哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

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適者生存

 

 

『なに言ってる……! じゃあ諦めるのか、お前はいつだって諦めないだろ! 最後はどうやっても勝つ女なんだ、ジョアンナベス=ハーベルはな!』

 

 

 

 血の匂いがする。噎せ返るような血の匂い。

 

 

 

『大丈夫だ、絶対に大丈夫だから……なんてことない。なんてことないんだよジョー。なんてことない、こんなの……なんてことないから。次は俺が戦う、俺が外にいる猟犬を全部抱えて逃げる。だからその間に──』

 

 

 

 手が真っ赤になってる。傷口を抑える布も。けど、それは俺の血じゃない。

 

 

 

『よくない、よくないだろ……! 戦ってくれジョー! お前が戦わないなら俺が戦う……ッ! 猟犬なんていくらだってなんとかする、ストレッチャーだって車だって探せばすぐに見つかる! まだ終わってないだろっ!』

 

 

 

 またこの夢だ。もう何度見たか覚えてない。灯りの消えた店内、横たわる彼女に必死に語りかけてる。彼女の腸が血まみれなのは自分のせいだって言うのに。何が戦うだ。

 

 

 

『違う、違うよジョー。こっちだ、俺を見ろ。そんなことない、なんとかなる。ここを出たら近くに……ああ、どこかに助けてくれる場所がある。すぐにストレッチャーを見つけて、運ぶから……なあ、頼むよジョー……お前を失うなんて、堪えられない……本気で好きになった女を……自分のせいで失うなんて俺には堪えられないよ……』

 

 

 

 約束したよな、世界を救ってやるって。でも世界はいつも未曾有の危機に襲われて、最終戦争が終わっても問題だらけ。君がいなくなってから色んなことがあったけど、君がいたらきっと心強くて……死屍累々だったこれまでの道のりもちょっとは変わってたかもなって。そう、色んな問題があって……なあ、ジョー。また話がしたいよ、ああ、言いたいことはたくさんあるからさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「夢から覚めるのと、映画館から出るときの感覚って似てると思わないか?」

 

「現実に引き戻されるって意味なら頷いてあげる」

 

 それだ。俺が言語化できなかったものをサラリと夾竹桃はやってのけた。灯された煙管の煙が快晴の空に舞い、やがて水色に溶けていく。給水塔の下で寝そべることになって、どれだけの時間が過ぎたかは生憎と覚えていない。

 

「いい夢でも見れた?」

 

「どうだろう。不甲斐ない自分をずっと見せられてたような気がするよ。それ、喉を痛めたりしないのか」

 

「これは喉のクスリよ」

 

 そうか、と頭の後ろに自分の両手をやる。喫煙者ではない自分にその辛さは分からないが、表情には乏しいものの、心地よさそうに紫煙を燻らせる夾竹桃は──とても大人びていて、魅力的だった。童顔、制服を着て喫煙しているミスマッチな感じも、ダークなムードがあって個人的には好ましい。

 

 世の中の正直な男は、彼女の健康を気遣うことよりもその紫煙を燻らせる姿が見れることを優先するのではないか。まだ頭が完全には冴えていないらしく、考えるのはいつもの自分から少しズレたことばかり。硬いコンクリートの床も関係なしに熟睡していたなら、それも仕方のないことかもしれないが。欠伸を噛み殺すと、流石にクールな彼女も怪訝な目を向けてきた。

 

「今日はやけに眠そうね?」

 

「安いバーに籠って、ヘボ作家と永遠に話をしてた。最高に重たい罰ゲームだ」

 

「遠山キンジからまた部屋を出たって聞いたけど、貴方って家出が趣味なの?」

 

「いいや、趣味は編み物だ」

 

 夾竹桃は呆然とこちらを見ている。徐々にその言葉の意味が脳に染み込んでいき、急速に彼女の表情は変わっていった。

 

「編み物やるの?」

 

「おかしいか。実は俺、ボーイスカウトに入ってた、追放されたけど。まあ、それは話すと長くなるんでまた」

 

「待ちなさい。どうせ暇なんだから、その話詳しく聞かせて頂戴」

 

「いいよ。そこまで言うなら話してやる。オフレコで?」

 

「ええ、オフレコ。マリファナでも吸って追放されたんでしょ」

 

 容赦ない罵詈雑言にかぶりを振る。ああ、ウケたよ。今日も平常運転、ユーモアがあるね。

 

「親父は海兵隊にいて、俺もそっちには昔から知識があった。自分で言うのもなんだけどかなり優秀だった。んで、ある日不在の先生に変わってサバイバルのレクチャーを頼まれた。小学生くらいのガールスカウトの」

 

「それで追放された?」

 

「そう、至って普通にレクチャーしたつもりだったけど、後日半分くらい辞めちゃったから責任取らされて。普通にやったんだぞ、猪の致命部位から始まって──なんだよ、その目は」

 

「いえ、至って普通の反応をしてるだけ。なんで最初に猪の致命部位なんて言葉が出てくるのかしら?」

 

 本気で理解できないって顔だな。オフレコだし、それなら詳しく説明してやる。身振り手振り、上半身を起こして俺は語ってやる。

 

「大事なところだろ。猪は獣だ、どこにでもいて狙われてるかもしれない。だから、常に警戒しないといけない。相手は興奮した140kgの獣だ、虎だって殺す。おっかない野獣だ、真面目に。戦うにはまずは相手を知る必要がある、無闇に刺しても意味はない。ナイフがグサッと刺さると思ったら大間違い、猪の皮膚は丈夫だ。一番弱いのは肩甲骨の間、そこを狙う」

 

「……追放されて当然だわ。サバイバルのレクチャーを頼んだのに、それじゃ地獄の黙示録よ。もっと他にあったでしょ、水を見つけるとか、方角から場所を知るとか、もっと小学生らしい可愛げのあるサバイバル」

 

「いや、仕留め方と捌き方を教えてやるんだ。それがサバイバルだ……!」

 

「ホラー映画でしょ、それ」

 

 力説した俺を、夾竹桃はそれはそれは冷ややかな眼差しで見据えたものだった。今すぐにでも立ち上がり、踵を返して屋上を去っていきそうなほどに。しかし、本当に地獄の黙示録と呼ばれるものはそのすぐ後にやってきた。

 

「……自分より強いものに逆らうとか、非合理的ィ。自爆要因ぐらいには使ってやろうと思ってたのにねぇ。じゃあ……よし、ぼっちの子は学校がイヤで、そこから飛び降り自殺しちゃおうか」

 

 どうやら浮わついた話じゃなさそうだ。聞こえてくるのはジーフォースともう一人、敵意を向けられて戸惑ってるこの声は……間宮だな。隣に横目をやると、横たわるままで夾竹桃も聞き耳を立てている。

 

「弱い友達は強い友達に従うべき。つまり一番強いあたしを頂点にこの学校には新たな統制が敷かれるんです」

 

 ……なるほど、水面下で何をやってたかと思ったら政権交代を狙っての選挙活動か。自分が一番強いって触れ込みで権力を握る。従わない者に発言の自由は与えない。口調は丁寧だがやってることは暴君──あばずれアバドンと一緒だ。

 

「──ナイフは残してやったから、自殺だって分かるように手首切ってから行け」

 

 絶対零度の声でジーフォースは吐き捨てる。

 

「スケジュールはもう決まってる。今日はお前が自殺、半月後には佐々木志乃と乾桜にお互いを殺させて、来月には火野ライカと島麒麟を心中させる」

 

 「そしたら淋しくないでしょ?」と、一転してその声色からは笑みを浮かべてるのが丸分かりだった。この躊躇いのなさ、選挙活動もまともな手を使ってるわけじゃなさそうだ。後処理のことを考えて、間宮が一人のときを狙ったんだろうが──運が悪かったな、先客が二人いる。

 

「……!」

 

 わざとらしく紫煙を散らし、隣の彼女は自分の存在を眼下にいる二人へと露呈させた。転落防止の柵まで間宮を追い詰めていたジーフォースは背中越しにこちらへ気付くと、すぐに舌を鳴らして体を反転させる。

 

「へぇ。あたしがここに来ること、よく予想できたね。どっちが見抜いたの?」

 

 少しばかり驚いたような声で小首が傾げられた。

 

「私はここが定位置なのよ。こっちは先客」

 

「ぼっち同士の馴れ合いってワケか」

 

「訂正してあげる。私は孤独がキライじゃないの。あと友達はいるわ。雪平、貴方もいるでしょ?」

 

「いるよ、人間以外の友達もたくさんいる。上にも下にもな」

 

 右手の人差し指をたて、空と地面を交互に示しながら眼下の少女に言ってやる。先客である俺たちの介入に、間宮は驚きのまま目を丸めて、ジーフォースは不愉快な表情で目を閉じると、かぶりを振った。

 

「レギュラーがやられて、今度は補欠チームが来たか。で、戦るつもり?」

 

 半眼でこちらを見上げてくるジーフォース、その背後で間宮のUZIをくすねた磁気推進繊盾が揺れている。神崎が放った45口径の凶弾を余すことなく防いだ攻防一体の飛来する盾。

 

 今朝、アーサー・ケッチ(元・UKの賢人)が衛生電話でくれた情報のお陰で、その武装については種明かしが済んでる。あまりの扱いの難しさに不良品とされた米国の次世代無人機。表向きは、誰一人として運用できるまでに至らなかった代物らしいが眼下の彼女は例外らしい。

 

「そうねぇ……」

 

 隣で紫煙を燻らせていた夾竹桃が咥えていた煙管を下げる。それが何を意図しているかは明白だった。あれだけ一緒にカウンセリングやれば分かって当然。立ち上がった彼女の隣に、睡魔をねじ伏せて俺も体を起こす。

 

「あの夜は釈然としない幕切れだったものね」

 

「同感だ。ジャンヌの方針には従ってやるが、この学校で好き放題やるなら話が違ってる」

 

 屋上の地面に飛び降りると、揃って視線は微動だにしないジーフォースに向けていく。生温い風が緊張感を煽るように凪いだ。 

 

「……いいよ、今回は手を引いてあげる。二人となると後片付けが面倒だしねぇ。スケジュールはちょっと修正してやるよ」

 

 そう言うと、涼しげな顔を崩さぬままジーフォースは指を鳴らした。それが合図となり、宙を浮遊していた磁気推進繊盾から間宮の銃が落とされる。巧く飼い慣らしてるってわけか。

 

「水入りですね、間宮先輩っ」

 

 標的にしている間宮に向かって、ジーフォースは向日葵のような笑顔で言い残してから屋上を去っていく。

 

 いや、今はアメリカからのインターン、1年C組の『遠山かなめ』だったか。俺は遠山が消えた方をじっと睨みながら、夾竹桃に問う。

 

「二人でやってたら、勝てたと思うか?」

 

「貴方のなかにまだ魔王がいたらね」

 

「ユーモアを抜きにして」

 

「分からない」

 

「……そうか」

 

 去り際の余裕を見せつけるような遠山の笑顔が、冷たく背筋を撫でていった。

 

「雪平……先輩」

 

「間宮、今日だけは帰宅するまでその蠍についていてもらえ。水入りにしてもらえるのは、さっきのが最初で最後だ」

 

 あいつに妥協と諦めはない。今度こそ、本気で首を落としにやってくる。

 

 

 

 

 

 

 放課後──夏が過ぎ、徐々に夕暮れにも寒さが見え隠れするこの季節。俺はインパラの運転席の窓から、数日前まで身を置いていた第三男子寮を覗き見ていた。

 

「はぁ……」

 

 もはや数える気にもならなくなった、うんざりするため息がこぼ落ちた。苛立ち混じりに指でハンドルをタップし、これまた幾度なく繰り返した台詞をぼやく。

 

「スパサービスは失敗だったかなぁ……」

 

「あの子にすれば、スパに行くより遠山キンジと一緒にいる時間の方が大切なんでしょ。貴方たちの秘密作戦が成功しないのはジャンヌも見抜いてたわ」

 

 仕方ない、と助手席のドアを開かれ、戻ってきた夾竹桃が合いの手を入れてくる。自分が家出した部屋を張り込んでる、何がどうなったらこんな状況になるんだよ。

 

「間宮は?」

 

「無事よ、何も仕掛けてこなかったわ。でも遠山かなめにすっかり孤立させられたわね。貴方が言ってる選挙活動じゃないけれど、彼女が独裁者になろうとしてるのは間違いない」

 

「アバドン2世の出現か」

 

 自分のぶんの缶コーラを受け取り、プルタブを捻る。視線は重ねずに、互いに缶だけをぶつけて音を鳴らした。

 

「雪平、女人望の話は知っていて?」

 

 喉に炭酸を流し込むのと同時に、記憶の片隅を掘り返された気分に襲われる。

 

「女人望か。かなり昔のことになるが、ルビーから聞いたことがある。同性限定のカリスマ、女人望を持ってる女は他の女を無意識の内に自分の味方に変えていく」

 

「私は天然物と人工物の見分けがつく。あの子は人為的なジェスチャーで女子の被暗示性を亢進させて、さっきも言ったけど独裁者になろうとしてるわ」

 

 天然物と人工物、早い話が先天的に宿してる物と後天的に手に入れた物。そして遠山かなめは後者。

 

「要は催眠術で支持者を増やしてるわけか」

 

「何が目当てかは知らないけど」

 

「王にでもなりたいんだろ、民のいない王に。ろくでもない理由には違いねえよ。間宮とそのお友達を殺してまで遂行するつもりでいる」

 

「佐々木志乃や火野ライカは、既に間宮あかりに傾いていたから影響を受けなかったのよ。あの子は天然物の女人望、そして女人望同士の上書きはできない。遠山かなめにとって、女人望の影響を受けない女子は障害でしかない」

 

 淡々と夾竹桃は言葉を続ける。間宮を最初に狙ったのはあいつが女人望持ちだったからか。

 

「女人望が二人いると、集団は二派に分かれての抗争になると言われてるの。いいえ、もうなってるかもしれないわね」

 

「対抗馬は間宮だけ。自分に清き一票を入れないやつは片っ端から虐殺か。だが、王は殺せても統治できるかは別だ」

 

「かからない子は殺される。うまく気配を消しても、彼女の目は鋭いわ。いつまでも欺むくことは無理、かならず見破られる。遠山かなめは軍国アメリカが生んだ先端科学兵装の使い手、あの子たちが徒党を組んでも勝ち目はない」

 

 夕暮れの近い外の景色を、夾竹桃は不吉な感じに目を細めて睨んだ。

 

「念のため言っておくけど、私は別に間宮あかりを助けようと思ってるんじゃないわ」

 

「俺にはそう見えるけど?」

 

「ただ、少女たちの友情を壊すものが絶対に許せないだけ……」

 

 ……どうしても、許せないものの為に戦うか。どうかしちまったのかね、俺の眼は。この冷酷非情な悪党が……正義の味方みたいに見えちまうよ。燃えるような真っ赤な夕陽が渇いた大地を照らしている。夕陽があまりに真っ赤なせいでちょっとおかしくなったんだろう。

 

「今朝、ガースと電話でちょっとだけ話した」

 

「そう、お友達は元気だった?」

 

「ああ、娘が生まれたんだってよ。落ち着いたらまた歯科医を始めるらしい」

 

 わざとらしく、話題を明後日の方向に切り換える。春に俺の首を飛ばしに来た魔宮の蠍も、今では母さんのメル友だ。しかし、どうにも嫌な予感がしてドリンカーに缶コーラを置く。

 

「……いまなんかすごく失礼なこと考えてなかったか?」

 

「言っていいなら言うけど」

 

「いや、止めとく。聞きたくない、自分で口にして悪いが忘れてくれ」

 

「貴方、子供は?」

 

 キャスだと思って部屋のドアを開いたら、ルシファーが立っていたような気分だった。頭をハンマーで殴られたような質問に自分の勘が正しかったことを再認識する。気休めにコーラを一口、タイミングによっては間違いなく噎せてたな。喉もフロントガラスも大変なことになっていたに違いない。

 

「俺、一応高校に通ってるし、いたら大問題になるんだけど……お前、あれだな。絶対にどっかズレてる」

 

「冗談よ。息が詰まりそうな話ばかりだと気が滅入るでしょ?」

 

「ジャブでいいんだよジャブで。ハンマーで頭を殴れとは言っていない。フロントガラスにぶちまけるところだったぞ、炭酸でべとべとに」

 

 俺は呆れ半分に肩をすくめる。窓から見える夕陽はやっぱり真っ赤だった。こいつも夕陽にやられて、ちょっとおかしくなったんだろう。きっとそうだ、血をこぼしたように夕陽に仲良くやられた。

 

「折角だし、その冗談の答えを返しとくと、サムやディーンと違って、俺はほんの一時も家庭なんて持ってない」

 

 いつ何が起こるかも分からない仕事で、家庭を持つのは簡単じゃない。引退しても、怪物のお礼参りで殺されたハンターは何人もいる。リサとディーンみたいに最初は円満でも最後は──なんてことも珍しくない。だから……

 

「いないよ。できたときは、有りのままをただ無条件に愛してやろうと思う」

 

 返答はない。数分、その状態が続いた。沈黙を裂いたのは彼女の携帯だった。聞いたことのないアニソンが車内に響く。

 

「ねえ、雪平。ゲームセンターに行かない?」

 

 目を丸める俺に、メールを読み終えた携帯を閉じながら、そんなことを持ち掛けてくる。

 

「火野ライカと島麒麟の誤解を解きに」

 

 ああ、またもや遠山かなめの策略か。てっきり、一緒にボンバーマンやるのかな、と。

 

「タクシーをやれって?」

 

「進展がない張り込みを続けるより、先に別の問題を片付けましょう。貴方の大好きな『三度の飯より人の邪魔』よ。正確には選挙活動の邪魔」

 

「お邪魔虫ってやつか。まあ、このまま駄弁っても解決にならないのは同感だな」

 

「今回の一件、働き次第では私からギフトをあげるわ」

 

「ギフト?」

 

 最近、それと似たような台詞でとんでもない物を見せつけられんだが……

 

「これは前払い」

 

 嫌な既視感を覚えるが、彼女が差し出してくるのはいわゆる写真。つまるところ、ブロマイドだった。このご時世に報酬がブロマイドって……

 

「ギフトねぇ。タラ・ベンチュリーのサイン入りブロマイドでもくれるのか?」

 

 白い裏面を向けられたまま受け取る。

 

「ホラー映画の女王のサインなら、ディーンは喜ぶだろうけど俺は──まさかペニー・ワイズじゃないだろうな?」

 

「私からのアドバイス、いつもそうやって最悪の未来ばかり考えてるから偏屈になるのよ」

 

 はぁ……見えるけど見えないものだ。意を決して、俺はブロマイドを反転させる。よし、白塗りピエロじゃないぞ。ん、待てよ、このヘッドレスで背面ギターやってるのって……

 

「そのギターリスト、前に好きだって言ってたから。ブロマイドなんて興味ないだろうけど」

 

 サッ、と俺の手から前払いの写真が取り上げられる。

 

「おい、前払いって言っただろ」

 

「あら、欲しいの?」

 

 ……こほん。尋問科は初手咳払い。

 

「なんだか無性にいいことがしたくなってきたなー。そうだ、今は天使が減って、天界は未曾有の人手不足だ。昨日の敵は今日の友、働きづめのナオミに変わって俺が人助けしてやろう。人を助けて、助けた人がまた別の誰かを助ける、善意が広がっていくかも」

 

 踵を返すようにハンドルを回して、進路を学園島のゲームセンターに取る。

 

「それ、他のブロマイドも?」

 

「貴方の働き次第」

 

「俄然やる気が出てきたな。じゃあ、行く前に──」

 

 俺は懐からルビーのナイフを助手席へすっと差し出す。

 

「?」

 

「後ろ、さっさとやってこい」

 

「主語が抜けてる。それだと意味不明よ」

 

 ごもっとも。僅かに間を置いてから、俺は視線でリアガラスを示す。いまので通じたら楽だったんだが。

 

「分かった、ちゃんと言うよ。後部座席の後ろのところ、リアシェルフパネルのところ。これで自分の名前掘ってこれば?」

 

 よし、言った。今度は主語もあるし、意味不明じゃねえだろ。ナイフは動いてないけど。

 

「なに、もう一回言えって?」

 

「いえ、至って常識的に驚いてるだけ。だって……インパラに名前を刻むって……そんなの、いいの……?」

 

 伏せ見がちに質問を質問で返される。

 

「本気だよ。合鍵まで作られたし、いや……それとはまた違ってくるか。通風口のレゴとか灰皿に刺さるコンバットフィギュアとか、それはインパラが家族だって証だよ。でもこの車には次男と長男が刻んだ悪戯書きだけはない、あるのは俺の名前だけ。俺が二人の名前を刻んだところで、意味がない気がしてさ」

 

 また理屈っぽくなりそう、親父のインパラの……後部座席の更に後ろには、俺たち三人の名前がナイフで掘られていた。仲間であることの証。このインパラも大切な相棒だが出会いは日本、理屈っぽいが俺が二人の名前を真似て刻んでも意味はないと思った。レゴやコンバットフィギュアは別にして、名前は本人が刻むべきものだと。

 

「この数ヶ月、お前とは色々あって、二人三脚やったり異世界を遭難したり、天使の軍団と抗争やったり……あー、インパラも預けたし。最近思うようになったけど、やりたいことリストや言うべきことは早めにやっといたほうがいいかなって」

 

 そう、修学旅行Ⅰの前に神崎がイギリスに帰るって話になったときも思ったけど、言えるときに言いたいことは言っとかないと。あとになって後悔で頭を悩ますよりはマシ。

 

「昔から思ってたことだ。俺が死んだら車以外に何を残せるんだってな。んで、引き取り手も決まった。堅物で運転も下手くそだが仕方ない、そのときが来るまでに上達することを祈るよ」

 

 いつか、俺もこの場所を去るだろう。それでもインパラに刻んだ『K.W』の傷は残り続ける。キンジや神崎やジャンヌの記憶に爪痕が残せる、俺はそれで満足だ。

 

 

「私は貴方にそこまでのことを、インパラの面倒を見てあげただけで……できてないわよ……?」

 

「いや、お前には感謝してる。一度は毒殺されかけた相手にこんなことを許すのはよっぽどのことだ。だから、気にせずにやってこいよ。お前とは一緒に戦って、人を救った。ジョーやクレアと一緒さ、もう他人とは呼べない」

 

 呼べるわけがない。他に言いようがない。

 

「まあ、あれだ──ようこそ、メジャーリーグへ」

 

 その言葉が契機となり、ナイフは俺の手を離れた。以後、シボレーインパラに刻まれた『K.W』の横には『KYOCHIKUTO』の文字が新たに刻まれることになる。悪い気はしなかった。

 

 

 




時系列は体育祭が始まる前になります。今回はAAに沿った話になってますが、クロスオーバー元が完結した勢いで設定面での擦り合わせが楽になりました。勢いのまま『伝承』が流れるまで行きます。

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