学ぶべきことはないのだが、学問所には通うようにしている。
古くなった屋敷を活用している為だろう。床には靴底で擦り減った跡が残り、柱には無数の傷があった。それでも隙間風がひとつもなく、床板が必要以上に軋むこともない。頑丈な造りをしていた、そして大事にもされている。古いというよりも使い込まれているといった印象が強かった。
埃の積もった記憶を掘り起こすような懐かしい教室、この学問所に通うことを決めた理由は三つある。
ひとつは今世での袁紹の動向を探る為、ひとつは今後に備えて伝手を作っておく為、ひとつは
周囲の観察を終えて、この分では袁紹もまだ来ていないものと判断する。真名を交換したらしい記憶は残っているから、おそらく一角の人物であることには間違いない。だから見てわかるはずだ。とはいえ、繰り返すが、とても嫌な予感がする。なんだか触れてはならないものに触れようとしているような――今更、学問所で学ぶことはない。やっぱり帰ろうかな。と考え始めた時だ、私の隣に誰かが腰を下ろした。
「失礼しますわ」
声を掛けられて、顔を上げた時、鋭い痛みが脳裏を貫いた。
予想はできていたことだったので、苦痛を顔には出さず、ただ黙して耐える。
思い出した、麗羽は取るに足らない相手ということを。
そして、とても面倒臭い相手だということに。
「……聞いたことがあるわ。貴方、妾の子でしょう?」
とっさに出てきた挑発的な言葉、それは彼女に嫌われる為のものだった。
他者を見下す傲慢な態度や満身に満ちた立ち振る舞い、自分本位な思考回路に耳障りな高笑い。金色の髪をこれでもかっていうくらいに巻きに巻いた髪型。掘り起こされる遠い記憶の全てが私をうんざりとさせるに事足りる。私は自分の判断を反省することはあっても、ほとんど後悔をしたことはないが――彼女と真名を交換してしまったことだけは後悔している。何故、前世の私はこんな奴と真名を交換したのだろうか。性格こそアレだが、学問所の中では彼女は頗る優秀だった為だ。歳を重ねれば、少しは落ち着くと思ったが増長するばかり、その頃には彼女以上に優秀な者を何人も見つけていたこともあり、彼女と真名を交換した若き日の私の軽率さを心の底から後悔している。
妾の子、というのは自尊心の高い彼女にとって耐え難い侮辱の言葉だ。どうせ憤慨するに決まっているから、耳障りで甲高い声を浴びせられることを覚悟する。咄嗟に出てしまったとはいえ、止めときゃ良かったのに、と自分自身に呆れてしまった。今すぐにでも憤慨して、怒鳴り散らそうとしてくるに違いない。
頭の中で学問所を去る算段を立てながら彼女の反応を待った。
「そう呼ぶ者も居ますわね」
来るはずの怒声はなく、涼しい顔で答えられる。
拍子抜けするような、肩透かしを受けるような、そんな感覚。名門の貫禄でも見せつけるような余裕ある対応に私は驚きを隠すことができなかった。少なくとも記憶の中にある彼女は、このような態度を取るはずがない。もっと短絡的で、根本的な部分で馬鹿なのだ。勉強はできる、しかし勉強しかできないの典型例。死んでも治らない類の馬鹿。それを持ち前の強運で、どうにかしてきただけの人間だった。
口元を指先で撫でる。少しにやけているのが分かった、少し彼女に興味が湧いた。
「屋敷を追い出されたとも聞いたけど?」
「ええ、事実ですわ」
「怒らないのね、少し意外だわ」
今生と前生では世界が違っている。
根本的なところでは同じ世界なのかも知れないが、しかし前に生きた私の世界とは確実に違っていた。
少なくとも目の前にいる袁紹は、私が知る袁紹とは違う歴史を歩んでいる。
「今の私は袁成の娘、そこに誇りを持つことはあっても恥じることはなにもございませんわ」
そう言い放つと彼女は頰に手を翳して、オーッホッホッホッとお得意の高笑いを上げる。
それが不思議と不快には感じなかった。
「ねえ、宦官の孫娘さん?」
不意を突かれた言葉、舐めるような視線。
試されている、と直感的に察した。この曹孟徳を試そうとしている。ぺろりと唇を舐める。そうか、なるほど、そうなのか。彼女は他人を試すことは前世でもよくあった。しかし、このような形で試されたことは一度もない。確信した、今、私の目の前に立つ袁紹は前世とは別人だ。
彼女と会話することが楽しいと感じるのは初めてのことだった。
「ええ、そうよ。私は宦官曹騰の孫娘、己が祖父の家系であることを誇りに思っているわ」
とはいえ、まだ成人もしていない彼女を相手にするのは余りにも大人気がない。
仕掛けたのは私の方、ならば私の方から退くのが筋というものだ。
相手も言及するつもりはないようで、互いに視線を交わすだけに留める。
「なになに? 妾の子に宦官の孫娘?」
不意に後ろから、よく響く声で話しかけられた。
振り返れば、見知らぬ顔。名も顔も知らぬ相手に宦官の孫娘と軽い調子で呼ばれるのは少し気分を害した。思わぬ誤算、折角、良い出会いをしたというのに水を差して欲しくない。
視線に僅かな怒気を込めると「ふえっ?」と彼女はあざとく首を傾げてみせる。
「私は許攸。此処だけの話、私は孤児出身なのよ。なんだか私達って似てるねえ」
やはり知らない名前だった。
†
学問所に通い始めて数ヶ月、
野心が燻る今、どうにも私は自分のことよりも他人に目が向くようになっていた。
大将軍になるのだ、と息巻く
さて、秋蘭が戦略に目をつける中、軍隊よりも狭い範囲に目を付けたのは
前世と変わらないのは
ただ栄華の場合は、仕方なくといった面が強くて、どうにも自分を表に出せている気がしない。
だから私は、私達に合わせずにもっと自分の好きなことをすれば良いのと、と告げた。
そして今、私は服屋にいる。目の前には両手に十数着の衣服を持ってルンルンとはしゃいでいる栄華の姿、そして人形のように着せ替えされているのは私だ。服屋に入ってからどれだけ時間が経ったか、一時間や二時間では効かない気がする。彼女が服を選んでいる間、ずっと座っている私は疲れ果てたというのに、両手に衣服を持ちながら歩き回る栄華に疲弊した様子はない。なんとなしに店員に視線を送ると、申し訳なさそうに愛想笑いを返された。
どうしてこうなってしまったのだろうか、私は思考と肉体を切り離しながら人形としての役目を全うする。
着せ替えられながら思うことは、こんなにも楽しそうな栄華の顔を私は知らなかったということだ。春蘭や秋蘭も悦ばせることはしてきたが、実際に彼女達が楽しそうにしているところはあまり見たことがない。華侖や柳琳に至っては、そもそも私事で話したことが先ず少ない。私は妹達に姉として接したことがどれだけあっただろうか。大切にはしていた、しかし姉妹としての時間を率先して作ろうとはして来なかった。
近い将来、黄巾の乱を迎えると自由な時間は取ることは難しくなる。
今が大事な時期だということは分かっている。来たるべき時に備えていたからこそ私は黄巾の乱、反董卓連合を経て、群雄割拠の時代を生き残ることができた。しかし今しかできないことも多く、それは妹達にとってかけがえのないものになるのではないだろうか。嘗ての私には無理だったかも知れない、しかし今の私ならできるはずだ。魏国の礎を築き、妹達も幸せにする。少なくとも勉学に費やしていた時間を妹達に分け与えることはできる。
私はもっと妹達が笑っている姿を見たいと思った。
我が覇道に後悔はない。
それでも今生がやり直す為にあるのだとすれば、覇道ではなく、家族の為に使いたい。
その想いが形になった時、少し腑に落ちた気がした。
†
馬が好きな春蘭と秋蘭の為に遠駆けに出掛けたことがある。
私は騎乗が得意な方ではないが、苦手というほどでもない。西涼の馬家のように如何なる馬に跨っても名馬のように乗りこなすことはできないが、名馬には名馬なりに乗りこなすし、駄馬は駄馬なりに乗りこなす程度のことはできる。春蘭と秋蘭の二人はもう少し先に行っており、馬の呼吸を自分に合わせる術を持っていた。
草原を馬で駆けるのは爽快だった。行く先も決めずに何処までも駆け続ける。すると自分は何処までも行けるような気がして、そして何処まで行けるのか試したくなる。たぶん、私の原動力は此処にあるのだと思った。自分は何処まで歩み続けられるのか、そして自分が登った高みから見渡す光景が知りたくて駆け続けていたような気もする。幼い頃から――今もまあ幼いけども、私は自分の才能を自覚していた。その為か私は自分の限界を知らずに生きてきた。遠い未来を見通すことはできても誰とも共有することはできない。臥龍鳳雛と呼ばれた二人であっても私が見ていた光景を見るに及ばなかったはずだ。そうでなくては、あの――誰だったか、まあいい。あの誰かも、もう少し行動が変わっていたはずだ。
そのことに一抹の寂しさはあれども、仕方ないことだと諦めている。
ふと強い風が吹いた、丘の方から紙が飛んでくる。
紙とは珍しい。前世で量産化しようと試みたこともあったけども、気軽に手を出せる金額まで落とし込むことはできなかった。心残りのひとつ、風に流されるソレを手を伸ばして掴む。それは建造物の写し絵だった。風景を写しているというよりも構造を理解する為に描かれたものであるらしく、多角的な視点から建造物が描かれていた。普通なら誰も見ないような梁の下とか、柱の構造とか、覚書のように壁の材質なんかも書き込まれている。
これを描いたのは誰だろうか。紙が飛んできた丘の方を見れば、ひとりの少女が私の方を見つめているのを発見した。
彼女のことは覚えている。確か、許攸。人物批評家として有名な許劭の養子。ぱっと見た感じでは、特に秀でた才覚を持っているようには感じられなかった。しかし不思議と成績は良くて、意外と知識が豊富だったことを覚えている。
手を振りながら、ぴょんぴょんと跳ねる彼女に向けて馬を駆けさせた。
才能というのは原石のようなものだと思っている。
磨けば光る、そして強い輝きを放つものと認識していた。宝石そのままで他者を魅了する。
そういったものを見抜く目には自信を持っていた。
しかし、私の目の前にいる少女は、上質であることは間違いないが、堅めの石、もしくは原木といった程度の存在だった。
だが、それでも彼女は芸術品だった。木を彫ることで彫刻を作る、石を削ることで石像を作る。鉄は叩いて鍛え上げ、書籍には無数の文字を刻み込む。そういって研鑽を積み重ねた上にできたのが彼女であり、それは非才の非凡であった。彼女は無知を知る。丘の上にいた彼女は絵を描いていた。絵を描く為に彼女は見えないものを理解しようとする。嫌がる彼女に見せてもらった覚書の数々は、目に見える物体の構造全てを把握しようとする執念を感じられた。葉っぱ一つを描く為に色のついた水を根っこから吸わせる。なんていうこともやっており、街一つを描く為に商業区や住宅街、工房と売り場の位置関係まで把握してしまっている。
許攸、前世の私が知らない名だ。ただ彼女ほどの存在を私が見逃すはずがないから、きっと彼女は前世には居なかった人間だと認識する。仮に居たとしても出会う前に事故や病気で死んでしまったか、なにかだ。剣も碌に振るえない癖に、こんなところに一人でいるのだから賊か獣に殺されていてもおかしくはない。
そんな彼女が今、描いている絵――木板に貼り付けた帆布を横から覗き込むと、どうやら川に面した集落を描いているようだった。
「貴方の才覚は捨て置くには惜しいわ、私のものになりなさい」
守ってあげる、と耳元で囁けば、彼女は困ったように笑ってみせた。
そして無視するように筆を腕ごと前に突き出して、じっと景色を見つめる。絵を描くときはこうやって縮尺を測るのか、とひとり頷き彼女が描き進める姿を見守る。今はまだ当たりを付けているだけのようだ。
そのまま暫く観察を続けていると、筆を動かしながら許攸が話しかけてくる。
「曹操、この景色は物足りないと思わない?」
不意の問いかけに、私は質問の意味を探り、答える。
「……ええ、そうね。まだ発展する余地はあると思うわよ」
「こういう絵を描いているとね。数年後、数十年後の景色を幻視することがあるんだ」
言いながら彼女は目の前の光景から、この辺りにこう、と実際にないものを書き込み始める。
「今はまだまだだけど……此処は人が集まり、物も集まる場所だよ。私達が大人になる頃には、もっと店も家も増えていると思うんだよね」
その言葉を聞いて、「私なら――」と帆布に描かれた絵を指でなぞる。
「此処に道を作るわ」
「ああ、それは良い」
彼女は道を書き足すと、その周辺に店を建て始めた。
こんな通りがあるなら人がたくさん来るわよ、と私は宿舎を付け足すように要求する。厠が足りなくなるね、と彼女は書き加える。こんなに店があるのに商品はどうするのか、という話になって、この村に合いそうな産業を周辺の地理も考慮に入れながら考える。行商人もたくさん来るはずだ、と商家向けの宿舎も必要という話になった。自給させる為に農地も必要、農地を管理する村人の家も用意しなくてはならない。物が増えれば人が増えると居住区と商業区を拡張する。ここまで大きな村になると役所が必要だ、防衛するための備えも必要になってくる。農地の為に引いた川を利用して、防衛にも活用できるようにもする。税金は幾らが妥当だろうか、常駐する兵はどれだけ必要になるだろうか。架空の豪族や商家が生まれて、なら商業組合も作っちゃおうという話になった。
気付けば帆布は真っ黒となり、私と許攸以外には誰も理解できない有様となってしまった。
「ああ、楽しかった」
と彼女は満足げに真っ黒になった帆布を眺める。
私も楽しかった。私が見てきた未来の姿、その一部でも共有できた存在は初めてだった。少なくとも、こんな風に同じ速度で処理できた人間は前世も含めて出会ったことがない。私の未来を見据えた上で、なら、と更に上を目指す彼女に、それなら、と私が更に彼女の提案の上に積み重ねる。なるほど、そうだったのか、とひとり納得する。未来を見通すのに必要なのは想像力、それを補強するのは膨大な知識だったようだ。
なんというか、この時、私は初めて理解者を得たような気になったのだ。
「ん? んん……ぷはっ」
気付いた時には唇を重ねていた、それは衝動だった。
「許攸、私のものになりなさい」
だから次いで出た言葉も衝動的に出たものだった。
「貴方は私のものになるべきよ」
手を差し伸べる、さもなくば貴方は孤独になる。
貴方が思い描く未来を形にすることができるのは私だけだと、確信を持って伝えた。
私だけが貴方の考えを理解することができる。
「えっと……前向きに検討しつつ、善処したく思ってます」
ただまあ振られたのだけど。
その警戒心を露わにする態度から少しがっつきすぎたようだ。
今世も飽きることはないのかも知れない。
前世からの縁には趣があり、今世からの縁も愉快だ。
この世界には埋もれた逸材がどれだけ潜んでいるのだろうか、今からそれが楽しみで仕方ない。
逸材を見つけて、育み、日の目を浴びさせる。
それが今世における私の趣味になった。
あと、これは余談になるが、
遠駆けの予定を中断してしまったが為に不貞腐れた春蘭の機嫌を直すのに苦労した。
今世では肉体関係を持っていない為か、なかなかに手間取る。
袁紹の方が落ち着いたので、こちらもひっそりと更新。
とりあえず幼少期を終えるまでの細部が煮詰まった感。