でも300弱まで貯まった石を、20枚近く貯めた符をゼロ枚と70個強まで減らしてそのざまよ。泣いてもいいよね……引かなきゃよかった……次回のイベントと今後の夏はどうしよう……
でもこの後、なけなしの石でクローンアサギを引くんだ……っ! とにかく来てくれ、虹色SR!
とまあ、愚痴と言うか泣き言は置いといて。
いつの間にやら40000字強。というか50000字弱。今回までは左之助にスポットが当たり、次回は剣心と蒼紫がメイン。
その次からはしばらくオリジナルで話が一気に端折られる予定。
どこまでいけるか、いつ書ききれるのか。夏には……終われなさそうだなぁ……
ふたばやさん、さっそく誤字報告ありがとうございました。
武田観柳邸は神谷道場のある街の外れに位置し、壁に囲まれた広大な土地に西洋風の屋敷……いわゆる擬洋風建築の邸宅を構えている。森一つが入っているのではないかと錯覚させる巨大な前庭を真っ二つにする道の前には大きな門があり、そこは常に守衛……というよりも門番に固められていた。
街の庶民一同が嫌う“一体どれだけの金をかけているのかわからない大きすぎる嫌味な屋敷”である。
最も、街の荒くれから官にまで恐れられているような男の屋敷。嫌われてはいても直接手出しをするような馬鹿はいない。おかげで夜の門番は徹夜こそきつい物の至ってのんびりとしたいい稼ぎの楽な仕事だった。昼間の方が、時に来客を失礼のないように……あるいは嘗められないように迎えなければならないので面倒な程である。
だが、今日に限ってはそうでもなかった。
屋敷から十日間強も家出していた金の卵を産む雌鶏が自分から正面切って開き直った顔をして帰ってきたのを、門番が目を白黒させながら迎え入れたのがつい先ほど。
それだけなら引き渡しておしまい、彼らにとっては問題なかったのだが……どうも中で騒々しいと思ったら、彼らが通した女が一体何をとち狂ったのか屋敷の主に隠し持っていた短刀で斬りかかったというのだ。
幸い主人は護衛の手により事なきを得たが、凶器を持った女をそのままあっさり通した門番たちは面目丸つぶれ。更には減給か、もっと直接暴力的なお咎めが待っているだろうと今から首をすくめて沙汰を待っている。
尤も、彼らはそんな沙汰が下りるのを待つ必要は永遠にない。
「よう。いい晩だなぁ」
飄々と声をかけられた門番が前を見ると、そこにはどこかで見たような若い男が何やら長い包みを担いで立っている。
「……」
その後ろからは腰に刀を差した剣客……と何故だか木刀を背負った子も一人。
前二人なら殴り込みとまではいかずとも何かの剣呑な用事で顔を出した“お客様”と察せられるが、なんともいかにも生意気そうな子供を連れているせいで妙に目的がぼやけている。
「なんだ、てめぇら」
「こんな夜中にガキを連れ回しやがって。大人だったら夜更かしするガキは叱って寝床に放り込めや、おう! 肝試しかなんか知らねぇが、こんな街外れにまで連れてきやがって。迷子になったり明日寝坊したらどうすんだ!」
「お、おろ……」
「誰が迷子だ、こんにゃろー!」
「……すげぇ真っ当な事言われちまったな」
やりづれぇな、と頭をかいて近づいてくる男達に反省のそぶりは見えず、ここは一つ腰を据えて説教をしてやらねばとこっちからも歩み寄った男は先頭切ってやってくる男の顔がやはりどこかで見知っていると思えてならなかった。
「……なんか……どっかで会った事があるか、あんた?」
「なんでぇ、知り合いが差し入れにでも来たのか?」
「ん~……」
「おう、兄ちゃん。肌寒いから差し入れなら熱燗なんか頼むぜ」
一体どこから出せと言うのか、なかなかに無茶を言う。
「いや、知っている顔は顔なんだが……そのトリ頭……背負ってる妙に長い包み……ここまで出ているんだけどなぁ」
「おいおい、傷つくねぇ。ここらじゃちったぁ知られた顔なんだけどよ」
「あん? 有名人ってか、てめぇ」
「!」
顎に手を当ててしげしげと左之助の顔を覗き込む男の後ろで、酒だなんだと本気か冗談かわからない顔で与太事を吐いていた男の方が顔色を変えた。
「おい、そいつ……もしかして……」
「あ?」
「……喧嘩屋、斬左?」
答えは、月を隠した斬馬刀の影だった。
「妙な見張りだったな。つうか誰がガキだっての!」
「これこれ」
頭にたんこぶを作って地べたを嘗めている二人の頭を蹴とばす弥彦を止めた剣心が、眼付きを鋭くして鯉口に手をかけながら門の向こうを見る。彼の眼差しの向こうにいるのは、人を人と思わぬ死の商人とそれを守る天才隠密のなれの果て。そしてその配下。
「さて……」
しかして往年の人斬りはそれに気負いはせず、ただ確かに高ぶる自分を御して目指す先を見つめるだけだ。
「んで、どうすんだよ」
「少人数の奇襲に巧遅は無用。拙速であろうとも一気に本丸へ攻め込むでござるよ」
ちなみに、剣心が口にしているのは彼のような人物以外がやると即座に失敗して殺されてしまうような愚行、あるいは無謀である。
そもそも三人で武装している大人数の拠点に攻め込む事態がどうかしており、普通はまず忍び込むという考えから始めるものだ。潜入口を恵が道場に転がり込んできた時から密かに探り、万が一の場合に備えるくらいは当たり前なのだが……それをせずに毎日を平常に過ごしていざ事が起こればたった三人で殴り込み……いい加減にしろと真っ当な軍人辺りが金切り声を上げて怒り出しそうな愚行だが、それを力づくで成し遂げてしまうのが緋村剣心という剣の達人なのである。
控えめに言っても頭がおかしい。戦力と戦術を引き換えにして差し引きゼロにしているような愚行である。
「おい、左之助」
「あん?」
「遅れを取るんじゃねーぞ、いいな!」
本来だったら拳骨一つも見舞う所だが、弥彦が敢えて日ごろの態度を貫いているのだとわかっている左之助はせいぜい頭に平手打ち程度で許してやった。最も、脛に蹴りを入れてきたので即座に丁寧に防御して向こうに痛みが奔る様に返してやったのだが……
そんな滑稽劇が繰り広げられていると知らない邸内では、結構な人数が邸内でそれぞれ適当な得物を片手に屯している。見るからに破落戸と言った風体で、暴力に対する忌避が善良な市民と比較して大きく下がりそうな見てくれからわかるように観柳の私兵団だが、見回りというのではなくそれぞれ勝手にそこらをうろついている番犬のような体だった。最も、適当にうろついているだけの彼らでは熱意も能力も番犬ほどの頼りにはなるまい。
そんな頼りにならない破落戸どもだが、門の前をうろついていた三人がおかしな音を聞いた。
文字にするとかきぃん、とでも言うのが妥当なところだろうか。それが二回。はて、なんぞと適当に周囲を見回した時には既に手遅れの見本のような状態だった。
「なんだぁ?」
咥え煙草をした男の訝しんだ声に被せられたのは巨大な破壊音だった。引き付けられるように目を向けた一同、なんと屋敷に相応しい巨大で豪勢な造りをした門が外側から粉みじんに砕け散るのを見る。周囲には粉塵が立ち込め、一体何が起こったのかなどわからないがともかく一大事であるのは間違いない。
「!?」
だが破落戸風情に危急の際の心得などあるはずもなく、巨大な音と突然の破壊に度肝を抜かれた一同が思わず瞠目する中、濛々と立ち込めた土煙の向こうから三つの影が飛び出してくる。
未だに門を見つめて呆然としている破落戸どもに向かって、影の一つが一気に飛び込むとそのまま彼らを吹き飛ばした。
影の名前は、緋村剣心。神速をもって鳴る飛天御剣流の使い手の面目躍如、一気呵成に最も人が多い箇所に矢のように突っ込むと逆刃刀を縦横無尽に繰り出して一度に三人五人と叩き伏せる。そこらの素人の目にはただ薙ぎ払っているだけの太刀の悉くが見事に急所を打ち据え、避けようとも防ごうともその全てが叶わずに昏倒させられていく。
正に天狗の仕業のような飛天の神業は赤毛の男の影さえ残さずに私兵団の一角を蹂躙させる。彼らが打ち倒されて地べたを嘗めた時には、既に件の男は影さえ踏ませない遠い彼方だ。
「なんだぁ、ありゃあ……」
「人間? に見えたぞ……?」
疾風迅雷、飛燕の如く。
その勇ましくも陳腐な言葉が人の形をして観柳邸の前庭を蹂躙している。
「っだ、こらぁ!」
「門をぶっ壊したのはてめぇか、こらぁ!」
伝説の人斬りの影を置き去りにする神速の的にならずに済んだ幸運な団員たちは、その次に悠然と顔を出した男に目を付けた。
「神谷道場の門のお返しじゃねぇけどよ」
そう言って笑った男の顔には、私兵団員ごときではどうしようもない程の凄みがあった。肩に担いだ常識外れの突拍子のない大きさ、形状のだんびらが月を隠して影を落とす。
相楽左之助の前に立った男たちは、先ほどの風のような男とは違う、重苦しい圧迫感のようなものを感じて背筋を寒くした。
「お、おい……あのでかいの、もしかして……斬馬刀って奴か?」
「見た事ねぇけど……他にねぇよな? じゃあ、あいつが喧嘩屋の…」
こそこそと呟きながら顔を見合わせる私兵団たちを前に容赦するような男ではなかった。
「おいおい、殴りこんできた俺を前によそ見をするなんざ随分と余裕じゃねぇか」
肩に担いだ斬馬刀を振りかぶると、それだけで風が起こる。剣心が疾風ならこの刃風は豪風だ。
「ぼやぼやしてっと……怪我じゃ済まねぇぜぇッッ!」
彼らがそれを聞いたのは、巨大な鉄の塊に弾き飛ばされて小石のように宙を舞っている時だった。
そのまま独楽のように斬馬刀を振るうと、巻き込まれた私兵団が次々と跳ね飛ばされていく。
「ぼぎゃあ!?」
「ぶげっ!?」
汚い悲鳴を上げて次々と宙を舞う仲間の姿を見て、団員たちが顔を青ざめさせる。剣心の場合は正しく目にもとまらぬ速さだが、こちらの方はしっかりと目に映る為に余計に恐ろしい。
そもそも大の男が子供のおもちゃよろしく吹き飛ばされるなど空想の中でも彼らは考えた事がなかった。講談のネタでなければ、ほとんど事故か小さな災害である。
ただ鉄の塊が襲い掛かってくるだけでなく、吹き飛ばされたおかげで落下がおまけでついてくる。腕やあばらが折れるだけではすむまいが、阿片売買で肥え太った屋敷で荒事を生業としているような男たちに同情や手加減をするつもりはなかった。
「左之助!」
最後に、ひと際小さな影が息を荒げて走っている。
「遅れを取るんじゃねーぞ!」
「……まぁだ言うか、あのガキャア。意地っ張りめ」
呆れた左之助は振り向きもせずに、だがしっかりと弥彦の近くに行きそうな私兵団員を叩きのめす。尤も、剣心と左之助のような規格外の二人を前にして子供に構うような余裕を誰も持ってはいなかった。
「つ、つえぇ……この二人組、強すぎる!」
「三人組だ、バーロー!」
いきり立って叫んでも気にもされないような有様である。捕まえられて人質にされないだけマシなのだが、誇り高き東京府士族たる弥彦にしてみればいない者のように扱われるのは噴飯ものであった。
さすがに二人で全滅とはいかず、そもそもそんな意図はない為に生き残る事が出来た団員が笛を吹いて応援を呼ぶが、その悉くが寄らば斬れと駆け抜ける剣心を止められず叩き伏せられるか風のように通り過ぎていくのを見送るしかできず、背中を見送ったころに現れた左之助の斬馬刀に吹き飛ばされると言う無残なさまである。
剣心が切り込んだ線を左之助が広げ、観柳邸の正門から玄関まで一直線に死屍累々の有様は正しく常識外れ。これをたった二人とついでに子供一人でやったなどと誰が信じるだろうか。
「うわあああああッッ!?」
まるで妖怪に出会ったかのような悲鳴を上げる私兵団だが、被害だけを見ればあながち間違いではない。剣心も左之助も、それぞれの意味で妖怪じみている。
その妖怪たちの蹂躙により、警官たちさえおいそれとは手出しできない私兵団のほとんどがあっという間に片付いている。そこらにはおのおの好き勝手な格好でのたうち回り、あるいは息をしているかも正直怪しいような無残な屍寸前が転がっており、見回す弥彦に死屍累々の意味を実地で教えている。なんともまあ物騒な実地教育もあったものだが、これも剣客というものかもしれない。
「ヤクザと剣客は大体殺った!」
一応、死人はいない。
「あとは……銃士!」
事前に恵に聞いていた私兵団の内訳を思い出しながら周囲を見回すと、おそらくヤクザや剣客との同士討ちを恐れて下がっていた拳銃を装備した一隊が整列して得物を構えていた。生意気にもまるで警官のような恰好をして、訓練も積んでいるのか構えもそれなりに堂に入っている。
「撃ち方、構え!」
銃器類は強力で、訓練も刀剣や素手に比べてまだしも短い期間で物になる。おそらく御庭番衆が雇われるまで彼らが観柳本来の切り札だったのだろう。
だが、例え構えられているのが石だろうと弓矢だろうと、そして拳銃だろうと緋村剣心は怯まない。怯むどころかなお一層の神速を振るい、銃口の前に躍り出た。
影さえ残さない目にも止まらない速さで一気に銃士隊との間合いを詰めると、駆け抜けながら四人を叩きのめす神業を前に、彼らは引き金にかけた指一本さえ動かせない。
「なんて奴だ。銃口を前にして怯むどころかなおさらに加速するなど……」
常識外れ、正気ではない。そんな言葉も切り伏せられた累々たる屍寸前の前には全く空しいだけだ。
「! 止まったぞ、いまだ撃ていッッ!」
「左之! 弥彦!」
切り返しの為に仰々しい邸の扉前で止まった剣心に、これ幸いと指揮官は命令を下すが矢継ぎ早に声を出したのは剣心の方だ。彼の声を聴いた左之助はふん、と鼻息を鳴らすと担いでいた斬馬刀の切っ先をなんと並走していた弥彦の襟首に引っかけて持ち上げてしまった。
「おら、弥彦」
「はあ!?」
いきなりの事に目を白黒させる弥彦もろとも斬馬刀を槍投げよろしく構え、思いっきり……
「おいちょっと待て、まさかおい!」
「活躍してこいやぁッッ!」
まとめて放り投げた。
「でええぇぇぇッッ!?」
「ほぎゃあっ!?」
「ごげげッ!?」
見事に放物線を描いて銃士たちの真ん中に放り込まれた斬馬刀付き弥彦、ないしは弥彦付き斬馬刀は不幸な銃士達を巻き添えにし、重量感のある音をたてて地面に突き刺さる。
「このガキがッ! ……ああ……大丈夫か?」
見事に斬馬刀の下敷きになった弥彦がぴくぴくと痙攣している有様に、思わず心配の声を上げてしまった指揮官の男だった。
「……てて……おう、すまねぇな」
「いいって事よ……なわけあるかぁ! いつの間に掏りやがった、このガキ!」
思わず差し出した手を捕まえようとする弥彦が、もう片方の手に拳銃を持っているとすれば話は別である。
「ったく、あれだけ嫌だったスリ時代の技がこんな所で役に立つたぁ、わからねぇもんだぜ」
「もう夜半だってのに何を黄昏ていやがる! ガキのおもちゃじゃねぇんだから返せ!」
「……ふん」
手を突き出す男を生意気な顔で見ると、そのまま銃口を突きつけた。
「っておい、こら! 本気か!? なんって危ないガキンチョだ!」
悲鳴を上げる男にしてみれば、いくら何でも子供が銃を使うだなどと想像もしていなかった。だが弥彦が引き金を引けば、それだけで男の頭蓋骨に風穴があく。
「ばん!」
「うひぃっ!?」
泡を吹いたまま素っ頓狂な悲鳴を上げて気絶する男が膝をつくのを、弥彦は冷めた目で見ていた。尻もちをついたままの彼と同じ高さに降りてきた傷一つない顔に向かって偉そうに嘯く。
「俺は剣士だぜ。拳銃なんざ頼まれたってつかわねぇよ」
「知るか、クソガキ!」
「優しくしてやってりゃ調子に乗りやがって、この!」
生き残りが弥彦に拳銃を突きつけるが、正当な報復を行う前にさらなる強襲が人斬りと喧嘩屋の形をとって襲い掛かってきた。
物も言えずに耳障りな打撃音を引き連れて地べたに沈んだ無残な二人をしり目に弥彦は自分をとんでもない目に合わせた喧嘩屋に食って掛かるのだが、相手はそれを適当に聞き流して笑う始末である。ますますいきり立つ弥彦だったが、内心では少し安どしていた。
左之助も剣心も、意外と息があっている。下手をすれば喧嘩別れのような形になるのではないかと身構えていただけに、ほっとした思いを気安さに変えて左之助にぶつけていきり立った。子猿のように鼻息を荒くする弥彦は適当にあしらわれてますます野犬のような有様になる。
普段はそれをとりなそうとするはずの剣心は何も言わずに屋敷に目を向ける。
「観柳!」
彼の眼の先には、二階の窓からそれまでの余裕ぶった表情を一転させて青ざめている死の商人がいた。
目を見開き、歯まで鳴っている鴉に狙われたネズミのような有様はとても彼らの知っている不気味ささえ感じる死の商人、観柳ではない。あるいはこれまでが仮面に過ぎず、その影に隠されているのはこんな卑屈な顔に過ぎなかったのか。
「後ろに御頭まで居やがるな」
「高いところから見降ろしやがって」
毒づく二人の前に立ち、剣心が観柳を下から睨みつける。殺さずと謳うはずの流浪人のはずだが、鋭い眼差しの彼はまるで人斬りそのものだった。
「年貢の納め時だ、観柳。恵殿を連れて、ここに降りてこい」
まさに切っ先を突きつけられたような錯覚に陥り、過呼吸を起こして引き攣る観柳だったが、唐突に芝居がかったように笑い始める。
「は、はは……ははははははは」
「あんだぁ?」
「……とうとうイカれたか?」
高いところから見下ろしてくる観柳は芝居がかった動きで両手を打ち合わせて、冷や汗を流し始める顔に愛想笑いを張り付けた。だが、はっきり言えば引き攣りを隠せていない。こういうのを、蛇に睨まれた蛙というのだろうか。場所も合わせていかにも芝居がかっているのだが、逆にそのせいでこっけいささえ感じる惨めな姿だった。
橋の上で出会った際の余裕ある不気味さを見せた男ではなかった。
「素晴らしい! まさか私兵団五十人をこうも簡単に息もつかせぬ間に倒してしまうとは! さすがは音に聞こえた伝説の人斬り、緋村抜刀斎!」
「あいつ、剣心の素性を……」
「一週間もあったんだ。隠密とか言っているんなら調べるのは容易だろ。俺でもわかったくらいだ」
最も、喧嘩屋の場合は依頼人が素性を知っていたからこそ、である。
「まあ、これでちんたらしていた理由もよく分かったな。藪をつついて鬼の人斬りが出てきたおかげでビビッていたってわけだ。あの余裕綽々の態度が嘘みてぇに……けッ!」
不気味さは怖いもの知らずの裏返しに過ぎなかったと悟った左之助が無様さに舌打ちをするほど、今の観柳は滑稽だった。もはや見るに堪えないと視線を後ろに立つ御頭に向けようとした左之助だったが、観柳の白い上着の袖が斬れて内側から血が滲んでいるのに気が付いた。刃物傷のようだが、あの男が刃傷沙汰など起こすだろうか。
「……まあ、どっちでもいいか」
それよりも重要なのは御頭、四乃森蒼紫である。観柳はただの小物と言い切っていいようだが、こちらはとても油断できる相手ではない。
先の左之助との手合わせで見せた動きは確かな強者のそれでありながらも、まだまだ本気には程遠いのは明らかだ。彼一人いるだけでも高荷恵の奪回は困難を極める。
「見事です。その剣腕、気に入りましたよ! 御庭番衆に加えてあなたまで私の傘下に加わってくれれば正に最強!」
汗をだらだらとかいて小物となり下がった死の商人は、指を五本立てて剣心に見せつけた。
「私兵団五十人分の報酬を支払いましょう! どうです、ぜひ私の用心棒に!」
ちなみに倒れている私兵団全員の給料は役立たずとして未払いのまま放りだす予定。この期に及んで損をゼロにする方法を咄嗟に思いつく辺り、生粋の商人ではあるのかもしれない。
「降りてくるのか来ないのか、どっちなんだ?」
いずれにしても、この状況で買収が効くと思っているあたり、頭骨の中身は相当に煮詰まっていると考えていいだろう。
「で、では百人分!」
剣心の足が無言で一歩前に出た。
「に、二百人!」
もう一歩、前に出る。
後ろに立つ左之助と弥彦は露骨に呆れた目を向けた。こいつもこれだけでかい邸宅を構えているのだから相当なやり手であるはずだが、いったいこの体たらくは何なのか。これだけふざけた買収が通じるような奴しか商売相手にはいなかったという事か。
「わからん奴だな。緋村抜刀斎は買収に応じるような男ではないという事だろう」
「!」
あまりにも見苦しい姿に嫌気がさしたのか、蒼紫が口を挟む。いいや、嫌気がさしたどころか声には笑いが含まれていた。
滑稽さに笑ったのか。
それも違う。
「金や地位を求めるのであれば、今頃は陸軍の大幹部にでもなっているんじゃないか? たかが破落戸百人や二百人の食い扶持などに今更目が眩むものかよ」
蒼紫の唇はうっすらと綻び、この鉄火場を楽しんでいるように見えた。いいや、事実楽しんでいるのは間違いあるまい。目は冷たく輝き、唇だけが小さく弧を描いている表情に一体何を感じたのか死の商人はほんのわずかだが沈黙する。
その短時間で一体何をどう考えたのかは彼以外にはわからないが、保身や損得の勘定を算盤弾いているのは弥彦の目にも明らかであり、同時に何をどうしようとも手遅れな事は観柳以外の誰にとっても明らかだった。
「わかった! 私の負けだ! 高荷恵は手放そう!」
「!?」
一同、突然潔い事を言い出した観柳に驚き、戸惑った。率直に言ってしまえば、これまでのそろそろ人生が終わりであるかのような見苦しさに似合っていない。
「ホントにイカレタのか?」
「殴れば元に戻っちまうかもな」
石でも投げつけてやろうかと探し出す左之助と弥彦だったが、手ごろなのが見つからないのでやめておいた。弥彦はともかく左之助にとっては友人の仇の根本であるので、石ころ投げつけるよりはもっと盛大に殴りつけたい。
「だが一時間待ってくれ! こちらにもいろいろと準備がある。一時間後に高荷恵は必ず送り届ける! 今は大人しく引いてくれ!」
「……実は馬鹿なのか、あいつ」
必死な形相から出てきたのは信用するしない以前の与太事であった。麻薬商人の準備なんぞ、誰がさせるだろうか。一時間の間に逃げ出すのか、それとも重要な証拠の隠匿か、拷問にでもかけて製法を無理やり吐き出させるか?
いっそ警察を呼んで三人を逮捕させると言うのもありかもしれない。何しろ彼らはただの殴り込みを仕掛けているのだから、大義名分は実際の所は向こうにある。
「誰がそんなもん待つか! 渡すんなら潔く今すぐに連れてきやがれ!」
呆れる左之助といきり立つ弥彦だったが、そんな彼らを他所に、なんと剣心は逆刃刀を鞘に納めてしまい踵を返す。
「はあッ!? おい剣心!」
びっくり仰天、弥彦は裏返った声を彼の華奢な背中にぶつけるが剣心の歩みは止まらない。まさか、本気で今の与太事を真に受けているのか。
「ちょっと待て! いくら何でもお人好しが過ぎるぞ、おい!」
もしも本気であの男を信じているのであれば、まさしくお人好しどころか馬鹿であろう。だが、仮にも幕末の動乱を生き抜いた男が剣腕だけの馬鹿であろうか。
いいや、そんなはずがない。
「?」
腹の底で下劣かつ底の浅い算段をしているのがよくわかる顔をしている観柳だったが、剣心がガス灯の横で足を止めた事でほくそえんでいた表情を消した。
明治文明開化の象徴とも言えるガス灯を個人で所有しているのは、この街で大商人である観柳だけである。そもそも個人で所有するという考えが普通ではない。この異様に大きな邸宅を照らすのに不要ではないが、邸の巨大さも含めて観柳の見栄、自己顕示欲がよく表れている。
大きさは小柄な剣心の倍以上ある。土台部分は石で出来ており、購入と維持に幾らかかるのかは知らないが、剣心と左之助の一年の収入を合わせても十倍では足りるまい。
そんな観柳ご自慢のガス灯横で、剣心は鯉口を切った。
「!」
距離のせいでそこまでは見えないが、鍔元に手をかけたのは何とか見てとった観柳が直感的にこの先を悟って引きかけていた冷汗を即時倍にして顔を濡らす。
「はあぁッッ!」
気合の一閃、鞘奔らせた愛刀の逆刃が胴より太い石を硬い音を上げて見事に両断する!
「どぎゃひいいぃぃ!!!」
いいや、さすがは緋村抜刀斎と言うべきか。胴ほどの太さの石を両断するなどそれだけで神業だが、なんと自分の倍以上もある巨大なガス灯を斬った勢いのままに観柳佇む二階の窓横にまで弾き飛ばしたのだ!
果たしてこのガス灯、いったいどれだけの重さがあるのか。轟音たてて窓横のレンガに巨大な罅を入れ、自分が張りぼてではないと強く主張するガス灯が無残にひしゃげて地べたに落ちると灯のガラスが無残にも粉々になる。
「…………」
「…………人間じゃねぇ」
予想以上の離れ業に観柳は声も出せずに腰を抜かし、地べたに横たわっていた私兵団の面々まで耳元で雄鶏の鳴き声を聞いたよりも強烈な音に跳び起きて、見せつけられた惨状に唖然としてしまう程だ。石を両断したのはともかく吹き飛ばすとはいかなる術か。小柄で痩せぎすの剣心が、一体何をどうすればこんな力を出せるのか。据え物斬りだとしても常識外れどころか人間の限界を超えている。
「一時間以内にそこへ行く! 心して待て、観柳!」
苛烈な視線と叫びに足元を払われた案山子のように、麻薬商人はしりもちをついた。どうにか立ち上がりこそしたものの、膝が笑っている。
そんな観柳が立ち上がり始めの赤子よりも頼りなくふらつきながら窓枠に手を突いた直後、再度轟音が響き今一度尻を痛打した。
「げへ! な、なんだ!」
痛みが活になったおかげで普通に起き上がった邸の主が表を見下ろすと、なんと正面玄関の戸が木っ端みじんに破壊されていた。
「はあああっっ!? いくらしたとおもっているぅぅ!!?」
「知るかよ、糞野郎が」
悲痛な叫びをむしろ心地よく笑いながら聞いたのは左之助。巨大な斬馬刀を肩に担いで、惨事の犯人が誰なのかを思い切りよく自白している。
「この無駄にでかい屋敷をちったぁ住みやすく縮めてやろうか? 工事代はタダだ。好きだろ?」
「ふ、ふ、ふじゃきゅりゃりゃああっ!」
一瞬で大和民族以外の誰かになった観柳を相手にして、久方ぶりに楽しそうに笑った左之助はおまけとばかりに相棒を振り回してもう一段階玄関の修理費を格上げすると、大股で先陣を切った。
「なあ、剣心。こいつら神谷道場に火をつけようとしたんだろ? こっちもそれぐらいしてもいいんじゃねぇ?」
「恵殿も巻き込まれるかもしれんでござるよ。それに後々証拠品になる阿片が燃えてしまうのも……」
「それさえなけりゃ燃やしてもいいとは思ってんだな。つうか警察じゃねぇんだし証拠とかいるのか?」
なかなか鋭い少年剣士のセリフを背中に新しい戦地に踏み入った左之助だったが、一歩目で即座に足を止めさせられた。
「こいつは驚いたな……」
「お主は、あの時の般若面……お主程の使い手がまさかの一番槍でござるか」
扉をくぐった……正確には破壊した先にある開いたホールで一同の前に立ちはだかるのは、一週間前に彼らの前から襲撃者たちを見事回収してのけた般若面の男だった。
相変わらずの異相が腕を交差させて腹の前に構えて、面の向こう側に闘志を秘めて三人……正確には二人を油断なく見据えている。
「だから言っただろう。すぐに再会する事になる、と」
「一週間も待たせやがったくせに何を言っていやがる」
足を止めたのは一瞬。すぐに喧嘩屋の足は前に出た。
「左之!」
呼びかけに喧嘩屋は応えるどころか見向きもしなかった。
「……お前が俺の相手か」
「なんでぇ、不覚を取った剣心でなけりゃ不満か? あいにくと待たされすぎてイライラしてんだ。表のザコじゃ何十人ぶっ飛ばしても弱い者いじめにしかならねぇし、ここらで猛者と喧嘩をやって憂さ晴らしをしてぇのよ」
ぎらついた目だった。腹の中に鬱屈した感情を貯めこんで、それを解放する場所がなくてイラついている。そんな内心を率直に見せつける凶暴な目だった。
「いや、それはそれでこちらの思惑にも沿う」
「ああ?」
それをどう受け止めているのか、少なくとも般若は表面上静かに牙を剥きだした狂犬の様な目を受け止める。
「そういうこったよ」
「!」
新しい声が聞こえたとともに、風切り音が左之助の鼓膜に届く。
目を向けた左之助が見たのは自分の視界一杯に広がる巨大な鉄の塊だった。
「おおッッ!?」
さても伊達に喧嘩屋を生きてはいない。度肝を抜かれながらもどうにか斬馬刀をかざして出所さえわからない鉄塊を反射的に受け止めるが、やはり虚を突かれたのは誤魔化せずに相棒は弾かれて宙を舞った。
「おわっ!?」
「ちっ……」
「ち、じゃねぇよッ! 得物を吹っ飛ばされてどうするよ! 俺の鼻先かすめているぞ、こらッッ!」
吹き飛ばされた斬馬刀が自分の足元に突き刺さった弥彦にしてみればたまったものではない。間近で見てみれば自分をすっぽりと隠す巨大さなので余計だ。
「うるせぇぞ、ついでだからそのまま預かってろ。ビビんなよ」
「ビビッてねぇよ!」
馬鹿にすんなといきり立った弥彦だったが、勢い任せに斬馬刀に手をかけると倒れてきた鉄板にそのまま押し潰された。
「ぬおおおお!? なんだ、この! け、剣心! この程度、屁でもねぇからな。絶対に手ぇ出すなよ!?」
「……生憎と二対二。済まぬが頼まれても手を貸せないでござるよ……頑張れ、弥彦」
剣心がそう言った際の弥彦の顔を見て見ぬふりをしたのは、まあ、武士の情けだ。
「いまの般若面のセリフから察するに……お主が拙者の相手でござるか」
代わりのように剣心の鋭い眼光を受け止めるのは、上半身裸の巨漢だ。
総髪で、全身の至る所に刀傷が刻まれている筋肉隆々たる男が一抱えはあるだろう巨大な鉄球を付けた鎖を持って佇んでいる。
剣心とは見るからに対照的な男だった。
上背高く、肩幅広く、何よりも骨格の限界を極めたとしか思えない程に積み上げた不自然な程に膨らんでいる筋肉。獅子の鬣のように波打つ髪の下で小さな目が剣心と左之助を品定めするように輝いていた。
「俺は式尉。元は江戸城本丸警護方を務めていた。噂に名高い人斬り抜刀斎と会えたのは光栄だが、生憎と相手は俺じゃあない。俺の相手はほれ、そっちの斬馬刀の方がお似合いだろうぜ」
「……」
ちらり、と般若に目をやる。なるほど、この男はこれまでに二回剣心と交戦して勝負なしになっているという因縁があった。
「生憎だが、俺でもない」
「……何?」
「行け。上の階で御頭が貴様を待っている……伝説の人斬り抜刀斎、幕末最強の伝説と戦う時を、な」
「まあ、そういうこった。美味しいところは上に譲るのが定石ってものだろ?」
男二人、そう言って剣心に道を開いた。両手を広げて武器からも手を放して壁に背をやる姿は本当に道を開けようとしているようだったが、それにうなずくつもりはない。
「面白れぇ。あの男と白黒つけられねぇのは惜しいが、するってぇ事は俺の相手はお前らって事か」
剣心の危惧をそのまま口にする左之助はむしろ乗り気だった。やる気を見せて指を鳴らし、ずい、と前に出る。語らずとも手を出すなと背中が言っているのだが、はいそうですかと言える剣心ではない。一対一ならともかく、これでは袋叩きだ。
「心配せずとも、これから行うのは一対一の勝負だ。詰まらない真似はしない……身につけた技と力、奮う機会が欲しいのは御頭だけではないのでな」
「……力を奮う?」
「御頭は万全の状態でのあんたとの勝負を望んでいるんだよ。ここで俺たちがやるって事は、御頭の勝ちに傷がつく」
「ざっけんな、この傷ダルマ! なぁが御頭の勝ちだ! てめぇら全員相手にしたって剣心が負けるかよッッ!」
顔を真っ赤にしたのは斬馬刀の重さ故ではあるまい。この少年らしい怖いもの知らずに何を思ったのか式尉は弥彦を見下ろして面白そうに笑っている。
「どっかの誰かを思い出させるような小僧だな。懐かしい気分にさせてくれやがる」
「何笑ってんだ、この!」
「おう、すまねぇな」
取り繕った真顔があからさまで、ますます頭に血が上る弥彦。そこはかとなく、動作が子猿っぽい。
剣心は元より左之助もそうだが、弥彦という少年の威勢のよさは大人の男にとっては生意気さが鼻につく事も多いが好ましく思える。ただしそれは器がそれなりに大きな男に限る。
「ま、気を付けるのはいいがあんまりうちの御頭を待たせてほしくはねぇな。さっさと行きな……そっちだって待たせている女がいるんだろう。今は観柳を止める奴は一人もいねぇんだから早く決着をつけるに越した事がねぇのはむしろそっちの方だぜ」
「…………」
それを言われてしまえば否も応もない。剣心の目的は御庭番衆を倒す事ではなく、まず第一に高荷恵の救出だ。御庭番衆にかまけている間に彼女が拷問死でもしてしまっては、本末転倒とさえ言えない。
「行けよ」
「左之……」
「こいつらと二連戦だろうがニ対一だろうが、どっちにしても負けるつもりはねぇ。こちとらいずれは大一番が待ってんだから、むしろちょうどいいぐれぇだ」
式尉がふん、と鼻を鳴らして迎えた大言壮語を吐いた左之助の声は冷たい。
弥彦はわだかまりが消えたのかと錯覚しているが、彼らの間に生まれた罅は決して消えてはいない。ただ、それとは別に左之助はこと荒事に関して自分が足手まといのように扱われるのは許せない。
ここで、相楽左之助ならば心配ないと言わせなくてどうするというのか。
「……一つだけ確認したい。拙者と戦いたいと言う御頭の本意は何だ」
剣心にしてみれば、隠密の御頭……それも江戸城を守護する任についていた御庭番衆などかつて幕末で争っていた際に剣を交えた記憶などない。
あるいは彼が斬った誰かとの間に繋がりがあったのかもしれないが、そんな事まではさっぱりわかりはしないものだ。
「今ほど式尉が口にした通り。求めるのは最強の看板を背負った人斬り抜刀斎との勝負、そして勝利に他ならない」
剣心は表情にこそ出さないが、内心では忸怩たる思いを抱いた。強さを求める自体に無理解なわけでもないが、彼にとっては人斬り抜刀斎という最強の看板など一つの重みもない。そもそも最強など求めてもいなければ、真の最強として未だ敵わない男として彼が直接知るだけでも師匠がいる。そんなものを求めて自分に挑むなど、彼にとっては滑稽さか虚しささえ感じる迷惑千万であった。
ましてやそれが今回の争いを助長させている節があるともなれば……
「先ほど語ったように、我々は隠密御庭番衆として江戸城の守護をしていた。だが、我々はあくまでも最後の防衛線。戦乱の中で薄々と察してはいたが、潜入してきた者たちを排除するのがせいぜいで、最後の将軍こと徳川慶喜は早々と降伏。ついに戦う機会などなかった」
当たり前の話だ。
そもそも江戸城に攻め込まれるなど敗戦が確実。それも江戸の町全てが薩摩、長州の軍勢に蹂躙されていると言う前提である。徳川十五代目将軍、徳川慶喜はそんな事態を招いてでも戦いに固執しなかっただけ理性的な将軍と言える。
「それは将軍として正しい選択なのだろう。それは街を戦渦に巻き込まなかった正しい選択なのだろう。だが……その結果残された我々はどうすればいいのか」
拳を握りしめ、顔の前で構えた。大きく、ごつい、手袋をはめている中に何かを仕込んでいるらしいが、それを差し引いても鍛えられているのが剣術に生きる剣心にもよくわかる手だ。
「我らは何よりも、欲しいのだ」
声には狂おしい熱情が籠められている。
「力を奮う機会、身に着けた技を存分に奮う機会、その相手が欲しいのだ。だから、武田観柳のような男に雇われもした。血反吐を吐いて磨いた技、力ッッ! 我々に平凡な市井に溶け込んで生きる道がなかった以上、その力を奮う事も出来ずに腐らせていくのは耐え難い。耐え難いのだッッ!」
「…………剣を振るうのは弱き者の為。この国と民の安息の為。幕末の時代、維新志士と幕府侍、敵対しつつもそれぞれがそれぞれの信念のもとにそれだけは貫き通して戦った。断じて力を奮いたいがためではないっ!」
だが、剣心はそれには共感できなかった。
身に着けた力を奮いたい。戦いたいという衝動、それが剣心にはない。
力を奮うのは戦いの場なのだ。その犠牲となるのは常に弱い民草、飛天御剣流の剣客として、維新志士として、流浪人として……緋村剣心を構成するありとあらゆる全てにおいて、それをいったいどうして認められようか。
「お前たちの望みが幕末の頃に叶っていれば、犠牲となるのは江戸の民。今は多くの人が、恵殿が阿片の犠牲となっている。悪事に加担していたとしても構わずに貫く、お主らの力を揮いたいだけの欲望を見過ごすわけにはいかん!」
「……なんとでも言えばいい。我等にしてみればかつて存分に剣を振るって屍山血河を築き、今も剣を振るいながら旅を続ける貴様がそんなセリフを吐くなど笑止千万よ。それを世迷言としないのなら、まず剣を捨ててから口にするものだ」
力を揮ってきた男が力を否定しているなど矛盾している。
……そんな自分の理屈などへ理屈に過ぎないのだと般若とてわかっていないわけではないのだろう。
何をどう言おうとも、阿片密売人を守る仕事など下衆だ。
本丸に攻め込まれるなどよほどの見事な奇襲か、引き時を間違えた取り返しがつかない程の敗戦の場合しかない。
最初から分かっていた事なのだ、御庭番衆に戦の中で腕を振るう機会などない。
更に、隠密が戦の中で力を奮いたいなどと考えること自体が間違えている。
……隠密とは戦で勇名を馳せる武士とは違う、正しく陰に潜むものなのだから。
ただ、それでもどうしても“もしも”を考えてしまうのだ。自分たちが戦えば、思うがままに戦場を駆ける事ができれば勝てたのではないか?
女々しいと言えば言え、どうしてもその思いだけは捨てられない。常に忘れかけた頃に苦々しい思いと共に蘇ってくるのだ……特に、天才と謳われた御頭ならば猶の事に強く。
だからこそ、最強の維新志士として名を馳せた男に力をぶつけてみたいのだ。御頭にその力を揮う機会を与えたいのだ。
御頭は自分たちのように“日向の路で生きることができない”部下に付き合ってくれているのだから、せめてそのくらいはしたいのだ。
「これ以上の口舌は無意味だ。いずれにしても、我々はお前たちに挑む。我々はそこの喧嘩屋と戦い、お前は御頭の元へ行くがいい……戦わずに切り開かれる道などおまえにあるはずがないだろう。何より高見恵が囚われている以上、時間を掛けたくないのはむしろそちらのはずだ」
「…………」
伝説の人斬りとはまさにこれぞという眼差しが般若面の奥に突き刺さるが、隠されている素顔はともかく隠密の仮面はいっかな揺るがない。
「左之……あとは任せた」
「弥彦も連れていきな」
手を出すとは思わないが、それでも必ず相手の方に余裕が生まれる頭数差を考慮した左之助だった。しかしそれを弥彦が声を大にして断る。
「俺はいい。まずは頼りねぇ左之助の喧嘩を見守ってやるぜ。何しろニ対一なんだからな! お前がやられたら、次はこの明神弥彦様が相手をしてやらぁ!」
問答の間にどうにか立ち上がり、斬馬刀を杖にして鼻息荒く生意気な事を口走る弥彦だが不思議と左之助は怒らなかった。
「……つうか斬馬刀が重くて動けねぇんだろ?」
「そんなわけがあるか!」
一目瞭然であるので、なんとも情けない少年の強がる姿に左之助は白い目を向けるほかなかった。
「この明神弥彦様が見届けてやるから、潔く死んでこい!」
「誰が死ぬか、アホ」
ひょい、と軽々斬馬刀を持ち上げて壁に立てかけると、ほとんど同じように弥彦の襟首をつかみ猫の子と同じに剣心へと放り投げた。
「俺の喧嘩を見るよりも、剣客の勝負の方がためになんだろ」
「人を物みたいに投げんじゃねー!」
子猿を押しつけられた剣心であるが、彼は彼で左之助に対して何を口にしていいのか分からずにいた。
元々緋村剣心は人との付き合いにおいては剣と比較して未熟もいいところである。
育ちは山中で師と一対一。その後は十代半ばで山を下りて暗闘に戦争、生き延びてからは十年余りも一人流浪の旅を続けた。だから彼には決定的に欠けている物がある。
物腰柔らかく低姿勢なので目立たないが、ハッキリと言ってしまえば誰かと仲たがいをした際に和解するような真似が彼は非常に下手だった。
事が彼の信念などに関わってくると譲る事など全くできない。その辺りが理由で彼は師と喧嘩をし、十年前に破門同然の身で山を下りて以来顔も合わせてはいない……師匠が相手でもこれである。
この点において、緋村剣心はもしや弥彦並かもしれない。
そして、相楽左之助もまたどこからどう見てもそんな器用な男には見えない。むしろ老成すれば頑固オヤジになるのは今から目に見えているような男だ。
「……さっさと行きな」
「……わかったでござる」
ようよう口を利いたかと思えばこれである。剣客も喧嘩屋も、どう考えても器用さとは無縁な生き方しかできないような男しかいないのだろうが、見ている弥彦の方がイライラしてくる。尤も、彼もいざ当事者になれば明らかに人の事は言えない似た者同士だ。
つまり、剣心も左之助も一度意地を張ってしまえば子供同然という訳である。
「なんだか妙にぎすぎすしてやがるねぇ」
初対面の式尉に言われてしまう程に彼らはぎくしゃくとしていた。
「うるせぇ、ほっとけ」
御庭番衆二人の間を油断なくすり抜けている華奢な背中を見送る左之助にしてみれば、みっともないの一言だ。自然と言葉にも棘が入る。
「敵陣で悠長に仲間内の喧嘩なんざしやがるとは、いくらなんでも素人臭さがまるだしでなっちゃあいねぇな。なぁ、喧嘩屋斬左」
「……」
左之助の通り名を聞こえよがしに口にした式尉が分厚い唇を上向きにひん曲げた。
「自分の名前が知られているってぇのは驚きかい? そこの般若が人斬り抜刀斎のついでに調べたのよ。お前さん、この辺の裏社会じゃ結構名前が通っているみたいじゃねぇか。まあ、不意討ちとはいえあっさり相棒を吹っ飛ばされるようじゃ……大したことはないのかもしれねぇけどな。まあ……三下相手でも暇しているよりはまだましってものよ」
これだけコケにされて笑う程、相楽左之助という男が大人しいわけがない。喧嘩屋などというやくざ稼業を選んだ大バカ者が血の気が少ないなどあるはずがない。
「勘違いしてんじゃねぇぞ、このツギハギダルマがッッ!」
ばん、と音をたてて拳を自分の掌に打ち込む。
「俺は喧嘩屋、本領はこの二本の腕と拳に他ならねぇ! 三下で我慢してやるのはこっちの方だッッ!」
「ほう……仮にも江戸城本丸警護方まで勤めてみせたこの俺に対して、三下とはねぇ……面白れぇ」
笑いながら、鎖を落とした。金属の重く硬い音が静かになった廊下を響き渡る。それがどこか不吉だったが、この場に残った三人の男たちは誰もがそんな“不吉”などに左右されるような軟弱ではない。
「強がりなのかどうか、ここは一丁文字通りの“腕比べ”と行こうじゃねぇか」
「……おい」
勝手に決められては納得いかないのが最初に待ち構えていた般若面である。だが式尉には彼の言い分がある。
「お前はもう二回もこいつらとはやっているだろうが。橋と相手の根城でだったか? だったらここは譲れ」
「ほんの一回二回拳を交えた程度を一戦に数えられてたまるか」
仲間内ではやはり違うのか、まるで怪談の中から湧いて出てきたような般若面が人間味を感じさせるやり取りをしている。左之助にしてみれば、阿片売買に関わるような悪党の手下がそんな顔を見せるのは意外であり、同時に複雑な気持ちにさせてくれた。
ただ当たり前に喧嘩を売ってくればいくらでも買った。
果たし状を送ってきてもいい、ただ街中で声をかけてきてもいい。いっその事、いきなり物陰から殴りかかってきてもまだましという物だった。
こんな胸糞の悪い事件の中で交えた拳などに、愉しさも爽快感も全くない。
「どっちでもいい、さっさと来な。どうせ二人とも相手にすんだからよぉ」
「ほう」
舌打ちせんばかりの左之助の強気なセリフに、もはや問答無用とばかりに式尉が前に出る。後ろで諦めた般若面がため息をついていた。
「それが口先だけの強がりじゃねぇ事を祈るぜ、若造」
「上等だ、行くぜッッ!」
駆けだした左之助を、式尉が真っ向から受け止めた。共に両掌を差し出してがっぷりと四つに組み合う。いわゆる手四つと言う形だ。
「おらぁ!」
「むん!」
ぶつかり合った掌を通して腕から肩までびりびりと痺れに似た波が走り抜けていく。その感覚に式尉は驚いていた。
筋肉の塊たる大男の自分と比較して、喧嘩屋と名乗る小僧は頭半分ほど上背が低く五体も細身だ。だと言うのに、予想を遥かに上回るこの手ごたえは驚きだ。驚きを感じ、そして喜びも感じる。
いい手応えだ。
本職でもあるまいに自分と相撲ができそうな強い奴は、久しぶりだ。
だからか、ついつい体が動いちまう。
式尉は自分が意識するよりも先に、のしかかるようにして生意気な小蔵の鉢巻きに向かって額をぶつけているのに気が付いた。ごす、という重たくて鈍い音がしたのを聞いてから後悔した。
ついつい体が動いてしまったが、これでは脳を揺らされた相手は動く事さえできなくなるだろう。医者のような事はできないが、経験則で頭に強すぎる衝撃を与えればしばらく動けなくなる事は知っていた。
「おっと、すまねぇな。俺の人生これ悉く戦いなんでな。ついつい体が動いちまっ……」
そこまで口にした式尉の膝が折れた。
「あ?」
「なぁに、いいって事よ……」
目線が下がり、ちょうどお互いに同じ位置に顔が来る。頭が割れて血を流している男の顔が奇妙に波打っているように見えた。
「お互い様だ」
この状態は知っている。今までに、何度となく味わってきた事態だ。頭蓋骨の中で、中身が揺れている状態!?
そこまで思いついた式尉の背中に衝撃が来た。ふらついて背中を壁にぶつけたのだと気が付くまでにたっぷり五秒は必要として、前を見れば同じようにふらついた若造がこちらを睨みつけている。
「こ、てめぇ……」
舌がうまく回らずに訳の分からない寝ぼけた与太事を口にしてしまったが、ふらついた脳みそでも話は分かった。この野郎が、自分の頭突きを真っ向から受けてたったのだ!
向こう側も十分にふらついて何もできないらしくお互いに数秒の間を回復のために過ごし、やがて同時に拳を握りしめた。
「……お前は話を聞いていなかったのか。その男は得物を使わなかったとは言っても、御頭と渡り合っていたのだぞ。わざわざ鉄球を捨てるから何の策があるのかと思えば……」
「ぬ……」
仲間の苦言に渋面を作った式尉だが、すぐに気を取り直す。この男、喧嘩屋なんてちんけな生き方をしている割にはなかなかに見事な強者ぶりだ。てっきり頭突き一発で相応の痛手を負わせられると踏んでいたのがどうしてどうして……面白い。
「ふん、今のはただのあいさつ代わりよ。その華奢な形で俺と組んだ挙句に頭突きにもひるまねぇで頭突き返すとは思った以上に楽しめそうじゃねぇか」
「……今のは、返したと言うよりも受け止めたと言うべきだな。上からのしかかるようにぶつけたお前の頭突きに対して、全身をがっちりと固定して受け止めた……お前はいわば、突き立った棒に頭を打ち付けたようなものだ」
それはいわゆる退歩、という技法の変形だった。足を後ろに引いて体を固定する……言ってみれば自らつっかえ棒になるような技である。
「け……さすがに傍で見ていりゃ見抜くのも簡単かよ」
「見事な技だ。しかし、あまり聞かない類の技法ではある……噂だけならお前は斬馬刀頼りの豪腕自慢かと思っていたが、実際に見た通り違ったようだな」
自分の技を敵に丁寧に解説され舌打ちをする左之助だが、般若面の言葉には確かな礼があった。強い男、それも天性のそれではなく修練の骨太さを感じさせる左之助に敬意と闘志を抱いているのがはっきりと分かった。
「相棒は相棒なりに便利なんで重宝しているだけよ。俺の本領は拳骨! それが男ってもんだろぉが」
左之助の威勢のいいセリフを聞いた式尉がにやりと口元を綻ばせた。笑みというよりも犬歯を見せつける行為に思える振舞だった。
「なかなか気風のいい台詞じゃねぇか」
ごきりごきりと指を鳴らす。骨の噛み合う感じが心地よいと感じている。そのまま拳を握りしめて、豪快に腕を振りかぶった。感じている心地よい物を力いっぱいに握りしめて、そのまま叩きつけたかった。
「おぉらぁっ!」
「あめぇッッ!」
振りかぶった拳は威力があるかもしれないが、同時に回避も防御もしやすくなる。概ね、素人同士でもなければそうそう当たりはしない。相楽左之助、喧嘩の場数も武術の修練も素人とは程遠い強者として滑るように軌道の内側へと入りこんでそのまま肘をあばら骨に向かって突き込んだ。中国の超近接用拳法、八極拳における肘技、裡門頂肘と一致しているが、それが偶然であるのかどうか本人さえも知らない。
「ごっ……」
硬い肘が強い踏み込みと共に体重を乗せて肋骨に突き刺さる。その痛みと衝撃が式尉の脳天を直撃する。まず息を詰まらせる衝撃と、数瞬遅れで強烈な痛みが頭に届いた。
その際に、ごきりと音を聞いた気がする。自分の中に響いたその音は、もしや肋骨が折れた音ではないのかと半ば確信に近い思いを歴戦の御庭番衆は抱いた。骨が折れた事も肉を斬られた事も一度や二度ではきかない彼にとってはなじみ深いとさえ言える感覚に、涎が唇の端を垂れていっても気にできない程だ。
「逃がさねぇぜ」
それよりも気にしなければならない事があるのだから、当然だ。痛みに悶えている暇があれば、戦わなければならない。
「野郎ッッ!」
撃ち込まれた肘が脇腹から離れるよりも先に、さば折りを決めてやった。深く肘を打ち込んでいたせいで、まとめてしがみついてしまえばいくらもがいても簡単には逃げられない。この徹底的に密着した状態では蹴りも無駄だ。
残った腕一本で目玉を抉られても放すまいと肚を決めた男は、己は油断ならないのだと痛みを付けて教えてくれた喧嘩屋に時間を与えてたまるかと剛力に物を言わせて持ち上げた!
「おわッッ!?」
「お返しだぜッッ!」
裏投げの要領で、脳天を壁に叩きつけてやった。皮膚から骨を通して神経を痺れさせる、全身にびりびりと感じる衝撃に心地よささえ感じてしまう。御庭番衆の中では最も力が強いと自負する男が全身を使った投げ技を受け止めた邸、廊下そのものが揺れてパラパラと漆喰が天井から落ちてきた。
間に一本だけ自由な腕を入れたのだろうが、建物そのものが抜けかけた乳児の歯のように揺れるほどの衝撃をそんな程度で受け止められるものか。
「ごがっ!?」
式尉にとっては必然とさえ言える予測は脳天に食い込んできた衝撃によって覆された。横で見ていた般若面も同様に考えていた為、度肝を抜かれた。
「白目をむくどころか脳天に肘、だと……ッッ!?」
常識外れの頑健さだった。
相楽左之助、脳天を壁にひびが入り建物沿物が一部とはいえ揺れるほどの衝撃を生む勢いで叩きつけられたというのに……大方の予想に反して白目をむいて気を失うどころか自由に動く最後の一本である腕一本を式尉の脳天に叩きこんで反撃さえしてのけた。そのまま思わず怯んで緩んだ拘束を、壁を蹴って抜け出す。どん、と音をたてて、もう一度それぞれ壁に背中を打ち付けた。
「が、ふ……」
「こんの……野郎がッッ!」
互いに脳天を打ち付けられて打ち据えられて、それぞれが悪態をつきながら眼光鋭く相手を睨みつける。互いに相手の額辺りに垂れ落ちてきた赤い血を見つけた。
「頑丈な野郎だぜ……」
「そりゃこっちのセリフだ!」
浮いた不安定な状態から肘を落とされた式尉よりも、壁に叩きつけられた左之助の方がよほど厳しい目に合っている。頭だけでなく頸椎まで傷めているのは間違いないだろう。今も向こうっ気を強く出しているが、膝が笑っているのを式尉はともかく横で見ている般若面は見逃していない。
だが、あえて言わなかった。
それが正々堂々だなどとは言わず、式尉が勝つと信じているわけからでもなく、飢えのように五体に滾る全てをぶつかるに値する相手との戦いに茶々を入れたくはないというだけの身勝手なまでの話だ。
隠密だの御庭番衆だのはもはや関係なく、五体に刻み込んだ力と技を絞りつくしたいという願いだ。
「続きだ」
「来いや!」
先程の交差で打撃の技術は左之助が上回っていると認めた式尉は最大の持ち味である剛力を活かす手段をすぐに見つけ出していた。
組む。
他にはない。ここまでの戦闘で最も有効だったのが掴まえてからの投げだ。組み付いてしまえば自分の力に敵いはしないと確信できる。投げていい、絞めてもいい、潰してもいい。どんな形でも自分の力なら自在にできる……確かに相手もなかなかに剛力だが、それでも明らかに自分の方が上だと先程の手四つの感触でつかんだ確信がある。
遠くから殴ってくるなら、耐えてその手を掴まえる。組んでくるならそのまま終わらせればいい。自分の筋肉は力と言う武器を生み出すだけでなく、骨も内臓も守り抜く鎧でもあるのだから、いくら打たれても耐え抜いて捕まえてしまえば……勝ちだ。
もちろん木偶でもあるまいに、ただ殴られっぱなしでなどいない。受けも躱しもするのは当然だ。あいつよりもずっと大きくて重たい自分なら、何発打たれようとも……沈みはしない!
開手で顔の横に構えた式尉は体を丸めて防御を固め、唯一の不安材料である金的を庇う為に足を開いて膝をたわめた。半身になって、蹴りを入れてこようともさせない防御は忘れない。来るなら来いと万全の態勢で待ち受ける敵を前に、喧嘩屋はゾクゾクと背筋を奔る奇妙な高揚感を覚え、堪能していた。
「弱い者いじめは詰まらねぇ……気分が悪い。やっぱ、喧嘩はこうじゃなくっちゃよ」
「何事も強い奴に勝つから、面白いんだよなぁ?」
決闘、果し合い、試合、喧嘩、勝負……一対一の、外連も含みもない真っ向勝負は、常にそういう物だと……そうあるべきだと示し合わせたように男たちは思っていた。敵対して向かい合っているはずなのに、奇妙にわかり合ったような気分だった。
そして、それが気に入らなかった。
勝ちたいのだ。負けたくないのだ。それが戦っている最中にわかりあったような顔をしてどうする。
「そういうのは、俺が勝った後だよなぁ」
「ぬかしやがれ」
互い以外にはわからない、お互いにも本当のところはわかったような気になっているだけだ。それらも何もかも、実際の所はどうでもいい事だ。
大切なものは現実に、目の前にいる相手をどうやってぐうの音も出ない程に叩きのめすかという事だけだ。
両方の間で、空気が淀んでいるようだった。お互いの体から発する熱が押し合い引き合い、空気がそれに引きずられている。傍で見ている般若から見て、そんな印象だった。
面の下で、男は思った。
勝て、式尉。
そして同時に思った。
早く俺の番になれ。
矛盾したそれに葛藤など抱かず、それぞれをごく自然に腹の中に抱きながら彼は戦いを見守った。手を出すどころか口を出すつもりもこれ以上はない。見れば見るほど、この勝負に余計なものを一欠片だって混ぜ込みたくはなかった。
面の下で爛々と目を輝かせる男の前で、両雄は先ほどと異なりじりじりと間合いを詰めていく。それはまるで、剣豪同士の果し合いにも似ている姿だった。一歩、一寸、緻密に間合いを詰めていく姿は指一本の違いが勝敗を分けるのだと如実に語り、雑に殴る蹴るだけの喧嘩屋という印象を覆すものだった。
二人の間合いがじりじりと近づき、やがて腕を伸ばせば掴まえられる位置にまできた……ただし、それは式尉だけだ。彼の方が明らかに背が高く、その分はっきりと腕が長いのだ。だが、まだ手は出せない……それは防御を崩す事を意味する。その隙間に拳を撃ち込まれるなどと言う間抜けを晒すつもりは毛頭なかった。
左之助が腕を伸ばす。それに式尉が一寸の隙も見せずにゆっくりと応えて、双方の指が正に紙一枚ほどの隙間もない距離まで近づいた。
「!?」
式尉の表情が驚きに染まる。左之助が伸ばした腕が、式尉の防御をすり抜けるどころか彼の構えた掌そのものを捕まえてきたのだ!
「こういうの、聞いた事もねぇだろう?」
次の瞬間、にやり、と笑ったまま喧嘩屋は驚いた隙を逃さずに蛇のように敵の五体を絡めとった。相楽左之助の見せた姿に般若面は二の句が告げられず、式尉などは自分がどうなっているのかもわからなかった。
「立ち蔓……なんでも御式内とか言われている流儀には畳の上で座ったまま敵を取り押さえる技があるって師匠に聞いちゃあいたが……こいつはその真逆。立ったまま相手を捕まえて関節を極める技よ……もっとも、技は俺の思い付きだけどな」
五体で絡みつく蛇のように左手と左足を固め、右手同士をしっかりとつかみ合わせて離すまいといる相楽左之助の見せた技は、戦場で生きる技術を追求してきた御庭番衆には未知の技術だった。拘束こそできてはいるが、こんな真似を戦場でやれば背中をバッサリと斬られてお終いか流れ矢を脳天に当てられて死ぬ。この状況下でしかできない技だった。
左之助は真正面に般若面を置いているが、それは狙ったわけではなくどうも偶然そうなっただけのようで意識が式尉だけにしか向いていない無防備な状態だ。偏に彼の未熟だが、般若にしてみれば自分が襲ってくると考えてもいなさそうな隙だらけの青臭さはこの時に限っては清々しかった。ただし、後で当人は自覚して剣心との喧嘩と同じような失敗を繰り返していた自分の成長のなさに苦虫を噛み潰したりもしたのだが、それは余談だ。
「~~~~ッッ!」
「無駄だぜ」
手足を圧し折るわけではなく、首を絞め落とすわけでもない半端な技だが全身に自分の類稀なる力を籠めても式尉は動けずにいた。てこの原理、など技を掛けている方も掛けられている方も全く知らない話だが、共に“こうすればうまく力が乗らないから振りほどけない”とだけは経験則で知っていた。
みしみしと、みしみしと体内で骨が鳴り……いずれはへし折れるのではないのかという痛みと危機感を覚えた式尉は、自分の額に汗を感じた。動いたから出てきた汗ではなく、痛みで出てきた脂汗だと自覚して屈辱に歯噛みした。
「こんな技で俺に勝てるとでも思ってんのか、小僧……ッッ! 俺たち御庭番衆は痛みに屈服はしねぇ! 殺すどころか圧し折りもしねえ技で勝ちが拾えるかッッ!」
「けっ……こいつはてめぇ向きだからちょいと使ってみただけだ。気のつえぇセリフはひん曲げられた腰を真っ直ぐにしてから抜かしやがれ! できやしねぇけどな」
コケにされて引けるはずもない男の面子にかけて力を振り絞るが、口から泡まで吹きながらどれだけ力を籠めても骨身に軋む音をたてながらこたえる痛みが増すばかり。どこにどう力を籠めようとも、日ごろは熊にも勝ると自負する剛力が全く力を発揮しなかった。
殺す為でも破壊する為でもなく、捕まえる為の技など考えた事もなかった。御庭番衆として侵入者を捉えなければならない場合は多々あったが、縄を使うか足をへし折るか、それとも腱を斬るか。自分の肉体で絡めとるなどろくに考えもしなかった。
「こんな締め付けるだけの技が俺向きだと……? ふざけるのも大概にしやがれ!」
「嘘もフカシもねぇ! てめぇ、筋肉が太すぎんだよッッ!」
考えもしなかった左之助のセリフに式尉が目を見開く。
「どうやったのか知らねぇが、てめぇは元々でかい図体しているのを差っ引いても肉が付きすぎだッッ! だからこういう固める技がよく効くんだよ! ついでに身体もカテェな!」
「!!」
ぎちぎちと体内で肉が軋み骨の鳴る音に、反論ができずに歯ぎしりをする。自慢の筋肉が弱点になっているなど断じて認めたくはないのだが、足元を見る事しかできない自分の惨めで屈辱的な姿を客観的に想像してはもはや何も言えない。実力で返さなければ百万の言葉を思いついたとしても意味が全くないのだ。
だが抜け出そうとしても、確かに振りほどく事さえできない。力を入れにくい形に五体が固定されている。
だが、例え成す術なく翻弄されていようともたかが関節を極められている程度で命は奪われない。それでも反撃の道を探さないほどに骨まで腐ったわけがない。
「ぐおっ!?」
一つ、自分らしい起死回生を思いついた。この状態でも力を籠められる一手があった! 左之助の手で握りこまれた右手、こちらからも握りしめていると言えるそこを全力で握りしめる。
みしい、と言う音と共に左之助が悲鳴を上げた。一気呵成に置く場を噛みしめ、血管が浮き上がるほどに力を籠めて小憎らしい喧嘩屋の手を握りつぶしてやるぜとこれまでの鬱憤を籠める。
「こんだけ筋肉膨らませたおかげでよぉ……薬にまで頼ったおかげでよぉ……握力だけでも大逆転だぜぇ!?」
「嘗めんなあッッ!」
左之助も負けじと締めるが、式尉は全く怯まない。互いに根競べの形になっているが、般若の目から見て明らかに式尉が有利であり、その証拠に軋む音は左之助の手からの方からしている。なかなかに興味深い技を使う男だが、ただ単に握りしめているだけの式尉に追い詰められている姿は技に溺れていると言えた。
「これは痛快だ」
この声を聞きとがめた左之助の顔が歪む。一転して自分の技を利用され窮地に追い詰められた滑稽さは彼が一番理解していた。
格闘技の技術体系と言うのは、大きく分類すると打撃系と組み技系に分けられる。空手と柔道のようにそれぞれの分野に特化して磨き上げられる場合もあれば、軍隊格闘技やパンクラチオンのように総合的に学ぶ格闘技もある。相楽左之助と言う男の学んだ武術は後者に属するが、その中でも彼はどちらが巧いかと言えば打撃に偏っていた。
それは性格による好みなどもあるが、同時に組み技は相手がいなければ上達が極めて難しいからでもあった。これまでも喧嘩などで試してはいたもののそこらのチンピラと左之助では地力が違い、有意義な鍛錬になったとは言い難い。
それらが今の苦境を招いていた。
もしも左之助の師匠が今の体たらくを見ていれば、怒りに怒髪天を突きながら侮蔑して言うだろう。
「半端な技を仕掛けおってッッ!」
呆れてさえいる声をまるで実際に聞いているかのように頭に思い浮かべて、喧嘩屋は奮起した。己に挑めとまで言われている師匠にそんなセリフをぶつけられるなど、たとえ自分の空想に過ぎないとしても許せない。
半端かどうか、見てみやがれッッ!
そう思った男の五体は、何を考えるよりも先にしなやかに動いていた。
握られていたままの手を捨てるつもりで支点にすると、そのまま相手の腕にぶら下がって足で首を絞める! いわゆる三角締め、特に立っている相手にぶら下がるから飛び三角と言う奴だ。柔道ではそれなりに知られた技だが高度かつそれを使わなければならない状況には早々ならない為においそれと使われる事はない技だ。太い首にしっかりと食い込んで頸動脈まで抑え込んで血流を抑えている。
「ぐううッッ!?」
「おらぁッッ!」
双方、手と首を締めあげられて互いに苦痛の声を上げるが力は緩めない。ここが勝負どころと見込んでいるわけではなく、ただ単に意地になっているだけだ。喧嘩屋はともかく、隠密御庭番衆のとるべき行動としてはいささか疑問を覚えるべきところだろう。
いや、さすがに式尉はそこまで冷静さを失っているわけではなかったのか、技が変わり解放されたもう一本の腕で左之助の悪一文字をがっしりとつかんだ。両脚は踏ん張り、互いの体重を危なげなく受け止めている姿は正しく仁王立ちよ。
「覚悟しておけよ。こっからは……ちぃとひでぇ目に合うぜ」
締め付けられてくぐもった声で告げられた左之助が理解するよりも先に、式尉は己の怪力に物を言わせて彼を軽々と振り回した。まるで人形のような扱いだが、相楽左之助と言う男は決して軽くはない。むしろ長身で筋肉質の彼は、食うや食わずがまだまだ珍しくない明治の世間一般の標準から見て重たい方だろう。
だがまるで弥彦のような子ども扱いでいいように振り回される。
怪力の面目躍如、相手にしがみつく形の左之助はまるきり対抗する事も出来ずに面白いように振り回されると、後頭部にとんでもない衝撃を感じた。
声を出す事も出来ずに視界が揺れるに任せる他はない。頭が砕けているのではないのかという痛みと共に何が起こったのかを察する。例え彼に想像力という物が欠如していてもすぐさま察せられるだろうが、壁にもう一度叩きつけられたのだ。
しかも先ほどよりも強く遠心力を乗せられている状態で力いっぱい振り回された痛手はまるきり比ではない。力を籠めて締めあげていた結果、たまたま舌を咬まなかったのは幸いだが受け身も取れずに後頭部を硬い壁に打ち付けられては常人であれば最低限脳に障害を残す痛手を受け、時と場合によっては死んでいるかもしれない……いや、その可能性の方が明らかに高いだろう。
それだけの力だった。
般若面が見守る中で、同輩はそのままの格好で静かになった。勝ったのだな、と確信を抱いた彼は胸中に仲間の勝利を祝う気持ちと自分の出番がなかった事を惜しむ気持ちを双方噛みしめて足を踏み出す。
すると、まるでその振動が伝わったからのように式尉の膝が折れた。ずしゃり、と二人分の肉が重たい音をたてて床に沈む。その音が、壁に打ち付けられた破壊音よりも激闘の証明であるかのように思えた。
「…………」
「式尉?」
そのまま立ち上がるでもなく膝をついている彼を訝しがり声をかけると、重なり合った人影が動いた。
「っしゃあああッッ!!」
ゆっくりと立ち上がった喧嘩屋が天井を振り仰ぎ、喉も裂けよとばかりに快哉を上げた。
「どんなもんでぇ……」
般若面の方を向いてからにやり、と笑った顔は血にまみれて壮絶であったが、勝利がもたらす活力に満ちている。派手に壁に叩きつけられた男とは思えない、やせ我慢をしているにしても驚異的な頑丈さだった。
「……そうか。振り回した事で食い込んだ足がさらに首を絞めたのか……」
「へへ……ついでに言うと、元々こいつはオチる寸前だったのよ。俺の足はただ喉を絞めた訳じゃねぇ、首のところを奔る血の流れを食い止めていた。絞めて抑え込んだのは息じゃねぇ、血の流れだ。そうすると、人間はあっさり気を失っちまうんだ」
「……頸動脈」
左之助は部位の名前までは憶えていなかった。言われたような気がするような、しないような……名前よりもやればどうなるか、その方が遥かに重要だった。今般若面が口にした名前を、そう言えば師匠は口にしていたような気がした。
「あぁ……そんな名前だったっけか」
「……普通、庶民はそんな名前は知らぬ」
「ああん?」
般若は少しだけ動いた。これからの闘争に式尉を巻き込まないように、距離を置いたのだ。
左之助もそれを察して、素直に応じた。気を失った男を巻き込むのは本意ではないし、純粋に邪魔と言うのもある。更に、どこかで意識を取り戻して乱入されるのを嫌った。
双方、にらみ合いながら油断なく距離を測りつつ場所を移す。やがて彼らは少々開けたホールについた。ご立派な赤絨毯を敷いた階段があり、その上に大きな扉がどっしりと構えているのが見えた。
「……この間の御頭と剣心達は今、あそこでやりあってんのかい」
「そうだ」
「ふうん……加勢する気は毛頭ねぇが、見物にはいきてぇところだ。さっさと済ませねぇと、終わっちまうのは格好がつかねぇな」
歩いている間に回復してきたおかげで意気軒高。強敵からの勝利に闘志を燃え上がらせている喧嘩屋は、さらなる一戦に疲弊や怯みなど全く見せずに勇んで拳を握る。般若もまた、例え相手が既に疲労していようとも傷ついていようとも手心を加えるつもりなど一切ないと証明する隙のない構えで応じた。
「相楽左之助」
「ああ?」
「この街で喧嘩屋として裏稼業では有名な男だった。背中には悪一文字、斬馬刀を使って喧嘩代行を生業とするやくざ者……だが、そんなお前が確かに洗練された拳法を使った。いや、先ほど式尉を締めあげた関節の技から見て、明らかにただの拳法家という訳でもない……お前は何者だ?」
左之助は笑ってただ構えた。幽霊もどきの光成が王者と同じ構えと称した構えもまた般若面から見て独創的でありながらも隙がない、堂にいった構えだった。
「師は……師は誰だ? 打撃が主だが、極めも締めもする技は、流派の名前は何という」
知りたいと思った。御庭番衆として調査をしてもわからなかったこの男の技の根は一体なんだ。
「……流派なんざねぇよ」
左之助はどうしたものかと少々考えたようだが、すぐにどうでもいいと割り切った。あれこれ駆け引きをするよりも、ただ昂った闘志を解放したいのだ。いや、発散と言う方がより正しいのか?
「こいつは剣心に聞いた話だが……幕末じゃあ京都の鬼、なんて物騒な綽名で呼ばれていたらしいぜ」
「……ッッ! 鬼……あの幕末の鬼だと!?」
御庭番衆でも禁忌とされていた正体不明の怪物がいた。
正体不明、争う二つの勢力の間に乱入しては見境なく暴れまわる奇怪な男。正体、行動の目的を探るべく幾度か近づけた忍びは悉く発見された上に人知を超えた力で無残な屍に変えられて、やがて大きすぎる損害に触れるべからずとされた災害と人間の合いの子のような怪物。
「……あの鬼に弟子がいただと……? 信じられん……」
「俺だって師匠が鬼だなんだと呼ばれているなんて知らなかったぜ。まあ、信じられねぇってんなら拳で思い知ればいいじゃあねぇか? なぁ」
それ以上の何があろうか。そもそも、ここで対峙しているのはひたすらにお互いのみ。師匠など関係ない。
「……そうだな」
般若面はがつりと拳をぶつけ合わせた。ごつん、と肉と骨で出来た手ではありえない硬い音がしている。
「甲か。そう言えばお前、剣心とやり合った時に何度も太刀を受けて怯まなかったな。我慢比べが得意って訳じゃなくてそういう事か」
「何か不服か?」
「いや、まったく。好きにやりゃあいい。皆それぞれ、てめえのやり方を貫くだけでしかねぇ……あれこれ言うのは野暮だろ」
例え銃が手元にあろうとも、相楽左之助は素手で戦う。
別に誇りとか正々堂々とかいう背中がかゆくなるような理由ではなく、そっちの方が好き、それだけだ。あるいは長年鍛えてきた拳の方が、見た事しかない程度の銃などよりもずっと信頼できるという理由もあるか。
だから相手が武器を使いたければそうすればいい。
大人数だろうが武器だろうが、それが強さだと思うのならそうすればいい。違いやり方を好むから自分はそうしないが、人に向かってあれこれぐちゃぐちゃ言うのはそれこそ好ましくない。毒だの人質だのは認められないが、それ以外なら卑怯だなどとは口にしない……あえて受け入れて勝つ方がずっと格好いいと稚気交じりに思う。
「ならば」
「おうよ」
双方、拳を握りしめて大きく一歩を踏み出した。
「御庭番衆密偵方“般若”。御頭の命により、そして俺自身の望む戦いの為に……おまえを倒すッッ!」
「来いやぁッッ!」
大喝一声、腹の底から咆哮した両名は解き放たれた闘犬のように一気に間合いを詰めて己の牙を突きつけあった。共に突き出した拳は交差し、肉が打たれ湿った鈍い音がする。
「!?」
一撃を綺麗に受け仰け反ったのは左之助だけだった。喧嘩屋の拳は避けられ、隠密の拳は眉間を綺麗に捉える。頭に響く強烈な衝撃と手ごたえのなさにそれを悟った左之助は、驚きを見開いた目で表しながらたたらを踏んだ。
「……」
「……」
どうにか体勢を立て直すと、こちらに踏み込もうとしていた般若がそれを見て足を止め、双方無言でにらみ合う。
今の攻防、左之助は自分こそ相手の拳を紙一重で躱して痛打を浴びせると思っていた。だが、きっちりと命中されたのはこちらの方で挙句にその衝撃で彼の拳は外れた……交差法で増した手甲付きの打撃は散々に打ち据えられた頭にさらなる痛手を追加させてふらつかないのがやっとだった。
見切りを間違えたのか。遅くはないが、手甲を付けている重みのせいで決して速いとは言えない拳だった。おかげでむしろよく見えていたはずだが……何かあると左之助は踏んだ。
たった一回の交錯で結論付けるのが早計なのかどうかは、これからの攻防が決めるだろう。
「今の……目くらましみてぇだな。もしかして、隠密の技かなんかか?」
「さてな……」
「なんだか安心したぜ。お前らはどいつもこいつも、隠密らしさが全くなかったからな」
痛打など既に忘れたと言わんばかりに凄みをもって笑うと、今一度突っ込んだ。一見して無造作に、そして事実、無造作以下だった。
先程の焼き増しのように真っ向から突っ込み、そしてもう一度自分だけが殴られてのけぞる。だが般若は同じで済ませるつもりはなく、そこから更に追撃の裏拳が襲ってきた。
ただ真っ直ぐに打ってくるのではなく裏拳を選んだおかげで、ほんの少しだが隙が生まれた。左之助は間を逃さずに体勢を立て直すと相手の攻撃を迎え撃つ。
大きな軌道の裏拳、通常ならば余裕をもって躱せるような攻撃だったが……彼の横面は弾かれ、強制的に壁の模様を見物させられるに至り、遂に確信を抱いた。
「……ようやくわかったぜ。三発もくって、ようやくな」
半ばこうなる事を予想して歯を食いしばっていたおかげで、大きな隙を見せる事無く態勢を立て直せた。
「理屈はわからねぇが、お前の腕が俺の見切りよりも少しばかり伸びてんな。肩や腰を入れているとかそう言うんじゃねぇ……俺の見切りが下手くそとかそういう話でもなさそうだ……そうだな……うまく言葉にゃできねぇが、腕そのものが急に伸びているような感じだ」
これが緋村剣心であれば、より早く理論的に見抜いているだろう。緋村剣心は速さと読み、見切りが売り物の男であり、また根本的に喧嘩屋と剣客では間合いと見切りの重要性が桁違いだからだ。間合いを一瞬でも見損ねれば死に捕まえられてしまう剣士にとって、仕組みは正体不明だがこの男の奇妙な術は大きな障害だろう。
「確かにようやく、だな。剣客であればもっと早くに気が付いていたぞ」
「ふん……その分、俺はもう攻略方法を思いついたぜ。剣客には無理な事でも、喧嘩屋の俺にはできるような手だ」
ハッタリととったか、それともどちらでも構わないととったか、般若は拳を前に突き出して勢いよく踏み出した。全身を使って体当たりのように狙うのは、水月。鳩尾とも言われる胴体中最大の急所であり、深く抉りこまれれば時として素手でも死を招く危険部位だ。
手甲を付けているとどこを打っても相当の痛撃となる物だが、小さな急所を狙うのには不向きとも言える為に最も大きな急所を狙うのは、確かに物の道理だった。
「キィエエエェェィッッ!」
手を伸ばす、という奇妙な術に自信があるのか他には何一つ小細工ない愚直なまでの一撃で襲いかかる。それに対して相楽左之助はどう出るか。
いっそ楽しみにさえしながら鬼の様な男が突き出した拳に感じたのは、ずっしりと重たい石のような感触だった。
「鳩尾狙いが見え見えだったぜ? へへ……躱せねぇんなら受け止めりゃいい。それだけの話よ」
喧嘩屋は鳩尾の前で両手を交差させて、重たい一撃を受け止めていた。
般若は驚いていた。彼にしてみれば、そうそう受け止められるほど自分の拳は遅くもなければ軽くもない。そんじょそこらの男の腕ならば簡単に弾き飛ばしているはずだが、現実はごらんの通り。ミシミシと嫌な音をたててはいるが、喧嘩屋は見事に般若渾身の一撃を受け止めている。
「見事ではあるが!」
だが、驚こうがそれで止まるほど彼の胆力も経験も安くはない。
一瞬の停滞もなく横殴りに繰り出した一撃は左之助の顔面を簡単に打ち抜いた。見ようによっては腕一本で左之助の両腕を封じているとも言えて般若の強みになっている。
「ごっ! ぬぐっ!」
一発、二発、重たい一撃が顔面を打ち抜く。肉とその向こう側の骨を打つ感触が般若の骨身に響いてくる。
全力で打っている。
全力の攻撃に、この男はどこまで耐えられるのか。自分はどれだけ打てるのか。
自分の全霊にこの男はどう応えるのか。御頭は、こういう物を求めていたのか……自分はそれに倣っているのか。
よくわかる気がする。だが少し違う気もするのは何故だろうか。
私心を押し殺すのは忍びの当然であるが、それでも自分が、仲間が積み重ねた全ては無駄ではないのだと声を大にして叫びたいのだ。
違和感など噛み潰せ。隠密御庭番衆は、御頭が我らに与えてくれた全ては、無為に歴史の闇に消えていいものではないッッ!
「散々ぼかすか殴りやがって、この……」
「何!?」
三発目の拳が頬にめり込んだ時、左之助がぎろりと狂気じみた恐ろしい目で頬に拳をめり込ませたままに睨みつけてくる。それは般若にとっては信じがたい光景だった。
自分の拳はただの拳ではない。
拳法家としての修練を積み、更に手甲までしている。重みがあるせいで当てる難易度は上がるが、比例して威力も上がっているというのにそれを三発も喰らって睨み返してくるだと!?
「これが対抗策そのニ……根性入れて、耐えりゃあいいッッ!」
対抗策も糞もない。
策などと言う知的な言葉を使ってはならないと言う程に、いっそ滅茶苦茶な選択だった。ここに剣術少年がいれば、頭の中まで筋肉になったのかと声を大にして罵倒するだろう。だが般若は素直に男の打たれ強さを認めた……自分の打撃は安い根性論などで受け止めきれるほどに軽くはないからだ。
「どらぁッッ!」
そのまま力づくで相手の懐にもぐりこみ、超が付くほどの接近戦を挑む。ごきり、と握った拳が速やかに小さな円を描いて般若の肝臓を抉りこむように打った。
「……ごはっ!」
痛撃が腹を貫通したようだった。もしやまさか、打たれた箇所に穴が開いてやしないのかとさえ錯覚する強烈な痛みを覚える。痛みが強すぎて意識を失うどころか逆にはっきりとしてくる中で、悶絶するのを必死にこらえながら般若は同じ個所をより鋭く抉りこまれた一週間前の夜を思い出した。
狙ったのだ、間違いない。違うにしてもそのくらい技量が高いと考えておいた方がいい。
距離を取らねば、と痛みにガンガンと殴られている脳が警告を上げるが、そうはさせじと追いかけてくる影がある。
「くっついちまえば距離も糞もねぇだろうが!」
両腕で頭だけは庇いながら突っ込んでくる喧嘩屋に、一見では頭が悪そうであるが実に合理的でわかりやすい手段をとってくるのだと感心する。
確かにその通り、距離を謀る為の術ならば距離など関係ない手段をとればいい。なるほど、斬られる前に斬る為に間合いが重要な剣客では逆にできないような戦い方だ。
そのまま肩をぶつけられ壁へと叩きつけられるのを、壁を両足で蹴って防ぐ。そのまま宙に飛んで逃げるが、腹に重たい痛みが残った。
「しゃあっ!」
「!」
しかし、その痛みに構うような余裕などない。背後から気合の声と共に風切り音が迫ってきたからだ。咄嗟に全身をひねると、顔のすぐ横を何かが通り過ぎていったのが見えた。足袋を履いた足……まさか、飛び蹴りをしてきたと言うのか。
般若面のせいで見えづらかったが、振り返った隠密は宙を舞い、こちらにしなやかに蹴り足を伸ばした喧嘩屋を確かに見た。
「剣心相手ならともかく、俺だって飛び技の一つや二つは出来るんだぜ?」
同時に着地した両雄は共に身を翻して向き合う。と、左之助の蹴りが掠めていたのか般若の面が翻る勢いに負けて音をたてて飛んでいった。
「!!?」
肝っ玉が太いこと東京一かもしれない喧嘩屋が、血相を変えた。
「おまえ……」
二の句が告げられない、と思わず隙だらけにさえなってしまった左之助だが般若はそこに付け込もうとはしなかった。
「ふん……化け物を見るような目で見るな。これでもこの顔は便利なんで気に入っているんだ」
頭巾だけになった彼が晒した面相は、喧嘩に血を燃やしている左之助に冷や水をかけてしまう程の異相だった。
唇、鼻など顔のあちこちがこそぎ落とされ、頬も一度骨を砕かれたのか潰れている。右目も瞼を失っているのか真円を描いており充血して血走っていた。
「……拷問でも受けたのか」
左之助がそれまでの興奮が一挙に消え去った冷えきった声で口走った言葉が、彼を最もわかりやすく表している。他者を傷つける事に狂的な執着を抱いている者が行い、受けた犠牲者が狂気に至るほどの苛烈な拷問を受けたとしか思えないような面相だった。
「拷問か……ふふ……まあ、確かにそう考えるのが一番わかりやすいんだろうがな……あいにくとそいつは違う」
「何?」
「この顔は、自分でやった。結構便利なんでな、気に入っている」
「…………」
言葉の意味が、しばらく脳に染み込んでこなかった。
理解してすぐに思ったのは、聞き間違いか言い間違いだろうという至極真っ当な考えだった。
「俺は御庭番衆の中でも特に密偵方。どんな場所にも潜り込めるように、どんな顔にでもなれる必要があった。だから自分で耳を落とし鼻を削ぎ、唇は焼いて頬は砕いた」
「…………」
二の句が告げられなかった。
左之助はあまりの壮絶さに圧倒されていた。頬を冷汗が伝い、背筋に寒気がしてならない。きっと顔色が青ざめているだろう。
「そこまでやるかよ……」
思わず口に出る。自分でそんな真似をするなど、言葉にならない壮絶な意志の強さが必要だが、そもそもそんな真似をしようなどと言う考えが浮かぶ事そのものがありえない。いったいこの男はどこまで御庭番衆に懸けているのか。
冗談でも比喩でもない、正しく文字通りの命懸け。その壮絶さが相楽左之助を圧倒している。
「するさ。この程度、御頭の為と思えば大したことじゃない」
強がりでも何でもない、そう言い切れる凄まじい精神とそれを作り出した土壌が恐ろしい。
「私の生まれた地方は貧しくてな。そう言った村ではいまだに裏で親が子を殺すような風習が横行している。私の生まれた村では“子返し”……と呼んでいたかな」
まるで何でもない事のように口にするが、その重さは左之助の想像をはるかに超えている。それをさらりと口にできるのは、彼の中にそれ以上の拠り所があるからなのだとは容易に察せられた。
「運よく生き延びても、そこで人生はおしまい。帰るところを失った子供のいきつく先は獣同然の生き方だけ……そのはずだった」
握りしめた拳が掲げられる。
圧倒されながらも骨身に染み付いた闘争本能が左之助に構えを取らせた。
「だが、御頭はそんな私を拾ってくださり、隠密と言う生きがいと御庭番衆と言う仲間をくれた!」
踏み出した一歩が、これまでにない力強さで般若を前に突き出している。
「戦っていて、どこかしっくりとこない物を感じていたが……今こそはっきりと自覚した。私は、ただ強い者と戦いたかったのではない! 仲間に、そして何よりも御頭に、強者から奪い取った勝利を届けたかったのだな!」
ぺらぺらと舌を回すなど、戦いの最中に隠密がする事ではない。
だが、語るごとに自分の中に石のような何か固い物が出来ているのがわかって止まらなかった。自分は、自分の芯にあるのは闘争への喜び、あるいは力の開放の喜びではない。
勝利を仲間に捧げたかったのだ。
掴み取ったものを仲間と分かち合いたかったのだ。
それも、できる事ならばより高い価値を持つ勝利を!
「伝説の人斬り抜刀斎、そして伝説の鬼の弟子! お前達からの勝利、御頭に捧げるに万に一つの不足もないッッ!」
血走った目に強烈な眼光が宿った。
己の中で何かがはまったような音を感じた般若は、己の中で沸き起こる力を拳に籠めて真っ直ぐに突き出す。左之助もそれには応じたが、やはり間合いの違いはいまだ直せず防御の為にかざした腕の横を通り過ぎていく。
受け止められてしまった一撃とは違い、この拳の狙いは読まれていないのだ。
「もらったぞ、鬼の弟子よッッ!」
これで勝負が決まった。そう確信した拳が伝えてきたのは骨身を打ち抜く重たい感触ではなく、受け止められたびりびりとしびれるような感触だった。
「なんだと!?」
般若の拳は左之助が受け止める為に構えた左の掌は華麗に躱している。だが、その後ろに控えていた右の掌に受け止められていたのだ。
「へへ……どんなもんでぇ」
これまでさんざん殴りつけてきた拳を受け止めた左之助は得意げに笑う。驚いた般若が大きく飛び退るが、今度は追いかけてはこなかった。
「そら、もういっちょ来いや」
にやり、と自信ありげな顔を見た般若は今回に限って追いかけてこなかった理由を悟った。
「我が伸腕の術、破って見せると言うか!?」
「しんわん……? それが間合い崩しの正体か。しんわん、しんわん……意味がわからねぇな」
伸びる腕と書いて伸腕。漢字を当てはめられなかった左之助だったが、そんな自分の識字能力についてあれこれ考えを巡らせる間もなく般若が襲い掛かってきた。
「ならば身体で思い知るがいいッッ!!」
「もうさんざか思い知ったってェのッッ!」
迎え撃つ左之助の構えがこれまでとは違う事を般若は見てとった。
奇妙に縮こまり、両腕を付かず離れず揃えているのだ。通常であればそれぞれの腕は別個に動かして攻防に備えるものだが、敢えて揃える事にどんな意味があるのか……いいや、意味は今しがた身体で体験したではないか。
もう一度、次も真正面から拳を振る。顔面を打ち抜くつもりで突き出す拳は、大きな動きで躱された。だが相手が大きく動くおかげでこちらも次の攻撃が間に合う。
一度回転して虚を突いての裏拳。これは当たる、と確信を抱いて繰り出した拳に相手の喧嘩屋は驚いた顔をした。防ごうと手を伸ばしてくるが、正に一瞬前に逃れる。すり抜けた裏拳を次に待っているのは貌を打ち抜く感触のはずだった。
だが聞こえてきたのは重たい音ではなく乾いた音。顔面を目掛ける手の甲……そこに、割り込んできたのは揃えて構えられている腕のもう一本だった。
「ッラァッッ!」
そのまま腕を捕まえられ、伸び切った肘に下から拳で突き上げられる。強烈な痛みと衝撃、みしりと嫌な音が体内を駆け巡り、腕が壊された事を思い知った。だが、この般若と言う男は痛みに屈する事はない。
自分で自分の顔を削ぎ落すような男だ。その程度は当然だろう。
だが、喧嘩屋の攻撃は一撃では終わらなかった。そのまま流れるように肘を般若の脇に抉りこみ、更に逆の肩から体当たりをすると同時に足をすくい、三連撃の勢いをそのままに般若の鍛え抜かれた肉体を宙に吹き飛ばした。
「ぬおぉぉっ!?」
天井近くにまで吹き飛ばされ壁に向かって激突した般若は全身にこれでもかと言わんばかりの衝撃を受けたが、のたうち回るどころか痛みを無視して転がって距離を取り左之助を睨みつけた。
「へっへへ……なかなか効いただろ? 今のは仙台藩の秘伝で陣内流って流派の技だそうだ」
「秘伝、か……そんなものまで身に着けているとはな」
「開祖の逸話が気にいったとかで、師匠が特に念入りに学んだだとよ。珍しく奪ったんじゃなくて教え合ったらしいや」
般若は得意げな顔を見ながら、自分の腕が使い物にならなくなったことを自覚した。肘が曲がらず、だらりと下げておくより他にない。拳を握る事も出来なかった。
「……あの手を揃えて構えるのも陣内流とやらか」
「いや……あれは夫婦手っていう琉球の手らしいぜ。片手が躱されても空かされても、もう片方の腕が出来た女房よろしく助けてくれるんだとよ」
面白い冗談を口にした、と言って笑う左之助に般若はにこりともしなかった。唇がないからと言うのではなく、それだけの余裕がないからだろう。
「そうか……随分と素直にいろいろ話をしてくれてありがたいが……それに報いる真似はできないな」
「気にすんな。いい喧嘩が出来ただけで俺は満足よ。なにしろ、技を使えるようなつえぇ奴はなかなか会えねぇからな。しかもそれが素手同士ってなると尚更よ」
左之助のそれは冗談でも何でもなく、確かに本音だった。
「光栄という所か」
「これで素直に真正面から喧嘩を売ってきてくれるんなら、もっと楽しかったんだけどな。阿片密造なんて胸糞わりぃ事に絡んでんじゃねぇよ」
「すまんな」
これは般若の隠密らしからぬ本音だった。
私情で任務を放り出しも手抜きもしないが、それでもやはり好き嫌いはあるものだ。あの武田観柳と言う男も、そいつが仕切る阿片密造を初めとした下劣な商売も好きにはなれない。自分は所詮隠密と様々に割り切ってはいるが、好意的に見る理由はかけらもない。
例え隠密だろうと、汚いよりは綺麗な方がいいのは当然だった。
だが、どうしても彼は隠密であった。
一度勝つと決めた以上、どんな手段でも使わずにはいられない。
謝罪はこれから行う手段への物でもあったのだ。
「鉤爪か」
般若の手甲から、拳の倍ほどもある長さの巨大な鉤爪が生えていた。遠い天竺では“虎の爪”などと呼称される武器があるが、それと同系統の武器だった。
「そうだ。ここからは拳法家としての闘いではなく、隠密としての戦。お前には悪いが、私には何よりも御頭に、そして御庭番衆に勝利を捧げると言う使命がある。その為ならば、手段は択ばんッッ!」
鬼気迫る般若は自ら削り取った顔のせいで表情などはわからないが、それでも声色一つで籠められている気迫と意思が左之助の全身にひりつくほど強烈に伝わってくる。その姿を見て、左之助は何故だか自分を重ね合わせてしまった。
「気にするこたねぇよ。俺だってそういうのはあった……そういう何より大事で、なりふりなんざ構っちゃいらんねぇ。命に代えても惜しくねぇものは確かにあった……俺のはぶっ壊されちまったけどな」
理解あるようなセリフを吐きながらも、身体は闘志をもって構えていた。相手の事情を慮って手を抜くような真似は、ただの論外と言うのは彼にとって当たり前の考えだ。
「むしろ、あれこれ理由つけてそいつを引っ込め続けられたら、そっちの方が気分がわりぃ。本気ってのは徹底するもんじゃねぇか」
そう言った彼は、先ほどの夫婦手とやらを使うよりもさらに縮こまった構えをしている。両手は顔の前で手の甲を相手に向けるようにしている……まるで怯えて頭を抱える一町人のような格好だが、手の間から見える瞳はぎらぎらと輝いている。
「陣内流甲冑組手が一、斬鉄の構え」
刃物用の構えなのだと、元々そちらにこそ慣れている般若はすぐに気が付いた。
手首などの急所を守るために甲を前面に出し、身体を丸める事で刃物に接する面積を少しでも小さくする。甲冑組手と言ったこの構えは、きっと戦国時代から明治までの刀剣が活きた時代を素手で駆け抜ける為の術理に違いない。
一本死んだ半端な腕で、この構えから出てくる技にどこまで勝負できるのか。いや、弱気になるな。
「行くぞ、鬼の弟子! いいや、喧嘩屋相楽左之助ッッ!」
「きやがれ、御庭番衆ッッ!」
共に気勢を上げて前に出る。踏み込む足よ折れよ、しかしてその力を拳に与えよと言わんばかりの気迫を籠めて突っ込む両者の間合いは一瞬で零になる。
相楽左之助の顔面に向かって繰り出した鉤爪は、半ば想像通りに彼の手の甲に払いのけられて無様にもかすり傷一つもつけられはしなかった。そうだ、ここまでは予想通りだ。
「ぬああぁぁッッ!」
苦痛の声が喉を裂けよとばかりに吹き出てくる。決して苦痛に屈しないはずの男があげるならば、そこには果たしてどれだけの苦痛が籠められているのか……常人ならば気を失っているのかもしれないような強烈な痛みだろう。
それを選び、堪え、ついに般若はへし折れたはずに肘を酷使して通常の打撃と変わらない速さで破壊されていたはずの腕を左之助の頭目掛けて振った。
およそ傷ついた腕では人を倒すような拳打は出せるはずがない。だがこの男には重さと単純な硬さで大いに威力を上げる甲がある。
側面から投擲のように大きく振ったそれは拳を打つのではなく甲をぶつけるのが狙いであり、痛めた肘を伸ばして負担をできるだけ少なくしつつ遠心力を籠めたそれは、並の格闘家ならば急所を捉えた上での話だが倒す事も不可能ではない。
だが、そんな極端な大振りがおいそれと当たる物だろうか。
答えは否。
たとえ鉤爪の攻撃を囮としている前提でも、彼の攻撃は大振りに過ぎる。般若の攻撃は一歩前に進んで懐に入った左之助にあっさりと躱され……
「ごっ!?」
遠心力に任せて折り曲げた腕が左之助の後頭部に命中した。
般若の描いた絵図はここまであったのだ。振り打ちなどがこの男に当たるわけもないのは百も承知、それでも当てて倒す以外に道はない隠密が刹那の間にひねり出した苦肉の策である。
これ見よがしに出した鉤爪を囮とし、肘を破壊された腕を本命にする……と見せかけて懐に入ってくる動きを読んだ上で曲がらない肘を遠心力込みで無理やり曲げて急所の後頭部を打つ。
極めて危険で殺意の高い攻撃だった。
西洋において拳で戦う代表競技のボクシングでは、後頭部を禁じ手としている。人体の構造上、前頭部や側頭部と比較して脳そのものへのダメージが大きく、簡単に深刻な被害が起こりかねないからだ。
だが、ここはルールで守られたリングの上ではない。文字通り、何でもありの生死を賭けた決闘場である。
左之助の膝がガクンと落ち、そのまま倒れ伏すのだと察した般若は力を抜いた。
強敵だった。死力を振り絞り、これほどの敵と戦って勝利し御頭と仲間たちに捧げる瞬間のなんと満たされている事か。怜悧冷徹であらねばならないはずのこの身が、思わず生き延びた拳を握り興奮を顕わにしてしまう。それ自体がどうしようもない程に心地よい。
「な、ろぉ……」
全てが油断であると叩きつけてきたのは喧嘩屋の呻き声だった。
「貴様!?」
当たれば、いかに頑丈なこの男でも必ず倒れるという確信があった。
元々自分と仲間が散々に頭をぶん殴っているのだ。そこにさらなる追撃を掛ければ、無理やり繰り出した苦し紛れの打撃でもこの男を倒しうるのだと半ば願うような気持で判断した。
だが喧嘩屋は、願いは願いでしかなく現実がそれに従う義理はないのだと言わんばかりに意識を留めていた。
「おおらぁぁッッ!」
それどころか、一瞬で態勢を立て直すとそのままがっつりと般若の腰にしがみつき、力に物を言わせて持ち上げた。西洋相撲などとも言われるレスリングの基本、いわゆるリフトと呼ばれる技術だった。
リフトとは、簡単に言えば持ち上げてしまうこと。相手の腰や胴の位置に組み付いて持ち上げるという一見すれば素人でも力づくでできそうな技術だが、実際には玄人の行うそれは素人にはわかりづらくも深く高度な技術が必要とされている。
ただ単に組み付いてもち上げようとすれば、肘でも落とされて痛手を受ける。あるいは振り解かれてしまうだろう。そうさせない為には、とにもかくにも素早く持ち上げるのが第一だ。持ち上げてしまえば仮に打たれたところで打撃は弱体化する。
後はそのまま、床ないしは地面に叩きつけてしまえばいい。試合の最中ならばあり得ないが、近くに壁があるならそれこそ先ほどの式尉のように叩きつけてもいい。いずれにしても、一撃必殺の大打撃となる。
般若は小柄ではないが、骨格に限界とも思えるほど筋肉を搭載した式尉のような巨漢ではない。斬馬刀を片手で軽々と振り回す左之助の腕力であれば技術がなくとも持ち上げられる。そして技術が伴えば、反撃を許さない高速の連携が可能だった。
般若は自分の全身に鳥肌がたったのを自覚した。これはまずい、この流れはまずいと腰の下にある左之助の頭に肘を打つが、体勢も相手の位置も悪く全く力が入らない。そういう位置取りの技術なのだと理解はしているが、それでも無抵抗ではいられずに万が一の可能性に賭けてもがくが……所詮万が一は万に一つしか引き寄せられない細やかな可能性に過ぎないのだ。
「せいぃッッ!」
気合一閃、腰に強烈な圧力を感じると同時に般若の視界が高速で変化していった。壁を見ていたはずが天井を見つめ、自分がどうなっているのかを一瞬以下の高速で理解する。
だが、理解しても抵抗は出来なかった。
視界が激しくぶれるのと、自分の中に固く鈍い音を聞くのは同時だった。そしてほんのわずかに遅れて痛みが後頭部からしたような気がすると同時に……彼は意識を失った。
日本人なら裏投げと呼ぶだろう。
だが西洋人ならバックドロップと呼ぶだろう。
まるで橋のように見事に体を逸らせた左之助の投げが一閃で、いかなる苦痛にも屈しない般若の意識を絶っていた。
「直伝、岩石落とし……もう聞こえてねぇか……」
硬い床に後頭部がめり込んでいるのではないかと思えるほどの有様で、左之助がゆっくりと起き上がってからも首を支えにして数秒だけだが態勢を維持していた程だ。
どさ、と意外と軽い音と一緒に大の字になった御庭番を見下ろし、喧嘩屋は自分の口から無意識にため息が出ていたのを自覚した。
「……なんだかな……どうにもこうにも、勝ったって……喜ぶ気がしねぇや」
戦いを望んでいたはずの相手と死力を尽くした勝負。しかも共に珍しく素手の強者相手の喧嘩、普段の彼ならば勝利に心を弾ませていた事だろう。だが、どうにも心は晴れ晴れとはせずに鬱屈した気持ちが前に出る。
「……だぁからごたごたがくっついてくるような話は嫌いなんだよ……剣心の奴も、こんな気分だったのか……?」
ここの処、懐に飛び込んできた女狐のおかげでぎこちないすれ違いが続いて半ば喧嘩にさえなりつつある友人だったが、元々あれだけの腕を持ちながらも殊更に闘いを忌避する彼が理解できなかった。
闘争を好まない性質の人間がいるという事自体はごく当たり前の話として理解できる。しかし、名うての剣客として名を馳せた男がそうだとは……才能と好みが合わないのだと言う話は理解できるが、ならばどうして人斬り抜刀斎などと呼ばれるほどに人を斬ったのか。
戦う事が嫌いなら、そんな事はしないはずだろう。
周りに強要される? それほど強い男に誰ができるか。よしんばそうであっても本気で人斬りを忌避しているなら断れるだろうし、そうしなければならない話だ。
そう思っていた。
ただ、今は少し共感できる。
阿片密造だの、協力を強要されていた医者だの、そのせいで死んだ馬鹿な友人、その全てが重苦しくてやるせない重りとなって彼の手足に絡みついているような気分だ。
なるほど、こんな気分になるなら戦いを空しい物、できればやりたくないものとしたくなるのもわからないではない。戦いの中に喜びを見つける自分とは違う物をあの男は見つめ続けてきたのだろう。自分と剣心の違いは殺人刀と活人剣の違いと同質だ。
今まで考えた事もなかったが、自分はどうやら神谷道場で剣心の帰りを待つあの少女と似たようなところがあるらしい。人を育てる事など考えた事もないが武術を愉しむという所は共通しており、それは剣心が知らない事なのかもしれない。
「あいつはどうして飛天御剣流を始めたんだ……?」
剣を好まない男が何故飛天御剣流を志し、それを修め切ったのか。そして、何故それを活かして維新志士になったのか。争いを忌避しようともどうしようもない時代の本流に飲み込まれただけなのか、それともかつてはそうでもなかったのか。
殺して殺して殺しまくった人斬り抜刀斎が、一転して殺さずの流浪人などとを志したのは一体どういう訳なのか。
今まで考えた事もない事が急に頭をよぎっているのは、剣心と言う個人を理解しようと考えているから……ひいてはぎこちなくかみ合わない今の関係をいい加減に何とかしたいと思っているからだが、今もって彼にその自覚はなかった。
それはむしろ幸いだったかもしれない。もしも自覚してしまえば、無暗に意地を張った可能性も無きにしも非ずだ。
「!?」
くらくらと未だに揺らぐ頭をどうにかこうにか抑えて彼らしからぬ他人の過去を詮索するような真似をしていると、まるでそれを怒鳴りつけるような爆音が轟いた。
未だに衝撃が抜けきらずぼうっとしていた頭を貫いたのは、これまでに聞いた事がないような音だった。文字にするとバリバリ、やガリガリ、と言う風になるかもしれないおかしな音が連続して絶え間なく巨大な邸一杯に響き渡ったのだ。
雷とは違う、何かが崩れたような音でもない、何かを斬ったり殴ったりと壊した音とも違う訳が分からない音だったが……何とはなしに嫌な音だと思った。
耳障りだとか言う理由もあるが、ひどくイラつく音だと思った。轟音の間を縫うように聞こえてくる甲高い男の笑い声が混ざっているからだろう。
「男がたけぇ声を出しているんじゃねぇ」
「同感だ」
うお、と驚いた左之助をよそにのっそりとした動きで起き上がったのは小山のような筋肉の塊だった。
「もう目が覚めたのかよ」
「あんなでけぇ音にあんな気持ち悪い声が重なったんなら、寝ていたくても起きちまわぁ……般若の顔の方がよっぽどいい気つけだぜ」
「どいつもこいつも……」
そう言ったのは喧嘩屋ではなく、揶揄されていた当の本人だった。軽口の出汁にされたのが気に入らないのか、面を付け直している。
「目を覚ますのがはえぇよ!」
「こんな音を聞いてしまえば否でも目が覚める……これはおそらく……ガトリングガンという奴だな。簡単に言うと幕末三大兵器と呼ばれたものの一つで、相当の弾数を連射できるライフルだ」
親切丁寧に説明してくれた般若はそれ以上喧嘩屋に目もくれずに馬鹿馬鹿しいほど巨大な音源を目指す。
「……御頭が待っているか」
「待ってはいない。己の力で戦い抜く方だ。ただ、我々が行くだけだ」
それに続いて億劫な様子を隠さずに、しかして素早く立ち上がった式尉が肩を鳴らす。これから待っている何かに備えて体を解している。
「よう、俺はほっとくのか?」
「わかっていて聞いているだろう。真っ向勝負で負けた我々が、どの面下げて今更お前と戦える? 二人で袋叩きにしろとでも? ……そんな事よりも蒼紫様が心配なんだ」
「……思ったよりもいい男じゃねぇか」
からかったつもりだったが、質の悪い冗談は真っ当な返しに跳ね返されてしまい言った当人がばつの悪い気分になった。
「皮肉にしか聞こえんよ。ほら、行くぞ」
「うん?」
「お前だって行くのだろう。あの音は人斬り抜刀斎が出す音でもない、もちろん蒼紫様でもない。であればおそらく観柳の手だ……そちらには童もいるんだろう」
左之助よりも先に弥彦を慮っている。般若の気が利くのか左之助がガサツなのか。
「まあ、死にそうにはねぇ二人だがほったらかしって訳にもいかねぇよな」
ほったらかしだった斬馬刀を軽々と担ぎ上げて、答えを聞かずに走り出した二人の後に続く。
先程まで死闘を繰り広げていたにも拘らず、駆けだす彼らの背中にわだかまりは感じられず奇妙な連帯感のようなものさえ存在している。
それは正しく呉越同舟と言う言葉の見本だ。簡単にちぎれ、簡単につながる程度の物であるのだろう。ただ、そこから奇妙に強く繋がる縁という物も世の中にはあるのかもしれない。
「なんだ、ありゃあ!?」
馬鹿のように大きな音だったおかげで騒ぎの元に赴くのは迷わなかった。きっと最速最短でそこにはたどり着けただろう。
大きな両開きの扉が開け放たれている部屋があったが、そこに着いてみればたかだか一介の喧嘩屋に過ぎないような男には見た事もないなんとも不吉な形状の兵器が轟音を上げている。
彼らがたどり着いた側とはちょうど正反対の位置にも扉があり、そこに大砲に似ているが先端が通常の銃口程度の大きさである兵器が大きな顔でふんぞり返って、備えられたハンドルをぐるぐると回して弾を絶え間なく吐き出させながら屋敷の主である青年実業家が極めつけに下品な顔をして高笑いをしていた。
まるで彼自身が阿片に頭をやられているとしか見えない光景だった。
頭が逝かれた男の銃撃に晒されているのは、彼らの想定……あるいは希望通りに三人の青年と少年達だった。
幸いな事に一人も欠けてはいないが、おかしな話だ。彼らと兵器の距離は二十メートルも離れてはいないのだから、本来あっという間にひき肉になっているはずだが……御頭の両足から血が流れて膝をついている以外、剣心と弥彦は無傷だ。剣心は血を流して痣だらけだが、これは明らかに刀傷と殴打の痕だから御頭との戦傷だろう。
このままでは蒼紫は殺される、と踏んだ式尉が前に足を踏み出そうとするが……ちょうどその前に轟音がやんだ。
見れば、悠長な事にこれ見よがしに葉巻に火をつけて味わってなどいる。顔はいかにも得意げで、露骨に余裕ありげに振舞う姿はいかにも小物臭い。
「おや、あなた達も着きましたか。まさか全員揃ってやってくるとは思っていませんでしたが、裏切りですか?」
「余裕ぶってんじゃねぇよ、似非紳士ぶりが鼻につくぜ。さっきみたいなイカレタ面でこっちは構やしねぇよ」
「こんなところで派手に弾丸をばらまいていては警護どころではないのでな……そんな事よりも蒼紫様の傷、いかなる理由か教えてもらうッッ!」
「どんな理由があっても見逃すつもりはねぇけどな」
般若の言は皮肉と言うよりも当たり前である。それに同調する式尉はボキボキと指を鳴らしていたが、観柳は隣に据え付けられているガトリングガンがよほど頼もしいらしく歯牙にもかけてはいない。
「ふん……まあいいでしょう。危険人物はここでまとめて終わりにして、後は悠々と今回の損失を取り返しますか。まったく……払う金も高ければ雇い主を雇い主とも思わないような看板倒れの御庭番衆なんて雇うんじゃありませんでしたねぇ」
「貴様……」
御頭を銃撃され、更には誇りそのものである御庭番衆をコケにする観柳に、式場、般若、そして誰よりも蒼紫から体が倍にも大きくなって見えるほどの強烈な怒りが発散されるが観柳はそれを察する事が出来ないようで、平気な顔をしてにたついている。
「やれるもんなら、やってみせやがれ! このくそったれの阿片野郎がッッ!」
左之助もいきり立っている。
彼にとっては恨み重なる友人の仇で、どれだけぶん殴ってもあとくされのない悪党である。橋の上で逃げられたお返しはここでお釣りを付けた上でぶちかましてやると拳を握りしめている。
「阿片、ですか……生憎と私はそんな程度で収まろうとは思っていないんですよ」
「ああ?」
「阿片密売なんてのは私の野望のほんの足掛かり……私はこの世で最も儲かる商人になりたいんです。まあ、喧嘩屋なんてちっぽけなあなたには理解できない話でしょうけどね」
「うるっせぇ! んな話に興味なんざねぇよ!」
観柳と左之助、懐具合を比較すれば左之助も剣心も百万人いても叶いはしない。そもそも彼らの懐は基本、空っ風が吹いている。
「まあ、そう言わず。私の目標はいわゆる“死の商人”。つまり、武器商人になる事なんですよ。これからの時代、この日本は正に激動の時代を迎えていきます。維新が成って明治になったから平和になるだなんて馬鹿な話……そこらの連中ならともかくあなた方ならありえないってわかっているでしょう? 人斬り抜刀斎に御庭番衆」
剣心は何も言わずに弥彦の襟首をひっつかみながら観柳の隙を伺っていた。鋭い視線からみれば自分で鉄火場に顔を出した事もない武器商人など隙だらけもいいところだが、それを差し引いてもガトリングガンの性能は脅威だった。
「これからの時代、日本は世界に開かれ、世界は日本を受け入れ、どんどんと西欧化が進みます。その最先端は何か? 文化などではなく、何よりも武器なんですよ!」
芝居がかった動作で腕を振る。大きな隙だが、それでも剣心が飛び掛かるにはガトリングガンは強敵だった。
「このガトリングガンは大枚をはたいて手に入れた目玉商品! こいつを足掛かりにしてその筋に殴りこむのがこの私の脚本! これからの時代、間違いなく戦争が起こる! これは必然です! 露西亜、清、あるいは他の西欧列強!? いずれにしてもこれから十年、遅くとも二十年の内にこの国は外国との全面戦争を迎えるッッ! その時に主流となっているのが私の目的!」
ぶふう、と鼻から勢いよく紫煙が吹き出る。いかにも得意げで、子供が珍しい虫でも自慢するような態度にしか見えず、実際にその通りなのだろう。
「まずはちんけな裏組織からでもいい。やがては国家中枢の御用達にまでなっているのが私の目的、いいやあるいは諸外国を相手取った国際的な大商人! いいですねぇ、国際的! 実に新時代の商人に相応しい!」
自画自賛が実に目障りだが、なるほど時代の流れはその通りであるのかもしれない。今後、日本は必ず富国強兵と言う流れへと到達していくのは剣心も薄々察していた。
平和とは、次の戦争への準備。
そんな言葉がかつて幕末の動乱を駆け抜けた男の脳裏をよぎっていく。
だが、彼はそんな理も利も認めたくはなかった。
「……貴様、そこまでして……人の命を、そして人生を食い物にしてまで金儲けがしたいか」
「食い物? どこがですか? 別に私が戦争を運んでくるわけじゃありません、時代の流れを読み、そうなった際に商売を行うと言うだけ。むしろ人助けじゃありませんか? 戦争中に武器弾薬がなくなって敗北してしまえば、悲惨な事になるでしょうに……その辺、あなた方の方がよっぽど詳しくて釈迦に説法もいいところでしょうけどね」
「諸外国を相手にすると言った口でぬけぬけとよくいうものだ。それは即ち、この日本だけでなく相手国も含めて商売をするという事だろう。そして、貴様のような輩のせいで戦争は煽られて戦火は本来のそれよりも大きく長く燃え続ける。そうするように仕向けるのだろう。死の商人とはよく言ったものだ」
剣心の洞察が的を射ているかどうかは当人の下品な笑みが何よりも語っている。
「んな事はどうでもいい話だ」
左之助が前に出た。今の得意げな話を聞いて表情が師匠のようになっている。
「今この場でぶっ飛ばしちまえば、そんな話は妄想で終わっちまわぁ。大体、阿片の時点で人を食い物にしているじゃねぇかッッ!」
人を食い殺す猛獣のような恐ろしい形相だったが、そんな怒りに満ち満ちた喧嘩屋などとるに足らぬと死の商人志望は嘲嗤う。
「ぶっ飛ばす? この私を? 手に持っている古ぼけた鉄の塊で、ですか!? いやあ、滑稽ですねぇ! そんなどこぞの蔵で無価値と眠っていたような粗大ゴミでこの最新鋭の! 毎分二百連発のガトリングガンに立ち向かおうと言うのですか! いやあ、これは滑稽滑稽! 剣なんかで銃に勝てるわけがないでしょう!」
これ見よがしに甲高い声で笑う商人に、喧嘩屋よりも先に少年剣士が歯ぎしりする。床に盛大にばらまかれている薬きょうから察するに、先ほどから散々銃弾のおもちゃにされていたのだろう。
「んだと、このいかれ阿片野郎! 剣心は下でてめぇの手下どもの銃をいくらでもぶっ飛ばしてんだ!」
同時に、剣が銃より弱いと言われてしまうのが許せない。
見るからに鍛錬など他人事と思っている男が得物の力で大口を叩くなど許せるはずもない。力とは鍛錬を繰り返して汗を流して手に入れるものであり、武器があればいつでも誰でも剣豪達人に勝てるなど少年にとっては自分の日々を否定し憧れをコケにする、正しく許すべからざる話だった。
「まあ確かに、そこらの拳銃風情じゃ相手が伝説の人斬りとあってはせいぜいそれが関の山……しかし抜刀斎、あなたがいくら超人的に強くてもそれを手に入れる為に支払ってきた時間と労力はどれだけの物です? それに、そんな力は鍛錬を積めば誰でも手に入れる事が出来るわけでもないでしょう?」
観柳のいう事は正解だ。
この場にいるのは弥彦以外剣術家、あるいは格闘家として一流かそれ以上の実力を備えた強者ばかりだ。しかし、誰もが誰もそうなれるわけではない。
残酷な現実だが持って生まれた素質を初めとして自身に合った武術との出会い、優れた師匠との出会いなど時として努力ではどうにもできない縁や生まれといった要素に強く左右される。ただがむしゃらに時間だけ長く竹刀を振っていても強くはなれない。
それらの自力ではなかなか覆せないような素質などの問題を前提とした上で、時間をかけて懸命に努力して、ようやく達人と言えるほどに強くなれるのだ。時として、その時間は老境に達するほどに必要とされる。
そして衰えは必ず、しかもあっという間に訪れる。
それが残酷な現実だ。
「しかし、金さえあればこうやって貴方以上の力は簡単に手に入る! 汗一滴流さずに! 金こそ真の最強! それが文明の時代なのですよ! 皮肉ですねぇ、人斬り抜刀斎。あなたが血と汗を流して作った時代が、あなたの汗を否定したんですから。剣など、あなた達などもはや無用の時代なんですよ!」
「……新時代が拙者の人斬り剣を否定するのは結構。だが、断じて貴様の悪銭などを肯定した時代ではない」
観柳の言葉には一抹の真理がある。
道具の発展、即ち時代の発展は便利さを求めて労力を否定する流れだ。素手よりも剣、剣よりも銃、そして更に想像もできないような強力で簡単に扱える兵器の時代になっていくのだろう。
兵器は金銭でやり取りされ、より高性能、より安価を求められ、そして広く流通していく。
その時代に、おそらく剣術など無用の長物として忘れられていくに違いにない。だが、剣心の顔にそれを嘆く表情はなく、観柳を肯定する色もなかった。
「そもそも剣術が隆盛を極めた時代は戦国より徳川三百年の間に彼方へと過ぎていった。時代はとうに殺人剣ではなく活人剣へと移っている。むしろ幕末の時代こそ剣術最後の徒花。そんな事は貴様ごときがペラペラと語らずともすでに自明の理でござる」
握りしめたのは異形の刀。廃刀令は既に施行されて長く、刀は時代にそぐわない過去の遺物だ。
「だが、拙者が目指したのはあくまで平和の時代。剣術が無用の長物になろうとも仕方がないが、阿片やガトリングガンなどと言うおぞましい物が幅を利かせるような時代なんぞごめん被る!」
観柳の言う通り、せっかく作り上げた平和はあっさりと外国との戦争によって破壊されてしまうのか……そんな事はわからない。
いや、目を逸らしても仕方がない。そもそも今の維新政府が幕府を倒そうと志したのは海外からの圧力に幕府が押され、明らかに捌き切れていなかったからと言う一面もあるのだ。当時は異人と蔑称して外国人を目の敵にしている武士はいくらでもいた時代でもある。
つまり、諸外国との争いは幕末の頃から明治に至るまで引き継いできた流れ、今が小康状態であるとも言えるのだ。
だが、それが観柳の悪行を認める免罪符になるわけがない。
時代の流れを読もうがどうしようが、人を食い物にしていい道理はないのだ。
「ごめん被るのなら、この場で退場すればいいでしょう? この新時代を象徴するガトリングガンで、古臭い刀ごとまとめてひき肉にして差し上げますよ!」
「剣心の刀だったらさっき蒼紫とやっている最中に落としてそのまんまだ、バーロー!」
弥彦がやけっぱち気味の顔で罵り返している間に、御庭番衆がどうにか手傷を受けた御頭を取り戻そうと目配せをしていた。
互いに神妙な顔をして、いかにも覚悟完了と言う風である。般若は面のおかげでよくわからないが。
「俺が囮になる。お前が御頭を抱えて走れ」
「あいよ。いざとなったら盾になってやらぁ……俺の筋肉なら、多少食らっても御頭を守れる」
互いに阿吽の呼吸で命を捨てる算段をしていた。
先ほどまでの左之助とのやり取りは正にじゃれ合いに過ぎないのだと言わんばかりで、非情の隠密としての側面が強く出ている。命を懸ける覚悟ではなく、もはや命を捨てる覚悟を当然のように抱いている。
忠義と言うにも重すぎる覚悟を抱いた隠密二人、自ら敬愛する御頭の為に命を捨てんと足を踏み出そうとする。だが、そこに待ったをかけたのは一本の斬馬刀だった。
「ちょいと待ちな。いくら何でもそいつは見逃せねぇよ」
二人の前に相棒を突き出して通せんぼをする眼光鋭い喧嘩屋がいた。
「……邪魔をすんな」
「他に方法はない」
「馬鹿野郎。今お前らの前にあるのが一体なんだと思っていやがる。弾丸は俺が引き受けてやらぁ」
左之助の発言がよほど驚きだったのだろう、二人は緊迫した事態に直面しているにも拘らず目を丸くしてまじまじと喧嘩屋の本気を伺った。
「……なんでそこまでする。俺たちもお前らからすれば悪党だぞ」
「どっちみち、剣心はともかく弥彦があそこにいるんじゃ他に手はねぇ。だったらお前らが便乗しようがどうしようが変わりゃしねぇよ。死人が減る方がいいだろうが」
「……」
「恩に着る」
確かに斬馬刀は盾にするには十分な大きさを持っているが、何分見るからに骨とう品……最新式の銃撃にいったいどれだけ耐えられるのかは正直なところは賭けだ。それも、命を賭ける勝負だ。
「式尉が御頭。般若、代わりに弥彦を任せんぞ。俺が盾になって、剣心が刀を取り戻して斬りこみ……どうだ?」
「俺は元々そのつもりだったんだ。構わねぇ」
「俺もいい。囮の礼だ、童は必ず守り切るからお前もやりきるまでは死ぬなよ」
「けっ……やり切った後も死なねぇっての」
既にあれこれ逡巡している時間はない。躊躇いを踏みつぶす決断力は特筆に値した。
「行くぞ!」
「応!」
「剣心、弥彦は般若に任せろ! 刀だッッ!」
最低限伝わるかどうか程度の事しか言えなかったが、叫ぶや否や一挙に三人バラバラに走り出す。
「!?」
「わかった!」
素人の観柳は突如動き始めた三人に全く対応できていなかったが、歴戦の剣心は違う。左之助の言葉を即座に理解して、弥彦を手荷物のように放り投げてそのまま愛刀の元へと駆け出す。
それを受け止めた般若は彼を小脇に抱えて我が身を盾にしつつも安全圏目掛けて走り、式尉はもちろん俺が大将を助け出す為に般若や剣心には劣るものの躊躇いのない速さで駆けて銃口に身を晒した。
そして左之助は愛刀を盾に一直線。怨敵目指して雄叫び上げてひた走るッッ!
「おおおあぁぁぁぁッッ!」
銃口に身を晒す、仲間の命を背負う、喧嘩野郎として生きてきてもこんな修羅場はそうそうない。怯みそうになる情けない自分を鼓舞する叫びに身を任せ、一直線に何も考えずに奔った。
自分に迫る鉄塊に恐れをなしたか、ようやく狙いを決めた観柳が照準を定めてガトリングガンに弾を吐き出させる。無機質なそれが吐き出す、殺人には強すぎる力を応仁の乱から生き延び続けた鉄塊が受け止められるか否か。
相楽左之助一個人だけでなく、仲間と敵の命さえ背負った勝負が始まった。