『アリアさんはキンジさんと結ばれてはならない』
『レキュのやり方、ちょっとアンフェアだよね。いつものレキらしくない。もっと上に誰かいるのかな?』
『雪平様は行かれたことがあると聞きました。地獄だけでなく天国にも』
『分かりにくかったか? なら、絵に描いて示してやろうか』
『言っておくが、俺はレキに狙撃拘禁されてたんだ。それで『リマ症候群』を引き起こすために、仕方なくだな……』
『Kくんはタラシで自意識過剰な正義の武偵だったんだね?』
『バカかお前は。聖女様も悪ふざけがすぎる。賭けならもっと他にあっただろ』
『ーーまあいいわ。その辺のことは、ちょっと待つことにしたから。待ちの一手よ』
『テッサは行き場のない魂の叫びに苦しんでた。死神らしい』
『どれになるか。結末はーー選び方次第』
『……どうだっていい。もう死んでるんだ』
『理子が異世界の話題を振った途端にこれ?』
『冗談だろ? 神の戦士が通り魔か? いったいどうなってんだこの世界は?』
「地獄の悪臭がぷんぷんするぞ。お前、なにを食った?」
「臭いのはこっちの砂。こんなのネズミだって食わない。キリ・ウィンチェスターだ、兄貴の名前はサムとディーン……って言っても分かんないよな……!」
首と肩を逸らし、体を傾ける。刹那の差で一瞬前まで脳天のあった場所を突き出された剣が通過した。血の気が一気に退き、後ろに引いた拳を顎に向けておもいきり殴り付ける。『顎』は、衝撃を受ければ脳震盪に繋がりかねない危険極まりない部位の一つ、据えた狙いもタイミングも悪くなかった。
が、堅牢なコンクリートの壁を殴り付けたような感触がして、袖から天使の剣を滑らせながら背後にバックステップを踏んだ。顎を砕くつもりで殴ったが……当の本人は涼しい顔でこちらを見据えている。痛みも恐怖も飽和し、否最初から知らない故の変化することのない無表情。天使相手に急所を狙うことは無意味、人間の法則や常識は通用しない。忘れてたよ、ミニガンで蜂の巣にされても平気な顔で肩をすくめる連中だ。
二人目の追撃も回避し、俺は武器を握った右腕を掴んで相手の背後を取りながら腕の間接を捻りあげる。砂に落ちた天使の剣を拾われないように遠くへ蹴飛ばし、関節技を決めたまま喉に天使の剣をぴたりと添えて第二波を牽制する。よし、とりあえず一匹捕まえた。
「話を聞け。やるなら相手になってやるが、訳あってお前らの器を殺したら罪状三倍ルールで俺は刑務所に隠居することになるんだ。言ってること分かるか?」
「交渉の余地はない、合図したら一斉にかかれ」
「おい、冗談だろ……ルシファーでも今のあんた達よりマシに話しができたぞ!」
同士の首に凶器があるのに、皆の反応は冷血を越えて淡白。人質が牽制にもならねえな。
「奴のフォロワーか、どうりで悪臭臭い。ルシファーはアビリーンの空でミカエルに殺された。ぐちゃぐちゃに引き裂かれたって話だ」
「ルシファーが、ミカエルに……? 笑えねえ、どうなってんだここは……!」
「やれ──!」
……魚より人の話を聞かない連中め。バルサザールの言ってる大天使兄弟の話は気になるが後回しだ。こいつらの中身は天使、だが借りている外の肉体は信心深いだけの平凡な人間。奴等の性格からするに器になってる人間の命は既にない、天使の入れ物として使われているだけ。そして天使や悪魔を倒すには器ごとルビーのナイフや天使の剣で貫くしかない。
武偵法9条──武偵は如何なる状況に於いても、その武偵活動中に人を殺害してはならない。果たして既に天使や悪魔に命を奪われ、人間ですらない彼等を殺すことが9条に触れるかどうかはグレーゾーン。この荒廃した世界に武偵法が定められているのかも怪しいが、不意に二人のルームメイトの背中が頭をよぎる。
(──武偵らしく平和的に戦うとするか)
寝覚めが悪いのは困るからな。武偵としてあの二人の近くにいられなくなるのは、悔しいが未練が残る。自虐的に唇を歪め、俺は胸中呟いた。手持ちに聖なるオイルはない、天使相手に命を絶たず切り抜けるには……あれでいくか。
「あんた、銃弾で撃たれたことあるか? すっごく痛い」
「無縁だな、我々は人間とは違う。鉛の塊で悲鳴などあげない」
「そうか、そりゃ良かった。なら撃たれても平気だな」
首に剣を当てられていても至って冷静だ。一人を制圧するだけでは足りない。数の差は一方的、全員の戦意を揺さぶり、切り抜けるしかない。
「知ってる。天使はちょっと念じれば弾も刃物の傷も一瞬で治せる。人の記憶を消すことだってわけない。今日まではな?」
砂を踏みしめる足音が一斉に重なり、隊列を組んでいた天使たちが近づいてくる。俺は落ち着いて、首に当てている天使の剣を真横に一閃、喉に小さな切れ目を作る。しかし吹き出るのは赤い間欠泉じゃない、器は人間でも中身は天使。喉の小さな切れ目からは白い煙のような発光する何かが噴き出している。天使にとって血液以上に大切なものが。
一転、唖然とする天使たちの視線は喉から吹き出る白い光に釘付けとなった。固めていた腕を離し、俺は購買で買った蓋の開閉できるカプセルペンダントを首の切れ目に当てる。虚空を漂っていた光は蓋の開いたカプセルに吸い寄せられると空だったカプセルの中にどんどん喉の切れ目から光が流れこんでくる。異様な光景、それは天使から見ても同じ感想を抱くに違いない。牽制には十分すぎる。
「貴様、それをどこで……!」
「
天使には『恩寵』と呼ばれるエネルギー源がある。例えるなら全ての天使が持っているバッテリーだ。天使は恩寵を稼働させることで一介の悪魔や怪物とは比にならない強力な力を行使することできる。
逆に言うなら恩寵が不足すれば満足に力は振るえず、時間と共に疲弊する。以前、メタトロンがカスティエルに、カスティエルがメタトロンにやったように天使の剣で喉から恩寵は搾取可能だ。そして、恩寵を全て抜かれた天使は力を失い、後に残るのはくたびれた器だけ。つまり──
「
人質の背中を迫ってくる仲間の方向へ蹴飛ばし、自由にした両手でトーラスを抜く。殺風景な世界に銃声が木霊し、よろめいていた右の足をパラベラム弾が撃ち抜いた。さっきまで痛みや恐怖には無反応だった彼は絶叫と一緒に砂の上へ倒れ込んだ。
「……私の恩寵、が……」
「迷惑料が高く付いたな、ざまあみろ!」
流れるはずのない赤い血に他の天使たちも絶句、怯んでいる。ここが好機だ。
(──撤収!)
俺は躊躇わず連中に背中を向けた、汚い捨て台詞を心の中で吐くだけ吐いて逃げだす。好機を逃せば俺が目と口から光を吹き出し、殺風景な砂地に干からびた死体になって転がる嵌めになるからな。こっちのバルサザールはどうか知らないが、俺の知ってるバルサザールって天使は兵士の身でありながら、内戦に乗じて自分の国の宝物庫から武器を持ち逃げするような曲者だった。
内戦で自分が死んだと思わせておいて戦渦の混乱の隙を突く。純粋な力では大天使には及ばないが策略を張り巡らせる点では連中の中でも頭一つ抜けていた。大天使を退けた天使はリヴァイアを取り込んだキャスの他にはバルサザールだけだったしな。無闇やたらと戦いへ発展するのは避けたい相手だ。反転した体は歩いてきた道をそのまま疾駆、背後からはまだ追っ手の気配はない。人間相手に恩寵を抜かれたことが、よっぽど想定外の事態だったらしい。奴等、仕事は淡々と丁寧にこなすが不足の事態やアドリブには弱い、そこはこっちの天使も同じだな。
あの反応を見ると、人間に恩寵を抜かれる光景も見るのは初めてだろう。お陰で意表も突けたし、全員揃って怯んでくれた。連中にしたら使命を抱いたまま死ぬよりも天使でなくなることの方が怖いに決まってる。神に選ばれた戦士であることを何よりの誇りとする連中だからな。望むのは戦士としての名誉の死、それが解らないほど浅い因縁で結ばれてはいない。
汚ない空気と後のことを考えない全力疾走、へばってるのは俺のせいじゃない、人間に生まれたせいだ。できそこないの足と、弱々しい肺に文句を言いたくなる。
短い時間で感じた疑問、気になることは山程あるが話合いのできる相手じゃなかった。汚れた空気、灰色の雲、そしてこの世の終わりみたいな景色。はっきり言えるのは休暇を楽しめる世界じゃないってことか。新手にも追っ手にも遭遇せずにゲートになっていた裂け目まで戻ってくることができた。依然として雷鳴は鳴ってるが生き物の足音も鳴き声も聞こえない。
(振りきれたか──?)
安心を得るべく、裂け目の前に来てもなお振り返って周囲を確認せずにはいられない。胸くそ悪い疑心を助長するようにーー風が凪ぎ、雷鳴がやんだ。一瞬、灰色の世界が静寂を取り戻す。
自分の息遣いが鮮明に耳を通して頭に響いた。最悪だ、振り返らずに裂け目に飛び込むべきだったな。頭に危険を知らせる警笛が鳴り響いて止まらない。本能が危険を察知するが、僅かに遅かった。逆に言えば、僅かに早く、それがこの場に姿を見せた。
「な……!」
静まり返った世界に悪夢が響く。頭が割れそうな異音が走り、膝が呆気なく崩れ落ちた。両手が必死に頭を抑えるが脳は揺れ、中身が内側で溢れるような不快感が走る。不快、そして全身が危険を感じて止まらない。脳に警告音を直接流し込まれているような感覚、すぐにこの場から逃げることを勧められるようだった。
が、残念ながら既に手遅れだと本能が悟る。この世の終わりのような絶叫に抗い、膝を建て直したときに初めてそいつと視線がぶつかった。
器のせいで外見で語るのなら、それは人間に見えた。実態のない影だけが映しだされる神々しい両翼、その背中に目を瞑ればそれは人間の骨格、姿を象っている。朝黒い肌、黒い髪、鋭い瞳、個々のパーツで見れば何の違和感もない。だが違う。もっと別のところでそれは人間の領域から外れている。凪いでいた風は暴れ狂い、灰色の雲から雷鳴が轟く、この世界を満たしている大気が怯えるように悲鳴を上げていた──それが現れただけで。
「……最悪だ、さっきより悪い状況になった」
俺が凶暴な笑みを刻めたのは、逃げるという選択肢が頭になかったからだろう。天使の軍隊が相手なら不意を突いて逃げきれる自信があった。だから、バルサザールの軍隊を振り切ってこの場にいる。だが、いまは無理だ。背中を向ければ指を鳴らされるだけで首がねじれて終わる。
「弟の匂いがして来てみれば稀有な光景だ。匂いはするが中身のない脱け殻。それも妙だ。何故ルシファーの器になりながら正気でいられる?」
ゆったりと、ある程度の距離まで近いづいたところで男は止まった。奴に距離など意味はない、念じれば一瞬で背後を取られる。飄々とした声色にも関わらず、背筋がゾッと冷たくなる。星枷の占いはやっぱりすごいよ、太鼓判を押してやる。
「正気じゃないさ。最初は来る日も来る日も魔王の幻覚に悩まされた。大天使が入った器だ。平気でいられるわけないだろ。あれは地獄の日々だった、まるで……」
「バスの下敷きにならながら生きてる気分だったか?」
「……口にしようとする食べ物は全部ウジ虫に変わって、眼を閉じれば頭のなかでルシファーが喚き散らして一睡もできない」
伸ばした右手の人差し指で自分の頭を撃ち抜く。
「あれは幻覚を信じる、信じないの次元を越えてる。一度受け入れたら最後だ。頭のなかに住み着いたルシファーは何をやっても黙らないし、睡魔と戦ってるときに耳許で『天国への階段』を50回以上も歌われて、頭をやられない奴がいたら会ってみたいもんだ。生憎、ウジ虫サンドを笑って食べる人間は俺の近くにはいなかったけどな」
嘘偽りのない解答に男の唇が歪んだ。気に入らない家族の哀れな一面を知って楽しむように。答えは出てる、眼前の化物の正体は既に明らかだった。脳に流れ込んだ警告音には……覚えがある。
ルシファーの檻に落ちるより少しだけ前の出来事、忌々しく刻まれた記憶は忘れようがない。あれはアダムが器になったときに聞こえた音と一緒だった。そしてルシファーを弟と呼べる存在は一人だけ。精一杯の虚勢を張り、俺は化物の名前を呼んでやる。
「……ミカエルだな? ラファエルは登場と一緒に東海岸全域を停電に追いやったが、あんたほどユーモアはなかったぜ?」
「だが、私ほどの力はなかった」
「それは言えてる。根っから情け深いだけが取り柄の大天使だった。それもあいつの自称に過ぎないが」
それでもアメリカ本土の東海岸全域を停電に追いやり、苦もなく豪雨と落雷を呼び寄せる程度の力はあった。そしてミカエルはラファエルの数段上を行く化物だ。ルシファーに並び立つ聖書のメインキャスト、神とアマラを除いて魔王を止めることができた唯一の存在。恐らく──コルトで殺せない5つの存在のひとつ。
「……本当にルシファーを殺したのか? いくら頭が終わってるからってあんたの弟だろ?」
「迷ったら基本に戻る。私は定められたシナリオに沿ったまでだ。ここだけの話、神は休暇に出たきり帰って来ない」
「へえ。不在の神に変わって、あんたが堅物な天使共の指揮を執ってるわけだ。成り行きは読めたぜ、ルシファーとあんたの兄弟喧嘩に便乗して悪魔と天使の戦争が勃発した。つまり、この世界はスケールのデカい家族喧嘩が実際に起こった世界ってわけだ──誰にも止められることもなく」
嘲笑に乗せて、俺は制服の内側からスキットルを放り出した。この世界は最終戦争の起こった世界、天使と悪魔の戦争によって地上の生き物が息絶えていく世界。ミカエルとルシファーが兄弟で命を奪い合う、神が用意したもうひとつの悪趣味なシナリオ。ただ淡々と化物はこちらを見据えている。あの目は障害とすら認識されていない、床のシミに向けるものと同じ目つきで俺は見据えられていた。
「アザゼルが生んだ副産物か。血は随分と馴染んでいるようだが、私には届かないぞ?」
「……だろうな。だが、まだ未練があるんだ。聖女様にもあのユニコーンにも言ってない言葉が山程ある。それを全部言い終わるまでは……棺桶には入れない」
分かってる。俺の超能力はルシファーが生んだ
強気な言葉で自分を震い立たせるしかなかった。左手でスキットルを振り、奪い取った悪魔の血を慈悲深く待ってくれているミカエルの前で飲み干す。このミカエルは俺たちが知ってるミカエルじゃない。俺たちの世界のミカエルは檻の生活で頭がおかしくなってるが、こいつはもっと邪悪で、恐ろしく……強い。組み合わせてはいけない力と冷徹さを兼ね備えてやがる。神がいない世界でこの化物にとって抑止力になる存在はなにもない。
裂け目の向こうに辿り着いた暁には、世界はここと同じように荒れ果てる。悲観的に思えるが今までそんな展開ばかりだった。かぶりを振り、片付けるには眼前の化物が放つ気配は邪悪すぎる。それを許容して逃げるのは無理だよ、俺にはできない。今までやってきたことを台無しにするなんてできねえよ。一歩、重たく踏み出した足音が契機となる。
「それは重たい一歩だ」
「前に行こうと後ろに行こうが結果は一緒だ。それならあんたが嫌がる方向を選ぶ。三度の飯より人の邪魔をするのが好きでね」
「不出来な弟の創作物をこの世界に置いていく理由はないだろう。私はルシファーのように回りくどいことはしない」
「へぇ」
自分が殺した家族への中傷、その平然とした声色に俺は半眼を作る。そして一歩、ミカエルが歩を進めた。
「──だが、ルシファーよりまぬけだ」
「なんだと?」
明後日の方向から投げられた物体がミカエルの足元で砕け散り、突如砂の上で発火した。赤い炎が円を描くように駆け抜け、狼狽するミカエルの周囲を囲み、膝下まで吹き上がる火柱が一瞬にして大天使を隔離する。
それは天使を封じ込める聖なるオイルによるサークル、絶対的に力を有する大天使には血文字に並んで数少ない対抗手段の一つ。炎の牢獄が完成したとき、今度こそ混じりけなしの殺気が大天使の目に宿った。
俺は視線を灰色の空へと逃がし、天を仰いだまま嘆息した。次いで汁次の陶器が投げられた方向を見て、透明の瞳を引っ込めながら皮肉に笑う。
「どこから掠め取ったのかは聞かないでおいてやる。よく仕掛けられたな?」
「白雪がお前を占った結果を私にも聞かせてくれたのだ。そこに桃子からの連絡、察しはつく。大天使と鉢合わせることになるとは……長生きはしてみるものだな」
「貴方はまだ10代でしょう?」
清涼な声は数にして二人、緊迫した空気が微かに緩んだ。魔宮の蠍と銀氷の魔女、言葉はさておき二人の表情には驚愕の片鱗さえも宿されていない。俺の近くで異常なことが起きるのがさも当然と言わんばかりの反応。足早に歩み寄ってきたジャンヌは魔剣で武装し、これまたお供の蠍も見覚えのあるソードオフの散弾銃で武装している。
「その散弾銃は?」
「借りたのよ、尋問科の2年から」
「そいつは妬けるな。連中に塩は意味ねえぞ?」
「鉛弾だって意味ないわよ。でも残念だわ、一度異世界を旅してみたかったけど、ちっとも楽しくない」
「現実を知れて良かっただろ。住み慣れた自分の世界が一番ってことだ。次は別の夢を探せ」
楽しくない、その感想には酷く同感だ。伏せ見がちにジャンヌがミカエルを見やる。
「今は大人しいがいつまでも留めておけない。相手があのミカエルなら尚更のことだ。策はあるのか?」
「……そうだな。奴は俺たちの知ってるミカエルよりずっと危険で物凄く強い。倒すことは無理だろうな、darknessが援軍に来るなら話は別だが現実は四面楚歌だ」
「ハンカチで白旗でも作ってみる?」
「いや、無理だろ。この殺風景な世界の有り様を見て降伏が通用するとは流石に思えない。連中に交渉の余地はないみたいだしな、一戦交えたばかりなんだ。身に染みてるよ」
「帝国軍の最後の希望は潰えたってことね。期待してなかったけど」
微塵も残念な気配を感じさせず、達観した様子で黒髪が靡いた。夾竹桃の死生観はどうなってるんだろう。こんなときにつまらない疑問を抱え込んだ自分に嫌気が差しそうだ。
あー、ちくしょうめ。こんなときだから、つまんないことが気になったのかもな。まだ猶予はある、ミカエルを囲む焔が消えるまで、焔が灯る間だけ話ができる。後の祭り──俺はあの言葉、本当に嫌いだよ。ああ、本当にあの言葉が大嫌いだ。間に合わなくなるくらいなら、差し出せるものは惜しまずに差し出す。ばら蒔けるものは全部ばら蒔いてやる。
「聞いてくれ、二人とも。ジャンヌが罠を仕掛けてくれたお陰で時間が稼げた。だから、先に礼を言う。時間をくれて感謝してるよ、ありがとう」
肺に貯まった空気を入れ替え、俺はかぶりを振る。
「雪平。水を差すようだけど、今は礼を言うよりも打開策を──」
「いいから聞いてくれ。この期に及んで、現実から目を背けちゃいねえよ。前に話したよな、ネフィリムについての話。親となった天使よりも強力な力を持って生まれてくる罪深い存在、俺が日本に来る前に残してきた問題だ。ルシファーと人間の間にできた子供のことを皆に投げてきた」
ネフィリム、罪深き存在の代名詞。エノク書にもその名前は記されている。地上に降りた天使と人間の女性が交わり、産み落とされたとされる存在。俺が言葉を遮ったことで夾竹桃は半眼で耳を立ててくれる。次いで、俺は肩越しに背後を見やり、裂け目の有無を確かめた。
「異世界に穴を作って世界を繋ぐなんて芸当は普通じゃない。仮想空間を作るのとは──レベルが違う。死の騎士が大好きな宇宙の法則とやらをねじ曲げる行為だからな。そんなことができるのは大天使よりも1ランク上の存在、すぐに察しはついたさ」
「ルシファーの子供が関係してる、そう睨んでいるのか?」
「神は旅行中だ、他には考えられない。アマラが地上に解き放たれたときも登場は派手だった。半分は人間でもルシファー以上の力を持った天使が生まれるんだ、癇癪で次元に穴の1つや2つ空けてもおかしくない。こいつは俺の残した宿題だ」
「だが、ネフィリムが宿ったのはお前の責任では……」
「いいんだよ聖女様。補習に呼ばれるのが遅すぎたくらいの案件だ。夢にしては長過ぎるくらいの時間、あの国で悪くない時間を味わえた。本物の天国よりずっと良い」
ミカエルを隔離している火柱の勢いが穏やかになりつつある。燃え盛る火柱は砂時計のなかで残りの時間を示しながら、溢れ落ちる砂のようだった。嘆かわしいことに話ができる刻限はそう長くなさそうだ。不安げなジャンヌの碧眼から逃げるように俺はかぶりを振る。悪ぃ、いまそのアイスブルーの瞳を見ちまうと……揺れそうだからな。
「ミカエルを向こうの世界に招いたら全部終わりだ。色んなもんを犠牲にして守ってきた世界も此処と同じになる。命を賭けて止めた最終戦争と結局同じ結末になるのは、一緒に戦ってくれた皆に会わせる顔がなくなる」
「分かってるわよ、貴方がやってきたことが無駄になる。私も灰色の世界は趣味じゃないの、手負いになる覚悟はしてきた。天使たちを止めて愉快な明日を迎え──」
「夾竹桃」
不意に名前を呼ばれ、彼女は俺に振り向いてくれた。言葉を遮られたことに呆れた顔、幼さの残る顔、目に毒と思えるほどに綺麗な顔は初めて会ったあの夜に見た顔と何も変わってない。俺が投げた鍵は、咄嗟に受け止められた彼女の右手の中で小さく揺れていた。
「……待ちなさい。なにこれ、なんのつもり?」
「大事にしろよ。接触事故なんて起こしたら化けて出るからな。それにカセットテープも」
「笑えない」
「……ったく、ちょっとは笑えよ。こんなことやるのはお前が初めてなんだぞ?」
「ふざけないで、インパラは貴方の家族。ただのクラシックカーじゃないことは私も知ってる。空気を読まないジョークにしては最悪ね。雪平、場を考えなさい」
俺は振り上げていた手をゆっくりと下げる。
「分からない。誰にも運転もさせなかったのになんで簡単に手放せるのよ、矛盾してる。意味不明なの、貴方はいつも意味不明で分からないことだらけよ。でもこれは本気で分からない、分かりたくない」
「深夜アニメと女子絡み以外でお前がそんなに饒舌になるの初めて見たよ。思わぬ発見だ、レアだな」
この期に及んでこんな返ししかできないんだな、俺は。小さく苦笑する俺の隣にジャンヌが表情を咎めた。本当に察しが良いよ。本当に──どこまでも賢いお嬢さんだな。
「桃子、キリは……」
「私がどれだけ助手席で貴方の惚け話を聞いたと思ってるの? どれだけ貴方と──渡す相手を間違えてるわ。雪平切がインパラの運転を許すのは貴方の兄、貴方の家族だけでしょ……!」
「だから、お前に渡してるんだよ」
手短に話をつけないといけないのに、どうにも相手がこの女だと回りくどくなる。目を離せなくなると分かっていて俺は夾竹桃と視線を結んでしまった。視線を呪縛されるような綺麗な瞳と、
「家族だから渡してる。インパラって家族を預けられる相手だから渡してるんだ。誰でもいいわけないだろ?」
呪縛されていた瞳が強く収縮する。何度も視線を奪われていた瞳が、息をするように強く開かれる。
「どうして?」
「お前なら、インパラに名前を刻んでも良いと思った。家族である証。お前ならインパラを家族として扱ってくれる。誰でもいいわけじゃない、夾竹桃に頼みたいんだよ」
「なんでいま、そんなこと言うの?」
「諦めをつけたつもりだった。でも心のどこかで普通の生活に憧れてた。非日常の生活に嫌気が差して、日本に来てお前や聖女様と出会うことができた。ハンターとして生きていたから皆に出会えた。嫌いだった非日常の生活が好きになれそうなんだ。あの夜、コルトを奪いに来てくれたのがお前で本当に良かった」
「駄目、似合わない。そんなB級映画みたいな台詞が胸に響くわけない。無理よ、受け取れない。受け取ってあげない」
「ジャンヌ、ミカエルの背後には天使の軍隊がいる。たぶん、雑魚以外にもハンナやナオミ、悪魔との戦争に生き残ってる手練れの兵士がまだまだ残ってる。仮に星枷を加えてもこの場は乗り切れない。正攻法での攻略は……無理だ。包帯1つで腸を抑えてる状況、だから──もっと現実的になろう」
刻限が迫るなかで、やけにあっさりと言葉は浮かんできた。当たり前か、包帯で一つで腸を抑えながらも自分にできることをやる。そんなことジョーとの別れで嫌になるほど痛感してる。命を投げて助けてくれた彼女への想いは、変わらない。けれど、それを理由に現在を逃避することは、もうできない。武偵として過ごした日々は未練を作りすぎた。脳裏に焼き付いた言葉は海を渡ろうがどれだけ時間が経過しようが変わらない──ウィンチェスターの教えだ、家族は捨てられない。
「まずこの裂け目はいつまでも続かない。突発的に生まれた現象がそう長く維持されることはないからな。裂け目がネフィリムに関係してるなら、今頃は兄貴たちも事態の終息に奔走してる。裂け目が閉じるのも時間の問題だ」
「……裂け目が閉じるよりも先に聖なるオイルが枯れ果てるぞ?」
「だから、閉じるまで俺がここで足止めする。増援にやってくるお仲間からもまとめて死守して時間を稼ぐから、お前は夾竹桃と向こうで天使避けを準備。ジャンヌ先生なら悪魔避けも天使避けも簡単に書けるだろ?」
「私は魔女だ、お前と同様に天使と悪魔の知識も一通り揃えている。お前の期待にも答えられるだろう。だが、正面から勝ち目はないと言ったのは他でもないお前だ。私はこれでも現実的に先を見据えているが──できることなら、お前を捨てたくない」
伏せられたアイスブルーの瞳に一瞬言葉をなくす。最後の言葉、もっと別のタイミングで聞いてみたかったな。本当に残念だよ。その言葉、いつかキンジにも言えるといいな。一緒に海外旅行でもしてやれよ、故郷のフランスにでも誘ってさ。
ミカエルを見やると、燃え盛っていた聖油の火柱は勢いをなくし、頼りなく燻る一歩手前だ。砂時計に落ちる砂は残り少ない、きっとそのせいだな。いつになく口が気持ち悪いほどによく回る。
「バカか、お前は」
皮肉な声色で、お決まりのアンフェアの台詞でジャンヌにかぶりを振る。半分は自分に向けての言葉だ。
「自爆するつもりはねえよ、一番賢いやり方を提示してるだけ。血は全部飲み干した。そこらの天使相手ならどうにでもなる」
「ミカエルは普通の天使とは呼べない」
「なんとかするよ。上手いことミカエルだけを置き去りにしてやるから、存分にお絵描きに取り掛かってくれ。いざというときの備えは用意しておく、それが賢い策士。それを教えてくれたのはお前と理子だ」
ふいうちの言葉だったのかもしれない。ジャンヌが言い淀む。
「自身より他人を優先する。それは立派だが、それではいつかきっと後悔する。もっと、お前には早く伝えるべきだった。お前は、もっと自分を大切にするべきだ」
「してるよ。やりたいことをやってる。理子が言ったとおりだ、迷ったときは自分の心に従え。あの『青空』は俺たちが色んな物を犠牲にして、やってきたことが無駄ではなかった証だ。皆で手に入れた色のある世界を、俺は失いたくない」
らしくない言葉を長々と続けると、すっと何かが砂を踏んだ音がした。軍服が視界の端に佇んでいる。
「追手が来た。タイムリミットだな」
小さな夾竹桃の肩を叩き、袖から天使の剣を滑らせる。居心地の良い夢から覚めたとき、こんな気持ちになる。
「ジャンヌ、行ってくれ。そこのユニコーンのこと、任せたぜ?」
「ふざけないで。先は見えてる、私も途中まで読破したわ。お得意の自己犠牲で終息、笑えないのよ。自己犠牲なんて言葉で死を美化しないで、死は全ての終わり。私は認めないから、なにかを守るには犠牲が必要って考え方は反吐が出る!」
「……等価交換は駄目なタイプだな、お前」
それがお前の信条なんだろうな、何かを得るために何かを犠牲にしても意味がない。等価交換も自己犠牲も意地でも認めない、そんな心の叫びを聞いたような気がした。皮肉な笑いしか出てこない。最悪だ、どこまで俺を揺さぶるんだよ。最初は首を落としにきたくせに。
「お前は甘い。変わってくれるなよ、そのままの天然記念物でいてくれ」
──メグにとっての
「キリ」
「なんだ。連中、いつまでも空気を読んで黙っていてくれないぞ?」
「なら最後にひとつだけ」
背中を反転させ、結われた銀色が視界の横を過ぎ去っていく。
「──遠慮はいらない。がつんと痛い目にあわせてやれ、ウィンチェスター」
清涼な声が澄み渡り、そして口許が歪んでいく。
「ああ、どっちが雑魚か思い知らせてやる」
瞼を閉じ、透明の瞳に裏返ると同時に指を鳴らす。
「
そして、強情な夾竹桃をジャンヌもろとも、栄養剤で得た念力で裂け目のなかに吹き飛ばした。これでやるべきことはやった。バルサザールが後ろ頭を掻き、やがて肩をすくめる。
「仲睦まじいな。私は吐き気がしたが、正直じーんと来た」
「そう。それは良かった」
指を鳴らして、飛来したプラズマ弾の軌道を明後日の方向に逸らす。
「本当に……随分と未練を残してくれたが仕方ない。休暇の埋め合わせがようやく回ってきた、それだけだよ。いつものパターン。空気を読んでくれて礼を言うよ、ミカエル。俺の知ってるあんたよりかなりグレてるみたいだが?」
ミカエルを包んでいる火柱が頼りなく燻る。灰色の世界を照らしていた赤色は疑問を投げるのと同時に焼け落ちた。軽快に三歩、砂が踏み鳴らされる。
「待ち時間はこれで終わりか?」
ドス黒い両翼が広がり、双眼が青白く光ると一瞬にして砂が巻き上げられた。鼓膜を雷鳴が激しく叩き、衝撃波となんら変わらない突風が四肢を斬りつける。最上位の天使、原始の創造物、神の近親、彼に付いて回る尊大な呼び名がどれも間違いじゃないことを身を持って学習する。
肩越しに背後を見ると、縦に走る隙間からは依然として光が漏れていた。祈りの力で次元の裂け目が閉じる、なんて都合の良い奇跡は起こりそうもない。眼前の化物との衝突は確定事項、構えた天使の剣を手元で回す。ミカエル、お前の力の発現に恐怖した俺はもういない。俺はあの頃にやれなかったことを果たす。
(テッサがやろうとしたエノク語のまじない。あれは胸の一点にエネルギーを集め、意図的にエネルギーを膨張させて起爆する技だ。あれなら広範囲に纏めて甚大な被害を出せる)
大天使から迸る威圧感に抗い、溜め込んだ記憶を探った結果行き着いたのは皮肉にも死神の模倣だった。まじないの材料には奪ったばかりの恩寵がある。他は印を刻む剣があればいい。この場での最適の解はどれだけ頭を捻っても他にはなかった。十中八九、夾竹桃に語れば冷めた眼差しを向けられるな、このまじない。本当、教えなくてよかった。
──なあ、ジョー。俺を庇って猟犬に肉を食われた君は、腸を包帯だけで抑えながらも自分の命を投げてルシファーの元へ続く道を切り開いてくれた。自分の命ごと猟犬を巻き込んで、血まみれの手で爆弾のスイッチを押す覚悟を俺に見せてくれたんだ。貴方は俺の初恋で、俺の家族で、忘れられない罪だった。
あの日以来、俺は君に救われる価値があったのかって自分の命の価値が知りたくて仕方なかった。けど、皆が守ってくれた色のある世界を守れるなら、価値はあったのかな。あ、そうだ。色々あって、違う仕事を始めたんだ。ダブルワークって言うか、今は違う国で。
(いつものやつだよ。ウィンチェスター兄弟お決まりの展開。海を渡った先で始めた仕事も狩りと同じで非日常とあんまり変わりなくてさ。皮肉だよな、どこに行ってもやってることは大体同じ。まるでホームドラマみたいだ。けど、今はこの仕事が嫌いじゃなくなった)
みんな良い奴ばっかりでね……そう、神崎ってやつ。イギリスにいたんだけど家族のことで彼女もやってきた。無茶苦茶強くて……誠実な女だよ。
それに遠山キンジ、この仕事は嫌いみたいだけど、やっぱりまだここにいる。非日常から離れたい一心で毎日迷いながら仕事やってる、昔の俺を見てるみたい。そもそも俺、今はこいつの部屋に住んでるんだけどね。
(家族のために故郷を離れた神崎、普通の生活を送りたいのに非日常に生きてるキンジ。俺と似ているようで全然似てない二人のルームメイト。すれ違うこともあったけど、最後にはいつも助けられてる。ああ、救われてる。感謝してるよ)
肺が衝撃に撃たれる。はだけた制服から見えた胸肌に剣を走らせる。
(それと理子、理子は……すごい奴だ、本当にすごい。一緒に肩を並べると安心する。敵に回しくたくないし……戦いたくない女。これが悪戯が大好きで、おまけに自由気ままな性格でさ。でも最後はいつも傍にいて……力を貸してくれるんだよ)
場を引っ掻き回すトリックスター。でも最後にはいつも隣で肩を並べてくれる。気づいたときには目の前で蜂蜜色の髪が舞ってるんだ。だから、俺も心底、理子を信頼しちまってる。
(ジャンヌ、ジャンヌダルクは……良い女でね。最初に見たときはびっくりした。正直言うと惚れそうになった。うん……ドキッとした)
──ジャンヌダルク。歴史の教科書や舞台や演劇でしか耳にしない名前が、今ではとても身近に感じる。最初は敵意しか感じなかった名前に安心を覚えてるんだ。魔女なのにな、お笑い草だよ。あいつは魔女で俺はハンター。普通なら敵同士、すぐに血が飛び散る。だから最初に会ったときは最悪だった。
お互いの立場とそこに友達の身柄まで絡んで、とにかく大変だった。凛々しくて気品に溢れてるのに、絵が壊滅的に下手で、氷を操るのに本人は冷え性。策士の一族なのに、まさかの天然ボケ。遠くの存在に思えて、実は簡単に触れられるほど身近にいる女でさ。本人は氷のように冷たく、恐ろしい魔女を自称してるが──
(仲間や大切な人の明日のために戦える……優しい女なんだよ)
悪党でいるにはジャンヌは優しすぎる。こんなこと本人の前で言ったら、デュランダルで斬りかかってくるんだろうな。だが、ジャンヌも理子も欠けてほしくない。今の関係がずっと続けばいいと思ってた。うっすら目を閉じると簡単に想い出せるんだ、大理石の続いた廊下を歩いて、開いた部屋には理子がいて、ジャンヌがいて、そして──
「正気か? 旧約聖書の印を人間の身で、キャシーより頭が飛んでるなお前さん。自分から原子炉を爆発させようとしてる」
「今日の今日まで俺がまもとだったとでも?」
──でも、一人妙な女がいてさ。これ困ったやつでね。あ……俺も頭抱えてる。最初は俺のこと殺しに来て、今でも首を狙われてるかも。いつか、本当に車のボンネットに縛り付けられて崖から落とされるんじゃないかってヒヤヒヤしてるよ。
でも妙にそいつの隣が落ち着いて、なんていうかディーンがリサに抱いた気持ちもやっと分かったような気がするよ、この期に及んで。
とにかく俺が言いたいのは、そいつらと今は一緒にいるんだ。海を渡った先にいた連中、でもそいつら俺の家族も同じで……だから俺としては……君とお母さんに紹介できれば……そう、君がいなきゃ皆に会えなかったし、それとこの……日本に居場所ができた。とにかくありがとう。
「──
主人公がインパラの鍵を渡したことに、特別な意味を持たせることができれば作者は非常に満足です。文字数が大変なことになったので、二つに分割して同時投稿にさせて頂きました。続きも合わせて見てくださると嬉しいです。