るろうに範馬   作:北国から

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今回から少しずつ原作乖離開始。

 それにしても、ちっとも範馬がでてこない。これじゃタイトル詐欺になりそう。

 でも、出したら無双以外ありえないんだよなぁ。


守るべきは何か、裁かれるべきは誰か

 武田観柳。

 

 隠密御庭番衆、阿片。

 

 橋ではどうにか警察を煙に巻き、どこか沈痛な雰囲気で神谷道場まで戻ってきた一行は、そこから夜まで各々の時間を費やした。

 

 とは言っても明らかに騒動に巻き込まれているのだから遊んでいる暇などない。その辺りの事情を消沈している様子の恵から、まだ余裕はあっても同様に何か苦悩している様子の剣心が聞き出したのをこそこそではなく堂々と立ち聞きしている光成だった。

 

「……武田観柳の言葉が正しければ」 

 

 剣心が徐に口にした疑問に、恵が表情を強張らせる。ひどく余裕のない有様が、あの問答にあるのは言うまでもない。

 

「あの阿片は恵殿が作ったものでござるな」

 

「…………」

 

 余裕があれば舌を出して剣心をコケにするくらいはしたのかもしれないが、今の彼女は周囲を威嚇する猫のような顔で自分を守ろうと言ってくれているお人好しをにらみつけるだけだった。

 

 自分の悪事を知られたくないのだと、誰から見ても一目瞭然の姿だった。

 

「わ、私はあなた達が戦い易くなるように喋っているのよ! 阿片の事は関係ないわ」

 

 殊更に声を荒げる恵を、剣心は静かに見返す。

 

「余計な事を聞かずに、ただあいつらを追い払ってくれればいいのよ!」

 

 守ってもらう側の分際で、随分とふてぶてしい立場ではある。しかし、彼女の立場は目の前にいる剣心のお人好しに胡坐をかいているから保障されている程度の弱々しい物であるにも拘らず随分な態度だ。おそらく内心では自分たちに見切りをつけているに違いがないと剣心は考え、それは正にその通りである。

 

 彼女は隠密御庭番衆を高く評価している。

 

 この二人、先ほどの立ち合いであっさりとやられるほどではないが本気を出した御庭番衆には到底敵う訳がない。一対一でも危うい上に数が違う。ましてや他の私兵団まで加われば結果は火を見るよりも明らかだ。

 

 一度事が起きてしまえば、残るのは廃墟になる神谷道場しかない。

 

 少なくとも、観柳にしてみればこの道場を潰してから警察に嗅がせる鼻薬と阿片による売り上げとを天秤にかければ阿片に傾く。

 

 逃げてしまうのが最上。

 

 恵自身、この結論の根本にあるのが観柳と……そして左之助から逃げたいのだと自覚している。目の前の随分とお人好しな剣客はともかくとして、あのガラの悪い男は自分にはっきり恨みを抱いている。

 

 友人の仇と言ったか……阿片と恵の繋がりは明言こそしていないがほとんど言ったも同然だ。はっきり自分の口から肯定の言葉が出れば、恵にとってはどんな形であっても破滅しか待っていないだろう。

 

 ここにはいられない。

 

 御庭番衆との争いが起こっている隙に逃げ出す……恵はそう結論づけて、おそらくは今夜中にやってくるだろう御庭番衆の襲撃を徹夜してでも待ち受けるつもりだった。

 

 一体いつ来るのか……恵は何やら表でがやがやと言い合っているらしい男女の声につられた剣心が退室すると、そのまま壁に背中を預けた。

 

 彼女の想像では、御庭番衆は隠密らしく陰から彼女を音もなく拐そうとしてくるだろう。最悪なのは、そのまま行方知れずに気が付かれず観柳の屋敷に連れ込まれてしまう事だったが……それだけは避けたい。

 

 せめて戦って時間稼ぎくらいはしてほしいものだ、と彼女は神谷薫が聞けば怒髪天を突くような事を考えていた。

 

「!」

 

 そんな彼女の耳に轟音のような音が聞こえてきた。

 

「……来た」

 

 ひどく寒々とした声が口から出た事に、彼女自身が驚いていた。

 

「今の音は門からだな!?」 

 

「隠密ってのがこんなでかい音をたてて殴り込みにくんのかよ!」

 

 恵の内心などに付き合う事もなく事態はどんどんと動いていく。

 

 轟音を聞きつけて駆け付けた神谷道場の一同が出会ったのは、奇妙な巨漢だった。そいつが、門の横を豪快に破壊して内部に侵入してきている。

 

「う、うちの門がぁ!」

 

 惨状を見て薫が顔色を青くしているが、剣心も含めて誰も彼女を見てはいなかった……気の毒な話である。

 

「大人しく恵を渡しな。そうすりゃちったぁ手加減してやるぜ」

 

 安っぽい脅し文句に耳を貸すような腰抜けは、この場には一人もいなかった。薫などは怒り心頭、率先して挑みかかりそうな有様である。

 

 しかし、脅し文句は安っぽくても口にした当人はなかなか見る事のない奇人だった。

 

 およそ見るからに人間離れしている大男で、特徴的なのは左之助でさえ胸元程度に脳天が来る圧倒的な上背と無造作にだらりと下げているだけで地面に着きそうなほど長い両腕。

 

 半面、腕と引き換えのように短い脚である。上半身裸で突き出た太鼓腹がむき出しだが、それよりも更に人目を引くのは威嚇のつもりか剥いている歯が上下合わせて四本程度しかないという事だ。げっ歯類のように並んでいるそれが、奇妙に印象に残る。

 

 異様ではあるが、行動も含めて隠密という言葉が全く思い浮かばない様な男だった。門横の壁をわざわざ何らかの手段で破壊して侵入してきたらしいのは大きすぎて門をくぐる事も出来ないからかもしれないが、こんな人目を憚らない真似をしていいと思っているのか。

 

「御庭番衆でござるな」 

 

 剣心が確認を口にしたのは隠密らしさが一つも感じられないからかもしれない。

 

「おう、御庭番衆が一人。ひょっとこ様とは俺の事よ!」

 

 嘘かもしれないが名乗っている……隠密とは何だったのだろうか。

 

「ひょっとこだぁ? ……似合いもしねぇ。いや、意外と似合う間抜け面かもなぁ」

 

 左之助の揶揄に怒りもせずに笑うと、ひょっとことやらは二人の前に堂々と仁王立ちする。見る者が見れば、一目で暗黒大陸に住むと言う現存する中では最大の霊長類を想像する姿だ。

 

「さあて、一体どっちが相手だ? まとめてでも一向にかまわねぇぜ」

 

 そういうひょっとこは素手である。むき出しの腕で筋肉が盛り上がっている事、裸でいる為に隠し武器というのも想像しがたい為に腕力に物を言わせる輩にしか見えず左之助はその通りだと判断するが、剣心は仮にも御庭番衆がそんなものかと疑念を抱く。

 

「何でも構わねぇッ! 叩きのめして阿片の真相を洗いざらいぶちまけさせてやらぁッッ!」

 

「まずはこっちか」

 

 今日一日の鬱憤を全てここで発散するために、左之助は威勢よくひょっとこに殴りかかった。なんでもいいから力に任せて暴れたくて仕方がなかった。

 

 短慮以外の何物でもない暴走は、笑みを深めたひょっとこにより即座に報われることになる……もちろん悪い方向で、だ。

 

 突撃してくる左之助を見てとったひょっとこが、見せびらかすようにばきばきと指を鳴らして拳を思い切り振りかぶる。

 

 互いに自慢の腕を繰り出して拳が交錯するが、己よりも遥かに長い相手の腕をあっさりと掻い潜った左之助が見るからに柔らかいひょっとこの腹に痛打をお見舞いする。深く突き刺さった腕にひょっとこがわずかながら反吐を吐いて、呻きさえ上げられずに苦悶を顕わにする。

 

「そんな大振り、当たるわけがねぇだろ」

 

 最近は特に剣心という俊敏さが売り物の剣士と丁々発止に鍛錬を積んでいるだけもあり、左之助の見切りは格段に上達していた。頭に血が上っていようとも、神速をもって鳴る飛天御剣流の剣士との鍛錬に勤しんだ彼にとっては当たる方が難しい。見事、髪の毛一本程度の見切りでもって交差法の拳を打ち抜ける。

 

 決して鍛え上げられているわけではないひょっとこの柔らかい腹に左之助の拳は重過ぎた。

 

「どんな剛力だろうと、当たらなけりゃ意味はねぇんだぜ?」

 

 あっさりとしすぎた勝利だが、左之助はそれを当然と思い足を止めた。

 

 見るからに戦いには向いていない体格のこの男、殴る以外に戦闘ができないと踏んでいたのだ。

 

「ぐふう……ありがたい事よ。わざわざ射程内に入ってきてくれるとはなぁ」

 

「!?」

 

 左之助は自分の判断が早計であり、剣心の疑念こそ正しかったのだと思い知る。

 

 一体何をする気かはわからないが、とにかく咄嗟に跳び去ろうとした左之助だったが深く踏み込みすぎたおかげでそんな間もなかった。

 

「んなあッッ!?」

 

 左之助は目の前に急に赤い何かが広がったとだけしか分からずそれに面食らい棒立ちとなったが、傍で見ていた剣心はひょっとこがなんと、口から火を吐くのをはっきりと見てとった。

 

「おお、火遁の術かッ!?」

 

 珍妙な老人が素っ頓狂な声を上げるが、そこに物珍しさに端を発する喜びがあるように思えるのは気のせいだろうか?

 

「左之助!」

 

 人が口から火を吐くなど想像もしていなかった上に、当然ながら人が焼かれるところを始めて見た弥彦が顔を照り付ける熱に血相を変えながら喧嘩屋の名前を呼ぶ。

 

「おおらぁッ!」

 

「ぶごぉ!?」

 

 応えた訳でもないだろうが、威勢のいい雄叫びを上げて左之助の拳がひょっとこの顔面を横から急襲した。

 

「あぶねェな、この野郎」

 

「ぐう……必殺火炎吐息、よく避けたな」

 

「け……人の一張羅を台無しにしやがって」

 

 そう言った左之助はいつの間にやら上半身が裸であり、苦々しい目つきでひょっとこの足元に目をやると愛用の悪一文字が燃えている。

 

「だが、もう避けられはするまい。足を痛めたのは一目瞭然、今の拳もその前と比べて弱かったぞ」

 

「ちっ……」

 

 ひょっとこが言うように左之助はあちこちが焦げており、特に左の大腿部に強い焦げ目ができている。最も、一時的に少々痛みを感じる程度で尾を引くような火傷などはないようだった……派手に火を噴いてはみたものの人間を焼き殺すほどの火力はないのだろう。それは当たり前で、どんな方法をとってもそんな高い火力を口から吐き出せば敵よりも先に自分が大きな痛手を受ける。

 

 火炎放射器は古代のギリシアや中国などで使用された歴史を持つが、期待される効果は即座に焼き殺すと言うよりも砦などを燃やす、あるいは閉じこもった敵を焼殺、酸欠に追い込むという使い方が基本だ。つまり、この男は左之助や剣心を倒すと言うよりも神谷道場そのものを焼き討ちするのが目的であるに違いない。

 

 それがどうして正面から単独で殴り込みをかけてきているのかは不明だが……あるいは、手柄を欲する功名心の類なのか。

 

「くくく、さぁて……」

 

「どっちを見ている。お主の相手は拙者でござるよ」

 

 左之助にとどめを刺そうとご丁寧に指を鳴らすひょっとこに向かって刀を突きつけるのは無論、緋村剣心。

 

「ふん……焦らずともまずはこいつを焼却してからだ。お前もきっちり焼いてやる」

 

「そんな大道芸では拙者の髪の毛一本燃やせはせぬよ」

 

 目つき鋭くひょっとこを見据える剣心に、自慢の火遁を大道芸呼ばわりされたひょっとこがいきり立つが……声を発するよりも先に左之助が剣心を止めた。

 

「ちょっと待てよ、剣心。助太刀はありがてぇが、俺はタイマンを逃げるつもりはねぇぞ」

 

 左之助がひょっとこを見据えながら前に出る。仮にも喧嘩屋、一対一の喧嘩で多少不利になったからと言ってそうそう簡単に助太刀をしてもらうなど男の沽券に関わろうと言うものだ。

 

「左之……」 

 

「今の火吹き芸で頭に上っていた血も逆に下りたぜ。悪いがここは、仕切り直させてもらう」

 

 左之助の表情を見た剣心、ここは決して引くまいと見てとり大人しく一歩下がる事にした。ここで自分が前に出るのは左之助にとっては大いに屈辱だろう。

 

「わかった。ここは任せるでござるよ」

 

「応よ! 任せろやッ!」

 

 そんな男同士のやり取りに納得がいかないのは、やはり現実的な女である。

 

「ちょっと二人して何を格好つけているのよ! 左之助、足に怪我をしているでしょうが!」

 

「この程度、へでもねぇよッ! 俺を甘くみんねぇッ!」

 

 薫が後ろから怒っているのかそれとも心配しているのかよくわからない態度で二人のやり取りに食って掛かるが、左之助はそんな彼女の心配を知った事かと見向きもしない。

 

「ああ、もう! 男っていうのはどうしてこう……」

 

 せっかくの黒髪を掻き毟りそうな薫だったが、その時、彼女は偶然に横目で視界の端に人影を捉えた。

 

「!」

 

 剣心達が戦っているのをしり目に、恵が建物の影にこそこそと隠れているのが見える……それを見た薫は何か嫌な予感がした。女の勘、というにはいろいろと足りない彼女だが放置はできないと足音を殺して忍び寄る。

 

 剣道家である彼女に忍び足など技術として用いる手段など全くないが、ここが彼女の自宅であり相手がど素人なら話は別だ。

 

「何処へ行くのよ」

 

 恵が身を翻す……一人逃げ出そうとしている事は明らかだった。ただ立っている姿であれば颯爽とした佳人でありながら、こそこそと逃げ出す姿はその面影もない惨めなものだ。同性である薫にはそれが殊更に強く感じられて見ていられもしない程だ。

 

 それでも声をかけずにはいられないのはあまりにも誠意のない選択を彼女がしたからだ。

 

「剣心も左之助も、あなたの為に戦っているのよ? 巻き込んだ癖にそんな風にこそこそと逃げ出すの? あなたにはこの勝負を見届ける義務があるはずよ」

 

 彼女もまた武術に生きる人間である。

 

 活人だの殺人だのと言う区分け以前に、一般人……恵のように戦わない人間にとっては厳しくも恐ろしい義務を突きつけてくる。だが、間違えてはいない。彼らを巻き込んだのは他でもない恵、その彼女が一人こそこそと我が身可愛さに逃げ出すなど言語道断だ。

 

 恵もそれはわかっている。

 

 だが武術を身に付けているわけでもないただの女にこんな滅茶苦茶な荒事の世界は荷が重すぎた。ましてや渦中にいるのは他ならない恵であり、彼女が引き起こした争いであり彼女を巡り合っているのだ。

 

 正論を口にして自分を恐ろしい世界に留めようとしてくる薫を恵は憎んだ。それが他でもない彼女の身勝手であるなど自覚しているが、恵に全てを受け止める器はなかった。目の前で繰り広げられている暴力と、そして自分のしでかした事の責任から逃げ出したくてたまらない。

 

 それを認めず、引き留める薫が厭わしくてたまらなかった。

 

「戦った所で無駄よ。相手は御庭番衆の中位隠密。下位隠密の癋見とは訳が違うわ」

 

「いいえ、勝つわ」 

 

 恵にしてみれば当然の話を、薫は一刀両断に切って捨てた。

 

「剣心も左之助も、ただの剣客でも喧嘩屋でもない。あなたは彼らの実力を知らないだけよ」

 

 仲間の強さを信頼する薫の声色も表情も、今の恵にしてみればただただ疎ましい。そこには逃亡を妨害される苛立ち以上に、そういう相手がいる事への嫉妬もあった。

 

 彼女の前で、あの粗暴な男が身の程知らずに御庭番衆に挑もうとしている。

 

 一度焼け焦がされた分際で何を、と無謀さを嘲る。あの男が勝たなければ危ういのは自分だが、まだお人好しの剣客がいる。だから、自分にとって危険な男はやられてしまえ。

 

 いっそ怪談じみた目で自分を睨んでいる恵になど気が付きもせず、左之助は火傷などという物珍しい不覚傷を与えてくれたひょっとこに向かって、お前に臆するところなどただの一つもないと態度で示す。

 

「ふん、素直に二人がかりで攻めてくればいいものを、つまらない意地で骨まで焼き焦がされたいか」

 

 痛めた足など何するものぞとゆっくりとした足取りで向かってくる若造を、ひょっとこは滑稽な阿呆と笑って見下した。

 

「一発芸のちんどん屋が何をふんぞり返って偉そうな面してやがんでぃ。お前の火遊びなんぞ、二度も三度も通用する馬鹿はこの世にいやしねぇよ。もちろん、この俺含めてな」

 

 にやりと笑う顔を強がりと判断するのが恵、自信と受け取るのが神谷道場の一同。そして、侮辱と受け取ったのがひょっとこだ。

 

「火遊び……一発芸だと?」

 

「他に何があるってんだ? 隠密だ? 芸人小屋にでも行ってこいや」

 

 ぶちり、と奇妙な音を全員が聞いた。正確には、聞いたような気がした、だった。間近にいる左之助と剣心はもとより、薫や恵の耳にも音ならぬ音は届いた。

 

「殺してやる……俺様自慢の技を手品だ大道芸だと言うような奴は……どいつもこいつも火葬してやる!」

 

 大きく息を吸い込み、かちり、と音が口元から聞こえてくる。それが火術の種なのだろうが、左之助はまるきり意に介してはいなかった。むしろ、相手の攻撃を正面に立って待っているようにしか見えない姿に剣心はため息をつきたくなった。

 

「先の火炎、まともに喰ったのがよほど悔しかったと見えるでござるな……やれやれ」

 

 炎そのものを待ち受ける左之助に向けて、困ったものだと思いながら剣心はそれでもひょっとこが道場そのものに害をなそうとするなら一瞬もなく止める為に内心ではきっちりと身構えていた。

 

「左之! 道場を燃やされるような羽目になるなよ!」

 

「わかってらぁッ!」

 

 剣心の喝に意気揚々と気合十分で応える左之助を血走った目でにらみつけ、胸と腹を河豚よろしく膨らませたひょっとこが肺に溜めた酸素と二酸化炭素の複合を一気に吐き出した!

 

「焼け死ねぇッッ!」

 

 業火が帳の降り掛けた道場を一瞬だけ昼間以上に照らし出す。明治の闇に慣れた一同の目に厳しいほどの眩しさだ。

 

「しゃらくせぇんだよ、放火魔野郎がッッ!」

 

 目を細める恵は、そして彼の戦っている姿を知っている弥彦と薫もまた左之助が素早く避けようとするものだと思っていた。だが、彼はしっかりと地面を踏みしめて両手を眼前に構える。

 

 その構えを見た時点で左之助の意図を察したのは緋村剣心と見物人で火遁の術だなんだとはしゃいでいる老人だけである。

 

 掲げられた左之助の腕が複雑な動きで様々に円を描く。素早い動きで振られる腕が人を一人を飲み込めるだけの炎をかき回し、速すぎる故に炎に焼かれさえしない。

 

「!」

 

 ひょっとこがかき回される火炎という常識外れの光景を見て、火を吐き続けて声を出せないままに仰天の表情を見せる。

 

「マ・ワ・シ・受・ケ……見事な……」

 

 その顔が見たかった、と左之助はにやりと笑い、剣心は神業の披露になんだか奇妙に片言な感心をした。

 

 既に随分と昔のようにさえ思える河原での果し合いにおいて、喧嘩屋が見せた飛天御剣流の剣さえ捌いてみせた鉄壁の防御。

 

 しかし、よもや拳や刀どころか炎までも捌ききるなど想像さえしていなかった。まあ、普通に考えれば炎を武器にするような敵などいるはずもないのだから当然だが。

 

「おおお……路上で死刑囚のドリアンを相手取った時の独歩バリじゃあ……実に素晴らしいッッ!」

 

 興奮も露わな歓声など聞こえはしないひょっとこは対照的に貌を青ざめさせている。

 

 呼吸に限度が来たのか火炎を収め、青ざめた表情を更に悔しさに歪めて左之助を睨みつける。

 

「馬鹿な……この俺の火炎吐息を、ただ腕を振り回すだけで払いのけるなど……そんな馬鹿な事があるか!」

 

 叫ぶおかげで口の中が丸見えとなっている。そのおかげで種も見えた。

 

「あれは……火打石に、何かの管か。左之! おそらくその男、口の中に歯のように加工した火打石と油のようなものが出てくる管を仕込んでいるぞ! おそらく、腹の中に袋でも仕込んでいるでござる!」

 

「へっ……どうせそんなこったろうとは思っちゃいたが、まさか本当にそこまでやっているとはなぁ」

 

 一瞬でよくもそこまでわかるものだと感心せざるを得ない分析である。確かに左之助の言う通り、口から火を噴くなど他にはそうそう手段がないだろうが、そうすればできるとわかっていても同じ真似をするようなものはいない。ひょっとこが選択したのはそういう手段だ。

 

「そこまでして火なんぞ噴きたいもんか? そんなもんよりも、拳骨で殴った方がよっぽど早くて強いって事を教えてやるぜ!」 

 

 一気に駆けだす喧嘩屋の強襲にひょっとこは見るからに太くて力強い腕を振り上げるが、それよりも左之助が潜り込む方がはるかに先だった。

 

「はや……ッ!」

 

 ひょっとこの目が追い付かない速さで懐に跳び込んでみせた左之助がにやりと笑う。その笑みを確かに見たひょっとこは怒りに任せて横殴りの拳を見舞うが、何の感触も伝わりはせずあっさりと躱される。 

 

 ひょっとこは姿そのものさえ見失ってしまったが、彼にしてみれば霞のように見えてしまった喧嘩屋の若造は、その場で蛙のようにしゃがみ込んで拳を躱していた。

 

 ひょっとこ自身の太すぎるほどに太い腕が左之助の動きを隠してしまったのは、正に皮肉としか言いようがない。

 

「おおらぁッッ!」

 

 足の痛みなどなにするものぞ。

 

 左之助はしゃがみ込んだ事で膝に蓄えた力を全て一気に開放し、伸びあがるようにひょっとこに襲い掛かる! 両の掌を何かを捧げ持つような形で頭頂に構え、その掌打を打ち込むというよりも全身を砲弾のようにしての体当たりに近い、重たすぎるほどの強烈な一撃がひょっとこの顎を真下から襲う。

 

 その攻撃を目の当たりにした剣心は、自身の身に着けた飛天御剣流の技の一つ“龍翔閃”に似ている技だと思った。もしや、あの河原の勝負で正にその技の威力を身をもって知った左之助の編み出した彼なりの龍翔閃なのかもしれない。

 

「まだだぜッ!」

 

 いや、左之助の攻撃は更にとどまらず、肉と肉のぶつかり合う独特の重たく鈍い音が消えぬ間に頭頂部に構えた掌打をもってひょっとこの顎を捕まえて頸部を支点にして一気に跳ね上げた。顎を思い切り打たれて骨まで響く痛恨の痛手を受けたひょっとこに追撃をこらえるだけの力などあるわけもなく、かち上げられた顎と重たい頭蓋そのものが頸椎に負担をかけ、同時に脳震盪を併発させた。

 

 ひょっとこは物も言わずに白目を剥くと、その場に大の字になって倒れる。同時に背中で木の折れる音がすると、彼を中心にじわりと液体がにじみ出て広がった。

 

「あん?」

 

「これは……」

 

 相対していた神谷道場の面々からは見る事が出来なかったが、どうやらひょっとこは何かを背負っていたらしい。倒れた拍子に持ち主の重すぎる体重に潰されてしまったようだ。

 

「油でござるな」

 

 しゃがみ込んで指にそれを塗り付けた剣心にぬるりとした感触が伝わり、独特の臭いが鼻につく。

 

「ふうん……これが手品の種かい。小便かと思った」

 

「…………左之……勘弁してほしいでござるよ……」

 

 率直かつ嫌すぎる左之助の感想に、さすがのお人好しも渋面をした。手に着いた油を払い落とす動作もどことなく乱暴である。

 

「ま、楽勝だったな!」

 

「その割には丸焦げでござるよ」

 

 失言を誤魔化すつもりなど毛頭存在せず、そもそも気にしていない左之助が意気揚々と見えを切るが、剣心は仕返しもつもりはないが苦笑いを浮かべつつもあえて苦言を呈する。彼が油まみれだった指で示すのは既に炭になりつつある左之助の一張羅。

 

「あの御仁が見ていたら笑うか怒るか、どちらでござる?」

 

「んが……」

 

 “あの”師を出されてはさすがに二の句を告げられない喧嘩屋が間抜けな顔を披露しているのを横目に、薫も勝利に目を輝かせて感心していた。彼女も一流派を守る身として、そこらの素人よりもずっと今の攻防の凄さを理解できるのだ。

 

「勝っちゃった……やっぱりなんだかんだ言っても強いわねぇ……」

 

 彼女の声が滑稽な程に的外れと聞こえるのは恵である。

 

「強いなんてものじゃないわよ……なんなの、あいつ……」

 

 二人が強いと言った所で、所詮はそこらの剣客とチンピラ。御庭番衆相手に勝ち目などないと踏んで時間稼ぎが関の山と踏んでいた恵だったが、彼女の予想を外して左之助は御庭番衆の中堅どころを一蹴。剣心は戦ってさえいない。

 

「あの二人は自慢の、仲間よ」

 

 誇らしげに微笑む薫だが、恵にしてみれば笑えもしない。剣心だけならまだしも、自分に敵意をむき出しにしている左之助までがあれほど強いだなどと、むしろ追い詰められた気分だ。

 

「……仲間」

 

 そして、それ以上にその言葉が身に染みた。

 

 彼女自身が敢えてそんな言葉から縁遠い生き方を選択しているという自覚はあったが、それでも“そうありたかった”訳ではないと叫びだしたくなる時もある。そんな弱々しい自分が表に出そうになるのを必死になって誤魔化し、今後の身の振り方を考えて意識を逸らす。

 

 あの二人は強い。

 

 左之助の強さは証明されたし、剣心の方も間違いなく強い。たった二人だというのに、あるいは……と希望を持てるほどにだ。だが、剣心はともかくとして左之助の方は明らかに自分の素性と行いを察して敵視している。

 

 今、彼が自分に手を出してこないのは恵を手繰り糸にして観柳を手繰り寄せようと考えているからにすぎないだろう。

 

 剣心はどうやらただのお人好しとして自分を救おうとしてくれているようだが……その手にすがるか、それとも左之助の敵視を考慮して逃げるか。

 

 ……逃げる事ができるのか。このまま道場に身を寄せていた方がよくはないか。左之助は剣心達に抑えてもらえば安住の地を手に入れられるのではないのか。

 

 ……いつまで留まれるのか。そもそも普通に考えて観柳の私兵団と隠密御庭番衆に二人で勝てるはずがない。腕に覚えがあっても数が違いすぎる。その上、今回は真正面から喧嘩を売りに来たが、それに失敗した以上はからめ手は必至。

 

 あの手この手で嫌がらせを受けたら? それに今回はたまたま勝てたが負けてしまえば? 仮にその時捕まらなくても、一度負けてしまえばいくら剣心がお人好しでも大した縁のないような自分を無償で守ろうという気はなくなるに違いない。

 

 右にも左にも身の振り方を決められず、風に吹かれる草のように方針を左右に動かす棒立ちの恵だったが、彼女は……そして剣心達も当たり前の話を忘れていた。

 

 敵は一人とは限らない。

 

 ひょっとこがあまりにも乱暴な手段で正面から来たために、そんな当たり前の話を忘れていた。忍ぶはずの隠密が、いったいどうしてこんな馬鹿のように殴り込みをかけてきたのか。

 

「!」

 

 陽動、と断じた剣心の顔色が変わった時にはもう遅かった。

 

「気を付けろ! まだ何者かが潜んでいる!」

 

「ぶっ殺す!」

 

 叫び声に目を向ければ、道場の塀にかかる太い枝の上で小兵が一人身構えている。

 

「そこか!」

 

 癋見という名前を剣心は知らないが、賭場に恵を取り戻しにきた御庭番衆の一人であるのはすぐにわかる。同時に、その男の武器もまた思い出していたが……もちろん、もう既に遅かった。

 

 指一本弾くのにどれだけの時間がいるか。少なくとも、一瞬以上は決して必要ない。剣心が飛び上がって阻止しようとしたその時には、もう既に小さな牙は放たれて標的に突き立つために宙を舞っている。

 

 剣心、左之助はもしや自分が狙いかと思い身構えたが、男の眼はなんと取り戻すはずの恵に向かっている。

 

「しまっ……」

 

 遅い。

 

 剣心はもちろん左之助、薫、誰も何もできずにただ暗がりと小ささで見えもしない鏢が人の命を奪う為に飛んでいくのを拝んでいるしかない。無為、正にそれ以外の何者でもない無様な傍観者の眼前で、守ると決めたはずの命が奪われる。

 

「あぶねぇ!」

 

 それを正に紙一重で救ったのは、なんとここまで誰からも顧みられることがない少年、明神弥彦だった。飛び出してきた少年は、果たして小さな礫の襲来が見えていたのか偶然か、受け止めるように突き出した細腕を見事盾にして恵の命を救ってみせた。

 

 はっきり言ってこんな真似は十に一つもできれば驚きの世界であるが、だからこそ“ぶべ”と潰れた蛙のような声を上げて地べたを嘗めた彼は間違いなく殊勲者だろう。

 

「なにぃ!? つうかあのガキ、どっから出てきやがった!?」

 

 ハッキリ言えば今までまるっきり眼中になかった子供が急に飛び出してきたので仰天する癋見だった。隙だらけだが、剣心も左之助も腕から血を流して倒れた弥彦に注意を引かれていたので彼を狙いはしなかった。

 

 その弥彦、どうやら鏢に腕を抉られたものの小さな傷に過ぎず、心配して叱責する薫に向かって負けん気強く言い返せる程に元気であったが……突然白目をむき、物も言わずに倒れた。

 

 顔色は悪く、意識を失い呼吸も荒くなっている。明らかな異常事態に全員の顔色が変わる。

 

「毒!?」

 

「まずい!」

 

 一目瞭然の非常事態に左之助と薫の顔色が青ざめた。はっきり言って喧嘩屋と剣道家に過ぎないこの二人は、このような事態には無力だ。解毒しようにもそのいろはさえ知らない。

 

 そんな右往左往する事しかできずに血相を変えている二人を見下ろして、件の男が楽し気に笑いだす。己は安全圏にいると考えて、実にいい気なものだった。

 

「ククク! 出しゃばった報いだぜ! そのガキはあと一時間と保たねぇ! 毒殺螺旋鏢! こいつが御庭番衆癋見の真の技よ!」

 

 技も何もただ得物に毒を仕込んだか仕込んでいないかの違いに過ぎないが、そんなケチな手管を誇らしげに技と呼称した阿呆はまるで歌舞伎役者のように樹上で大見えを切って喜んでいる。

 

「手前ら全員、毒に染めてやる! 次はお前だ、赤毛やろ―」

 

 もちろん、そんな間抜けをこの男が見逃すはずがない。

 

 この高さに剣客や喧嘩屋など手出しできまいと正に高をくくっていた隠密は、油断を一瞬のうちに強烈な痛みと共に思いしる間もなく意識を失う事となる。

 

 悠長に勝ち誇っている間抜けがようやく次の標的を探し始めた時には気絶しているひょっとこ以外は誰もいない有様であり、思わず間抜け面を晒した自分の頭上から、憤怒の形相をした剣心が得物を振りかぶり襲い掛かっているのに、自分が影で覆われてからようやく気が付いた。 

 

 恐ろしい何かが来た。それ以上彼に思考する時間は許されなかった。

 

 もちろん、そんな状態から逃げる事など癋見には断じて不可能。

 

「ぐべぇ!?」

 

 一撃で地べたに叩き落した隠密にそのまま切っ先を突きつけようとした剣心だったが、なんと地べたに転がっているのは件の隠密ではなく人の上着を着こんだ細めの丸太。

 

「!?」

 

 驚く間もなく引かれるように倒れたままのひょっとこへと目を向けると、そこには気を失った癋見の襟首を捕まえた一人の男がひょっとこを剣心から庇うように立っている。

 

「…………」

 

 一体いつの間に、と口にしないのには力が必要だった。

 

 剣心の前に立っているのは正に幽鬼のような男だった。

 

 衣装の細かい名前など知らないが、なるほど他の二人と比較すれば隠密らしい服装に身を固めている。だが両腕には何故だか派手な横縞模様の入れ墨がされており、顔を隠す為だろう被っている面はなんと歌舞伎などで使われている般若面ときた異様の極み。

 

 暗がりに静かに佇む姿はまるで怪談で、子供など夜に見てしまえば泣きじゃくること請け合いだが、卓越した剣客である緋村剣心の眼には男の佇まいの一つ一つから察せられる隙の無さこそが不気味だった。

 

「剣心、弥彦が! 弥彦がっ!」

 

「おい、弥彦! てめぇ、しっかりしろ! 弥彦!」

 

 薫の泣き叫ぶ声と、左之助の慌てふためく声が剣心に逡巡を許さなかった。毒の処置など剣心も心当たりがない以上、下手人を確保するより他に弥彦が生き残る術はない。 

 

「くっ!」

 

 歯噛みする剣心は、自分が弱くなっていると自覚した。

 

 剣腕の話ではなく、勝負勘や戦場の把握などが著しく衰えている。ひょっとこの無暗に派手な登場も、かつての自分なら陽動だと気が付いて当然だった。昼間の賭場でも恵は庇えたが、その前に左之助の友人が傷つくのは止められなかった。

 

 そして、今度は弥彦……失態にも程がある。断じて死なせない、と決意を抱き前へ踏み出す。

 

「!」

 

 だが、彼が踏み込む前に般若面が“ここまで”と言わんばかりに手で阻む。

 

「よそう。これ以上戦っても高荷恵奪回は無理と見た。自分としては倒れている二人を回収して、一刻も早く御頭に報告したい」

 

 実に勝手な物言いとしか言いようがない。

 

「そちらから攻めてきたんだ。引き留めはせんよ。だが、小さい奴は弥彦の解毒の為に置いていってもらう」

 

「敵方にそうまでする義理はない」

 

 これは納得がいくが、同時に剣心からすれば引く理由は消えた。

 

「ならば、是が非でも置いていってもらう!」

 

「…………」 

 

 鋭い眼差しに奇妙な敵と切っ先を映しながら切りかかる剣心を前に、男は冷静に身構える。左之助のように徒手で構えた男が、冬でもあるまいに手袋をしているのに剣心はそこで気が付いた。

 

 剣と拳がぶつかり合い、鈍い音ではなく鋭い音がした。

 

 般若面は剣心の太刀を根本付近で右裏拳をもって受け止めると、そのまま押すように往なしてみせた。 

 

「!?」

 

 躱すようにして往なすのならともかく、鋼の太刀を受け止めてから押しのけるなど普通ではありえない。これではまるで太刀の鎬合いだ。

 

「涼しげな顔の割には、なかなか激情家だな」

 

 顔色などわかるはずがないが、余裕を持ってさえいる平然とした声色に無理は感じられない。

 

 逆刃とは言っても真剣を拳で受け止めてなお平然としている般若面についつい驚く剣心の顔面に向かって、横殴りの左拳が空気を切り裂いて襲い掛かる。

 

 刀を右で捕らえたままの般若は的中を確信していた事だろう。だが、今度は彼が驚く側だ。

 

 拳に感じるはずの頭部の重たい手ごたえがない。しまったと思った時には既に遅かった。

 

 さすがは幕末の雄、緋村剣心。

 

 顔面に襲い掛かる拳をかろうじて躱しながら、咄嗟に柄を男の胴に打ち込んでのけた。けして勢いはなかったが命中したのは肝臓、人体急所の一つだ。

 

「ぐっ!」

 

 苦痛の呻きは一言だけだった。両者勢いのままに分かれてにらみ合うが、それぞれ驚きを胸に隠していた。

 

 般若は言うまでもないが、剣心も先ほどの拳は余裕をもって躱したはずが頬に熱さを感じるほどにギリギリ過ぎた事に驚いていた。ここの処しばらくは左之助相手の稽古で無手の相手は慣れたつもりだったが、まだまだ甘かったという事か。

 

「今日はここまでだ」

 

 般若は距離が開いたのを幸いに仲間二人を抱えると、そのままふわりと重みを感じさせない動作で飛び上がる。抱えられる程度の小兵はともかく、己よりも遥かに大きい大男を背負っての動作としては驚くべきだ。

 

「焦らずとも高荷恵を匿う以上は、いずれ戦う時は来る。勝負の決着はその時までお預けだ」

 

「待て!」 

 

 当然待つわけもなく、剣心が間合いを詰めて追いすがろうとした間一髪で般若面の隠密はまさしく妖怪さながらに闇へと消えた。

 

 失態に次ぐ失態。だが剣心に歯噛みをするような暇などない。

 

 泣き叫ぶ薫の元へと駆け寄り、腕に抱かれる弥彦を見れば白目をむいて青ざめている姿が否応なく剣心の危機感を煽る。

 

「どうでぇ?」

 

「どうと言われても……」

 

 率直に言ってしまえば、打つ手がなかった。かつて幕末の京都で闘争に明け暮れた頃も腕のたつ敵、火薬や罠を使う敵などに出会った事はあっても毒を使う敵など滅多に会う事はなかった。

 

 要人を暗殺する際に毒を盛るという話はあるが、剣心は元々暗殺稼業として仕掛ける側だ。護衛だった頃には幸いそんな手を使う相手に出会う事はなかったが、結果として今は手立てに迷っている。人生万事塞翁が馬という話もあるが、あんまりと言えばあんまりな話にすぎる。

 

「刀創傷や骨折の処置なら経験があるが解毒となると……とにかく、まずは毒を吸い出さないと」

 

「わかった!」

 

 下手人は一時間もたないと言っていたが、それを鵜呑みにはできない。おまけに弥彦は子供で体が小さい。たとえあの一言が正直なものだったとしても実際にはより短い時間しかもたないだろう。

 

「止しなさい!」

 

「!?」

 

 だが、そんな拙速しかないような状況で薫の肩に手がかけられる。振り返れば、手を伸ばしている恵がそれまでの様子と一変して毅然とした態度で彼らを……正確には弥彦を見下ろしていた。

 

 それまでの蓮っ葉な様子でもなければ、出会った際のように作った儚さでもない別人の顔だ。

 

「弥彦を見殺しにしろっていうの!? あなたは引っ込んでいて!」

 

「お馬鹿! 傷口から毒を吸い出すのは細菌の感染を引き起こして反ってよくないのよ!」

 

 一同、訳の分からない事を言われて目が点になった。

 

 毒を吸い出すのは解毒の一般的な初歩。それを駄目だなどと言われても何がなにやら。そもそも、細菌とは何ぞや。

 

「素人の出る幕じゃないわ」

 

 困惑する一同を置き去りにして恵は弥彦の額に手をのせると緊張感をもって、しかし務めて冷静に彼の様子を観察している。いや、これは容態を診察していると言うべきか。

 

「これは……曼荼羅葉の毒!」

 

 弥彦の状態を確認しただけで即座に毒の種類を特定すると、彼女は薫に医師の手配、剣心に治療の場を設営、左之助に氷の用意を指示する。やけにテキパキした様子に驚きと困惑を隠せない一同の尻を叩くように凛として叫ぶ。

 

「解毒治療は時間との勝負よ! 急ぎなさい!」

 

 こんな状況、この相手だというのに逆らい難さを叩きつけられた一同は追い立てられるように四方へと散った。

 

 そして、すっかり夜も更けて日付も変わろうかという頃。

 

 薫の呼んだかかりつけの医師による手当の甲斐あって弥彦の容態は安定し、危機は脱していた。ただし、医師曰く自分の腕だけではなく予め記されていた薬の調合まで記されている記書きのおかげだと言う。

 

「……」

 

 弥彦が寝ている傍で何やらワイワイとやっている明かりを見つめながら、まるで彼岸に足を踏み入れたような表情で恵はひっそりと佇んでいる。まるで波間にそのまま姿を隠してしまいそうな、そんな不吉な印象を与える姿だった。

 

 ちょうど光の向こうにいる薫たちとは真逆。暗がりの静かな恵と明るみで賑やかに騒いでいる薫と左之助。きっと弥彦が峠を越えたことに安堵した薫がはしゃいでいるのだろう、と当たりを付けた彼女はそのまま幽霊のように身を翻した。

 

 あの少年が持ち直したのであれば、これ以上はいるべき理由はなかった。

 

「どこへ行くのでござる?」

 

「!!!」

 

 いきなり目の前に現れた剣心にそれまでの愁いを帯びた様子を一変させて飛び上がって驚いた。まあ、無理もない。

 

「女性の夜歩きは危険でござるよ」

 

 などと抜かす剣心だが、驚かされた恵は胸を押さえながら頬を引きつらせていた。ほとんど幽霊を見たような顔である……実は彼女も剣心も知らない話だが、彼らの足元には勝負は終わったらしいがいつになったら帰れるんじゃろうか……などとぼやいている妖怪がいるのだった。

 

「……あの少年に付き添わなくていいの?」

 

「大丈夫。あれで弥彦はなかなか根強い男でござるよ」

 

 それはそれとして二人の会話は続いていく。

 

 剣心が言葉の訛りで見抜いたのだが、どうやら恵は会津……あの白虎隊で名高い会津(福島県)の生まれであるらしい。先祖代々医術を志している一族らしいが当時としては驚いた事に男女の区別なく医学を学び、技術と知識の向上、そして何より治療のためなら誰にでも平等に何でもするという当時の身分制度からすると鼻つまみ者でもあった。 

 

 更には西洋を忌避する幕府の政策に喧嘩を売るような真似までしており、なんと西洋医学……当時蘭学と呼ばれている最先端の医学を学ぶために一家揃って脱藩までするという過激な真似をしたそうだ。

 

 しかし純粋な技術を惜しまれた一家は奇跡的に免罪されて国許に帰る事が出来た。が、運命の悪戯……というよりも必然か。帰参した直後に合図では戊辰戦争が起こり一家は離散。

 

 おそらく、戦争を見越して彼らの医療技術を必要としたから帰参の許可が下りたのだろう。思惑通りに恵以外の家族はそろって戦争の中で医術を振るい藩の人間を助け、そして死んでいったそうだ。

 

 ただ、死亡がはっきりしているのは父親だけであり母と二人の兄はあくまでも行方不明……そこに一縷の希望を見出し、それにすがりながら彼女はやがて上京してとある医師の助手になった。

 

 この医師が、観柳と裏で繋がり阿片を製造していたのだと彼女は言った。

 

「それでうまくいっていたらしいわ。あいつが“これ”を作り出すまでは、ね……」

 

 袖口から彼女が取り出したのは、あの時剣心が拾った物と同じ薬包だった。

 

「通称“蜘蛛の巣”。精製方法が特別で、従来の半分程度の材料で作れる上に依存性は従来の倍……つまり四倍の儲けが出せる、本格的に出回れば、東京を五年で阿片漬けにできる代物よ」

 

 まさしく麻薬ならぬ魔薬である。

 

「大量販売を考えた観柳が精製方法の公開を迫ったけれども、医師は利益独占の為に口を割らなかった。その内に商談は暴力を用いるようになり、加減を誤った観柳たちは医師を殺してしまい、あいつらは助手として精製に携わっていた私に目を付けた……」

 

 恵はひょっとこが壊した壁の横に力なく凭れた。自分がどうしようもなく卑しい女だと言葉にして語ると思い知らされるから、力など出てくるはずがなかった。

 

「自分が作っていた薬が、人を助ける為ではなくて人を破滅させるその真逆だと知らされた時には死のうかとも思ったわ……」

 

 目の下から熱いものが湧いてくる。声が震えて割れる。

 

 泣くな、そんな資格は自分にはない。

 

 そう自分自身に言い聞かせている恵だったが、それでも止められずに込み上げてくる熱い滴が頬を伝い始めた。

 

「でも、死にきれなかった……生きていれば、医学に携わっていれば、離れ離れになった家族といつかは出会う事ができるかもしれない……そんな希望を捨てきれなかった……そんな勝手な希望にすがって……人を死に追いやる薬を三年間も……」

 

 ぽろぽろと、ぽろぽろと涙の滴が頬をとめどなく伝っていく。

 

 気の小さな手弱女の涙でもない、蓮っ葉な女狐の涙でもない、おそらくはこれが本当の高荷恵の涙なのだろう。

 

「けれど、恵殿が未だ観柳に追われているのは未だにその製法を知る者が恵殿以外にはいないからでござるよな」

 

「え……」 

 

「“蜘蛛の巣”の生産量を最小に抑えて、せめて犠牲者の数を最小に抑えようと罪悪を放り出さずに敢えて自分一人で抱え込んだのでござろう?」 

 

 剣心はそんな彼女に手を差し伸べた。

 

 彼の言葉はまるで筋が通っていない。敢えて恵を庇う為にこじつけているに過ぎない。ただ、剣心の笑みは恵にとって縋りたくて仕方のないずっと待ち伸びていたものだ。

 

 お前はよく頑張った。

 

 許してやる。認めてやる。守ってやる。

 

 そんな全てがこもっているように恵には思えた。

 

「そうして三年間も苦しみ続けたのなら、そろそろ許されて自由になってもいい頃でござるな」

 

 三年間、人を地獄に陥れる薬を作り続けた時間を剣心は恵が苦しみ続けた時間であると言った。それは恵にとって意外過ぎる救いの言葉だった。

 

「いずれにせよ、連中がやすやすと手を引く訳がござらん。もうしばらく道場にいた方がいいでござるよ」

 

「でも……」

 

 壊された壁を見れば、とてもそんな図々しいマネはできない。そもそも、こんな真似をされて家主であるらしい少女がそれを許すとは思えない。

 

「いいでござるな? 薫殿」 

 

 そう言った剣心は顔を向けた方を見ると、門からぞろぞろと薫、左之助、そして先程薫が呼んだかかりつけの医師である老人が次々に顔を出した。彼らが恵の告白を聞いていたのは明らかだった。

 

「!」

 

 そしておそらく、全て剣心の狙い通りだったのだろう。薫は赤い顔をしながらいかにも不承不承という様子であったもののしっかりと了解した。こんな懺悔じみた話を聞かされて、しかも剣心が彼女を守ると言っているのに……そこで撥ねのけられるほど情がない娘ではないのである。

 

「事後承諾はいい性格をしているのぉ」

 

 誰にも聞こえない光成の言葉通り、そこに付け込んでしまう緋村剣心はなんだかんだ言ってもいい性格をしていた。

 

「あとは観柳たちをどうするかでござるな」

 

 さらりと口にして、剣心は彼女を先導するように門をくぐっていく。それに引かれる恵と薫、そして医師の姿が暖かい光の下へ消えた中で一人だけ残っている男がいる。

 

「…………」

 

 相楽左之助が、険しい顔を崩さずに一同を見送っていた。

 

 詳しい事情などは知らないが、この顔はまずい。光成は明確にそう感じて大きく息をついた。今の自分は幽霊のようなもので、何をどうしたところで干渉できるものは何物もないのだが……こんなつまらない理由で類稀なる強者たちが歪んでしまうというのは認め難かった。

 

 だが、そんな思いは関係ござらぬ喧嘩屋は舌打ちを一つすると……寒々とした空気の中を切り裂くように踵を返してどこかへ消えていった。

 

 

 

 

 件の襲撃から一週間。

 

 事態は穏やかに緩やかに停滞している。

 

 あれから御庭番衆が攻めてくることもなく、恵が神谷道場に少しずつ馴染んでいくだけの穏やかな日々が続いていた。

 

 襲撃当日、翌日、二日、三日……時間が経つにつれて剣心はともかく弥彦、薫の警戒心は目に見えて落ちていき、恵もまた少しずつだが確かに警戒心は薄れている。

 

 そんな事はあり得ないのに、だ。

 

 武田観柳が高荷恵、引いては阿片を諦めるなどありえない。少なくとも、今はまだ損害と利益の天秤が利に傾いている内はまだまだ終わらない。それは誰しもがわかっている事だが、剣心以外は時間の経過と共に喉元を熱さが過ぎ去ってしまっていた。

 

 今も、恵が作ったおはぎを次から次へと頬張って、師弟揃って栗鼠か猿のような有様である。

 

 何やら剣心が口を滑らせたらしく薫に殴られ、それを恵が大胆にも膝の上に乗せて何やら艶っぽく囁いている。それを見とがめた薫が彼女に食って掛かるが、きっちり言い負かされて落ち込む……随分と平和な光景だった。

 

「朝っぱらから何を滑稽劇してやがんでぃ」

 

 冷めた様子ながらも棘を残した声をかけてきたのは、左之助だった。

 

 手には白い薬包を弄び、呆れた顔で現れた左之助は無造作にそれを剣心に向かって放り投げる。

 

「爺の鑑定許可が出たぜ。そいつは間違いなく巷を騒がせている新型阿片だってよ」

 

「そうか……ところで、朝飯もまだであろう。どうだ?」

 

「いらねぇよ。阿片女の作った物なんざ嬢ちゃんの手料理以上に喰いたかねぇ」

 

「…………!」

 

 ぎろり、と刺し貫かんばかりの鋭い眼差しは恵の緩みかけていた心魂を鋭く突き刺す。同時に薫の女心も音をたてて軋む。

 

「ちょっと待ちなさい! 今のは聞き捨てならないわ!」

 

「ま、まあまあ」

 

 何とか剣心が取り押さえるが、そのまま彼ごと引きずっていきそうな勢いである。

 

「昨日一晩寝ていねぇンだ。寝間を借りるから半ドンなったら起こしてくれや」

 

 知った事じゃねぇやとさっさと尻に帆をかける左之助に恨み言をぶつける薫を何とか押しとどめる。殊更に強烈な力に引きずられそうになり自身の非力を疑う剣心であったが、どちらかと言えば少なくとも今現在の薫が規格外という方が正しい。

 

「恵殿も気にするなでござるよ」

 

 更に恵の落ち込みようにそちらにも言葉をかける。なんとも忙しい事である。

 

「恵殿が阿片を作ったと聞いても過去の素性も諸共に聞いてしまい、責めるに責められなくなった。おまけにあれから一週間、観柳一味の動きも全くない。握った拳の振り下ろしどころがわからなくなってしまった。そんな感じで苛立っているのでござるよ……しばらくは、そっとしておくのがよかろう」

 

 さらに付け加えると、御庭番衆の襲撃に備えて剣心との日々の稽古も軽めにせざるを得ない事も左之助にとっては不満であり、力が有り余っていた。

 

「…………」 

 

 井戸端で皿洗いなどの食後の始末をしている恵の脳裏に、左之助の強烈な怒りや侮蔑が繰り返し甦る。

 

 阿片女。

 

 彼女を端的に示す蔑称が繰り返し脳内に木霊する。それは最初こそ左之助の声だったが、いつの間にか剣心を筆頭とする神谷道場の面々の声に……そして、彼女の記憶の彼方にある離れ離れになったままの家族の声に変わっていた。

 

 自分が酷く鬱になっている自覚がある恵は何も考えずに手を動かす事に専念しようとして……そして、彼女に声がかけられた。

 

「ごめんください」

 

 びくり、と顔を上げた彼女が出会ったのは人のよさそうな老人だった。何か大きな荷物を背負い、のんびりとした様子で敷地に足を踏み入れている。

 

「毎度どうも御贔屓に。貸本屋です」

 

 書物はまだ高価な時代であり、個人個人で本を賃貸する商売が成立している時代だった。

 

「新本がたくさん入りましたよ。どうですか?」

 

「はあ……」

 

 商売人らしくずかずかと入ってきつつも、決して不快にはならない。そういう距離を意識しているらしく恵も戸惑いながらも無下にするわけにはいかないと立ち上がって応対をする。

 

 それが無防備だと、そもそも一人でいること自体が気抜けしすぎだと彼女は気が付かずに致命的な失敗をしてしまった。

 

「お姐さん、最近よく見ますねぇ。ここに新しく住むんですか?」

 

「いいえ、そんな。ただの居候で……」

 

「そうですか」

 

 荷物を下ろして広げようと蹲っていた老人が、手を拭っている恵に向かって顔を上げた。

 

「それはよかった」

 

 突き付けられたのは、般若面に覆われている顔。

 

「!」

 

 声を上げる暇もなく、口は手で覆われて突き付けられたのは一本の試験管。

 

「お静かに……下手に騒げばそこの井戸にこれを投げ込みますよ」

 

 般若の声が先ほどの好々爺と同じなのが酷く不気味だった。持っている試験管の中で不気味に光るそれが水銀であると悟った恵にとっては不気味さに輪がかかる。

 

「武田観柳が話をしたいと言っています。なに、話だけで連れて帰る気はないとの事。しばしご足労願えますか」

 

「…………!」

 

 恵は脅迫に屈した。

 

「……話って何よ」

 

 御庭番衆が見繕ったのだろう、剣心にも見つからずいなくなった事を怪しまれない程度のちょうどいい位置に観柳は待ち構えていた。

 

 観柳は悠々と煙草を燻らせて、毛を逆立てた猫の子のように警戒している恵に声をかけた。

 

「言うまでもないんじゃありません? そろそろ戻ってきませんか。犬猫でも飯時には戻ってくるものですよ。あなたもいい加減に、家出もお終いにする頃合いでしょう」

 

「……誰が。あなたの所に帰るくらいなら、死んだ方がマシよ」

 

「そうですか」 

 

 恵の言い分に、観柳は眉一つ動かさなかった。ただ気が強いだけの女と笑う影が透けて見えた。

 

「あなたが戻らないんなら、神谷道場に焼き討ちしますよ。ああ、毒を井戸に投げ込むのも忘れちゃいけませんね。周囲も含めて、流行病で済ませるのも御庭番衆なら簡単……残った土地は私が安く買い取って、後々有効に活用させてもらいましょう。勿体ないですから」

 

「なッ!」

 

「できないわけじゃありません。準備も後始末もいろいろ面倒でしょうが、むしろ損得考えたらここで一気に勝負をつけるのも悪くはないです。御庭番衆筆頭に、私兵団とやくざ者を五百人も動員すれば蟲一匹逃れる隙間もないでしょう。火をかければそれでお終い……まあ、生きて逃げられてもその先は一体どうやって生きていくんでしょうね? どれだけ幸運でも大火傷でその後の暮らしは立ち行かないでしょうね」

 

 剣心がいくら強くても、左之助がどれだけ腕がたっても、結局数の暴力には敵わない。何よりも、守らなければならない人間も拠点も多すぎる。守る側と攻める側では、当然守る側が不利に過ぎる。

 

 そもそも、神谷道場は防衛のための施設ではなく、そこにいるのは警官でも兵士でもないのだ。こうやって、恵が簡単に誘い出されている時点でお里が知れる。

 

「鳴かないのなら、殺してしまえホトトギス……織田信長でしたっけね。こんな言葉を残したとかいうのは……まあ、真偽のほどはともかく今回はそれに倣いますよ」

 

 張り付いた笑みを消し、笑みを消して見せたのはひどく不気味ななんとも言えない表情だった。観柳というどうしようもない人間の素顔がそれであるのかもしれない。

 

「もう、夢を見るのはやめにしましょうよ」

 

 彼はもう一度にこやかに笑みを浮かべた。とってつけた面のように不気味な笑顔だった。

 

「何をどう言おうとあなたが阿片を作ったのは事実。ばらまいたのは私でも、まさか自分が一方的に被害者だなんて思っているわけじゃないでしょう? 私に全部の悪徳を求めるのはいいですが、それで騙せるのは貴方自身と貴方の味方をしたい人間だけですよ」

 

 恵の顔が青ざめる。観柳がぬけぬけと口にしたセリフは決して極端な過ちではない。それを口にしたのが言っていい人間ではないという根本的な間違いがあるが、セリフの中身自体は決して間違いと切り捨てられはしない。

 

「あなたと阿片は既に一蓮托生。そして私もね。あの喧嘩屋さんでしたっけか? 揃って縛り首になれ……なんて言ったのは。まあ、そんな目に遭うつもりは毛頭ありませんが、確かにあの男の言う通りに我々はもはや切っても切り離せないんですよ。お互いに人の不幸に付け込んでいる悪党仲間としてね」

 

 いや、生み出していると言った方が正解ですか? などと嘯いた男はそこで恵の返事は聞くまでもないとばかりに背中を向けた。

 

「今更真っ当になろうとか手を汚したくないとか考えても、何もかもが無駄なんです。悪党は悪党らしく、最後までそれらしくしましょうよ」

 

 くすくすと彼女を嘲笑う声が遠ざかる。

 

「そうそう、焼き討ちの予定は今晩の零時です。時間はあんまりないから、それまでに決めてくださいね」

 

 汚れるのも気が付かずに膝をつく恵の中で一つの言葉がこだまする。

 

 恵の中で生まれたそれは右に左にと彼女の中で転げまわり、その度に大きくなっていく。

 

 左之助の声が言った。

 

 阿片女。

 

 剣心の声で言った。

 

 阿片女。

 

 弥彦の声で言った。

 

 阿片女。

 

 薫の声で言った。

 

 阿片女。

 

 観柳の声で言った。

 

 阿片女。

 

 恵の家族が声をそろえた。

 

 阿片女。

 

 そして、恵自身がこう言った。

 

 阿片女。阿片女。多くの人を不幸にしてなお我が身惜しさに逃げ回っている卑怯者の悪党。

 

 誉れ高き高荷の恥さらし―……

 

「あは」

 

 宙を見た。

 

 恵はこんな気分だというのに、たかだか女一人の心中など知った事ではないお天道様が爽やかな日差しを大地に恵んでいる。

 

 それに照らされ、どうしようもない絶望感を顕わにした顔を剥き出しにして恵は一人笑い続けた。

 

「あはは、あははははは……」

 

 それは奇しくも、彼女が観柳と共に作り上げてきた阿片患者のような虚ろな笑い声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、薫は恵に割り当てた部屋で手紙を見つけた。

 

 そこには観柳の手が途絶えたようなので故郷へ帰ると書かれており、薫は素直に受け取って若干拍子抜けと言うか意気消沈したが……一緒に読んだ剣心は顔を青ざめさせて手紙を握りつぶした。

 

「しくった!」

 

「剣心?」

 

「会津に帰った所で、恵殿には行く当てもなければ待つ家族もいない! 拙者らが知らない間に観柳が接触して脅しをかけたに違いない!」

 

 あるいはそれでも帰りたいのが故郷という物かもしれないが、不気味な沈黙を守る観柳一派を思えばそうとは思えない。大体恵にしても、どれだけ気を抜いたところで観柳がこのまま大人しく手を引くなどと考えるほど能天気でもないだろう。

 

 剣心は度重なる自分の失態に臍を咬まずにはいられなかった。

 

 隙が多すぎる。戦いの勘が、読みが、鈍りきっていた。

 

「左之! 観柳の屋敷の場所はわかるな! 行くぞ!」

 

 後悔している暇などない。彼女が一体いつ出ていったのか知らないが、既に屋敷に到達していると考えた方が無難……いや、計算などどうでもいい。とにもかくにも急がなければならない!

 

 だが、返ってきた答えは意表を突いた冷たさを持っていた。

 

「行けよ」

 

 腕組みをした左之助の眼は極めて厳しく彼らを見ていた。

 

 恵が攫われた事への危機感など全くない、酷薄な光は以前剣心と対峙した際に維新志士への怒りと軽蔑と顕わにした際と同様に輝いている。

 

「あの阿片女の為に俺が動かなきゃならねぇ理由がどこにある」

 

「てめぇ、いつからそんなダセェ事言うように……」 

 

 見知らぬ知人の知人よりも目の前の恵である弥彦が少年らしい真っ直ぐな義憤を左之助に向ける。だがそれを手で制した剣心が、まるで悪党と対峙している時のように厳しく鋭い眼差しを左之助に見せた。

 

 それを見た薫と弥彦は背筋に寒い物を感じて息を呑んだ。剣心が確かに怒っているとはっきり感じた。

 

「いい加減にしろ、左之。お前らしくもない」

 

「……うるせぇよ。あの阿片女のせいで俺の仲間は死んだんだぜ? それなのに俺が動かなきゃいけねぇ理由がどこにある」

 

 直接向けられているわけではない二人が怯んだ剣心の怒りを真っ向受け止めた左之助だったが、彼は全くひるまず怒りには怒りで返して彼の眼を見返した。

 

「ましてや、俺はお前ほどお人好しのつもりもねぇんだよ!」

 

 双方の眼光がぶつかり合う。

 

 剣心の鋭い怒りと左之助の燃えるような怒りが鎬を削る。双方決して譲るまいと強い意志が見ている二人を圧倒した。

 

「……左之。おぬしは恵殿の瞳を見ていなかったでござろう」

 

 緋村剣心、喧嘩屋の怒りと恨みの籠った目も受け止めて、ただ己の心情を率直に口にする。いっそ不器用で、加えて頑固な本質が表われていた。

 

「いつも気丈にふるまっているが、ほんの一瞬寂しそうな目で拙者たちを見ていた。心許せる家族を、それに等しい仲間を探している捨てられた子犬のような目でござる」

 

 身を翻した。教えてくれぬのであれば、行かぬと言うのであれば一人で行く。態度でそれを示し、最後に一度だけ振り返った。

 

「人が動くのに理由が必要であるのなら、拙者の理由はそれだけで十分でござる」

 

 そのまま足を進めて出ようとした剣心に影がかかる。

 

「ふざけんじゃねぇ!」

 

 左之助の怒りが拳に籠められて剣心の顔面を捉えた。怒りに任せていまいち伸びがないが、冗談ではない正真正銘に本気の一撃だった。

 

「!」

 

「左之助!」

 

「おい!」

 

 剣心は殴られると想像もしていなかったために、らしくもなくあっさりと顔面を痛打されて膝をついた。非難の目を向けた薫と弥彦だったが、二人の前にいる左之助の鬼さながらの形相は彼らに二の句を告げさせなかった。

 

「ぐっ……」

 

「剣心、おめぇは分かって言ってんのか。寂しそうだ? 仲間を欲しがっているだ? そんな理由であの女の罪をなかった事にする気か!? あの女が作った阿片で苦しんでいる連中を、俺の仲間が死んだのを無視して踏みつぶすってのか!」

 

「違う! だが恵殿も観柳の被害者であろう! 彼女は望んで罪を犯したわけではない!」 

 

「諸悪の根源があの似非実業家様でも、手を貸していた事は事実だろうが! 家族や仲間が欲しいだ!? その前につけなきゃならねぇケジメがあるだろうが! その気がなけりゃやらかした事もなかった事にするってのか!?」

 

 弾かれるように顔を上げた剣心の言葉は左之助にとって心の琴線に触れる物ではなかった。

 

「ちょっとやめなさいよ、左之助! 今はそんな事をしている場合じゃないでしょ!!」

 

 剣心との間に立って彼を庇う薫だが、その実彼女はかすかに震えているのを隠せはしなかった。だがそれでも立派なものだろう。そこらの小娘どころか大の男でさえ、今の左之助には声をかける事さえ憚られるに違いない迫力に満ちている。

 

 そんな彼女をこれ以上怯えさせるのは、さすがに頭に血が上った左之助でもできない。そもそも、そんな真似はただの八つ当たり以外の何物でもない。

 

「……観柳は俺の狙いの本命だ。野郎の屋敷に殴りこむってんなら是非はねぇ。だが、俺はあの女に同情しているつもりもなければ守る気なんざぁさらさらねぇ」

 

 左之助の目から見て、彼女は我が身可愛さ以外に何もない。本当に罪の意識を持っているのであれば自首をするか、そうでないにしても何らかの償いの道を模索するものだろう。だがその様子が全く見えない。

 

 剣心達はあの女を守る事しか考えていない。そしてあの女自身も結局は我が身惜しさ以外になさそうだ、と左之助は思っている。そこに偏見や思い込みが混ざっている事に、彼自身は気が付いていなかった。

 

「どうしてもあの女を助けたいって言うんなら……お前らで勝手にやれッッ!」

 

 そう言って左之助は踵を返す。後に残されたのは粘りつく泥のような沈黙だったが、剣心はすぐにその後を追った。彼にも何をどう言えばいいのか全くわからないが、ここで足を止めていては何もかもがご破算になってしまうのだ。何をどうしようとも、止まる事だけはできない流れだった。

 

「って、待てよ! 俺も行く!」

 

「弥彦! 待ちなさい、あんたが行っても足手まといになるのがせいぜいよ!」 

 

 無鉄砲な少年の襟首を半ば予想していた薫がすかさず引っ掴む。じたばたともがく少年に言い聞かせるが、彼は師匠の言葉に耳を貸さない悪い弟子だった。

 

「うるっせぇ! 俺はあの女に一度命を救われたんだ! 命を懸けてでもこの借りを返さねぇで、何が活人剣の神谷活心流だ!」

 

 掴まれた襟首を振り払った弥彦の生意気な子供の戯言とは切って捨てられない気迫に薫が一瞬とはいえ飲み込まれ、それに乗じた弥彦がさらに言葉を重ねた。割と小さな声で。

 

「つうかよ、今のあの二人だけにしていくのも駄目だろうが! さすがに途中で喧嘩なんかしないとは思うけどよ」

 

「う……」

 

 先程の左之助の怒りぶりを思い出すと、弥彦の懸念もあながち杞憂と言えない。

 

「だ、だったら私も!」

 

「いや、薫殿には道場を守っていてほしいでござるよ。それと、すまないが帰ってきたら飯と風呂がほしいでござるな」

 

 これは剣心の気遣いだった。

 

 流れ者の自分や裏稼業の左之助はともかくとして、この街に根を下ろしている真っ当な剣術道場の主人が表向きは青年実業家という看板を掲げている相手に殴り込みをかけるのはいくら何でも後が怖い。できれば弥彦にも残っていてほしいが、彼の顔を見るに梃子でも動くまい。

 

「薫の飯かよ……ちゃんと作れるんだろうな」 

 

「言ったわね、弥彦! 見てなさいよ、だったら腕によりをかけて美味しいのを作ってやるんだから!」

 

 敢えてはしゃぎまわり、もめ事に沈んだ自分の心を励まそうと空元気を出しているようにしか見えない剣心は、表には出さないがそんな二人をありがたく思った。

 

「……こんな風にぶつかり合ったのは……一体いつ以来か。ああ、師匠の時以来か……」

 

 剣心は殴られた頬の奥で歯のぐらつきを感じながら、自分と喧嘩屋の関係もこの歯のようにぐらついているのだと遅まきながら自覚した。

 

 目の前にいる虐げられた人を守りたいという己の意志が間違えているとは思わない。だが、なぜこうもぶつかりあうのかが彼にはわからなかった。わからないから繰り返した、とわかるのはたったそれだけだった。

 

「何を黄昏ていやがる、剣心! 左之助一人で突っ込ませる気かよ!」

 

「ああ、すまんでござる……では、行くぞ!」

 

 気まずさを噛み潰して戦いに集中するのは造作もない。ただ、それが後々を考えてもいい事であるのかそうでないのかまでは、剣心にもわからなかった。

 

 例え分からなくともわからないなりに、暗闇の向こうへと踏み出す彼の歩みには強さがあった。

 

 ただ、その強さが本当にいい物であるのかどうか、それは誰にも分らない……いいや、緋村剣心にこそわからない事だった。

 

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