哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

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新刊記念に、遊びました。
久々に長いです、飲み物とどうぞ。


もうひとつの日常

 

 

 

 

「そこにいろッ! 必ず助ける」

 

 

 制服の上着を脱ぎ捨て走ってきた雪平が鉄100%の形見のナイフを口に咥えるや、今まさに少女が霊に引きずり込まれた底の見えない水面に飛び込んだ。

 

 

「‥‥‥凪!」

 

「大丈夫、あの男に任せていい。信じて」

 

 底の見えない暗い湖を、木で組まれた橋の上から少女の母と私は食い入るように見つめる。

 数秒前、海面から少し見えたその顔は悲痛なほどまぎれもなく死亡記事に乗っていた女性の顔だった。

 

 水面から首周りまでを覗かせただけで、血の気の失せた病的な青白い肌と虚ろな寒気を誘うような瞳が彼女の状態が普通じゃないことを語ってる。 

 

 遺体は見つからないまま焼かれず、彼女は亡骸はこの湖のどこかに眠ってる。

 そしていまの彼女は悪霊と化して、少女を水底に引きずり込んだ。よりによってまだ若い、これから先の時間を子供と一緒に歩いていこうとしていた母親の目の前で──

 

 

「‥‥‥っはぁ! 夾竹桃‥‥っ、この子を!」

 

「ああ、凪‥‥!! よかった‥‥ありがとう、ありがとう‥‥‥」

 

「礼はいい、急いで離れるぞ! 何回か切ったが結局時間稼ぎだ」

 

「雪平、手を!」

 

 水底から引き上げたびしょ濡れの女の子を抱き渡したあとでも、雪平の顔は優れない。

 まだ危険地帯にいる──何度も名前を娘の名前を呼ぶ母親の隣、手を取って橋に足をかけた雪平の瞳が焦燥が見えるのはそのせい。

 

 ハンターなら誰もが知ってるわ、鉄で霊を切るのは一時的な時間稼ぎ。遺体を燃やさない限り、霊は消えない。何度でも襲いかかる。

 

 ──静かな湖から何かが這いあがったように水しぶきが高く舞い上がった。

 

 

「走ってッ! できるだけ湖から離れるの!」

 

「‥‥‥信じられない、こんなことって‥‥‥あ、だめだめ‥‥‥しっかりしないと」

 

「とりあえずいまは娘を抱いて走れっ! 止まったらやばい、行け行けーっ!」

 

 あの霊は水を経由してしか移動できない、ついさっきまで頭で組んでいた理屈もさっきの不可解な水しぶきを見たあとでは自信がない。

 

 人の認識で組んだ理屈なんて、超自然的な現象の前では簡単に崩れ去る。

 けどこんな状況でも思うのは、ただの依頼がどうして‥‥‥母娘を連れて幽霊から逃げてまわる命がけの仕事になったのかって話。

 

「どこまで走るの!?」

 

「どこまでも、可能な限りだ! 時間をかけてその子に何度も囁きかけ、最後には湖に自分からやってくるように仕向ける。悪霊になれば大抵は怒りの塊みたいになるのに、彼女は用意周到」

 

「私たちもそうでよかった」

 

 水平二連式のソードオフを雪平に投げ渡すと、海兵隊さながらの淀みない動作で塩の弾が装填される。

 一度はミカエルに焼かれ、完全に元通りになったヘイゼルグリーンの双眸は刃のごとく細くなり返ってくるのはいつもの皮肉っぽい返し。

 

「後ろは任せるって?」

 

「それが仕事でしょ」

 

「そ、それって塩‥‥!? ま、待ってよ! あれと塩で戦うのっ!?」

 

「塩は『悪い者』を遠ざけるの、悪魔や悪霊をね」

 

 驚くのも無理はない、そうでしょ?

 いくら塩が古くから清めに使われてるからって心霊現象、オカルト、超自然的な存在に塩の弾で迎え撃とうなんて字面だけ見ると、無茶苦茶。

 

「彼女が水の中でしか動けないならいいが‥‥‥」

 

 パァン、と小さな岩を叩き割ったような破裂音が鳴った。楽観論を台無しにし、同時に髪から足先までをずぶ濡れにした成人女性の霊が私たちの背後からその姿を消す。

 

「陸でも元気らしい。お次はなんだ?」

 

 湖から離れて、人気のない砂利道を左右を巨大な雑木挟まれるような道をただ駆け抜ける。もう少し走ればインパラがある。あの子のところまで行けたら勝ち。

 

「‥‥‥今日のこと、もし新聞やテレビで話しても誰も信じてくれないわね‥‥‥」

 

「笑い話にできるなら最高だけど、なッ!」

 

 空薬莢を落とし、再度塩がショットガンに砕かれて白煙が湿った空気の中に漂う。

 まるで瞬間移動してきたように突然前触れもなく現れる相手に、反射的に狙いをつける。言葉に起こすとそれなりの芸当だけど、後退しながら一発も撃ち漏らさずにそれをやるのはさすが。誇張を抜きにしていい腕をしてる。

 

「ねぇ、あなたたちいつも‥‥‥というか武偵ってこんな仕事もしてるわけ?」

 

「たまに転がり込むの、こういう仕事が」

 

「たまに世界を救ってる」

 

 いちいち返しが映画っぽい、そう言おうとした矢先に発砲音が喉から出かけた言葉を止める。

 塩分は当分控えめでよさそうね──ああ、たまに思っちゃうの。こんな使い古された、B級映画みたいな言い回し‥‥‥完全に毒されてるって。

 

 

 

 

 

 

「いい車だから、無料でタイヤの空気も入れてくれるってさ。67年のインパラは最高」

 

「いつものだらけた喋り方がウケたのかもね。あなたは人を楽しませる天才よ、頭のネジが飛んでる疑いもあるけど」

 

 都会とはお世辞にも言えない人の喧騒から離れた地域のガソリンスタンド。

 

 ゆるやかにセルフのスタンドが増え始めている日本だが、どこかローレンスのスタンドを思わせる懐かしさがあった。

 ガソリンスタンドに心地よさを覚えるなんて変な話かもしれないが、ウィンチェスター家は元々ローレンスで車の修理をしていた家系。そうおかしいことでもないか。

 

「天才なんて別に。便利な内野手くらいでいいよ」

 

「機敏で肩もそこそこで、右打ちも左打ちもござれってわけ?」

 

「ご要望どおりに、送りバントも喜んで」

 

 けど、守備範囲って意味じゃ何やらせても器用な理子が遊撃手ってところかな。広範囲をカバーできるって感じがする、したたかな仕事人って感じ。

 

「今回は突然の狩りだったけど」

 

「かなりな、かなり突然だった」

 

「そうね。貴方にははらはらするし、ムカつくことだってある。けど味方につけたら、貴方ほど頼れる男は他にいない。貴方がいたから母親は子供を失わないで済んだし、あの子はこれから先の時間を奪われずに済んだわ、貴方が救った」

 

「よせよ、二人でだろ。俺だってお前のことは頼りにしてる、お互い様だ。いつも助けもらってる、柔軟性に富んだ、容赦のない冷酷非情な戦法で」

 

 困り顔で、どんな顔をしたらいいのかって言いたげに夾竹桃はちっちゃく笑う。

 髪の造花に指をやり、年齢とはかけ離れた幼い顔で微笑む。無駄に美人──使い古された、たった一つの言葉で簡単にその姿は説明できる。

 

 世の中、若作りしてる女性には惨たらしい真実なるだろうよ。この顔で24歳だぞ、ありえんだろ。蘭豹先生より歳上なんてさ。

 

「公衆電話もすっかり減っちまったよな、電話ボックスなんて昔は自販機みたいに置いてあったのに」

 

「テレホンカードはいい文化、そう思わない? 無くなってほしくない、それこそ損失だわ」

 

「ゲームの特典でって意味か? ま、ハワイではまだまだ公衆電話も健在だ。アメリカで人口一人当たりの公衆電話の台数が一番多い州なんだよ」

 

 思い返すと高天原先生とも少し古めの歌やドラマの話で盛り上がってたっけ。先生も言ってたよな、生徒なのに話がよく合うって‥‥‥()()()だから。

 

 ま、年齢の話で言うならルビーなんて100歳どころの話じゃないけど、サムを見ろ。悪魔の血云々があったにしろ彼女とベッドで仲良くやってた──見てくれが美人なら年齢なんてどうでもいいって話さ。そういう男もいる、世の中にはな。

 

 

 ガソリンスタンドに公衆電話や売店はセット、そんな俺の常識はとうの昔からアップデートされてないって疑いもあるがここのスタンドにはどちらもある。

 

「どうしたの? 何か文句を言いたそうな顔ね、吐いちゃえば?」 

 

「そんなんじゃない」

 

「じゃあ、その顔は?」

 

「どんな顔だよ、診察の時間か先生? ガソリンスタンドだ、いいところだと思って。あっちには電話、売店もある。ただ給油してくださいってだけのセルフと違って、温かみがある」

 

 公衆電話、こじんまりとした売店。

 それだけでも俺に言わせれば暖かさがある。できればこういう無駄と言われてしまいそうな温もりを大事にしてほしいもんだ。 

 

「いいじゃない、セルフも。安くて、目的を手早く済ませられる、私は好きよ。セルフのスタンド」

 

「嫌いなんて言ってない、俺も使うしな。ただこういうところを見ると、セルフは過剰な大理石やガラスで飾り付けられた部屋というか」

 

「冷たい、アットホームじゃないって?」

 

「ああ、そうだ」

 

「リュックひとつで何年も安モーテル暮らしがよく言うわね」

 

「温もりのあるリュックだった」

 

 首を揺らし答えると、空気の点検も終わって声をかけてくれた。これでbabyの調子もバッチリ、あとは武偵高への道を走るだけ。

 

 

「あ、ちょっと待って!」

 

 

 運転席のドアを開きかけたところで、凪と母親。例の母娘が歩いてきた。凪が持ってるのは、ラッピングされた‥‥‥これ、サンドイッチ?

 

「間に合ってよかった、帰る前にもう一度話したくて。ランチ作ったの、凪と一緒に。サンドイッチはこの子の作品、途中で食べて」

 

「ありがとう。もうキッチンに立てるのね。のせるの、手伝ってくれる?」

 

 ふ、金髪少女にお姉さんやれて楽しそうだな。

 目線も屈んで合わせて、なんとも優しい眼差しだことで。

 

「‥‥‥この数日間、もしかしたら夢を見てるんじゃないかって思って」

 

「だよね。受け入れられない気持ちは分かるよ。あの霊は、あの女性も娘を探してたんだよ、だから女の子ばかり狙われた。放水路が開かれてあの湖も干からびる、だから活発に動き始めたんだ」

 

「時間がないから‥‥‥?」 

 

「よくある。建物が壊されたり、改築されたりすると取り憑いてる霊が活発なることは。今回のはまさにそれ」

 

 湖で亡くなった、行方知れずになった娘を探して彼女は死んだあとも死神の誘いを蹴ってまで、あそこにしがみつき悪霊となった。

 その湖が枯れ果てる、在り方を失うって事態になって騒ぎ始めた。娘を探すという願いはとても綺麗だが、その為に無関係の子を手当たり次第湖に引きずり込むのは許されることじゃない。

 

「でもあの子が狙われたのは偶然。ごめんね、子供の頃にあんな体験。まだこれから色んなことに触れていけるのに、今回のことでいまはそうじゃなくても、いつか水が怖くなるかも‥‥‥」

 

「いいの、あの子は私が思ってる以上に逞しかったみたいだから。だから謝らないで、貴方たちがいなかったら私もあの子も助からなかった、感謝してもしきれない」

 

 これ、なんだろうな。

 普通の暮らしなんて望めないし、いつ死ぬか分からない非日常の連続で、呼吸をするように傷だらけになる。それでも狩りをやっててよかったと思えるのは誰かを救えたとき。

 

「母親ってのはさ、子供にとって船の錨みたいなもんなんだよ。拠り所というか、支えというかさ。あの子が逞しいのは君譲り、俺には子供はいないけど、無条件に君があの子を愛してるのは分かる。体に気をつけて」

 

 助手席を見やると、普段はクールな顔で通してる夾竹桃も無垢な子供が相手となれば間宮一派と仲良くやってるときみたいに楽しそうだ。

 その姿はナイフも銃とも縁のない、ただの美人に見える。これが白いフェンス付きの家や9時5時の仕事を捨てた報酬──そうだって言うなら、まだ救いはあるのかな。

 

「ねえ、最後にこれだけ聴かせて。あなたたちーー本当に学生なの? 学生は仮の姿で実は政府の職員とかだったりして」

 

「違う違う。むしろ政府とは仲が悪い側だよ、あいつも俺も。夾竹桃の顔見てよ、あれが社会人や20代って顔に見える?」

 

「それもそうね。あなたたちも気をつけて、ありがとう」

 

 本当は24歳なんだけどな、夾竹桃。けど、真実より思いやりがきくこともある。ちょっと変な学生ってことで置いておこう、その方がいい。

 名残惜しいがそろそろ行くか。凪、きっと素敵な女の子になるよ、あんなことがあったのにタフな顔してる。

 

「いいわね、今の言葉はコミニケーションの基本」

 

「アクエリオンは最高ー!」

 

「よろしい、お母さんと元気でね?」

 

 お馬鹿、まだ小学校にも早そうな子供に何を教えてるんだか。はしゃいでんな、先生。

 

「雪平、いくわよ。帰りは私がドライバー」

 

「待て、暴走するならせめてシートベルトしてからにして」

 

 黒髪をなびかせ、運転席に乗り込む彼女を追いかけるように俺もドアを開く。

 手を振ってくれる二人にやんわりと、俺も窓の中から手を振った。今日も空は快晴だ、あんなことがあったのに清々しいほどに。

 

「テーゼとルフラン、水兵さんお好みは?」

 

「Go Tight」

 

 快晴の下、帰路を走るシボレーインパラのなんと心地よいことか。

 

 

 

 

 

 

 

 後日談ってわけじゃないけど、あの狩りのあと玉藻が直々にあの湖に足を運んでくれた。お供の妖狐たちを何人か連れて。

 正一位の重役に頼みをするのは恐れ多かったけど、色金の件を多少穏便に済ませて事で微妙に恩を売れてたからこれでちゃらってことかな。干からびるまでもなく、もうあの湖に危険性はない。

 

 霊となった彼女による水難事故が起きることは、もう心配ないってハッキリと言ってくれたよ。冷蔵庫のプリンを盗み食いしながら。

 

「でさぁ、夾竹桃? これ、どうにかなんないのかな。診断の度に医者が腰抜かすんだよ」

 

「イカしてると思えば? 見えないけど」

 

 夾竹桃が住み込んでいる高級ホテル。

 山のような観葉植物やよく分からない蝶たちと共存をこなしてるすげえ部屋で、俺の手にあるのはついこないだ武偵病院で撮ったレントゲン写真。

 

 機能としては何も問題はない──胸骨と12本の肋骨すべてに天使避けのエノク語やラテン語が直接掘られていること以外は、だけど。

 

 微妙な悲壮感に苛まれながら睨みあっていると、不意に写真が奪い取られる。

 

「骨にタトゥー‥‥‥アリね」

 

「また漫画のネタか? 斬新すぎるだろ、別の方向性を探るのをお勧めする」

 

「創作で大事なのは最初の火種。大炎を起こすには最初の口火が重要なの、様子を見てそこからは出たとこ勝負」

 

「プランがないわけだ」

 

「少しは信用なさい。なんとかなるさ、海兵隊でもプランが崩れたときはそう言うわ」

 

 いや、そんな自信満々に言われても‥‥‥

 毒気が抜かれた、毒使いだけど。たまに天然なところがあるよな、ジャンヌみたいに。

 

「シカゴで親父が言ってた。正しくありたくて軍隊に入った、でもいい戦いもあればする価値もない戦いもあるって。この口論はやめよ、不毛だ」

 

「そうね、人のベッドに勝手に寝転がるのはどうかと思うけど」

 

 バレたか。立ってずっと話してるのも大変だし、こんな広いベッドなんだ多めに見ろよ。

 

「レバノンじゃ俺の部屋にお前だって入り込んできただろ、テレビないからとかなんとか。とどのつまりお互い様。高級ホテルってベッドまで手が込んでて、煉獄の高反発枕とは大違い」

 

「高反発枕?」

 

「石の上に服被せるの」

 

「それはもはやただの石じゃないかしら‥‥‥」

 

「低反発枕ならぬ、高反発枕だよあれは」

 

 仰向けになり、天井を隠すような角度が携帯電話を頭上にかざす。

 

 武偵高の終業式・卒業式は、通常の高等学校・職業専門学校より遅い3月28日に開かれる。その日、在校の2年生はめでたく鬼の3年、奴隷の1年もめでたく2年にランクアップするわけだ。

 

 1週間後、その門出にはキンジと神崎も緋緋色金のことを終わらせて日本に帰ってきてるはず。

 そして、式が終わればその日のフライトで俺は日本を‥‥‥出る。今まさに怪物の軍隊を作ろうしてるミカエルをほったらかしにはできない、今度こそ虚無の彼方にヤツを叩き込む。

 

 つまり、この部屋ともしばらくは──お別れだ。

 高級ベッド、観葉植物、名前もよくわからない毒の鱗粉を撒き散らす蝶。ずっと頼りにしてきた、彼女とも。

 

「なに?」

 

「前にも言ったけど、男女二人がベッドで仰向け。なのに何も起こる気配がない、すごいと思って。何をやってるかって聞かれたら、なんて答えりゃいい?」

 

「さも大事そうに値打ちのない話を繰り返してる、たぶん本当は意味のないことをね」

 

「それはなんとも、幸せなことなのかもな」

 

 広いベッドには二人で仰向けになれる、別にそこまで灯りが強いわけじゃないのに視界が眩しく、霞んで見えるのはきっと気の所為だ。

 

「色々あったよな、色々。お前がコルトを盗みに来てからホント、色々あったよ」

 

 だるい。

 首だけを夾竹桃に傾ける。

 

「破茶滅茶なことばかりだったけど、マジかよって思ったことは10回じゃ足りないけど、いまこうやって思い出せるのは‥‥‥いい思い出ばかりだ。感謝してる」

 

「お互い様」

 

「ならよかった、一方通行じゃなくて」

 

 微笑む、暗殺者らしくない顔で。

 根本的に悪党には向かない、何もかも。

 

「ずっと、ずっと言おうとは思ってたわ。あなたのせいだと思ってるのは、あなただけって──アラステアのことも、あなたが始めて恋した彼女のことも、あなたに罪はないってそう言いたかった」

 

「────っ、いいよ、それは。気持ちは嬉しいけど、事実なんだよ。特にジョーのことは、無理だ。割り切れないよ、割り切らずに生きていかないと駄目に決まってる、お前なら分かるだろ?」

 

 悲しい過去の自慢合戦なんてゴミだ。朽ち果てた石ころほどの意味もない。

 かぶりを振る、誰でも何かしら背負ってる。小さい大きいを比べるものじゃない。

 

「でも大勢の人を救った、何もかも犠牲にして。それが苦しみから逃れるためだとしても、誰かが命を繋いだことには変わりない」

 

「‥‥‥ありがとう。最初は家業だから仕方なくのハンターだった、でも家族は死んでいく」

 

 人間いつかは死ぬとしても、幸せな最後にはみんな遠かった。生を謳歌できたか、そう聞かれたら首を縦には振れない。

 

「いくら片付けても、次から次に狩りはやってくる。いつになったら終わるのか、頭に銃弾を打ち込まれた時か? 何のためにこんな仕事、イカれた暮らしをやってんのか分からないときもあった。でもいまは理由を持ってる、あのときより恵まれてるよ」

 

 出会いにも恵まれたしな。

 こう見えても日々成長してるつもりだ。

 

「なんか飲みたい気分だ、どう夾竹桃? 今夜俺と、付き合ってくれない?」

 

「それってお誘い? その次は『俺はコロナビールしか飲まねえ』ってワイルドスピードに続くわけ?」

 

「学生なのにビールは飲めないよ、そういう設定だろお前は」

 

「鏡の前で言ってみたら? 詐欺ね、トンカットアリよ、この顔は詐欺だわ」

 

「あ、おい‥‥‥っ!」

 

 ペタペタと手袋をしていないほうの手がぺちぺちと俺の顔に触れてくる。何が詐欺だ、言ってみろ! つか、お前色々とおかしくないか!?

 

「馬鹿、意味の分かんないこと‥‥‥本質を逸らしたいときは陽動作戦ってか?」

 

 腕を引き、そのまま黒セーラの背中を支えて自分の体ごと抱き起こす。

 結んだ瞳は、猫のように挑発的で。笑みを描いた唇と首はカクンと揺れる。

 

「お次はなぁんだー?」

 

「それは、俺のセリフなんだけど」

 

「シリアルの箱ってまだ謎謎乗せてるのね、丸くて機嫌の悪いものは?」

 

「悪循環だろ、こう、円になって‥‥‥」

 

「観光客、ニューヨークに24時間」

 

「はっ。飯食って、ブロードウェイがギリだな」

 

 ニューヨークもLAもどうせ楽しむなら一日じゃ足りない。

 抱えていた腕をほどき、どちらともなく俺たちは視線をテレビへ向ける。たとえしばらく来れなくなったとしても、これが最後だとしても、やることいつもと変わらない。

 

「アニメでも見る?」

 

「オススメの深夜アニメは?」

 

「ドラゴンクライシス、OPが神よ」 

 

「‥‥‥そこまで言うか。贔屓にしてたかわいい子に声が似てたとか? いいよ、理由は聞かない」

 

 冷蔵庫から瓶のコーラを拝借し、蓋を切る。

 アルコールはなくても炭酸はある、幸せだ。オススメのアニメが面白ければ尚のこと。

 

「すごい音‥‥‥雨というよりも嵐ね」

 

「? 来るときは、ただの曇りだったぞ? そんなひどくなるなんて天気予報で言ってたか?」

 

 たしかにひどい音だ。建物みたいに叩きつけられる音が、おもいっきり響いてる。

 雨は好きじゃない、単に気持ちが沈むってこと以上に雨の日はろくなコトがない。特にひどかったのは異教の神の集会、雰囲気のいい星5のホテルだと思ったら化物のパーティー会場だった。

 

「?」

 

 雨の日、高級ホテル。

 条件が揃っていたせいなんだろう、何の前触れも兆候も音もなく、そこを見たのはただの偶然。

 一瞬、固まった意識はすぐに回る。黒いレザーをボロボロにし、腰にも届く髪を赤い血でずぶ濡れにした、惨たらしい姿で女性が膝をついていた──おい、まてッ‥‥‥

 

 

「あ、アルテミスーー!? 大丈夫か! どうしたんだよその傷はッ!?」

 

 アルテミス、その名を聞いた夾竹桃もさすがに今回は目を見開いた。

 ギリシャの女神、かつて父親である大神ゼウスから俺たちを救ってくれた『狩り』の女神。本来は暗闇にとけるような綺麗な髪を揺らす、神話同様の人間離れした美貌の神だった。

 それに俺が見てきた異教の神たちのなかでも特に腕が立つ、こんな血まみれの有り様は俺だってまだ半信半疑だ、事態が飲み込めてない。

 

「連絡をなしに来たのは謝るけど、時間が、ない。敵が迫ってる、すぐに、追いかけてくる‥‥‥!」

 

「おい、敵って‥‥‥どういうことだ、お前を血まみれにしたのが追いかけてきてるってのか!?」

 

「彼女は怒ってる。私とあなたたちが、(ゼウス)を殺したことから。一人残らず殺す気でいる、最初は私とあなたから、最後は()()()を含めて全員を殺す」

 

「‥‥‥いきなり来てまたとんでもない話を」

 

 プロメテウスの子供、アルテミスを含めて俺たち三人も皆殺し。どこの誰か知らないが殺意と怒りの塊みたいになってるソイツがアルテミスを血まみれにしたわけか‥‥‥

 

 無茶苦茶だ。

 数年ぶりにいきなり現れたと思えば、とんでもない話をぶち込んでくれた。しかし、血まみれでいまも赤い毒々しい水滴を垂らし続けてる体は、冗談を言えるとは思えない。何より彼女の真面目さは、よく分かってる。

 

「とりあえずタオルを。よく俺の居場所がわかったな」

 

「私に祈らなかった?」

 

「ハンターはみんな祈るよ、あなたに。まさかこんなところで会うとは思わなかったけどな、長生きしてるもんだってこんなときに使うのかな」

 

「それで、その傷は誰につけられたの? 雪平が言ってた、貴方は凄腕って。ゼウスが絡むならギリシャの神々、オリュンポスよね──まさか彼女って‥‥‥」

 

 推論を立てながら、言葉を刻んでいく夾竹桃の顔から血の気が失せ始める。なまじ知識人だけに絞られていく候補に、状況の笑えなさを理解したんだろう。

 

 オリュンポスの神々。ギリシャ神話において、オリュンポス山の頂上に住まうと伝えられる主要な神々十二柱のことだ。

 俺たちは山から火を盗んだプロメテウス神の子供を巡ってゼウスと戦った。ヒステリックな母親のせいでゼウスを縛ってたまじないは解かれ、最後はプロメテウスの犠牲を払いながらアルテミスがゼウスを射抜いた。

 

 後味の悪い狩りは色々あるけど、あれは俺が覚えてるなかでも指折り。

 ゼウスへの敵討ちに躍起になり、そしてアルテミスを血まみれにできるだけの力を持った女の神──悲観論で一番やばいのを挙げるならそれは、

 

 

「ヘラよ。冥府の女神、ウィンチェスター兄弟は皆殺し。でもあの二人には天使の影がある、だからまずはあなたから。あなたが私に祈りを捧げたって知ったなら尚更狙われる‥‥‥‥」

 

「一番やばいの引いたな。ちっ、よりによってヘラか。ギリシャ屈指の化物じゃねえかよ‥‥‥」

 

 緋緋も名前を挙げてた神だ。

 冥府の女神ヘラ。ゼウスの妃で、色んなゲームやファンタジーの映画で出てくる。ギリシャ神話の重役も重役、色んなやばい逸話が残ってる化物だ。

 

「‥‥‥ヘラに狙われるなんて。ルームメイトを超えたんじゃない、普通じゃない生活具合で」

 

「キンジは俺の10倍はやばい生活してるよ、でも今日ので9倍くらいにはいけたかもな‥‥‥嬉しくない」

 

 雨の音が強くなり、たとえることのできない寒気が背中をなぞる。まさか、この天気は‥‥‥

 

「要点は伝えた、しばらく身を潜めて。隙を見て私がヘラを片付ける、必ず」

 

「おい、一応は父親の相手だろ。それにその傷で‥‥‥」

 

 この天気がヘラ登場の前触れなら確かに時間はない、音はどんどん激しく、天候は荒れてる。

 会話を楽しんでられないといった様子で、アルテミスは懐から取り出した小さな何かの骨を砕き、血を滴らせていた脇腹の血を指で混ぜ込む。

 

「せ、聖人の骨か‥‥‥!?」

 

「そっちの子」

 

 俺の言葉には耳を貸さず、アルテミスは血に濡れた指と傷口から何度も滴る赤色で閉じられた窓に模様を描いていく。

 

「あなたの親しい人間ならヘラは見逃さない、地獄の騎士のようにいまの彼女は血を求めてる」

 

「‥‥‥アバドンみたいに? 笑えねえ」

 

「──最後の最後。あなただけが、私を尊厳のある神だと言ってくれた。私を森のなかまで追いかけて、祈りをくれた。だから私は仕事をする、それだけ」

 

 もう指先だけじゃない、右の掌そのものを真っ赤に染めながらアルテミスは窓に図形を描き終える。

 まるい円の中に錨のような独特のマーク、異教の神々特有のまじない‥‥‥? 指から赤い雫をしたたらせながら、アルテミスは手を持ち上げる。

 

 

 ────

 

 ────

 

 ────カチカチ、と、部屋の灯りが突如として明滅しだした。

 

 

 

「ノックの合図‥‥‥?」

 

「ちなみに居留守使うのはなしか? 俺は絶対にそれをオススメするけどな‥‥‥」

 

「時間切れよ、彼女が来た。生きてまた会えることを願ってる」

  

 印にアルテミスの手が押し付けられ、部屋が目を焼くような赤い閃光に覆い隠される。

 腕で目を庇うのも仕方ない熱量のなかで、ほんの僅かだが確かにソレは見えた。

 

 黒、いや‥‥‥藍色かもしれない。

 神崎や理子ほどの背丈に、動きやすさを度外視し装飾まみれの黒いドレス。僅か一瞬、それまでいなかった新たな人影が見えたのは──そういうことだろう。

 玉藻くらいの幼さが残る顔、しかし裂けたような口元の笑みが焼ける視界でもくっきりと見えた。ゾッとする、一瞬でもそれが普通じゃないのが分かる。

 

 あれが────ヘラ。スケールがデカいギリシャ神話のメインキャスト、冥府の女神。姿形と中身の危険さが比例するとは限らない、やばそうだ。

 

 

 

 

 

 

「ったあああ!? あっ、背中っ、背中があッ!」

 

 背中に派手な痛みが走り、景色は変わった。派手に晴れた青空が見える、ってことは少なくとも外か。目も頭も無事に働いてるらしい。

 

「ここは‥‥‥知らない景色ね。どこかに飛ばされた?」

 

「いいからどけ、いつまで人の上で正座してんだよどんな飛ばされ方したんだ」

 

「失敬。着地任せたって言ったのだけど」

 

「‥‥‥聞いてねえよ。見事にクッションか」 

 

 頭を抑えながら、とりあえず知らない景色と言った辺り一面に目を向けてみる。

 アルテミスのまじないはヘラの追跡から俺たちをどこかに逃がすためのものだろう。問題は飛ばされたここがどこかってことだが少なくとも人はいる。

 

 そしてあちこちに車が並んでる。そして人が行ったり来たり、10人やそこらじゃないもっと、周りを見れば人、人、人、そしてあそこにはあるのは‥‥‥す、スタジオライト‥‥‥電飾の紐をを若い女の子がドアにつけてる。ドアだけ、部屋には繋がってない完全なドアだ‥‥ま、待てよ、これは‥‥‥

 

 あっちにあるのは今度は部屋だ。

 違う、部屋じゃない、青空の下に部屋の空間だけが切り取られて置かれてる、ありゃハリボテの、撮影セットだ‥‥‥なぜだろう、悲観論に備えるのは武偵だからかな。すごく、嫌な予感がしてきたぞ‥‥‥

 

 いきなり飛ばされた先が撮影現場、あの‥‥‥これさぁ‥‥‥前にも一度見たような気が‥‥‥

 

「ど、どうかした? ついにこの世の終わりがやってきたかって言いそうな顔ね‥‥‥」

 

「お前も遊び心があるね、今混乱中」

 

「私もよ。ここは一体どこなのか、何かの制作現場‥‥‥?」

 

 退路が塞がれて、悲観論で考えた結果に一本道がつながっていく。他の道に離れた火が、ただひとつの可能性に的を絞らせるように。

 

「夾ちゃん、冥府の神ヘラを倒すにはやっぱり彼の力を借りるしかないよ。神話時代のことを考えても」

 

「と、突然話題を変えるのね‥‥‥困ったものだけど何か名案? 頼れる異教の神でも思い出した?」

 

「相手はゼウスの妃。ギリシャ神話のトップランカーだ、それなら全知全能の神ゼウスさえも葬りさった異教の神‥‥‥”ザキラ”の力を借りるしかない!」

 

「‥‥‥それはデュエマの世界の話でしょ。現実逃避はときに心を守るけど、この場合は悪手──あそこ、見て」

 

 

 あそこ、ああ、ジャンヌだ。制服姿のジャンヌがいる、超能力者のジャンヌなら何か知ってるかも、そう思うんだろ、分かるよ。

 夾竹桃は俺が何か言うよりも先に走り出す、いつもより随分と行動的だ。胸騒ぎを抱えながら、俺もそのあとを速歩きで追いかける。

 嫌な予感するなぁ‥‥‥気のせいかなどう見てもジャンヌなんだけど、嫌な予感するなぁ‥‥‥

 

 碧眼と銀髪、どう見ても日本人離れしたいつもの聖女ジャンヌダルクは俺たちを見つけるや、何故かかるく咳払い。正面突破の夾ちゃんは意に返さず話しかける。

 

「よかった。貴方も飛ばされちゃった? それとも最初からに?」

 

「‥‥‥夾竹桃、ちょっと待て。先に確認したいことが」

 

「大丈夫だ、言いたいことは分かってる。皆まで言うな。すぅ──アルテミスはキリとお前がヘラに殺されないようにもう一つの日常に送り込んだ。オリュンポスの神に伝わる魔法だ、そこは大部分が私たちの知る世界に酷似しているが違うところは劇的に違う」

 

「嘘だろ‥‥‥ああ、マジかよ……」

 

「つまりまた異世界? キリ・ウィンチェスターとの珍道中はいつも飽きないわね。それじゃ、この世界の抜け方だけど」

 

 と、助け舟を饒舌に求めたところでジャンヌの眼が泳ぐ。()()()()()なんだ、これで誤魔化しようがなくなった。

 

「ああ‥‥‥そうだな」

 

「長居はできないわ、なぜなら深夜アニメの録画をセットしてないから。これは死活問題よ」

 

「‥‥‥そんなセリフ聞いてないぞ。また追加があったのか? ふむ」

 

「悪い! 合わせありがとう、ほら行くぞ! じゃあまた後でな、綺麗な………銀髪で、碧眼の………素敵なお嬢さま」

 

「待ちなさい、まだ話が‥‥‥!」

 

 遮るように夾竹桃の肩を掴んで、ジャンヌに‥‥‥ジャンヌに手をひらひらと振ってその場を去る。とりあえず笑っとけ、笑っとけば誤魔化せる。

 

 

 

「キリル、また後で」

 

「‥‥‥あ、ああ‥‥‥だな。よき一日を」

 

「キリル‥‥‥?」

 

 

 ちくしょうめ、な、なんてこったいだよ。

 人が忙しなく行き交う現場を、何も言わずに歩いていられる、これ自体おかしな話さ。察しろって言われてるようなもんなんだよ。

 

「いつもあの名前に拒否反応を示すけど、今日は珍しいわね。かなり穏やか」

 

「残念ながらある特殊な状況に限っては」

 

「というか、さっきのアレは? 口説いたの?」

 

「そうじゃない。いいか、よく聞け夾竹桃。バカバカしいけどな、この状況を説明してやる」

 

 人の邪魔にならなさそうな端のほうで、俺は肩を落としながら夾竹桃に目を合わせる。察しもいいし、鋭い彼女がここまで気付かないのも無理はない、普通じゃないからな。この状況。

 

「バルサザールを覚えてるな、ミカエルの軍隊を指揮してたあいつだ。こっちの世界のあいつは内戦に乗じて天界から武器を盗んだ」

 

「ラファエルとカスティエルの内戦? 敵か味方かよく分からない天使だったって」

 

「ああ、味方かと言われるとグレーゾーンだけどぶっちゃけだから憎みきれない。バーで会ったら一緒に遊んでたかも、まあそれは置いといて。バルサザールがラファエルが仕掛けた殺し屋に追われてたとき、部屋にやってきたんだ。そのときもこんな感じで……」

 

 何か閃いたって顔だな。

 そう、確か一度か二度、お前にも話した記憶がある。ふざけた話だから無理もない。しかし察しの良い蠍はカメラを、照明用の機材を指で差してから俺に、

 

「そこそこ稼いでる役者?」

 

「役者一本で食べてけるなら大したもんだろ、すごいことだよ。すごくすごいだろ。そうだよ、この際なんで俺があの呼び方に、ジョーンズ博士のジュニアみたいに拒否反応が出てるか教えてやる」

 

 そう、察しはついてるよな夾竹桃。ここにはきっと悪魔も天使も怪物もいない、魔女も。

 バカバカしいから一呼吸で説明してやる、大変な世界に放り込んでくれた女神様にちょっとしたこんちきしょうめを込めてな。

 

 

「キリルってのは、バルサザールが飛ばした意味不明な世界での俺の名前だ。そこそこ俺が売れてる役者で、兄貴がルビーと結婚したり昼メロに出てたり、天使も怪物も悪魔もテレビや本の中でしかいない世界で、俺たちの日常がそのまま番組になってたんだ、誰が見たがるんだって話だけどな‥‥‥」

 

 半分憤慨を混ぜて言ってやる。

 まだ続くぞ。

 

「たぶんここもそんな感じでさっきのはジャンヌじゃなくて、ジャンヌの役を射止めた名前も分かんないけど綺麗な女優さんだ。俺もお前もメインキャストかは怪しいけど出演者、だから堂々と現場を歩けてる」

 

 どうだ、驚いたか?

 

 ひどいな、自分で言ってても無茶苦茶だ。

 けど前例がある、そしてあそこのメイク担当っぽい女の子が手を振ってくれてる。知り合いなんだ。俺は見たことないけど。

 

「‥‥‥本気?」

 

「たぶんお前も見覚えのない名前で呼ばれるよ、覚悟しとけ」

 

「‥‥‥演技、できるかしら」

 

「いやそりゃしんないけど‥‥‥おい、小学校初めての子供みたいな顔やめろって!」 

 

 急に心細そうなその顔やめろって‥‥‥!

 水のなかでもあるまいし、大体だな。さっさとこの世界から抜け出しちまえば演技も何も──

 

 ないと思ってたよ、あのときも。

 でもよく言うよな、一度あることは二度ある。ないときもあるけど今回はそうじゃなくて、メイク担当に捕まった俺たちは何の対抗策やアイデアもないまま、

 

 

 

「シーン33テイク1、マーカー」

 

 カチンコが切られると、理性が働く。

 それは多分、自分一人の問題では済まず、多くの人が関わる仕事だから台無しにするわけにはいかないって結構普通の倫理観のせいだと思う。

 

 仕事=生活に関わる。

 すごく普通の、倫理観だ。自分一人の責任で済まないってやっぱり役者は大変だよ。どう思う? 部屋で着物姿の夾竹桃先生。

 

「決めたわ。3000万ドルあったら、私は無人島を買う」

 

「これ以上一人の時間を過ごす気か? 今でも十分だろ」

 

「‥‥‥ヨットを買ってあげるからいつでも来なさいな」

 

「駄目だ、ヨットは酔うし波にやられる。自家用ジェットなら考える」

 

「買うつもり? 自家用ジェットを?」

 

「お前が俺に。俺はそうだな、車でも作るよ。ウィンチェスター家は元々ローレンスで婆さんが車の修理をして家計を支えてた」

 

 いや、どういうシーンなんだよこれ‥‥‥

 舞台が日本なのにドル計算なの少し違和感あるんだけど‥‥‥

 

「3000万ドルよ? なのに整備士?」

 

「ただの整備士じゃない、信念を持った整備士だ。絶対に水増し請求なんてしない、職人タイプ」

 

「ま、島じゃ車はいらないけどね」

 

「ヤシの実で自転車でも作る気か? そりゃもう錬金術だろ、魔術師だ」

 

 言いたいことは分かるよ、夾竹桃。

 そう、俺も同じこと思ってる、たぶんね。

 

「シーン33、テイク1でオーケーです!」

 

 

 

「なあ、俺こんなこと言わないぞ。信念なんてグチャグチャにしちまう男だ」

 

「知ってる、私も無人島なんて買わないから。3000万ドルあって無人島? 何を考えてるの?」

 

「知らん、そもそも読んだか? エジプトの博物館だか博覧館に行くシーン、オシリスだぞオシリス。口が2つある赤いほうのオシリスはともかく、裁判やってる没落貴族みたいなほうのオシリスの説明を黙って聞いてるなんてありえない」

 

「私たちがクラブのフロアで騒いで、踊るのは?」

 

「そっちのほうは‥‥‥ワンチャンある?」

 

 お手上げ、そんな顔で笑った俺に夾竹桃は鏡みたいに笑う。こっちもお手上げって顔で。

 これがもし日本でやる最後の狩りだとしたらーー最後の最後でとんでもないのが残ってたなぁ。

 

「でも少し安心した、こっちの世界でも。お前とは仲良くやれてるみたいで」

 

「良好にやれてる、かもね。少なくとも首にナイフを突きつけるような出会いじゃないと思うから」

 

「あれはあれでいい思い出だよ、いまでも首は繋がってる」

 

「そうね。昔は昔、いまはいまよ。だから協力して乗り切りましょう、今回も」

 

 そうだな、お互い様。

 たまに感動的こと言うよな、本質的な優しさが殺し切れてないからか。

 

「‥‥‥台詞が飛んだ時はフォローしてちょうだい、うまく」

 

「お、おまえなぁ‥‥‥」

 

「パートナーでしょ、パートナーは一緒に損を被るものよ」

 

「そりゃただのみちづれじゃ‥‥‥パートナーとか相棒とか、どうにもなんか違う気がするよ‥‥‥俺とお前って」

 

 アニメの予約を忘れたからわざと転べなんて提案しないだろ、相棒とかパートナーとか。あのセラピーの二人三脚、忘れてないからな。

 俺とお前は、そんな高尚なもので言い表せる関係を振り切っちまったんだよ、良い意味でも悪い意味でもな。ほら、始まったぞお仕事だ。

 

 

「なあ、車を見るから手伝ってくれとは聞いたけどこれじゃ変化球だぜ。金一さんには俺も世話になったけど、ベビーカーなんてまだ気が早すぎないか?」

 

「備えは大事、何事もね。今買って届けるわけじゃないわ、見てるだけ。これなんてどう? フレームはカーボンファイバー、しかもコンバーチブル」

 

「高すぎるよ、そこそこの中古車が帰る値段だ。それなら浮いたお金で何か別に贈ったほうがいい。そっちのは? 安いし、金一さん用の炭酸飲料を置いとく場所もある」

 

「馬鹿なの? 赤ん坊のカップホルダーよ」

 

「赤ん坊に炭酸やるのか? そりゃさすがにまずいだろ‥‥‥」

 

 金一さん、遅れましたがパトラとお幸せに。

 さて、まずはどうやって‥‥‥この平和すぎる世界から抜け出すかだな。

 ちなみにスタッフと監督と進行役の人‥‥‥ベビーカーってそんなに高いの?






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