木立の間を抜けて差し込む金色の日差しが窓枠を伝い、乳白色のテーブルクロスに淡い影を落とす。意匠化された蔓草模様をあしらったスミレ色の小皿の上で、ほんのりと香るバタークッキーがちょこんと行儀よく並んでいる。その隣に置かれたティーカップに精緻な白木細工のような指がそっと伸びると、取っ手を静かに掴んだ。
薄く紅の差した唇を僅かにひらいてハーブティーを一口飲んだ金髪の少女――カッティングされたサファイアのような瞳を伏せながらそっと息を吐くその様子は、まるで名のある画家の作品を切り取ったかのようだった。
午後の光に包まれた“名画のような少女”の名はアリス・マーガトロイド。
彼女は深き森の奥に棲む隠者。
魔道を志す人ならざる求道者。
アリス・マーガトロイドは魔法使いであった。
彼女が過ごす森は魔法の森と呼ばれている。化物のような茸が胞子を吐き散らし、立ち上る瘴気が旅人を幻惑し死に至らしめる。
人間には過酷な土地だ。好き好んで寄り付く者もおらず、魔法使いや妖怪変化の類い、そしてここに住居を構えるアリスのような俗世を離れた隠遁者が僅かにいるばかり。
しかしながら中世に流行った魔女狩りの煩わしさから逃れるように転がり込んだ彼女にとっては、この極東の地は非常に居心地の良いものであった。
彼女の生業は、己の指から始まり糸を介して自在に動く「ヒトガタ」にある。今この瞬間もアリス・マーガトロイド邸の中を忙しなく動き回る小さな影達は、彼女によって作り出され息吹を吹き込まれた人形達だ。家事手伝いから工房の助手まで、いともたやすくこなしてみせるその精巧さと技術が彼女の魔法の一端を表している。
そうして邪魔が入らず静かに過ごせる理想の土地を見つけた彼女が世情に疎くなるのは自然な流れで、気が付けば他人と最後に言葉を交わしたのがいつだったか、本人も忘れてしまうような有様だった。
そして果たせるかな、数世紀ぶりともなるその機会はごく最近に、前触れもなくアリスの下へと訪れた。
そのときの出来事を思い出してアリスは溜め息をつく。その中に混ざりこむのは己自身への呆れと、羞恥の感情――
「本当に驚いたわ、まさかそんなに時間が過ぎていたなんて……」
呟かれた声はひどく弱々しかった。
その麗しき見目と比べて不釣合なほどしわがれ、随分と霞んでいる。
不意に先日の醜態を思い出してアリスは思わず掌で顔を覆い隠す。指の隙間から覗く白磁のような頬には、僅かな朱が差していた。
――――――――――
それはある日の夕刻のことだった。
アリスはいつもと同じように魔法の研究の傍らで人形のための衣服を製作していた。動いているのは自分自身と人形だけの静かな部屋。普段と変わらぬ生活音の中に――突如として異物が紛れ込む。
「ご機嫌よう、魔法使いさん」
涼やかでいて有無を言わせぬ力強さを持った声色。
弾かれるように顔を上げたアリスの眼前に、濃紫色のドレスを纏う怪しげな女の姿があった。
金色の髪を背の半ばまで下ろし、口許を扇子で覆い隠しながら値踏みするように見下ろす女。目元には笑みを浮かべながらもただならぬ妖気がアリスへと向けられている。
特筆すべきは宙に開いた裂け目――空中に鋏を入れて切り取りでもしたかのような気味の悪い
現実感のないその光景は一瞬の空白を置いてアリスの脳内に警鐘を成り響かせる。
アリスとて一角の魔法使い。己の住処に十重二十重の防衛網を敷いておくのは当然のことだ。来客など途絶えて久しいこのアリス・マーガトロイド邸へも、足を踏み入れようとする者は皆無ではない。ただそのほとんどはお世辞にも平和的といえない目的をもっているため、彼女も少なくない注意を払って己が身を守る術を構築してきたのだった。
だが数百年に渡って彼女を守ってきたその術がこの度ばかりは役目を果たすことはなかった。違和感を感じる暇すらなく己の前に差し迫った脅威は、アリスが施した術が無効化されたか、それらが全て掻い潜られたことを意味していた。現れた侵入者が己の実力を上回る強敵であることは疑いようもない。
瞬きの間もなく目の前に現れた侵入者に対し、アリスは覚悟を決めて相対した。瞬時に放てる術の構築は既に済ませている。同時にそうしながらも相手の出方を覗い、めまぐるしく最善の一手を模索し続ける。
戦うか、逃げるか――
殺気こそ向けられていないとは言え、妖気の禍々しさは手に取るように分かる。正直分の悪い相手だと、アリスは心の中で呟いた。
互いに一言も言葉を発することなく数秒間のにらみ合いが続くと、口を開いたのはまたもや紫のドレスを着た妖怪の方だった。
「あら、これは驚かせてしまいましたね。連絡も差し上げないままお宅にお邪魔するだなんて、我ながら少々事を急きすぎたように思いますわ。不躾な訪問をどうかお許しになって下さいな」
ふふ、と笑って悪びれる様子もなく謝罪する妖怪に、アリスはその真意を読めずにいた。すぐさま己に危害を加えようというつもりではないらしいことは理解できる。そうであれば声などかけずに襲いかかってしまえばいいのだ。完全な不意打ちとなるそれに対し、アリスにとれる手だてはない。
だがそれは行われずに、こうして正面から向かい合って話し合いをしようという様子を見せている。こちらから手を出すのは早計だろう。冷や汗を垂らしながらアリスは考えを巡らせる。
「まあ、そう怖い顔をしないで下さいまし。そうそうこのお部屋、なかなかに素敵な所ですわね。まさか魔法の森でこんな素敵な暮らしをしている者がいるとは思いませんでした。魔法使いの家なんてもっと薄暗くて、埃と黴と薬の臭いに包まれていると思っていたんですもの」
そう言って取り留めなく話を続ける妖怪に表立った敵意は見られなかった。油断は出来ないが、ひとまず用向きを尋ねるのが得策だろうとアリスは判断する。荒事になって困るのはアリスの方なのだ。極力相手を刺激しないように注意してその真意を問いただそうとアリスは口を開いたのだが――
「――――」
部屋の中に何か言葉にならないさざめきが響いたと思えば、同時に目に見えぬ圧がアリスを襲った。
ひりつく空気の威圧感によってアリスは言葉を失う。酷い嵐に見舞われたかのように、肌につぶてのあたるような痛みを感じるほどのそれは凄まじいまでの妖気だった。
「それはあまり良い選択ではないわよ、アリス・マーガトロイド」
依然として自然体で、だが纏う雰囲気を鋭い物に変えた紫ドレスの妖怪が声を発した。いつの間にか扇子を閉じて先端をアリスへと向けている。まるでそれでアリスを押さえ込んでいるというかのように、アリスの身には強烈なプレッシャーが吹き付けていた。
「あなた程の魔法使いが彼我の差を読み違えるとは思えないのだけど、買い被りだったのかしら……あなたが口にするべきは、呪いの文言ではなく対話の為の言葉よ。勘違いしてはいけないわ」
アリスは相手に己の情報が握られている事を悟る。だがしかしその言い分が理解できないでいた。
自分の行動の何かが目の前の妖怪の気に障ったのだろうか。それとも相手は最初からこのつもりでたちの悪い茶番を繰り広げていたのだろうか。だとすれば相当に性格が悪い。もはや己の不運を嘆くしかないだろう。
アリスは心中で悪態を吐き捨てる。相手を睨み付けるが、生憎と何かを仕掛けられる状態ではなかった。攻撃行動を起こした次の瞬間にも己の首が落ちるビジョンがありありと浮かぶ。
なので、仕方なしにそろりと両の手を頭上へ上げる。
相手へ対する降伏の意思表示。
なぜこうなったのかアリスには分からないが、少なくともアリスには敵対の意思がないことを示し、この場を再び対話の空気に戻さなくてはならない。人と交流を絶った魔法使いの棲み家に押し掛け、これ見よがしに力を見せつけ、挙げ句の果てに恫喝じみた言い掛かりを付ける。アリスからしてみれば泣きたくなるような出来事だ。
「そう、それでいいわ。賢い選択ね」
フッと張り詰めた空気が弛み、アリスの体に温度が戻ってくる。深いため息とともに緊張と憤りを吐き出し、それからじっとりと汗で滲んだ掌を握り込んでアリスはもう一度、改めて眼前の妖怪へと言葉を発する。
「申し訳ないのだけど、貴女はどちら様かしら? 貴女は私を知っているようだけど、私は貴女の事を知らないわ」
一気にまくしたてる。そして、呟かれた音にアリスは自身で目を丸くした。
「え……?」
酷く乾いた空気の擦過音がする。カサカサと、冬の木枯らしのような掠れた音だ。
思わず何事かと辺りを見回してからハッとして視線を戻せば、相手はなんともいえないキョトンとした顔をでアリスをじっと見ていた。
「え、えっと……」
またもや音にならない声を発して、ようやくアリスはそれが自分の喉から出ていることを認識する。さっと隠すようにして口許を掌で覆うのと同じタイミングで、相手の妖怪が口を開いた。
「あなた……ひょっとして……」
「ち、違う……!」
怪訝な表情で問いかけてくる相手になんとか反論の言葉を返そうと一つ深呼吸したアリスだが、再び口をついて出る上ずった声に閉口する。
その様子を見た紫色の妖怪は若干の呆れの混じった視線を向けてアリスに言った。
「……声が出ないのかしら?」
その問いかけに、アリスは頬の辺りがどうしようもなく熱くなるのを感じたのだった。
―――――――――
「はぁ……」
嵐のような訪問者が現れてから幾日かが過ぎている。
アリス・マーガトロイド邸はいつもの平穏を取り戻し、アリスもお気に入りのハーブティーを片手に穏やかな一時を過ごしていた。
にもかかわらずその表情がどこか固いのは、まさに数日前に思い知らされた時の流れの無情さを嘆くがゆえか。
結局、その訪問者は八雲紫と名乗った。
曰く『妖怪の賢者』。それがよく知られたものかどうかは世情に疎いアリスには判断のしようもないが、とにかく彼女、八雲紫はこの地にとある箱庭を作る計画があるのだと話を切り出した。
聞けば驚いたことに、アリスの知る年代から数えて数百の年が過ぎていた。
アリスの変わり映えしない数百年に比べて人間の文明は大きく様変わりし、その過程で妖怪や魔法使いといった存在は大きく力を落としつつあるという。当然アリスには知る由もなかったが、八雲紫はその行き着く先があまり良いものではないと考えているようだった。
人類の歩みとその方向は最早覆せる段階に無く、この大妖怪の力をもってしても流れを変えることは不可能。しからば力無くす前に妖怪たちの拠り所となる隠れ里を作り上げる――八雲紫の描いた青写真には、いずれ幻想となる存在が集い、不思議の介在する余地が失われゆく世界への防波堤となる巨大な結界で隔離された箱庭の姿があった。
そして、そんな壮大な計画へいつしか組み込まれていたのがアリスの棲む魔法の森を含む一帯の土地なのだという。
ならば用向きとは立ち退き要求かと早合点したアリスに八雲紫は伝える。
「いずれあなたも幻想になるこちら側の存在よ。あなたがどこへ行こうと、最後にはきっとこの世界に居場所は無くなってしまう。荒唐無稽に聞こえるかもしれないけれど、思い知るときが必ず来るわ。そう遠くない未来にね」
八雲紫は付近の土地に棲む妖怪達に対してこの考えを話し、理解を求めている最中だという。
当然、それが常に穏やかなものと限らないであろうことはアリスにも想像がついた。妖怪とは我の強いものばかりだ。きっと八雲紫はそういった連中に邪魔をしないように釘を刺して回っているのだろう。
その達成には無理を押し通せるだけ圧倒的な力が必要とされ、八雲紫という存在はその条件を満たしている。その点にはアリスも驚嘆し、畏怖すら覚えていた。
そして、それほどの妖怪ですら危機感を抱く事態に全く鈍感であった己の不明と外界への興味の薄さを恥じるのであった。
「でも、あなたの理解が得られたのは堯幸だったわ」
あなたと事を構えるのは大きな痛手よ、と八雲紫は言うが、手も足も出なかったアリスからしたら大袈裟なリップサービスだ。どの口が言うのかと思わず呆れそうにもなったが、貴重な協力者に対するご機嫌とりのようなものだろうかと考え直して言葉通りに謙遜することにする。
『そんなことはないわよ、実際貴女と向かい合った時は生きた心地がしなかったもの』
と、そう書かれたスケッチブックを差し出すアリスを眺めて、八雲紫は小さく吹き出した。
その様子に顔を顰めたアリスがほんの僅かに頬を赤らめるが、それもこれも全ては己の失態なのだから他人に矛先を向けるのはお門違いである。
つい先刻、二人が対峙した際の一触即発のやり取りの真相はあまりにも単純で、馬鹿馬鹿しいものだった。
いかに人外の魔法使いと言えども使用しない器官が衰えるのは当然のこと。人と会うのも数世紀ぶりとなるアリスの錆びついた声帯から出てくる音は、本当にこの少女のものかと疑うほどのデスヴォイスであった。事情を知らない者からすれば、それはまるで魔女の唱える難解な呪文に聞こえたことだろう。八雲紫が魔法の詠唱と勘違いしたのも無理からぬことだ。
アリスもまさか自分の出不精が命の危機に直結するとは思いもよらず、己の生活を見直すことを新たに決意するという締まらないオチが付いたというわけだった。
アリスは少しだけ飲み物に口をつける。
数世紀も代わり映えしなかった生活に思わぬ形で吹き込んできた新風に時代のうねりを感じ取り、これから先の未来に思いを馳せる。
魔法使いの寿命はその実力にも左右されるが、人間と比べればはるかに長い。人の数倍から十数倍、アリスほどの者ならば更に長い時を生きることも可能となるだろう。
だが長い時間は感覚を麻痺させ、変化の無い日常は思考の硬化を招く。いつしかアリスが浸かっていたものは、安寧でも平穏でもなく、音も無くその身を蝕む毒のようなものへと置き換わっていた。
思えば魔法の研究も人形作りも、ここ暫く進歩した実感が無い――
小さな鏡を覗き込んでアリスは自分の顔と対面する。そこに写る白い肌は昔よりも一層弱々しそうに見えた。凝り固まった表情筋は、笑顔の作り方すら忘れてしまったように思える。僅かに引きつったような頬を見てアリスは嘆息する。
長きに渡る停滞は少しずつ歯車を狂わせる。全てが己だけで完結する世界などないというのに、そう錯覚する。他者との関わりを断って数世紀も暮らせば、その精神のどこかに瑕疵が生じたとしてもおかしくはないだろう。その事実に気付きすらしないはずだ。
変わり映えのしない毎日は、アリスから熱意や活力といったものを少しずつ奪っていった。気が付かなければそれらはやがて枯れ果て、アリスを自身が操る人形のそれと変わらぬものへと変じさせていったことだろう。いかに人ならざる魔法使いといえども、孤独という毒のもたらす害から完全に逃れることは不可能であるということだった。
アリスは魔法使いとして人形を操ることこそが己の極める道と信じて過ごしてきた。数多くの人形が彼女の手によって生み出され、操られ、そして消し去られていった。いずれもアリスの為に生み出され、アリスの為に役立てられてきた人形達。もしもアリスが人形と変わらぬものとなったら、その糸を繰るのは果たして誰だろうか?
操り手のいない人形と化した自分のイメ―ジが拭い去り難く心の奥底にこびりつく。
己に繋がる糸を幻視する。
いくつもの細い糸が、どことも知らない場所へと伸びていく。その先を伝って辿りつくのは誰かの指先だろうか。誰もいないかもしれない。ただ、真っ黒な空へ伸びる糸――
意味もない空想だと切り捨てる。
しかしながら、己が目指した物に本当に価値があるのか、今のアリスにはもはや信じきれなくなっていた。
ある時は素早い指の繰りを練習した。何本もの糸を別々に動かすことで複雑な動きをさせる事に成功したときは無邪気に喜んだ。人形の構造を洗練させ、より人間に近くなったことに満足感を抱いた。
だがそれら全てはアリスの手の中で誰に気付かれることもなく完結してしまう閉じられた世界。沢山の人形と、アリスという操り手で構成されるその世界は、たった一人、その世界の神であるアリスが居なくなれば無に帰してしまう。
「私が本当にやりたいことはこれでいいのかしら……」
改めてアリスは自身に問い直す。
空虚さを払拭する何かが欲しい。ただ自分一人ではない世界を作りたい。
ふとそんな思いが浮かび上がる。
「……暫くぶりに人と話したせいかもね」
いつになく感傷的になっているのはそのせいだろうか。
八雲紫と出会いをきっかけとした小さな変化を、アリスはけして悪いものとは捉えなかった。
長く忘れていた人恋しさという感情が蘇ってくる。それはアリスを立ち止まらせる枷にもなれば、道を拓く標ともなりうるだろう。
それとは別にして同時に酷い醜態も晒すことになったが――たぶんきっと些細な出来事に違いない。
今なおアリスの喉は不調を訴えている。その容貌に似合わないしわがれた声が艶を取り戻すにはもう少しだけ時間がかかりそうだった。
「何事も少しずつ変わっていくものね」
アリスは八雲紫が創るという未来をほんの少しだけ期待することにした。両者が言葉を交わしたのは初めてだったが、不思議と信じられる、きっとその通りになるのだという確信めいた何かをアリスは感じ取っていた。それは八雲紫の言葉の魔力か、あるいは魔法使いの直感か。
「そう遠くない未来、か。まあ、それまでには声を取り戻さなくてはならないわね」
そう言ってアリスは手に持ったカップに入った喉によいハーブを煎じたお茶を飲み干した。
金色の日差しが差し込む魔法の森の午後は穏やかに過ぎてゆく。
それから暫くして、魔法の森のアリス・マーガトロイド邸にはやや調子はずれの歌声が響き渡るようになったという。
夢幻の住人達がつどう箱庭。やがて幻想郷とよばれるようになるその土地がまだ生まれる前の、七色の魔法使いと幻想郷の管理者が初めて出会った頃の話であった。