教会、本来そこはルシファーの膝元だった。
なぜなら、かつてのヤツは神の一番のお気に入り。忠誠心に溢れた堅物生真面目なミカエルよりも、神が作った四人の大天使のなかで一番気に入られてた。
だが、それも神によってアマラを閉ざす鍵である刻印の呪いを渡されるまでのこと。いかに強力な大天使でも刻印の影響は免れない、堕落し、殺意と怒りを振り撒くだけの魔王となったルシファーは神の命を受けたミカエルにより地獄の檻に叩き落とされた。
これでもう何度目だ。
もう会うことはないと思って、その姿をまた目にしちまうのは。
その憎悪にまみれた深紅の瞳と再会するのはよ。
「……どういうこと? ルシファーは異世界のミカエルを入れたディーンに殺されたはずでしょ…⋯」
「だから大体の想像はつく。長年一緒だった宿主がやっとのことでぶち込んだ世にも恐ろしいモンスターの入ってる檻のスイッチを押しちまったのさ。まさか虚無から本当に這い出てくるとは思わなかったがな」
「だが、あれはどう見ても本物だぞ。あれは紛れもない、大天使ルシファーだ……」
ジャンヌの顔が光に満ちた教会には似つかわしくないどす黒い緊張感に圧迫され染められる。
アバドンの話、やっぱり嘘じゃなかったな。皮肉なことに当たってほしくないタイプの予想に限ってど真ん中を貫いていく。
「ああ、見ての通り私は本物だ。出来の悪いコピーでも幻覚でもない。おい、わざわざ場所を選んで来てやったんだぞ? 父を崇める盲目なファンの溜まり場にな。もっと驚け、それじゃなんだ、盛り上がりに欠ける。もっと他にあるだろ、「たすけてルシファー様ぁぁ」「お願い殺さないでー」とかなんとか。はぁ、お前たちには主催者を労う気持ちがないのか」
肩をすくめ、不機嫌に俺たちへ身振り手振り不満を訴えてくる。
言うには及ばずだよ、ジャンヌ。こいつはどう見ても偽物や夢幻の類いじゃない、心底嘆きたいことに本物だ。目の前にいるのは俺たちが何度も相対し、血を撒き散らされたニックの器に憑依した魔王。
サムを迎えに行ってからのこの数十年で、黄色い目以上に因縁を生んだ最大で最低の怨敵。
「何度も俺たちに出し抜かれたやつが偉そうにほざいてんじゃねぇ。ニックがまだいるなら伝えとけ。もうこれでお前はフローレンスの連邦刑務所でも勘弁してもらえないって。グアンタナでも足りない。ビーチが好きなら残念だったな。目の前にある、混んでるけどな」
「やめろ、友達のフリなんかするんじゃない。お前たちは彼に寄り添ったか? 妻と息子を失った彼に、優しい言葉の一つでもかけたか? 施しをした? いいや、何もしてない。私の器になってた事実を伝えだけだ、役に立たない現実をな。だが私は違う、彼に求められて、それに応えた──戻ってきてほしいという願いに」
そう言ってルシファーは笑う。
大物の犯罪者や殺人鬼、悪魔、リリス、アバドンでさえ霞んでしまいそうなこの世界の負のすべてを集めたような邪悪な笑みで、笑いかけてくる。
生き物としてのステージが違う、生物としての根本的なものが違う。それを明瞭に、その笑みは教えてくれる。頭のイカれた人間もおかしな怪物もたくさん見てきた。
だが、ルシファーは……すべてが終わってる。おかしいとかイカれてるとか、もうそんなレベルじゃない。
赤い瞳は俺から、やがて両隣のジャンヌと夾竹桃に向けられる。
「さて、全部話せば長くなる。どうやって私が戻ってきたか、端的に言えばドナテロを電話にして方法を伝えたわけだが別にトークバトルをしに来たわけじゃない、息子の親権の話も片がついた。というわけで、お別れをしにきた」
………ドナテロを、電話に?
どういうことだ、預言者のドナテロをニックとの通信手段に、地上との交信に使ったってのか?
「地獄の王ともあろうものが随分と回りくどい。もっと簡単に言ってくれてかまわないわ、一番あなたに嫌がらせができそうな雪平を真っ先に殺しに来たって」
「つまらなく言えばそうだ。お前だけじゃない、サムとディーンもお前たち兄弟は私を檻に戻すことしか考えてない。私の恩寵を使って異世界の扉を開き、アマラとの戦いでは力を貸してやった、グレたミカエルの時も、なのにお前たちときたら。もっと私にへつらうべきじゃないのか、態度をあらためて」
それはキャスも母さんも、ボビーもチャーリーも皆がそう考えてるよ。お前を檻にぶち込みたいってな。
「と、その前に聞いておこう。ポンコツ魔女と嘘つきサイエンティスト、勝ち馬につくなら今のうちだ。仲良くキリと心中したいなら止めないがオススメはしない。死ぬと分かってて飛び込むキリの馬鹿さ加減は健在だろうがお前たちには一応選択肢をやる」
「選択肢、だと?」
「───死ぬか、利口になってやめるかだ。人間の考えることは愚かすぎて私にも理解できん。そいつの死体と一夜を明かしたいならかかってこい」
静かに聞き返したジャンヌに、本当はどっちでもかまわないと、そう言いたげな顔でルシファーは右腕をスッと払う。
壇上に転がっていたグレゴリの亡骸が広間の端へ滑るように、服の上に撒き散らした鮮血の赤を床に塗りつけるように払われた。
「マースレニツァみたいなみんなで楽しむ催しじゃなさそうね」
へぇ、頼もしいね。
精一杯の夾竹桃の冗談がすごく笑える。ちょいと指振るだけで俺たちの首をまとめて折れる化物だってのに。
「あれはパンケーキ祭りだろ」
「パンケーキが嫌いな人いる?」
「私は嫌いじゃないぞ」
「俺もだよ」
行ったことはないけどな。
でもこれよりは楽しそうだ。
「知ってるか、ルシファー。人間の頭のなかは、この世に残された唯一の未開の地である。人の心も頭のなかも完全に理解できるやつなんていない、俺も、アラステアも、お前も、チャックでさえ、きっと読めねえよ」
決裂だ。
本当なら俺の首を落として、二人を救うべきなんだろう。でもそんなこと言ったら、その前に夾竹桃に毒を盛られてジャンヌに冷凍グラタンにされちまう。
この二人はそういう女だ。そんな馬鹿げてる提案口にした瞬間殺されちまう。そんな殺され方だけはごめんだ。
背後の十字架を背にしたルシファーに、明るい教会の壁に影だけの視認できない両翼が雄々しく、幻想的に広がっていく。
「私は言い訳は嫌いだ。行動に理由はいらない、行動することに意味がある」
悪魔とは思えないほど、地獄の最高権力者とは思えないほど光に満ち神々しいその姿には、混沌とした中身を理解していても息を、呑みそうになる。
綺麗だ。断言できる。この世でこれ以上の皮肉は存在していないって。
「これは魔王らしからぬ素敵なお言葉。おみくじにでも書いてあった言葉かしら」
「いいか、先手必勝だ。飛び道具はあるな? 3つ数える、2で撃て」
「分かった」
「合わせよう」
「よし、ひとぉーつ!」
刹那、ジャンヌは掌を正面に翳して無数の氷の刃を。
夾竹桃は俺からひったくった両手10本分のアルテミスのナイフを。
そして俺は、天使の剣を溶かし作った弾をXDがホールドオープンするまで無茶苦茶に撃ちまくる。
肉を貫き、ルシファーの体が壇上の上で数秒間小刻みに着弾の衝撃に揺れていく。
全弾、すべての飛び道具が器であるニックの体に吸い込まれた。余すことなく。
「今のはなんだぁぁぁぁ! 何一つ合ってなかっただろッ! 私をペテンにかけたつもりか、笑わせる。そのねじ曲がった品性でよくもまあジャックを正しく導くなんて言えたものだな! カスティエルの言葉は何一つ信用ならない、私の見立ては正しかった」
……分かっちゃいたが服を汚したくらいか。
グレゴリの恩寵を盗んでChargeしてたところを見るにまだ寝起きと思いたいが……
飛び道具の一斉掃射を受け、まるでダメージがないとヒステリックに叫んだルシファーはげんなりとした顔で切り替えるように首を揺らし、
「死ぬ前の擦過傷には治癒の段階が4つある、かさぶたの形成、上皮組織の再生、細胞の過形成、そして肉芽組織の退行──適当なところで遊んでやる」
一瞬で視界からルシファーの姿が消える、短いジャンヌの悲鳴が耳を刺すと横長のチャペルチェアの上にデュランダルが突き刺さっていた。
「ジャンヌ………! ちぃ!」
たった一瞬、ルシファーを見失った次の瞬間、白く細い首に手をかけられたままジャンヌの体が床から浮いていた。
速さ云々の問題じゃない、天使の翼を使ったほぼテレポート⋯⋯──
「ぁ、っ……ぁ、ぁ……」
「あー、努力は認める。だが、魔女に抵抗されてるのは慣れてる。お前のはまだかわいいもんだ」
碧眼でルシファーを睨み、息を奪われながらもジャケットから首に伸びている手までが凍結し、ルシファーの右腕は肘から先まで氷柱が生えたように真っ白に変わり果ててる。
だが、その息が白く染まることもなく。
右腕も真っ白になりながらもジャンヌの絞り出すような声が何の握力の変化にもなってないことを語ってる。頭に向けて俺がルビーのナイフを放つも、軽く睨むだけ、指を振ることもなく俺の投擲した刃物は床へ落ちる。
ちぃッ⋯⋯! まるで気休めにもならねぇ、ふざけんなって話だ!
「いい加減物を投げること以外を覚えろ。ああえっと、あのときはどうしたんだっけ? 覚えてるか? そう、ロウィーナのときはたしかこうやって首を──」
「殺すッ! 殺すッ殺してやるぅッ!」
「そんな悪いやつみたいに見るな。どいつもこいつも父が作った悪いイメージに振り回されてる、安心しろ。ロウィーナは丸焦げにしたが今回はしない、ジャンヌ・ダルクに火刑なんて罰当たりだろ、それに芸がない────ん?」
俺に視線が逸れた一瞬を狙い、機を外さずに夾竹桃が脇腹にアルテミスのナイフをぶっ刺した。
異世界で腐る程のミカエルの兵隊の天使と戦ってきた夾竹桃は動力源の恩寵が喉元に潜んでるのを知ってる。脇腹にナイフを刺しつつ、もう一方の手は天使の剣を喉元に寸分違わず突き付けていた。
⋯⋯刺さってたんだ。
ルシファーが左手で、文字通り刃物を掴んで止めなければ。天使の剣を⋯⋯握って、止めるだと? そんなの今まで見たことねえぞ⋯⋯
あと少しで喉を避ける、その距離で夾竹桃の瞳がゆっくりとルシファーを見上げた。
ふざけるな、殺傷圏内だ。そこでルシファーから逃げれるわけない。やめろ、待て。
「⋯⋯嘘でしょ?」
「知恵を絞ったのは認めてやろう。キリに影響されたのか小細工の腕はなかなかだが私は二度あいつの中に入った。わりと深いところまでな。姑息な考えは読める。恩寵を抜きに来ることくらい、なぁーッ!」
骨を揺らす音。
人間の体から決して聞こえてはいけない音がして、夾竹桃の体は虚空へ舞い上げられた。
ジャンヌの首を右手で吊り上げたまま左手で夾竹桃の体に一発、力を込められるとはとても言えない姿勢だろうと大天使だ。
受け身も何もなく、夾竹桃の体は仰向けに落下し、両腕が開くように床へぺたりと垂れ下がる。
⋯⋯
「安心しろ、殺しちゃない。ジョアンナ以来のお前のお気に入りだからなぁ、私もやり方は選ぶ。ただ殺したいだけならこうして指を鳴らせば、これで終わり。けどつまんないだろ」
「腐ってるぜ貴様っ!」
「おっと、にやけヅラが早くも捲れたな。無害そうな顔で愛想を振り撒いて、中身はリリスと大差ない。結局、お前は厚塗りして誤魔化してるだけだ。ガブと一緒、別の顔を作り、逃げて、誤魔化してる、私のことをとやかく言える立場か?」
「──せいぜいほざいてな、その間に手足も恩寵ももらってていく」
目をかっ開き、暴れる心臓を抑えつけて視界が切れた一瞬俺はルシファーの懐まで既に這い寄っていた。
夾竹桃のおかげで視線が切れた、俺も殺傷圏内だ。
「メアリー母さんからのギフトだ、くたばりな」
「はっ、すっかりマザコンと化したなァ。私に言わせればサムやディーンよりやられてる──ぐ゛ぅッ!? フッ、ハッ、はははッ!」
母さん愛用の対天使のナックルダスターで顎をまっすぐに打ち、貫く。コンパクトに、体重と怒りとこれまで因縁と俺の目の前でジャンヌと、夾竹桃にくれた痛みも全部乗せて、殴る。
普通の天使なら膝をつく、ミカエルの兵士たちでもねじ伏せてたがルシファーはさすがに同じとはいかない。笑いながら、自分から顔を差し出すように攻撃を受けてる。
ああ、たしかにこれだけ手応えがないと絶望しそうだ。
だが怯んだ一瞬で、ジャンヌが近距離からルシファーの喉元へ極細の氷のナイフを──含み針のように口から飛ばした。
俺も完全に意図しなかった奇襲。そして恩寵のある喉元への攻めはルシファーも警戒し、首を捕らえていた腕を、ほどいた。
「ジャンヌ無事か⋯⋯!」
「⋯⋯ぁ、はぁ、はぁ⋯⋯やってくれたものだな」
「お見事、よく頭を回したなぁ。だが、とりあえずここまでだ」
「ぐ、ふッッ!?」
簡単に見切られ、カウンターで腹に一発。
腹に蓄えていたあらゆるものが逆流する感覚とくの字になりかけた背中に肘がおりる。
典型的すぎる、受けるのが恥に思えてしまう連撃でも大天使の膂力なら⋯⋯笑えない。か、完全に⋯⋯腹が、いっ、た⋯⋯ぁ⋯⋯ぁ、っ、い、一発だぞ⋯⋯くそ、がっ⋯⋯!
「あぁ、正直お前には同情する。時間を削って費やしてきたお得意の毒も私には効かない。あー、短い人生を否定するようで悪いが最初から勝負になってない」
「たしかに、私の飼ってる毒は使えない。なら、あなたの知らない次なる戦術を披露するまで。その男を殺されると困るの、手が足りなくなるから」
「ほう、何の? もしかして教会では言えない如何わしいことぉー?」
「コミケ」
「──『オルレアンの氷花!』」
待てっ、それは⋯⋯!
飛び込んできたジャンヌの叫びに、ハッとして体を声とは逆の方に伏せていた体を横に倒す。床が凍結するバチ、バチッという音がして、立ち上がった視界にはデュランダルを構えるジャンヌと天使の剣でルシファーと睨み合う夾竹桃。
二人仲良くルシファーに一発ずつ入れられてんのに、随分とタフなことで⋯⋯
壇上へと続く左右を椅子に挟まれた広間の道は、ジャンヌの超能力を受けて綺麗にそこだけが凍結していた。
相変わらず威力も見た目も派手な超能力だ、敵にしてたと思うとゾッるよ。今は本当に心強いよ、ジャンヌ。
「ええ、これだけは言える。私が異世界のあの旅で学んだのは、人間とあなたはゴースト・バスターズと破壊の神ゴーザ並みにコミニケーションが成立しないってこと。悪魔にも愛があるとしても、あなたはきっと⋯⋯例外よ」
「ふん、探究心で他人の里をぐちゃぐちゃに引っ掻き回した女がいまや愛マニアか。うぅ、ゾッとする。いいか、私に愛がないとすればそれは私の問題じゃない。私を檻に入れた父のせいだ。刻印を私に押し付け、自分はでき損ないの人間に夢中になった」
「見過ごせない話だな。愛がないのは、父のせいだと言うのか、自分たちを作った神のせいだと」
食事のときは十字を切る程度には律儀なジャンヌが超能力の連発でやや息を乱しながらも横槍を入れた。
「そうだ。父は私を愛さなかった。いや、そもそも父には与えるべき愛情がない。父の命令をこなすのを生きがいにしてるミカエルでさえ、ひとたびしくじれば与えられるのは私と同じでき損ないのレッテルだ」
「待てよ。だったら、だったら⋯⋯」
ああ、クソッ⋯⋯⋯バカか。
学習機能ないのか、俺は。もう結果が分かってることを掘り返しても何にもならねえのに。
「だったらジャックにはちゃんと愛を与えてやればよかっただろうがぁ! もっともまともなやり方で、バンカーでチャックと真正面から話してたときみたいに伝えれば、よかったんだよ! あのときのお前はまともだった! 放浪主義のチャックより賛同できることを言ってた! ルシファーは最初のガン細胞? 神はそれに気付いた隔離した? ガブやキャスに何言われようが行動で示したらよかったんだ! 言葉だけじゃなく行動で、父親だって思ってもらえるように動けばよかっただろうがァ! だが──お前は何も変わらなかった! アナの言う通りだ、言い訳ばっかりするんじゃねええー!!」
ジャンヌも夾竹桃も目を開く。
分かってる、魚に詩を説くようなことだって。ルシファーは何を言ったところで変わらない。その倫理観、価値観は既に完成されてる。
邪悪で、俺たちから見れば歪んだ価値観感はもう何を言われても、何を味わっても変わらない。最終戦争が起こったあのifの世界から帰ってきてはっきりと分かった。
息子ですらルシファーは本当の意味で愛してない。
「しまッ⋯⋯!?」
「やめろ、私に説教したつもりか? 偉そうに、お前こそ現実から逃げての繰り返しだろ。まあいい、姑息な手は見え透いてるからな」
掌を翳すと、今まさにスキットルに手をかけていたジャンヌの動きが固まったように止まる。アイスブルーの双眸が忌々しく歪み、夾竹桃も今回ばかりはと忌まわしげに舌を鳴らす。
「前にも言ったろ。私には知恵がある、父が作った檻を抜け出す知恵がな。つまりお前たちの小細工は私の前では成り立たない。それと、私はもっとストレートにやる。こんな感じで──」
「「「⋯⋯⋯────⋯⋯」」」
ほぼ三人同時に、俺も、ジャンヌも夾竹桃も膝をついて口から溢れんばかりの血をぶち撒けた。
毒々しく、喉に血が次から次に迫り上がってきて派手な悲鳴はとても出ない、──痛みに自然と目が開き、手で支えてないと体も頭すら支えられない。
⋯⋯ァ⋯かっ、ぁ⋯⋯ァ⋯!
─⋯⋯!
「お、ぇっ⋯⋯ッ!」
ハードに酔って洗面台に頭を突っ込んでるときの感覚、あの十倍はやばい⋯⋯⋯いや、俺は一度これは味わってる。疫病の、騎士と⋯⋯ザカリアに、体のなかを、弄られたときに似てる⋯⋯
「⋯⋯どう、弄った⋯⋯⋯ウィルスか⋯⋯」
「その通り。研究熱心なサイエンティストの彼女に私からのプレゼントだ。あ、その長い黒髪、決まってるねぇ。トリートメント、使ってるんだろう?」
「⋯⋯なにを、くれたの⋯⋯教えて、ほしいわね⋯⋯じゃないとお礼が、できな、い⋯⋯」
発声するのも一苦労⋯⋯よく、やるぜ。
さすがにタフだな、パートナー⋯⋯これは素直に尊敬するよ⋯⋯
「実を言うと大した贈り物じゃない。猩紅熱、髄膜炎か、もしかしたら性病かも? あるいはその全部か」
こんなもん、もらって喜ぶやつがいるか⋯⋯
タオルと⋯⋯⋯歯磨きセットのほうが、どんだけマシ⋯だよ⋯⋯
体が焼けるような発熱の感覚、疲労感と頭痛、吐き気は言わずもがな視界がブレて見える上に、平衡感覚も⋯⋯たぶんやられて、る⋯⋯
マジで、バッドな、コンディションの、ぜんぶのせ⋯⋯わらえねぇ⋯⋯
「しかし、絵面としてはそこまでだな。期待ほどじゃない──教会だぞ、お絵かき禁止」
「──ッッ⋯──⋯!?」
⋯⋯っ、くっ、そ⋯⋯バレたか。
図形で、吹っ飛ばすしか⋯⋯策がねえ、のに⋯⋯駄目だ、手首がイッて、る⋯⋯! 念動力で、折りやがった⋯⋯!
「無駄だ、お前の手札は見切ってる。手癖の悪さとわざとらしい演技、長い付き合いだからな。だがどんな関係にも終わりが来る」
かろうじて、かろうじて持ち上げた視界で上下左右に揺れる世界でルシファーが開いた右手を握り込むのが見える。
⋯⋯なんでもいい、聖油で火だるまになってヤツに飛びつくのでもいい。せめて、俺の首だけでこの場をおさめ──
「おい」
⋯⋯⋯?
「くらえ、ケツ野郎」
バッと床に手を叩きつけるような音がして、灯りに見下ろされた教会に新たに閃光が駆け抜けた。
俺が、仕掛けられなかった天使を別の場所に吹き飛ばす強制退場技。天使たちと戦う上での生命線。元々それを教えてくれたのは、
「キャスかっ!?」
「急げ、ルシファーはすぐに戻って来る!」
ルシファーが血の刻印で吹き飛び、体にかけられていたウィルスの症状がまとめて消える。
キャスだ⋯⋯! どうしてここに、んなことはどうだっていい! 一旦退くぞッ!
痛みは全身を這い回ってるが四の五の言ってられず、手首のイカれてない左手で懐からインパラのキーを抜いて走る。
「逃げるぞジャンヌ! 夾竹桃は⋯⋯!?」
「意識が落ちてる、先に行け! 桃子は私が運んでいく!」
視界の隅で微かに見えたが⋯⋯
⋯⋯ちくしょうめ、夾竹桃は口も、目からも出血してる。合併症⋯⋯? ウィルス以外にルシファーがまじないを仕込んだ⋯⋯?
考えるのはあとだ。教会の扉を蹴り破るつもりで飛び出し、潰れそうな足と暴れる心臓を黙らせてインパラのシートに飛び乗る。
頼む、急げよBaby⋯⋯かかった!
「キャス! ジャンヌ! みんな乗れぇーっ!」
逃げる、今はそれしかない。
敗戦、どうでもいい。今は生き残る。