

 

 だが、それは果たして優しさだろうか。

 

 恵には、柔らかい壁が彼と自分の間にあるように思えてならない……薫と弥彦にはそうでもないのだろうか? 

 

 緋村剣心は、本当に彼らと気の置けない仲なのだろうか? 

 

 ……いや、これ以上は踏み込むまい。少なくともこれで縁が切れるわけではないのだから、これから彼等とどのように生きていくのか……そこからだろう。ただ、叶うならば償いのつもりでもないが彼らに恩を返したいと思う。

 

 償うのは、他の相手にだ。

 

「……これから、高荷の医術を本当に正しい道で使っていきます。そして……阿片密造の罪、官の裁きから逃げた罪、償えるものでもありませんが……せめてこの街の阿片中毒者となった多くの犠牲者の力になった上で……いつか、彼等の手に裁きは委ねようと思います」

 

「恵殿……」

 

「私の罪がどのように裁かれるべきであるのか……誰にその権利があるのか……それは観柳や左之助……あの男達の言った通りなのかもしれません。もはや何をしようと取り返しはつかず、私はただ私のせいで不幸になった多くの人々やその身内に裁かれるのが怖くて逃げている。白状すれば、今もそれは変わりません。私が日の下でただ笑っているだけでも彼らにとっては理不尽でしょうが……それでも怖くて、逃げ出し、隠し続けたままにここにいる……」

 

 自分を見下げるのは、自分を必死に救ってくれた彼らに対してあまりにも失礼だ。それは彼らの治療に当たって傷の深さを思い知るにつれてはっきりとわかった。彼らに救われたことを重く受け止めなければ彼女は秘かに懐剣で喉を突いていたかもしれないが、無償の善意からなる傷の深さはそのまま彼女を現世に食い止める重しになった。

 

 涙を流す権利はなく、悔やむ権利はもっとない。

 

 ただ、いつか現れる閻魔の前に立った時にどんな顔をしてどんな風に話すのか。それを考えて決めるだけの時間がほしかった。

 

 痛罵にも、痛みにも、そして恐怖にも耐えられるだけの覚悟を決められる強さが欲しい。

 

 覚悟を決める時間をもらえるような悠長さを、被害者一同誰も許してはくれないだろうが……それでも今すぐにそれを口にすることはできなかった。剣心や弥彦、警察署長の骨折りを無駄にはできないと言い訳そのものを必死に免罪符にしようとしている自分の浅ましさに反吐が出るが、それでも踏み出せない自分の弱さに涙も人知れず涸れ果てるほど流した。

 

「……」

 

「ごめんなさい、せっかく門出を見送りに来てくれたのに湿っぽくなってしまって」

 

 神谷道場の三人、ついでに鼻の下をみっともなく伸ばしていた老人も神妙な顔をして彼女を見つめる。彼ら四人の誰も、弥彦は元より薫、そして相応の経験を重ねてきた剣心も酸いも甘いも嚙み分けたはずの老爺も掛けられる言葉がなかった。

 

「それじゃあ、そろそろ行きます。今度の件も含めて、ケガや病気の際にはいつでも力になりますので……そんな機会がないのが一番なんですけどね」

 

「まあ、その時は頼りにさせてもらうでござるよ。弥彦は熱心に稽古をしているので自然と怪我もするでござろうから……」

 

「そんなへまはそうそうしねぇよ。でもまあ、もしもの時は頼むわ」

 

「真面目に剣を振っていれば、怪我はどうしても付き物よ。踏み込みだけで踵を痛めて歩けなくなることだってあるの。いざという時には頼みます……いくらおじいさんでも、男の人より女同士の方がやっぱり安心だし」

 

「儂はいつでも構わんぞ」

 

 気まずくなった空気を壊して、恵は張り付けたような無理な微笑みを浮かべて出発した。

 

 新たな人生への出発と言うにはほど遠い。だがそれが当然だった。

 

 彼女にとって、これは贖罪の為の第一歩なのだから……

 

 それからの彼女は、剣心達が聞くに実によく働いており献身的な程だとか。ただし、訪れる患者に対しては愛想がいい物の若い女としての華やかさはなく、変装の為に伊達の眼鏡をかけて髪は左右でおさげにしてと全体的に地味になっている。喪服のように黒を好んで纏い、その上から西洋的な白い上駆けを着てとこれまでとは別人のような姿だそうだ。

 

「剣心?」 

 

 縁側に腰を下ろし、今しがた干した洗濯物を見上げていた剣心に稽古着姿の薫が声をかける。

 

 薫の眼には、剣心が難しい顔をしてなんだか悩みを抱えているように見えて仕方がなかった。彼はあまりそう言った自分の鬱屈した部分を人に明かさない所がある。それは薫や弥彦を子ども扱いしているからなのか、それとも本人がそういう性格なのかは定かではない。

 

 どちらにしても薫にとっては面白くない話であるのは間違いない。

 

「なんだか、悩んでる?」

 

「……そう見えるでござるか」

 

「なんとなくね。やっぱり……左之助の事?」

 

 剣心が隠すに隠せない程に悩む事などここ最近では他に心当たりはないのだが、剣心はよく晴れた青空を眺めて口元だけ微笑んで否定した。

 

「いや……他の事でござる」

 

「え?」

 

「その根本と言うか……拙者と左之の考えの違い……どうしてあのような事になったのか……それを考えていた」

 

 それはやはり、薫が見た左之助最後の背中が語っていた事だろう。

 

「まさかあんな事になるとは思っていなかったわ…あの時の口論の事ね?」

 

「ああ……左之助の言っている事もわかる。だが、拙者はそれでも恵殿を悪党の仲間ではなく観柳の被害者の一人としか見えない。信じていた医師に騙され、その医師も目の前で殺され、力づくで愛する家伝の医術を否定する阿片づくりを強制された。それを思えば、どうしても彼女を責める気にはなれなんだ」

 

「そうね。結局は恵さんも周りの悪党に振り回された被害者だとは思う」

 

「だが、それは拙者の考え。阿片で苦しんだ身内も友人も持たない、見た事さえないからこそ言えるようなセリフに過ぎなかったのでござるな。左之の立場から……あるいは友人どころか身内であれば、拙者の考えは認め難い物であろうなと……それはそれで一つの事実であった」

 

 ならば、あの夜に左之助にぶつけた言葉は無神経であったのかもしれない。

 

「しかし、ではどうすればいいのかと考えると……結局は助けに行く以外は選べないのでござる。ならば、拙者たちの仲違いも仕方がないのかと諦めのようなものを感じてしまうのでござるよ」

 

「そういうのって、よくないわよ」

 

 薫にしてみると、仲を違えるのも縁が切れるのも仕方がないと言う剣心の浮草じみた考えだけは受け入れがたい。 

 

「仲たがいをそのままにしてどうするのよ。それじゃあ、いつか一人ぼっちになってしまうわ」

 

 説教臭い事を口にしている自覚はあったし、利いた風な事を言って嫌われたならばどうしようと言う怯えもある。だが、それ以上にこのままほっておくのはよくないとしか思えなかった。元々強く気にかけている剣心がここを出ていってしまうのではないのかという怖れが、今回の事件で大きくなった。

 

「ひとりぼっち、でござるか」

 

「そんな風になりたいわけじゃないでしょ」

 

 口に出してはそう言ったが、実のところ彼女はそう思っていなかった。剣心はおそらく、一人になっても誰かを助けるための戦いを続けるのだろうと確信を抱いている。

 

 それはそれで剣客としては一つの浪漫であるのかもしれないが、薫にはそんな生き方がいい物だとは思えなかった。剣心の卓抜した剣腕でなければあっさりと彼岸の彼方に旅立って然るべき生き方である。

 

 薫はそんな危なっかしい生き方をしてほしくはなかった。それが彼女の押し付けに過ぎず、薫には剣心の人生に嘴を挟むような権利はないのだが……

 

「……確かにそうでござるが、拙者もこの生き方を半端な覚悟で選んだつもりはござらん。自分なりの剣を振るい、そして一人になってしまったのであれば……あるいはそれも仕方がない」

 

「剣心!」

 

 薄情と言えば薄情極まるセリフに思わず食って掛かった。

 

 このままの剣心では、いずれ自分が置いていかれる。きっかけがあれば、いずれどこかへと一人去っていってしまう。薫が最も恐れているのはそれだった。以前、ちょうど今回の事件前にも弥彦には心配性だと呆れられたものだったが、やはり自分の懸念は的を射ていると確信する。

 

「左之助のいう事は確かに間違えてはいない。しかし、拙者も自分の道が間違えているとは思えない。では、一体どうすればいいのか……その答えが見つからず。十年もこの生き方を選び、日本中を旅して剣を振るってきたというのに……全くもって情けない事でござるよ」

 

「…………」

 

 薫には剣心と言う激動の時代を生き抜いてきた男の助けとなるような気の利いた言葉が思い浮かばなかった。それなりに苦労人ではあるが元々そう言う気質の少女ではなく、むしろ剣心達のように不器用な剣術小町である。

 

 こういう場合、恵であれば彼の力になるような励ましの言葉を出せたのかと多少ならず僻みをこめて器の小さい事を考えてしまい自己嫌悪を抱いた。

 

「だったらまず、話し合いなさい! 左之助と!」

 

 情けない事ばかり考えて自虐などしている場合ではない。これは、活人剣を志す自分にとっても命題と言えるはずだ。

 

 そう自分に活を入れた神谷薫師範代殿があれやこれやと頭から湯気を出しながら考えをまとめようと必死に知恵を絞りだす。雑巾の様な感じで脳みそを絞ってみるが、とどのつまりこれは彼だけはもちろんの事、彼女が加わってもどうにかなるような話ではない。

 

 当事者が二人揃って、腹を割って話しあってこそ初めて解決する問題だ。どう解決するかはわからないが、このまま一人で悩んでいてもろくな結論は出ない。

 

 そもそも、意見を違えればお互いに納得のいくまで話し合うのが当然の流れ。こんな所でうじうじと考え込んでいてもらちが明かないという物だ。

 

「二人でとことん膝を突き詰め合って、話し合って、それで納得いくまでとことん言葉を尽くすのがまず始めでしょう。それでどうにかならないような二人とは思えないわ」

 

「……実は昔、それで師匠相手に大喧嘩をした挙句に破門されたのでござるが…」

 

 この場合、師に問題があったのか弟子に問題があったのか。喧嘩両成敗で片づけていい物かどうか疑問が残る。

 

「だったら! 今度こそきちんと解決しなさいよ! 若く見えても、もういい齢なんでしょうが! 師匠と喧嘩したって維新前の今の私よりも子供だった頃でしょ!? それから全く成長していないって訳でもないでしょう!」

 

「おろ!?」

 

 なんというか、見たくもない現実を直視せざるを得ないような酷い事を言われてしまったが……まあ、言わんとしている事はわかりたくないものの分かってしまう剣心である。

 

 確かに、師匠と喧嘩別れしてからもはや十五年近くにもなろうか。そのまま同じ事を、しかも年下の左之助を相手に繰り返すと言うのはとても情けない事である。

 

……ここらで交友関係に対する姿勢を改めて考え直し、仕切りなおすべきなのかもしれない。そう考え、さて仕切りなおすと言ってもどうすればいいのやらと普段考えてもいなかった方面を改めて考えるが全く知恵が出てこない。

 

 そんな折、塀の向こう側を何やら騒々しい足音とがなり声で駆けてゆく複数の男達が現れた。

 

「な、何事?」

 

「どうやら警官のようでござるが……」

 

 二人思わず目を合わせると、壊れた塀の間から顔を覗かせてみる。だが、ちょうど曲がり角に消えていく制服の後ろ姿が見えるだけだった。

 

「……随分と物々しい様子だったわよね。物盗りかなんかかしら」 

 

「……少し気になるでござるな」

 

 またいつもの癖が出てきた剣心だったが、薫が困った顔をして腰の物を指さす。

 

「廃刀令違反者が顔を出したら、警官だって困ると思うわよ」

 

「むむ……」

 

 それを言われると弱い剣心であった。

 

 確かに、何やら事件だとしてもそこに自分が首を突っ込んでは逆に騒ぎを助長する可能性が高い。それで事態の解決が遠ざかってしまえば本末転倒である。

 

「……少し様子を見るべきでござるかな」

 

「気になるなら、私が見に行ってみようか?」

 

「いや、拙者もそうだが薫殿もまだ警官は少々苦手ではござらんかな」

 

 神谷活心流の名を騙った辻斬り騒ぎで、騙りを真に受けた警官たちのせいで神谷道場と警官の間柄は友好的とは言えない。その後も剣客警官隊とやらが剣心の廃刀令違反にかこつけて殺人を愉しもうとした際に巻き込まれた薫もリボンを斬られるなど、全くもって碌な目に合っていなかった。

 

「……署長さんは悪い人じゃないって事くらいわかったわよ」

 

 濡れ衣抜刀斎事件はともかく、剣客警官隊の際にはきちんと謝罪をしに来た警察署長である。まあ剣心自身の雷名と、その事件で再開した剣心の旧友が政府高官だからであるが……

 

「まあ、このくらいならいつもの事だし……そんなに気にする事でもないとは思うけどね」

 

「そうでござるかな……」

 

 確かに、少し威勢がいいだけなのかもしれない。言われてみればそんな気がしてきた剣心は、街に出た際にちょっと調べてみるか……程度の気持ちで済ませた。

 

 その翌日、街へと三人そろって買い出しと外食に出かけたところで一同目を丸くしてあんぐりと口を開ける羽目になるとは想像もしていなかった。

 

「………」

 

「……」

 

「…………」

 

 三人が間抜け面の見本市を広げているのは、とある街角に立てられた江戸の頃からあまり変わっていない立札の前であった。

 

 大工が作ったとは思えないような出来の札に貼られた安っぽい半紙には見覚えのある男の顔……なのかもしれない人相書きが書かれており、大きく名前も書かれていた。

 

「相楽左之助……って、何これーっ!」

 

「このトリ頭の間抜け面……もしかしなくても左之助の絵か!? 一体何をやったんだよ!? 喧嘩はいつもの事だろ! 食い逃げか!?」

 

「いやいや、いくらなんでも食い逃げで人相書きまでとは……それに、赤べこにはツケにしているときいているでござるよ」

 

 ちょっと距離を置いている間に何があったのか、三人揃って目の玉ひん剥かんばかりになりつつもどうにか落ち着きを取り戻して立札の字を読み上げる。

 

「おい、なんて書いてんだよ。あ、ひょっとしてお尋ね者じゃなくて尋ね人とか……無理か」

 

 ちなみに神谷道場に来るまではいろいろと生活環境に難があった弥彦にとっては、まだ難しい文章だった。

 

「間違いなくお尋ね者扱いで指名手配でござるな……だがどうにも曖昧でござる。何やら警察関連で無体を働いた……と書かれているでござるが、さて無体とは何をどうしたと言う話が全くない。もちろんこんな立札に事細かく書くものでもないし、捜査の状況は内密にするべきところも多いのであろうが……」

 

 いくら何でも曖昧に過ぎる。

 

 少なからずきな臭さを感じた剣心達が顔を見合わせて身を翻し、その場を去ってからどのくらい時間が過ぎただろうか。

 

 人通りの多い白昼の街中で、奇妙な現象が起こった。

 

 突然、通りが静かになったのだ。

 

 まるで人のいなくなった真夜中のようだが、お天道様は月の出番はまだまだ先だと東京を照らしている。そもそも、人は往来のそこら中に立っている。

 

 彼らは互いの顔を見合わせていた。

 

 訳も分からないままに急に静まり返った往来に驚き、しかし何故だか自分自身も声を出す気にはなれず、一体何があったのかと周りを見渡せども目に付くのは自分と同じような戸惑う顔ばかり。いや、よくよく見れば誰も顔色が悪く極端に青ざめて引き攣っている。

 

 男も女も、子供も老人も、誰も彼もが区別なくそうだった。

 

 年寄りの中には大名行列に出くわしたようだと思った者もいた。

 

 若者の中には、幕末の京都のように、あるいは最近二回ほど耳にした黒笠や人斬り抜刀斎のように恐ろしい人斬りでも出たのかと思った者もいた。

 

 皆、なんとなくわかった。

 

 こいつら、怖いんだ。そして、きっと俺も同じ顔をしているのだ。

 

「……」 

 

「……」

 

 歩く足音さえも気にかかるほどで、お互いに何があったかと問いかける声を出すのも憚られる。

 

 そんな押しつぶすような沈黙が訳も分からないままに人を支配している。

 

 蛇に睨まれた蛙。これは正しくそう言った人々の集まりであり、どこかにいる恐ろしい蛇が蛙どもを眼光で支配していた。

 

 これは一体なんだ。いったい何が起こっている。化け物でも出たのか、この道のどこかに、今、化け物がいて俺たちを見据えてエサにしようと舌なめずりをしているのか。

 

 哀れな蛙たちは、本気でそう思った。自分たちの背後に、あるいは頭上にとても恐ろしい何かがいるのかと疑わずにいられなかった。

 

耐え難い沈黙の中でずちゃり、と音がした。

 

「!」

 

 誰だ。

 

 物音をたてた命知らずは誰だ。

 

 ありがとう、お前が食われている間に俺たちは逃げるぞ。

 

 そんな浅ましくて情けない命乞いを、彼等は一人の例外もなく明け透けに思い浮かべた。 

 

 だが、彼等の誰一人として走り出せはしなかった。代わりに……身体が急にガタガタと震えだす。

 

 走るどころではない、まるで熱病にかかって死の一歩手前に至ったかのように五体が細かく痙攣し始めたのだ。

 

 いったいこれは何だと、声を出せるものなら悲鳴を上げて助けを求めた事だろう。大柄な男も小さな子供も等しく訳も分からないままに震え、それが恐怖を呼び起こして更に震えが増している。

 

 ああ、歯が鳴りそうだ。かちかちとなりそうだ。やめろ、静かにしていろ。

 

 “俺は死にたくないんだ!”

 

 この震えが、彼等自身の認識を越えて肉体が“恐ろしいもの”を察知しているからこそ起こった生物としての本能に端を発するとは誰もわからない。そして、彼等の誰一人として気がついてはいなかったが、いつもなら通りに屯している野良猫に野良犬が一匹もおらず、路地裏にネズミさえいない。

 

 それどころか、青空に小鳥一羽さえ飛んでいないのだ。

 

 全て、彼らが震えるよりも先に一斉に逃げ出しているのだと誰も知らなかった。

 

 あらゆる生物が備える、震える彼等のそれよりもよほど鋭敏な生存本能が彼らの足にエサも縄張りも放棄して逃げ出せと強く訴えかけてきたのだ。

 

 逃げ遅れ共の耳に、もう一度ずちゃりという音が聞こえてくる。

 

 何の音だ。

 

 もう一度、そしてもう一度同じ間隔で聞こえてくるそれが足音だと……普通はすぐに気が付いて当然のはずなのに人々はなかなか気が付けなかった。気が付いてからは本気で、見た事もない虎……それも牛よりも大きい本来はあり得ない巨虎を想像した。

 

 だが、足音の主を誰も見られなかった。怖くて足元しか見ないようにしているからだ。

 

「いけねぇなぁ……久しぶりの日本でちょいと気が昂ったか……」

 

 声が聞こえる。

 

 太い男の声だ。太くて、芯にどう猛さが籠められている怖い声が聞こえてきた。

 

「皆の衆……楽にしていい」 

 

 その“誰か”がそう言った瞬間、全員一声に震えが止まった。女子供、老人は悉く膝を突き、全員がどっと冷や汗を玉のようにかいている。

 

 それぞれが青ざめた貌を見合わせ、そしてゆっくりと、おそるおそる声のした方へと目を向けた。

 

 そこには、一人の男がいた。

 

 血のように、あるいは火のように赤い髪が鬣のように翻る浅黒い肌の男だった。西洋風とも少し違うが、日本のそれとは明らかに異なる黒衣で身を固めた大きな男が道の真ん中で仁王立ちしていた。

 

「騒がせた」

 

 殿様のような態度が板についていた。堂々としているなどという言葉では陳腐にしかならない。

 

 背丈は驚くほどに高く、肩幅も広い……周囲の男と比べて、二回りは大きいだろうか。力士なら同等の巨漢がいるのかもしれないが、力士と違うのは肉体を構築しているのは悉く鋼の糸を束ねたような太くしなやかな筋肉ばかりという点だろう。短い袖から伸びる太い腕がそれを物語っている。一見してだが柔らかさなどどこを探してもないと言う風だ。

 

 手も、足も、それらが支えている胴体も、首も、五体の悉くが鋼のように太く、強く、それでいて柳の枝のようにしなやかな印象を受ける。

 

 人の形をした猛獣、虎でも熊でもない、彼等の知らないこの世で最も強くて大きい血に飢えた獣が人になって現れたかのような……そんなおっかない男だった。

 

 それまで目を逸らしていた一同は、一度目を向けてしまえばもはや逸らす事など出来るわけがないとびくつきながら男を見つめる。慣れているように男はそんな衆目を咎めない。

 

 逞しさと精悍さのさらに上にある要素が結晶となっているような顔を皆は見た。ただそこに立っているだけだと言うのに、これから先のそれぞれの人生の中でどんな事件があっても一生忘れる事はない顔だった。

 

 にい、と笑う顔は牙を剥き出しにしているようにしか見えず、犬歯は牙のように鋭い。

 

 鬼。

 

 期せずして誰もが、この男を指して日本古来の最も有名かもしれない妖怪を思い浮かべた。

 

 おとぎ話の絵巻物の向こう側から、伝説が顔を出した。

 

「くく……」

 

 鬼が声を上げて笑った。顔を向けられていた方向にいた全員が顔を青ざめさせて、腰を抜かしながら悲鳴を上げた。手足が動くのに気が付いて、そのままみっともなく尻に帆をかける。それを追いかけるわけでもないだろうが、真っ直ぐに足を進める。大股で力強く、それでいて柔らかい足取りは見る者が見ればあまりの隙のなさに驚いただろう。

 

「あのガキめ……俺の帰国は教えておいただろうに、一体何をしでかしやがった」 

 

 男は先ほどまで三人の男女が立っていた立札の前で仁王立ちとなり、小ばかにしたように笑った。

 

 幕末の鬼、範馬勇志郎……ここに帰国。

 

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