哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

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全て遠き明日

「──ルシファー」

 

 その名前は現代では知らない人間の方が少ないと言っても良いほどに周知されている。聖書、宗教然り、彼を題材にした創作はこの世界に溢れかえっている。真っ先に連想されるイメージは堕ちた天使、サタンやベルゼバブに並ぶ地獄を統べる巨頭、悪魔の産みの親など『悪』や『反逆者』としてのイメージが強い。

 

 ミカエルとは双子の兄弟、サタンと同一視されるなど、諸説はあるが明確に言えることは──決して、人に救いをもたらす存在ではないということか。

 

「……ルシファー、だと……?」

 

 状況を飲み込めないラスプチーナはまず疑問の言葉を声に出した。彼女が呼び出し、使役していた獰猛な使い魔たちは既に亡骸となって血と肉を辺り一面に撒き散らしている。たった指を鳴らしただけの一瞬のできごと、開戦の舞台は地獄画図に変わった。今度こそ、目を真っ赤に染めたキリだったものは唇の端を釣り上げる。

 

「やっと解放された。しかし、それなりに寄せては見たがお高く止まってるだけで下界には滅多に降りてこない男の真似をするのは疲れたなぁ。深刻ぶった顔をしていても中身はカスティエルと同じでただの出来損ないだろ、演技派の私にもハードルが高い。正解だよ、ジャンヌ・ダルク。三バカ大将の捜索隊よりもずっと利口だ、満点をやってもいい」

 

「な、なに言ってんだよ、訳が分かんねえぞ……ジャンヌ、説明してくれ。何が一体どうなって──」

 

「キンジ、そう先走るな。まあ聞け、話をしよう」

 

 指を鳴らした途端、遠山の声が消えた。いや、それは正確に違う。瞳を見開き、喉を手でまさぐる遠山の反応は……声を出したくても出せないときの挙動。化け物め……人の体を指を鳴らすだけで弄れるのか……

 

「人間はがっつり情報操作されてる。なあ、教会はルシファーのことはなんて教えてる? たとえば、角が生えてるとか? 悪の権化、人間を堕落させる元凶とか? 傲慢で、天国を追放されたとか?」

 

 悠々とラスプチーナに背を向けて、彼は……いや、大天使は私たちに問う。とても馴染みやすい、人間らしい表情と身ぶり手振りの仕草で、

 

「そういう安いゴシップを広めたのは誰だと思う──キャプテン・ゴッド、神が広めた。何故なら私が疑問を持ったからだ、自分に同意しないものは振り払う。私だけじゃない、自分の姉であろうとも同じことをする」

 

「……悪魔として認知されたのは、父親が原因ってこと? 本当は……望んでなかった、とか?」

 

「良いことを言うじゃないか。マーケティングだ、消費者のニーズを作り出すのと同じ。善と悪は紙一重、スーパーヒーローは悪党がいるから成り立つ」

 

 既に常識を逸脱した状況に、立ち尽くしていた理子がようやく放った問いかけにも笑みと共に返される。指を鳴らすだけで命を刈り取れる、そんなおぞましい相手でありながら彼の声はとても甘く、とても身近な存在として脳が勝手に認識していくのだ。化物を化物として認識できない、いつかキリが言っていた言葉が頭をよぎる。

 

『──救いようのない冷酷な化物、なのに恐ろしく身近で親近感すら湧きそうになる。言葉の一つ一つが離れていた距離感をすぐに埋めてくる、それが……本当に恐ろしい』

 

 それは間違いではなかった。本当に末恐ろしいのは善と悪の境界すら歪められること。おぞましい血色の瞳をして、天使としての側面を象徴する光に照らされた翼は、恐ろしく神々しかった。外側は自分の見慣れたはずの友人、しかし中身は間違いなく……人とは別の代物。

 

「……笑えない冗談だね。ルシファーはこの時代で地獄の……特別な、檻に戻されたって話だ」

 

 前のめりな態度を潜めたラスプチーナが憎らしい声でかぶりを振る。反転し、彼女へ視線を向けたルシファーも面白くもない過去を掘り起こされたと言いたげに額を指で抑える。

 

「ああ、道連れにされた。諦めたほうが良い場面でも向かってくる三馬鹿兄弟のせいで地獄に里帰り。だが、それは過去のこと、私はここにいる」

 

「だが、檻に戻されたはずだ。私は、その器から直にそのことを聞いている。darknessの問題が終結し、確かに檻に返したと──」

 

 ラスプチーナの言葉を補足するように会話に割って入る。道連れにしたはずの檻からdarknessへの抑止力として一度解き放たれたことまでは私も聞いている。しかし、解き放った張本人たちの手でルシファーは元の檻に戻されたはずだ。魔王の恐ろしさを誰よりも味わってきたキリがこの手の話を誇張したり、偽るとはとても思えない。それでも現に、魔王は私の眼前にいる。

 

「信じられないって顔だな?」

 

 煮え切らない私の態度には奴は自ら話を切り出した。

 

「いや、整理がついていないってところか。無理もない、家出したへっぽこハンターには伝わってないこともある。なんで檻で腐ってないのか、面白い話をしようか。要するに復讐に囚われた悪魔が仕返しに失敗したって話だが?」

 

「……そいつが家出したあとに脱獄したってことか」

 

「まぁ、語弊はあるが檻にはいなかった。お前たちがクレオパトラと遊んでいるときには私は檻の外。テレビもないあんな檻に、自分から戻ってやる義理もない。理子、君になら分かるだろう?」

 

 問いかけた理子にそのまま言葉を投げ返す。器と記憶を共有しているのだ、そうでなくとも常識が通用する相手とは思えない。理子の過去を知りながら、手を差し伸べるような態度で同意を求めている。何も言わずにかぶりを振った理子の心境は、私には読めない。

 

「息子を迎えに行ったら、かつてのルームメイトとおっかない顔をしたミカエルと遭遇してーー手を組んだ。悪趣味なテーマパークで二人して干からびる未来を回避したんだ。分かるか?」

 

「……何の利益にもならないことをするとは思えないが」

 

「おぉ、疑ってるんだな。ルシファーは悪者だ、だがバカじゃない。神に逆らって檻を抜け出す知恵があるんだよ、作戦を立てる知恵がな。何もしなければミカエルがお仲間を連れてこぞってこっちにやってくる、話の通じる私と違って堅物で邪悪なミカエルはこっちの話を聞かない、虐殺の始まりだ。そこで新たな驚異を目の前にした私とキリは手を組んだ──前にも一度やってるし」

 

 疑ってかかった私を鼻で笑い、真っ赤な瞳のままかぶりが振られる。器になるのは二度目、その話に狂いはないらしい。大天使の力は強大だ、天界の最終兵器。満足に力を振るうことのできる器は限られる、カインの血族……キャンメルの血は欠けていてもキリはそれなりの優良物件。大天使が全力で力を振るってもくたびれたい肉体というだけで価値がある。

 

 皮肉にも超能力を行使する度に飲み干していた悪魔の血も器としての質を高めることに一役買っている。目の前にいるのは足枷のない、全力を振るうことのできる大天使……控えめに言っても私では手がつけられない。ラスプチーナという眼前にあった驚異が薄れ、もっと厄介な驚異が懐に舞い込んでしまった。敵意が向けられているかは別として、竜の魔女よりも遥かにタチの悪い存在が今は目の前にいる。

 

「……つまり、ジャンヌが言ってた異世界からキリと同化して抜け出してきたってこと? 共通の敵を葬るために……?」

 

「平たく言えばそうだ。共通の敵、すなわちミカエルが軍隊の指揮をとってる。異世界でも平行世界でも好きな名前で呼べ。堅物で真面目なおぼっちゃんが、生まれ変わったら楽園ワールドに行ける、なんてミカエルの戯れ言に乗せられて向こうとこっちを繋ぐ裂け目を開こうとしてる。重ねて言うが現実だ、夢じゃない」

 

 わざわざ視線を振るように、この場にいる全員を見渡してから最後にルシファーは理子に視線を固定した。

 

「お友だちから異世界の話は聞いてるだろ。今だけは敵、味方のことは忘れて私はこいつと話をつけた。非常事態だ、この世のありとあらゆる生き物がほっとけば皆殺しになる。邪悪の塊のミカエルと奴を崇める能無し連合が押し寄せてくるんだ、こっちにな?」

 

 そして赤い瞳が私を直視する。ああ、分かっているとも。悩ましくはあるが眼前で紡がれた言葉が偽りとは思えない。そうでなければ器となるYes.の言葉を彼が吐くわけがないだろう。魔王の器になるなど、正しいかどうかは別にして、二人の兄に知られた暁には鉄拳制裁程度では済まないのだからな。

 

「目的は分かったわ。けれど、その魔王が……どうしてこの場に足を運んだのかしら?」

 

 不意にこれまで沈黙を決めていたヒルダが視線と共に言葉を魔王へ投げた。ラスプチーナも本は開いたままだが攻撃に転じる様子はない。仕掛けたところで並大抵のことでは有効打を与えられないことを悟ったのだろう。下手に刺激するのは悪手、自分の状況を悪くするだけ。それについては酷く同感だった。

 

「ルームメイトを助けに来た、さっき言ったとおりだ。私は一度した契約は守る。えっと……バスカビールの面々とそっちの魔女と、髪の長い蠍だかを救ってやるのを条件に器を借りた。それも誰も殺さずに平和的に事を収める、面倒だが契約は契約だ。地獄でオールストリートをやるのは私の趣味じゃない、取引は守る。極力は、だが?」

 

 苦笑いが耐えられなかった。これ以上ない使い道に困る援軍を投げられたものだ、心の底から苦笑いが溢れては止まらなかった。理子も顔が引きつり、言葉をなくしている。今の私たちは魔王の威を借りているのだ、聖書に描かれる本物の堕天使の威を借りている。こんなことは誰も予想にしていなかった、本当に悪趣味な置き土産をしてくれたものだな……どれだけ場を掻き乱せば満足するんだ。

 

「というわけでだ──私に免じて矛先を引いてくれると助かるんだが、どっちにする?」

 

 どす黒い声色と真紅の瞳が傾けられた首に合わせて上下する。単なる脅しと一蹴するには相手が悪すぎる。地獄を統べる代表格、何が起きても不思議ではない相手。先んじて、ヒルダは槍を納めた。

 

「考えるまでもないわ。理子、思わぬアクシデントに見舞われはしたけれど、私はこの勝負から降りるとするわ。テーブルにはお前しかプレイヤーはいないのだから、お前の勝ちにしておきなさいな──夜明けも近いのだし」

 

 そう言うと、第三態特有の体から迸っていた電流が目に見えて消えていく。それは戦闘を放棄した明確な証だ。あっさりと勝負を降りたヒルダに理子は何も言わないまま腕を組んでいる。望んだ決着ではないがテーブルから降りることを止める理由もない、か。

 

「魔王ルシファー、手前は竜悴公姫ヒルダ。恐れながら吸血鬼の一端として、かの大天使と言葉を交わせたこと至極光栄よ。ではお先に失礼するとするわ、Ne vedem mai tarziu(じゃあまたね)

 

 突き立てた槍と一緒にヒルダの体は影の底に沈んでいく。第三態を解いてもその程度のことはできるだけの力は残していたようだな、一時的に第三態となったことで空だった電流をある程度溜め込むこともできたのだろう。

 

「気取った女だ。だが、暮らしより見栄を優先させる女よりもずっと品がある」

 

 ヒルダが素直に槍を引いたことでルシファーが彼女の追撃に出る様子もない、どうやら本当に9条は重視するらしい。 そして残されたラスプチーナも緑のページを開くやまだ柵も備わっていない展望台の壁際にまでフェザーを走らせる。そして壁際ギリギリで止まると、肩越しにこちらを見やり、

 

「残ったのは損失だけ。最悪に無駄な時間を過ごしちまったなァ。だが、命あっての物種だ。退かせてもらうぜ」

 

「ああ、そうしてくれ。そいつらも返却してやるから、このつまらない時代からさっさと立ち去るんだな。どこも代わり映えしないが」

 

 彼が両手を叩くと同時に、地面に散らばっていた肉片は綺麗さっぱり姿を消していた。まるで最初から何もなかっかのように頼りのない足場がそのまま広がっている。目を見開いたラスプチーナは苦い表情を残したまま壁際から逃げるようにフェザーごと身を投げた。

 

「……!?」

 

「心配するな、あの本は本人に代わってまじないを代理で行使してくれる。あの緑のページで適当に風を操って遠くに逃げでもするさ。仮に転落して頭を打ち付けても私たちの責任じゃない、気にするな」

 

 バイクと飛び降りたラスプチーナに狼狽える遠山、平然と表情を変えないルシファーの器となったキリ。正反対の反応に私と理子が口を閉ざしていると、やはり話を切り出したのはルシファーだった。

 

「これで契約は果たした。ああ、礼はいい。するつもりもないだろうが、くじ引きの懸賞にでも当たった程度に思ってろ。私はこれから天界一のポンコツと息子と力を結集してミカエルを倒さねばならない、分かるな?」

 

「……全部終わったら、そのあとはどうするんだよ。あたしだって自分から檻には戻らない。そいつの体はどうするんだよ」

 

「あー、そのことについてはまだ考え中だ。さっきも言ったが私もバカじゃない。強力なミカエルと数学小僧のケビン・トランが今にも乗り込んで来るが、あのポンコツ兄弟は私を檻に戻すことしか考えてない。だが、絶賛家出中の弟が、私と手を組んでいるとなれば少しは聞く耳を持つ。息子はなぜかあのポンコツ兄弟とでき損ないのポンコツ天使に懐いてる、そこで私が協力してミカエルを倒し、父の威厳を見せつける。完璧だ」

 

 両手を叩き、得意気に言い終えるとなぜか私に視線を結んでくる。私は首を縦に振ってやればいいのか……?

 

「要するに、ウィンチェスター兄弟から息子の気を引きたいってこと?」

 

「まあ、そうなるな。意見があるなら聞いてやるぞ、一人につき一分だけ」

 

「……ふーん、家族の問題か。難しいね」

 

「ああ、難しい。私が何かを産み出すのは四人の地獄の王子以来のことだ。お前たちのアドバイスも聞くだけ聞いてやる、だからその下品なオイルはしまえ。私を引き留めたところで何の解決にもならない」

 

 ……都合良くは運ばないか。私は言われるままに足に伸ばしていた指を戻す。レッグホルスターに仕込んで小瓶には必要最低限の聖油がある。星枷の占いを危惧して用意したものだったがそう都合良くサークルを作らせてはくれない。

 

 最も引き留めたところで解決に結びつかないのは真実だ、器を剥がす術もなければミカエルを止める手立てが私にはない。だが、素直に……素直に、行かせるには……あの男との関係は浅くはなかった。ここで見逃せば、私は友人を捨てることになる。

 

「悪いやつみたいに見るな、この世の終わりというスペクタクルが始まるんだぞ? 全世界同時上映、そんなの誰も見たくないだろ?」

 

 私に向けて首を横に振ると、ルシファーの手が自分の顔にかかった。一瞬、呆気にとられたが自分で自分の顔を右手で締め上げている。訳の分からない光景を眺めていると、小さくルシファーからも舌打ちが飛んだ。

 

「この期に及んで反抗しにくるか、キリ……!」

 

 ……いま、なんと言った?

 

「い、ってぇ……再会が締まらない格好で悪いが顛末は聞いてたな……聖女様とこそ泥と、そこのハイジャックのカップル……!」

 

 膝が崩れ、自分で自分の頭を抑えるような不格好だがこの軽口は紛れもなく……

 

「切……!!」

 

「よう、キンジ……色々聞きたいことがあるのは分かるんだがちょっと時間に余裕がないんだ。ジャンヌに後から聞いてくれ。魔王が扉をひっきりなしで叩いてる、あんまり持たない……悪い、ジャンヌ。言い訳してもいいかな……?」

 

「良い訳ないだろう。バカか、お前は……」

 

「それ聞くと……妙に安心するよ」

 

 ……言い訳ないだろう。リスクが高すぎる。いくらミカエルの手から逃げるためでもルシファーの器になって無事に事が終わるわけがない。二回も大天使の器になるのは狂喜の沙汰だ、普通なら一度でも体を貸せば廃人行きなんだぞ……

 

「言いたいことは分かってる。まぁ……ディーンにバレたときが恐いがなんとかするさ。向こうには母さんがいた、これ以外に生き残る手はなかったんだよ……悪い」

 

「桃子から聞いた。彼女はララバイを解いたぞ」

 

「……へぇ、本当に解いたのか。はは……そっか。あいつ解いたんだな。そっか……ジャンヌ、色々と面倒を投げて悪いな。お前には色々と、甘えてるところがあった……いや、今も頼りにしてる」

 

 ……やめろ、そんなことは全部終わってから聞いてやる。

 

「神崎のことが胸にずっと引っ掛かって、やっと母親のために俺も……なにかできると思ってさ。今回ばかりは俺も向き合ってみる、ミカエルを叩いて、あっちに残してる母さんを……連れて帰る。そしたら、こっちで焼き肉でも、やろう。キンジは肉……まだ食えてねえだろうからな」

 

「……待てよ。なんなんだよ、ミカエルって……異世界って──」

 

「聡明なお友達が説明してくれるよ。正直なところ……俺も色々ありすぎて、何を話せばいいの……やら……理子、水を差して悪かったな。コルトの仕掛けは……よくやったよ、満点をやる……流石は峰理子だーー頭が良くて、腕が良い……それと……だな、なんだったけ……」

 

「バカ、最後まで言えよ……あたしはお前に借りを作ったことになった。言わないなら、帰ってきてから聞いてやる。異世界だろうが、地獄だろうが、お前は帰ってくるんだ。今のあたしはツイてるからな、あたしの勘は当たる。だからーーお前が帰ってくるのに100$賭けてやるよ」

 

 腕を組んだ理子は表情を隠すように背を向けた。『敵わないぁ……』と、呟いたキリの声色も重苦しい。強引に魔王をねじ伏せて体の所有権を奪っているなら、時間に限界はある。そして私の心を見透かしたようにキリはまたしても首を傾けた。こういうときに限って、本当に察しが良い。

 

「……追い出せなんて言うなよ? そいつは、色んな意味で、無理だ。だから……ジャンヌ。神崎のことは少し任せるよ。たぶん……そうだな、これで12シーズンくらいか……いい加減、ラストが見たいもんだな。大団円はありえないんだろうけどよ」

 

「なら、きっちり生き残れ。帰って来たときには泣いて出迎えてやらないこともない」

 

「……ったく、なんなんだよその返し。お前のその顔、見てみたくなっちまったじゃねえか。未練ばっかり溜まりやがる」

 

 膝をつき、視界を仰ぐように背を逸らしたままキリは笑った。今度こそ、本来のヘーゼルの瞳で。

 

「ジャンヌ、ありがとうな」

 

 ──皮肉を返してやろうと思ったときには、既にそこにキリの姿はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 月日が経つのは早い。スカイツリーでの夜戦も今となってはずっと前のことに感じる。あの戦いから数日、ヒルダは自ら玉藻にコンタクトを謀り、眷属から師団へと立場を入れ替えた。戦役のルールに伴い、鞍替えは眷属全体からの敵意を買うことになるが彼女なりの決断なのだろう。味方として信用できるかどうかは置いて、この戦役で次にヒルダと刃を交える機会はなくなった。そのことについては行幸と言うべきだな。

 

 幸いにも私たちは戦線を離れるような負傷を誰一人負わずに明日を迎えている。皮肉にもそれが魔王の威を借りた結果なのだからこの世界はどこまでも不条理だ。

 

「トオヤマとアリアへの説明、苦労したみたいだね。お疲れ様」

 

「本を渡しただけだ。例のオンライン書籍にもなっている本をそのまま渡してやった」

 

 夕暮れの放課後、こちらも師団側に鞍替えしたばかりのワトソンが校舎の屋上にいる私へ声をかけてくる。遠山と何があったのかまでは不明だが結果的にリバティ・メイソンは正式に師団となり、辛辣だった遠山への態度も一転して軟化している。遠山は敵を味方に丸め込むのが非常に上手いが……まさかな。

 

「ヒルダと理子は休戦中みたいだね。あれはあれで誇り高い女性だ、戦役が済むまでは味方でいてくれるはずだよ。勿論、これからはボクも力を貸すつもりさ」

 

 とても前向きなワトソンは、壁際の柵に背を預けている私の隣へとやってくる。

 

「浮かない顔だね? 変装食堂の役は不服だった?」

 

「まさか、そうではない。理子と賭けているのだ。些細な賭けだ」

 

 そう、些細な賭けだ。戻るか戻らないか、ここでウィンチェスターの物語が幕を引くのか否かの賭け。血を溢したような真紅の夕日を肩越しに眺める。これが最後だと言うなら、もっと言っておくべきことはあったのだがな。

 

「ボクもまだウィンチェスターと話したことはないんだ。転入したときには既に彼はいなかったからね。リバティ・メイソンの間では雪平切はギャンブラーって言われてた、いつかその運も尽きるとね。でもボクはそれが今じゃないことを祈ってるよ」

 

 運任せ、出たとこ勝負ばかりのギャンブラー。踵を返したワトソンの言葉は真実だ。ルーレットがいつも決まった目を出すとは限らない。いつも誰かを失って、犠牲を払うことでウィンチェスターの問題は解決される。それがあの男自身であっても──

 

「今度は私が待つことになるのか」

 

 皮肉だな、アドシアードでは率先して遠ざけた男を今度は待ちわびている。無意味に夕日を見つめて、何が変わるわけでもないというのに、自然と深い息を吐いていた。

 

「ジャンヌ!」

 

 こんな姿をテニス部の後輩に見られては私が作り上げてきたイメージが……ん?

 

「ワトソン、まだ用があったのか?」

 

「あるわけねえだろ。つか、何をどうやったら俺とワトソンくんちゃんを間違えるんだよ」

 

 ……俺と、ワトソンくんちゃんだと? 伏せていた瞳を上げると、それはまさしく待っていたはずの、

 

「キリ……!?」

 

「どうなってんだよ、あの世界。死んだはずの連中とは次々に再会するし、黒い髪の俺が窒息事故で死んだことになっててさ。サムもディーンも生まれてないことになってるし……」

 

 とりあえず、ミカエルとルシファーは異世界に置いてきたけどよ──と目の前の、制服姿の男は続けた。

 

「なるほど、お前たちと関わらなかったことで正規のこの世界とは違い、死の未来を回避できたということか」

 

 顎に手をやり、独りでに頷いていると目の前から不機嫌な視線が突き刺さる。

 

「……会って早々、失礼なやつだな。間違いじゃないけど」

 

 後ろ頭を掻き、不満な視線を絡めてくるのは今度こそオリジナルだ。生まれたときから礼儀知らずの男、間違いない。

 

「なんだ、聖水でもかけてみるか? 悪魔払いやる? 洗剤と銀も試してみるか?」

 

「お前は多弁だな、さぞ幼少からお喋りだったのだろう」

 

「なに笑ってんだよ、泣いて出迎えてくれるのに期待したんだぞ」

 

「おかえりを言ってほしかったのか?」

 

「……まあ、ちょっとは期待した。よし、お前への挨拶は済んだし、キンジの部屋に転がり込むとしよう。教務科への言い訳は飯食いながらでも考えるよ」

 

 踵を返し、防弾制服を揺らして背を向ける姿に私も続いて踵を返す。

 

「では私も行こう、遠山には話があるのでな。緊急事態は解決したのだろう、歩くついでに話を聞かせろ」

 

「横暴な女だ。分かったよ、我が家に帰るまで要点を纏めて説明してやるーーこの世界に生まれるに当たって次元の裂け目を作ったルシファーの息子の騒動に巻き込まれた雪平切は、同じく異世界で再会した堕天使ルシファーといつもの兄弟、そして死んだと思われていたホテル好きの赤毛の魔女と死んだと思われていた風俗好きの天使と一緒にミカエルに挑むのだった。これがあらすじ」

 

「いつもの、ウィンチェスター兄弟お決まりの展開というやつか。何話に分ける?」

 

「まあ、23話くらいが妥当だろ。1シーズンのエピソードの数としてもそれくらい。俺の記憶を23のエピソードに分けて語ってやる。さて、当時を振り返ってーー地獄を脱走した堕天使ルシファーが息子に会うまでは死ねない、なんてわんわん泣いてすがるもんだから心優しい俺は──」

 

「待て、それはお前の脚色が入ってるだろ。本当に魔王がお前にすがり付いたのか?」

 

「奴には頭をいじくり回されたんだから、これくらいの扱いでいいんだよ。最後に個人の主観って加えるからいいの。仕切り直して──母親を守るため、そして異世界から抜け出すために俺はなんとミカエルを敵に回してルシファーと二つの世界を走り回ることになった」

 

 好きにしろ、どうせ第三男子寮までは長いのだ。ミカエルとルシファーを異世界に置き去りにしたこと、母親を連れ戻せたこと、これまでの道のりを聞くだけの時間は余りある。まだ夕暮れなのだからな、数歩だけ彼の前に踊り出て、私は振り返る。

 

「ああ、そうだった。最後に、一つだけ伝えないと」

 

 

 

 ──おかえり、キリ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




お付き合いありがとうございます。ヒルダ戦が完結したのでジャンヌ視点は一旦今回を持って最後とさせて頂きます。理子の見せ場が少し足りないのは否めないですが楽しく筆を振るわせてもらいました。

時間軸はシーズン13のラスト、ミカルシを置き去りに異世界から帰宅した直後に帰国した前提で進めていきたいと思います。シーズン14の展開を考えるとそのタイミング以外に主人公が帰国できるタイミングがないんですよね。次回から人工天才編に入りますが、元々はかなめvs夾竹桃を見たことがキッカケで書き始めた作品なのでこの章は時間をかけて進めていきます、長かった……!



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