るろうに範馬   作:北国から

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 しばらくぶりのるろうに範馬。

 今回も範馬一人もおらず。代わりに出てきたのは糸目警官とでこっぱち。

 ところでこのでこっぱち史実の人で、実はヨーロッパで新聞沙汰になったことがあるらしい。

 しかも、列車の窓からう〇こ放り出したから……

 初めて知った時、笑うに笑えませんでしたわ……


喧嘩屋対明治政府

 相楽左之助、指名手配。

 

 その辺りの事情は、世間に公表されず隠されていた……のだが、実のところ公然の秘密と言う形で左之助の住んでいる破落戸長屋では誰もが当たり前に知っていた。

 

「まあ、あの左之さんが関わって、しかも喧嘩でそんな大人しくこそこそできるわけないもんなぁ……そもそも隠すつもりは無いだろうからなぁ」

 

 左之助が指名手配のお尋ね者になったと聞いた神谷道場の一同、三人足並み揃えて駆け付けたのは、もちろん彼の塒であったが……そこはなんともぬけの殻どころか一目瞭然、散々に荒らされている無残無残な有様となっている。

 

 あまりの姿に唖然としている薫と弥彦をさておいて、冷静さを一瞬で取り戻したのはさすがに場慣れしている緋村剣心である。

 

「……随分荒らされているでござるな……徹底して物がないのは、物取りの仕業と言うよりも警官の仕業でござるかな?」

 

「……左之助が指名手配だなんて……まさか、阿片の件で?」

 

「だったら左之助一人ってのはおかしいだろうがよ! 普通に考えて、恵も含めて俺ら全員お縄だろ!?」

 

 明治の頃では、阿片密造犯の恵は元より事情を知らないまま彼女を匿った薫や子供の弥彦もただでは済まない。

 

 廃刀令違反者の剣心は猶の事だが、彼の場合は明治政府のご重鎮方がなんとでもしてしまうだろう……さておき、確かに先の事件は関わりないのではないだろうか。

 

「左之助なら、どこかで警察ともめてもおかしくはないのかもしれないけど……」 

 

「ともかく、長屋には左之助の知人がいるはずでござる。そうでなくても事と次第を知っている面々もいよう。話を聞かせてもらえればよいが……」

 

「警察がらみの事件じゃ、みんな口を噤んじまうんじゃないか?」

 

 弥彦の危惧は剣心も同様に抱いていたが、結果的にそれは杞憂だった。

 

「ああ、それな。別に元々物がないだけだよ」

 

 いたってあっさりと目撃情報は集まってしまった。

 

「……ああ」 

 

「……喧嘩屋だもんな」

 

 ご近所さんからのさらりとした一言に深く納得できたのは風評被害の一端ではない。

 

 さておき、貧乏な相楽左之助の身に何があったのかを聞けそうなのは有り難いと左之助の舎弟という男に話を聞いた剣心達だが、どうにも素直に飲み込めるほどうまい話ではなかった。  

 

「あの日、夜更けに急に大きな音がしてなぁ。いったい何事かと思ってみんなで飛び出してみたら、警官が何人も空を飛んでやがんだ」

 

「……空?」

 

「ほれ、あれだ。子供が人形ぶん投げるみたいな感じか?」

 

「薫が子供の頃やっていそうだな」

 

「やるか!」

 

 ぼかりと一発。しかし薫と弥彦もそうだが、この舎弟と言う男も兄貴分が指名手配されたと言うのに悲壮感が全くない。

 

「そんで、周りを見てみれば先に地べたに転がっている警官が二、三人いたかな。飛んできた先を見てみると、左之さんの部屋だ。こりゃ、誰がやったのかはすぐにわかったよ。出てきた左之さんはエライ不機嫌な顔をして“警官様が夜襲とはいい根性してやがるなぁ!”なんて大声あげたから、何が起こったのかは一発でわかった」

 

 ずんずんと大股で肩をいからせながら出てきた左之助は、おそらく寝込みを襲われたのだろう。不機嫌さに人相を悪くさせながら周囲を見回している様は虎か熊か、猛獣の類を思わせたそうだ。

 

「では左之はここで警官たちと戦ったのでござるか?」

 

「そうだな。だがまあ、どうしてかなんて知らないよ。左之さんもわかっていないからな」

 

「はあ!?」

 

「出てきた左之さんも、どうしてそんな事になったのかは全然知らなかった。他を見回しても、左之さん以外に手を出されたのはいないから狙われたのは間違いないけど、理由はさっぱり……どうせ問答無用だったんだろ? 周りにいる連中を叩き起こして事情を聴こうとしてもうんともすんとも言わないんでどうしようかと思っていたら、なんだか毛色の違う警官が顔を出したのさ」 

 

 その男は他とは佇まいからして違う、よく鍛えられている長身の警官だった。

 

 煙草をくわえながら、倒れてうめき声も上げない警官たちで死屍累々の有様の中で恐れる様子もなく一目で下手人と分かる左之助へと歩み寄った。

 

「阿呆が……先走って手柄を求めた挙句にあっさりと返り討ちとはな……抜刀斎に負けて隊を解散させられたおかげで、焦っていたにしてもなんてお粗末な様だ」

 

 足元に転がるお仲間に向けた目には情もへったくれも全くなかった。怖い目だった。

 

「とはいえ、一応はここらでも腕のたつ方だった元剣客警官隊が寝込みを襲った上であっさりと返り討ちか」

 

 警帽をどこにやったのかむき出しになっている撫でつけた髪の下で妙に細い目が左之助を見据えているが、瞼の間から覗く眼光が鋭くも険しかった。まるで鋸の刃のようだった。

 

 物音に引かれてそこかしこから顔を覗かせた長屋の一同からしてみると、悪一文字を見据える眼がぎらぎらと闇夜に光っているように見えてならなかった。

 

「ほう……今夜はこの男が相手か。さてはて、こいつは一体どこの何者かのう」

 

 そんな彼らに混ざって、一人異彩の老人が地べたに座り込みつつ楽しそうに笑っている。仕立ての良さが長屋の貧乏人共とは二味以上は違う彼は、そこらの者に注目されていてもおかしくはなかったが、奇妙な事に誰も彼を見てはいなかった。まるでいない者のように扱われていても、その老人はいたって平気な顔をして笑っている。

 

 ぬらりひょんのような老人だった。禿頭で小柄で、ぎょろついた目も人間離れをしていてそれらしい。

 

「誰だ、てめぇ。このお粗末な夜襲の仕掛け人か?」

 

「生憎と、俺もお粗末な夜襲の一端だ。半分は成り行きだがな」

 

 男は面白くもなさそうにそう言った。鋼のように低く男らしい声だった。

 

「で? 裏稼業とはいえたかだか喧嘩屋の青二才相手に警官が五人も六人も……それも、正面から逮捕しに来るんじゃなくて押し込み強盗よろしく寝込みを襲うたぁ、いくら何でも滅茶苦茶じゃねぇか。いったいどういう了見でぇ」

 

 どういう了見だろうと拳に物を言わせてくれるとぎらついた目が語っているが、そんな恐ろしい男を一瞥して怯む様子も全くない警官は珍しい紙巻き煙草を口から離すと紫煙を吐いた。

 

「そいつはすまなかったな。しかしこいつらが貧弱と言っても随分なやられようだ。少しやりすぎだな……公務執行妨害の現行犯……まあ、このまま大人しく檻の中に入ってくれれば痛い目を見ずには済む」

 

「上等だッッ!」

 

 拳を打ち合わせる左之助はもちろんふざけた真似をしでかした警察などに従うつもりは毛頭ない。自分たちの行いをしれっと棚に上げた警官もそれは重々承知だろう。

 

 その上で抜かした台詞の意図を、喧嘩屋は的確に読み取ってみせた。元より他の考えなど全く持っていなかっただけでもあるのだが、ともかく双方の意図は一致する。

 

 また、左之助は元よりどうやらこの警官も力づくで話を進めるのが大好きな野蛮人であるようだった。見ているぬらりひょんとしては大いに結構と期待感に胸を膨らませること受けあいであり、実際にその通りであった。

 

 拳骨を握った左之助が様々な鬱憤と怒りに任せて、一気呵成に殴り掛かる。問答無用の見本として打ち込まれた拳は勢いよく踏み込まれているが……心身に余計な力みが入って伸びがなかった。

 

「おおらぁっっ!」

 

 ここしばらく腹の中に溜まっていい加減に凝り固まりつつある程に淀んでいる黒くて苦い物が、彼の手足を縛っている。

 

 大げさな叫びとは裏腹に彼の拳打は本来の姿とは程遠い有様で、いっそみっともないと言えるほどだった。しかし、どうした事か右の拳はあっさりと警官の顔面を捉えてみせる。

 

「!」 

 

 拳から脳天にまで一瞬で伝わってきた感触が自分の拙さを余す事無く伝えてくるのだが、それが相手に命中したのが意外を通り越して不信だった。

 

「なるほど、喧嘩一番と噂されるだけあってまあまあの拳をしているようだな。喧嘩屋の相楽左之助」

 

「ちっ……てめぇ、試しやがったな」

 

 コケにされたとますますいきり立つ喧嘩屋だったが、同時に自分の無様な拳を自覚もした。勢いもなく、力も速さもなく、急所も捉えられなかった。近年稀に見る不細工な拳だった。

 

 頭を冷やすまでもなく、強制的に冷や水をかけられたような気分にしてくれる情けなさに恥ずかしくなる。これを師匠に見られていれば、殺されるどころか殺しもしてもらえずに見捨てられるだろうと確信できる。

 

 何しろ、命中したにも拘らず平気な顔で“まあまあ”扱いされているのだから。

 

 情けない、情けない、みっともねぇッッ!

 

 憤りが自分自身を罵り、その全てが燃料となって五体に活を入れる。今の情けなさは、偉そうなこの警官に吠え面かかせた上で勝たなけりゃ取り戻せやしねぇッッ!

 

 ぎり、と歯軋りをしている左之助を他所に警官は腰から得物を引っこ抜いた。

 

 洋装の警官であるにも拘らず、日本刀だった。転がっている他の警官たちは軍刀を持っているが、彼だけは敢えて日本刀を持っている。

 

「わざわざ日本刀かよ……てめぇ、もしかして幕末の生き残りかなんかか?」

 

「まあ、そんなところだ」

 

 警官はそう言うと右手を前に出して、左手には刀の柄尻を握って弓を引くように構えた。右手は刀の峰に添えられており、刀を銃弾のように発射する姿勢にも見えた。

 

 これから真っ直ぐに突くぞと、大きな声で主張しているような構えだった。

 

「お前の拳は所詮そこそこ程度。太平の明治ならばともかく、幕末の京都では……通用しない。それを教えてやろう」

 

「ッッ!」

 

 言葉が消えるよりも先に、警官の五体は撓めたその身に蓄えた力の全てを真っ直ぐに発揮してみせた。

 

 一直線に踏み込み、最も理想的な形で体重を乗せて前に突き出される一本の白刃は例え鋼でも貫ける。圧倒的な速さは目にも留まらぬ物だったが、万が一にも見えていたならば第三者の長屋の住人達も確信しただろう。

 

 ただ突き出しただけでは、型をなぞっただけでは決して得られないと確信を抱く事が出来る徹底的に鍛え抜いた片手突きは一体何十年そればかりを磨きぬいてきたのか……理解できる強者ほど感じ入った事だろう。

 

 技こそ至極単純だが、これは正しく鍛え抜き磨き抜かれた達人の技。

 

「だからなんだってんだ!」

 

「!」 

 

 その一突き、喧嘩屋が見事に捌いてみせた。

 

 素手の掌を複雑に回してみせる事で真っ直ぐに突きかかってくる白刃を逸らし、しっかと回避してのけた。向こうが強者ならばこちらも強者だった。

 

「……」 

 

「ちいぃッッ!」

 

 交差した双方、背中合わせに相手を睨みつける。警官の目が鋭く細まり、喧嘩屋もまた悔しそうに舌打ちをしたのは今の一合が互いに不本意と語っている。

 

 突きという物は斬撃と違い点の攻撃であり、深く抉り貫く事から高い殺傷能力を発揮すると同時に回避はさておき防御は難易度が高い。更に今は夜……乏しい光を反射して目立つ白刃と言っても昼日中に比べて明らかに有利な条件下で捌かれた。 

 

 その事実は受けるどころか躱す事さえ許さないつもりの警官にとっては不本意極まる。同時に左之助にとっても捌けはしたもののぎりぎりで、相手が油断している絶好の機会に交差法の反撃が出来なかったのは未熟の露呈以外の何物でもなかった。

 

「左の片手平突きか……外連も含みもないわかりやすくも鋭い剣術じゃのう」

 

 面白そうに独りごちるのはぬらりひょんである。剣術に関しては格闘技ほど明るくない彼だが、痩せても枯れても徳川は徳川と言い切るだけあって相応の知識はある。そんな彼から見て警官の一閃は珠玉だった。

 

「そしてそれを捌いた喧嘩屋の廻し受け! どうやらあれから随分と研鑽を積んだようじゃの。白刃を捌き切るなど例え神心会の高段者でもできる者はそうそうおらん! 絶対と言い切れるのは、せいぜい独歩や克己君くらいじゃろうな」

 

 感じ入ったようにうんうんと一人うなずいている。斬ったはったの修羅場を見物して楽しんでいるとは困った爺様である。

 

「それにしてもこの男は何者じゃろう? 警官らしいが名前もわからんではいまいち……神谷家の記録を後でもう一度さらってみるか」

 

 そんな事よりも目の前の勝負である。

 

 あれこれ考えていては、刹那の内に流れが変わるせっかくの勝負を見逃してしまうではないか。

 

「……次は逃がさねぇぞ」

 

「想定よりは多少できるようだが……その程度で図に乗らない事だ」

 

「でけぇ口は一つくらいいいところを見せてから叩きな」

 

 す、と剣士が目を細めて“図に乗るなよ”と語るのに合わせて喧嘩屋もまた構えを整える。“だったら高いところから叩き落してみせな”と目で語りつつ見せたのは、河原で剣心と喧嘩した際に見せた構えだ。特に習ったわけではないが、いろいろと試行錯誤をしている内にいつの間にか出来上がったこの構えは左之助にとって一種の起点になっている。

 

「……行くぞ」 

 

「律義じゃねぇか。さっさと来いやぁッッ!」

 

 両雄並び立たず、今一度交錯する拳と刀か……そう思われて固唾をのんだ見物人(ぬらりひょん含む)達だったが、一斉に聞こえてきた笛の音と騒々しい程の足音に空気は粉々になるほど破壊されてしまった。

 

「ここだ! こっちにいたぞ!」

 

「藤田警部補! ご無事でしたか!」

 

「元剣客警官隊の連中が叩きのめされているぞ!? うわあ、酷い顔……なんて有様だ……ざまあみやがれ!」

 

 どたどたと足を鳴らして一斉に駆け付けてきたのは応援の警官隊だった。手には長い棒を持ち、あるいは軍刀を持って左之助を取り囲もうとしている。彼らに割り込まれ、左之助と警官の間の距離は大きく開いた。

 

「けっ……他にもこんなにいるのかよ。一体全体、何を考えて羽虫みてぇによってたかってきやがる」

 

「誰が羽虫だ、この凶悪犯め!」 

 

「誰が凶悪犯だってんだ」

 

 不満どころか呆れてさえいる左之助だったが、それを聞きつけたらしい胡麻塩頭の警官がへっぴり腰の青い顔をして叫びだす。

 

「貴様の逮捕は警視総監直々のご命令なんだ! そんな奴が凶悪犯じゃない道理があるか!」

 

「警視総監だぁ?」

 

 そんなもんは新聞に載っている以上の繋がりはない左之助である。いったいなんだってそんな奴が自分の逮捕なんぞ命令してくるのか。

 

「たかだか喧嘩屋一匹に御大層なもんじゃねぇか」

 

 肚が決まった。

 

 目の前にいる偉そうな警官も叩きのめしたいと思うが、どうやら自分に手を出してきた根っこであるらしいそいつとの話が先だ。それに、今の警察機構のお偉方となると……どうせ維新志士だろう。

 

「ふうん。つまり、そいつを締めあげればいろいろ捗るってこっちゃねぇか」 

 

 にやり、と笑った左之助の放言に、その場の誰もが唖然とした。

 

 警官たちも、長屋の住人たちも、その中で特に左之助と親しくしている仲間たちも、皆が揃ってぽかんと大口を開けている。それこそ左之助の大口に負けてたまるかと言わんばかりだ。

 

 それは左之助に突きを食らわせてきたあの警官も同じだ。さすがに間抜け面を晒すほどの抜け作ではなかったようだが、深々と紫煙を吸い込んで、吐き出す。

 

「……馬鹿の類か」

 

「できねぇと思っているんなら、せいぜい間抜け面のまま見物していろや」 

 

「……口先だけは大きい……と言いたいところだが……貴様には聞きたい事がいろいろとある。そもそも貴様を捕らえるのが俺の任務だ」 

 

 そう言うと、男は囲みの間をすり抜けてからもう一度刀を構えた。全く同じ構えだった。

 

「聞きたい事だぁ? こんだけやらかしといてどの面下げて抜かしてんだ。維新志士様よ」

 

「生憎と俺は維新志士じゃなくてな」

 

「はっ! 維新志士の飼っている犬には変わらねぇだろうが。そこに生ごみが溜まってっからエサにしたらどうだ? 最も、飼い主様にご立派なエサを恵んでもらっている犬っころのお口にはあわねぇか」

 

 ガラの悪い挑発はいかにも安っぽい物で、目の前の警官がひょいひょい乗るとは到底思えなかった。そこらのチンピラなら簡単に乗るだろうが、この警官……いいや剣客はそうではない。

 

 先ほど見せた驚くほどの一閃に端を発する強烈な武力と、それに支えられた自負。こんな安い挑発に乗るはずがないのだ。

 

「犬か」

 

 白い煙が長屋から漏れ出る光に照らされている。

 

「生憎と、俺は犬ではなくてな」

 

 その煙の形がどこか獣の影のように見えて、長屋の住人が自分自身の目を疑った。

 

「エサで飼う事はできん」

 

「へっ……エサじゃなければ一体何で飼われているンだ」

 

「何も」

 

 煙の向こう側で隠し切れない白刃の煌めきが輝いている。

 

「犬はエサで飼えるだろうが、壬生の狼は何者も飼う事は出来ん」

 

 その白刃が今一度喧嘩屋を目掛けて襲い掛かってくる。

 

「ッッ! つおぁあッッ!?」

 

 技は先ほどと同じ、芸も糞もない左片手の平突き。だがしかし、明らかに先ほどよりも速い。受けも躱しも出来はしないと豪語してもいいだろう技に喧嘩屋は果たしてどう対処するのか。

 

 後ろに引く? 追いかけられて御終い。

 

 横に躱す? 早くて間に合わねぇッッ!

 

 受ける? 素手でできる速さじゃねぇッッ!

 

 耐える? それしかねぇのか? それしか出来ねぇッッ!

 

 聞いている人間に腸の底からうすら寒い震えを齎す鈍い音がした。どしゃり、と聞こえもしたが人によってはぐちゃり、とも聞こえた気もした。そんなような音だ。

 

 藤田という男の突きが左之助の腹に深く突き刺さっていた。そのまま両名は絵のように固まり、見ていた長屋の住人達も警官たちも、身動きさえできず呼吸だけを許されながら灯の明かりにゆらゆらと揺れる二人の影を見つめ続けている。

 

「左之さんッッ!」

 

 左之助の舎弟だろうか、若い男が甲高い悲鳴を上げた。

 

「ッッ!?」

 

 叫びに反応したのは喧嘩屋ではなく警官だった。

 

 はらわたに突き刺した白刃を眉一つ動かさずに抜こうとした剣客だったが、そこで初めて顔色を変える。

 

 抜けなかったのだ。

 

 深く刺しすぎたという訳でもない。そこら中に見物人はいる上にお仲間が土俵のように彼らを囲んでいるのだから、当然その辺りは考慮する。殺すつもりはなかったので、速さはともかく威力は加減した。

 

 抜こうと思って抜けない程深々とは刺していない。いや……そもそも刺した時の感触が……今更ながらおかしい?

 

 それを察した腕を引こうとするものの、刀をおいそれと手放すのはやはり抵抗があった。その躊躇いの一瞬を、敵は見逃さないものだ。

 

「おい……男がそんなたけぇ声出してんじゃねぇよ。情けねぇ」

 

「!」

 

 左之助の声から力が未だに失われていないのを頭で理解するよりも先に無理やりにでも逃げようとしたが、やはり抜けない。ついに刀を手放す決心をしたのは一瞬に満たない時間の経過後だったが、それでも遅すぎた。

 

「逃がさねぇよッッ!」

 

 突き出した左腕は猛禽の爪に食らいつかれているように捕まれ、更に伸びている肘を真っ直ぐ下から突き上げるように殴られた。みしぃ、と嫌な音が体内に響く。

 

 痺れる痛みに反比例して握力が失われ、刀を任意ではなく失意の中で手放す事となる。だが、掴まれ続けているおかげで逃げる事さえ叶わない。舌打ちをする間も惜しんで右の拳で喧嘩屋を殴りつけてやった。

 

 だが、その拳と腹に重い衝撃と鈍い痛みを返されて失策を悟った。

 

 水月に蹴り、拳にはなんと肘を壁として突き返しての交差法で見事に返されたのだ。腹に刃を突き立てたとはいえ、返ってきたおつりが相当に厳しい。

 

「ぬうッッ!」

 

 しかしてこちらもさるものか。痛みを覚える右手を無理やり使い、刺さったままの刀を握りしめる。そのまま横に振り回してやろうかと思ったが、それはさすがにたまらないと喧嘩屋は剣客の手を放して距離をとる。取り戻した愛刀を左手に持ち直しながら、表情を厳めしい物に保ちつつ痛手を確認する。

 

「……しぶてぇな。やっぱ鳩尾じゃなくて金的狙うべきだったぜ」

 

 もうちょい足が長けりゃあよ。

 

 そんなふざけたセリフをにやりと笑いながら口にする喧嘩屋だが、腹に巻かれているさらしは赤く染まっている。対して剣客も出血こそしていないが骨身に染みる大きな痛手は確実に刻まれていた。

 

 おそらく、五分と五分……こちらは時間と共に回復してくるだろうが、向こうは時間と共に不利になるか?

 

「しぶといのはこっちのセリフだ。腹を刺されているのに随分と元気な事だな」 

 

 ぺ、と咥え煙草を地面に吐き捨てる。若造と甘く見ていたのだが、さすがに咥え煙草で余裕を持てる相手ではないと認めざるを得ない……業腹な事だ。

 

「いいのか? そのままやればいずれ腸がはみ出るぞ? 傷ついた腸の中身が腹の中に零れるかもしれん」

 

 心理戦のつもりで少々脅しつけるが、相手はそれに笑うだけだった。むしろ聞いている周りが顔を青ざめさせている。

 

「あいにくと、こちとらの腸にはかすり傷の一つもついちゃいねぇよ。狙いを外したんでな」

 

「……何?」

 

「内臓上げ……って言ってもわかんねぇか。効いていねぇのさ」

 

 それを聞いて喜んだのは、手に汗握っているぬらりひょんである。

 

「ほう! ほうほうほう!」

 

 梟の類に見えるのはぎょろぎょろとしている丸い目のせいなのか、それとも感嘆の声のせいか。

 

「古い空手家は喧嘩の際には金的を体内に隠し、重要な臓器はあばら骨の中で守ったと言うが、なるほどこれも使えるか!」

 

 以前の勝負を見た際から思っていたが、この男の基本はどうやら空手であると言い切ってよさそうだった。

 

「……はらわたをいじくるとはな。その辺りの技も、鬼から学んだか」

 

「ああん?」

 

 柄の悪い疑問符を上げた左之助だったが、彼も今の一言で何とはなしに今夜起こっている事件の裏を読んだ。

 

「……師匠の事を知ってんのか。やっぱてめぇ、幕末の生き残りか」

 

「……直接戦った事はないな」

 

 迂遠だが、肯定した。

 

 それでも今回の事件をどこの誰がどういう意図で描いているのか、大体わかった。じくじくと、刺された腹から急に痛みを訴えられた。

 

「ふざけやがって、腰抜け政府が」

 

 左之助は咄嗟に一番近くにいたへっぴり腰の警官をひっつかみ、そいつを人形のように剣客に向かって投げ飛ばした。

 

「うわわわわっ!?」

 

 迂闊にもあっさり捕まっているのは当事者としての意識がない隙からだろう、無造作に投げられてもあっさりと宙を舞って藤田警部補とやらの足元に転がる。

 

「ちっ……」

 

 舌打ちをせずにはいられない。

 

 その隙に、左之助は煙のように消えていたのだ。完全に見失ってしまった。

 

「あいたた……」

 

 足元で暢気にしている抜け作を罵倒しないのはせめてもの情けか、そもそも構っているだけの余裕がない。

 

「……おい」 

 

「は、はいっ!?」

 

その場の警官は全員彼よりも格下である。今の鋭い眼差しに何を感じたのか、全員揃って直立不動。親父を前にした小僧のように冷や汗をかいて青ざめている。

 

「誰か、逃げる事を見た奴はいるか」

 

「は、はいっ! そこに転がっている竹中を殴り飛ばして走っていきましたぁ! 大通りの方かと思われます!」

 

 自分から報告しろ、すぐに追え。そう言ってやりたかったが、今更だ。愛刀を振って血を落とすと、鞘に納めると剣客としてではなく警官としての意識が強まった。

 

「追え。だがお前たちの手に負える相手ではないのは間違いない。チンピラ風情と侮らず、熊か何かだと思って場所だけは補足し応援を待て……間違えてもこいつらのように手を出すなよ」

 

 ついでに転がっている“こいつら”の治療の手配を指図すると、警官は左之助が立ち去ったと言う方へと目を向けた。

 

 何も言わず、ただじっと佇んでいる男だけの男が一体何を思っているのかなどわからない。わからないが……どうしてだか後ろで慌ただしく動き始めた警官たちも、今までじっと見物に徹していた長屋の町人たちも、誰も彼もが背中や首元にうすら寒さを感じて首をすくめざるを得なかった。

 

「ちっ……」

 

 舌打ちが奇妙に響いた。

 

 煙草を取り出そうと探ったはずの懐が、実はすっからかんであったと今更に気が付いたからだった。

 

「……ってな感じだったよ。どうだ? 俺の語り口もなかなかのモンだったろ」 

 

「わかりづれぇ」

 

「そりゃおめぇがガキンチョだからだよ」 

 

「んだとぉッッ!」 

 

 子猿の縄張り争いのように顔を赤くする弥彦を他所に、剣心の表情はまるで刀を抜いている際のように鋭く深刻だった。

 

「……剣心」

 

「その警官、左の片手で突いてきたのでござるか」

 

「あ? ああ。そっちの手をぐいっと引いてな。それ以外は一切合切、斬ったりしなかったぞ」

 

「長身で、眼は細く鋭い」

 

「……暗かったけど、まあ……背は高かったな。左之さんと同じか? ほんのちょっと向こうが低いくらいかな」

 

 それを聞いた剣心、深刻な色が更に倍以上は増した。とても嫌な予感がした。

 

 何か、大きな事件が自分の預かりしない所で起こり始めている……そんな予感がしたのだ。左之助の件ではない、それはあくまでも兆しに過ぎず……今しがた目の前の男から話を聞いた中で感じた疑問。

 

 形になるほどには何もわからないが、そう思う。

 

「誰か……知っている人なの?」

 

「かもしれんでござる。左之に刃を突き立てるほどの腕前、そして特徴的な平突き……外見的な特徴も含めて、ひょっとするかもしれんでござるが……何分、話を聞いただけでは……名前が違うのは偽名か、それとも今は違う名前を名乗っているのか……本当に他人の空似かもしれんでござる」

 

「ふうん……って、そう言えば左之助、刺されているんじゃない! 大丈夫かしら」

 

 心配そうな薫だったが、その当人がどこにいるのかが定かではないので気をもむ以外の何もできそうにはなかった。

 

「ああ、それなら大丈夫だと思うぜ。その後ですぐに警察署に殴りこんだからなぁ」

 

 こういうのを、西欧では天使の沈黙と言う。

 

 異口同音の奇声が長屋の雑多な空気をさらに攪拌するまで約三秒。

 

「け、けけけ……」

 

「警察署に殴りこんだぁ!?」

 

奇声を上げられるだけ立派な物だろう。

 

「あの野郎、常識ってもんを知らねぇのか!?」

 

「……そー言えば、賭場でそんな事を嘯いていたでござるなぁ……はは……ははは……」

 

 薫などは舌も上手く回せなくなり、もはや笑うような奇声を上げるしかできないような有様である。剣心でさえ、うすら寒い顔をして笑いだす始末。

 

 喧嘩屋相楽左之助、直裁にも程がある。

 

「つうか、それも知らなかったのか? かなり派手にやったから、みんな知っているぞ。お上は隠したがっているけれど、少なくともこの辺の連中は皆知っているよ」 

 

 人の口に戸は立てられぬ。

 

 いつの時代もそれぞれの形での真理である。最も真理だからと言って真実を語っているとは言い難く、戸の向こう側から出てくるのは無責任でいい加減で、面白おかしく好き勝手に飾り立てられた噂だ。大体において、下品な色をしている。

 

「左之さんも喧嘩屋だっつっても……けいしそうかん? よく知らねぇが、警察でも随分上の方にいるお偉いさんに目を付けられるはずがねぇやな。はずがねぇのに実際にそうなっちまったんだから……こそこそ隠しているのもそうだけんど、なんぞお上に後ろ暗いところがあるんだろうけどなぁ」

 

 知ったような口をしたり顔で叩く男を見ていて、弥彦なんぞは大分いらっときているようだった。

 

「……確かに、それはそうかもしれないけど……」

 

「時に、その警察署に殴りこんだところをお主は見たのでござるか」

 

「まあ、そうだな。トンズラした足で、そのまんま殴りこんだからなぁ……俺らも怪我したまま消えた左之さんを探して町中を方々探し回っていたんだ。なんか元気だったけど、腹を刺されちまったからな」

 

 警官よりも彼らの方が左之助の事も街の事もよくわかっている。

 

 だが、彼らが見つけ出した時には既に警察署に飛び込んでいく背中を見たところだったと言う。

 

「猪でももうちょっと物を考えるぜ……」

 

「……やはり、大きな騒ぎになったのでござるか」

 

 一体警察署に殴りこんでどうなったのか。それを話す前に剣心が気にしているのはそんな点だった。

 

「剣心?」

 

「そりゃあな。その前にも大騒ぎが起こっていたんだ。野次馬に警官に、随分な大騒ぎだったよ」

 

「…………なるほど」

 

「剣心? どうしたの?」

 

「いや……町中が知る程の大きな騒ぎであったにも拘らず、なぜ我々はそれを知らなかったのかと思ったのでござる。まるで、誰かが拙者らを事件から離しておきたいような……」

 

「言われてみれば……でも誰が?」

 

「署長のおっさんとか?」

 

 おっさんと言うな、と叱られる弥彦を他所に、話がそれた事を詫びて続けてもらう。今考えても憶測にしかならない上に、それこそ所長にでも聞くのが早道だろう。

 

 おそらく、自分たちの介入を警察組織の何者かが嫌ったに違いない。

 

「そもそも左之助は今、どうなっているのでござるか? お主、消息は?」

 

「……いや? 俺が知っているのは警察署に殴りこんだ所までだよ」

 

 知っているのを隠しているような気もしたが、それらは全て話を聞いてからだ。

 

 左之助はおそらくだが、簡単に腹の傷を治療した後で即座に警察署に殴りこんだのだろう。ちょうどその時、警察署は左之助を探し回っているおかげで手薄だったのだが……剣心達はそこまで考えていなかっただろうと断定した。 

 

「俺らが見つけた時には、もう門番みてぇなのをぶっ飛ばして殴りこもうとしているところだったな」 

 

 まさかまさかの真正面作戦である。

 

「それこそ馬鹿じゃないの!? いくら何でも袋叩きでしょ!?」

 

「…………」

 

悲鳴を上げた薫だが、自分の左右にいる男どもがどんな顔をしているのかは全く気が付かなかった。

 

 そんな彼女の危惧は的を射て……と言うよりもそうなるのが自然であり当たり前なのだが、署内にいた警官たちは砂糖に集る蟻のようにそこら中から集まってきたそうだ。その様子を見ていた彼ら左之助の仲間たちも、元々お上には反発するような境遇の面子ばかりである。この際だ、やっちまえと後先考えるなど男の恥と言わんばかりの勢いで加勢しようとしたのだが、当の左之助から手出し無用と止められた。

 

「そんな、左之さん!」

 

「あのなぁ、知」

 

 振り返った左之助はギラギラとした目をして、口元にはこわい微笑みが浮かんでいる。振り返ったその表情を遠目にも見た仲間たちは、誰もが音をたてて息を吞んだという。

 

「俺がこんな奴らに負けると思ってんのか?」

 

 振り返った隙を逃さず、棒を振りかぶって襲い掛かってきた警官がいた。鬨の声を上げ、手柄と思ったのかそれとも仲間の仇討ちを狙ったのか、勢い込んで殴りかかってきたのは若くも屈強な警官だった。きっと、日ごろから腕っぷしが強い事が自慢だったのだろう。

 

 だが、振り返りもせずに左之助が繰り出した無造作な後ろ回し蹴りが顎に命中して、血反吐と白い歯を飛び散らかしてその場に崩れ落ちる。

 

「なぁ? 負けねぇだろ」

 

 男の棒は悪一文字を掠る事もなく、膝をついてピクリとも動かない男の意識は既に遠いどこかへと旅立ち帰ってくるまでに一両日はかかるだろう。

 

「こんな弱い者いじめしか出来ねぇような奴らによぉ……この元赤報隊、相楽左之助様が負けるはずがねぇんだよッッ!」 

 

 大喝一声勇ましく、警察署前のガス灯に照らされた悪一文字はまるで千両役者が舞台で披露する刺青のように映えた。

 

 相手は十重二十重に増え続ける武装した警官たち。対してこちらはたった一人の上に素手の破落戸。

 

 勝った負けたを論じるなど愚の骨頂。袋叩きではい、御終いが関の山……だと言うのに、見ている男たちは胸に熱く込み上げてくるものがあった。

 

 期待していた。

 

 これから、きっとすげぇものが見られるんだぞとワクワクしていた。

 

 人はどんどんと集まってきた。警官たちが左之助の前に立ち、悪一文字を拝むのは左之助の舎弟十八人と数えきれないほどのやじ馬ども。

 

 拝みやがれ。見せてもらおうぜ。俺たちの兄貴分はすげえんだぜ。

 

 手に汗握る観衆と化した一同の前に立つ男が、握り拳を天に翳した。いったいどんな力で握りしめているのか、軋み音さえ聞こえてくるではないか。

 

 握りしめているのは、力だ。力で握りしめているのではなく、力を握りしめているのだ。

 

 隙だらけの姿に警官たちは仲間の仇討ちぞと意気軒高に挑みかかる。どうやら並の腕っぷしではないようだが、所詮は素手だ。結局は一人だ。そんな奴が俺たちに敵うか。

 

 すぐに叩きのめして臭い飯を食わせてやる。明治政府に、警察に真正面からは向かう大馬鹿の顔を泣きっ面に変えてやれ。牢の中でへたばっている無様な負け犬の顔に小便でもかけてやろうぜ。

 

「おおらぁぁあぁっ!」

 

 威勢だけはいい身の程知らずを、せいぜいみっともない面に作り替えてやろうぜ。そんな警官たちの思惑は文字通り吹き飛ばされた。彼らの肉も骨もまとめて丸ごと、あっさりと紙屑のように吹き飛ばされていた。

 

 滑稽な程に無様に、空しいほどに呆気なく三人が吹き飛んだ。文字通り、拳の一撃で宙を舞ったのだ。

 

 一同は度肝を抜かれた。後ろにいるのは荒くれども、前にいるのは警官たちとそれぞれ方向性は真逆だが人を殴る事も殴られる事にも慣れている。自分でやった事もあるし、誰かがやられているのも見慣れた光景だ。

 

 しかし、彼等も……いいや、慣れている彼等だからこそ人が拳でぶん殴られたぐらいでまるで大砲の至近弾を食らってしまったように景気良く吹き飛ぶ有様など見た事がない。想像した事さえない。

 

 一瞬の沈黙。

 

 警官達は各々が見た光景を信じられず、宙を舞ったお仲間が地面を背中で叩くまで呆けていた。その大きすぎる隙を左之助が見逃す理由は当然、ない。

 

「ぼうっとしている暇があんのか、おおらぁッッ!」

 

 残った警官たちは悉く間抜け面のままで地べたを嘗めた。自分が何をされたのかも理解はできていないだろう。

 

「うおおぉぉぉっっ!?」

 

「すんげぇ! 人間が頭よりたけぇ所まですっ飛んだぜ!」

 

 彼等の知っている物とは一線を画す豪快な喧嘩を目撃した一同、興奮に酒飲みよりも顔を赤くして沸き立つ。夜間に迷惑な程の大きな歓声だが、浴びる悪一文字はむしろ不満そうだった。

 

「……これでも警官かよ。てんで雑魚じゃねぇか」

 

 これ見よがしに舌打ちをする左之助の強烈な眼光が上を向いた。その先に男がいた。

 

 警察署の中央で最も高い位置にある窓から、二人の男が彼らを見下ろしている。どちらも余裕がない顔だった。

 

「後ろのヒゲメガネは確か署長だったな。もう一人は……たけぇ所にいるんなら、きっと目当ての総監とやらだろうぜ」

 

 適当な目算で当たりを付けると、ぎらぎらした目をそのまま目前に向けて下ろす。

 

 倒した数の三倍以上の警官が一斉に駆け寄ってきている。おそらくまだまだ増えるだろう。さて、どうするのか。

 

「夏のやぶ蚊みてぇに群がってきやがって」

 

 隠れるのか、それとも逃げるのか。距離を開け、少しずつ削っていくのか……目標を決めた以上、わき道にそれるような色気は馬鹿の道で失敗の元だ。

 

 そして相楽左之助は間違いなく馬鹿の類であった。

 

「やぶ蚊は毎年うんざりしているんだ……今の内にまとめてぶちのめしてやるからかかってきやがれ!」

 

 真っ直ぐにも最も近い奴へと向かって頭から突っ込んでいくのは、正しく馬鹿以上の大馬鹿だ。

 

 だが、頭こそ馬鹿だが五体に満ちる力の方も普通ではなく限度を超えて馬鹿だ。だから並の馬鹿ではない。

 

「おおおおらぁぁぁッッ!」

 

 雄叫びを上げて真っ直ぐに突っ込んでいく喧嘩屋の頭が一番手近の警官の顎を弾き飛ばし、空いた腹に肩が突き刺さる。真っ向から跳ね返された警官は後ろの仲間たちを巻きこんで吹き飛ばされ、そのままさらに突っ込んだ喧嘩屋に足蹴にされて意識を失った。

 

「ど、どけ! この大飯ぐらい!」 

 

 日ごろになんぞ思う所でもあったのか、巻き込まれた仲間の今晩最後のセリフはそんな冴えない物だった。仲間に巻き込まれた挙句、前に進む左之助に踏みつけられて固い地面との間であっさりと意識を失った彼は……この晩で特に冴えない一人だっただろう。

 

 しかし、実はまだマシであったのかもしれない……その証明はすぐにされた。

 

 同じように巻き込まれ、しかし倒れる事はなかった男は間髪入れずの顎への一撃に骨を割られながらも意識を失う。白い歯を口から飛び散らかせての無残な顔は、彼の三メートル手前で倒れて意識を失っている男よりも遥かに悲惨だ。

 

「この、クソガキがぁッッ!」 

 

 あからさまに血の上った顔をして拳銃を引き抜こうとした一人がいたが、それは冷静さを失っていない周りに止められた。

 

 混戦で銃を撃つなどまず味方を撃つ利敵行為だ。左之助がそこまで狙ったかどうかは怪しいところだが、彼等は飛び道具を行使する機会を失った。

 

 その顎を、掠めるように左之助の手が通り過ぎていく。残像さえ見えない手練の一撃が頭の中身を揺らして、膝から力を抜く。

 

 それが都合四度繰り返されれば、四人が喧嘩屋の周りに膝をついている。

 

 彼らはそこらの素人ではなく、警官である以上は日常的に鍛えている者たちばかりだ。それが素人まがいのはずの喧嘩屋に、警察署に殴りこむと言う程に頭の悪い……例えて言えば酔っぱらっているかのような馬鹿に、十名近くもいいようにされている。

 

 悉く一撃だ。一瞬の内に多数を相手取っての仕業は正に只者ではない。

 

「シィッッ!」

 

 繰り出した下段蹴りが三人の足を膝から圧し折り、更に脱落者は増える。

 

 更にそのまま独楽のように回って繰り出したのは中段の後ろ回し蹴りだ。そいつを水月にまともに当てられた警官は、その場でくの字になると腹の中の物を吐き出してから自分の嘔吐物に突っ伏した。 

 

 べちゃり、と本能的に嫌悪感を齎す嫌な音がしたが張本人はそれを耳に留めずに更に回転しながら、手近な顔面に拳を打ち込んで鼻を潰している。拳を通して伝わってくる奇妙な感触が背骨にまで伝わってくる感覚が左之助に奇妙で殺伐とした興奮を与えたが……そんなものはすぐに消え去った。

 

 弱い者いじめは詰まらない。

 

 戦うのであれば、強い者とするべきだ。それは左之助にとって信念でも矜持でもなく、ただ当然の事だった。徒党を組んで押しつぶそうとするようなせこい輩など本来であれば多少撫でる程度で終わらせてしまうが……今回は詰まらなかろうと不愉快だろうと手を止める事は出来ない。

 

 そりゃあそうだろう。お上なんてものが自分の様な奴に引く事なんて半歩たりとてあるものか。たった一人の破落戸で、何か後ろ盾があるわけでもない。あるのは連中にとっては隠しておきたい悪事の生きた証拠である、元赤報隊の四文字だけだ。

 

 生かしておいたのは、知らなかったからだ。そして、生きていても何もできないだろうと思っているからだ。殺す機会があれば、別にためらう理由はないだろう?

 

 そういう奴らが手を伸ばしてきたのであれば……こっちも窮鼠になるしかない。弱い者いじめはまっぴらごめんだが、だからと言って殴られ続けてへらへら笑っている謂れもねぇんだよ。

 

「うあわぁっ!?」 

 

勇ましい雄叫びではなく怯えを噛み潰した悲鳴が聞こえる。

 それが詰まらない。

 

 拳を打ち込めばあっさりと当たり、一撃で潰れる。

 

 それも駄目だ。

 

 血沸き肉躍る、そういう喧嘩がしたい。男が喧嘩するってんなら、そりゃあ強い奴とだろう。弱い者いじめなんざ、男のするこっちゃあねぇ。それなのに、どいつもこいつもなんて様だ。

 

「弱すぎんぞ、てめぇらッッ! 喧嘩を売ってきたのはてめぇらだろうがッッ!」

 

 手足を振り回すだけで次から次へと制服警官たちが血反吐を吐いて倒れていく。曲がりなりに職業警官として日々鍛えているはずの男たちが、正しく鎧袖一触の言葉そのままの形で倒れていく。

 

 左之助の活躍を見守る舎弟や野次馬、それどころか武術を学ぶ警官たちにとっても彼の戦う姿は未知の物だった。喧嘩屋と称しているが、その手管は喧嘩などと言う野蛮な代物とは程遠い洗練されてさえいる明らかな武術だ。

 

 拳の使い方一つとっても違う。

 

 彼らの知る知識の中に適合する動きは全く見当たらないが、我流の喧嘩殺法とは素人目にもわかる。先ほど数人の足をへし折った蹴りも身体ごと回転して放った蹴りも、前蹴りぐらいしかない明治の日本ではもはや聞いた事さえない。

 

 加えて肘、膝を巧みに使い的確に急所を捉えて一撃で沈めていく姿は活劇さながらである。

 

 舎弟たちはもちろんの事、野次馬共でさえ興奮しないわけがない。左之助の行いは暴挙ではなく活躍となり、民衆は無責任に煽り立てていく。この雰囲気に警官たちは気が付き、まず違和感を覚えてやがて憤慨する。

 

 これでは、まるで自分たちが物語の悪党ではないか。

 

 怒りを籠めて振り下ろされる棒は十重二十重と続けられるが、その悉くをさらりとかわされてしまい、得物が戻るよりも先に拳や蹴りが打ち込まれる。幾人かが棒を捨て、こうなればと打たれる覚悟で組み付こうとしても拳打に耐え切れず袖に触れる事さえ出来ずに白目をむく始末。

 

「ぬがあぁぁッッ!」 

 

 だが、三人目でどうにか捉えた。一対一では無理だったろうが、一人目と二人目が倒れた隙に胴体に組み付く事が出来たのだ。左右の手一本で大の男を昏倒させるのは恐ろしいが、それでも両手で三人目までは相手取れない。

 

 太い歓声が沸いた。大の男が、警官たちが大勢でよってたかって一人の喧嘩屋を囲んだ挙句にたかだか組みつけただけで喜んでいるのだ。左之助はそれをみみっちいと笑い、警官たちは快挙と笑う。

 

 自覚無自覚を問わず、彼我の差を彼らは理解していた。

 

 組み付けた警官はこういう戦法を選んだだけの事はあり、柔には自信があった。体格よく力自慢で左之助と比較して劣る所はない。上背は五分かもしれないが、目方も明らかにこちらが上だ。このまま引っこ抜いて転がしてやれば後は袋叩きで問題はないと、内心で喝采を上げていた。

 

 にやり、と笑って全身に力を込める。肉が盛り上がって支える芯たる骨に軋む音が伝わる。

 

 持ち上げてやる。このほそっこい身体なんぞ枯れ木みてぇにあっさりと引っこ抜けるさ。後は振り回して悲鳴を上げさせて、地べたに叩きつける。訳の分からない悪趣味な染め抜きを泥まみれにして、土の味と俺たちの靴の裏の味も教えてやる。

 

「吻ッッ!」

 

 唇を真一文字に引き締めて、鼻から雄牛のように太く息を吐き出して力を込めた。これが石だって抱えて持ち上げられる自信があった。

 

「どうした。俺を持ち上げたいんだろ? そんなに遠慮してちゃあ、子供に肩車だってできやしねぇぞ」

 

 だが、相楽左之助は根が生えた木のように持ちあがらない。

 

「!? 吻ッ! おうりゃあッッ!」

 

 仰天して目を見開きつつも、相手を上下左右に揺さぶりつつ繰り返し持ち上げようとするが、どれだけ力を籠めても相手は地面に食い込んでいる大岩か根を張る若木のように身動きする様子が微塵もない。子供が相撲の練習をしているような有様に、同僚たちの視線を背中に感じた警官は複数の理由で顔を真っ赤にすると一声吠えた。

 

「ぬうがああぁッッ!」

 

 だが、どれだけ声を上げても力を籠めても喧嘩屋は動かない。事態を正しく理解して驚いている者もいれば、仲間がふざけているのかと邪推している馬鹿もいる。どちらも組み付いている仲間がいるせいで加撃を躊躇っていたが、どうやら上役らしい年かさの偉そうなのが奥の奥から命令した為に躊躇いを消して棒を振りかぶった。

 

「ちょ、ちょっと待て!?」

 

一緒くたに仲間から殴られるなんぞごめん被ると悲鳴を上げるが、ここで左之助から離れるわけにもいかない。どうするかとおたつく警官に喧嘩屋の声が降ってくる。

 

「安心しな……仲間に殺られるよりも先に俺がぶちのめしてやらぁッッ!」

 

 男の無防備な背中に向けて、肘を落とした。鈍く重たい音は警官の意識が暗闇に吸い込まれる音でもあった。

 

「てめぇ……い……ったい何貫あるってんだ……」

 

「人をブタみてぇに言うんじゃねぇよ。肚を据えりゃ簡単には持ち上がらねぇもんだ」

 

 物理など知らない明治の警官でも、無茶を言っているのはわかる。ふざけるなと思いながら気を失った警官だが、左之助はからかっているつもりはなかった。

 

 肚を据えるとは、重心を下にすると言う意味だ。臍よりも下の位置に重心を持っていくように意識する相手は投げづらくなる……事実かどうかを知るのは実際に武術を経験してみなければわからない話だが、倒れた警官はそれを理解する境地にはいなかった。

 

「調子に乗ってんじゃねぇぞ、若造ッッ!」

 

「警察署に殴りこんできて生きて帰れると思うな、オラァッッ!」

 

 今だ、と殴りかかってきたのが二人……一人は素手で、一人は棒だ。

 

 人一人を倒せば、それだけ隙は生まれる。人が人以上であるからには、それが当然の理だ。多対多を前提としている実戦武術とはその隙を少しでも埋めるための物であり、逆に少しでもその隙を広げて急所を突く為の物でもある。

 

 さて、赤報隊にいた時とて遊んでいたわけではない。そこから更に鬼と呼ばれる益荒男から武術を学び、喧嘩で磨いた相楽左之助の隙を現職警官とはいえ易々と突けるのか?

 

 答えは、あっさりと攻撃を掻い潜られた彼らの驚愕の表情と直後にそれぞれの痛みを抱えて悶絶する惨めな背中が語っている。

 

 これで二人新たに倒したのだが……ここまでで一体自分は何人倒しただろうか?

 

 それを考えて、すぐにやめた。無意味な事だからだ。

 

「どっちみち全員潰すだけだ」

 

 警官たちは本拠地に殴りこんだ自分を逃がしもはしないだろうし、もちろん自分たちが逃げる事など想像もするまい。今でも少々鼻っ柱の強い天狗が馬鹿をやっていると思っている程度のはずだ。

 

 そうでなくとも、例え軍隊が相手でも警察官が警察署を捨てて逃げるなんざおいそれとできる事ではない。ましてや相手が既に一人だったら、そして衆目があったら? それこそ何があっても引けない所だ。

 

 今の彼らは、共にとことんまでやり合うしか選択肢はないのだ。

 

「何をやっている、貴様らッッ!」 

 

 遥か彼方の頭上から、耐えかねたと言わんばかりの鬱憤を籠めた怒声が修羅場の空気をかき回してきた。

 

「たかだか破落戸一匹程度になんという体たらくだ! それでも貴様ら、誇り高き明治政府を支える警官のつもりか!」

 

 好き勝手言っていやがる。

 

 言いたい放題の罵声に揃って顔をしかめた一同が見上げた先には、坊主頭で額の生え際がかなり厳しいちょび髭の男がいた。

 

 少々小柄で剣心よりも小さいのかもしれないが、目が細く小さい上に目つきがすこぶる悪いので迫力はある制服姿の初老だ。態度からして、おそらくこの場で最上位の警官だろう。つまりは……

 

「あれが警視総監……今回の黒幕か?」

 

 そいつが一体何を考えて自分に手を出してきたのか……特に隠されているわけではなかったので既に概ね察しはついている物の、本人の口から聞き出したいところだった……でたらめを口にする可能性も多々あるのだが、聞かないわけにもいかない。

 

「どいつもこいつも……藤田警部補はどうしたぁッッ!」 

 

「ひえっ!?」

 

 金切り声を上げる上役に首をすくめる警官たちは気の毒だが、左之助にしてみれば隙でしかない。

 

「馬鹿がッッ!」

 

 既に間合いに入っているというのに一瞬以上も怒声に意識を割いて硬直するなど、殺してくださいと言わんばかりの自殺行為だ。遠慮する必要など欠片も感じなかった左之助の四肢が縦横無尽に翻り、無理のようにしなやかな動きの後には無残な有様に成り果てた警官たちが思い思いの格好で転がっている。正しく死屍累々とはこの事だろう。

 

「おい、そこのデコッパゲ!」

 

「で……!?」

 

「たけぇ所からいらねぇ嘴挟んでいるんじゃねぇよ、この足手まといがッッ!今こいつらが地べたを嘗めてんのはてめぇのせいだぞ! 余計な事しか言わねぇなら黙ってろ、能無しがッッ!」

 

 引き攣った口元とこめかみに浮かぶ青筋が遠目にも見えたのはもちろん錯覚だったが……言われ放題の男が発散する怒気は錯覚の類ではなくもはや物理的にまでなりつつある……もちろんただの間違いだが。

 

「黙っていれば、喧嘩屋風情が言いたい放題抜かしおって……この若造が……」

 

「へえぇ! 俺が喧嘩屋だって知ってんのか! いきなり殴りこんできた街の破落戸の事をいちいちご存じだとは、警視総監様ってのは随分と端々まで目が届いているようじゃあねぇか、ええ、おい!」

 

 なんとなく下品な感じがする中指を立てた拳は挑発のつもりなのだろうか。そんな必要もない程に顔を真っ赤にしている警視総監(暫定)はどことなくタコを連想させる。

 

「貴様の様な無法者の事など知るか! 総員、発砲も許可するから早急に片を付けろッッ!」

 

 頭に血が上ったのか、それほど相楽左之助を邪魔と思っているのか、そもそも彼にとって引き金とは軽い物であるのか。例えどれであっても結局の所は変わらない。過激と言うよりもそれこそ無法と言うべき警察の選択に野次馬たちがどよめいた。

 

「けっ……何が誇り高きよ、明治政府ッッ! たかだか破落戸一匹を取り囲んで寄ってたかった挙句に人目も憚らず発砲たぁなぁ。卑しい馬脚を現しやがって」

 

 左之助は発砲と聞いても、狙われている当人であるにも拘らず全く怯んでいない。それどころか笑っている。強く、鋭く、ほんのわずかに弧を描いているだけなのに、不思議と悪一文字の笑みは誰の目にも鮮やかだ。

 

「無法者? そいつぁ結構だ! てめぇら腐った明治政府の役人どもが作ったおためごかしばかりの法なんざぁ、くそっくらえよッッ!」

 

 彼の中にあるのは爽快ささえ感じる達成感の様なものだった。

 

 ああ、とうとう始まった。

 

 燻った熾火が燃え上がるような、そんな気分だ。

 

 ずっと悩み苦しんでいた。かつての赤報隊が着せられた汚名、濡れ衣、そして瓦解を……晒された仲間たちの首を思い返さない日はなく、胸の奥にずうっとくすぶり続けていた怒りと恨みの炎があった。

 

 燃やしては、焼いてはならないものまで焼きかねないと自らに禁じていた。だけれども……もう、いいんだよな。

 

 やっちまっていいんだよな。

 

 もう一度、手を出してきたのはあいつらだ。

 

 明治政府の連中が、俺の大好きな赤報隊の看板に糞を塗り付けた連中が、もう一度俺に手を出してきたのだ。

 

 もう、我慢なんてできやしない。するものかッッ!

 

 相手が政府? もう知ったこっちゃあねぇんだよ!

 

 握りしめた拳には今までにない力が籠り、眼光は正しく鬼のように燃えている。全てが奮い立てと訴えている。警官だろうと鉛弾だろうと、受けてたってやる。

 

 ふと、どこからか今の自分は間違えていると……あいつらは言うんじゃないのかと思った。そして笑った。

 

 結局自分とあいつらは……あいつは、違う所で違う考え方をして生きているって事だ。そうだったのだろう。

 

 だから、もういい。ここんところずっと溜まっていた苛立ちも怒りも、全部全部溶かしてしまえ。

 

「今すぐてめぇの首根っこを捕まえに行ってやる! せいぜい手下どもと準備しておけや、蛸入道ッッ!」 

 

 次々と突きつけられる銃口にも怯まず、臆さず、巻き込まれてたまるかと逃げ出す警官たちを尻目に嘯いた相楽左之助の眼は怯みも絶望もなく、生き生きとさえしている。

 

 荒事を好む精神の故もあるだろう。だが何よりも、赤報隊の生き残りは結局このような時を待ち望んでいたのだ。

 

「構えろッッ! 配置につき次第、撃てぇッッ!」

 

 高いところから降ってくるのは天の声のようだった。それが、警官たちの五体を人形の繰り糸のように自在に操る。

 

 四方八方、射線が重ならないように訓練された事を反復する警官たちが喧嘩屋を囲む動きは決して悪くはないが……それでも遅すぎた。左之助の周りにいる仲間が逃げ出すまで待たなければならない。

 

 孤軍奮闘の左之助と比して、集団の彼らは行動方針を実行に移すまでの時間が長すぎた。

 

「おせぇんだよッッ!」

 

 長身でありながらも徹底的に低く構える姿勢は猫のようでもある。そのまま駆けだした姿はまるで四つ足の獣さながらだった。

 

「!?」

 

 これに慌てたのは警官たちである。的が駆けだす先にいる不運な者ばかりではなく銃を構えた誰もが照星の向こう側の光景に慌てふためいた。

 

 これだけ低く駆ける様な犯罪者の想定など彼らは全くしてこなかった。剣にしても銃にしても、そして素手にしても対象は立っている物で、四つ足ではない。これが座っているだけならともかく奔る速さと変わらない程の動きとなると途端にどうしようもなくなる。彼らは警官であって、狩人ではないのだ。

 

 それを無理に狙うとなると……他にも巻き込んでしまう人間がいる。他ならない同輩だ。

 

 何しろ地面にはまだ倒れたままの仲間が十人以上いるのだ。全員重症だが一人として死んではいない彼らを撃つのは警官としても個人としても躊躇われる。ましてや衆人環視の中である。

 

 逡巡は彼等の意識を暗黒に突き落とした。瞬く間に倒された四人は、意識を取り戻して痛みに呻きながらも自分たちが撃つべきだとは思えなかったと言う。

 

 そして築かれつつあった包囲網の一角を打ち崩した左之助は、そのままついに警察署の中にまで飛び込んでいった。もちろんお行儀よく玄関からなどとは言わない。飛蝗のように高く飛び上がり、更に壁を蹴る姿は忍びと言うよりもましらの如くでそのまま二階の窓を蹴り破って飛び込んでしまったのだ。

 

 あまりの離れ業に周囲は仰天しているが、かつて剣心と戦った左之助にしてみればやはり自分には飛び技は向いていない……少なくとも、剣心と比べあえば一蹴されて地べたに落とされてしまうと苦々しく確信していた。

 

「……誰もいねぇか?」

 

 飛び込んだのは木でできた机がずらりと並んでいる部屋で、それぞれの上には雑多にあれこれと並んでいた。書類に筆、万年筆……壁にはなにかごちゃごちゃと書き込まれている紙が貼られていたり、紐が貼られてそこにぶら下げられていたり……左之助には全く馴染みのない不可思議な光景だったが、とにかく誰もいない真っ暗な部屋だ。

 

 物音は左之助が蹴り破った窓破壊の余韻だけで、後は表の喧噪以外には聞こえてこない。

 

 静寂の中で、左之助は一息つこうとした自分を戒めた。

 

 ここでそんな真似をすれば、緊張の糸が緩む。体力を回復させるのはいいが、敵地で弛むなどもっての外だ。

 

「……飯はまあいいとして……水くらいは欲しいもんだな……いや、あれば食っても……」

 

 適当に見て回ると、ぬるくなっているがヤカンに水が入っている。一応、飲料水だろうかと確認してからラッパ飲みすると、心身に染みわたった。ついでに腹の傷を洗ってさらしを締め直すと心機一転、闘志も盛り上がってくるという物である。

 

「さぁて」

 

 部屋の外からどかどかと乱雑な足音及び叫び声が聞こえてくる。御用だ御用だ、などと左之助が生まれる前だったら耳にしていただろうか。

 

「ここだ! まだ暢気に突っ立ってやがる!?」

 

 戦闘の警官が威勢良く現れたが、即座にやかんをぶつけられてのけぞった。

 

「暢気はそっちだよ」

 

 嘯いた左之助だが……この時、彼も想像していなかった奇妙な事が起こった。

 

「ぬ、抜けねぇ!? やかんが頭に刺さった!」

 

「それを言うなら、頭がやかんに入った、だ! この阿呆!」

 

「俺が悪いんじゃなくて向こうが悪いんだろぉ!?」

 

 大体そんな有様になったのは、別段頭が殊更小さい訳でもない普通の男である。

 

「………………世の中不思議な事もあるもんだな」

 

「お前のせいだろうがッッ!」 

 

「うるせぇッッ! だいたいてめぇらは敵だからいいんだよッッ! いいから大人しく袖にすっこんでろや、お笑い芸人!」

 

 無責任でいい加減なセリフを聞きとがめられてしまったが、まあ……確かに彼らは敵同士だ。しかしそれでも酷い扱いではあるし、芸人だと言うのなら事の原因である喧嘩屋も芸人の一人にならないだろうか。

 

「ったく……緊張感てモンを混ぜっ返しやがってからに」

 

 ツッコミと言うのは過剰すぎる威力の拳で次々と警官たちを倒していく彼が言っていい台詞ではない。目につく敵を悉く叩きのめし、仏頂面でずかずかと大股に進む姿はいかにも横柄で隙のある姿だが……唐突に足を止めた。

 

「ふん……」

 

 目を細める。元々鋭い面差しなだけあって実に剣呑な表情だが、どこか愉しそうでもあった。

 

「まあ、いると思っていたぜ」

 

「……ここに来るのはわかっていたが……まさか潜入もしないで正面突破とはな。阿呆もここに極まったか」

 

 視線の先……曲がり角の向こうから現れたのは彼の腹に硬く冷たい金属を差し込んだ警官だった。相変わらずの不遜な態度で見下す男がやたらと癇に障って、こめかみと口元が引き攣るのを自覚させられた。

 

「いちいちこそこそしなけりゃならねぇ程に手強いとも思えなくってなぁ? すまねぇな、品のねぇ夜襲をかけてくる悪党がいたもんでさっさと終わらせて寝直してぇのよ」

 

「……そいつはすまなかったな。下品な悪党の一人として……責任もって豚箱で眠らせてやろう。安心しろ、少なくとも安眠はできる」 

 

 今一度、男の刀は抜かれた。構えはこれで三度目、寸分違わず同じものだった。

 

「せめて、一晩くらいはな」

 

 だが、迫力が違う。

 

 切っ先に籠っている闘志の鋭さは緋村剣心のそれを確実に上回っている。不殺を志した男が見せるのは所詮人斬りの残り香に過ぎず、これぞ現役の人斬りであるのだと喧嘩屋に教えていた。

 

「……てめぇ、警官の割には今でも随分と人を斬っていそうだな」

 

「それがわかる程度には鼻が利くか……所詮弟子は弟子。結局は街の喧嘩自慢風情と侮っていたのは失敗だったかもしれんな」

 

 侮りにイラつく喧嘩屋が、それを甘受するなどありえない。

 

「さっきから聞こえよがしに思わせぶりな事ばかり言いやがって……てめぇもあの蛸入道も、師匠にいったい何の用だ? お前らがこすっからい夜討ちなんぞ仕掛けてきたのは、どうせ師匠のとばっちりだろうが」 

 

「知りたきゃ話させてみろ。こっちも力づくで口を割らせてもらう」

 

「……今度は痛い目程度で済まさねぇぜ」

 

「こっちのセリフだ。次は首を飛ばす……死んだら死んだで、それでいい」

 

 双方、先の交錯で五分五分の痛手あり。だが、その後も戦い続けた左之助の方が体力を考慮して大いに不利……

 

 そして……待ち構えていた、この場所。狭い廊下、一直線の始まりの位置に警官は立っているとなると、狙いは明らかだ。

 

「真っ直ぐに突いて百舌鳥のはやにえ…? だっけか? そういうのか、避けても横に上手い事薙いでみせるか……」

 

「少しは察せられるか」

 

 ふん、と鼻を鳴らして答えた左之助の構えもまた同様に先のなぞり、前羽で迎えている。今度こそ、と意気込んでいるのか。

 

 左之助がそのまま一歩前に出た。間合いまでは後……爪半分という所か。 

 

「今度はきっちり返してやるぜ」

 

「ほざくな。戦術の鬼才、土方歳三が考案したこの平突き……貴様ごときに返せるものか……ましてや、俺の牙突ならば猶更だ」

 

「ああん? 土方? ……新選組の土方の事か?」

 

 新選組の事を知らない日本人はまずいない。その中でも特に著名なのは局長である近藤勇、副長である土方歳三、そして一番隊組長である沖田総司だろう。

 

「まさかお前、新選組の生き残りだとでもいうつもりか? ……そんな奴が維新志士の手先になっている訳ねぇだろうが」

 

「……」

 

 左之助のセリフそのものは侮蔑のようにも聞こえるが、純粋な疑問だった。全くもって、仮にも維新志士の宿敵とも言える代表格が新選組なのだから、万が一にも明治政府とお仲間面をしているなどありえない。

 

 とは言っても、ふかしやハッタリの類にしてはおかしなセリフだ。

 

「手先、か……生憎と、俺自身は明治政府の手先になったつもりなど全くない」 

 

「つもりはなくても実際にそうじゃねぇか」

 

「お前の言う通り、俺は新選組の一人だった」

 

 何か譲れない一線であるのか、とうとうと語り始めた警官だったが、左之助は半ば以上聞いていなかった。彼が意識を悉く集中しているのは男の切っ先であり、五体の動きであり、そして周囲の空気だ。

 

「この新しい時代、明治を作り出したのは勝者だけではない。俺たち幕府方もまた敗者として人生を賭けて新時代を構築した一員である。だからこそ、腐っていくのは我慢ならん」

 

 切っ先に凝固してもう一枚の刃となっているかのような殺意。周囲の空気をひりつかせる痛みさえ伴う緊張感。空気が焼けるようであり、それでいて凍えるようでもある。切り裂かれるようにも感じれば、重苦しく水底にいる様な圧迫感を覚える時もある。

 

 とても奇妙で、恐ろしくて、その癖どうしてだろうか……背筋を奔る高揚感に皮膚の裏側辺りが泡立つようだ。

 

「俺が政府に密偵として仕えているのは、明治を食い物にする政府内のダニどもを始末する為だ。それこそが明治にまで生き抜いた新選組の使命であると信じて、な」 

 

「知ったこっちゃねぇよ。俺にしてみれば、てめぇはそのダニの手下だ。破落戸とは言え、無実の俺を問答無用で捕まえようとするなんざ腐っているのもいいところじゃねぇか」

 

「そこら中で喧嘩を繰り返し、阿片密造の女を匿い、挙句の果てに武田観柳の屋敷に殴り込みをかけた輩の言えたセリフか」

 

 喧嘩はともかく、ここ最近の左之助の動向の悉くを一言で表した。

 

「よく知っているじゃねぇか……そう言えば、山県有朋……だったか? 俺が出会うよりも前に剣心を見つけて陸軍に勧誘していたとか聞いたな。ついでに俺の事を調べたのか、それとも……このふざけた逮捕といい、てめぇらはよっぽど師匠がおっかねぇってか? 昔にちょいと鍛えてもらった若造をしょっ引かなけりゃ、びびって夜も眠れねぇ程に」

 

 今宵の理不尽な逮捕劇の理由を、左之助はずばりと言い切った。そしてそれを、事情を知っているらしい警官は首肯してみせる。

 

「明治政府のお偉方はそうだろうな」

 

 俺は違う。言外にそう言い切った男は、左之助のセリフの何が琴線に触れたのか闘志を更に漲らせつつも刃の切っ先に凝固させるように託している。それはまるで牙のようだった。

 

「俺はただ、奴が今一度無法を行うのであれば……この牙突で貫くのみ」

 

「お前じゃ無理だろ。ただの自殺行為だぜ」

 

 挑発のつもりはあったが、侮辱のつもりはなかった。お互い加減はしているだろうが、ここまでに見た実力では彼の師匠を上回る事など不可能。師と別れた時には彼の実力などさっぱりわからない未熟者に過ぎなかったが、それでも言い切れるほどの差があった。

 

「試してみろ。抜刀斎を……そしてあの鬼を貫く為に維新の後も弛まず磨いた牙突の威力……抜刀斎と戦った鬼の弟子である貴様を相手に試してみるのも悪くはない」

 

「けっ……剣心とも因縁がありやがんのかよ。それはいいとしても、踏み台扱いとは嘗めてくれたもんだ」

 

 舌打ちをする左之助だが、いきりたつ事はなく、その挙動に一片の隙もない。

 

「踏み潰されるのが一体どっちなのか、教えてやるぜ」

 

「……やってみろ」

 

 刀と拳と言う無謀すぎる真っ向勝負が今三度。

 

 だが拳に虚勢はなく、刀に油断はない。どちらもお互いを倒すと思っている。どちらもお互いを認め合っている……認めたくないとも思っているのは露骨だが。

 

 そうでなければ、今の状況はあり得ない。

 

 真っ直ぐな廊下は警官の繰り出す突き技にとって理想的な状況であり、そして左右の狭さは途中で横薙ぎに切り替われば、それだけで避ける隙間が埋められる。

 

 左之助が待ち伏せを察知したのも、潜んでいるのを感じ取ったと言うより“ここであいつと戦うのは随分と不利”と彼自身も思ったからだ。まずいと思った以上、頭があるのなら当然ここで待ち構えているに違いない。

 

 そもそも相手の根城なのだから、地の利もある。

 

 出会ったのは自然、ないしは必然だった。

 

 あるいは……待ちかねていたと言ってもいいのだろう。

 

 どっちが? どっちも。

 

 肚の中で臓物が燃えているようであり、凍えているようであった。少なくとも左之助はそんな熱狂の様な戦慄を感じている。一方、細めの警官はそんな熱とは無縁なようにも見えた。冷めてはいないが燃えてもいない……そんな顔に見えた。ぎらぎらとしている左之助とは対照的だ。

 

「……」

 

 機械的にも見える。だが、本当に胸に帰する物がないのであればここに現れるわけもなく刀を構える事はない。

 

 取り繕っているだけだ。そうでなければ、表に出ないだけだ。

 

 だったら、ここで化けの皮を剥いでやる。

 

 その思いは気負いとなって左之助の足を不用意に進ませた。爪半分……せいぜいがそんなものだったが、それでも隙は隙であり勝負の火蓋を切る狼煙でもあった。

 

 喧嘩屋の気負いが生んだ隙を逃さず、一直線に襲い掛かってくる様は正に嚆矢の如く一直線で決して引かぬと言う意思の具現だ。引く気ない彼の闘志はここまで左之助に見せた二回の突きを一歩も二歩も上回る凄まじい速さで、日ごろから神速の剣士を相手取る左之助をしても驚愕の一言であった。

 

 速い、と声に出す間もない。 それどころか思考する間もない。

 

 鋭い切っ先が一直線に迫ってくるのは喉元。頭では的が小さく避けられる恐れがある、腹は先ほど内臓上げで効果を弱められた。だから狙いは多少左右に動いても躱し切れない喉!

 

 速い、鋭い、重い、狙いがいい、躱せないッッ!?

 

 いいや、躱せる。二回も食らって、時間もたっぷりおいて、返しの一手も浮かばない程に今までの鍛錬は安くねぇッッ!

 

 だが鍛え上げる為の己の日々が安くないとは、それこそ切っ先に重たい意志を乗せた男のセリフ。

 

 喧嘩屋ではなく、その師を貫くために鍛え上げて磨き抜いた刃の重みが一体如何ほどかを身をもって知らしめんと、刃は薄暗い廊下で微かな明かりを照り返す。

 

 肩を入れて全身の力を籠めて繰り出した一突きは、剣技と言うよりもライフル弾。いいや、それ以上にさえ思える真っ直ぐな一撃だった。それを食らってしまえば、相楽左之助は絶命どころか受けたところに比喩でなく大穴が開いてしまいかねない。喉にそのまま受けてしまえば、穴が開くどころか首が引きちぎれてしまうのではないか?  

 

 むろん、木偶の人形でもあるまいに甘んじて受けるわけがない。

 

 さあ、どうする。左右に避けるか、下へ逃げるか、上へ飛ぶか? 四方八方、あらゆる方向のどこへ逃げても対応できる。この突きはただの単純な突き技ではなく、そうであるように練りこんであるッッ!

 

 剣士は自信……いいや、自負を持って刃を繰り出していた。先ほど繰り出してみせた受け技をもってしても、その小癪な掌など紙きれ同然に貫いて喉ごと串刺しにしてくれんと突き出したのは刀と言うよりも鍛錬の象徴。

 

 しかし、その強烈な自負を抱いている男は驚きに細い目を見開いた。

 

 なんと喧嘩屋は彼の突きに真っ向から、それも頭から突っ込んできたのだッッ! 正気ではない、狂気の沙汰だ。喧嘩ならば相手の拳を頑丈な頭骨で受けると言う捨て身の防御もあるだろう。だが刃は拳とは訳が違うッッ!

 

 ましてや、これは明らかに緋村剣心と五分かそれ以上の一流以上の剣客が繰り出す必殺の一撃ッッ!

 

「とうとうイカレたか、若造ッッ!」

 

 悠長に応じる余裕など喧嘩屋にはない。彼も馬鹿ではないのだから、自身の危機が今までの半生で最も際どい土壇場だと百も承知だ。

 

 チンピラにドスで襲われた事はある……技量が違う。

 

 緋村剣心と言う名を馳せた剣客と勝負した事もある……殺意が違った。

 

 本物の一流が確かな殺意を切っ先に乗せて襲い掛かってくるのは、穏やかならざる人生を送っている彼にとっても初めてだった。

 

 だが、相楽左之助は幸運だった。少なくとも、今の彼はそう信じている。これ以上にない危機なれど、ここまでに出会った光り物と対峙した経験は無意味ではない。特に剣心と戦い、稽古を積んだ日々は己の中に大きな糧として生きているッッ!

 

 そうでなければ、春までの相楽左之助であれば長屋での攻防も含めて迫りくる切っ先は一つたりとも躱せず無防備に受けるしかなかったッッ!

 

「ッ!」

 

 透かした! 繰り出される切っ先はどうにか躱す事が出来た! そのまま間髪入れずに来る横薙ぎはどう捌くか!?

 

 できねぇ、思った通り左に……こいつから見て右に動けばこいつ自身が邪魔になる!

 

「ぬッッ!」 

 

「!?」

 

 そこまでだった。

 

 今だ、と懐に飛び込んだ左之助の顔面を警官の右手ががっつりと猛禽のように掴んだのだ。

 

「どうやらここまでの対峙で随分と分析したようだな……そしてそれを実行した技量はなかなかのものだったが……生憎と、一手足りていない」

 

「ああっ!?」

 

 ぎりぎりと、顔全体を握り潰さんと言う程の強烈な力だ。己の生命線であり誇りでもある刀を握る為に、剣士と言う生き物の握力はひょっとすると格闘家を上回っているのかもしれない。

 

「牙突は左手を突き出す際に合わせて右手を引く……力を籠める為に、な。だからこそ隙になっているのを貴様は見切っていたんだろうが……貴様が無手である以上、懐に飛び込んでくれば呼び込んだ右はちょうどよく迎え撃つ形になる。斬馬刀だったか? ご自慢の長物でも持っていれば話は別だったんだろうがな」

 

 その場合は、そもそも今ほどに食い下がれはするまい。

 

「終わりだ」

 

 勝敗は決し、残るは刀本来の使い道をさせるだけ……すなわち、手柄首を掻っ切って落とす。

 

「無様に足掻くな。せめて一思いに……死ね」

 

「寝言ほざいてんじゃねぇッッ!」 

 

 首元目掛けて迫る白刃を前にしても、喧嘩屋の目に怯み竦みの一切はなく躊躇いもない。

 

 両腕で自分の顔面を鷲掴みにする右手をしっかりと掴み返し……いいや、捕まえ返している。まだ諦めていない意思を全身から示す喧嘩屋に微かに眉を動かした警官は、冷静さを失わずに切っ先を止めずに貫かんとして、そのまま強制的に止められた。

 

「ッッ!!?」

 

 必殺の一撃を止めたのは、全身を貫く強烈な痛みだ。つま先から始まって脳天まで駆け抜ける抗いがたい痛みだ。

 

 生半可な痛みではない、脳みそをかき回すような強すぎる痛みが警官の五体を雷撃のように一瞬で貫いた。だが、それだけで止まる程にこの剣客は柔ではない。ならば、一体何故に止まってしまったのか。

 

「ぐうッッ」 

 

 彼をして人目を憚らず呻かせる程の強烈な痛みは、足元から突如湧いて出た。全く予想もしなかった痛みに驚かされたからこそ、一瞬とはいえ彼は刃を止めてしまったのか。

 

 いや、違う。痛みの有無に関係なく、何故か彼の五体は上役に命じられた下級警官のように止まってしまったのだ……ほんの一瞬だが。

 

 それでも原因を探るよりも先にとどめを刺さんとしたのはさすがだが、一瞬の停滞でもこの男には十分な隙だった。既に捕まえていた右腕の急所……手首の内側に点在する全てを一挙に締め上げると更なる痛みと共に力が抜けていくのを実感する。骨や肉に守られていない小さな急所を五指で的確に握りしめられたおかげで麻痺が広がっていく。

 

 これは剣客には不可思議な、素手で戦うからこその技術であった。

 

「ツボを突いたんだよ。へっ……てめぇは結局の所は剣客だ。こういうのは知らねぇし、わからねぇだろ!?」

 

 追い詰められながらも強がりではない笑みを浮かべた左之助は、そのままぐるりと身を捻って自分ごと相手の腕を捻り上げる。

 

「うおうりゃあっっ!」

 

 その拍子に開放された喜び、そして気合と言うよりも鬱憤を籠めた雄叫びを上げると関節を決めた一本背負いで己と五分の長身を思う存分にぶん投げるッッ!

 

「おおッッ!」

 

 しかして敵もただでは転ばない。投げられながらも後頭部に目掛けて切っ先を闇雲に突き下ろしてくる。

 

 ぞわり、と左之助の産毛が逆立ち髪の毛一本の間近まで迫った死の予感に鳥肌が立つ。なんだ、と考えているような余裕もなく彼は喧嘩で熟した場数が養った勘の赴くままに、剣客の腕を手放して放るように距離をとった。

 

 捕まえた腕は、彼にとって命綱とも言える。だがこの一瞬で手を放す選択を、彼は迷う事無く惜しむ事無く選んだ。もしも捕まえた腕一本を惜しんでいれば、あっさりと命を失っていたのは間違いない。

 

 離された腕を軸にして身を翻して着地する様はまるで猫のようであり、そこから更に左之助に向かって襲い掛かる姿は猫と言うよりも犬。更に言えば狼のようであった。

 

「んなにぃっ!?」

 

油断していた。

 

 そこから仕切りなおすものだと勝手に思い込んでいた。

 

 だと言うのに、間髪入れずに襲い掛かってきやがったな! この野郎はッッ!

 

 油断のツケはあまりに大きい。左之助は右の肩に灼熱を感じ、同時に全身がバラバラになるような衝撃と……揺れに揺れる視界の中で、どうにか男の姿だけは捉えつつも五体に様々な種類の痛み……それらを生み出した傷を感じていた。

 

「ぬあぁッッ!?」

 

 素っ頓狂な声は第三者の物だった。

 

 一撃で満身創痍になった喧嘩屋は、その声にどうにか反応して身構えた。そうしてから初めて状況の把握を始める事が出来た。

 

「………」

 

 まず、自分の五体。

 

 全身余すところなく強い痛みがある。右の肩を中心に五体隅々にまで行き渡る痛み。そして五体が軋んでうまく動けない。それどころか、右腕が全く動かない…指さえうまく握れないとは、と見ればだらだらと血を流す風穴が開いているではないか!

 

 ここに乾坤一擲の一撃を受けた証拠だ。

 

 傷を見て意識してしまうと、それを理由に頭が朦朧としてくる。血を失いつつある自覚が力を奪うが、やせ我慢をして押し隠す。

 

 目力を必死に籠めて前を見据えると、それが却って相手に自分の状況を知らしめていると自覚のない喧嘩屋は自分が廊下からどっかの部屋に入り込んでいるのだと気が付いた。

 

 考えるまでもなく剣士の一撃を受けて薄い壁を突き破ったのだろう。道理であちこち痛い上に瓦礫塗れになっているわけだ。

 

 自分をここに突きこんだ下手人は壁に開いた大穴の前で今も残心を取りつつ睨んできており、前に突き出した左腕に握りこまれている刀は彼の繰り出した技を教えてくる。愚直に同じ技を繰り返す、地味でつまらない野郎だと笑う事も出来たがそれもさっきまでの話だ。

 

 とことん執念深く繰り返されて、その間に仕留める事が出来ずにきっちりと刃を突き立てられては何を言っても負け犬の遠吠えでしかない。

 

「ちっ……」

 

 痛みというよりも、うまく動かない事に舌打ちをする。

 

 逃げるか、などと弱い考えが頭を通り過ぎるが……情けない自分を殴りつけるよりも先にこめかみに冷たくも硬い何かが触れる。

 

「ああん?」

 

 だが、ちらりと見たきり歯牙にもかけない。そんな物よりも、壁に空いた穴向こうにいる剣客の方がよほど怖い。まるで、薄暗い巣穴から顔を覗かせる正体不明の獣のようだ。

 

 ……ああ、そうだ。怖いのだ。

 

 はっきりと自覚すると身が震える程にこいつは怖かった。いつの頃からか……肩に突きこまれた時からか、それとも実は対峙したその瞬間からだったのかもしれない。

 

 自分は確かに、あの男は怖いのだ。

 

 あの人を若造、小物とあからさまに見下している言動には無条件で反発するが、それを踏まえても確かにあいつは恐ろしい。あの銀色の切っ先が獣の牙のようにぬらぬらとぬめり輝いている様が恐ろしい。だが……それでも侮られてよしとする程に彼は老けてもいなければ幼くもない。

 

 にい、と口角が上がった。それが止められなかったし、そもそも止めるつもりも全然なかった。

 

 笑い顔のように見えたが、違う物だった。歯を剥き出しにして、食いちぎってやると言う強烈な闘志の顕われだ。

 

 あいつが怖い……それは認めよう。なら、それを愉しめ。怖さを食いちぎって、口の中で転がして、味を堪能しろ。

 

“怖い事は面白い”だろう?

 

 怖いから、挑むんだろう。挑んで超えるから、面白いんだろう。挑まないなら“やっとう”の世界なんかに首を突っ込んでいる意味……ないよなぁ?

 

「こ、こちらを向け! この大バカ者がぁッッ!」

 

「……」

 

 肩から血が抜けていくのを実感しつつも、反比例するように体に力が満ちていく。もちろん錯覚だろうが、そんな事はどうでもいい……ただ、その力のぶつけ先は目の前でいつでも来いと嘯いているのだ。

 

 さあ、行こう。

 

 そう思った矢先に、金切り声が横やりを入れてきた。ちょうどいいところで邪魔をしやがってと、口を利く気にもなれない。

 

「まったく……真正面から警察署に殴りこんでくるなど馬鹿な真似をしでかす男だと思ったが……まさか、拳銃を突きつけられても気が付かない程の極端な馬鹿だなどとは……さすがに考えもしなかったぞ」

 

「おい、デコッパゲ」

 

 口は重々しく声もまた低く、非常に嫌がっているのはまるわかりだった。

 

「だ、だから誰がデコッパゲだ! 貴様、状況を理解していないのか!?」

 

わかっていない男が奇妙に甲高い声でわめく。それもまた、左之助の癇に障った。

 

「わかっていねぇのはてめえだろうが」

 

 こめかみに感じているのは銃口の感触。引き金を握っているのはいきり立っている様子の警官。

 

 だからなんだ?

 

「すっこんでな。そんなもんでどうにかできると思っているお前は場違いもいいところだ。こうやって手の届く場所にいる以上は……てめぇなんぞじゃ何にもできやしねぇよ」

 

「……なんだと?」

 

 こいつは、もしかして単純だの頭が悪いだのではなく……今の状況も理解できない程の大馬鹿なのかと呆れかえった。上から見ていても結構な強さであるように見えたが、こめかみに銃口を突きつけられて何ができる? 

 

 どんな名人達人でも何もできない。考える必要などない程に当たり前の話だ。

 

 だと言うのに傲岸不遜……とさえ言えないこちらを石か何かのように思っている態度を貫くのは、もはやどうかしている。

 

 それは当たり前の考えだった。

 

「川路警視総監殿」

 

 低い声がした。壁向こうの大穴から、刃の持ち手が声をかけてきた。

 

「なんだ、斎藤! ……こんな破落戸に手こずりおって、さっさとこのまま牢にぶち込んでしまえ! こんな危険人物、口を割らせるのに手加減する必要はないぞ! 拷問にかけてでも、あの男の事を白状させろッッ!」

 

 そうか、こいつは斎藤っていうのか……藤田とか言ってなかったか?

 

 左之助は自分に何度も白刃を突き立ててくれた男の名前を初めて知った。そういう奴の名前は知っておいて損はなかった。

 

「……早く逃げた方がいい」

 

「……何?」

 

 期待していた返事ではなかった為に、理解までが遅かった。

 

「そこはそいつの間合いだ。あんたの場所じゃない…あんたの場所は、もっと遠くだ。先ほどのように距離を取る……地上と三階ほど距離が開いて、ようやく安全だ」

 

「…………」

 

 聞いている内にどんどんと目が血走り、唇がひょっとこのように引き攣っていくのがわかった。川路警視総監殿は、自分がこれ以上ない程に侮辱されていると思った。

 

「斎藤……お前は、私がこんな若造の前にも立てない程に臆病だとでもいうつもりか? ええ?」

 

 指が引き攣り、極端に引き金が軽く感じる。川路の中からいいだろう、もう引いてしまえと言う声が声高に聞こえてくる。川路の中にいる川路達のほとんどがよし、引いちまおうとうなずいていた。

 

「悪いがこの状況となっちゃあ余裕がない。臆病だのなんだの言っている暇があったらさっさと出ていってくれ。署長、あんたもだ」

 

 斎藤だけを睨んでいる左之助は今の今まで気が付いていなかったが、彼らから少し離れたところで見覚えのある男が熊か何かを前にしているような引き攣った表情を隠せずに立っている。逃げ出したいが逃げ出せないと顔が語っている。

 

「警官だからかい」 

 

 左之助が、その男には声をかけた。斎藤だけを見て目が離せないと背中で語っている男が興味を抱いた。

 

「……?」

 

「それとも……このデコッパゲを見捨てられないからなのかい、逃げないのは」

 

「……それに、倒れた部下の事もある。私が君の存在を総監に報告し、それが本件の発端だ。だったら、私は逃げてはならない。警官として、上官として、それに今回の発端としてだ」

 

 男は脂汗をかいて、窓際から動いていなかった。そこにいたのは川路も同じだが、彼は左之助が転がり込んできた時に好機だと駆け寄ってきたのだ。

 

「署長! 何をしている。貴様も銃を抜かんかッッ!」

 

「…………」

 

「目の前に凶悪犯がいるんだぞ! 部下は一人もいないと言うのに、自分でやると言う意思を持たんでどうするッッ! 総監たる私だけにやらせるつもりか!」

 

 警察署長と、そのてっぺんに立つ警視総監。立場の違いは明白だ。

 

 だが、署長は総監の命令を無視した。正確には、聞けなかった。

 

 自分が拳銃を抜けば……あるいは少しでも動けば、この男も動く。そしてそうなれば、抵抗できずに瞬く間に蹂躙される。予感などと言う曖昧なものではなく、確信と言うべき予想があった。

 

「何をしているッ! 命令だぞッッ! 警視総監たるこの川路の命令が聞こえないのか!」

 

 自分はこの命令を応じなければならない立場にある。だが行動を起こした瞬間に自分たちは喧嘩屋にどういう目にあわされるのか……署長にはわかった。

 

 それは臆病風に吹かれた末の思い込みに過ぎないのか、それとも冷静な状況分析の結果であるのか。

 

 どちらにしても、板挟みにあっている彼は命令に従う以外の道はなかった。それが組織人としての当然の在り方であり、彼はその枠から外れる事が出来ない。

 

 彼が唇をかみ、仕方なくも自分にできる最速の動作で拳銃を抜こうとした。ホルスターに納められているグリップに手をかけようと指が触れたか触れないかの時に……ごきぃ、と音がした。

 

 なんと言うか、聞き慣れなくて例えようのない奇妙な音だった。あまりにもおかしな音で、つい元々乗り気ではなかった動きが止まってしまった。

 

「はえ?」

 

 それは今の今まで、頭に冷水をかければ即時に蒸発するのではないのかと思う程いきり立っていた男の上げた奇声だった。

 

「いい加減にうるせぇ。付き合っていられねぇよ」

 

 そう言った喧嘩屋は自分に突き付けられていた拳銃を逆に掴み取った挙句、川路の手首ごとひん曲げていた。

 

 今の奇妙な音は川路の手首が外れたか、最悪圧し折れた音だったのだ。

 

「ぎぎゃああッッ!?」

 

 痛みが脳天に到達したのと叫び声を上げ始めたのとどっちが先なのだろう。

 

 引き金を引くどころか膝をついて悲鳴を上げた警視総監を、左之助は手首を捻り上げたまま冷たい目で見下ろした。それは斎藤も同じだった。

 

「……だからすっこんでろと言ったんだよ」

 

「……だから逃げろと言ったんだ」

 

 全く同時に同じような顔をして、二人の男たちは吐き捨てた。

 

「……」

 

「なんだ」

 

「真似してんじゃねぇよ、警官」

 

「それはこっちのセリフだ、破落戸」

 

 腕をへし折られて必死に歯を食いしばっている男をしり目に、奇妙に息の合った様子で互いを睨む二人に第三者的な立場になってしまった署長はどうにもついていけない不気味さを感じる。

 

 ただ、彼らは互いを前にして軽口を叩きつつも油断は隙を見せなかった。

 

 壁に空いた巨大な穴越しに互いを睨みやり、間合いを計り、次の一合をどうこなすかを図っている。

 

 彼らの間にぴんと張られている緊張感はまるで水の底に引きずり込まれているかのように胸を締め付ける圧迫感となり、見ている男を竦ませる。何故、腕をへし折られて呻いている川路はこれに気が付かないのか不思議な程だった。

 

「所詮は……元維新志士という事なのか?」

 

 川路と言う男が明治維新においてどんな風に貢献したのかなど知らないが、仮にも警察と言う組織の中で一、二を争う地位に抜擢されているのだ。柔な生き方をしてきた男のはずがない。

 

 だと言うのに無造作に近づいた彼の鈍感さは何という有様だろうか。

 

 それこそ、銃口を目前にして平然としているような暴挙だ。実際には逆の立場であるにも拘らずのたうつ側に回ってしまったのは皮肉と言うのもおかしな結末だったが……

 

「ふうぅ……」 

 

 壁の向こう側に立つ眼光鋭い男が大きくため息をついた。

 

 なんでだろうか、それが誰かを馬鹿にしているような気がして……しかし追求は危険な気がした。主にどこかの誰かの堪忍袋の意味合いで。

 

「さっさと失せろ、喧嘩屋」

 

「あんだと?」

 

「本陣に殴りこんで散々暴れた挙句、大将の腕一本圧し折ったんだ。そろそろ手打ちもいい頃だろう」

 

 言いながら斎藤はさっさと刀を納めた。その一人で勝手に決め込む態度に左之助はいきり立つ。

 

「おい、寝ぼけてんのか? この糸目野郎!」

 

 理屈以前に勝手に決め込まれて話を動かそうとするのは腹が立つが、そもそも話がまだ終わっていない。

 

「そっちの署長も言っていたがな、大体てめぇらが俺にいったい何のうらみがあって夜討ちなんぞかけてきやっがたのか、まだ白黒はっきりしちゃいねぇんだ! そこんところ筋を通しやがれ!」

 

 悠長にさっさと煙草に火をつけると、大きく紫煙を吐きだした。

 

「大体話は察しているだろうに、面倒なガキだ……それとも、話が未だに分かっていないほど頭が悪いのか?」

 

「やっかましいわ!」

 

 殊更に冷静かつ静かな口調で煽られると尚更に腹もたつ。

 

「どうにもてめぇとはウマが合わねぇようだな、糸目野郎……散々人をコケにしやがって……」

 

「それについては同意だな」

 

 刀を納めれば自分が手をださないとわかっている態度が殊更にイラつく。腹だの肩だのから抜けていったはずの血が一挙に頭に上っていきそうだ。

 

「……今回の件は、明治政府が君の師匠を恐れているのが発端だ」 

 

 どうやら自分とこの男の相性の悪さは並大抵ではないらしい、と悟った左之助の耳に声が届いた。

 

「……」

 

「私も京都で戦った事はないが明治政府の人間だ。私程度の地位では大した事を知らないが、それでも京都の鬼については一度ならず聞いた事はある。ただの噂話……怪談のようなものとしてだったのだが……」

 

 目を向けると、冷や汗を流しながら語り始めた署長がいた。

 

 彼がちらちらと目を向ける窓の下には、未だに混乱の中で駆けまわる、あるいは地べたを嘗めて動けない警官たちが数多い。

 

 他でもない“彼の”部下たちだ。

 

「先日の武田観柳捕縛の際に緋村さんと君、そしてあの四乃森蒼紫と言う男が語り合っていた内容は私も聞いていた。先日、緋村さんの話を聞きに来訪された明治政府重鎮のとあるお方にその話もしたのだ」

 

 その時は、正直なんとなく話しただけの四方山話にすぎなかった。むしろ、彼こそが時折聞いた奇妙な噂話の真偽を聞きたいという程度だったのだ。

 

 それが藪から蛇を出してしまった彼の心境は押して図るべし。

 

「政府のお偉方だぁ? ……この野郎じゃねぇだろ」

 

「き、貴様ッッ! 浦村! 余計な口を利くな! ごびゃ!」 

 

 手首の痛みに脂汗を流してそれを止めようと泡まで吹いている川路だが、無言で左之助の繰り出した拳に脳天を直撃され黙らせられてしまう。

 

「唾までまき散らすなよ、きたねぇな」

 

「…………」

 

 本気で警視総監という肩書を屁とも思っていない喧嘩屋に冷汗一滴追加されてしまったが、ここまで行くと語り続けるより他にはない。

 

「それが誰かと言うのは言えない……ただ、私を通して事と次第を知った明治政府は、私からすると幻とも思っていた鬼のごとき男を恐れ、その弟子であるかのような君も警戒し始めた」

 

「…それで今晩、とうとう俺に襲い掛かってきたって事か。もっと手短に纏めろよな。つまりは腰抜け政府が師匠にビビった挙句に藪蛇突いたってことだろ」

 

 おまけに出てきた蛇は手に負えない。そもそも手に負えない男とその弟子だからこそ警戒していると言うのになんで安直に手を出したのか。

 

「……返り咲きの手柄欲しさに手を上げた宇治木達が、維新志士のよしみで抜擢されたのを止める事が出来なかったのがそもそもの原因。そもそも最初から同行どころか捕縛でさえなく、殺傷を目的としていた節があるからな……」

 

 ちなみに抜擢したのは、左之助にのされているどこかの誰かだ。

 

「それで済ませていい問題じゃねぇだろ。部下の暴走って、そりゃもちろんそいつもわりぃが上の責任だってあるだろうが」

 

「……」

 

 うなずきたいのだが、立場上それができない。そんな顔をしている。責任云々を説くならば彼は自分自身の今回の事件に対する責任を感じているようだが、なんと言うか……人のいい男だった。おおよそ、上にも下にもろくなのがいなくて苦労をしているような、それでも周囲に慕われているような……漠然とそういう人物である印象を受ける。

 

 こういう人間に強く出るのは、なんと言うか……いまいち本意ではない。

 

 最も、こういう時に頭を下げる事も出来ねぇからダメなんだ、とも思う。警察組織としての面子という物なのだろうが、失敗をした場合に下げた頭につられて崩れる程度の面子なんぞ最初から意味がない。

 

 子供でも分かっている話だが齢を取る程、そして集団となり輪の中にいる人の数が多い程に当たり前の事を受け止められない人間ばかりになる。喧嘩屋の破落戸でもわかっている事を、警官のお偉方はわからなくなっているのだ。いや、正確にはわかっているが力づくでごり押しすれば下げなければならない頭も下げずに済むと“わかっている”と言うべきか。

 

 なんだかよくわからない方向に偏り始めた思考を舌打ちで戻した

 

「……俺が師匠みてぇに見境なく暴れだすとでも思ったか? それとも近々師匠が帰国するから、人質にでもしようってのか? 嘗められた話だぜ」

 

「もうすぐ帰ってくるだとぉッッ!?」 

 

足元から素っ頓狂な声がして、頬には壁向こうからの強烈な視線が刺さる。

 

「……知らなかったのかよ」

 

 血走った眼をぎょろりと梟のように剥いて叫ぶ警視総監が、叫んだ拍子に折れた手首を床についたおかげで再度のたうち回る。痛覚神経を駆けまわってタップダンスまで踊る電気信号に呪いを吐きながらも必死になって荒い息を吐きながら必死になって左之助に言及しようとするのはいい根性と言えるのかもしれないが、川路に配慮をする意思など左之助には全くない。

 

「あ、あんな……あんな化け物が日本にいるなど他の誰が認めてもこの儂が認めんッッ! あれは明治政府を蝕む病の元だッッ! あんな奴を野放しにしてしまえば明治政府はお終いだッッ! 志々雄以前の問題だッッ!」

 

 志々雄、とやらを左之助は聞き逃さなかったが敢えて口に出したりはしなかった。明治政府に不都合な……例えば大西郷のような誰かが他にもいるのかとだけ意識したが、今はそういう場合ではない。

 

「あっそ。たかだか腕っぷしがつえぇだけの一人の男にへし折られるんじゃねぇかとびくびくしているようじゃ、明治政府の屋台骨もたかが知れてんな。いっそ圧し折った方がすっきりすらぁ」

 

「馬鹿を抜かすな! 明治政府なくして日本の繁栄はあり得んのだッッ! ふざけたこと抜かすと逮捕するぞ、破落戸がッッ!」

 

 容疑なくして逮捕を強行しようとした挙句に返り討ちに合った警察組織の頂点が、地べたを嘗めているこの男である。この状況でこうも威勢がいいのだから、肝っ玉の太さは大したものだ。

 

「それがお前らの驕りだってんだよ。たかだか男一人に怯えている癖に、その弟子が相手となると力づくで理不尽を通そうとしやがる。そんな無様な政府なんぞ、さっさと滅んじまいな。いや、師匠が手を下すまでもねぇ。そんな弱腰の腐った政府なんぞ、今の内に俺が潰しておいた方が世の中の為になりそうじゃねぇか」

 

 喧嘩屋は頭の天辺から尻の先まで正真正銘の本気でそう言っていた。自分たちを踏み台にして作り上げたのが砂上の楼閣だなどと、断じて認められない赤報隊の意地である。

 

 そんな真似ができるものかと笑う事は出来なかった。

 

 その痛烈な意志を籠めて三人を順々に睨みつけていくと誰も目を逸らさなかったが、それぞれの意味合いが違った。発端となった後ろめたさを抱きつつも事の責任を取らなければならないと歯を食いしばっている男と、引く事など考えた事もないとばかりに眼光を刃のように光らせる男と、そんなふざけた真似はさせないと烈火の怒りを抱く男がいた。

 

「……き、貴様は危険だ! あの男のように、あいつらのように明治政府に牙を剥く危険な反逆者だッッ!」

 

「馬鹿かよ、てめぇ。あいつらがどいつらか知らねぇが、俺に喧嘩を売ったのはお前の方だ。師匠が怖えからと言って、俺にも一緒くたに手を出してきたからこんな事になったんだよ。てめぇら明治政府の自業自得だ!」

 

 左之助にとってはそれ以外の何物でもない。

 

 同時に、川路にとっては危険人物の戯言でしかない。京都の鬼と畏怖される男の下で鍛えた元赤報隊の男など最初から危険人物であるに決まっているのだから。

 

「……野良犬よろしくにらみ合うのは結構だが……さて、どう決着をつけるか」 

 

 ぎょっとして斎藤を見たのは浦村だけであり、眼光でしのぎを削る二人は気が付いていないようだ……今なら斬りかかって獲れるか?

 

 いや、やめておこう。最も知りたい事は今知れた。

 

 あの鬼と呼ばれた人型の災害が一体どこで何をしているのか……何よりも、再び自分たちの前に現れるのか。

 

 壁向こうから両者のにらみ合いを見て、話をどう終わらせるべきかと眉間にしわを寄せる。

 

 うかつにこの喧嘩屋に手を出せば、鬼がどう出るのか……それがわからない分、こいつの命まで奪うわけにはいかない。

 

 藪をつついて既に十分面倒な事態にはなっているのだ。これ以上、上乗せで突いて藪から鬼まで出すわけにはいかない。

 

「しかし……あの鬼が弟子を採るようなタマとも思えんが?」

 

 にらみ合っている喧嘩屋は確かに大した腕だ。

 

 自分の繰り出した牙突が本当の意味で命中するまでに片手で足りない程に空かし、受け、時には返して見せた。確かにそれはそれで大したものだが……自分の記憶にある鬼とは流儀がまるで違う。

 

 あの暴力の化身と喧嘩屋とは名ばかり、拳法を身に着けていると断言できる男が師弟関係にあるとは思えなかった。

 

「なんでぇ、まるで師匠と会った事があるみてぇな物言いだな……そう言えばてめぇ何者だ? 新選組の生き残り……らしいけどな。生憎とせいぜい近藤、土方、沖田の三人しか知らねぇんだよ」

 

「ふん……まあ、そんな所だろうな」

 

 どれも後世まで延々と語り継がれること間違いないしと言い切れる三人だ。

 

 発祥、活躍、そして終焉までが花火のように燦然と輝きつつも儚い新選組と言う組織を代表する三羽烏。あるいは、たった一代限りの短い組織でありながらここまで名を残している集団は日本の歴史に存在しないのではなかろうか。

 

 かの赤穂浪士でも及ばない、日本史に輝く侍集団。

 

 幕末、維新と言う時代の節目を象徴する意味では、敗者であるからこそ勝者である維新志士でさえも及ばない。他の全ての幕臣が忘れ去られても新選組だけは忘れられるわけがないと言い切っていい。

 

「……ここまでの奮戦に免じて教えてやる。俺は斎藤一……元新撰組三番隊組長だ」

 

「ふうん……偉そうに……組長ね。ヤクザみてぇだが、って事はあの噂に名高い天才剣士と同格って事か。剣心との因縁は?」

 

「抜刀斎は、俺たち新選組にとっては決着のつかなった敵だ。特に俺を含めて一、二、三の組長は繰り返し京都で戦い続けたが、いつも決着はつかなかった」

 

「……なるほどな」 

 

 左之助は反射的にどちらが勝つのかを考えた。ここまでの手応えを考慮すると、癪だが目の前の気に喰わない新選組の方が強いと思えた。

 

 剣心は不殺を志して貫いている。

 

 それはそれで立派な事なのだろうが、どうしてもそれが剣腕を鈍らせているのは間違いない。

 

 ……目の前でこれ見よがしな悠長さを演出して煙草を吸うこいつは、いずれ必ず剣心に牙を剥くだろう。それもおそらくは相当に近いうちに……それは確信でさえなく必然だ。

 

 男と男が因縁に決着をつけないなど、左之助にとっては想像さえできない話だ。

 

「てめぇ……そのうち剣心を斬るのか」 

 

 だからどうした、と言われてしまえばぐうの音も出ないような稚拙な聞き方だった。未だに先の剣心達との物別れが響いているからこそ、そんな滑稽な聞き方をした。俺には関係ねぇだろ、という似合いもしない葛藤が彼の中にあった。

 

「その気にはならん」

 

「……何? 意外な事を言うじゃねぇか」

 

「俺が決着をつけると思っているのは人斬り抜刀斎だ。十年間もかけて鈍りきった流浪人などではない」

 

「…………」

 

 左之助は知りたいことがあった。

 

 全盛期の人斬り抜刀斎は、今の流浪人よりも強いのか。だとしたら、それはどのくらい違うんだ?

 

「ふん!」

 

「…………ッッ!」

 

 ふいに川路の足を捻り、膝と足首を挫く。

 

「この後、歩けるようになるかどうかは運次第……まあ、これでけじめとしてやらぁ」

 

 そのまま、誰かが何かを言うよりも先にだん、と高く音を上げて窓へと飛んだ。

 

「そいつが、ししお……って言ったな。師匠だけじゃねぇ、そのししおってのが今回俺に手を出してきた理由なのか」

 

「……だったらどうする?」

 

「お前らの一番いやな事をしてやるのも面白れぇ。そう思ったのよ」

 

 捨て台詞を吐くや否や、喧嘩屋は窓を蹴破って夜空の向こうに身を翻した。背中に染め抜かれた悪一文字が二人の男たちの脳裏に強く印象付けられる。

 

「……藪を突いてとんでもない蛇を出してしまいましたな」

 

「ふん……」

 

 つまらなさそうに息をついた男も、あの喧嘩屋はただの雑魚ではないと認めざるを得なかった。その証拠が、足先から痛みを脳天にまで伝えてくる。

 

 喧嘩屋の首を掻っ切ろうと切っ先を突き出す瞬間に、強烈に踏みつけられたのだ。おかげで思わず切っ先を止めてしまった。

 

 あんな若造に不覚を取った。

 

「……抜刀斎の事を鈍ったなどと笑えんか」

 

「……緋村さんか。事件を知ればここに来るだろうな。緋村さんには、私から説明しよう。でなければ申し訳が立たん」 

 

「もしかしたら、その必要はなくなるかもと思いますがね」

 

「……何?」

 

 新選組の生き残りは煙草を懐から新しく取り出して、火をつけた。

 

「いずれ、アレのところには政府から声がかかる……元々その予定だったんだろうが、今回の事件でそれは早まるはず。あなたには、むしろ口出しするなと命令が出るんじゃないかと思いますよ」

 

「…………」

 

 無言になる浦村の中にはどんな感情が渦を巻いているのか……それを斎藤は気にかけなかった。今回の事件が、自分が追いかけている本来のヤマにいったいどんな影響を与えるのか、そしてそれは往年の宿敵をどんな形で動かすことになるのか。

 

 それに頭が痛くなるような気もすれば……どこか高揚を感じている自分もいる事は自覚していた。全身に走るあちこちからの痛みという信号が、かつて京都で強敵と渡り合っていた頃の自分を蘇らせている……新選組の三番隊組長と呼ばれていた男が、自分の影から……いいや、幕末の京都の夜からゆっくりと起き上がってきている。

 

 自分の背後から二人羽織のように、それが重なってくる感覚を彼は楽しんでいた。

 

 

 

 

 

「……左之助?」

 

 誰かが自分の名前を呼んだ。

 

 指名手配されてからこっち、仲間たちの手を借りて隠れてはいても警官相手には分が悪い。

 

 二日間逃げられているのは、左之助がまともに動ける警官たちを大きく減らしたからだ。だが、いい加減にそれも限度が来ている。

 

 いい加減にまずい。

 

 突発的に起こった事件により塒を追い出され、さてこうしようと方針を決められる人間はなかなかいない。ましてや左之助は現在、他の目標に向かって邁進している最中だったのだ。

 

 切り替えなんぞ器用にできはしない。とはいっても、悠長な事を言っている事態でもない。

 

 さて、どうするかと漠然とした指標も見いだせずに頭から湯気が出るほどに悩んでいる左之助の背中にあまり馴染みのない声がかけられた。

 

「……誰だ、あんた」

 

 振り返った左之助は訝しんだ。

 

 一応、人目を避けていた左之助に声をかけてきたのは見覚えのない男だった。

 

 警官にもその協力者にもとても見えない風体の若い男。顔立ちは整っているがどこか陰気な雰囲気で、ハチマキと半纏をした職業不詳……何とはなしに見覚えがなくもないが……

 

「見てわからんか」

 

「あん?」

 

「……赤報隊の崩壊以来だからな、当然か」

 

「ッッ!?」

 

 決して聞き捨てできない名詞に目を見開く。赤報隊、その名前を口にするこの男がどこの誰なのか……左之助の脳裏に未だ色褪せない幼い激動の日々が浮かび上がり、その中から目の前の男を取捨選択していく。

 

 結論はすぐに出た。

 

「……お前、克?」

 

「元赤報隊準隊士、月岡克浩……本人だ」

 

 月岡克浩……赤報隊で唯一左之助と年齢、立場が同じ仲間だ。

 

「お前……なんでここに……」

 

「おかしな事を言う奴だ。今の東京でお前よりも名前が知られている奴はいないぞ、指名手配のお尋ね者」

 

 口元をほんの僅かに綻ばせた月岡の顔を見た左之助の表情からこわばりが消えた。

 

「なるほどな。ちげぇねぇや」

 

 自分でも意識しない間に相当の緊張をしていたのだと思い知った左之助を前にして、月岡が包みを持ち上げた。

 

「とりあえず……どうせろくなものを食えていないだろう。飯だ」

 

「おお! こいつはありがてぇや!」

 

 喜ぶ左之助の顔には怪しむ色が全くなかった。十年ほどだろうか、赤報隊が壊滅してから一度も出会っていなかった旧友との再会を彼は全く不思議に思ってはいなかった。無防備なまでの姿は、そのまま彼の中にある赤報隊への思い入れである。

 

 とりあえず、思うが儘に腰を下ろして差し入れをがつがつと貪る左之助。なんにしても、空腹だったのは間違いなかった。

 

 それが人心地をつけば、後は互いの過ごした時間を語り合う時間だ。

 

「お前はあれからどうしていたんだ?」

 

「おう……あの日、赤報隊が瓦解してからこっち一年だけある人の弟子をしていた。覚えているか? 処刑場の前でさんざか暴れまくったあの人」

 

「あの大男か」

 

「おう。あの強さに憧れてな。あの日……あの時、あれだけの力があればと思わずにはいられなかった」

 

「……」

 

 月岡は元々見るからに陰気だった。しかし、赤報隊の名前が出てからこっち輪がかかった。

 

「そうか……お前もこの十年、赤報隊を忘れられなかったんだな」

 

 俺も同じだ、と彼は背中に影でも背負っているんじゃないのかと左之助が真剣に疑った程に暗かった。そう言えば、こういう奴だったとも思い出す。

 

「お前……なんか昔に輪をかけて暗くなってんな……もしかして、今も友達いねぇのか?」

 

「…………」

 

「まあ、気持ちは痛ぇ程にわかるがな」

 

 あまり沈黙が金にはなっていない旧友につられたわけでもないが、彼も妙に神妙な気分になった。

 

「……それで、お前は今回何をやったんだ? 手配書は回っているが、そんな物を鵜呑みにするつもりはない」

 

 話をそらすと言うよりもまるきり気にしていないような様子で本題に入る。左之助もわざわざ追求するような話でもないので構わないが、ちょっと悲しくもなった。

 

「まあ、簡単に言えば俺の師匠が誰なのかって明治政府が今更に気が付いたらしくてな。なんでも幕末の京都じゃ維新志士に鬼なんて呼ばれる程に暴れまわったらしくて、いまだに恐怖の的なんだと」

 

「ほう……それは何とも痛快な話だな」

 

 おそらく、彼が今頭の中で想像している絵とは桁が二つ三つ違うと思う左之助だった。

 

「すると、お前は師匠の因果で捕まりかけたと?」

 

「まあそうだな。問答無用で寝込みを襲われて、そのままやり返して。理由がわからねぇから警察署に殴り込みをかけたら命令を出したのが師匠にびびっている警視総監とやらだってよ」

 

「……何? 警視総監? いや、それよりもお前警察署に殴り込んだのか!?」

 

「お? 知らなかったのか」

 

「手配書には曖昧な事しか書いていなかった」

 

 噂を探ろうにも愛想無しで陰気な彼には苦手な部類だった。実はこの男、人間嫌いで通っている。

 

「よく無事だったな」

 

「無事じゃねぇよ。肩だの腹だの刺されてろくな目にあっていねぇ。新選組の生き残りとかいうのがいてよ。そいつがまあ、むかつく野郎だったぜ」

 

 けろっとした顔で言う旧友に二の句が告げられない月岡だった。やっている事もでたらめで、そもそもできる事が無茶苦茶すぎる。更に言えば、月岡は知らないが素手の一人というバカの極みな真似だったのだ。生き残れなければ稀代の馬鹿として歴史に汚名を残していただろう。

 

 とはいっても、実は月岡自身も人のことは言えない。

 

「く……めちゃくちゃな男に育ったもんだな。おかげで俺の内務省を破壊する計画がおしゃかだ」

 

「……ああ? ……内務省?」

 

 聞きなれない癖に聞き捨てならない単語が鼓膜まで届く。

 

「……という事だ」

 

「……おい」

 

 顔面を手で覆って、いかにも頭が痛いですと言う表情の相良左之助。この男が人にそういう顔をさせても、自分がそういう顔をすることは稀だ。

 

「……今聞いたのをまとめると、だ」

 

「ああ」

 

「赤報隊時代に貯めこんだ火薬とかのやべぇ知識を使って自分なりに炸裂弾なんてもんを十年近く使ってちくちくちくちく夜なべしていたと」

 

「縫物みたいに言うな、面白い」

 

「そいつで内務省を木っ端みじんにする計画を秘かに立てていたと」

 

「ああ」

 

「しかも、仲間も一人もいなくて全部お前単独だと」

 

「他人なんざ信用できるか」

 

「……俺が大騒ぎを起こしたせいで予定がめちゃくちゃになって、調べといた警備の配置とかも滅茶苦茶になったんで、計画は一旦仕切り直しと」

 

「そうなる。まあ、気にするな。お前のやった事は、それはそれで痛快だったからな」

 

「…………そうか」

 

「ああ」

 

 左之助は自分の頬肉が痙攣しているのを自覚した。ひどく気持ち悪い感触だったが、止めるに止められなかった。

 

「馬鹿か、お前! なんつうか……馬鹿すぎるだろ、お前!」

 

 語彙のない左之助は、決して鏡に向かって叫んでいるつもりはない。

 

「失礼な奴だな。確かに馬鹿な計画だと自覚はしているが、それ以上に大馬鹿な真似を実行したお前にだけは言われたくないぞ」

 

 反論の余地は一つもない。

 

「そもそも……太平の世と大きな声で謳われている世の中に対して、敢えて違うとがなり立てるような真似をするんだ。馬鹿は百も承知でやっている事だ」

 

 月岡の顔は笑みを浮かべていた。左之助には言わなかったが、今回の事件を知るまで十年以上笑った事などなかった。だが、今回の事件を知って久しぶりに笑った。

 

 たった一人で、大声でもなかったが確かに唇は綻んだ。旧友と再会した今となっては、まるでかつての頃に戻ったかのように馬鹿な事ばかり口にしている。

 

「馬鹿でもなんでも構わない。世間の連中から見れば俺たちは危険人物にすぎないのだろうが……どうでもいい。俺にとっては、俺たち赤報隊に濡れ衣を着せた明治政府の連中もそいつらが作り上げた似非平和も糞くらえだ」

 

「……まあ、そいつはこの間もう一度思い知った事だがな」

 

 あるいは、左之助も平和を似非と嘲る言葉には否を唱えたかもしれない……この間までなら。

 

 だが、つい先日に政府の手でどうしようもなく腹だたしくも理不尽な目にあわされてしまえば太平も維新も元々感じていた以上に薄っぺらな政府の為のお為ごかしに成り下がる。

 

 確かに当人に問題は多々あるが、警察が左之助を捕らえようとした動機そのものは濡れ衣、あるいは言いがかりだ。親の因果が子に報うではなく師の因果が襲い掛かってきているなど納得も理解もしてたまるかと拳を打ち込みたくなる。

 

 相良左之助にしてみれば、これこそが正に彼が憎むべき権力の横暴。十年前に赤報隊に背負わされた悪一文字をもう一度上乗せる明治政府の“正義”だ。

 

「白を黒にする、善も悪にするのが維新志士の十八番ってな……」

 

「…………」

 

 既に遠い昔に別れた相手のようにも思えてくる流浪人達と初めて会った時に、そんなようなセリフを口にしたのを思い出す。

 

 我ながら、どこかで聞いたような口だ。だが、嘘ではないと証明された。

 

「……これからどうするか、決まっていないのだろう」

 

「まあな。今回の事は、寝耳に水ってやつだったからな」

 

 ふん、と腰を上げてみる。

 

「……どうする?」

 

「訳もなく暴れちまえば、迷惑かけたくねぇ連中にまで面倒かけちまう。かと言って、明治政府に頭を下げるなんざゴメン被る。あと、師匠との約束もある……そうだな、今思いついたが……下諏訪に行ってみるわ」

 

「下諏訪……俺たち赤報隊が終わった?」

 

「いい機会だ。隊長たちも墓がねぇからな……墓参りも兼ねて修行の旅に行ってみるわ。その後で師匠との約束を果たして……その後の事は生きていればだな」

 

 明治三年、相良塚(魁塚)と云うものが有志の手により作られた。場所は下諏訪……まさしく処刑場跡に彼らの死を悼んで拵えられた。

 

 この男は知らなかった。

 

 明治という時代では仕方がないのかもしれない。

 

「生きていれば?」

 

「こっちの話だ。それじゃ、ちっと行ってくる。お前……ここで俺と話した事を警察にとやかく言われたら脅されただの集られただの、好きに言っとけ」

 

 月岡は見損なうなと怒るではなく笑った。

 

「そうだな。俺は赤報隊の元準隊士で指名手配犯の仲間である月岡だと大声で笑ってやるさ」

 

 左之助もまた、にやりと笑った。

 

「やめとけよ。慣れていねぇのに大声上げっと顎が外れるんじゃねぇか?」

 

「抜かせ。なんで慣れていないと決めつける」

 

「昔っから仏頂面だったじゃねぇか。久しぶりに会っても変わってねぇ」

 

「お前も、相変わらずだ。警察署に殴り込むなど単細胞にも程がある」

 

「違いねぇ」

 

 どこぞの警官に似たような事を言われると腹が立つが、まあ旧友ならば再会祝いで許そう。実にしょぼい再会祝いである。

 

「おまえの分もみんなに報告しといてやる。なんて言っとけばいい?」

 

 悪一文字越しの背中がそう言うと、月岡は半纏の袖の中で腕を組んでさて何と答えたものかと眉をしかめる。なるほど、笑顔よりもしかめっ面の方が板についている男だ。日頃の表情からしてそういうものなんだろう。

 

「そうだな……」

 

 それが少年のように緩んだ。ほんの一瞬だけだが、間違いなく。

 

「俺はまだ赤報隊を忘れていない。それを伝えてくれればいい」

 

「あいよ」

 

 赤報隊を忘れていない。それは左之助も同じだ。だがそれはそれとして……

 

「……しっかし、あいつも内閣府に爆弾なんざぶっ放した日にゃあ無駄死にの挙句に歴史に名を遺す大悪党になっちまうぜ。俺の殴り込みも思いがけないところで怪我の功名だったんだな」

 

 彼は一度、適当な医師に頭骨の中身を診察してもらった方がいいだろう。

 

 

 

 

 一方、その頃。

 

 京都の海でも事件が起こっていた。

 

 上海の方面からゆっくり……ゆっくりと。

 

 一体どんな能無し船員が動かしているのか、あるいは酔っ払いが動かしているのかと真剣に疑いたくなるほどに鈍間な動きで船が一艘やってくるのだ。

 

 いい加減な操船で動かされているようだが、それに反して相当に大きな船で、しかし奇妙におんぼろな有様は今にも自然と崩れ落ちそうな程だ。舳先だの艫だの言わず、竜骨から真っ二つになってしまいそうな程である。

 

 見た目も相まって、あまりにも鈍間な動きは不気味ささえ演出しており幽霊船ではないのかと大の大人が深刻に不安に思うほどである。

 

 一体、どこの間抜けがこんな操船をしていると言うのか。どんな三流船会社でも雇わないほどに船員失格だろう。

 

 ……幽霊戦の船員はいったい何者であるのか?

 

 もしも誰かがわざわざそれを見ようと船に忍び込んだのであれば、どんな豪胆な海の男であっても腰を抜かしてしまう目にあったに違いないだろう。

 

 船の甲板には人目も憚らず堂々と、地獄の鬼がいたからだ。

 

「……ふん……頭目以外はつまみ食いにもならねぇ三下以下しかいやしねぇ……上海マフィアとやらも名前ばかりか……」 

 

 数多の屍、あるいは半死半生の男たちが山になっていた。

 

 あらゆる骨をへし折られ、顔中の穴から血を流し、関節は決して曲がらないはずの方向へと無理やり曲げられていた。

 

 誰一人としてうめき声さえ上げない。

 

 死屍累々。

 

 それを山とした頂点にどかりと腰を下ろし、いかにもつまらなそうな不平面をしている赤毛の鬼が聞こえよがしに舌打ちをする。

 

 血の匂いを凌駕する硝煙の濃厚な匂いが漂い、銃弾の跡も無数。あるいは爆発物でも使用したのかそこら中に痕跡がある。

 

 誰でも一目でわかるだろう、ここで起こったのは間違いなく戦争だった。

 

 一体どんな理由で起こったのかなどは定かではない。ただ、これらの屍をじっくりと観察していけばおかしな点に気が付くだろう。

 

 殴られたらしき跡が残っている者は数多くいても、銃弾で撃たれた者や斬られた跡などを持つ者が極端に少ない。

 

 そして、何よりも鬼の五体にはなんら武器が備わってはいないのだ。

 

 

 奇妙なそれらの疑問を抱いた誰かがいたとしたら、その注意力でやがて気が付くだろう。

 

 

 これ等は皆、素手で殺害……あるいは“破壊”された者たちなのだ……と。

 

「亜……」 

 

 鬼の他に一人だけ、生きている男がいた。

 

 白い髪の若い男で、手には刃先が中ほどから折れている大陸風の装飾が施された剣の柄を握っている。

 

「キ、様……貴様ハ、何ダ! 何者ダ! 何故俺達ヲ襲う!?」 

 

 奇妙な発音の日本語だった。服装も大陸風であり、恐らくは日本人ではないのだろう。

 

「ほう……まだ生きていたか。その顔に浮き出ている血管のような物の力か?」

 

 本気で感心しているような鬼の言葉の通り、男の貌には奇妙な何かが浮き出ている。 

 

 皮膚の内側で血管が浮かび上がっているような……そんな人間離れした姿だ。

 

「それが何かは知らんが……もしや神経という奴か? 動きの速さと精度が跳ね上がったな。面白い技……ではないな。体質? なんにしても珍しくも強力……楽しませてくれたな。褒めてやる」

 

「ほざ、クナ……」

 

 男は必死に立ち上がろうとした。

 

 だが、悲しいかな既に力はない……目には強い殺意と怒りを湛えつつも、手足には力は入らずまるで虫のようにのたうつだけだ。

 

「貴様は……貴様は何だ! ようやく人斬り抜刀斎への復讐を始められる、今この時に……何の為に俺達に……何者だ、日本政府の者じゃないダロウ! 志々雄の手先か!?」

 

「人斬り抜刀斎? 志々雄……聞いた事がある様なないような……まあ、何にしても手先とはご挨拶なボウズだ」

 

 くく、と笑う男の貌は、笑みを浮かべていると言うよりもまるで牙を剥いているようだった。

 

「俺は範馬勇志郎……ってモンよ。お前らに喧嘩を売った理由は……」

 

 そして、男の背中にも……鬼のような肉の面が恐ろしげな表情を浮かんでいた。

 

「馬鹿弟子がどっかに行っちまったんでな……まあ、あれを食う前の……前菜ってやつだ。少しは食い応えがあったぜ、お前ら」

 

「ふざけるなぁッッ!」

 

 必死になって立ち上がった青年。だが満身創痍の体は主の意思に応える事が出来ず膝は笑い、剣は柄だけのままで今にも取り落としそうだ。

 

「殺す……俺の復讐を邪魔する敵はどこの誰だろうと……殺すッッ!」

 

 それでも一歩一歩範馬勇志郎へと歩みを進める姿は、あるいは感動的でさえあったのかもしれない。

 

 だが、鬼がそんな軟弱な感動など感じるはずが……ない。

 

 鬼の前にたどり着いた青年の頭上に、影が差す。

 

 何かを叩き潰す鈍い音が……波音の合間をすり抜けていった。 

 

 

 

  


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