幻想郷のアリスさん   作:ローバック

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お出かけとアリスお姉さん

 結界はうまく張られたのだろう。その時は空気が一変したのをよく覚えている。

 降り注ぐ日差しの質もそよぐ風の流れも、何も変わらないはずなのに、世界が閉じられた。アリスは言葉にすることができない微妙な感覚の差異でそのことに気が付いていた。

 八雲紫は成し遂げたのだと。

 

 

 

 

 この日、アリスは久方ぶりの外出を決意していた。彼女は長い間外へ目を向けることなく家に籠もっていたため、よくよく考えてみれば自分の家周辺が魔法の森と呼ばれる土地であること以外何も知らかったのだ。他に何者が住んでいるのか、魔法の森の外がどうなっているのか、そんなことはアリスがこの場所にやってきた際には関わりがなく、興味の対象外だった。

 しかしながら、八雲紫が作り上げる箱庭の内にアリスの家ごと周囲一帯が取り込まれてしまえばそうもいっていられなくなる。

 内側に組み込まれたものはもはや外へ逃げることはできず、一蓮托生のご近所付き合いが強制的に始まってしまったのだ。ならば、いがみ合っていてはしょうがない。良好な関係を構築しておくことに越したことはないはずなのだ。

 

 

 

 姿見の前に立ってアリスは自身の姿を確かめた。流れるような金髪に寝癖はない。やや不健康そうに見えなくもない白い肌色は、ほんのりと化粧を伴って十分な血色を保っているように見せかけてある。

 赤糸で縁取られたフリル付きのストールを羽織り、つばの広い白い帽子を被れば、ふんわりとした印象はどこぞの令嬢と言われても違和感はないはずだ。

 片手に下げた編み籠に、お手製のクッキーとサンドイッチを忍ばせる。アリスの分だけではなく、出会うかもしれない誰かの分も抜かりなく用意してある。気合は十分だ。

 

 玄関口に立って扉に手をかける。滑らかな蝶番の音とともに、アリスは外へと足を踏み出した。

 

 柔らかな風がアリスのほほを撫でて通り過ぎ、春の訪れを感じさせる。晴れた日差しと暖かな空気は木々の芽吹きを促し、森の姿は萌葱色に輝いていた。快晴の下、目に映る魔法の森はいつになく穏やかで、それが危険な人外魔境であることを一瞬忘れてしまいそうになるほどだった。アリスは目をすがめて空を見やる。透き通る青空はどこまでも続いているように見えた。この空を見て、ここが閉じられている空間などとはだれも思わないだろう。

 

 と、その顔に小さな二体の人形が影を落とす。アリスの周りにふよふよと浮かぶようにして着いてくるそれはアリスお手製の人形だ。アリスは自身の身を守る上で人形を用いた戦術をとることもあるが、上海人形、蓬莱人形と名をつけた二体の人形はそのためだけにいるのではない。この二体はある試みのために作成された特別な人形なのだ。

 

「行きましょう、上海、蓬莱。二人とも、初めてのお出かけね。私もものすごく久しぶりのことだから、何が起こるか楽しみだわ」

 

 そういって自身の人形にアリスは微笑みかける。もちろん返答はない。それらはあくまでアリスが操る人形でしかなく、はたから見ればアリスの行為は寂しい一人芝居にしか映らないだろう。だがそれは無意味に行われたものではない。

 

 上海人形と蓬莱人形、この二体に心を宿らせる――それがアリスの目的だ。

 ただ一人で魔法の腕前を研鑽し続けてきたアリスだったが、そんなアリスの考えに大きく影響を及ぼしたのが八雲紫だった。

 

 いずれ世界に居場所はなくなり、自身がすべてを注いで磨いてきた技術すら失われて消えてしまう――

 

 はっきりとそう告げられたアリスは、立ち止まり、自分の目標をもう一度考え直した。そうしてたどり着いたのが完全自律人形を作り上げるというものだった。自分で考え、自分で行動し、一つの存在として振る舞う、そんな人形だ。

 人形とは操り主がいなければ成り立たない。糸を介して誰かの意図に沿って動く。いかに自発的なものに見せかけたとしても、どれだけ本物に近づけたとしても、人形は操り主がいなくなってしまえばおしまいなのだ。仮に新たな操り主がそれを動かしたとしても、それは以前とは違う意図によって動かされる全く別の物――そこに連続性を見出すことはできない。

 アリスが目指すのは、アリスという操り主がいなくなったとしても、自ら他者との縁を結ぶことができる人形だ。操り主に因らず、その連続性を保つことのできる自立した人形を作る――

 それはもはや一個の生命を作り出すという行為に等しい。簡単にできることではないことはアリスも理解している。ゆえにその取っ掛かりの第一歩は非常に小さなことだ。

 長く大事にされてきた道具には魂が宿る――そんな言い伝えがあるように、無機物が妖怪化する事例は枚挙に暇がない。それが自発的に魂が生まれたことによるものか、あるいは他のなにがしかが取り憑いたことによるものなのかは分からないが、アリスはいつの日か心が芽生えることを信じて二体の人形を大事にしようと決めたのだった。

 

 二体の人形に微笑みかけるアリスの態度は、まるで娘か年の離れた妹に接するかのようだ。

 その表情がまるで「氷の女王」みたいな怜悧としたものでなければ完璧だったに違いない。アリスの声は調子を戻すことに成功していたが、感情表現まではうまくいかなかったようだ。

 彼女の微笑みはまるで不敵な冷笑だった。じっと真顔で見つめられれば、氷の弓矢で射すくめられたかのように心臓が縮み上がりかねない。その全ては彼女の整った容姿と相まって相手に強い畏怖の感情を与えるに違いないが、そのことに彼女は気が付いていない。

 そしてそれを指摘してくれる相手もいないのであった。

 

 

 

 

―――――――――――――――――

 

 

 

「こんにちは」

 

 鈴が鳴るような、涼しげできれいな声をかけられて僕は振り向いた。

 畑仕事の合間に抜け出して、裏山へ遊びに来ていた時のことだった。

 危険だから山奥には絶対に入ってはいけないと父さんや他の大人の人から言われてたから、僕は言いつけを守って庭から見える林の中にぽっかり空いた広場と、家の前の水路に続いてる小さな沢にしか来ないようにしていた。

 山の背中側を越えた先には変な森があって、そこには恐ろしくて危険な何かが沢山棲んでるって聞いていたから、間違ってもそっちに入らないよう気を付けて遊ぶようにしていた。

 

 もしも、山の向こうから何か知らないものがやってきたら、絶対について行ってはいけないとも言われていた。そこには人間は住んでいないから、どんな見た目をしていてもそれはヒトじゃないんだって。

 

 だから、その姿を見たときにすぐに気付いた。僕らとは違う格好をしているそのお姉さんが、ヒトではない何かなんだろうって――

 

「ぼく、一人で遊んでるの?」

 

 女の人が一人でぽつんと佇んでいた。ここらへんで見たことのない不思議な恰好をして、どういうわけか人形を二つ腕に抱えていた。日の光を反射してさらさら揺れる金色の髪を掻き上げながら、お姉さんは青い目でじっと僕を見つめながらそう尋ねてきた。優しい声だったけど、顔はちっとも笑っていない。冷たい目を向けて、唇をまっすぐ一文字に引いている。

 声をかけられるまで、僕は全く気が付いていなかった。

 

 僕は心臓をつかまれたみたいに身動き一つできなかった。明るい日差しの下にいるはずなのに鳥肌が立って、まるでひどい寒さが忍び寄って来たみたいだった。

 

 黙っているとお姉さんがゆっくりと近づいて来る。僕はそのまま背を向けて逃げ出したかったけど、足が言うことを聞いてくれず棒立ちのまま立ち尽くしていた。

 お姉さんはすぐ近くまで来るとじっとり汗ばむ僕の手を取った。柔らかくて、ほんのり冷たい真っ白な指先が僕の手の甲を握る。まるで幽霊みたい。

 心臓がすごい速さで音を立てている。必死で力を込めている僕の両足は震えて、今すぐにでもへたり込んでしまいそうだった。

 お姉さんは僕の手を取ると、ゆっくり歩きだした。歩き出したお姉さんに引っ張られて、僕も一緒にふらふらと足を進める。振りほどこうと思ったけれど体がうまく言うことを聞かない。このまま手を引かれてどこか知らないところへ連れていかれてしまうんじゃないかと思うと、怖くて怖くてどうしようもなかった。

 

 けれど僕の想像とは裏腹に、お姉さんはすぐそばの石の上に腰掛けるとその隣に僕のことを座らせた。

 手に持っていた籠から何かの包みを取り出すと、お姉さんはそれを膝の上で広げ始めた。中から出てきたのは見たことのない三角形の白い板のようなもの。間には野菜と肉らしきものが挟まれている。それから、甘い匂いがする小さな「おかき」――

 

「お腹空いてない? 一緒に食べましょう。よかったら、ぼくのお話を色々と聞かせてほしいんだけど、いいかしら?」

 

 そう言ってお姉さんは笑みを作った。

 その顔を見て僕は固まってしまった。ついでに猟師のおじさんを思い出した。そう、野ウサギが罠にかかったのを確かめる時の、あの顔にそっくりだった。僕はどうしていいか分からなくて、ただ黙って手元を見ているしかできなかった。

 

 僕が黙りこくっているとお姉さんはどう思ったのか、おかきを一つ手に取って食べた。

 モグモグしているお姉さんを呆然と見ていると、「ちゃんと美味しくできてるわよね……」と小さくつぶやいた。でも、お姉さんの顔はあんまり美味しそうにしているようには見えなかった。

 

「もしかしてクッキー、食べたことないの? 大丈夫だから、食べてごらんなさい」

 

 お姉さんはもう一つおかきをつまむと、僕の顔にそれを近づけてくる。

 

「ほら、食べさせてあげるから。あーん」

 

 そう言いながら、どうしてか自分も大きく口をあけながらこちらに迫って来る。僕がこれにかぶりついたらお姉さんも僕にかぶりつく気なんだろうか。

 もうどうしていいのかわからない。これを食べたらどうなってしまうのか、お姉さんが何をしたいのか、僕には何も考えられなかった。

 じっと見つめてくるお姉さんの圧力に負けてしまい、思わず口を開けてしまう。お姉さんは指を伸ばして、僕の舌の上にそっとおかきを置いた。

 

 途端、口の中に広がった甘みに僕の目が見開かれる。

 それは純粋な驚きだった。さくりとした歯ざわりとともに、噛みこむほどにほどけてゆく甘さと香ばしい香り。今まで食べたどんなものよりも美味しく感じられて、口の仲が一気に唾で溢れかえる。

 

「おいしい……」

 

 こんな状況なのも忘れて思わず口元がにやけ、ぽつりと言葉がこぼれてしまう。それほど衝撃的な味だった。

 

「ふふっ……よかった」

 

 その言葉を拾ってお姉さんが笑った。ちらっと顔を見ればやっぱり笑ってはいないんだけれど、ほっとしたみたいな、嬉しさをにじませたそんな声色だった。

 

 だからなのか、その時僕はお姉さんの顔を怖がることなく、初めてじっくりまじまじと見つめることができた。

 

 空の色みたいな青い目はぱっちりと大きくて、秋の田んぼみたいな金色の髪がゆるく巻いて頬へと流れている。障子の紙よりも白い肌に乗った薄い桃色の唇が僕の目を惹く。つやつやでとても潤っているように見える。

 くっきりとした目鼻立ちは村の女の人達の中では見たことのない全然違う雰囲気をしていて、なにより、とっても綺麗な人だった。

 にこっとせず、ずっと難しそうな顔をしているんだけど、よくよくみればその眼差しは柔らかい。

 

 その目にじっと見つめられて、僕は思わず目をそらしてしまった。恥ずかしさで顔が熱くなっていくのがわかる。きっと、僕は耳の先まで真っ赤になっているんだろう。

 気が付いたら鳥肌は引いていて、さっきまでとは違った意味で心臓が大きく音を立てた。どうしてか落ち着かなくなってくる。けれどそれは嫌なものじゃなくて、どこかくすぐったいような、むずかゆいような、そんな感覚がしていた。

 

「お姉さん……名前、なんていうの?」

 

 気付けば僕は尋ねていた。

 僕がそんなことを言うとは思っていなかったんだろう。お姉さんは少し驚いたように目を丸くした。そしてなんだか嬉しそうにして名前を教えてくれた。

 

「私はね、アリス。アリス・マーガトロイドっていうのよ。ぼくのお名前も教えてくれる?」

 

「小朗……」

 

「そう……じゃあ、ころくんって呼ぶわ。ねえ、ころくんのお話、聞かせてちょうだい」

 

 アリスお姉さんはそう言った。少しだけ口の端を持ち上げるような微かな笑みが、不思議と優しそうに見えた。

 

 

 

 

 それからアリスお姉さんと僕はいくつか話をした。お姉さんは僕がどんな暮らしをしているのかとか、家族との様子だとか、そんな大して面白くもなさそうな話をとても興味深そうに聞いてくれた。僕がいつもやっているように虫を取ってみせるとすごい上手だねと褒めてくれたし、友達とやっているけんけんぱを教えると、一緒になって遊んでくれた。

 反対にアリスお姉さんは自分が作った人形を見せてくれた。それぞれ名前を上海人形、蓬莱人形といって、糸を使って動かした二つの人形は滑らかな動きで踊りを踊ってみせてくれた。僕はそれに驚いて何度も動かしてみてほしいとお願いし、アリスお姉さんは嫌な顔せず、素敵な踊りを繰り返してくれた。

 

 ふとした拍子に、もしかしたら人形がひとりでに動いているんじゃないかと思うときがあった。糸をつないで操作しているとは思えない複雑な動きを繰り返して、どう考えても両手の指じゃ足りないんじゃないかと思うようなことでさえ、アリスお姉さんは簡単にやってみせた。この目に見えている糸は、本当に生きて動いている人形たちをごまかすためのただの飾りなのかもしれないだなんて、なんとなくそう思ってしまった。

 

「まるで人形が生きてるみたい……」

 

 ぽつりとそうつぶやくと、アリスお姉さんは笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、そう言ってもらえると私も頑張ったかいがあるわ。上海も蓬莱も喜んでる。ね、上海、蓬莱」

 

 まるで、本当に人形がその言葉を理解しているみたいにして声をかける。生きているものにかけるのとおんなじ声色で。

 上海人形と蓬莱人形はその言葉を受けて、喜んでいるように飛び跳ねる身振りをする。ガラス玉でできた黒い瞳がこっちを見つめている。その奥に人形の振る舞いをするなにかが潜んでいるかもしれない。

 そもそもこの人形たちは本当に人形なんだろうか。本当はもっと別の何かが形を変えていたりするだけだったりとか、そんなことはないんだろうか?。

 想像して僕は急に怖くなってきてしまった。

 そして、それをアリスお姉さんに気付かれないように大きな笑顔で誤魔化した。

 

 

 

 気が付けば日はだいぶ傾いていた。カラスの鳴き声が遠くで聞こえて、雲が夕日で赤く染まり始めていた。ここは山の影だから、日が沈んでしまう前からぐっと暗くなり始める。アリスお姉さんとの話に夢中になりすぎていて、時間がたつのを忘れていた。

 

 少しばかり忘れすぎてしまった。

 

 アリスお姉さんと過ごした広場にもくらやみが忍び寄り始めていた。とっくに長く伸びきった影法師さえ、もう山の端に消えかけている夕日と一緒に薄くなっていく。枝の間から差し込んでいた木漏れ日が途絶えて、暗く、冷えた風が吹いてくる。肌に再び鳥肌がぷつぷつと立ち始めたのがわかった。

 

「あの、アリスお姉さん……僕ちょっと長居しすぎちゃったみたいだから、そろそろ帰るね。母さんに怒られちゃうんだ」

 

 慌てて僕はそう切り出した。でも、なるべく冷静に。焦ってることがばれないように。なぜだかそうしないといけないような気がしていた。

 

「……そうね、私も夢中になりすぎちゃったみたい」

 

アリスお姉さんも静かにそう言った。でも、気のせいかその声がなんだか硬い。

それからアリスお姉さんは周りに目をやって、もう一度僕に向かって言った。

 

「ねえ、大事なことを思い出したの。だからもう少し待っていてくれないかしら」

 

 暗くなってきた広場では、もうアリスお姉さんの顔はよく見えない。明るい色の髪の毛と、白い帽子の形だけでかろうじて姿が見えているだけだ。けれど、その眼だけはらんらんと光を反射している。青い光でこちらをじっと見るその目は昼間の温かさを忘れてしまったかのように冷たく輝いて見えた。

 

「っ……!」

 

 生唾をごくりと飲み込む。刺すような光がそこにあった。

 

「その、僕っ、帰るから……!!」

 

 急いで踵を返して走りだそうとする。家までの距離はそんなに遠くない。裏山から続く山道は、ちょっと暗くても家に辿りつくことができるくらいにはよく知っていた。暗い山の中を通り過ぎるのはとても怖かったけど、それ以上にアリスお姉さんのことが恐ろしくなってしまっていた。

 

 慌てて駆けだした僕は、勢い余ってつんのめる。どうしたんだろう。引っ張られた腕が伸び、肘のあたりに痛みが走った。僕の右腕を何かが締め付けている感触がする。

 

「えっ……」

 

 恐る恐る振り向く。右腕に白い指が絡みついていた。

 どうしてなんだろう。アリスお姉さんが腕を伸ばし、僕の右手首をしっかり握りしめていたのだ。

 

「お、お姉さん、何? どうしたの……僕帰らないと」

 

 震える声で僕は言った。歯がカチカチと音をたてる。

 アリスお姉さんの手はこんな細い指のどこにそんな力があるのかと思うほど、ぎちりと僕の手首を捕まえて離さなかった。

 うつむいているアリスお姉さんの顔はよく見えない。くらやみの中でぼんやり浮かぶその姿で、僕の問いかけに応えず黙り込んでいる。

 昼間の間は考えないようにしていた事がむくむくと僕の中でわきあがってくる。アリスお姉さんは、いったい何者なんだろう。僕はそのことを尋ねなかった。聞いてしまったらいけない気がしたから。

 

「お姉さん、手が痛いよ……離してくれないと僕、家に帰れないんだけど……」

 

 けど、先送りにしていた事実が今僕に降りかかっている。アリスお姉さんが――得体の知れないモノが、僕の手を捉えて離さない。背骨の真ん中に何かが刺さったみたいに、僕の背筋が痺れて凍り付く。膝ががくがくして、立っているのがやっとだった。

 

 けれど、力ずくで腕を振り払おうとすることはどうしてもできなかった。

 それをしてしまったら、後戻りできなくなる気がして。一緒にお昼を食べて、話をして、一緒に遊んだアリスお姉さんが偽物だったのだと認めてしまう気がして。自分の手をつかんで離してくれないお姉さんが、恐ろしいなにかだと判明してしまう気がして――そうしたら、もう僕は耐えられない。

 どうにか必死で恐怖を押さえて、あと一歩のところで踏みとどまっていた。喉元まで悲鳴が出かかっていた。目に浮かぶ涙をぎりぎりまで堪え、何でもないような顔をしていた。でも、もうだめかもしれない。

 あと何かがあればきっといろんなものが決壊してしまう――そんなときだった。

 

「小朗! どこにいるの!? 返事をして!!」

 

 木々の奥から声が聞こえてきた。僕ははじかれるように顔をあげた。心の奥にポツリと火が灯ったようだった。

 聞き間違えようもない――それは母さんの声だった。

 

「母さん! ここだよ!!」

 

 僕は大きく息を吸い込んで叫んだ。涙声交じりになってしまい、うまく声を出せなかったけれど、その声はちゃんと届いてくれた。

 

「小朗!!」

 

 茂みの奥から声がすると、その姿がやっと目に入った。なかなか帰ってこない僕を心配してくれたのか、頭に手ぬぐいを巻いて袖をたすきにかけた姿のままで、母さんは広場の縁までやってきた。きっと、夕飯の支度を放り出して探しに来てくれたんだろう。汗だくで疲れた顔をしていたけれど、僕の姿を見つけるとホッとした表情になって笑みを浮かべた。

 

「まったくもう! 暗くなる前には帰ってきなさいっていつも言っているでしょう? 心配ばっかりかけて、本当にあなたって子は!!」

 

「うう……ごめんなさい!」

 

 叱りつけるように吊り上がった目じりには、ほんのりと涙が浮かんでいた。かなり心配させてしまったみたいだ。いつもだったら怖くて縮こまってしまう母さんのお説教だけれど、この時だけは心からホッとした。体を縛っていた恐怖が、すっとほどけて消えていくようだった。

 

「もう、しかたないわね、ほら、早くおうちに帰りましょう。みんなあなたの帰りを待ってるんだから。さあいらっしゃい」

 

「うん!」

 

 そういって母さんに駆け寄ろうとしたのだけれど、腕を引かれてはっと思い出した。僕はまだアリスお姉さんに腕をつかまれたままだったのだ。

 

「母さん、助けて! お姉さんが僕の腕を離してくれないんだ!」

 

 僕は母さんに向かってそう叫んだ。母さんはアリスお姉さんの存在に今気が付いたみたいに、驚いて目を見開いた。

 一瞬、母さんを大変なことに巻き込んでしまったことに気付いて怖くなった。もしかしたら、母さんも一緒に捕まってしまうかもしれない。だけど、もうこれ以上怖い思いをしたくなかった。母さんと二人で一緒に家に戻るんだって、そう強く思った。

 

「母さ――」

 

「小朗くん」

 

 僕が母さんに声をかけようとしたとき、アリスお姉さんが僕の名前を呼んだ。

 その声に、はっとして僕はアリスお姉さんの方を振り返った。

 

 青い瞳がじっと正面を見つめていた。

 

 その先にいるのは僕じゃない。僕に声をかけたのに僕のことを見向きもせず、瞬きもしないで一つのモノへと視線を向けていた。

 その様子に僕は息をのむ。

 

 アリスお姉さんは目つきを鋭くして僕の向こう側を――母さんのことをじっと睨みつけていた。暗くて表情はよくわからないけど、その目に映る光は僕が今日見たどんなものよりも冷たくて、険しかった。

 

「行ってはだめ」

 

 僕が痛いと言ったからか、いつの間にか僕の手首を握りしめた力は少し緩められている。けれど、決して離してしまってはいけないというみたいに、懸命に訴えかけるように、アリスお姉さんの指はきつく結ばれていた。

 

「アリスお姉さん……?」

 

 僕はその様子に困惑した。だって、アリスお姉さんの態度は、危険なところに近づこうとする子供を必死で引き留めているみたいだったから――危険なところって、いったい何のことだろう?

 

 僕はもう一度振り向いた。山の影を背にした暗がりの向こう側で母さんが心配そうな顔をしている。

 

「小朗! こっちへ来なさい! 急いで!」

 

 おろおろと手をさまよわせながら、僕のことを呼んでいる。今にも泣きだすんじゃないかというくらいに、眉をハの字に歪めて、必死で僕に声をかけている。その姿に僕の心もぎゅっと締め付けられる。こんなに母さんに心配をかけてしまったのは生まれて初めてだった。

 

 でもなんでだろう。僕はその様子を見て一歩後ずさりをする。

 口の中がからからに乾いて、冷や汗が止まらない。さっき母さんの声を聞いたときに心に灯った火が、名前を呼ばれるたび、急激に小さくなっていくように思えた。

 

「ねえ、母さん……」

 

 擦れた声が僕の喉から出る。その続きを僕は心の中でつぶやいた。

 

 ねえ、どうして母さんは、山の奥側からやってきたの?

 なんで母さんの顔は、こんなに暗いのにはっきりと僕の目に映っているの?

 

 震える足でもう一歩下がれば、後頭部にぽすんと柔らかなものが当たった。

 いつの間にか立ち上がっていたアリスお姉さんが、僕の肩に腕を回して近くへと引き寄せてくれた。柔らかく、ひんやりとした手のひらで、冷や汗の浮かんだ僕の額を優しく撫でてくれた。

 

「大丈夫。ころくんは絶対にお母さんのところに返してあげる。約束するわ」

 

 僕はアリスお姉さんを見た。相変わらず暗くて表情はよく見えない。

 

「それと――私のこと、信じてくれてありがとう」

 

 でも僕にはその言葉だけで十分だった。

 

 

 

 広場が静かになっていた。

 いつしか母さんは僕のことを呼ぶのをやめていた。虫の声も、獣の遠吠えも、木の枝のざわめく音さえ聞こえてこない、耳に痛い静けさだけが辺りに満ちている。

 

 母さんは――母さんの姿をしたナニかは、無表情で僕のことをじっと見ていた。

 青白い顔の真ん中に虚穴のような暗い瞳が二つ、ぽっかりと口を開けている。母さんと似ても似つかないその姿が、真っくらやみの中で、やけにはっきりと浮かび上がっている。死人みたいなやせ細った指先で、こちらのほうに手を伸ばしている。

 さっきまで僕はあの手を取ろうとしていた。

 アリスお姉さんが僕の手を必死で捕まえていてくれなかったら、僕はいったいどうなっていたんだろう。

 

「アァ……」

 

 身を震わせるようなこの世のものでない音が広場に落とされる。

 それは目の前のナニかから発せられた。

 

「口惜しや……口惜しや……邪魔だてせずともよいものを……久方の獲物を魔女に取らるとは……ああ口惜しや……」

 

 ぶつぶつとつぶやきながら、こちらへとにじり寄ってくる。僕は怖さで腰を抜かしそうになりながらも、その口から聞き逃せない言葉が飛び出してきたことに気が付いた。

 今、目の前の幽霊は何て言った? 魔女って、そう言ったんじゃないだろうか?

 

 僕の疑問に答えるように、アリスお姉さんは行動を起こした。

 

「上海、蓬莱」

 

 アリスお姉さんが声をかけると二体の人形が輝きだし、一瞬の後、その姿を変えていた。

 いつの間にか上海人形と蓬莱人形は、その手に丈を超えるほどの鋭い槍を構えていた。

 アリスお姉さんの手の動きに合わせるようにして、二体の人形は昼間に見せてくれたのとは比べようもない速度で幽霊へと飛び掛かる。

 アリスお姉さんの手と人形は微かに光る長い糸で連結されているみたいで、それは人形たちの後に七色の軌跡を残しながらまばゆい光の輪を描いている。

 その幻想的な光景に思わず僕は見入ってしまっていた。

 

 人形たちに突撃された幽霊は、槍の穂先が触れるかどうかという瞬間にぶわりと霧散した。退治したのかと一瞬思ったのもつかの間、僕のすぐそばで嫌な気配が蠢いた。

 振り返ると、手を伸ばせば届くかという近さでおぼろげな姿が像を結んでいる。真っ黒な目をしてこちらを睨み、ぎりぎりと歯ぎしりのような音をたてながら、それは僕とアリスお姉さんへと飛び掛かってきた。

 

「う、うわあっ……!」

 

 悲鳴を上げて手で顔をかばった僕の目の前で、幽霊は七色の光に阻まれる。アリスお姉さんの指先から伸びた光る糸が、幽霊をすんでのところで押しとどめていた。

 

 けれどもう一度幽霊は姿を隠す。

 

「ひひひひ」

 

 周りのいろんなところから、ぞっとするような声が響いてくる。

 僕は震えながら辺りを見回した。枝の影、茂みの奥、岩の裏側、いたるところの暗がりに目を走らせるとそこに青白い影が見えるような気がして、不安になってアリスお姉さんの方を見た。

 

 アリスお姉さんは目を閉じていた。そしてそのまま両腕を勢いよく振り上げると、それにつられるように光る糸が四方八方に網目のように伸びていった。暗い広場に一瞬色とりどりの光があふれだし、昼間のようにまぶしく彩られる。

 光にあぶりだされるようにして暗い影が形をとった。たちまちのうちに幽霊に向かって糸が集中する。蜘蛛の巣に捕まった虫みたいに幽霊がもがいたけれど、あっというまに雁字搦めに縛り上げられていた。

 

 アリスお姉さんは手のひらを天に掲げた後、一気に引き絞るように下へと振り下ろす。その動きに合わせて糸は引き寄せられ、幽霊を締め上げる。苦しげに暴れる幽霊だったけど、糸から逃れることはできないみたいだった。

 すぐに躍りかかった上海人形と蓬莱人形によって身動きの取れない幽霊は引き裂かれ、叫び声をあげた。

 錆びた刃物を擦り合わせるような絶叫に、思わず僕は耳をふさぐ。その音もやがてか細く消えていくと辺りに静けさが戻って来た。

 

 今度こそ終わったんだろうか。聞こえるのは僕の心臓の音と、アリスお姉さんの息遣い。

 遠くから風に乗って、誰かが名前を呼ぶ声がする。それも複数。

 はっと気づいて僕は耳をすませる。微かに聞こえたのは、隣の家のおじいさんと猟師のおじさん。それから父さんと兄さんの声だ――

 みんなが僕のことを探しているみたいだった。

 

 僕はアリスお姉さんの方を見た。

 

 広場にはまだ消えかけている僅かな光が残っていて、アリスお姉さんの姿をうっすらと映し出していた。虹の色に包まれたアリスお姉さんは僕を見た。

 

「大丈夫、心配しないで。途中までついて行ってあげるから」

 

 青の瞳に七色を映し出して、優しい笑顔で微笑んだ。綺麗で、幻想的なその姿に僕の心臓はどきりと跳ね上がった。

 

 

 

 僕とアリスお姉さんは手を繋いで山道を歩いた。

 昼間とは反対に、僕がアリスお姉さんの手を引いていた。手のひらから、アリスお姉さんの指の柔らかな感触とひんやりとした温度が伝わってくる。きゅっと少し握る力を強めたら、アリスお姉さんもそれに合わせてきゅっと握り返してくれる。

 僕の手のひらは、緊張でじっとりと汗ばんでいる。

 昼間に通る山道はそんなに長くないんだけど、夜に通る暗い山道はずっと続いているんじゃないかと思うほど長い。僕はいつも、早く終わらないかと思いながら駆け足でこの道を通るけれど、どうしてか、今だけはもうちょっと続いてくれてもいいかもしれないって思っていた。

 

 やがて道が途切れて、家の明かりが見えてきた。家の周りでは、松明をかかげて、村の人たちがせわしなく動き回っていた。きっと僕を探している。

 村の人たちに囲まれて母さんの姿があった。俯きながら顔に手を当てて、涙をこらえるように肩を震わせている。隣の家のおばさんたちが、一生懸命言葉をかけて慰めている。

 

 その姿を見て僕はたまらずに駆けだしていた。

 

「母さん!!」

 

 大きな声で叫んだ。母さんははじかれたように僕の方を見た。そして、立ち上がって、飛び出していった僕を両手で受け止めてくれた。

 

「小朗っ! 無事なのね、どこにも怪我はないのね!?」

 

 あふれ出した涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、母さんは僕の体のあちこちをまさぐる。僕は母さんの胸元に顔を埋めるように抱き着いて、両手を背中に回した。僕を抱きしめる母さんの手は温かく、ぎゅっと押し付けた鼻から母さんの匂いがする。

 ああ、本当の母さんだ――そう分かって、涙があふれだした。

 

「うん、大丈夫、大丈夫……!」

 

 涙声で、ただそれを繰り返すしかできなかった。

 包まれた温かさに、ずっと張りつめていた緊張がほどけていった。僕は戻ってきたんだと、この時実感した。

 

 そうしている内に周りの大人たちも僕が戻ってきたことを皆に伝えに行った。僕を探しに行ってくれた父さんや兄さん、隣近所のおじさんたちも、次々と無事に戻ってきたみたいだ。

 僕はしばらく呆然と母さんを抱きしめて涙を流していたけれど、ふと大事なことを思い出して山道の方を振り返った。

 

 そこには誰もいなかった。

 山道に続く坂の入り口の奥には暗い闇がぽっかりとあいているだけだ。七色の光も、不思議な人形たちも、あの青い瞳も、もう影も形も見当たらなかった。

 

 なんとなく僕はそんな気がしていた。

 僕が母さんの姿を見て駆けだしたとき、アリスお姉さんとつないだ手をとっさに放してしまった。

 そのときに僕とアリスお姉さんのつながりは切れてしまったんだろう。僕と、アリスお姉さんが戻る場所はきっと違う。僕が家に帰ったように、アリスお姉さんも帰ってしまったんだ。

 まるで全部夢だったみたい。

 

 僕はお礼を言っていないことを思い出した。だから大きく息を吸い込んだ。涙声にならないよう気を付けながら、遠くに向かって声を張り上げた。

 

「ありがとう、アリスお姉さん!」

 

くらやみに風が吹いて、ざわめきの音がするだけで、どれだけ待っても返事はなかった。

だけど、きっと届いてくれたかな――アリスお姉さんのあの微笑みが思い浮かんだ。

 僕はそのことを信じて、夜の山に背を向けた

 

 

 

 

――――――――――――――――――

 

 

 

 パタンと扉の閉まる音が響いた。天井に吊り下げられた真鍮のランプが点灯し、真っ暗だった部屋にオレンジ色の柔らかな光が満ちていく。役目を終えた白の帽子を帽子掛けにひっかけ、手に下げた編み籠はテーブルの上へと投げ出される。椅子を引いて柔らかなクッションの上にぽすんとお尻を乗せたところで、アリスは深々と息を吸い込み、そして長く吐き出した。

 

「ハァ……疲れた……」

 

 心底くたびれたといわんばかりに張りのない声をあげて大きく伸びをしたアリスは背もたれに深く身を預けた。天井を仰いで手足を投げ出し、半開きの口からため息を漏らすその様子は、先ほどまでの凛々しいお姉さんといった趣の一切合切を放り捨てていた。

 

「上海も蓬莱もお疲れさま、ありがとー」

 

 間延びした語尾で上海と蓬莱をねぎらうと、ふよふよと寄って来る二体を抱き寄せて頬ずりする。久方ぶりの外出は彼女にとても大きな負荷をかけていた。

 

「まさかホントに最初から戦うはめになるだなんて思わなかったわ……」

 

 あんまり得意じゃないのだけれどね、とアリスは独り言ちる。

 外出のために気合を入れて準備していたのはサンドイッチと格好だけではない。好戦的な妖怪に襲われたときのことを想定した戦いのための術は、上海人形にも蓬莱人形にもそれなりに仕込んであった。それがここまで早く日の目を見ることになるとはアリスも思っていなかったのだが。

 

 この日アリスが初めて出会ったのは純朴そうな少年だった。

 魔法の森を出て、そこまで離れていない場所に人間たちの集落があったのにはアリスも少々驚いたが、その中でちょうどよく一人でいた少年を見かけたアリスはさっそくとばかりに接触を試みた。

 ファーストコンタクトの相手として子供を選んだのはあえてのことだった。長いこと人間に接することのなかったアリスは、実際のところ見かけよりもだいぶ緊張していた。大人の人間相手にぼろを出して武器を向けられることを想像して気後れしていたアリスにとって、一人で遊んでいた少年は実にちょうどいい獲物に見えていた。子供ならば警戒心が薄いだろうし、多少怪しまれてもうまく言いくるめて誤魔化すことができるだろうと踏んでのことだ。

 実際に今日一日はなかなかに上手く少年とコミュニケーションをとれていた気がする――最後の方は妖怪から守るために、仕方なく魔法をつかってしまったのだが、それでも明らかに魔法を使って見せた自分相手に少年は向こうの方から手を握ってくれた。

 至極穏当に別れを済ませたことも含め、十分な結果だとアリスは自画自賛していた。

 

 アリスが満足げに笑みを浮かべようとしたときだった――

 

「お疲れさまね、アリス。フフ、今日はいいものを見せて頂きましたわ」

 

「ひゃうっ!?」

 

 静かな部屋に突然声が聞こえ、アリスは素っ頓狂な叫びを上げた。

 驚きのあまり、体重をかけた背もたれの方向にバランスを崩す。その結果、アリスは勢いよく後ろにひっくり返った。

 バタンと部屋全体を揺るがすような振動が響き渡る。

 ひっくり返った椅子とその上空の間で二者の視線が交差すると、突然の訪問者――八雲紫は「あっちゃー」とでもいいたそうに気まずげに目をそらした。

 

 この神出鬼没の隙間妖怪はたびたびアリスの元を訪れるようになっていた。

 その用件の大半は他愛のない雑談だったり、単に愚痴をこぼしに来るだけだったりする。時たま意味深なことを言って何かしらの示唆的なものをアリスに残していくのだが、結局のところ、アリスにとってみれば特に自分のところへやって来る意味がよく見いだせないのだった。そしてその訪問はこうしてよく不意打ち気味に行われることがしばしばだった。

 

「紫……どういうことかしら」

 

 無表情を張り付けてアリスは紫に尋ねた。なにもありませんでした、とでもいうような態度でゆっくり地面から立ち上がって椅子を元に戻し、スカートのすそを手で払う。その手が僅かにプルプルと震えているように見えたが、紫はそれに特に触れることなく話を続けた。

 

「あら、出不精だったあなたがようやく外出するっていうんだもの。これを見逃す手はないでしょう?」

 

「私のことをずっと監視していたってこと? 」

 

 不機嫌さをにじませてアリスが睨むも、紫はどこ吹く風だ。

 

「今は結界ができて箱庭が立ち上がったばかり、何かよからぬことを考える輩がいないとも限らないのだもの。あなたがそうだとは思っていないけれど、万が一がないよう見守っておく必要があるのは当然のことと思わない?」

 

 そもそもこの八雲紫がもつ能力をもってすれば、どこにいても相手に気付かれずに見張ることはたやすいだろう。彼女の扱うスキマとはどういった原理か異なる二点間の距離を無視してつなげることができる。そんな相手に隠し事をしようとするのは至難の業だし、もともとアリスも隠していたわけでもない。

 管理者としての建前を振りかざす紫に不毛な反論を重ねても無駄だと思いつつ、なぜか上機嫌の紫にアリスは眉を顰める。どうにもやけにテンションが高い。

 

「それにしても……」

 

 もったいぶるように言葉を切って紫はアリスをみる。瞳を輝かせて、愉快そうな調子で尋ねる。

 

「やるじゃないの。今日一日でショタのハートをがっちりと捕まえてくるなんて、流石は引きこもっても魔女というところかしら。横から見てて思わずにやにやさせられてしまいましたわ」

 

 扇子でつついてくる紫の反応に、アリスは思わず目を丸くする。

 

「でも、一歩間違えたらあのアプローチは不審者のそれではなくて? まあ、今回は結果オーライだったけれど、流石にどうかと思うわよ」

 

 やれやれと首を振るように紫は嘆息する。だがその物言いにアリスは怪訝そうな様子で言い返した。

 

「ええ? ショタって……なんのことよ……別に変なことはしていないわよ? きちんと淑女の振る舞いを心がけてたじゃない。あれで模範回答だったと思うのだけれど。」

 

 素で疑問を浮かべるアリスに紫は思わず「えっ」と声をあげる。

 

「いやあなた……いきなり声かけて驚いてる男の子相手にご飯食べましょうって、そんな普通だったら警戒して口付けるわけないじゃない。無理やり食べさせてたけど、逃げられてもおかしくないわよ?」

 

「あの子そんなに警戒してたかしら? 確かになんだか緊張してたとは思ってたけど……」

 

「それに人形を踊らせて見せていたけど、ちょっとやりすぎよ。途中からあの子のあなたを見る目がすごいことになっていたけど、気付かなかったのかしら?」

 

 唇に指をあてて考え込むアリスを見て、紫はなんとも言えない表情になる。

 

「あなた何にも分かってなかったの? てっきりわざとやってるものだとばかり思っていたのだけど」

 

「……もしかして私、怖がられてたのかしら」

 

「当たり前でしょう」

 

 おそるおそる尋ねるアリスを、何をいっているんだとばっさり切り捨てる紫。

 見当違いの事実に、アリスは両手で顔を覆う。

 何が模範解答だったのだろう、なんだか恥ずかしくなってきた――そんな様子のアリスを見て紫は少し笑うと、言葉を続ける。

 

「まあ、途中から恐れが反転して強い憧れに変わっていたから、きっとあの子はあなたのこと忘れないと思うわよ。むしろもう初恋のお姉さんがあなたって感じね?」

 

「それはちょっと大げさじゃない?」

 

「あなた、あれだけのことやっておいてそれはないんじゃないかしら。本当に何もわかってなかったのねえ……」

 

 呆れたようにため息をついて、処置なしとばかりに紫は手のひらをひらひらと振る。その様子がどうにも面白くなくて、アリスが反論の言葉をかけようかと口を開こうとしたときだった。

 

 

「ですけれど――」

 

 紫が居住まいを正し、纏う空気を変える。部屋の中がぴりりと僅かな緊張に包まれた気がした。

 自然にアリスの背筋も伸びる。

 

「今日の様子を見る限りあなたに問題はなさそうですわ。アリス・マーガトロイド――あらためて、ようこそ幻想郷へ――この箱庭は、あなたを歓迎します」

 

 怪しく、艶やかに、笑みを浮かべた妖怪の賢者をアリスは見た。その目に浮かぶ光が何を宿しているのか、見極めようとするように、紫とアリスはしばらく視線を絡ませあう。短い沈黙が二人の間に降りたあと、紫はおもむろに口を開いた。

 

「まあ、そろそろお暇するわ。フフ、そうね、もしも恋文の一つでもあったら届けて差し上げますわ――」

 

 パチリと扇子の閉じるの音とともに、紫はアリスの前から消え去った。

 あっけにとられて虚空を見つめていたアリスだったが、気配がもうどこにもないことを確かめると、ため息を一つついてベッドに横たわった。

 

「歓迎、ね。何を改まって……いったい何をしに来たのやら」

 

 おそらくは単純にからかいに来ただけなのかもしれない。紫の行動の意図を読み解こうとしても、たいていは煙に巻かれて徒労に終わるだけだ。そこそこの付き合いで、アリスはそのことを思い知っていた。

 

「幻想郷、ね……」

 

 告げられた名前をぽつりとつぶやく。いずれ幻となり消え去る運命にある者たちが集う箱庭の名前としては、安直だがピッタリのネーミングだ。紫はその住人としてアリスのことをどうやら認めてくれたらしい。そのことだけでも、今日の外出に収穫はあったのかもしれない。

 

「そうね、とりあえず恋文は遠慮しとくわ……」

 

 疲労からくる睡魔にあらがうことなく、アリスはそれに身をゆだねた。小さく欠伸をしてベッドに潜り込むと、上海と蓬莱を隣に寝せる。

 まどろみの中にアリスは沈んでいく。

 

 おめでとう。よかったわね、アリスちゃん――

 

 途中で酷く懐かしい声が聞こえたような気がした。けれど、それが誰のものだったのか、いつ聞いたものなのか、思い出すことはなかった。きっと、明日には忘れてしまうだろう。

 

 

 明りの消えたアリス・マーガトロイド邸には月の光が差し込み、規則正しいアリスの寝息が響いていた。どこかでフクロウのなく音がする。

 魔法の森の夜は、ただ静かに更けていった。

 




アリスお姉さんは冷え性
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