『フルハウスの最悪の回を見てる気分』
『数は足りてないけどな』
『それは関係ない。俺にも酢豚くれ』
『この泥棒ネコ、アリアなんかいなくなれぇー!』
『魔剣は──あたしのママに罪を着せてる敵の1人なのよ。イ・ウーにいる剣の名手ってのが多分それ。迎撃できればママの刑が残り635年まで減らせるし、うまくすれば高裁への差戻審も勝ち取れるかもしれない』
『そいつらに軟膏でも塗ったと思うか? 必死で逃げたよ、それで俺たちとカリの神様だけが生き残った』
『あたしには別の、やらなきゃいけないことがあるの。武偵殺しは絶対に捕まえるわ。どんな手段を使っても』
『──雪平、アンタ星枷の護衛やってよ』
『あの子が狙っているのは、今のナンバー2。序列で2番目に立ってる化物よ』
『アリアさんは装備科に出かけました。気をつけてください。ここ数日は、風に──何か邪なものが混ざっている』
『くだらねえ話さ。バーで働いている女の子を口説いたらカモにされちまった……どこにでもあるくっだらねえ話だよ。口説いたつもりでいながら最後までプレゼントの一つもくれてやれなかったけどな』
『やらせて雪平くん、ここから先は私がやるよ』
『幕が近い、あたしは過去と決着をつける。今日はその為の準備にやってきた』
『──やってみなきゃわかんねえだろ!』
『空っぽのはずだ、感情がないんだからな。お前の心はとっくに──死んでいる』
『それで魔剣相手にどうするつもりなんだ、ホームズプランを聞かせてくれ』
『魔剣が尻尾を出してくれただけでも収穫よ。少しは役に立ったわね。バカキンジも』
「I'd like to thank the person…」
不知火の美声と、キンジが掻き鳴らすギターでアドシアードの閉会式は始まった。前に出る不知火の声に劣らず、キンジが鳴らすギターはやけに攻撃的。俺が理子と会話中、裏ではキンジと神崎が超能力を解放した星枷と力を合わせて無事に魔剣を逮捕していた。
魔剣を綴先生に引き渡した神崎によれば、水に押し流されたときにはキンジは例のきざったらしモードになっていたらしい。神崎は顔を真っ赤にして両腕を意味なく振ってやがったが、泳げない神崎を抱えて殺し文句でも吐きやがったのかな。
(キンジに聞いても知らないね、知りたくない、知ったことかの三連コンボが待ってんだろうな)
落ち着いたパートをすっかり馴染んだベースでルート弾き。ベースラインが崩れると曲は総崩れになる。キンジがギターで俺はベース。ギターみたく前には出ないが曲の『土台』は作ってやらねえと。なんつーか、それが相棒ってやつなのかもな。俺はやっぱリズム隊向きかもしれない、武藤はどうかしらねえが。
曲が急にアップテンポになると同時に、左右からポンポンを持ったチアガール姿の女子が笑顔で舞台に上がってきた。俺はベースを掻き鳴らしながら心の中で感嘆してやる。神崎、お前はすげえよ。複雑な星枷の心をあんなに短い時間で開くなんてな。まあ、扉を開けるってより風穴を開けてこじ開けたって気がするが。
チア姿の神崎と星枷が今度こそペアを作る。籠の鳥と独歌唱──家系や生まれは特殊も特殊。けれどここには自由がある。
◇
金欠のキンジに合わせ、バンドの打ち上げは学園島唯一のファミレス──ロキシーになったのだが神崎、星枷に誘われた二次会もお馴染みのロキシー。女子の打ち上げは教務科から台場のクラブに通されたらしく、自腹を切った俺たちとは雲泥の差だった。助手席に不機嫌なルームメイトを乗せ、馴染みの道を67年のシボレー・インパラで走る。
「それにしてもアル=カタの閉会式には驚いたよな。あのアリアも変われば変わるもんだな」
「変わらない人間なんていねえよ。良い変化、悪い変化。それが別れるだけだ。俺やお前もそうだった」
「……弱くもなった。白雪やアリアを見てると自覚する」
しんみりした声色でドリンカーに添えていたコーラを取り、キンジは自虐的に笑った。横目で見ていた俺はハンドルを右に切りながら首を振ってやる。
「自分のことを弱いと言ってる人間こそ本当に強いと親父が言ってたよ」
「……親父さん、海兵隊にいたんだよな?」
「第一海兵師団第二大隊、キャッチボールの代わりに徒手格闘を教えてくれたよ。ハロウィンの日は決まって酔いつぶれて帰ってくるんだぜ? リースにビールの空き缶をくっつけて持って帰ってきてさ。クリスマスなんて祝ったこともなかったよ。遊んでもらったことは一度もない」
でも──
「でも家族だった。俺にとっては親父だ。いつだって頭ごなしで同じことしか言わない。言うとおりにしろ、仕方がなかったを繰り返す。それでも家族なんだよ。何年経とうがどこにいたとしてもな」
らしくない台詞。それを自覚していてか、信号が赤になった途端、誤魔化すように飲みかけのコーラに手が伸びて炭酸を呷る。
「……俺にとって兄さんは弱点だ。理子はそれを知ってる」
「分かるよ、俺たちも互いに互いを庇い合ってきたからな。自己犠牲の重ね合いさ。兄弟の関係が一番の弱点、いつもそこを突かれてきた。大切に思えば思うだけ足枷になるんだ皮肉だよな。だが頼れるのも兄弟だろ、お前の兄さんが生きてるなら連れ戻せばいい。なあ少しくらいアンフェアなやり方してみろ、誰も咎めたりしねえよ」
世の中には平等なことなんて1つもない。人間ってのは、生まれながらにして平等なんかじゃないんだ。理子、俺、神崎、星枷……立場も生まれも普通じゃない奴が周りに溢れてる。世の中の不平等ってやつはいつの時代も変わらない。
「兄さんが命取りになる。確かにそうだ、兄弟で命を捨て合っても良いことなんて何もない。涙を飲んで家族と別れることも必要だ、受け入れないとな。だが今じゃない、今は信じてやるときだ。お前の兄さんを」
「兄さんはいつも正しかった。俺の憧れだった。一度として間違えを起こしたことのない人だと思ってる」
「だったら最後まで信じてやらないとな。キンジ、お前にとって兄さんが弱点なら神崎は母親が弱点だ。敵もそれを知ってる。お互いに歯止めになれ。どちらかが暴走しないために」
「出来ると思うのか?」
「出来るさ。お前と神崎は、パートナーだろ?」
断言しつつ、青になった信号にアクセルを踏み込んだ。キンジはシートに背を倒して、両手を頭の後ろに持っていき、呟いた。
「……不幸にもな」
笑みが崩れてんぞルームメイト。暮れていく夕日に目を細め、俺も心の中で笑ってやる。やがてキンジはコーラを飲み干し、ラジオのチャンネルに手を伸ばしながら呟いた。
「お前といると、俺はうっとおしい正義感に駆られるよ。どうしてだろうな」
「遠山は正義の味方の家系なんだろ?」
「正義の味方なんて流行らねーよ。うっとおしいだけの正義感も煙たがられるだけだ」
「見て見ぬふりをしていれば、きっといろんなことが楽ななんだろうよ。でも、誰かがそのうっとうしい正義感を持ち続けていなければ、世の中は悪くなっていくだけだ」
世の中はアンフェアだ。自分とは違う境遇の誰かを羨み、誰かが損な役回りを引き受けないといけない。なんで自分がと思うだろうが無駄だ。よく知ってる。
「どこまで行っても本当の悪はなくならない。問題が解決してもまた次の問題がやってくる。でもお前みたいな真っ直ぐなやつばっかりなら、世の中ちょっとは良くなるかもな」
「そんなことねぇよ。切だって──」
俺はやんわりと首を振る。
「──いや、俺は駄目だ。少し物事に詳しくなった気でいるとな、人間の嫌な面ばかりが見えてくる。お前には勝てないよ」
俺はラジオの音量を捻り、大きく息を吐いた。
「お前が無駄に大人びて見えるよ」
「……バカかお前は」
「なんだそれっ。誉めてやったんだぞ?」
「バカだお前は。バカだよキンジ。酔い止めの薬くらいちゃんと飲んどけ」
「そうだな。ああ、乱暴な運転でちょっと酔っちまった。らしくないこと言ったよ」
「オフレコにしとく」
信号をいくつか越えるとロキシーの標識が見えてくる。学園島唯一のファミレスということで、武偵高の生徒が放課後や休日に立ち寄っているのを見かける。インパラを止めるべく一旦隣接している駐車場に向かうと、改札から神崎が乗っているMINIが停まっているのが見えた。武偵庁に用があるって先に部屋を出て行ったが、こっちに先に着いてやがったか。
ゲート式のパーキングから自動音声が流れる。俺は運転席から助手席に目配せするがキンジはシートに背中を倒したまま動こうとしない。
「どうしたんだ?」
が、不思議そうな顔でこちらを見上げたところで俺はかぶりを振った。
「駐車券だよ駐車券。取ってくれねえか?」
ようやく意味を察しキンジは窓から腕を伸ばす。武藤のサファリや輸送用の車と違って、俺のインパラはれっきとしたアメリカ車。左座席の運転席から手を伸ばしても駐車券に届かない。なんたってアメリカと日本では車線が真逆だからな。駐車券が抜かれたことで開いたゲートをくぐり、ようやくインパラを駐車できた。日が暮れているが駐車場エリアにはまだ余裕があった。
「悲しいね、武藤兄妹の送迎に馴れちまったか?」
「お前が『インパラをタクシーにするな』って言ったんだろ。右ハンドルに変えたらどうだ?」
「左利きの彼女に明日から右利きになれって?」
「聞いた俺がバカだった、どうかしてたよ。お前はそういう奴だったな。燃費が悪いデカい車が大好きで、コーラとチーズバーガーを持ち上げては豆腐バーガーを皮肉る男だ」
「驚いた。俺より俺のことを知ってるんだな」
店のドアを開き、キンジが怪訝な表情を返す。俺は肩をすくめてその背中を追いかけた。ボックス席で先に着いていた神崎には案の定睨まれることになったが本気で怒ってるわけでもなさそうだ。なにを食べるか。メニュー表を吟味していると──
「見ろ、今日のお薦めだってさ。ポークグリルにしよう」
「決まったら注文するわよ」
「俺はステーキとミネラルウォータ」
「頼む、今日のお薦めにベーコン付けてコーヒー」
各々の注文が終わり、俺が水を飲んでいると……神崎と星枷の様子がおかしい。お互いになにかを切り出そうとしては、身を引いて膠着してる。
「いいわ。キンジ、キリ、祝杯前に少し構わない?」
「待って、私から……言わせて。先に言っておかないといけないから」
「俺たちは外した方がいいか?」
「え、えっと……あのね。キンちゃんにも聞いてほしいの。雪平くんも聞いてもらえないかな」
俺にも聞かせたいこと?
「あのね、まずはお礼を言いたかったの。キンちゃんだけじゃなくて、アリアや雪平くんにも危険が及んだのに最後まで戦ってくれた。それにアリアには……私、ずるいことしちゃったから、謝らないといけない」
「ズルいこと?」
「うん。私、嘘ついてたから。このあいだ、キンちゃんがカゼひいた時に薬を買ってきてくれたのはアリアなんだよ?」
星枷の告白にそっと隣を覗いてやる。神崎はちょっと赤い顔で星枷から目を逸らしたが丁度覗いていた俺と視線がぶつかる。緋色の目はまさにいま助け船を求めているが俺はかぶりを振った。俺が何か言える場面じゃないよ。どうするか人に聞くんじゃなくて自分で答えを返すんだ。薄情なようだけど仕方ない。
「な、なーんだ。そんなこと。別に気にしてないからいいわよ。もっと大変なことかと思って損したわ」
「……アリアはキンちゃんにとって、すごく意味の深い子なんだね。私、もしかしたら羨ましかったのかな。それは、言い訳にはならないから……だからごめんなさいっ」
素直に頭を下げる星枷、神崎は狼狽しそうな心を落ち着かせるように水を飲んだ。素直な謝罪に慣れてないんだな。
「こほん。白雪、よく聞きなさい。あたしはあんたをイヤな女と思ってたわ。ま、最初はだけどね」
咳払いしてから切り出した神崎が続ける。
「恨み続けるには一生は短い。許すにはなにか大きなことをしてもらわないと」
「な、なんでもするよ?」
「あたしの要求は生易しくないわよ? しっかりする、それがあたしの要求。家の掟を重んじるにしても自由を大切にするにしてもあんたがしっかりしないと駄目」
参ったな、口を挟めなくなった。誰かさんとそっくりだよ、気が強くて、頑固で、義理人情に熱すぎる。パートナーだねぇ……キンジを見ながら考えに耽っていると、
「ありがとう、白雪。魔剣を逮捕できたのは、3割はあんたのおかげよ。4割はあたし、2割はレキ」
(……えっ?)
つまり、俺とキンジは合わせて1割しか役に立たなかったってことか。前言撤回で口を挟んでやろうか、そう思った矢先にミネラルウォーターとステーキセット。烏龍茶と、炊き込みごはん御膳。ポークグリルにベーコンと、コーヒー。コーラと、ももまん丼……っていうのは何だ意味不明だぞ。
「あたし今回分かったの。あの魔剣、ジャンヌ・ダルクとの戦いは──あたしたちが1人1人だったら、きっと負けてた。魔剣に勝てたのは、あたしたちが互いに結束したからよ。感謝してるわ、こほん──では仕切り直して。よし、やるわよ」
グラスを持ち上げた神崎に俺が続き、
「やるか」
察した星枷が俺に続く。
「やるとしましょう」
キンジも流れには逆らえず、グラスを持ち上げた。
「……さっさとな」
俺たちはグラスから飲み物がこぼれるような勢いで、がちん、と乾杯した。なんでもない放課後をファミレスで過ごすだけの普通の学生のような一時。俺は多分、今日という日を忘れない。非日常の中にある日常を。
◇
大理石の床が美しいホテルの入口ホールは、小ぶりなものだった。それでも薄汚いモーテルとは気品も広さも雲泥の差だった。ホテルを私室にするだけの資産はどこから引っ張ってきたのだろうか。無人の廊下で疑問が浮かぶ。賭けポーカーや偽造クレジットじゃないことは確かだな。
足元は絨毯だったので、音を立てることもなく。無人の廊下は静寂の一言に尽きた。ほどなくして、部屋のドアまで辿り着き、部屋番号を二度見する。
『HOTEL―POROTOKYO』の109号室。軽くノックしてみると、ドアが開いて長い黒髪が覗いてきた。
「……ついにやったわね。一応、言っておくけど、相当長い間ぶちこまれることになるわよ?」
「お前は俺を何だと思ってんだよ」
半分だけ開いたドアから挨拶代わりの笑えないジョークが飛んでくる。
「しかも夜中よ。ハンバーガーの食べすぎで頭がどうにかなったんじゃない?」
「それはお前だろ!いやここでいい。綴先生から預かってきた。良かったな、間宮と同じクラスだってよ」
俺は書類の入った封筒をそのままドアの隙間に差し込んでやった。中身は司法取引の関する書類だ。郵送するわけにはいかず、綴先生から愛弟子の俺にありがたい運び屋の任が与えられた。世間ではこれをパシリと呼ぶらしい。夾竹桃は封筒を受け取ると半分開いたドアから廊下を見渡した。
「いいわ、上がっていきなさい。暇でしょ?」
呆気にとられるとはこのことだろう。
「上がるって部屋にか?」
「他にあるかしら?」
「あるよ……いや、ないな」
忠犬は哀れなものだと罵られたのが先日、はっきり言って招かれたことに驚いた。疑問を疑問で返され、俺は背を丸めて開いたドアの奥へ足を踏み入れる。そうして、そっと覗きこんだ室内は──間接照明は灯っていたが、妖しげに薄暗かった。そして、目の前に広がる景観はお世辞にも普通とは呼べない。
部屋を見渡してみる。アンティーク調のテーブル、雰囲気を合わせた椅子とベッドは良い趣味だ。センスが光ってる。そして観葉植物、白に黄色の綺麗な花はスイレンだろうな。そして観葉植物、これも知ってる、エンジェル・トランペットだ。ラッパのような形が特徴で下向きに花を咲かせることで知られている。そして観葉植物、罌粟の花だな、教科書に載ってる違法だ。そして観葉植物、彼岸花だな。輪を描くように赤い花を咲かせる毒性の花。そして観葉……いや、やめとこう。なぜか部屋に舞っていた蝶が肩に止まったところで俺は遅すぎる疑問をぶつけた。
「蝶と植物園で暮らすのが趣味なのか?」
「可愛いわよ。人間と違って無駄口きかないし」
「今まで色んなやつを見てきたが蝶を放し飼いにするやつはお前が初めてだよ」
「放し飼いではなく共生と呼べばどうかしら。受ける印象も変わるでしょう?」
開き直って椅子に腰掛ける彼女は得意気だった。無表情に思えて夾竹桃は意外と表情豊かな女だ。前は『友情返り咲き!』なんて笑顔で謎の動きを決めてやがったし、呆れた顔も見せれば苦笑いするときだってある。要はつまらないことに表情を変えないだけだ。馬鹿げたことに俺は、こいつと話す時間が嫌いじゃない。こいつの皮肉めいた言い回しが嫌いじゃないんだ、悔しいことにな。
「出会ったときは、まさかお前と軽口が叩けるようになるとは思わなかったよ」
「合縁奇縁、袖振り合うも多生の縁よ」
「成る程な、縁があるのは困り者」
「そんな諺はない」
「ウィンチェスター一家にはあるんだよ」
そう言うと、夾竹桃はこれまたアンティーク調のカップに茶を注ぎ始めた。食器も統一してるのか、どこまでも懲り性だな。
「貴方の話は本当にネタに困らないわ」
「12シーズンまであるからな。聞きたいときは声をかけてくれ。いつでも聞かせてやるよ、なんたって俺は暇だからな」
肩をすくめると、湯気の立つカップに目を落とす。懲り性な夾竹桃のことだ、これも銘茶だろうな。俺は茶の種類なんてさっぱりだが。
「興味本意で聞くけど、シーズン12とやらは何が起きたの? 地獄から悪魔が押し寄せてきた、とか?」
「ルシファーが人間と子供を作って大騒ぎ」
「ルシファー・モーニングスター?」
「ロスでナイトクラブは経営してないし、休暇も楽しんでない。背中にちゃんと翼も生えてるよ」
「自由の国アメリカ、いまはまるで魔境ね」
「ウォーカーがはびこってないだけマシ」
「それもそうね」
何がおかしいのか分からないが、俺たちは自然と肩をすくめていた。夾竹桃が淹れてくれたのはキャッスルトン・アッパーの夏摘み。ぎとぎとした外食ばかりで麻痺した俺の舌でも、上物と感じ取れる銘茶だ。
「警戒しないのね」
「俺を毒殺したいならとっくにやってる。信用には信用を、お前の言葉だ。来客をやるにしてもお前は手段にこだわりそうだからな」
「……平然と飲んだのは貴方が初めてよ」
ひらりひらり……と、部屋の中を舞っていた蝶が黒いセーラー服の肩に止まった。髪から服まで黒一色だってのに眩しいくらい目に毒だ。紅茶は無毒でもお前は猛毒だよ。野に咲く経口毒──夾竹桃、その名前のとおりにな。
「過去に戻りたいと思ったことはない?」
「やり直したいことは、いくつもある。だがやり直せるかは別の問題だ。お前と出会った夜、仮にあの日に戻れたとしても俺は同じ事をしたよ」
「単純な世界が恋しいわ。私は悪で、貴方は善、全てが明快。今は線引きがなくなった。嫌だけど私はいいやつになってる、貴方は悪に。でもそういうのって、ちょっとかっこくよくない?」
否定に困らない質問だ。俺は善人でもなければ夾竹桃を悪と言える人間でもない。仮に正しいことをしてきた結果が今に繋がっているなら、俺は善人になどなりたくない。未曾有の危機から世界を救って、家族や友人は死んで自分たちだけが生き残る。それが正しい行いだって言うなら……俺は正しいことなんてしたくない。
「お前は最初から悪党失格だよ。いいやつだ」
「そう思わせてるだけかもね。今の貴方は尋問科の武偵? それともイカれたハンター?」
「その両方だよ。お前は魔宮の蠍? それとも達者な絵を描く同人作家か?」
「その両方よ」
オウム返しで頷かれた。その顔はしてやったと得意気に見えて仕方ない。皮肉な言い回しを楽しいと思えるのはいつぶりだろ。日本に来る前、いいやもっと前かもしれない、気づけばカップの中は空になっていた。半眼を作り、俺は空になったカップを置く。
「……さっきの話。過去をやりなおしたいって話さ。本当は俺も思ったことがある。普通の生活を過ごせていたらってな。狩りや怪物なんてもうたくさん、普通に生きたい。そんなことを考えてるとたまに夢を見る。ナイフも銃もない、本当に普通の夢だ。怪物のいない世界で家族と過ごす夢」
「それが、ウィンチェスターの求める理想の生活?」
「違うよ、ただの願望。狩りのない生活ができてればってな。できてれば、お前ともあんな出会いはしなかったし、親父もあんな風には……もっといい最後を迎えられたかもしれない。今でも生きていたかも」
「でも現実じゃない。あなたが一番理解してる」
「……ああ、分かってる。でも楽しかったよ。夢でもさ……」
俺はこめかみに手を当てながら首を振った。
「あのままずっといたかった。親父が死んでから、俺はずっとこの仕事を続ける意味を考えてきた。怪物を狩って人を救う、親父の意思とやりのこしたことを引き継ぐんだって……けど分からなくなった。ジャンヌに言われたことを俺は否定したが、あいつの言葉が本当は正しかった。俺は何も考えずに済むから戦ってるだけ、勝てないと思った相手にも諦めなかったのは家族が諦めなかったからだ、俺の意思なんてない。ましてや、誇れる理由なんてこれっぽっちも」
テラスのフェンスまで行き、右手で掴むと、顔を上げて、遠く半分欠けた月を見る。テラスを突風が駆け抜け、制服がはためく。
「──普通でいたかった。いろんな物を犠牲にして、なくして、こんなの割りに合わない」
「でも大勢の人を救った」
首を落とした俺の横で夾竹桃が首を振る。
「確かになんで貴方がと思うわ。とても苦しいことだけど、それだけの価値はある」
「……まるで、全部見てきた言い草だな」
「どう受け取るも貴方次第。つまらないマニフェストだけは退いておきなさいな」
そう言って、魔宮の蠍は月を見上げた。遠く離れて近づくことのない半月を。俺はフェンスを握り、その目線を追いかける。今は答えは分からない、だが今は……ただ欠けた月を黙って見上げていたかった、この女と。
……どこまで設定をクロスオーバーさせるか難しいですね。風呂敷は広げすぎると畳むのが難しい物です。
『狩りや怪物なんてもうたくさん。普通に生きたい』s11、12、アレックス──