哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

159 / 196
とびっきりの善人(遠山キンジ)

 

 

 

 

「ばうー!」

 

「うぉー! ちな選手見事なラストスパート! ほら、シフトアップシフトアップ! 前見て前見て! ほらくるぞ、最後の直進だぁー! ちな選手後続を置き去りにしていまーーゴーーール!」

 

「ちなのかちー!」

 

「ちな選手見事に優勝ー! ほら見ろ、赤い旗が振られてるぞ。わーあーー、すごい歓声! ちな選手見事に優勝ー! 優勝です!」

 

「ゆきひあ! もう一回!」

 

「ちな、もう6回も優勝しただろ。これ以上やっちゃうと他の人たちが拗ねちゃう。ちなは強すぎ、勝てないって」

 

「ちな、つよすぎ?」

 

「ああ、ものすごくな。今日はもうお休みしよ、また遊びに来るから。キンチももうお休みするって」

 

「ゆきひあもおやすみするの? おふとん?」

 

「ああ、お布団だ。お休みする。でもまた今度一緒にレースしような?」

 

「うん、やくそく! ちなとどらいぶ!」

 

「約束。また勝負しよう。じゃ、ほら、キンチのところ行こ」

 

「えいびー、さよなら」

 

「ああ、Babyさよなら。お休みな」

 

 パーキングの端からインパラに手を振り、そのままキンジの部屋に戻ると糸が切れたようなちなはすぐベッドで寝息を立て始めた。

 ったく、寝顔もこれまたおかわいいこと。

 

 

「遊び疲れたんだな。ぐーすかぐーすか、よく寝てるよ」

 

「賢い子だ。疲れてても冬は汗をかかないから寝る前にトイレに行っておけってお前の言いつけをちゃんと守ってる」

 

「それによく遊んで、よく寝るってやつもな。驚いたぜ、お前が今日会って初めての子供にインパラのハンドルを触らせるとはな」

 

「初めてじゃない。お前が言ったんだぞ、ラスプーチナを含めたら俺はちなともう会ってる。最初はルシファーに器をパクられてる状態だったが。ラスプーチナとはひどい仲だったが小さくなった今のあいつにどうこうって気持ちはわかない。ただのお友達だよ」

 

「お友達か、俺とお前みたいな」

 

「……はっ、そうだな。今日だけでも一緒にレースをやってかなり仲良くなった」

 

 

 神崎とワトソンも先に帰宅して、俺もそろそろ寮に戻ろうと玄関まで来た。腕組みしたキンジと、そういや二人だけで会話すんのも久々だな。

 寮で一緒に住んでたときは、毎日嫌でも顔を合わせて腐る程色々話してたのに………なんな妙な気分だ。どんなにどうでもいい話をしてもこの時間が貴重に思える。

 

「切、アリアとワトソンにも言ったが今日のことは礼を言っとく。ちなも楽しそうだったし、俺も少し休めた。このところ色々と気を張っちまってたから、助かったよ」

 

「ついこないだまで高校生だったのに、ある日いきなり親になったんだ。色々奔走して疲れるのも当然だよ、でもお前はよくやってる」

 

 依頼は裏の裏まで完遂、手抜きはしない。それが武偵の心得だがそれを抜きにしてもお前の行動は、一本曲がらないものが貫いてる。

 そういう支え、屋台骨がある人間はいざ非常な現実がやってきて足場がぐらついても、ギリギリで踏ん張れるものさ。

 

「子供にとっての親ってのは、安心感をくれる錨みたいなものだ。どんなに怖い思いをしてもきっと守ってくれるってそう思える人のこと」

 

「………慣れてないだろ。そんな大層なものに俺は」  

 

「慣れてるさ。いいか、俺の親父は電子レンジすらまともに使えなかったし、クリスマスプレゼントなんて酔って居酒屋でかっぱらってきたリース。どこかに遊びに連れて行ってもらった記憶はないし、キャッチボールしたいと思っても親父は代わりにボウガンの使い方を教えてきた。無茶苦茶だよ」

 

 ああ、本当に、無茶苦茶だよ。

 かなり無茶苦茶な親父だった。

 

「だけど感謝してる。飯もまともに作らない親父だったけど俺にとっちゃ支えになってくれた。お前はよくやってるよキンジ、嘘は言わない。大人になったな」

 

「あっ………ああ………いきなりマトモなこと言うなよ。温度差がいつもイカれてるんだよお前は」

 

 胸に一発、蘭豹先生直伝のグーの拳でエールを送ってやると途切れ途切れに、最後には皮肉交じりの返事がきた。

 それでこそ遠山キンジだ、真っすぐより少しひねてるほうがいい。人間味があって。

 

「それにお前と神崎が親なら、どこでも安心だ。何が来てもぶちのめせるからな。けど何かあったら電話しろ、そのときは手を貸す。最近は緊急対応部隊が楽しくなってきたからな。頑張れ、遠山キンジ。しぶとく頑張れ、持ち味だ」

 

 さて、いつまでも玄関で長話とはよろしくない。ついつい話が切れなくて、帰るタイミングをなくしちまうからな。ここらへんでサヨナラしよう──

 

「切、最後にいいか」

 

「ん?」   

 

 と、そう思った矢先だった。

 なんだろう。ちなのワンマン育児で目にクマができて、不吉そうな目元がよりすごいことになってるが少し真面目なトーンで待ったがかかる。

 

「いや、その………あれだよ。親の話してたから、その………だな」

 

「珍しく切れ味が悪いな。どうした? ウチを退学になったからって脳に変化のない日常じゃないだろ」

 

「俺は、父さんが生きてるなら、もし会えるなら──というか、元通りになるのならなんだってする。そのつもりだったんだ。けど実際に出会って、俺は不安になってしまった。俺には兄さんと違って父さんとの記憶はほとんどない、それでも思うんだ。もし記憶の中の父さんと違っていたら、元の………家族には戻れなかったら、って」

 

「………」

 

「切。お前だったらどうする、俺は正直お前に聞きたくてたまらなかったよ。ずっと無茶苦茶な道を突っ切ってきて、それでも今日みたいになんでもないって顔してお前は馬鹿みたいなこと言って、俺にはできん」

 

「キンジ、そこまで。言いたいことは伝わった。なあ、キンジ。真実ってのは複雑になりうる、相手が家族なら特にな。雁字搦めになる。だがそれはお互い様だ。仮にお父さんによほどのことがあってお前の進む道とすれ違いになったとしても、それでお前がお父さんを諦める理由にはならない、だろ?」

 

 誰もが考えるさ、大切な人が生き返るなら。もう一度会うことができるならって。

 俺だってエレンが言いつけを残さなきゃ、釘を刺してくれなかったらとっくに十字路に走って悪魔と取引してる。エレンとジョーの命が助かったなら、契約を一年まで叩き売りしてでも取引しただろう。

 

 

「命を救ってもらった一石と違って、俺はお前のお父さんには会ったことはないが。会わなくてもお前と金一さんを見てれば分かる、間違いなくお父さんはお前の幸せを願ってるよ。どこでなにをしようとも」

 

 

 金一さんとキンジを育てた人だ。それくらい会わなくたって分かる。真っ直ぐに裏表なく答えてやると、

 

「すまん、卑怯だったな。家族の話をお前に持ち出したら、きっとお前は後押ししてくれるって……俺に都合のいい答えをしてくれるって分かってて聞いた、カッコ悪いよな俺。すまん、切……家族の話は入れ込むよな、そう、だよな………」

 

 自己嫌悪、数秒前の自分を消してしまいたいってそんな顔に、俺は小さく笑ってからかぶりを振る。

 

 

「キンジ、ブラザー。入れ込んでるのは家族の話だからじゃない、お前の話だからだよ。お前が悩んでるなら助けになりたい、恩を返したいから」

 

「なんだよそれ。俺はお前に恩なんて………」

 

「何度も命を救ってくれた、悩みを聞いてくれて、一緒に遊んで、楽しい時間を一緒に過ごしてくれた。メアリー母さんを………母さんと呼べるようになったのはお前と神崎のお陰だ。返しきれない恩だよ」

 

 そう、だから。

 門と扉、正反対の方向を向いてるがそれでお前の助けになっちゃいけないなんてことにはならない。

 

「どんな話でも聞く。みっともないこと言ってもいい。俺にはな」

 

「……お前、いいやつだな」

 

「マヌケ、今頃気付いたか。それじゃあな、可愛いからってあんまり娘を甘やかしすぎるなよ」

 

「余計なお世話だ、バカタレ」

 

「ふっ、()()()()か。久々に言われた、悪くない」

 

 ああ、悪くない。

 俺も、親父のこと思い出した。血の繋がりは関係ない、お前がその気になら──とことんちなに寄り添って愛情を注いでやれ。親としてな。

 

 

「今度はちゃんと忘れず真紅眼(レッドアイズ)持ってこいよ、忘れたらお前をグールズと呼ぶ」

 

「はっ、お前のユーモアは周回遅れだ。今度会うときはもっとマシなのを聞かせてくれ──удача(幸運を)

 

 ふっ、と記憶にある斜に構えるのが大好きなルームメイトと同じ笑みが久方ぶりに目の前で浮かぶ。

 

「かなめの言うとおり、ロカに影響されすぎだ。お前らよく似てるよ、自分を変わり者と思ってないところとか」

 

 久々に会えてよかった。

 じゃあな、キンジ。

 今度もよき再会を。

 

 

「再び会わん」

 

 

 入れ込みもするって。

 なんたってお前はこっちでできた、初めての家族だったんだからな。

 

 

 

  

 

「鯛の形にカスタード、この組み合わせを考えた人って絶対天才だよな」

 

 寮に直帰するか悩んだものの、結局俺はそこそこ重くなったコンビニ袋をインパラの助手席に置いた。

 たい焼きにカスタード。たい焼きは食べたいけど餡は好きじゃないって子供もこれで解決。これを開発した人は、数え切れない数の子供を救った。

 

 そして俺のファーストフードで汚染されまくってる舌も救ってくれた、無茶苦茶うまい。

 コーラは買った、ラムネも買った、ジャーキも、非常用のエナジーバーもちゃんとここに。

 

 買い物は終わり、袋から一本エナジーバーを開けて口に咥えながらキーを捻る。明日は夾竹桃と先生との恒例のカウンセリングだっけ。LAから帰ってきてから初めてか、てことは結構久しぶりだな。

 

 まあ、もはや最近はカウンセリングでも司法取引した夾竹桃の近況報告でもなんでもなく駄弁って飲み食いして映画見るだけの集まりになってるが。

 前回はロカもお気に入りの『ソルト』──ただのアクション映画というには複雑なストーリーが許してくれない。

 

 

(大切なのは生まれたロシアか、安らぎをくれたアメリカか)

 

 ロシアの命でジーサードを狙って、だが今はそのジーサードの下でアメリカと国民の為にロカは戦ってくれてる。あいつなりに、あの映画には思うところがあるのかもな。

 人は環境によって変化する、いい方向にも悪い方向にも。だからこそ親っていうのは錨、間違った方向に流されないように留めてくれる、子供にとっての拠り所だ。

 

 

 努力する罪人こそ聖人になれる、そう言ったのは善人か悪人かよく分からないバルサザールだったが少なくとも今のちなにはラスプーチナのときに感じた悪意や危険な気配はない。

 

 だが、子供になったからといって過去にヤツが積み立ててきた罪や行いが全部チャラになるとしたらそれは都合がよすぎる。

 だが、かつての記憶も拠り所も支えも失った5歳の子供にまとめてツケを払わせるのも正しいとは、俺には言い切れない。

 俺も、サムもディーンも、キャスでさえ過ちを犯した。誰かを救った一方で、正しくない選択も山程してきた。ラスプーチナに起こった今回のことを因果応報って笑えるほど俺は綺麗な生き方をしてないしな。

 

 脳裏に焼き付いてしまったV8エンジンの愛しい音を響かせ、バーを齧りながらハンドルを切る。思考を別のチャンネルに切り替えるがごとく口に入ったものを砕く。

 夜、インパラのアイドリング音、一人きりの車内は冷たく思考を鋭くさせる。

 

 

(死の龍神ガイデロニケ。あの女神は自分の血族をマーカーにしてその地に降り立ち、周囲の生物を皆殺しにする。ヒルダはたしかラスプーチナを異大陸の位の高い龍の血を引いてるって言ってた。リービアザンが魔曲でラスプーチナを葬ろうとしたのは機嫌を損ねたからじゃなく、ラスプーチナがガイデロニケを引き寄せるマーカーだから)

 

 

 皮肉なことに、そうであって欲しくないときに限って点と点が綺麗に繋がって線になっていく。

 

 ラスプーチナが龍の血を引いてること。

 ガイデロニケが近々降り立つという予言。

 リヴァイアが若返りの魔曲で命を狙ったこと。

 真っ直ぐに線が繋がる。

 

 が、果たして幼く、謂わば大人から幼児になってしまったちなにそのマーカーの役割が果たせるかは分からない。ガイデロニケのマーカーが幼児のちなにすら果たせるものか、そうでないのか。

 

 キンジも神崎もあの状態だ。白か黒、ハッキリしない今の状態での発言は避けたが……リービアザンは手抜きを嫌うタイプだ。必ずやってくる。

 

 チャックの言った通り悔しいがあの神様とは気が合った。俺がそうであるようにあいつも手抜きを嫌うだろう。

 きっと来る、あの人魚はこの国に。まあ、今のところリービアザンは意外とまともな神っぽいし、小さくなったちなをどうするかはグレーゾーンか。

 

 となれば、結局のところは、

 

「………キンジに任せるか」

 

 

 なんであれ、ガイデロニケの件に関してはちなが渦中にいるのは否定できない。となれば、もう娘として受け入れたキンジが知らないフリはできない話だ。

 

 それに見れば分かる

 また少しみないうちに、恐ろしいやつになったもんだ。もうリヴァイアサンなんか束になっても敵いっこない。

 遠山キンジ、人の形をしてるクセになんて化物になったんだか。

 

 

 バーを噛みながら状況を整理したところで一旦回し続けた頭を冷ます。

 ハンドルを派手に回し、コンビニの駐車スペースを出てから少し走ったところで助手席にある携帯が鳴った。ちょうど空になったエナジーバーの袋をドリンクホルダーに雑に刺して道路脇に寄る。

 

「………──?」 

 

 

 着信。だがこの鳴り響いてるのは登録のない非通知からの着信音。しかし、妙なのはこの携帯は緊急用に使ってる四番目の携帯だ。知ってるやつなんて……

 

 ………あとは帰って寝るだけだったのに、ちくしょうめどこの誰だよ。

 

 

 

「はい、どちらさまで? もしかして番号間違えませてんか?」

 

 

「いいえ、セクシーなあなたのお友だち。だれか当ててみて?」

 

 

 ………落ち着け、ありえない。

 そんなわけない、そんなわけがない。

 

 

「──こんばんは、東洋顔の坊や。番号を変えるのを忘れたようね」

 

 

 ………ありえない。

 だが、この声は、いや、そんなふざけた話があってたまるか。

 

 

「携帯電話って便利よね。科学って良いわ」

 

「ありえない」

 

「そうよね、私も感謝してる。またお前の声が聞けて嬉しい。会いたくてたまらないわぁ、お前もそうでしょう?」

 

 座ったまま全身が凍てついた気がした。  

 冬の寒さのせいじゃない。声を聞いてるだけで、もう今目の前にいるように瞳が勝手に見開いていくのが分かる。

 

 キンジと神崎の娘ってだけでお腹いっぱいだったのにまだこんなサプライズが残ってやがるのか。今日はすごい日だなぁ。すごい日だ。

 

 

「すごいなァ、声だけで俺の考えてることが分かるのか」

 

「もちろんよぉ。気付かなかった? 私たち、実はものすごく相性がよかったの」

 

「どうりで俺の考えが分かるわけだ。俺たち相思相愛だなぁ、俺もまた声が聞けてすごく嬉しいよ」

 

「声を聞くだけじゃ我慢出来ないのよね。早く会って近くでお前の顔が見たい、直に触ってみたい」

 

「いいねぇ、俺も会いたくなってきたよ。いや会いたくてたまらない」

 

 艶めかしい声は男の淫らな欲望を掻き立てる。

 実際声だけじゃなく、美人なのだ。ただ歩くだけでも世の男たちの視線は奪える。知らないことは幸せであり危険だ。

 

 

「お前の声は欲望を掻き立てるわ。早くその綺麗な目をえぐり出したい」

 

 悍ましいほどに。

 

 外は綺麗でも、こいつは中身が終わってる。

 そう、外側は爺さん………ヘンリー・ウィンチェスターの大切な人だった。だが、その中身は………

 

 

「よく聞け、アバズレ女。どうやって這い出たのか知らねえがそれならもう一度バラバラのフライドチキンしてやる」

 

「あら、素敵な言葉。いいわ、手加減しない。会って話をしましょう、あとで座標を送る。もし来なかったときはそこら辺の人間を殺す。適当に、手当たり次第よ。女も赤子も皆殺し。そうすればお前は必ずやってくるでしょう?」

 

「………今のうちにほざいてな。また虚無に葬られる前によ」

 

「いいわ、早く会いましょう。殺し合いがしたいんでしょう。知ってる。好きよ。私も愛してる」

 

 

 見開いた目で携帯を握り締めた手には否が応でも力が入る。

 アバドン………一体どうやって虚無から出た。

 虚無のボスが解き放った? 

 こんな………自分しか愛せないような殺意と怒りの集合体をか?

 

 

「間に合ってるよ、アバズレ。何があったか知らんが這い出たことを後悔させてやる」

 

「賢人たちを思い出すわ。なにやら口走ってたけど最後までなにもうまくいかなかった。お前は殺す、サムもディーンも、そのあともう一度地獄を統べる──やることがいっぱいで困る。待たせないでね?」

 

 はっ、にやついた笑みを浮かべてるのが筒抜けだぜ。

 大層な物言いをしても、結局お前はリリスと同じ恐怖政治でしか舵取りできないハリボテの暴君だ。

 お前を出したのが虚無ならそのままクーリングオフしてやる。

 電話を切ろうとしたとき、頭に電流がかけた。虚無から出たとしたらアバドンはどつやって携帯を手に入れた………?

 

 

「助かったわ、これ。あぁ……そんな顔しないで。女王の役に立ったんだから優等生──褒美をあげる、殺してあげるわ。痛くないように折ってやる」

 

「おい待てッアバドン!」

 

 スピーカーから凄惨な悲鳴がつんざかれ、何かを無理にねじ切ったような音があとに続く。ツーツーと、電話は切れて代わりに一通、数字の羅列されたショートメールが届いた。

 

「Son of a bitch………」

 

 

 節操無しのアバズレ女が………

 

 アバドンはかつてヘンリーの爺さんを襲い、その身代わりになった同僚の賢人に乗り移って彼等を皆殺しにした最低最悪の悪魔だ。

 殺意と怒りが服を着ているような性格の上に、その経歴はルシファーが直々に選抜した地獄の騎士の一人。指揮官であるカインの粛清から唯一生き延びた、危険さならリリスに匹敵する………化物。

 

 座標は、人工浮島……さっきの話は嘘じゃない。アバドンは女の内臓を容赦なく抉るし、赤ん坊だろうと躊躇わずに手をかける。

 比喩じゃなく、あの女がたまたまやってきた場所に血が降る。

 

(………相手はアバドン、速攻で今から入れる保険があるとすりゃ)

 

 ハンズフリーにした携帯をコール。舗装された道路にタイヤを切りつけるようなUターンでインパラの車体を揺らすなかで助手席からコール音が鳴る。

 

 アバドンは気に入らない相手だが腕がいい。腕っ節だけじゃなく狡猾で頭が回る。

 クラウリーの側近や支持者をゆっくり取り込み、それまで地獄の支配者だったヤツの影響力、立場を削って最後は政権交代寸前まで行った。

 

 あいつ自身が言ったことだ、分が悪いにしてもリスクは減らしておく。

 

 V8のエンジン音に差し込まれていたコール音が止まり、次に凛とした声が一度聞いたら忘れられない清涼な声が聞こえてくる。

 うんざりした顔で、だろうが。

 

 

「………キリ、今回は何の用なの? いつもいきなりかけてきて、忘れかけた時に狙ってくる」

 

 アナ………!

 よかった、とりあえず望みは繋がった。

 

「さあな、偶然だろ。例の金は確認したか、現金で22万ドル」

 

「ああ、あれね。確認はした。正確には22万3000ドル、買物セラピーには十分だけど────」

 

「くれてやるから手を貸してくれ、トラブルだ。それもデカい」

 

「……嘘でしょ、やめて。もうガイデロニケを引き寄せたわけ? 呆れたわ、落ち着くって言葉を知らないの?」

    

 正直、そっちの方がマシかもな。

 ガイデロニケはあくまで自分の血族と敵対する種族に対して攻撃を行う。広範囲ゆえに無関係の生物も大いに巻き込むが根本的には自分の生命を守る為という生物にとっては当たり前の明確な理由がある。

  

 だが、ヤツにはそんな名分ありはしない。

 アバドンはただ殺戮が自分の欲求を満たすから動く、血が顎を伝い喉に滴る感触だけを求めて殺戮する。あれはそういう最低の悪魔だ。

 

 

「レクテイアの連中じゃない。()()()()だ!」

 

 

 その名を口にした途端、それまでうんざりとしていた声がやんだ。生唾でも呑むような重苦しい空気がスピーカー越しに漏れてくる。

 

「……、………ディーンに刺されて死んだはずよ。ありえない、本当に地獄の騎士なの?」

 

「なんでか這い出して電話をかけてきたんだよ。俺が待ち合わせを蹴ったらあのアバズレは見かけた人間を手当たり次第に殺す、女子供も見境なしだ! 協力してくれ!」

 

「………よして。もう昔みたいに翼があるわけじゃないのよ。すぐに飛んでなんていけない」

 

「アナ、知ってるだろ。相手はアスモデウスみたいなキャリアだけの雑魚じゃない、アバドンだ。カインの英才教育を受けてる上に不死身の化物、ちょっと腕に覚えがある超能力者や獣人とはレベルが違う。あのアバズレはたしかにイカれてるが一人で賢人連中を皆殺しにして、たった一人怒り狂ったカインから逃げのびた腕利きだ。また地獄で復権活動を始めたら大変なことになる」

 

 急降下でやってきた切羽詰まった状況にインパラも激しくエンジンを響かせる状態で、一転静まり返ったスピーカーから

 

「相手が地獄の騎士なら剣がなきゃ殺せないわ、プランなしでたいあたりできる相手じゃない。考え直しなさい」

 

「そうしたいがもう多分、一人あいつに首を折られてる。座標を送る、急いで来い」

 

「ちょっと待ちさ──」

 

「来なかったらナオミに言いつけてお仕置きだ」

 

 

 言葉と一緒に通話も切り、心の底から今のうちに今日一日分の溜息を吐いておく。

 アバドンの虚無からの脱獄、誰が予想できるってんだよこんなの………

 よりによってアバドン。泣けるぜ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。