「いっ、て……ぇ!!」
「我慢して」
「あ、ぐッ……くそッ!」
「もうちょっとーーほら、取れたわ」
カランと、赤色に染まった銃弾がグラスの中で音を立てると、張り詰めていた神経が途端に脱力した。カウンター席に置かれた酒をそのまま流し込み、乾いた喉を濡らしていく。
弾を摘出する過程で掘り起こされた左肩の傷口には白布が当てられるが、それもまた言い表せない痛みが頭を殴り付けてくる。誇張抜きにしてすごく痛い。
「……ヘタクソだな」
「よく言うわ。こんなの学校じゃ習わない」
ストレートに指摘すると、彼女は途端に目を大きく開いた。痛みから意識を逸らすべく、飲みかけの酒にもう一度手を伸ばす。
「もういいか、それよりなんか食える物……」
「絆創膏張るまで待ってよ」
「……サドだな」
「お礼はいい」
ブロンドの彼女はサージカルテープを雑に切ると、傷口に蓋をする要領で張り付けていく。そのあどけない横顔を見ていると、彼女は自分より歳上だったか、はたまたその逆だったか。そんなどうでも良いことを考えられるくらいには余裕が出ていた。酒で痛みを和らげる、などとアクション映画にありがちな荒い治療も案外バカにできないかもしれない。
「ーーすげえよな。暗がりのバーで、カウンター席に男女が二人。なのにやってることが肩に埋まった鉛弾の摘出、何か起きそうって気配がまったくない」
「そういうときだってある。今日みたいに」
「終わったわ」と隣に座った彼女は、澄ました顔で目の前に置かれていたビールを開けた。
「そうだな。そういうときもある。本当に残念だけど」
隣に座った彼女を見ないまま、言葉で頷く。普段ならとうに店を閉めている時間、やけに静かな店内も当然のことだった。古びたビリヤードの台も、ポーカーのテーブル代わりに使われている机も、黙ったままで見渡してしまえば哀愁を感じさせる。
一方、その静けさが二人水入らずという状況を実感させてくれた。来るべき時間が来ればハンターたちでごった返すテーブルもカウンターも今この瞬間に限っては閑散としている。別にこれから何が起きて、彼女との関係が変わるわけでもないのだがそれでも悪い気分にはならなかった。
「ねえ、悪魔は本当のことも言うの?」
「相手を動揺させる為にな。大抵の悪魔は、嘘と本当のことを織り交ぜてくる」
単純にからかったり、嘲笑いたいだけの連中も中にはいるだろう。握手を求めて、素直に応じてくれる連中ではないのだ。しかし、どうしてそんな話をーー?
「ーー何か言われたか?」
「いいえ。何でもない」
「そっか。ならいいんだが」
突然の質問にしては不気味、嫌な予感を感じながらボトルを呷った。彼女が口にした、悪魔というネガティブなことを連想させるには充分すぎるキーワードが頭から離れない。何もなければそれが一番だが、そうも行かず隣の彼女は続けた。
「覚えてる? 父が死んだときパートナーがいたって話をしたの。父は貴方のお父さんと組んで狩りをした」
「カリフォルニア州の『デビルズゲート・レザボア』で悪魔を罠にかけようとして、君のお父さんが囮に。忘れるわけないだろ、覚えてるよ。二人は滅多に誰かと組んで仕事をすることはなかったけど、そのときは一緒に手を組んだ」
忘れるわけがない、それは例えるなら胸にナイフを突き立てられたような話だ。忘れていい話でもなければ、忘れることのできる話でもない。
「確かに親父はいつも一人、誰かと歩調を合わせて狩りをするタイプじゃなかった。けど、分かるよ。正直、あのときの親父は妻を殺されて……連中への復讐に固執してた。いや、復讐しか頭になかった。結果、親父が先走って君のお父さんは犠牲になった。恨んで当然だよ、俺たちのことも」
自分たちは関係ないーー口が裂けてもそんな言葉を吐ける気にはなれない。彼女にも、彼女の母親にも受けた恩が大きすぎる。何より彼女には恨む権利がある。
「母さんからはそう言って聞かされた。貴方たちと組んで狩りをしたときも、"血は争えない"ってすごい剣幕で怒鳴られた。でも誰もその場所には立ち会ってない、もしかしたらーー少し違ってたのかも、事実は」
「……エレンの話が間違ってるって?」
「その場を実際に見たわけじゃない。貴方のお父さんが、悪魔に囚われた父を苦しみから解放するために殺したとしたら? 手足を引き裂かれて地面をのたうつところを、撃ったとしたら?」
眉を寄せながら見た彼女の顔は、必死に涼しい顔を身繕っているような危うさがあった。澄ました横顔はほんの小さなキッカケで決壊してしまいそうで、そんな彼女にかける言葉が咄嗟に見つかるはずもなく、逃げ出すように酒を呷ることで自分の口を塞いだ。
「手足を引きちぎるくらいのことはする連中でしょ?」
「まあな。でも君が言ったとおり、真実は闇の中だ。親父ももういないし、聞いたところで答えやしないよ。仮に今の話が真実だったとして、自分の手で友人を殺したことには変わらないんだ。親父の中ではそこで完結してる、理由も経緯も関係ないよ」
本当のことは誰にも分からない。それが他ならない悪魔たちが語った言葉であろうと、真実と言い切ることは自分にはできない。自嘲気味た笑みと一緒に口の中に甘ったるい味が広がる、このペースで飲み続けたら朝は地獄を見そうだ。
「ーー母さん?」
隣から聞こえた言葉で、座ったまま体を反転すると、仏頂面のマスターが入り口で紙袋を手に提げていた。
「エレン? 早かったな、冷蔵庫いっぱいに買い込むんだと思ってた」
「ぼけっと見てないで手伝って。その様子じゃ朝までいる気でしょ、タダじゃ泊めさせないわ」
「……畏まりました。マスター・ハーベル」
「よしてよ、そんなジェダイマスターみたいな呼び方。柄じゃないわ」
二つ返事で頷いて、紙袋を受け取る。中を覗くと、如何にも健康によさそうな色とりどりの野菜が敷き詰められていた。赤、緑、黄色ーー菜食嫌いの兄には悪夢のようなラインナップだ。
「ディーンが嘆きそう……」
「何よこれ。ずっと飲んだくれてたんじゃないでしょうね」
「まさか。話してただけだよ、至って健全に」
「あたしがちょっと留守にしただけで空の酒瓶だらけ。アルコールより砂糖と炭酸が好きな男がどうしちゃったの?」
呆れた様子で、カウンターの上で空になっていた酒瓶が持ち上げられる。
「それはなんというか、ジョーが一緒に飲もうって」
「先に開けたのはそっちでしょ」
「そうだっけ?」
「そこまで。あんたたち酒場の匂いがする」
「母さん、ここは酒場よ。匂いがするのは当然」
「あんた、あたしがキープしてたボトル開けたんじゃないでしょうね?」
「……えっ?」
「おっと……」
「そのおっとはまずい方のおっと?」
それは聞いてないーーどうすることもできず苦笑いしながら、買い出しの品を整理した。酒と埃っぽさが混じったロードハウス、久々に尋ねた場所は我が家に帰った気分だった。他に例えようのない心地よさがある。
「いいわ。ジョー、あんたは先にシャワー浴びてきなさい。何か作っとくから。ちょっと、潰れてないなら手伝ってもらえる?」
「喜んで。よし、なに作る? 『赤魚のパイナップル和え』なんてどうだ? 前にテレビ番組でやってた」
「どこに魚があるのよ。バカ言ってないで、さっさと手洗いなさい」
「……美味そうだったんだけどなぁ。またの機会にするよ、ちゃっちゃっとやっちまおうぜ。なんか無性に腹が減った」
手早く手を洗い、食器棚から包丁を借りる。この一瞬だけを切り取れば、狩りともハンターとも無縁の普通の暮らしの1ぺージ。そう考えると、現金に口角が緩んでしまう。不意に小さく笑い声がした、隣からだ。
「なに、どうかした?」
「あんたのことよ。でかくなったわね、ジョーが反抗期になるわけだわ。みんな歳を重ねた」
思いもよらない言葉に、一瞬喉が詰まる。母娘揃って後ろからの不意打ちが過ぎる。
「らしくないこと言わないでよ。こっちが調子狂うっての。昔に思いを馳せるには早すぎるんじゃない?」
「この店でミルクでを頼んだのは後にも先にもあんた一人よ。あの目付きの悪い坊やが今はハンターになって、隣で包丁を握ってる。昔を思い出したくもなるわ」
「そういう母親っぽいのは、俺よりジョーに言ってやるべきじゃない?」
「あんただって手のかかるガキってことよ」
「……ボビーみたいなこと言っちゃって。歳はとりたくないもんだ。お母さん、ちなみに俺はチキンが食いたいです」
「ははっ、感謝祭には早いわよ。昔はジョーが凍ったままのチキンをーー」
そこにいるだけで安らぎを感じられる場所、インパラと同じ最後に帰ることのできる場所。
"ハーベルズ・ロードハウス"ーーそれは忘れることのできない記憶の1ページ。
ーーー
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ーーーーー
捲ったページを最後に、本を閉じる。気付けば分厚かった本のページも折り返し地点まで読み進めてしまった。我ながら熱を入れたものだ、ここまで夢中になって文字を追いかけたのもいつぶりだろう。
「ジャンヌぅ、どうどう? 理子の仕事ぶりは」
「上出来だ。とはいえ、アリアに
「ま、そうなんだけど、今回はお役人が相手だからね。手は抜けない案件なんだよ」
秋葉原。私たちだけで貸し切られたカフェでそう言うのはアリアに変装した峰理子ーーイ・ウー在籍時から付き合いのある友人だ。なだらかな胸元から、緋色の髪と瞳まで繊細に標的に寄せた仕事ぶりは、相変わらずだった。
「アリアが動き回っている間は理子が病室でアリアの身代わりをやって、逆にあっちはアリアに化けた理子が動き回ってるってことにしとこうかなって」
と、話している理子の声もまた、アリアの特徴的なアニメ声だ。
「お得意の情報操作か。できる女は忙しいな」
「辛いとこだよねー。外務省の情報操作に24時間だけちょうだいって言ったけど、キーくん……待てるかなぁ……」
理子の言わんとすることは分かる。遠山なら24時間もあれば、新しいトラブルを引っ張りかねない。それが遠山という男だと、私たちは知っている。
「さあな。だが、トラブルを踏みつけながらも進んでいくのが遠山という男だ」
「それは100%言えてるね。……あれ、何か読んでたの?」
ピンクのツインテールを揺らして歩いてきた理子(アリア)が私の隣のテーブル席に就いた。そしてテーブル上に置かれた本を一瞥し、
「なんだ、キリくんちの自叙伝じゃん。こんなの読んでたの?」
「おかしいか?」
「おかしくはないけど、ちょっと驚いたかな」
そう言って足をぷらぷらと揺らし、一瞬丸くなった瞳を戻していく。そして、
「夾ちゃん、愚痴ってたよねぇ。ノンフィクションだったのにフィクションになったって」
「今回の件、あいつはどうするつもりだ? 耳には入っているのだろう?」
「理子と一緒、裏で動いてくれるって連絡が。あの女、こと恋愛においては誰よりもルールまみれの女だ。気に入らないカップリングでも、どこの誰とも分からない神様に台無しにされるのは気に入らないんだろ」
男口調を織り混ぜつつ、理子は棒キャンディーを口元に導くと、閉じられていた本を開くや数ページ捲っていく。だが、やがてかぶりを振って元通りに畳んでしまった。
「でも皮肉だよねぇ。夾竹桃は恋愛を知らないことが、創作意欲に繋がるって考えてる。キリは自分たちが誰かを好きになることが、その人の生活や今ある関係も何もかも台無しにするって考えてる。誰かを好きになったり、愛することは拒否っても二人の理由は正反対ーー」
度々、二人が語っている恋愛観を並べて、理子は鋭く目を細めた。
「手に入れる為に恋愛をしないのが夾竹桃で、失わない為に恋愛をしないのがキリ。ホント、噛み合ってるのやら噛み合ってないのやら、分かんない二人だよねぇ」
似ているようで、似ていない。噛み合っているようで噛み合っていない。言葉遊びでもしているような理子の言葉が、不思議と胸の内を乱していく。恋と戦の神を控える最中、恋愛を語るのも奇妙な話だ。話題に挙がるのが魔女の怨敵であるウィンチェスター、尚のこと妙な気分になる。
私は今の雪平切を知っている。つまり、ここに描かれたあいつの『恋』が痛み分けに終わったことも、最後に待ち構えるのが望まない結末であることも全部分かっている。やはり、悲恋が輝くのは物語の中だけらしい。それがたとえ意味のある死であろうと、死は死。その一点だけはどんな言葉を並べようと覆せない。
他ならぬ、あいつが口にしていることだ。人の死に意味や形があるとしてーー人の魂はゴム毬じゃない。取り返しのつくものではなく、脆く、壊れやすく、しかし私たちが思っている以上に価値のあるものーー
「……っていうか、あいつ何歳なの?」
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ーーーーー
「すげえヌード写真だよな。ドクがびびりまくるわけだぜ、びっくり人間コンテストに出れる」
手元にはあるのは、聖マーティン病院で撮って貰ったレントゲン写真が三枚。どれも胸骨から肋骨にかけてエノク語と思われる奇妙な文字がくっきりと刻まれている。ここまで不気味なレントゲン写真も他にない、そこいらの心霊写真よりよっぽどオカルト染みてる。
外科手術でも難しそうなことを一瞬でやってくれたカスティエル曰く、こうでもしないとルシファーを含めて天使たちの追跡は振り切れないらしい。俺たちより連中のことを知っている彼が言うなら、きっとその通りなんだろう。映画や漫画に出てくるようなのほほんとしたお人好し連中と違って、モノホンの天使はターミネーターみたいに冷酷でおっかない。任務や使命以外のことは頭にないしな。
「表彰台を目指すのは良いとして、今は目の前の問題をなんとかするんだ。最終戦争が始まって世界がめちゃくちゃになるかもってときにびっくりコンテストも何もない」
「そんなことは言われなくても分かってんだよ。ふざけたこと言ってないと頭がおかしくなる。もうどうにかなっちまってるかも」
噛みつくようにディーンの言葉を否定し、かぶりを振った。息の詰まる出来事がひっきりなしに続いている、黙ってるとどうにかなりそうだ。
「んなことよりーーディーン、もっと飛ばせないの?」
「これ以上スピード出せって言うなら、お前を窓から放り投げる。ルーファスはタフだ、文句言いながら持ちこたえるはずさ」
ーーコロラド州リバーパス。その街にいるはずの知り合いのハンターが寄越した救難信号は、切羽詰まった声と銃声が入り乱れる笑えないものだった。ディーンがハンドルを握ったインパラが俺とサムを乗せ、ふざけた速度で道を駆けるもやはり落ち着かない。
救難信号を送ってきた相手……ルーファスは、経験豊富なハンターだがついこないだまで半分引退してた身だ。他にも何人かハンターがいるんだろうが、今起こってることはこれまでの狩りとは訳が違う。あの
左右を木々に挟まれる野道を抜け、川の上に架けられた橋に差し掛かろうというところで、インパラは停まった。何も言わず、三人揃って橋の上に出る。ちくしょうめ……無茶苦茶やりやがる。
「……街への道はここだけ」
ディーンが道半ばで崩落した橋の上から、真下を流れる川を一瞥しながら言う。怪訝な顔付きでサムが携帯を取り出すが、
「携帯も駄目」
「ねえ、見なよここ」
俺は、片側が宙に飛び出している壊れた手すりに半眼を向けた。赤い塗装に見覚えのある黄色い粉が振りかかっているのが見える。
「……硫黄だ。悪魔が橋をぶっ壊した」
「街を占領する為に遮断したんだ。来訪者は拒まれ、住人は外に出られない」
「歩くしかなさそう」
うんざりとサムがそう言うと、反論の言葉は出なかった。街に行くには、この崩落した橋を渡る以外のルートはない。武器庫と化しているトランクの二重底から、ソードオフの散弾銃をそれぞれ担いでいく。他に道はないんだ、取れる選択肢は一つだけ。
「ーー悪魔の村に乗り込むか」
案の定、どこか仕切り屋の部分があるディーンが先頭を切る。車内に転がっていた聖水の入ったスキットルをポケットに差してから、俺もサムとその背中を追った。
リバーパスの街はゴーストタウンのように不気味に静まり返っていた。奇抜な装飾で飾り付けられた店や大なり小なりの家が並んでいるが、住人の声も生活の物音もペットや虫の鳴き声すら何も聞こえない。
しかし、庭先に放り出されたゴムボートや玄関先にヘタクソに駐車されている車、横転したまだ真新しい自転車を始めとして、目に飛び込んでくるものはいずれもさっきまで人がいたことを匂わせる。そこにいた人間だけを舞台から取り除いたみたいだ、まるで神隠しだな……
横転した年代物のキャラデック。突風にはためく西武開拓時代ののぼり旗。ダイナーの前に停められていた赤いマスタングを見て、車好きのディーンが小さく口笛を吹いた。あっちのキャラデックは傷だらけで寝転がってるのに、こっちはピカピカで展示品みたいだ。なんたる不平等。
「……おい、あそこ」
声のボリュームを絞ったディーンの目線の先には、すぐ向かい側でドアが開きっぱなしになっているシルバーのSUV。アイコンタクトの後、近づいていくとフロントガラスは無惨に割られていて、車の傍らには至るところが折れ曲がって使い物にならないベビーカーが放置されている。
車のすぐ下に広がっている渇いた血の痕に静かに息を飲んだときーー背後から擊鉄を起こす音がした。背筋が一気に冷たくなり、散弾銃の引き金に指をかけながら振り向いて……俺は目を見開ことになった。
「……エレン?」
「久しぶり」
S&W社の回転式拳銃を向けていたのはーーエレン・ハーベル。本土のハンターたちが集まる酒場の主で、親父やボビー・シンガーの古い知り合いでもある。タフで頼れる女性をそのまま形にしたような人で、あのジョアンナ・ベス・ハーベルの母親だ。
知り合いの登場で、登り詰めた警戒のゲージが一気に下がっていく。随分久しぶりだな、たしか最後に会ったのはルビーが黒髪になるよりずっと前だ。銃口を下げたエレンが、ゆっくり歩いてくる。
「エレン、どういうことなんだ」
刹那、問いかけたディーンの顔にエレンが左手で持っていたスキットルの中の水がぶちまけられた。ハンターなら誰でも知っている悪魔と人間を見分ける方法の一つ。暫く連絡してなかったからなぁ……言葉を失っている兄はそっちのけで、次は俺に向かって視線が飛んでくる。
「あ、ちょっとエレン。俺はーー」
静止虚しく、冷たい水を浴びる感触と視界に靄がかかる。なんで俺まで……
「……?」
「俺たちだよ。正真正銘、モノホンのウィンチェスター御一考」
目を丸めるエレンに向けて、ディーンの分まで代弁してやる。濡れた唇を舌でなぞるがやはり聖水だった。悪魔なら煙を立てて皮膚が焼けるところだが人間にとっては普通の水。作り方も普通の水に十字架を浸して呪文を唱えるだけと非常にお手軽な例の水だ。
ようやく視界の靄が晴れ、首を思い切り振って髪の水滴を払うと、エレンは何も言わないまま街の教会へと入って行った。俺たちも黙ってその後についていく。
住居側のドアを開くと、入ってすぐの床に悪魔封じが描かれていた。ドア枠の下部ーー沓摺にも塩が沿わせるように引かれている。二重の悪魔対策か。見た目はちゃちだが連中相手には立派なバリケード、これで悪魔は入ってこれーーな、い……
「え、エレン……?」
「……無事で良かった。心配したわ」
「あ……あ、あの……」
気がついたときにはエレンに抱き締められ、何も言えなくなった。俺には母親というものがよく分からない。後に出会うことになるルームメイトとの皮肉な共通点の一つ。だが、母親と聞いて俺の脳裏に浮かぶ人がいるならそれはきっとーー
「ーーいってえッッッッ!」
「うぉっ……!」
「そう来るか……」
腕をほどいた瞬間、エレンの左手が俺の頬を思いっきりはたいた。いってええ……!
「こんなもんで済むと思ったら大間違いよ。電話1本寄越しやしない。あたしと関わりたくない理由でもあるの? ルーファスから無事を知らされるなんて……!」
「エレン……ごめん……」
「あたしの番号、短縮ダイヤルに入れなさい」
有無を言わせぬ口調に苦笑いで目を逸らす。相当心配させたらしい。後ろに控えている二人に目をやると、案の定目を逸らされた。
「キリ」
「は、はい。入れときます」
「そっちの二人も。ディーン」
「か、畏まりました」
「サム」
「あ、えっと、はい?」
悩む暇もなく、気付いたときには三者三様にして頷いていた。三人並んだところでエレンには敵わないな……覚えとこう。
「みんな無事で良かった。ついてきて」
ああ、エレンも無事で何より。とはいえ、いくら教会でも今はのんびり再会を喜んでる場合じゃないか。今度はエレンのすぐ後ろ、兄の前を歩いている俺が切り出す。
「なあ、何があったんだ。ルーファスが切羽詰まった感じでボビーに電話してきた」
「あたし一人じゃ手に負えない」
壁にいくつもの絵画が並んでいる階段を、エレンを追って降りていく。
「僕らがここに来る途中、街に続いてる橋は落とされてた」
「悪魔の仕業ね」
「手の込んだことはしやがる。それで悪魔の数は?」
「ーー死んだ人と、ここにいる数人以外は全部悪魔」
ディーンが尋ねた途端、至って落ち着いた声でゾッとする答えが返ってきた。階段を下り、別の部屋に通じる扉の前でエレンが振り返り、
「始まったのね、『最終戦争』が」
……ああ、引き起こしてしまったんだ。リリスを殺したことで、ルシファーを閉ざしている檻の最後の封印が解かれてしまった。今はそこかしこで悪魔と天使が睨み合ってる、まさに戦争だ。地上のあらゆる場所が紛争地帯になる。
「……そのようだ」
だから、この決着は俺たちの手でつけないといけない。地獄の門が開いたときと同じだ、責任がある。苦々しくサムが答えるが、こうなったら俺たち全員に責任がある。揃いも揃って、ルビーに踊らされちまったんだからな。
「私よ。開けて」
エレンが合図する。少し大きめの開き戸が開いて、中に招き入れられた。薄暗い部屋には街の住人と思われる男女がテーブルに就き、あるいは重たい表情で壁に背を預けている。年齢は様々だがエレンを含めても十人になるかどうか。
「彼らはサムとディーン、それとキリ。ハンターよ、応援に来た」
「悪魔退治の専門家か」
守備役を買っていたと思われる男性がライフルを持ったまま答えた。他は神父や一般人って感じだが、彼だけはどこか色が違う。悲惨な状況には慣れてるって態度が滲み出てる。保安官……って感じじゃないな。予備役の軍人ってところか。
「妻の目が黒くなり、レンガを振り上げ襲ってきた。悪魔に取り憑かれたと思うしか……」
テーブルに就いていたスーツ姿の男性が、堪えきれないと言わんばかりに心中を暴露した。まるで、醒めない悪夢に魘されているような、そんな顔をしている。怪訝な顔でディーンが今一度エレンに、
「説明してくれ」
「私もよく知らないの。ルーファスから前兆を見つけたという電話があった。ジョーとあたしが来たときには街中が憑依されてて」
「待って。ジョーと狩りを……?」
「ええ、ここ暫くね」
思わず、口を挟んでしまった俺にエレンは軽く頷いた。エレンがジョーの同行を許した……?
「貴方たちが見た通り、街は酷い有り様で。ルーファスはいないし、ジョーともはぐれたわ。探してたら貴方たちが」
「分かった、ジョーを見つける」
「その前にこの人たちを閉じ込めてはおけないよ、早く逃がそう」
「それは難しいわ、既に一度脱出を謀ったの」
キャンドルホルダーの蝋燭が灯す部屋を見渡してエレンは続ける。
「前は20人いたのよ」
……それが今はこれか。
「外に出たら最後、多勢に無勢よ。あんた達の援護があっても全員は守れないわ」
「みんなに、銃を渡したら?」
「妊婦がドンパチできるかよ」
「大量の塩を放てば、悪魔を足止めできる」
壁際から二人の兄の攻防をしばらく眺めていると、ふとさっきの大通りの景色が頭をよぎる。そういや、あの一角……
「なあ、大通りにスポーツ用品店があった。あそこで塩をかき集めるだけかき集めるのは? 街を出るにしても、ここに立て籠るにしても塩は必要だ。それに銃も」
塩は人間には無害でも悪魔にとっては有毒。立て籠るにしても突破するにしても塩は必要だ。僅かな一歩でも状況が変化しないよりはマシ。
「俺とキリで行ってくる。エレンはここにいてくれ。サムを守備役に置いてく」
「だけど……」
「いや、僕が行くよ。キリが守備役を、エレンとの連携も僕より取りやすいからね。ジョーとルーファスを見つけたら、ここに連れて来る」
エレンの言葉を遮り、サムが目配せしてくる。こんな時につまらない確執を持ち込んでどうすんだよ、ったく……
「……すぐに戻る。頼んだぞ」
提案した身とはいえ、ああだと決めたら本当に耳を貸さない二人だな。扉の外に消えていく背中を、半眼を作って見送るが今のやり取りは案の定……
「それで、どういうこと?」
「非常時にはジョン・ウィック並みのコレクションが必要ってこと」
「バカ言わないで。サムとディーンよ、会ってすぐ分かったわ。昔のあの子達とは違ったから」
……鋭いことで。
「色々あったんでしょうね。悪い女が割って入ったとか?」
「……当たらずしも遠からず。けど、狩りのストレスもあるのかも。ディーンの場合は……好きな女優が引退しちゃったとか?」
「あんたは変わってないわね。それもすごいことよ、変わることが正しいとは限らないわ。特にこんな仕事をしてるとね」
「ありがとう。でもエレンこそ、どうしてジョーと狩りを? 前はあんなに狩りに向いてないって反対してたじゃないか」
空いていた椅子を二人分借りて、腰を下ろす。
「今でも反対。だけど言って聞くような子じゃない」
「それは同感。ジョーはジョー、頑固だ」
「誰かさんとそっくり」
「……そこで俺を見るのはやめて」
なんか、傷口を抉られた気分だ。俺たちがふざけた非日常に振り回されていた間、ジョーとエレンの間にも色々あったんだろう。思えば、二人も我が家と呼べるバーを悪魔たちに燃やされた。ジョーも俺たちも狩りで父親を失ってる、他にも嬉しくもない共通点は挙げればキリがない。
「これ、良かったら」
「ああ、ありがとう」
神父からペットボトルの水を受け取り、キャップを捻っていく。
「ハンターなんて自分からなろうとする仕事じゃないよな。ルーファスが言ってたよ、ハンターにハッピーエンドはない」
「いつかしてきたことの報いを受ける。けど、実際それが現実。悲惨な最後を遂げたハンターを何人も見てきたわ。あの子がその一人になりでもしたら笑えやしない」
案の定、隣には似合いもしない自嘲めいた笑みが差している。
「あの子は対等になりたいのよ。心の底で私やあんた達と対等になることを望んでる、そんな気がする」
「エレンはちゃんとやってる、親としてできることは。側にいて見守ってる。無条件で自分を愛して見守ってくれる存在ってのは、なにより心強いはずだ」
つか、この水……なんでこんなに美味いんだ。俺が今まで飲んでた水は死んでたのか。
「ーーって、前にテレビドラマの中で元海軍の警官が言ってた。ドラマだからってバカにできないぞ。それはそうと何だよこの水、とてつもなく美味いんだけど?」
「話を逸らすのが下手ね。水は水よ、ただの水」
「違うよ、見てみなエレン。このペットボトルの中身。見える? この透明で汚れのない白。この水は死んでないの。生きてるんだよ、この水は」
「この街じゃ一番の売りになってる。得体の知れない雪解け水なんかよりよっぽど美味い。この街に住んでる連中は、みんな水割りにその天然水を使ってるよ」
エレンには苦笑いを貰ったが、扉の前でライフルを構えているさっきの彼が答えてくれた。ほら見たことか、名産品だ。
「けど、その水が駄目になってね。先週だったかな、神父さん?」
「ああ、水が汚染されてしまってね。ある日突然のことだったよ」
ふーん。この水は汚染される前、正真正銘生き伸びた水ってことか。半分適当なこと言ったのに思わぬオチがついたな。
「水……そう言えば、ルーファスが知らせてきた前兆も水に関することだった」
「水に? それって、汚染されたことと何か関係あるのか?」
「分からない。けど、悪魔たちがただ街を占拠しただけには……何かおかしい」
「おかしいことだらけだよ。俺たちの周りはいつもおかしいことしか起きない」
そう、おかしいことしか起きない。そして、エレンが抱いている違和感は気のせいでも何でもない。
これは普通の狩りじゃない、悪魔が街を占拠したなんて単純な問題じゃない。
これは"戦争"ーー赤い馬に乗り、剣を与えられた、平和を奪うことを許された赤い騎士がばらまいた悪意。
その騎士の名前はーー"戦争"。黙示録の指輪を与えられた四人の騎士たちの内の一人。最終戦争の始まりと同時に赤い馬に乗りやってくる、最初の悪夢。