「死に神は背後に立ち言った。“来い お前がこの世から旅立つ時だ”」
無作為に叩いた黒鍵から音色が響き渡る。不機嫌な視線が声が届く程度は遠くない壁際から放たれる。
「不吉なこと言うなよな。それって死神の迎えが来るグリム童話だろ?」
「死神のおつかいだ。ある日、死神を助けた男が助けた礼として『もし自分のところに来るときはあらかじめ教えてほしい』と約束をする。が、その知らせとは男の自堕落な生活に表れていた咳や熱、目眩のことだった。男は最後の最後でそのことを知り、そのまま死神に連れられていく」
放課後、音楽室のピアノの前に私はいた。白鍵に指をかけながら、同じく部屋に居座っているのは不機嫌な遠山だけだった。懲役536年ーー神崎かなえの判決が東京高等裁判所第八〇〇法廷に響いて以来、そしてアリアの許嫁であるエル・ワトソンが武偵校に転入してからというもの遠山の機嫌はいつ見てもこの有り様だった。
分からなくもない。裁判は敗訴、一審より減刑はされてはいるが事実上の終身刑には何も変わらない。私や理子の証言を含めて、遠山とアリアが渡ってきた綱渡りの結果として見れば不服なのは当然だ。だが、そもそも傍聴人のいない、マスコミも1人も来ていない裁判そのものに私は怪しさを覚えてならない。次の最高裁が別れ道、敗訴すればその次はない。退路を焼かれている状態だ。
アリアと遠山の神経が張り詰めるのも自然なこと、何も不思議なことではない。ただ、遠山から漏れている怒りにも近い感情にはもう一つ、アリアの許嫁であるワトソンの転入も要因になっているのは私も無視できなかった。そう、ホームズのパートナーであるあのワトソンの一族だ。
「遠山、お前は既に外堀りを埋められているようだな? その様子では平賀文、武藤も籠絡されたのだろう?」
「……さあな」
「ふむ、当たりか。当然だな、私は何も間違えない。どうやらお前の使える手札は相当制限されているようだ。奴の立ち回りは強襲科ではなく諜報科、お前とは相性的な不利がある」
「……ああ、腐った女みたいなやり方だよ」
強襲科と諜報科では相性的な不利がある。奴の経歴はニューヨークでは強襲科、マンチェスターで探偵科、東京では衛生科と名乗っていたらしいが正面からの決着より搦め手が好みらしい。私の気に入らないやり方だ。
「東京で自分の武偵技術に、最後の磨きをかけに来たんだと。なんでどいつもこいつも海を渡ってまで日本で武偵をやりたがるんだ?」
「私が知るわけないだろ。だが、奴には気を付けろ。謂わばこれは戦いに備えての下準備、準備が終わればワトソンは必ず行動を起こす。目的は読めないがな」
「どうせロクでもない理由だろ。やけに心配してくれるんだな?」
「私は、あの手の姑息な相手は嫌いだ。それに硬式テニス部で、私の支持者が随分ワトソンに鞍替えしたらしい。それも気に食わない。むしろ、そちらが気に食わないのだ」
「……そこははっきり言うんだな」
遠山は私の心意がやや不服な表情だが、つまらない軽口として受け流しておく。幸い、いつも真っ先に軽口を飛ばすであろうハンターがこの場にはいない。プラスとマイナスで見れば遠山でゼロだ。
「このゲーム、ポイントで言えば俺の手持ちはほとんどワトソンに奪われた。誤魔化す必要もないから言うが底をつきかけてる。やられたよ、劣勢もいいところだ」
吐き捨てた遠山の表情は、一応ワトソンの手腕は認めながらも嘆きが混じっている。
「ワトソンはクラス全員の寵児、どんどん友達を増やしてる。そのワトソンと気が合わない俺はまったくの逆だ。小うるさいルームメイトでもこうなると寂しいもんだな」
「ほう、お前も寂しさを覚えるのか?」
「9回裏に来て、ベンチに切しかいなくてもいる方が心強い。厄介者だっていい、頭がおかしくてもいい。お互い様さ。俺だって疫病神扱いされてるしな」
遠山にしては柄にもない切げな声色だ。はっきり言って聞くに耐えられない。
「俺は呼ばれてないが、武藤がワトソンのホームパーティーに招待されて寮の大部屋で美味い物をいろいろ食わせて貰ったらしい。そんなこと聞いてると、あいつのシュリンプ料理が恋しくなったんだよ。ガーリックシュリンプ」
「ガーシュリックシュリンプか。あの味を求めるなどお前もすっかり毒されたようだな?」
「……そんなんじゃねえよ。ハンバーガーとコーラばっかり飲んでるジャンキーとは違うんだ。菜食主義でもないけどな。でもあの味が恋しい」
ーーワイキキで店でも開けばいい。私もできればそう言ってやりたかった。だが、それは無理なのだ。白いフェンスの家、ステーションワゴン、暖かな家庭、妖怪退治とは無縁な暮らしーーどれもハンターには望めない。キリの場合は特に。母親が、メアリー・ウィンチェスターが手放した生活を同類の彼が味わえる道理はない。それは本人が一番理解している。
「それに毒されてるって言うならお前もだろ?」
ふと、遠山から投げられた言葉に私は唖然とする。
「私が?」
「変わってるよ。良い意味か悪い意味かまでは分かんねえけど、地下倉庫で初めて会ったときとはまるで違う。そうだな……やっぱり良いヤツになってるよ。俺とこんな会話してるしな。話に付き合ってくれてる礼は言っとく」
「ふ、スマイル0円というやつか。私には効果も0だがな」
ピアノから顔を上げて、私は遠山に視線を合わせる。案の定、反射的に腕を組んでいた遠山とはすぐに視線が重なった。私はわざと間を作るように吐息を挟む。
「アリアとの関係に亀裂が生まれそうと聞いたが、いまはあいつを信じてやれ」
「……なんだよ、いきなり」
「祖母に決められた許嫁、正体を知らなかったこと。アリアからお前が聞いた話は紛れもない真実だ。私も気になったのでな、ワトソンのことを自分なりに洗ってみた。言っておくが、決して奴への嫌がらせや仕返しなどではない。お前とアリアのためだ、いいな?」
「わ、分かったって! だから睨むな!」
「べ、別に睨んではいない! 私は元からこういう目付きなのだ!」
それから私はリバティメイソンとワトソンのことについて会話で触れていく。アリアに正体が明かせなかった理由、ぶっそうな二つ名を持った手練れであること。別に私はアリアと遠山が仲を違えようが踏み込むつもりはないが……ワトソンとの定められた婚儀をアリアが本当に望んでいるかは想像に難くない。
無論、それは貴族としての事情がついて回ることだ、他人の私が口出しできることでもない。それは私が踏み込むことを許されたラインを越えている。だが、このまま亀裂が広がり続けることでようやく見つけたパートナーの手の届かない場所に行くというならーー私は彼女に同情するだろう。
悲恋という意味ではこれ以上ないほどの実例が身近にいる、自らの好意を押し殺すことがどういうことかウィンチェスターの兄弟を見ていればよく分かる。自慢気に語れるものではない。
「ワトソンとアリアは確かに許嫁だ。それは一族の間で取り決められた契約。ホームズとワトソンとの関係はそれほどに深い。だが、お前にはワトソンにはないものがある」
「俺に?」
そうだ、生まれてから一度も会うことのなかったワトソンには決して手に入れることのできない物がお前にはある。アリアにはとても価値のある物がな。
「お前には今日このときまでアリアと過ごした毎日がある。様々な戦い、勝利、敗北。怒り、悲しみ、喜び。私たちとぶつかり、積み上げて戦った毎日がある。神崎かなえの為にお前が刃を取ったことは事実なのだ。そしてそれはワトソンにはない、お前とアリアだけにあるものだ。お前がアリアと重ねた時間は、昨日今日で造り出せるようなものなのか?」
「……ひ、卑怯だな。お前、そんなこと言うキャラクターじゃないだろ。いや、キャラクターじゃなかったはずだぞ」
「お前が言ったのだぞ? 私もキリに毒されている、とな。よりによってウィンチェスターに影響されるなど甚だ疑問だが」
甚だ疑問だが、敵にも味方にも毒も薬もやりたいように振り撒いて歩いてきた男だ。そう、雪平という男は毒も薬も無差別に振り撒くーー妙なハンターだ、甚だ図々しい。
「積極的に他人を巻き込む恋愛は、単なる妄失に過ぎない。遮二無二突っ走る様は見ていて胸が空くと言うがそれとは別物だ。私はワトソンのやり方には賛同できない」
「だとしてもだ。今ではクラスで勧善懲悪が作られてる。誰も俺にはーー」
「遠山、誰かがお前に感謝するのは別段珍しいことじゃない」
聞くに耐えない言葉を遮り、私は噛んで含めるように続ける。
「ブラドのことでは私も理子もお前に感謝している。直近では修学旅行でレキがお前に感謝しているはずだ。それだけでは不服か?」
「……」
「お前は自分に味方する者や称賛の声がなければ戦えないほど、やわな男だったのか?」
驚いた表情は、しかしすぐにかぶりを振った。ふむ、ただ不機嫌なだけの表情よりは幾分マシになったな。似合わないことを言っただけの価値はあった。我ながら合わない仮面を被ったものだ。
「所謂きまぐれというやつだ。さっきの言葉は聞き流せ」
「無理だな、最近記憶力が良くなる一方だ」
「ふ、口の回る。遠山、油断だけはするな。もしものときは私を呼ぶといい、体裁など気にしていては死ぬからな」
いくら遠山が愚直で愚鈍で罠に嵌めやすい男だからと言って……この展開は面白くない。私の聖剣を指で受け止めた男なのだぞ、面白くない。ワトソンのやり方はーー気に入らない。
「でも意外だな」
「?」
「お前がアリアの肩を持つのは意外だった。こうやって二人で話すのって珍しいし」
「そこまで人の心が分からぬ私ではない。できる女は違うと言うことだ」
孤独とは面倒なものだ。飼い慣らすには恐ろしく苦労させられる。私はかぶりをふり、ふと遠山に視線を合わせた。それは意図的ではなかったと思う。偶然だ。偶然合った視線に、私は帳尻を合わせるように言葉を考える。言うべき言葉は既に言った。なら、どうする。いったい、どうする?
よくある、他愛のない話ーーみたいなことを、遠山とはほとんどしてこなかった。ドリンクバーの存在を知ったあの日が精々学生らしい会話だろう。なので、私は戸惑ってしまう。とても困ってしまった。
「まあ……何だ、遠山」
と、声をかけてみる。窓から差し込む光をバックに視線は結ばれたままだ。自分を打ち破り、一族の因縁の敵も退け、あろうことかイ・ウーまで崩壊させた男がこちらを見ている。かつては敵対し、いまでは同じ方向を向いている男と視線が重なっている。そんな、妙な関係の男が寂しさに襲われているとき、喜ぶことはなにか、なんて間が差したようなことを一瞬、考えてみる。
もし自分が同じ状況に置かれたとき、何も考えず助力してくれるであろう男が、喜ぶことは、なにか、とか。だが、それがすぐに思いつかなくて。そんなこと、考えたことないから、まるで思いつかなくて。
「弾いてみるか?」
と、目についたピアノから頭の中で、精一杯思いついたことを、言ってみる。その瞬間、遠山は驚いた顔で、黙り込んでしまった。一秒、二秒……会話は途切れたまま。他には誰もいない音楽室が一段と静かに思えてくる。やはり慣れないことはしないほうが良かった。そう考えた矢先、遠山は視線を窓の外へ逃がすように泳がせた。
「あー、悪い。その……弾けないんだ。本当に」
とても子供っぽい顔で、笑ってしまいたくなる顔でかぶりを振る。
「嘘だ。何か弾けるだろ?」
「あ、その……そうだな。それじゃあーー」
横に広い一つの椅子に、私の右隣に、遠山は躊躇った末に腰をおろした。
「変装潜入の授業で少し習ってたんだが、いまも覚えてるのは……これだけ」
すると、右手の人差し指だけで白鍵が数回、イントロのメロディだけが奏でられる。
「冗談だろう?」
うっすらとした笑みで遠山に首を振られた。白鍵が四回、言葉の代わりにまたしても指で奏でられる。勝手に始まるイントロと、『どうだ?』と言わんばかりにこっちを見てくる遠山に私はかぶりを振った。はぁ……私の負けだな。
「分かった」
視線をピアノに下ろし、遠山の左隣で、奏でられるメロディに伴奏をつけていく。他には誰もいない部屋、会話はなく、聞こえるのは共に弾いているピアノの音色だけ。私の低音と遠山の弾く高音だけ。
人差し指と中指だけを揺らす遠山と、うっすらとした笑みで何度も顔を合わせながら、誰かが部屋を叩くときまで、私たちは何も言わず『carry on my wayward son』を奏でるのだった。
下手に慰めず、近づかず、けれど適度な支えとなってくれる子。