哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

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(題)痛み分けの恋愛ーの続きです。 

  


死の天使

 

 

 

 

 ルシファーは『光を運ぶもの』という意味。

 信心深い悪魔によれば、かつて彼はもっとも美しい天使だった。

 だが人間に従えという神の命令に背いたために、天を追放された。

 

 

 

 

「ちょっと、その下手な口笛は何のまじない? ピクニックじゃないのよ?」

 

「分かってる、これから魔王を倒して世界を救う。単純明快、だろジョー? キャス?」

 

「分かりやすくはないけど、選択肢はない。やらなきゃ全部おしまい、それであってる?」

 

「失敗すればすべてが終わる、やるしかない」

 

 

 忌々しいリリスの右腕だったクラウリーとかいうビジネスマンもどきを信じ、ルシファーが現れるとされる木曜日のカーセージに俺たちは進路を取った。

 

 

 ミズーリ州、カーセージ──

 エレン、俺、ジョー、キャスと緩やかに走る車のなかで繋がった一連の会話は、一見軽いように見えて笑えない中身を潜めている実に奇妙なものだった。

 

 酒とうまい料理、大切な家族、幸せな昨夜の一時が夢幻だったようにそこに賑やかさはない──

 まるであれが、この世で過ごせる最後の楽しい時間だったかのようにさえ思える。

 それだけ異常なんだ、これからやろうとしてることも俺たちが置かれた状況も。

 

 大切な家族、友人とのドライブというのはこんな状況でなければもっと温かい気分になれただろう。

 

 隣にはジョー、すっかり頼れる味方となったカスティエル、そしてエレンがハンドルを握る車。

 そんな状況でも心からそんな喜べてないのは、

 

 

(これから聖書のメインキャストを仕留めようなんて馬鹿げたことをやろうとしてるからか。言葉にするとやっぱりイカれてる)

 

 綺麗とは言えない窓を通して、外に目を逃がす。

 スケールがデカすぎて、緊張感のないことでも考えてないと頭がどうにかなりそうだ。

 

 ルシファーはルシファーでもLAのナイトクラブで毎日パーティー開いてピアノを演奏してるような陽気な悪魔じゃないだろうからな。現実はコミックやドラマとは違う。

 あのアラステアやリリスを作り出した元凶、それだけで判断するには十分だ。この世の悪意や負を全部並べても、俺たちがこれから目にする存在は──余りある邪悪なものだって。

 

「‥‥‥」

 

 ジャケットの内ポケットから取り出した、昨日ボビーの古びたカメラで撮った写真に指を走らせると、やや暗さの混じったブロンドの髪が頬にかかる。

 

 ジョーだ。髪も息も届きそうな距離に。

 無駄に美人なジョーの顔がすぐ隣にあって、白い指先が引くまま写真は俺の手から離れる。

 

「綺麗に撮れてる、骨董品も馬鹿にできないわね」

 

「写真なんて久々に撮った。みんな真面目な顔してるし、一人くらい笑ったら良かったのに。帰ったら絶対指摘してるのになぁ。それと、ジョーが真面目な顔してる」

 

「できるわよ、知らなかった?」

 

「いいや、すっごく綺麗。まさに90年代の名女優が取り憑いたって感じ」

 

「それ、肩の弾を抜いてあげたときも同じこと言ってた」

 

「昔すぎて覚えてません。美人は何度褒めてもいいんだよ、お前ってほんと無駄に美人だから」

 

 久々に撮った写真、それも携帯やデジカメなんかじゃない骨董品も骨董品。ディーンや親父が大好きなアナログの、白黒の写真だ。 

 

「宝物、できちまったなぁ。お礼言わないと」

 

 何も考えてなくて、言葉だけが勝手に出る。

 色はついてなくても、この写真には温かみがある。

 なんだろう、ずっと求めていたものが──手に入っちまった気分だ。さらわれた写真をジョーの手から抜き、静かにジャケットの奥に戻す。

 

「今日を生き延びてこいつは俺の宝物にするよ。世界を救ってやった一夜前のバカ騒ぎ、記念になる。一生の宝物、墓まで持っていくんだ。うん、気に入った」

 

「バカね、いまから湿っぽくなってどうする気? 一人で先に祝いのビール開けたら承知しないわよ?」

 

「母さん、キリはビールは飲まない。私がオッケーしない限りはね?」

 

「これが権力ならぬ、惚れた弱みってやつか。キャス、憶えとけよ」

 

「愛は複雑だ」

 

「‥‥‥お前いつからそんな言葉言うようになったの」

 

 

 

 先導するサムとディーンを乗せたインパラの背に続き、俺たち四人を乗せた赤いワゴンもうっすらとガラスを叩いてくる雨をワイパーで払いながら、忍び足とでも呼べそうな速度で街に入った。

 

 陽光を遮るような雨の下、半分だけ開けた後部の窓から外を覗き見る。

 まず目に入るのは電信柱や店のドアなど至る所に貼り付けられた「missing(行方不明)」の紙。道路は濡れ、雨粒は目に見える程度には降ってるがそれにしても人の気配がなさすぎる。

 

 道路に左右には車も泊まってるし、立ち並んでる店も別にシャッターが降りてるわけでもCLOSEDの札が吊るされてるわけでもないが、人の声や生き物の音がまるでない。

 静まり返った車内、いや静かなのはこの街そのものか。車のエンジンと雨粒、ワイパーの音以外は削除されたみたいに何もない。 

 

 窓の外に携帯を向け、ジョーが首をひねる。

 

「電波が来てない」

 

「ゴーストタウンね。こんなに店が並んでるのに物音ひとつしやしない。雨だからって人っ子1人、車1台動いてないなんておかしい」

 

 ごもっとも。

 窓から飛び出したディーンのハンドサインで脇に止まったインパラの隣にエレンが車を付けると、二人の表情も難題を突き出されたようなそんな顔だった。

 

「警察署を見てくるからここにいろ、誰か出てくるかも」

 

「了解」

 

 エレンとディーンが短く交わすと、インパラは聞き慣れたV8のエンジンを鳴らして離れていく。

 まずはジョーが外に、順番を踏むように運転席からエレン、俺が。キャスはドアを開けないまま気付けば車のすぐ横に立ってた。天使はドアを使わない。

 

「天使はドアロック関係ないのね」

 

「俺も初めて知った。‥‥‥キャス?」

 

 苦笑したエレンに綺麗な顔につられて頬が緩みかけたときだった。

 キャスの首が建物の屋上、雨に濡れた道路、上に下にと忙しく辺りを見渡している。追いかけるように俺も目を向けるがやはり辺りには誰一人いない。

 

「誰かいるの?」

 

「ああ、大勢いる────死神だ」

 

 問いかけたエレンに言葉だけを飛ばし、キャスの瞳は濡れた道路に縫い付けられたまま動かない。

 大勢の、死神‥‥‥?

 目を僅かに大きくさせながらエレンは続ける。

  

「死神って、団体で来るの‥‥‥?」

 

「大災害が起きた時にだけ大群に現れる。シカゴの火事やサンフランシスコの地震。ポンペイのときも」

 

 ‥‥‥嬉しくない来客ってことか。

 淡々と言い切ったキャスの顔も、この事態は想定してなかったって顔だな。これから災害が起こる前の前触れ、それもポンペイレベルと考えると苦笑いも起きやしない。

 どうやらただのゴーストタウンじゃ片付けられないところまで、この街は変貌しちまったらしい。

 

「一応聞いとく。やばさをメーターで見るなら?」

 

「振り切ってる」

 

 即答のキャスは、視線をそのまま俺たちを残すように歩き始めた。

 

「様子を見てくる」

 

 つまり、原因を調べてくると。死神の姿は、俺たちには死ぬ一歩手前にでもならない限り見れない。

 原因を探れるのは天使のキャスくらい、何も言わず俺たちはトレンチコートを雨に濡らしながら離れていくキャスの背中を見送った。

 

「火山、火事、大地震──それと同レベルか。恐ろしいことこの上なしだ。でもそれだけ、ルシファーがいるってのはそういうことなのかもな‥‥‥」

 

「ただ足を運んだけで大災害と同じ? はっ、とんでもないわね、ポンペイよ? ルシファーはこの雨で大洪水でも起こす気?」

 

 少しだけマシになった雨空を仰ぎ、エレンは呆れ半分と言った様子でかぶりを振る。

 

 ボビーは、俺たちにとって面倒を見てくれたもう一人の父親みたいなもんだけど、エレンは──そう、特に俺にとっては母親みたいなもんだった。本人に言ったことはないけどね。

 血は、そりゃ繋がってないけど。母親ってものを知らない俺に、拠り所をくれた人だ。母親ってのは錨みたいなもの、拠り所というか支え。こんな状況だからかな、湿っぽいことを考えちまうのは。

 

「さあね、やばいことをやろうとしてるってのは確かだな」

 

 

 エレンは俺たちよりずっと場数を踏んでる、間違いなく存命しているハンターのなかでは頭も腕っぷしも第一級。

 

 そうだ、相手は魔王だが今回はエレンとジョーがいる。  

 いつもみたいに俺たちとボビーで全部負担してるわけじゃない、心強い家族が二人も多い。それにトレンチコートの天使だってついてる、大丈夫だ。

 

 さっさとルシファーの頭にコルトをぶち込んで、昨夜の続きをやろう。焦燥感と緊張でどうにかなりそうな頭を慰めていると、数十分ほどしたところでインパラが帰ってきた。

 

 助手席からサム、運転席からディーンが。

 二人とも朗報はないって顔で降りてくる。

 

 

「警察署は空だった」

 

「綺麗さっぱりもぬけの殻さ。‥‥? おい、キャスはどこ行った?」

 

「‥‥‥一緒じゃないの? 死神を調べに行った」

 

 エレンのその言葉に、二人はほぼ同時に眉をひそめる。

 

「死神?」

 

「‥‥‥キャスには見えるんだよ。死神が来てるのか?」

 

「街中に。大勢いるみたい」

 

「大災害が起きる前の前触れらしい。キャスが言うにはポンペイやサンフランシスコの大地震のときも集まったって」

 

 ジョーと俺が笑えない答えを返すと、サムは苦い顔でインパラの屋根に腕を置いた。

 死神の大群、消えた住民、戻ってこないキャスでスリーカードか。

 

「行きましょう。キャスがルシファーに捕まったとしたら、ここで待ってても解決しやしないわ。もうここは敵の懐よ、何か問題がある度に隠れてるわけにはいかない」

 

「それが狭いところなら窮屈だしな。エレンに賛成」

 

 エレンの言う通り、どうせここでじっとしてても安全とは言えない。最初から選択肢がないことは、わざわざ俺が肯定しなくてもみんな分かってる。

 

 不意に頭上を仰ぐと、風を煽り立てる強風はそのままだが雨は、少し落ち着いていた。既にできていた水溜りに目を下げると、水面を叩く雫はやはり緩やかになってる。

 

 ‥‥‥本当に大災害のような惨劇が、これから起こるのか? 

 そもそもルシファーはなんでこの街に来た?

 クラウリーが言ってた用事って何だ‥‥‥?

 

 ソードオフのショットガンでそれぞれ武装し、僅かに髪を湿らせる雨の下を五人固まるように歩く。それはまるで、化物の口のなかに自分から入っていくような最上級の焦りと不安が混ざった最低の気分で。

 

 

「到着して20分ちょっとで強力な助っ人をなくしちまったぜ」

 

 ディーンが最悪この上ないとばりに嘆く。

 たしかに今の俺たちは、目隠しされてるような状況で手札で二番目に強いカードを叩き落された。

 腕の中で、生命線とも言える散弾銃に触れている指先に汗が滲みそうになる。いつもの狩りならこれまでの経験則と下調べした情報から大なり小なりの予測や心構えができる。

 

 だが、これは普通の狩りじゃない。

 相手は幽霊でもモンスターでもない。数秒、次の刹那何が起きるか予想がつかない。

 

 無遠慮に吹き付ける風が肌を叩き、髪をさらうように靡かせていく最中、

 

 

 

「ここにいたのね」

 

 

 生き物の声一つしなかった街で、初めて別の声が響いた。

 

 凛と響くような綺麗な声。

 それが誰か分かってるから、返答より先に狂眼で銃口を向けた。

 

 

「あはっ、勢揃いか」

 

 

「‥‥‥メグ!」

 

 

 敵意しか含まれていない声色でサムが因縁深いその悪魔の名を呼んだ。

 強風に吹かれながら並んだ銃口に笑うのは、黒の革ジャンに紫のインナーで飾った茶髪の細身の美女。だが中身は笑いながら人の首を切り落とす冷酷無垢な殺人鬼。

 

 直接の面識がないジョーとエレンも、ただならない俺たちの敵意を察して銃口を合わせてる。

 ルビーよりももっと前、アザゼルを抜きにすれば彼女は俺たちが最初に因縁を結んだ怨敵。

 

「生きて帰れないわよ」

 

「それはこっちのセリフだ、覚悟しろぉッ‥‥‥!!」

 

 怒りと殺意を全身から迸らせ、ディーンがコルトを抜いた。ヤツの父親を葬った、悪魔だって殺せる一撃必殺の武器を。

 けど、メグは薄ら笑いを張り付けたまま両手もジーンズのポケットから出そうとしない。

 

 

「やだ。いきなり切札を切るつもり? せっかちなのね、ディーン。ペースは合わせないと、ベッドの上だってそうでしょう?」

 

「中途半端な長台詞を聞くような気分じゃない、特にてめえみたいな二流の役者のはな」

 

「ディーン? ──あたしにも助っ人がいるの」

 

 両手をポケットから出さないまま、メグが右足のすぐ隣に溜まった水溜りに目線を下げる。

 メグの瞳が向いた刹那、獣の低い呻きと共に独りでに水溜りが跳ねた‥‥‥何かが、いる‥‥‥

 

 

「かわいいわよ、カゴいっぱいの子猫ちゃん並み」

 

 

 このアバズレ女‥‥‥

 目に見えない地獄の猟犬、鳴き声を考えるに一匹じゃないそこかしこにいる。猟犬で俺たちを囲みやがった‥‥‥!

 

 

「性懲りもなくまたペットの放し飼いかッ! この期に及んで芸がねえんだよ、アバズレ女ぁ!」

 

「あら、どこでそんな素敵な言葉覚えたの? ねえキリ? 死後の世界から蘇った理由をきかせてちょうだいよ。あんたは地獄じゃアイドルみたいに持て囃されてた、でもこっちじゃ熱心なファンもいない。それって寂しくない?」

 

「こっちならお前を殺せる」

 

「──素敵、ゾクってしちゃったぁ。首を取り合う関係って大好き。一緒に来て、ルシファー様が会いたがってる」

 

 やっと本音が出たな。

 結局、父上様の使いっ走りかよ。

 

「ごめんだね、断る!」

 

 サムが一蹴すると、メグはそれならと肩をすくめた。足元の水溜りが今度はより強く飛沫を跳ね上げる。

 

 

「いいわよ。それならあんたたちを酷い目に合わせるだけ」

 

 飼い主の許しを得たとばかりに、猟犬が次から次に呻きをあげていく。前や後ろだけじゃない、四方八方から悪趣味な鳴き声で包囲されてる。何匹放し飼いにしやがった‥‥‥

 

 一匹でも厄介なペットが群れ単位。

 だが、選択肢は決まってる。無言で後ろに振ったディーンのアイコンタクトにエレンが頷く。ああ、聞かれるまでもなく同意だよ、こんなのは‥‥‥

 

 

「俺たちは酷い目にしかあってねえんだよ‥‥‥!」

 

 

 自虐を込めてコルトの銃声が一発。

 メグの足元で、猟犬の黒い血が弾け飛んだ。

 

 

「逃げろ! 行け、行け行けッー!」

 

 

 サムの号令が響いたときには迷うことなく、全員背を向けて走ってた。従っても、ここで手傷覚悟で立ち向かっても、たぶん全滅する。

 そうなったら終わりだ、ルシファーを仕留められるのはコルトだけ。ここでコルトの弾が尽きるのもコルトを失ってもそこで全部終わっちまう‥‥‥!

 

 メグの笑い声は、すぐに荒い喘鳴と重なった俺たちの足音で聞こえなくなる。

 ただ足を動かして逃げる、もういまはそれしか考えられるか‥‥‥また腹を裂かれるのは、ごめんなんだよ! また猟犬に地獄送りにされるのはもう‥‥‥

 

 

「ちぃッ! みんな先行けえぇッ!」 

 

 叫んだのと同時に俺は反転、独りでに倒れた右前方のオープンカフェのテーブルに散弾銃をぶっ放した。

 

 メグに一番近い位置にいたディーンは、コルトをぶっ放して俺たちの最後尾を追うように走った。メグが控えてた猟犬から一番近い位置──犬の爪と牙が一番届きやすい位置を走ることになる。

 ぶっ放したカフェのテーブルから獣の短い悲鳴が鳴り、暴れそうな心臓を両目と使えそうな神経全部に力を込めて必死に黙らせる。

 

「はぁ、はぁ‥‥‥っ、くそ、っ、ディーン‥‥‥!」

 

「やめろ来るなァ!!」

 

「ざけんなああぁっ! みんなで帰って昨日の続きをすんだよッ!」

 

 体当たりでふっとばされ、仰向けの兄の声を散弾の発砲で一蹴してやる。リリスのときは仲良く腹を引き裂かれた、二度もやってたまるか‥‥‥! 

 

 一生分を使い倒すつもりで全神経にギアを回す。

 目に見えないなら、喘鳴や足音、触れる周囲の物の動きで判断するっきゃない。ミスれば首が落ちる。

 

「逃げるぞ、ディーンっ! 早くッ!」

 

 ディーンのやや前方、感覚で見立てた位置に狂眼で引き金を絞る。

 海兵隊の教えだ、困難に負けるな。

 ミスれば首が落ちる、ならミスらなきゃいい。

 

 悲鳴確認、命中────。

 次、命中──。

 排莢、装填──命中!

 

 とりあえずは引き剥がした! 

 犬の餌場のど真ん中だ、さっさと逃げるぞ!

 

「すごいじゃない、見直しちゃった。でもね、犬にも性格があるの。物静かで引っ込み思案の子とか」

 

「ぐぅッ‥‥‥!?」

 

 ど、どこから‥‥‥っ、何も気配がなかった。

 

「あはッ、あんたの好みじゃないか! 前から襲われるのに気付かなかった?」

 

「キリ! ちく、しょう離れろクソ犬‥‥‥っ!」

 

 音もなく、腹に衝撃が走り背中が硬い地面に叩きつけられる。何も見えない頭上から重たい鉄板がのしかかってくるような圧に、仰向けのまま両腕をなんとかギリギリで挟む。

 み、みえなくても‥‥‥分かる。こいつは猟犬で、力を緩めたら爪や牙が‥‥‥お、俺の腹に食い込みやがる‥‥‥‥! 

 

 ディーンも駄目だ、猟犬に絡まれてる‥‥‥!

 荒い獣の鳴く声が、そこには濁った空しか見えないのに聞こえてくる‥‥‥

 左腕に痛みが走り、シャツが独りでに真上へ血を撒きながら裂け始める。

 

 

「く、ぅ‥‥あ、ああ゛あ゛ッ!」

 

 

 ‥‥‥やばい、腕から力が‥‥‥やめろ、抜いたら首も腹も裂かれる。またリリスのとき‥‥‥みたいに‥‥

 ──‥‥‥っ、痛い、痛い‥‥‥っ、腕が、裂け‥‥ッ‥‥‥!

 

 

 目の前に、不思議と赤い瞳が見えた気がした。

 汚い、不細工で最低な顔が濁った曇り空を隠してた。

 けっ‥‥‥猟犬の顔が見える。ってことは、もう地獄に片足を突っ込んでるんだ。何度見ても、なんとも醜い顔だ‥‥‥

 

 ああ、っやだなぁ‥‥‥昨日は、楽しかったしまた騒ぎたかった。

 またやりたいなあ、写真今度は笑って撮りたかったし。

 今度はジョーやエレンの隣で並んで撮りたい。

 もっといい服着て、ちゃんと笑って、色のついた写真でも撮りたい。

 いいだろ、フラれちまったけど。大切な家族で、いまでも姉みたいなもんなんだからさ。

 

 別に、豪華なディナーをねだるわけでも高い酒をのぞむわけでもないんだ。ケチな神様も、これくらい叶えてくれると思ってたんだけど、どうやら散々足蹴りしてきたツケは安くないらしい。

 初聖体にぶどうジュースがぶ飲みして、パーティー気分だったのが効いたかな。

 

 ああ、ああ、いいさ。

 もう一度首をくれてやる、犬っころ。

 けど代わりに目に鉛弾ぶつけてやる、から、覚悟し、ろ‥‥‥ッ!

 世話のかかる兄にも、好きになった女にも、母親‥‥っ、同然の、飲んだくれにも最後に、恩を売って、やるからなあッ‥‥‥!

 

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

「──‥‥‥‥?」

 

 

 相打ち覚悟で、腹を完全に引き裂かれる前に弾をくれてやるつもりで左手の支えを下げようとした時、恐ろしく近くで銃声が鳴った。

 血がこぼれ出した腕で耐えていた重みが、一瞬で消える。

 なんだ‥‥‥なにが‥‥‥

 

「走って!」

 

「ジョー‥‥‥!?  おまっ、なんで──」

 

 痛む腕と立ち上がって反論すると、また発砲音。ディーンにけしかけられていたであろう荒い猟犬から喘鳴が上がり、着弾を知らせる。

 

 

 

「ディーン、立って! はやっ────」

 

 

 そこでジョーの叫びが遮られた。

 愛した人に精一杯喉から絞り出すような叫びが遮られて、不意に体がゾッとするように冷たくなる。

 

 ディーンの顔に狂騒が走り、それだけはと祈りながら、

 隣に目を向けた時には散弾銃が腕から離れて虚空を舞い、ジョーの背中が濡れた道路に叩きつけられていた。

 

 待ってくれ神様。頼む、それだけは──頼む、それだけは‥‥‥やめろやめろ、やめろやめろ。

 

 首をくれてやる、なんでもくれてやる。

 やめろやめろやめろ、頼む、頼むからそれだけは、頼む、それだけはーー──

 やめろ、やめてくれ、頼む、それだけは‥‥

 

 

 

「あ゛あ゛あぁぁぁァァァァァァァ!!」

 

 

 エレンの必死の叫びを無情に下し、脳裏を凍てつかせるジョーの叫びが街に、響き渡った。

 裂かれたシャツの下から血があふれ、脇腹から首まで白い肌もグレーの服もそこはもう、真っ赤だった。

 

「援護してッッ! エレン! サムッ!!!!!」

 

 横たわるジョーのお腹の上目掛けてXDのスライドが降りるまで悲鳴の鳴き声が上がろうが関係なしにトリガーを引きまくる。

 どけ、どけ、早くどけっ犬っころッ!

 

 弾切れのXDを投げ捨てて、不規則に跳ねていた両足に腕を回して抱えて抱き起こし、胸元で見えたジョーの顔に血の気はなくて‥‥‥首元から頬にまで溢れた血は飛び散って、あ、あ、‥‥‥嘘だ、やめろ、ダメだダメだ、それは、それだけは──

 

 

 

「ジョー! ジョーっ!  よし、大丈夫だ、大丈夫だからな‥‥‥? ああ、大丈夫だ。さすがジョーだ、すごい恐れ入ったよ、さすがだ‥‥‥な、大丈夫だからな」

 

「っ‥‥ぁ、っ‥ぁ‥‥‥‥ぁ」

 

「大丈夫だ、大丈夫だジョー‥‥‥」

 

 腕が痺れようがどうでもいいんだ、俺の両腕なんてどうでもいい。血が滴ろうともうどうでもいい、壊れてもいい。

 首に回してくれたジョーの両手から力が抜けていくのが分かって、濡れた道路を取られそうになる両足に必死に力を入れる。

 

 もういい、俺が渡せるものは全部くれてやる、くれてやるから──首なんてくれてやるから、くれてやるからこの子は‥‥‥この子だけは‥‥‥

 

 

「キリ、早くっっ!」

 

 サムが周囲に散弾を散らし、エレンが開いた金物屋のドアに、不規則に呻くように呼吸するジョーの体を必死で抱き寄せながら俺は滑り込んだ。

 く、ッ‥‥‥あ、腕‥‥‥っが、くそ、っ、んなこと‥‥どうでも、いい‥‥‥!! 場所、レジのカウンター‥‥‥あそこだ。

 

「ジョー‥‥っ、大丈夫だ。息吸って、ああ、大丈夫‥‥‥大丈夫だからな? よし、降ろすぞ?」

 

「あっ‥‥ぁ‥‥ぁ‥‥!」

 

「何してんの、手を貸して!」

 

「ああ、傷口を塞ぐぞジョー。大丈夫、手どかすからな‥‥‥」

 

 エレンが棚から止血のガーゼと梱包用テープを下ろし、俺はそっと傷口を抑えていたジョーの、血まみれの左手をそっとどかす。

 

「‥‥はぁっ、はぁ‥‥‥ぁ?」

 

「‥‥‥」

 

「‥‥‥大丈夫だ。大丈夫だから、傷口抑えるぞ? 大丈夫だから、大丈夫だよジョー、ああ」

 

 精一杯、精一杯笑みを作る。大丈夫だって、離れた途端溢れ出た赤色の血を抑えながら──答える。

 血が、血が‥‥‥傷口が、深すぎる‥‥‥止血でどうにかなる傷じゃ‥‥‥こんな、の‥‥‥

 

 言葉を噛み殺し、手を離せばすぐに中から血が溢れる傷を見たエレンの目がそっと向く。

 ‥‥‥頼む、頼むよ‥‥‥こんな、こんなこと‥‥‥ひどすぎる‥‥‥どうして‥‥‥

 

 

「‥‥‥ジョー」

 

「‥‥‥‥」

 

 塩と鉄の鎖で施錠したバリケードを組み上げたディーンが押し殺すような声で呟き、サムは顔を右手で隠すようにしてかぶりを振った。

 

 間近で聞こえてくるジョーの息はか細く、それはいつもの彼女からは考えられないくらい脆くて、

 どうにかなりそうな頭を鈍器で殴りつけて、黙らせて。

 

「‥‥‥キリ‥‥‥り、りょ‥‥猟犬‥‥‥っ、は‥‥‥?」

 

「‥‥‥大丈夫。君のおかげで、入ってこれない。塩のバリケードだ、どうにもなんないよ。大丈夫、な?」

 

 傷口にガーゼを当て、テープで縛る。

 カウンターを背に、膝から足をだらんと伸ばし、血で頬を濡らしたジョーに、狂いそうな頭を黙らせて俺は答えることしかできなかった。

 

 大丈夫だって、聡明な彼女には何の当てにもならない言葉を返してやることしかできなかった。

 

 物音一つない金物屋。

 消えそうな息遣いと、血まみれの体。

 俺は、垂れ下がったジョーの右手をそっと握って答えることしかできなかった。

 

 

 頼む、神様──

 聞いてんだろ、最終戦争だろうが。あんたのお望みはなんでも聞いてやる、粗末なおふざけにも付き合ってやる。

 

 だから、だからやめろよ‥‥‥こんな、こんな救いのない展開は‥‥‥頼むから‥‥‥

 もうエレンは、夫を失った。

 大切な仕事仲間もアッシュも失った、もう十分だろ。娘まで──取り上げなくて、いいだろ。

 

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