哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

56 / 157
最後に来るもの

 青白い稲妻を三叉槍に走らせながら、ヒルダは動かない。聞こえるのは空から絶えず降ってくる雨音だけ。理子が叩きつけた最後のカードがテーブルに膠着の状態を作り上げた。その光景にアリアが閉ざしていた口を開く。

 

「……ねぇ、そんなに危険な銃なの? あのコルト」

 

「かつて、コルトの創始者は自身が敷いた鉄道で巨大な魔除けを作り上げた。それと同時に生まれたのがあらゆる者を葬ることのできるコルト。長らくそれは迷信として語られていた、親が子供に野菜を食べさせるためのおっかないお伽噺話、とな」

 

 だが、事実は違う。コルトが存在することはヒルダも内心では疑っていないはず。魔臓の存在を無視して自分を殺すことのできる数少ない武器、天敵とも言える武器のことを慎重な彼女が調べていないわけはない。疑っているのは理子が構えるコルトが、本当にあらゆる物を殺せるコルトであるかどうか。それを確かめるには弾を受ける以外に確認する術はないが本物だった場合はそのまま幕引き。真偽を確認する意味はなくなる。

 

 理子のかけた脅しには、無限回復力に物を言わせた受け身の姿勢が取れない。キリは悪魔によってコルトは破壊されたと言っていたが密かに持ち出し、修復していたなんてことは十分にあり得る話だ。現に持ち逃げしたミカエルの槍を弄り回して修復した前科がある。あれは例えるならオカルトグッズの専門の装備科、コルトを使える状態に戻した可能性は決して低くない。

 

「状況は読めないけど、キリがまたぶっそうな物を残していったってこと?」

 

「砕いて言えばな。お伽噺に出てくるような武器だがそもそもあの男の日常がお伽噺のようなものだ。ヒルダはその内情を知っているからこそ躊躇った。何をしでかすか分からない男だからな」

 

「それは言えてる、同意するわ」

 

 それでも理子はあくまで脅しとして、武偵法を破らない方向でまずは動いている。そこはアリアと遠山への配慮か。私たちに取れる手段はない、テーブルに着いているのは理子とヒルダだけ。私たちは駆け引きの行く末を眺めるしかできない。酷い空気だ、緊張で胃が縮み上がりそうになる。もしこの場で狼狽する者がいても誰も文句は言わないだろう。

 

 ヒルダが仕掛けるか、それとも矛を納めるか。選択肢は二つに一つ。それを強いるのが理子の仕掛けた脅し。だからこそ──第三者の乱入など誰も予想にしていなかった。

 

「──日本語ってのは慣れないねぇ。会話が通らないのは面倒だが、もっとスムーズにいきたいもんだ。時は金なり」

 

 ズズ、と何かを引きずるような音がして闇の中から見知らぬ声が割り込む。覚えのない声、それはヒルダを含めたこの場にいる全員に共通していた。

 

「……お前」

 

 嫌悪を込めてヒルダが睨んだのは、肌を大胆に露出させた略鎧とマントを纏い、ヒールのブーツ、手には深紅のマニキュアを染める浮世離れした──女。首には宝石がの輝く装飾的な十字架を見せつけ、ヒルダに負けず劣らずの強烈な印象を頭に焼き付ける。

 

 何より印象的なのは、頭の両側面に見えている枝分かれしつつ後ろへ伸びたツノだろう。先端には針のような毛の広がる長い尾もある。魔女としての気配と獣人の気配がぐちゃぐちゃに混ざったような不可解な気配。それは私や白雪よりもヒルダのものに近い。背にしているヤマハ・YZ1フェザー……大型のスポーツバイクも魔法でここまで運んだのだろう。

 

「挨拶いるか?」

 

「いるに決まってるだろ、誰だよお前は。あたしは呼んだ覚えはない」

 

「ただの商人。目当ては金、それだけよ。希少な吸血鬼がいるって話は前々から耳にしてたから値が崩れる前に手をつけておこうと思ってね。魔臓を持った吸血鬼は希少種、めったに出ない激レアとありゃ──」

 

 激しい落雷が三叉槍に落ち、女の言葉を掻き消した。これまで以上の重苦しい殺気が第2展望台を満たしていた。

 

「竜の魔女ラスプチーナ。獣人、化生の売買を生業にする醜い魔女。おそまつな思考回路はいつまで経っても変わらないわね?」

 

 ──ラスプチーナ。乱入者の存在を一人だけ周知していたヒルダが吐き捨てる。私の記憶にはない名前、ヒルダの態度から見ると眷属の魔女とも思いづらい。この女の姿見た目は魔女連隊とはまるで違う。理子はコルトの銃口をヒルダから逸らさずに、ここでようやく会話に口を挟んだ。

 

「その竜の魔女があたし達に何の用だ? ネトゲのイベント会場と間違えてるようだから一度だけ言ってやる。こいつはあたしと取り込み中だ、くだらない用なら帰れ」

 

「──実物を見るのは初めてだが、お前がリュパン4世でそっちが銀氷の魔女かい。イ・ウーの元生徒に道徳語られるとはお笑いだね。極東戦役で敵対してんだろ、賢く立ち回れよ。あたしはお前たちと戦う理由は今のところはないんだからよ」

 

 ……どうやら彼女は眷属とは無関係、極東戦役に絡むつもりはなく、アンダーグラウンドで商売をしたいだけらしく……どこかの組織の回し者、というよりはヒルダと同じ個人で動いている一匹狼らしいな。会話の内容を聞くに穏やかな相手ではなさそうだが。

 

「要するにそっち専門の人身売買が仕事ってことか?」

 

「ああ、そのとおりさ。もっともあたしが売るのは、どこにでもいる安物の女じゃないよ。そこは勘違いしないでもらいたいね、遠山キンジ」

 

「あまり、こっちの界隈で有名になりたいとは思わないんだけどな」

 

 嘆くような仕草を見せるがそれは叶わない話だ。既に『S・D・Aランク』と呼ばれるアジアの超人ランクにも遠山は100位以内に名前を乗せている。これは非公式なデータだが一部の機関は遠山をとっくに危険人物としてマーク済みだろう。

 

 嘆いた遠山についで、アリアも当然のようにラスプチーナに敵意を向ける。が、敵意と殺意を一番募らせたのが誰であるかは言うまでもない、突然の乱入者に標的として扱われたヒルダ。怒りを代弁するように身に纏った電流が暗闇に迸る。

 

「竜の魔女、神出鬼没は相変わらずね。やられたわ、ルーマニアでは好きにさせてやった。なぜって、私とお父様に害があるわけではないからね。けど今夜は……話が違う。私の復讐、最高の場面でお前は水を差した。やり過ぎたわね、今すぐ、私の前で、頭を垂れなさい……!」

 

 一転、ヒルダの敵意は槍の矛先と共にラスプチーナに変わった。

 

「そいつは折り込み済みさ。最初から全力を晒してくれてる方が話は早い、感謝するぜお前ら。時は金なり。あたしは生まれてから、可能な限り時間をムダにせず金を稼いできた。商品を傷つけるのは御法度だが、相手が吸血鬼で再生するなら問題ない、ちぃと荒くやるだけさ」

 

 そしてラスプチーナの視線はコルトを構える理子に向いた。

 

「峰理子、あの泥棒の子孫のあんたなら分かるだろ? 今の世の中、誰もが人生を1日幾らで切り売りしてるだろ? 人は金の奴隷で、人生は金で売り買いされてるモノなんだよ」

 

「……人はみんな金の為に魂を売る娼婦。それは否定しないよ。でもお前の言葉は気に入らない。そして何より──よくも4世と呼んでくれたな、あたしがそれを見逃すほど甘く優しい人格をしていると思ったか?」

 

 求められた同意に理子は後ろ足で砂をかける。ヒルダは微かに眉をひそめ、遠山とアリアは何も言わず、しかし黙って協力するという空気ではなくなった。ヒルダとラスプチーナの相打ちを誘う選択肢がないわけではないし、むしろ賢いやり方はそっちだろう。

 

「そもそも人身売買の手助けも見過ごすのもできるわけないでしょ。吸血鬼だから、えっと……吸血鬼売買? まあ、どっちでもいいわ!」

 

 それでも自己完結したアリアが最後の決定を下す。私と遠山からの言葉はない。沈黙は肯定、向いている方向は全員が同じだ。

 

「ラスプチーナ、あんたはまだ罪を犯してない。今ならあたしも引き金を引かずに済むし、あんたも傷を負わずに帰れる。これは警告よ、賢い方を選びなさい」

 

 向けられた漆黒と白銀のガバメントを魔女は一瞥し、

 

「そうかい、こっちから仕掛けなきゃ闘りにくいよなァ。御膳立てしてやるぜ!傷害でもなんでも言い訳しなッ!」

 

 決裂、同時にラスプーチナが、揃えた右手の人差し指と中指を額・胸・右肩・左肩の順に動かした。それはロシア正教会古儀式派の十字の画き方。彼女も私たちとの和平は見限ったらしい。

 

「──罪深き者たちに、慈悲深き死を──」

 

 それが開戦の合図だった。背後に隠し持っていた革装丁の辞書をラスプチーナは手早く展開、即座に見知らぬ言語が読み上げられる。対超能力者戦の経験が豊富なアリアが真っ先に反応するが、ラスプチーナが伸ばした人差し指と中指が向けられているのは他ならぬアリア自身。

 

「……!?」

 

 指と指の間から稲妻が走り、ガバメントの引き金を引く隙も与えられず、アリアは意識を落とされた。

 

「アリア!」

 

 倒れたアリアに代わって短い悲鳴を遠山が上げ、ベレッタが火花を散らした。平賀文によって魔改造と呼ばれるまでの恩恵を受けた自動式拳銃の三点バースト。

 

「──!」

 

 放たれた9mmパラベラムはラスプチーナと遠山を結ぶ斜線上の途中であろうことか停止した。同時に何もないはずの虚空で甲高い音が混じる。今のは何かの鳴き声──?

 

「下賤な女、何を招いた──ッ!」

 

「眠ってた連中を起こしてやったのさ。宣言通り、ちぃと荒くしてやるぜ?」

 

 唇の両端を歪め、ラスプチーナは片手で本を支えると指を鳴らす。それとは別に鈍重な音が雨に濡れた展望台を揺らし、次の瞬間、ヒルダの腕が暗闇から消えた。

 

「……うッ……!?」

 

 真紅の目を見開き、ヒルダはしがみついた何かを振り払うように腕を振り回した。第三態の並外れた膂力ですら簡単には振り払えず、ようやく消えた腕が戻ったときには重く、大きい転倒の音が鳴った。やはり、何かがここに潜んでいる。見えない何か──冗談じゃない。

 

「遠山……ッ! これは音に寄ってくる! 撃つのはよしなさいッ!」

 

 全身から電流を放電させながら、ヒルダは踏み込みと同時に三叉槍を突き出した。甲高い鳴き声が槍の手応えを教えてくれるが、槍を振るったヒルダの周囲に突如、横向きの赤い線のようなものが浮かび上がった。それはまるで巨大な口、私に次いで遠山と理子の瞳も眼前の光景を凝視する。

 

「止まるなヒルダ、囲まれてる……!」

 

 意外にも声を上げたのは遠山だった。刹那、口のように見えた赤い線が大きく割れ、本当の口と化した。何もなかった虚空にはナイフのような大きさの牙が無数に並び、ヒルダの右腕を、次いで左肩を飲み込むように赤い線が閉じられた。悪夢のような肉の租借音とヒルダの絶叫が同時に聞こえてくる。

 

「四肢を喰らっても生えてくんなら問題ねぇだろ」

 

 ラスプチーナの視線はヒルダに吸い寄せられている。雨に濡れた床を蹴り、私はその声の元に駆けた。ヒルダの腕に食いついたのはラスプチーナが呼び出した使い魔、パトラで言うところのスカラベやゴレムの一種。その皮膚はベレッタの弾すら通せない硬質、そして何らかの手段で姿を消しているのだろう。悪天候も関係なしに姿の消せる化物をこの女は使役している。

 

 既にヤタガンのストックは使い切った。音によってくるというのなら、無音で殺傷圏内に。見えない何かを抜きにして、白兵戦にて仕留める。

 

「そいつが噂の聖剣デュランダルかい。お前の剣で" 呪われしもの "が手に入らなかった穴埋めをしたいところだがリスク管理も大事なんでね」

 

 同時にフェザーの後輪の下で空気が破裂、前輪でコンクリートの床を突いたラスプチーナが車上で身を捻る。さっきの稲妻とは違った空気に触れる魔術、前輪だけで立たせたフェザーの後輪が振り払ったデュンダルとぶつかった。

 

 金属部品が剥き出しになっている車体側面の下部が鈍器として振るわれ、前輪と後輪を巧みに操った動きでデュランダルが何度も捌かれる。まるでマウンテンバイクの曲芸だが、そのカラクリは簡単に割れた。車体から散っている不可思議な光の鱗粉、フェザーの重量を魔術で弄ったな……

 

 が、能力を行使する前に本を捲る動作が挟まれているのは偶然ではないだろう。傍らで大切に抱えている本は呪われしものの本と同様に魔術を行使する際の補助道具で間違いない。──呪われしもの、あれは呪いのかけ方と解き方に重きを置いていると聞くが、ラスプチーナの行使する技を見るに抱えられた本は特定に術に縛られてはいないようだ。厄介極まる。

 

「ハラァァァァァショー!」

 

 ロシア訛りのひどく訛った英語で極端傾けた車体は、前輪を支点にしたコンパスのように振り回された。もはや真紅のバイクは乗り物の枠を飛び越えた鈍器、手足のように操られたフェザーに凪ぎ払われる前に背後へ距離を取る。追撃に放った氷柱の刃も既に赤いページを開いていたラスプチーナは口から吐きだした炎で簡単に迎撃してしまった。

 

「連戦であたしをやれると、思ったかァ!」

 

 斜め前方に赤い線が見え、咄嗟に背筋が凍る。足音は聞こえてな──

 

「……そこかッ!」

 

 刹那、眼前に遠山が飛び出し、激しい炸裂音が鳴った。虚空に開いていたはずの口が視界から消える。が、次の瞬間には鈍い音と共に遠山の体が濡れた床を跳ねた。器用に受け身を取った遠山から苦心の声が上がり、注意を引いてくれたその隙に私もその場を離れる。

 

「遠山、礼を言う」

 

「今のでもダメか。硬いな」

 

「けっ、おとなしく食わせてやれよ遠山キンジ。コイツら腹ァ空かしてッからよ!」

 

 遠目に入ったラスプチーナは、一瞬だけ遠山を凝視して目を伏せた。短い攻防でも遠山がさっき見せた打撃が普通の枠を飛び越えているのは明らかだった。音の響く銃を封じることは、遠山にとって大した足枷にはならないことをあちらも気付いたのだろう。本当に恐ろしいのは、その人間離れした遠山の打撃を受けても活動を止めない使い魔たちだが……

 

「あれが視覚ではなく聴覚を頼りに動いているのは間違いないな。逆に言えば」

 

「ああ、逆手に取れる。でもアリアの復帰は難しい、理子も無防備なアリアの側から離れられない状況だ。 ヒルダが矛先を俺たちから変えてくれただけでもツイてるけどな」

 

「彼女は彼女なりに譲れない境界がある。価値観に相違はあるがあれはあれで誇り高いのだ」

 

「もっとマシな出会いをしたかったよ」

 

 背後から落雷が光り、肩越しにセルリアン・ブルーに染まる槍を振るうヒルダが見えた。第一態のときとは明らかに違った高圧電流が槍を走り、甲高い悲鳴がまたしても展望台に唸る。一人で相手にできるのは流石は第3態と言うべきだが、敵の姿が見えないだけにどれだけの数を率いているのかも分からない。

 

「しつこいと言うのに……無礼者……!」

 

 帯電した体を関係なしに噛みきられ、瞬時に煙が上がると傷が塞がることの繰り返し。しかし、声に微かな焦りが感じられるのは他の危惧すべき要因が近くまで来ているからだろう。

 

「明けない夜はない、だっけか? いい言葉だよな、あたしも好きになりそうだぜ。山のような大金だ、あたしの未来も明るく照らしてくれるだろうさ」

 

 ……見抜かれてるな。ヒルダは鉈に首を跳ねられても死なない一方、一般に浸透している吸血鬼のイメージと同じで日光が弱点として機能する。紫外線の環境下で第3態を維持することは、おそらく無理だ。

 

「──アンゲルスキ・クルク!」

 

 見えない何かに守られているラスプチーナは本を経由して魔法も使い放題。ピラミッドの下でパトラが無限の魔力を行使するように、あの本が有無はラスプチーナの力に大きく関わるのは間違いないな。問題は依存している書物をどうやって焼き払うか。

 

 新たに行使されたのはコンクリートの床から炎が吹き上がる仕掛け。サークルを描くようにヒルダを含めた私たちは炎の壁のなかに閉じ込められた。最悪だ……よりによって炎のサークルに……二度目だぞ……っ!

 

「あたしからのプレゼントだ。売り物にならねえ連中はそのまま焼却されちまいな。あたしは色金なんて面倒なもん抱える気はないんでな」

 

「アリア!」

 

「うっさい、キンジ。アリアはあたしがなんとかする! よそ見するな、叫びに反応するぞ!」

 

 アリアを抱えた理子がすぐに立っていた場所を離れ、遠山も私と合流するように位置を変える。巨大な炎は高々と生じ、激しい輻射熱が叩きつけられる。聖油のサークルはせいぜい腰元までだがこの炎のリングは身の丈を越えている。逃げ場がーーないぞ。

 

「アンゲルスキ・クルクは少ぉ~しずつ、少ぉ~しずつ、内側に迫ってくるんだぜェ?逃げ道はねえよ、食われるのと焼却されるのどちらか選びな」

 

 ……どちらも断るに決まっているだろう。私たちが動ける領域は徐々に狭まり、それは見えない使い魔たちから逃げる領域がなくなっていくのと同意義。腹を空かせた彼等の餌場に自分から近づいていくようなものだ。炎が狭まる前に私と遠山は一瞬だけ視線を交わし、ラスプチーナ本体目掛けて左右から迫る。

 

「ジャンヌ、とどめは頼む」

 

 右方から迫っていた遠山の手にはベレッタ。銃声を餌に誘き寄せる気か──?

 

「遠山、涙ぐましい連携だがやめときな。とっくにお前の近くにいてるぜ?」

 

 気配も何もない噛みつきを避けたのは偉業としか言いようがない。これが遠山でなければ千切れた腕が間違いなく転がっていた。その回避した遠山の体も不意に浮き上がり、不自然に吹き荒れた烈風と共に後方まで吹き飛ばされた。今度は緑のページ……白雪、ヒルダの他にセーラの魔法まで行使できるのか……

 

「詰んでるぜ、銀氷の魔女。あたしにはコルトのブラフも通じねェ。諦めな、ここいらが潮時ってやつさ」

 

 刃が腕に届く寸前、些細な期待も台無しにするように視界が炎で埋められる。熱風ーーそれ以外に当て嵌まる言葉はない。コンクリートの床に背中から体を叩きつけ、肺の空気が一気に溢れる。デュランダルが、ない……手放したか……

 

「理子……逃げろ……」

 

「無理だろ、アンゲルスキ・クルクは厚さもしっかり考えてある。雨で消えたりしないし、逃げる場所はどこにもない。あたしと相性の悪いお前だけじゃない、この場にいる全員に逃げ場なんてねえんだよ。あたしは用意周到な女だからなァ?」

 

 刹那、仰いだままの雨空で遠山の小さな悲鳴が飛んでくる。

 

「遠山ァ、人間にしてはよくやったよ。次に生まれかわったら、今度は賢く生きな?」

 

 軋むような体で濡れた床に手を突くと、見渡せたのは間近に迫る炎の壁と荒い喘鳴で膝を突いている遠山。ラスプチーナと睨み合ったヒルダの体に見えるアクリルブルーの電流は、最初に見たときよりも勢いがない。体の傷も至るところが煙を上げたままで、回復の速度は明らかに落ちている。

 

「人間は等しく愚かだと言うのに、お笑いだわ。お前はそれ以上に愚かだけどね」

 

「あたしたちは長くても百年しか生きられない。生きてるうちに大金を掴み、ハデに楽しんだヤツこそが勝者だよ。お前も異論は無いだろ?」

 

 ラスプチーナがそう語りかけるのは、迫る炎の壁からアリアを抱えて立ち回っていた理子だ。そのコルトが未だに火花を散らさないところから見ると、ラスプチーナの読みは……当たっている。理子がテーブルに投げたカードはブラフ。あのコルトはヒルダを出し抜く前提で用意された中身をでっち上げて外見だけを見繕った偽物だ。末恐ろしいことだがそれなら合点がいく。

 

 あのコルトに使われる弾丸は他ならぬ制作者によって造られた特殊な銀弾、それを理子は法化銀弾で代用してヒルダの鼻を欺いたのだろう。同じ銀弾、ヒルダが嫌悪するという意味では両方に違いはない。そして見事にでっち上げたコルトで理子はヒルダとの駆け引きに持ち込んだ。かつてのコルトの所有者だったウィンチェスターの存在も利用し、悪魔のような度胸で吸血鬼を威圧した。

 

 だが、不運にも予期していなかったラスプチーナの目と鼻は欺けなかったのだ。既に竜の魔女の瞳は自分の見立てに迷いを持っているような気配はない、揺さぶっても無駄だ。一度見せたコルトの脅し、駆け引きには持ち込めない。立ち止まった理子がフェザーを操っている魔女を睨むように視線を結ぶ。

 

「ラスプチーナって言ったな。あたしは永遠に続く地獄なら抗おう。この身を五分刻みで裂かれる苦痛にも戦ってやる。でもね、もし金と欲しかない世界が永遠に続くとしたらきっと悲鳴を上げて自分が自分じゃなくなる」

 

「ロマンチストを語るのはやめな。お前も本質はリアリスト、あたしと同類だろ?」

 

「違うな、あたしは一族の名前を汚してまで盗みはしない。略奪も同じだ。どんなに憎かろうと他人の五体を売っての金儲けなんて一度としてやるかよ!」

 

 アリアを抱えながら理子はかぶりを振る。

 

「そうかい、それなら──食われて死ぬ前に、神にお祈りしときな。懺悔をしときゃ、死後の世界での扱いが少しは良くなるかもしれないぜ?」

 

 見渡せる限りに広がっていた炎の壁も目に見えて狭くなり、徘徊する重たい足音がより近くで鮮明に聞こえてくる。

 

「神は瓶でアリを飼ってるガキだ、なにも考えちゃいない。窓のすぐ外に神がいたら苦労しないよ、本当はとっくに人間を見放してる」

 

 理子は吐き捨てる。そうだ、神はいない。だからこそ、私の祈りにやってくるとしたら、それはもっと別の者だろう。祈りを聞いてやってくる者がいるなら、それは神でないもっと別の──

 

「ダメで元々だろ、リュパン4世?」

 

「何度も言わせるな、あたしは──」

 

『理子!あたしは理子だ──! いいよ、理子と呼んで──! あたしは理子、よろしく──!』

 

 それは突然のことだった。耳鳴りがしそうなノイズ混じりの拡声器の声が重たかった空気を台無しにした。間伸びした声に反応し、徘徊していた使い魔たちの足音が一斉にざわめく。理解できない困惑の事態は続き、次の瞬間には見渡す限りの燃え盛る炎の絶壁……ラスプチーナを倒す以外に脱出不可能と思われた灼熱の壁が、一瞬にして姿を消した。

 

「……えっ?」

 

 これまでの前のめりな性格にはそぐわない驚きの声が竜の魔女から上がる。拡声器での不意の雑音よりも大きな驚愕の反応。再び、広がった第二展望台の景色で唯一変わっていたのは、

 

「チェックインだ」

 

 ウィンチェスターの末子が拡声器片手に腕を組んでいたことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「──キリ?」

 

 深く息を飲み、理子が真っ先に名を呼んだ。防弾制服の男はゆっくり両手を広げる。

 

「帰ったよ、ベイビー?」

 

 陽気に笑みを作り、理子と視線を絡める。皮肉屋の彼にしては珍しい明るい笑顔で。

 

 本当に、本当に帰ったのか? あの世界から自力で……?

 

「……ウィンチェスターか。なにしやがった……!」

 

 まだにわかに信じられない状況、終末からの帰宅が信じられない私をよそに、強い憤怒の声でキリは理子から視線を外した。首だけが声のした方向を向き、必然的にラスプチーナと視線が結ばれる。

 

「やあ、ラスプチーナ。会えて良かったよ?」

 

「質問に答えてねェ! あたしのアンゲルスキ・クルクをどうやって弄りやがった……!」

 

「わぉ、活かした名前。今度参考にしてみよう。あー、なんだっけ? アンゲル……そう、炎のリングだ。通販で売ってるまじないだから大助かり。宣伝ほどの効果はないよなぁ?」

 

 身ぶり手振りを混ぜ、うっすらとした笑みで最後には小首が傾げられる。ラスプチーナの表情が驚きに変わり、はっきりと目が丸められた。涼しく語れるほど簡単に解ける程度の強度ではないということか……

 

「まあ、落ち着け。戦いに来たわけじゃない。ルームメイトを助けに来た、元気だったか親友?」

 

「あ、あぁ……」

 

「おいおい、よそよそしくするな。苦労して悪趣味なテーマパークを抜け出してきたのはこの世界を救うためだ。お前とジャンヌは神に祈っただろう? だから来てやった。逃げ出した神に変わってな」

 

 へらへらとした緊張感のない笑み、芝居がかった口調でキリは続ける。やや困惑していた遠山、そして理子に忙しく視線のやり場を変えながら、最後にはラスプチーナに向けてうっすらと笑う。

 

「おー神よ、私たちをお助けください──なんてな。神はいない、とっくに逃げ出してるよ。懺悔なんてするだけ無駄だ、いくら聖書がバカ売れのベストセラーになっても神は何もしちゃくれない、我等の父は人でなし」

 

 すっ、とラスプーチナの胸──十字架が人差し指で示される。

 

「端的に神の馬鹿さ加減を説いてやろう。言い訳のスペシャリスト、責任感なんてとっくの昔に沼に沈めてる。ようするにロクでなし」

 

「……人の商売に、水を差しやがってペラペラと……あたしよりよっぽど神に背を向けてる、そこまで言ったら救いがなくても平気だよなァ!」

 

「こわーい、どうしよう……どうか神よ、私を許してーージーザスキャンプのガキみたいなこと言うな、悪いことしたら罰が当たるよぉ……!」

 

 おどけた口調でわざと声色を変え、キリは夜空をわざとらしく指で指した。いつも以上におどけているハンターの姿に、ラスプチーナの額には目に見えて青筋が浮かび上がる。煮え湯を飲まされた相手は眼前でおどけているだけの無神論者、それが許せないとばかりに抱えた本の赤いページが捲られる。

 

「おっと、いい玩具」

 

「写真で見るだけの方が好印象だったぜ……それなら、ちょっとは見えるようにしてやるよォ!」

 

 そう言うと指先に生じさせた光に、ラスプチーナが息を吹きかける。すると粒のような大きさの、しかし目も眩むほど明るい光が、蝶、獅子、最後には巨鳥の形へと変化しながら──フェザーに跨がった姿を隠すように爆発を起こした。そこで初めて暗闇に潜んでいた使い魔たちの姿が露になった。その正体は、色素が薄く、血管が透けて見える白い竜だった。

 

 尾は平たく、やはり目のない頭部はアンバランスに大きく、グロテスクな深海魚を思わせる。視覚が退化、代わり聴覚が発達したのだろう。荒い喘鳴を発している口は真っ赤に開き、見え隠れする牙は発達した肉食獣のそれだ。滑空、飛翔するための翼はなく、代わりに発達した足がけたましく動く度に重たい音を立てる。

 

「神に変わってやってきたなら、お前がそいつらの餓えを満たしてなりな!」

 

 主に声に反応し、両手の指ほどはいる竜たちは頭をキリへ向ける。そして、ぱっくりと口を開ける。

 

「……?」

 

 だが、それだけだった。狩りの合図を出したつもりの彼女は目を丸め、立ち尽くす使い魔を見やる。どういうことだ……動かないのか?

 

「ジャンヌ、どうなってる?」

 

 遠山の問いに私は眉をひそめるしかなかった。まさか、体調を崩したなんてことはないだろう。

 

「──できないよな、ママの許してを得てないだろ?」

 

 そして、またしてもおどけた態度で彼は口を挟む。使い魔が立ち尽くしている要因が誰にあるのかは明らかだった。だが、その瞳はずっと冷ややかに私を、そしてヒルダを過ぎ、最後にラスプチーナに向けられた。深く、嘆くように溜め息を置いてから首が横に振られる。

 

「正直に言って、いつまで経っても魔女というものは理解できない。憐れに思うよ。争いが絶えず、内輪揉めは日常茶飯事、喜んで仲間同士殺し合うだろ?」

 

 濡れた床を無意味に歩きながら、話は続く。

 

「なのに、自分たちが優れた種族だとのたまって聞かない。役にも立たない自尊心ばかりが膨らんでる。だから怪物にも人間にも支配権を奪われるんだ」

 

 不意に足は止まり、その唇の両端は歪む。きっと、私も桃子も、遠山でさえ、見たことのない邪悪な笑みで、彼は笑った。

 

「お前たちは人間より下劣だ。悪魔よりタチが悪い。まあ、お前たちも座れ。飼い主にはもう充分笑わせて貰った、まだ笑える」

 

 そう言うと、キリは人差し指を不意に上から下へ、振り下ろすように振った。竜の頭がドミノ倒しのように次々とコンクリートの床に平伏していく。私は背筋が微かに冷たくなるのを感じた。念力で、頭を無理矢理に下げさせたのか……いや、それ以外にはありえない。ありえないがこんなにもあっさりと……

 

 まるで飼い慣らされた犬。服従を示すような竜の姿には主である彼女は今度こそ驚愕の色を誤魔化さない。劣勢、壁際にいたはずの状況はいつの間にか変貌していた。そこからのラスプチーナの動きは素早かった。竜が使い物にならないなら、素早く指が十字を切り、引き金に見立てた人差し指をキリへと向ける。抱えられた本が捲られているのは赤いページ──

 

「──ッ!?」

 

「あー、ほざいてろ。なんだっけ、全力とやらで殺してみろ」

 

 気の抜けた言葉と旋律が走るのは同時だった。あっち向いてホイ──まるで軽々しい児戯のようにキリが指を振った途端、銃口とされていたラスプチーナの指は第二関節からあらぬ方向を向いていた。まるで不可視の力で捻られたように照準は最初の狙いから大きく外れて斜めを向いている。種も仕掛けもない。捻ったのだ、念力で。

 

「お前……本当に、キリなのか……?」

 

 ……私たちを逃がし、ミカエルの足止めを引き受けた裂け目の先の世界で一体何があったというのか。たった一人で竜の魔女を肉薄する様子にはヒルダすら言葉を失っている。理子も遠山とて同じだ。疑惑を振り撒いている本人は、悲鳴を噛み殺したラスプチーナに悪びれた様子もなく両手を叩く。

 

「まあ聞け。遊びたいのは山々だ、八つ裂きにしてやりたい。お前がやってきた応報を言い訳にして、あちこちねじ曲げてぐちゃぐちゃにしてやりたいが……生憎、武偵にそれは許されてない。ついでに時間も押してる。まあいい、聞いてたな。説得はした、あとになって文句は聞かない」

 

 言い終えると親指を立て、自分の胸を軽く押した。その瞳は透明でもなんでもない、いつもの人間としての瞳の色。なのに、どこか以前にあった人間味が切り取られたように欠如している感じがするのは私の、気のせいなのだろうか。軽口はいつものこと、いつものことなのに拭い切れない違和感が脳裏で警鐘を鳴らす。

 

 覚えのない言語を既に唱えていたラスプチーナの指が、時間を巻き戻すように真っ直ぐ歪みを戻していく。捻れた関節を自力で治癒、彼が優れた魔女であるのは間違いない──間違いないが……

 

「おっと、忘れるところだった。理子、コルトを選んだのは正解だよ。ダゴンの働き振りなんて誰も知らない、実際のコルトがどんな状況にあるかなんて知るわけもない。あー、だが、俺には向けるな。そいつを見ると頭痛がして堪らない」

 

「……てめェ、本当は何者だ。腐った泥沼みたいな匂いがしやがる」

 

「おいおい、酷いな。腐った泥沼って言ったか? アスモデウスみたいなとろい小物にはぴったりの表現だが断じて否定する。当ててみろ、だぁ~れだ?」

 

 このときの私はうっすらと浮かんでいた疑念を消した。笑みを浮かべるその瞳が、真っ赤な血の色で染められているのを確認もしないままーーかぶりを振った。人間は嫌な思い出は葬り去る、そうやって忘れそうとする、完全に。

 

「誰が最後に生きるか、どうなるかは神のみぞ知る。いや、間違えた──神は知らない、どうなろうと気にしない。ジャンヌ、デュランダルを持って返るのは忘れるなよ?」

 

「思い上がりを許すほどあたしを優しくねェぞ」

 

 言葉が契機となり、竜の魔女は新たなページを捲った。ラスプチーナは魔法を行使するための準備、そして再戦の合図を鳴らすようにキリはゆっくりと親指を人差し指に重ねる。怒るわけでもなく、見せるのはうっすらと笑った表情だけ。

 

 ほんの一瞬、全てが暗闇に閉ざされた展望台でその背中にだけ眩い光が差し込んだ。その背後に浮かび上がるのは影のみが広がる不可視の翼、天使にのみ与えられた双翼が大きな影を描き出す。あるはずのない異物の意味に気付いたのは私とヒルダだけだろう。祈りなど、届けるべきではなかった。届けるべきではなかったのだ……ああ、そうか、だから白雪は……

 

「誰が思い上がってるって?」

 

 そして指が鳴った途端、私の視界には地獄が飛び込んできた。下を見ると真っ赤な血液と爬虫類にも思える生き物の皮膚、ぐちゃぐちゃになった肉片がばらまかれていて猛烈な異臭を放っていた。

 

 それは、ついさっきまで頭を垂れていた白い竜だったモノの残骸。命を宿していた物が辺り一面に転がり、返り血を腕に貰ったキリは何食わぬ顔で血に舌を這わせる。おぞましい光景には理子も遠山もその顔色を変え、私は震える喉から言葉をどうにかして押し出す。口元に走らせそうな手を必死に堪え、私はそれを──呼んだ。

 

 

「──ルシファー」

 

 

 

 微笑んだ友人の瞳は、確かな赤色に染められていた。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。