その昔、もうずっと昔。
親父が姿を消し、家出したサムを大学まで迎えに行くよりも少し前のこと。ディーンがこんな話をしてくれた。
サイコパス、レイプ犯、殺人鬼、多くの凶悪な犯罪者を捕まえてきた負け無しの捜査官が唯一イリノイの建築技師に出し抜かれてしまった。
どう考えても建築技師よりやばそうな連中を相手にしてきてるのにどうしてそうなったと、そのときは至極普通にそう思った。
────彼は逃げずに攻めに転じた、ゲームを仕掛けてきたんだ。現実から目を背けず、立ち向かうことを選んだ。
ディーンはお調子者だし、無茶苦茶なこと言うしアホなことも飽きるほど言うけどたまに、心から身に染みる言葉も出てくる。金塊を掘り当てたみたいに。
不利な勝負こそ、防戦一方になる前に九死に一生を賭けて攻めに出る。命がけの賽を振りにいく。
思えば俺たちの道のりも、そんな危なげな賭けを何度も繰り返してなんとかやってきたんだっけ。
分の悪い賭け、勝ち目のない戦いをなんとか苦々しい相打ちに持っていく。
それがウィンチェスターのお家芸、何年経とうと海を渡ろうとそれは変わらない。それがたとえ異界の神が相手だとしても。
◇
「──‥‥‥ッ!」
身動きできない首にギロチンを落とされるような恐怖が背中をスッとなぞる。
目眩ましに仕掛けた閃光は確かにプール一帯を覆い隠し、視界を奪った。が、皮膚を焦がせる温度の照明弾も弾倉一本分の鉛弾もリービアーザンには届いていなかった。
依然として上半身は人、下半身は尾ビレの人魚の体に傷らしい傷はない。
波を唸らせていたプールの水面から、リービアーザンの体を隠すようにせり上がった水の防壁が俺の撃ち込んだ弾を丸ごと飲み込みやがったからだ‥‥‥
「ヒトオス、今のはなかなか楽しめたぞ。しかし珍妙じゃ、ただの魔術ではないな。キヒヒィ‥‥‥やはりキサマは一介の術師ではないらしい。よいぞ、もっと妾を楽しませるがいい。海王自ら陸地に上がったのじゃ、そうでなくては困る」
見た目はまさに水で構築された真っ青な板。
その中には飲み込まれたパラが運動エネルギーを失った状態で貫通することなく取り残されている。
嫌な近視感を感じるのは俺だけかな。いや、あのリービアーザンの惜しげなく歯を見せての笑いはたぶん嫌な予想が当たってる。
「そもそも俺は術師とか能力者の類じゃないんだけどな。軽い気持ちでパンドラの箱を開けちまったかな」
ささやかな苦笑いで応じれば、水の防壁に飲まれている弾がその中で跳ねるように動き出す。火薬の代わりに水に押しだされるようにして勢いを徐々につけていく。
ああ、分かってる。近視感の正体は緋緋神に散々手こずらされた次次元六面だってことは。あれも弾を一方的に飲みこんで最後には‥‥‥
「だと思ったよ、ちくしょうめ!」
「曲芸が好きなんじゃろう、次はどう出る?」
防壁から小さな水飛沫があがると、くわえ込まれていた弾が反転するように俺のもとへ返ってきた。
照明弾よりも遥かに速く、火薬の代わりにヤツの魔術を通して運動エネルギーを得た鉛弾は人の肉を抉るには十分すぎる、頭蓋に貰えば普通に即死だ。
ガキの頃はプールの横は歩いて渡れ、水面の隣際は滑るから走るなと教わってきたが今日はお硬い言いつけよりも命だ。
「チッ、パンドラの箱を開けちまったら自分で締めるしかないか」
「そしてもっと大きな箱が開く。キサマに別の不幸をもたらす箱がな」
「皮肉もここまで来ると笑いがこみ上げてくるぜ。誰がホテルを修理するんだよ、マヌケ!」
もうプライベートプールにはあちこち弾痕と戦闘の跡が早くも刻み込まれてる。まあ、まじないで構築された空間なら心配ないのかもしれないが‥‥‥
少しは気にして攻撃を休めろよ、神様。
悪態をつきながら俺も否が応でも新たなカードを盤面に引きずり出される。
ドラゴンの吐息、見た目は霧吹き器の火炎放射器でこっちも牽制。彼女は魔術による水、俺はイヴの子供が吐き出す火炎で、お互いに最低限の距離をとりつつの飛び道具合戦が続く。
キンジのやつ、本当にこんな連中に完全勝利をやったのか? 人間辞めましたエピソードにまた新たな伝説が加わっちまったな、もう夾竹桃に頼んで漫画にしてもらえ。
とにかく守りが厚いのはよく分かった。
近づくには一工夫いる、かといって下手に飛び道具を仕掛ければさっきみたいにカウンターを貰う。
優雅に竪琴を奏でてるように見えて、その実敷かれてるのは抜け目ないトラップ地獄だ。
「ってぇ‥‥‥!」
脳天に貰うのだけは勘弁だが防弾制服の上から何発かは見事に貰った。9mmでも痛いのは痛いんだよ‥‥‥
とりあえずあの大事に抱えてる竪琴はラスプーチナで言うところの魔導書だ。リービアーザンは竪琴を奏でることで魔術を発動させ、奏でる旋律によって中身を使い分けてる。
恐ろしいことに異なる曲を同時に、さながら一つのピアノで2曲を同時に演奏することで二つの魔術を並行して扱うこともできる。
防壁とさっきから俺の足を切り裂こうと飛んでくるウォーターカッターみたいな飛び道具の魔術。攻防両方にキャパを割けるってことだ。
(攻守ともにほぼパーペキ‥‥‥手堅く盤面を固めやがる、ファンシーな人魚がとんでもないモンスターだったな。リービアーザン、名前が似てるだけで小賢しいだけのディック・ローマンなんかより遥かにやばい)
ディック・ローマン──忌まわしいリヴァイアサンの頭だった姑息な魔物。一瞬の隙を作って即死の武器を撃ち込んで終わらせた。
そう、何も何発も当てなくていいんだ。決定的な一発を弱いところにぶち込めばいい。ディックの腹にディーンが即死の杭をぶちこんだように‥‥‥!
「キヒヒッ、キャヒヒッ! ビャッカジー、ビャッカジー、ラリラリワー♪」
リービアーザンが笑みと共にレクテイアの言葉で新たな詩を口ずさむ。すると、せり上がっていた防壁がさらに盛り上がり‥‥‥なんてこった。
もはや見上げればならないほどの高さ、壁というより太い柱のように高く立ち昇った。まるで特大の間欠泉だ。
「‥‥‥お次はなんだ?」
突破口はある、あの竪琴はヤツの魔術を補助し戦術の根幹を支えてる。てことは、あの竪琴を壊すか奪っちまえばヤツの戦術は半壊する‥‥‥
そもそもそれが簡単にできれば苦労しないが‥‥‥
リクライニングチェアを蹴り倒し、気休めの盾にしてXDの弾薬を交換するが‥‥‥今度は真上から雨のように降り注いだ水の粒がプールサイドに用意されていたテーブルやら椅子やらを穴だらけにし始めた‥‥‥
‥‥‥あの間欠泉みたいに吹いた水の柱から、真下に水の弾丸が降ってやがる‥‥‥まるで火山の噴火だ! 無差別に、あの神様‥‥‥ばら撒いてやがるッ!
数撃ちゃ当たるってか、こんなもん避けるもなにもない。
プール全体に雨を降らせるようなもの、ただの人間に避けれるかこんなもんッ‥‥‥!
「顔色が変わったのぉ。じゃがまだ手の内は残しておる、そんな目じゃ。言葉を返すぞ、ヒトオス! 次の手を見せてみよ!」
いつだって備えがあるとは限らない。
楽しげなリービアーザンをせめて一睨みしてから──上等だ。退路がないなら、もうテーブルに首を賭けての綱渡りしかない!
「何度も何度もヒトオスヒトオス、他の言葉を知らないのか。お望みなら見せてやるよ、人間舐めたらどうなるかってことをな。次に焦るのはお前だ、フカヒレ野郎!」
「ふ、フカヒレじゃと‥‥‥!?」
新たな罵倒をもらう前に俺は、降りそそぐ雨の刃から唯一の安全圏である──リービアーザンが陣取っているプールの中へと飛び込んだ。
防弾繊維の上着は捨てたがそれでも服が一気に水を吸って重たくなる。
「‥‥‥‥血迷ったか。それとも本気で妾と水の籠のなかで死合うつもりか?」
血迷ったってほどじゃない、これでも海兵隊仕込みのスパルタカリキュラムはクリア済みだ。
基礎水中爆破訓練をパスしたアメリカ海軍特殊部隊のコリンズからお褒めの言葉を貰うくらいには水の中でも俺は動ける。
褒められた手じゃないのは間違いない、他に手があるなら喜んでそっちを選ぶさ。他の道は丸焼けだけどな。
間欠泉みたいな柱を立ち上げたせいか、最初に見たときほど波は荒れてない。
刃の雨から逃るように潜りつつ、死に物狂いでリービアーザンのもとへ泳ぐ。
水中銃だの都合のいいものはないが近づきゃなんとかなる、エンゲージのことは抜きにしてあのフカヒレ野郎に一泡吹かせてやらなきゃもう気が済まん。
去年、インパラに追われて夾竹桃と橋の上から飛び込んだ川に比べれば、遥かに澄んだ透明度の視界のなかでルビーのナイフに手を伸ばし‥‥‥
「‥‥‥ッ!? ────んッッ゛!?」
何かが俺の右足を引いた。
やばい、一気に‥‥‥体が持ってかれる‥‥‥!
何かに掴まれた。水面に上がろうともがいてもとんでもない力で足は引かれ、プールの底にひきずりこまれる。
‥‥‥この感触、腕だ。
ちッ、水かきの手だったはずなのに‥‥‥完全に俺の足をリービアーザンの手が掴んでやがる‥‥‥!
(このままだと息が持たねぇ‥‥‥一瞬で俺の真下にどうやって来やがった‥‥‥!?)
まさか水難事故でやられた幽霊みたいに水から水に瞬間移動できるのか。レクテイアの海の神、それくらいはあり得る話だ。
微かに真下へ向けた目には、クリアな水のなかで嫌なほど目立つピンクとブルーの二色の髪が揺れているのが見える。
水中をバックに妖艶な二色の髪はとんでもなく幻想的でファンタジー映画の、スクリーンの中に迷い込んじまったみたいだ。
命を賭けてる状況じゃなかったら、もっと穏やかな気持ちで見れたんだろうがな‥‥‥
プールの深さは俺の身長なんて軽く越えてる、頭までもう沈んじまった‥‥‥今はまだ息が持ってるがそうこうしてるうちに肺に水が溜まって、最後は血も酸素も頭に届かなくなる。水死体の出来上がりだ。
体を酷使するほど人間は酸素を使い、しがみついたリービアーザンの手をほどこうとすればそれだけなけなしの酸素をもっていかれる。
‥‥‥やばいな。ほぼ直立になってしまった俺の体は一方的に足から真下に引かれ、ナイフがヤツの腕まで届かない。
姿勢を変えようともがけば‥‥‥駄目だ、筋肉を動かすほど酸素が、もってか‥‥れる‥‥‥ッ!!
「‥‥‥っ! ‥‥‥、‥‥‥‥‥‥‥」
人魚は船乗りを誘い、そのまま海へと引きずり込み溺死させる。
俺は船乗りじゃない、そしてここはプールだ。何一つ合ってない。残酷な話だぜ。
口から、鼻から入り込んだ水は肺へと達し、心臓のポンプとしての役目を奪っていく。
無呼吸による血中の低酸素高二酸化炭素。体から力は抜け、意識は暗雲に攫われる。肌も血の巡りを止めて紫色にゆるりと変わっていくだろう。
ルシファーから、アラステアから、肉片一つになるまで刻まれて焼かれて文字通りの地獄を味わってきたが、それでも窒息、溺れるのは‥‥‥最低だ。
ああ、夾竹桃。
分かってるよ。俺も海、嫌いになりそうだ。
「‥‥‥‥」
「───♪ ──♪」
視界は真っ暗に染まる。
喉は痙攣し、手足は力が入らず、そして俺の意識は水に浸されたままブラックアウトした。
痛みも、寒さも、何もかも忘れるように。
‥‥‥
‥‥‥‥‥‥
「‥‥‥ふーっ、ぷっ、はぁっ! はぁ、はぁ! 油断したなアバズレ女ァ!」
「‥‥‥‥!? マ、マ゛────!?」
はっ、驚愕か、威嚇の声か。本当にアニメのケモノキャラみたいな声だな。
再起動した心臓、再び行き交う全身の血。
真っ暗闇から一気にクリアになった視界で俺は左手でリービアーザンの首を掴むのと同時に右の掌底で竪琴を強引にその手から吹っ飛ばした。
「やっとお近づきになれたな、人魚様」
目一杯に空気を吸い込み言ってやる。
ようやく
「‥‥‥キサマ、たしかに死に体じゃったぞ! 妾が心の臓を鼓動を違えるわけが────」
「死んだフリじゃ見抜かれるだろうからな。本当に死んでやったよ、高い出費だ。──逃がすか」
抜け目なく会話に乗じて、俺に首を掴まれたままリービアーザンは水中に潜ろうとするが俺はワンコンマ早く出血した無手の掌を逃げようとする首の根元に押し付ける。
亡きエイリーンお得意のケルトのまじないは首にしがみついた俺ごと、水中に逃げようとしたリービアーザンの体をプールサイドの壁まで一気に引っ張り上げる。
「──マ、マ゛──!?」
虚空でカラフルな尾ビレがジタバタと暴れるが水の中じゃなきゃその魚顔負けの機動力も意味はない。
磁石に引き寄せられるように打ち上げられた俺とリビアーザンは一緒にプールサイドに投げ出され、俺は穴だらけのリクライニングチェアの上に落下。
リービアーザンはあらかじめ俺が仕掛けた壁に描かれたケルトの紋章に背中から縫い付けられた。
「Yippee-ki-yay、ざまあみろ」
「お、おのれヒトオス‥‥‥このゲスが‥‥‥!」
竪琴を弾かれたこと、予想にしない魔術に体を束縛されたこと、果たしてどちらかに怒ってるのか。あるいはどちらともか。
明確な殺気を飛ばしながらさすがはレクテイアの神だな。もう拘束のまじないが解けかかってる。バンシーとはレベルが違う。
本当に末恐ろしいよ、リービアーザン。臓腑にロウィーナの復活の
(腸に恐ろしいもん仕込んでた価値はあったな、ゾッとするぜ)
復活のまじない、または印。
かつてケッチは母さんに心臓を撃ち抜かれ、ロウィーナはルシファーに首を折られて原型がないほどに体を焼かれてしまったが今でも現世でピンピンしてる。
それはなぜか。当然仕掛けはある。
ロウィーナが長い魔女としての人生で編み出したまじないの一つがその復活のまじない。
あらかじめ自分の体内に『呪い袋』をまじないと直接埋め込んでおくことで術師の命が止まるのに反応して肉体を再生させる
もちろん回復には傷次第で時間も変わり、ルシファーにバラバラにされたときはロウィーナも体を元の形に戻すまでひどく時間がかかった。
ま、俺の場合は‥‥‥このとおりリービアーザンが死体と思って水面に持ち上げてくれたタイミングで息を吹き返せた、こればかりは運が回ったな。
九死に一生ならぬ、一回死んで一回生を拾う。一死一生とでも言っとくべきかな。もう一度水面に逃がしたら間違いなく今度は手がつけられない。
刹那、俺の血で描かれたケルトの紋章は壁から抉られたように削れ、解き放たれたリービアーザンは尾ビレをバネのように使って飛び跳ねるようにプールへ戻ろうとする。
水中では三次元に移動できても陸地なら──まだ手がつけられる。これを逃したらもう陸に引っ張ってこれる自信はない、決定的な一発をここでぶち込む。
出血した両手を水に濡らしながら床に。
無防備なまでに背中を向けて、一見それは隙だらけの血迷った姿。
だから俺も初めて見たときは引っ掛けられた。無防備に見えて、それは猛毒を隠した『カポエイラ』でも屈指の初見殺し。
「────」
股の間から見える反転した視界でリービアーザンの瞳がカッと開かれる。
欲しかったのはたった一度の攻撃のチャンス、1ターンあれば十分だ。陸地なら人魚よりも人間の方が素早い、反転した視界で確かに狙いをつけた俺の足が鋭く半月を描く。
猛毒を秘めた危険な尾。
低姿勢から放たれる、カポエイラ屈指の火力を秘めた大振りの一撃。
当たれば毒が駆け回るように一気に相手を制圧する大技、付けられた名前が────
「
毒を備えた尻尾の一刺しは、水の中に比べれば遥かに無防備なリービアーザンの顎を捉えた。