哿(エネイブル)のルームメイト   作:ゆぎ

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信じる者の□□

 前触れもなく玉藻がやってきた夜、とうとうキンジが帰宅することはなかった。代わりに俺の携帯に届いたキンジからのメールは……神崎が謎の意識障害で倒れたというものだった。神崎が持病の発作持ちなのは俺も知るところだが、意識を完全に手放したというのは聞いたことがない。神崎が持病で倒れたのは今回が初めて、ゆえにキンジの焦りも一段加速したんだ。

 

 原因不明の意識障害は、救護科から転送された武偵病院で回復したらしいが……精密検査の必要があると判断され、神崎は深夜に関わらず東大医科学研究所の附属病院に搬送された──ここまでがキンジのメールから窺える現在の状況。

 

 正直、玉藻から聞いた昨夜の話を思うと、苦笑いで通せるラインを大きく越えちまってる。その意識障害ってのは緋緋神の──

 

「ついたぜ。医科研病院だ」

 

 広々とした、しかし病棟とはやや距離のある駐車場でシルバラードのエンジンを切る。大病院となれば駐車場も相応か。車内から見たときにも感じたが、外に出てから見渡すと本当にだだっ広い。

 

「雪平、早くなさい。置いてくわよ?」

 

「はいはい、お母さん」

 

 立派な網目模様のマスクメロンを手に提げている魔宮の蠍から、その高そうなお見舞い品を手渡され、俺たちは少し離れた病棟に向けて進路を取った。

 

 それにしてもこのメロン……見るからにキンジとは無縁そうな匂いがするぜ。なにせこの女、忘れそうになるが高級ホテルの一室で生活しているれっきとした金持ちなのだ。

 

「しかし、大病院となると駐車場だけでこの広さか。神崎クラスのお嬢様を看るとなりゃ、普通の病院には務まらんってことか」

 

「それだけじゃなさそうだけど」

 

 含みのある言い方で返答は濁された。俺は、夾竹桃の胸元で抱えられている『紫』の花に目を落とす。言うまでもなく、それは神崎に向けた花。

 

 紫のアヤメ──俺は花のことなんて全然知らないが、その花の意味だけは知ってる。たしか、その花言葉は、

 

「"信じる者の幸福"……か。洒落てるな」

 

「何も信じずに目的を成したところで、幸福になれはしない。信じない者は常に不安と恐怖につきまとわれ、安らぎを得ることは叶わない。誰しも信じるものを持たずにはいられない」

 

 並べられた詩の一説を詠むように、淡々と冷たい声が続いた。誰しも信じるものを持たずにはいられない、か……

 

「みんな何かにすがりたくなる。真実ってのはいつだって手加減なしだしな。自分の力でどうにもならないと分かれば、いるかどうかも分からない神にだって手を伸ばしたくなる」

 

 信じる者の幸福──信念だけでは、どうにもならないときもある。アヤメの花言葉はそんな真実を俺たちに教えてくれているようにも思えた。

 

 何かを信じることは美徳であれ、幸福を運んでくれるとは限らない。信じた先にあるものが幸福や希望だなんて確証はどこにもないんだ。希望と思って掴んだものが手のつけられない化物の尻尾だったなんてことは、実際一度や二度じゃない。

 

 テレビや本のなかと違って、現実はいつだって手加減なしの結果が閉じることなく、螺旋のように続いてる。

 

「手を伸ばしたところで……神には与えるべき愛も救いもないっていうのにな」

 

「自分を救えるのは自分だけよ。目を背けたくなる絶望的な盤上も、ひっくり返すことができるのは自分だけ。突然現れた神様だとか、救世主とかに救ってもらおうなんてお手軽な発想がそもそも不健全なのよ」

 

「不健全か。そいつはなんとも、手厳しいな。信じない者に幸福はやってこないんだろ?」

 

「本当に信じるべきは──自分は自分で救えるかもしれないと、そう思わせてくれる"何か"。不確かな地面でも立とうと思えるだけの理由をくれるモノよ。それさえあればどうとでもなるわ」

 

 理屈っぽい──不思議とそんな皮肉を言ってやる気にはならなかった。癖のある言い回しはいつものことだが、皮肉を言うのが憚られるほど今回の言葉は綺麗に見えた。とても無法者だった女が説く台詞とは思えない、最初から悪党には向いてない女だったが。

 

「……ファンタジーだな。みんながみんな、自分を信じられるわけじゃないだろ」

 

「不確かな地に何も信じない心一つで強く立つのは難しいことよ。だけど、時にはほんのささやかなものが心を支えることもある。貴方もそれを見つけたから、今でもぐらつきそうな現実の上に立てているんじゃないの?」

 

 不意に隣から聞こえた足音が止まり、真っ直ぐな瞳がアヤメの花束と共に視界を埋める。呪縛されそうな瞳にやがて逸らすようにして、止めた足を先に動かしてやった。

 

「単に不確かな足場に慣れちまっただけかもしれないぞ。足場が不安定だと最初から分かってれば多少のことじゃ転ばなくなる」

 

「まァ、とぼけちゃって」

 

「嘘を言うのが仕事なんだよ」

 

 相変わらず考えの読めない表情は、微かに口角が上がっている。自分の言いたいことはとりあえず吐き出して満足した、強引に当たりをつけるならそんなところか。

 

「誰しも信じるものを持たずにはいられない。じゃあ、お前は何を()()()るんだ?」

 

「それは企業秘密。教えないわよ、貴方口が軽いんだから」

 

「心外だ。必要なら貝にでもなれる男だぞ」

 

 神崎が入院している医科研病院は港区白金台にある8階建ての、大病院だ。見上げると首が痛くなりそうな建物には複数の玄関口があり、駐車場との兼ね合いで一番近かった正面玄関の裏手から院内に入る。

 

 さすがに武偵高の制服は訝しげな視線を招くが声をかけられるようなことはなかった。廊下の壁に張り付いた案内板を頼りに、ひとまず受付に向かうことする。

 

 この病院、周囲は鬱蒼とした林に囲まれてはいるがやはり大病院。一度入れば院内は広いし、コンビニや軽いカフェなんかも併設されている。キンジは先に来てるらしいが、先に帰ると行った趣旨のメールや電話はない。もしかしたら、院内で鉢合わせるかもな。だとしたら帰りのタクシーくらいは引き受けてやるんだが──

 

「……?」

 

 ピアノ……? やけに達者な音色だが外部から誰かを招いてのイベント……?

 

「雪平、どうかした?」

 

 つい立ち止まってした俺に、夾竹桃のやや訝しげに丸くなった目が向けられる。

 

「……いや、この曲なんだけど、ジャンヌも武偵高で弾いてるのを何度か見かけたことがあったからさ。大抵は『火刑台上のジャンヌ・ダルク』だから、珍しいなぁって。曲名までは聞かなかったけど」

 

「視聴覚室でのあの子の演奏は一年の間でも有名な話だけど、ファンにでもなった?」

 

 力の抜けそうな緩い声で、夾竹桃は横目を向けてきた。ジャンヌのアイスブルーや神崎のカメリアとは違った紫がかった瞳に直視され、改めてこいつはこいつで無駄に美人だと思わされる。無駄に美人──こうもしっくりくるような言葉も他にないな。

 

「どうかな。音響器機なしでこんな音色を出せるのがピアノって楽器で、それができるのがピアニストってやつなんだろうなって。言っとくがとぼけてないぞ?」

 

「お馬鹿。まだ何も言ってないでしょうに。反射的に噛みつくのはよしなさいな」

 

 うっすら笑われて、俺も遠慮なく苦笑いを返してやる。噛みつく噛みつかれるのやり取りをしながら、大病院に相応しい幅広の廊下を歩いていると、ほどなくして受付の窓口が見えてきた。しかし、俺たちの視線は受付ではなく、その傍らの壁に寄り掛かるようにして、仏頂面を浮かべている知り合いに吸い寄せられる。また一悶着ありそうな予感だぜ。

 

「……そのメロン、無駄になるかもな。なんか、うきうきする気まずさ」

 

「急くのはよしなさい、まずは先客に話を聞くわよ。無駄になったら、貴方と私で美味しく頂くとしましょう」

 

「独り占めしないお前の優しさに感動だ。このことブログに書いたっていい」

 

「ついでに、このことをツイートしてって頼んだら?」

 

「喜んで。俺、ツイッターやってないけどアカウント作るよ」

 

 立ち話をしながら、わざとらしく視線を撒いてやると仏頂面のキンジが足場に歩いてきて、そのまま俺たちを横切っていく。

 

「出るぞ。外で話そう。受付を通そうとしたがお嬢様は面会謝絶だそうだ」

 

 振り返ることなく、その足は院内の外に向けられる。ここではしたくない話、そして神崎への面会謝絶──何よりあの仏頂面は雲行きが怪しいときのお約束だ。

 

「あの顔、貴方はどう見る?」

 

「予期せぬトラブルって顔だな。デカいやつ」

 

「トラブルを背負って歩いてるのは貴方だけじゃなさそうね。お気の毒」

 

「運が悪かったってこと、俺もあいつも。生まれつきな」

 

 そのまま仏頂面のキンジと合流し、俺たちは一旦武偵高に逆戻りするハメになった。キンジが今分かっているだけの情報をくれたが……どうにも不可解な話だ。

 

「どうにも不可解な話ね」

 

 三人だけになった俺とキンジの部屋で、ソファーの上で腕を組みながら夾竹桃が同じ事を呟く。

 

「外務省が出てくるなんて。あの子がVIPだとして、嗅ぎ付けてからの動きが早すぎる」

 

「あんたも同じ考えなら安心だ。この件はあれこれ不可解なところがある。アリアは意識が戻っているハズなのに、連絡が付かない。外務省の動きも異様に速かったし、もう今は軟禁されているような印象だ。早めに本人とコンタクトして、出してやらないと……」

 

「──神崎は英国に連れ戻される。駐日英国大使館がバックにいるんじゃ、今度はマジの大事かもしれねえな。いや、緋鬼の連中が来日したタイミングも含めて……まあ、そういうことだろ」

 

 お世辞にも楽しいとは言えない話。俺もソファーの上で彼女を真似るように腕を組んだ。キンジの話によると、どこからか神崎の入院を嗅ぎ付けていた戦姉妹の間宮が、受付の面会謝絶を無視して病室に強行突破を試みたものの……辿り着く前にスーツ姿の女性数人に見つかってとっちめられたられという。

 

 その中には白人の女性もいて、気になるのはとっちめられたときに間宮がひったくったというピンズ。それは『外』の漢字を崩したような形をしている、いわゆる外務省の標彰。恐らく、間宮を追い出したという白人はイギリスの駐在武官。神崎と連絡がつかないのには駐日英国大使館が一枚噛んでるとみてまず間違いない。

 

「キンジ、玉藻から話はあったか?」

 

「なんで玉藻が出てくるんだよ。あいつのことは関係ないだろ」

 

「そうでもないのよ、残念ながらね。上が動いたとなれば、貴方も嫌な予感くらいは感じてるでしょう?」

 

「……まあな。前置きは分かった。ようは、つまらない話をするんだろ」

 

 身構えるつもりでキンジはソファーに座り直す。刹那、隣の女がゆっくりと目を伏せた。

 

「そういうことよ。これからするのはつまらなくて嫌な話。神崎アリアは……もう緋緋神になる()()()()にいる」

 

 目を見開くキンジを制するべく、間髪入れずに話を続ける。

 

「キンジ、この女はこの手の冗談は言わない。昨日、俺も玉藻から話を受けたばかりなんだ。神崎の緋緋神化は殻金で抑制できるって話だったがどうやら殻金は──塞ぎきれぬ状態で戻せば戻すほど、緋緋神化を加速させるらしい」

 

「……じゃあ、アリアは……」

 

「薄皮一枚で緋緋神の支配を絶っている。おもしろくないけど、そんな状況でしょうね」

 

「薄皮って……おい、切……!」

 

「どこにでも穴はある。体に刻んだ悪魔避けが火傷で上書きされちまうように、星枷が作った殻金にも欠点があった。今まで、殻金が外れることなんてなかったらしいからな。玉藻もお前がパトラたちから取り戻した殻金を戻したときに初めて気付いたそうだ」

 

 キンジの顔が苦々しく曇る。元々、殻金が外されるということ自体がイレギュラー。長い時間を生きている玉藻ですら初めてのことだった。

 

 いや、最初から緋緋神は殻金で飼い慣らすには余る化物だったのかもしれない。ヒルダによって殻金が外れた今回のタイミングで好機とばかりにヤツは檻から外に出た。あの神様は人間の力で縛り付けられるような領域には……そもそもいなかった。

 

「そいつは信用できるのか。確かな確証があるなら教えろ。駆け引きも隠し事もなしだ」

 

「確かな確証は神崎と話をしないとまだ……だが色々揃いすぎてる。玉藻が感じた違和感だけじゃない。例の鬼は『緋鬼』っていう太古の緋緋神の子孫で、連中の目的は緋緋神をこの世界に()()()こと」

 

「……来日したのは目的は、戦役絡みじゃなくてアリアか。アリアが入院したのは今回が初めてじゃない、今回に限って外務省が異様な速さででしゃばってきたのもーー」

 

「ええ。私も雪平も今回のことは緋緋神が絡んでると見てる。あの子と色金の問題は、英国もこの国も無視できないところまで来てるってことよ」

 

 静かな部屋にキンジの舌打ちが響いた。

 

「覇美と愉快な仲間たちは確認に来たんだよ。神崎がどこまで緋緋神の器に近づいてるかをな」

 

「なあ、お前も色んな連中に取り憑かれてきたんだろ。アリアの発作は今までもあったが倒れたのは今回が初めてだ。あれも緋緋神化のサインってことは……?」

 

 できれば外れてほしいーーそんな顔をするキンジに答えたのはこの場にはいなかった第三者だった。

 

「ーー遠山の。緋緋神化と器を明け渡すのは似て非なるものぞ」

 

「玉藻……お前ッ、これはどういうことだよ!」

 

 どこからともなく現れた、武偵高の制服を着ている玉藻にキンジが声を張り上げる。これはこれは……いつもながら神出鬼没な登場だぜ。

 

「この二人が話したとおりぢゃ。アリアの緋緋神化があそこまで進んでおるとは……お主が問うたアリアの発作とやらも緋緋神の仕業じゃろう」

 

「緋緋神は内側からあの子の意思と体を乗っ取ろうとしてる。これまでは単なる発作に過ぎなかったけど、今は意識を落とせるほどの影響力を持った」

 

「ああ、俺も二人の見解には賛成だ。キンジ、悪魔や天使の器になるってのは、言ってみればドアの向こうにいる連中を自分の部屋に招き入れるようなものなんだよ。でも神崎の場合は既に緋緋神が部屋の中にいる状態だ。あの手この手で外に出ようとしてるのを殻金に押さえつけられて、恐らくそれが神崎には発作として現れてた」

 

 玉藻から始まり、夾竹桃が繋げた言葉に俺も隠し事はなしで答える。あの発作と緋緋神が結び付いているのは十中八九間違いない。キンジは今にも騒ぎ出しそうな頭を殴り付けるように、あからさまな深い溜め息を置いた。そして、

 

「ーー結び付いちまうんだな。アリアの緋緋神化で今回の全部が。外務省の派手な動きも、アリアの発作や入院も、閻や鬼たちの来日も」

 

「不運なことにね」

 

 吐き捨てた夾竹桃の煙管から紫煙が部屋に熔けていく。

 

「……角じゃ、遠山の」

 

「ツノ? どういう事だ」

 

「緋鬼共は、太古の緋緋神の子孫。猴は孫に変わる時、髪がツノと同じような所で励起しておったろう。緋緋色金は法と心を結んだ女の頭の内側より、2方向へと不可知・不可視の力場を放つ。緋緋色金と心の合う場合、それはツノとなって現れる。髪ならまだしも、角とあれば……お主も心せい」

 

 険しい表情で玉藻は苦々しく告げる。角、つまりそれが生えてしまえば完全にアウト。キンジが求めた"確かな確証"になっちまうな。

 

「無論、緋緋色金との気が合わない場合は、髪の励起のみで終わるが……」

 

「駆け引きも隠し事もなしだぞ、玉藻。少なくともこっち系のことには俺よりお前の方が詳しいんだ。アリアと緋緋神が仲違いする線は……?」

 

「ーー薄い。かなりな」

 

 会話に割り込んだ刹那、睨むようなキンジの視線がこちらを向く。神崎は俺にとっても大事なルームメイトだ。駆け引きも隠し事もしない、俺も手札を全部晒すつもりで深い息を吐いて、続きを口にする。

 

「ルシファーは……色金を嫌ってた。子供っぽくて勝ち気な緋緋色金は特にだ」

 

「……なんで、そいつの話が……」

 

「こんなこと言いたくもないがあいつとは長い付き合いなんでな、嘘を言ってるかどうかも分かっちまう。スカイツリーで神崎を見たとき、あいつが愚痴ってたよ。神崎は言うなれば『ミカエルの剣』だそうだ。魔王の言葉を借りるならーーあいつほど緋緋神に馴染む器は他にない」

 

「……嫌な名前が出てきたものね。できることなら聞きたくなかったわ、その名前」

 

 アンニュイに夾竹桃が肩を落とす。俺だって口にしたくなかったよ、別にあの魔王は友達でも何でもないんだから。

 

「優しい嘘はつかないぞ、キンジ。このまま行けば神崎に角が生えるのは時間の問題だ」

 

「ーーじゃあ聞くがな。お前はアリアが緋緋神になるのが分かってるからって、あいつに銃を向けられるか?」

 

 不意に行われた、予想外の反撃に俺は目を見開いてしまう。あ、あのなぁ……

 

「向けないだろ、お前は。アリアが緋緋神になるからって、その前にあいつを殺そうとはならないはずだ。あの手この手で、アリアを救う方法を探そうとする。それがお前の家のやり方じゃないのかよ?」

 

 故意か、あるいは天然か。ふいうちの発言に俺は額に手をやり、喉をつまらせた。どうしてどいつもこいつも俺の家庭事情に詳しいんだ。

 

 安っぽいソファーで足を組み直していると、今度は玉藻が幼い外見にそぐわない鋭い目付きでキンジを一瞥する。

 

「遠山の。今はまだアリアと緋緋神は完全に結ばれてはおらん。じゃが、一度結ばれようものならあやつの意識は沈み、緋緋神がその体を乗っ取ろうぞーーアリアを討つなら緋緋神とは結ばれてはおらぬ今なのじゃ」

 

 その一言で空気はまたも圧を増す。玉藻自身も正一位に名を連ねる、最上位の化生だ。緋緋神はそんな玉藻ですら手に追えない化物ということだろう。神崎を殺すという苦渋の一手を提案させるほどに……

 

「七百年ほどの昔、闘争心と恋心ーー緋緋神に憑かれ、その2つの心を激しく荒ぶらす、祟り神となった人間もおる。お主にも話したじゃろ、その者は帝を蠱惑し、戦を起こし……最後には遠山侍と星伽巫女とに打ち殺されたのじゃ」

 

「俺に同じ事をやれってのか。それは七百年も前の話だろ、冗談じゃねえ。悪いが俺は降りるぜ。今は平成で、俺は侍じゃなく武偵なんでな。この件は元々、俺のせいでもある。だから俺はその選択だけは取れない、取っちゃいけないんだよ」

 

「……儂とて、あの娘を斬りとうはない。事が起きてから悔いても遅いのじゃ。戦となれば大勢が死ぬ、いや……此度の戦はそう単純とは限らん。お主の言ったとおり、あれから七百年ーー火種を燻らせるのも苦労せんわい」

 

 どこか自虐的に玉藻は言った。確かに、今と昔では話が違う。戦いに餓えた緋緋神がどんな手を使うか、何を始めるか。最悪のシナリオはいくらでも浮かんでくる。孫のときはココや諸葛がかろうじてストッパーとして機能してたが、神崎が緋緋神になれば、それこそ自制心のない子供が好き放題やるのと変わらない。

 

「時に武士は女をも、朋をも、斬らねばならぬものよ。儂らがアリアを討たなければ、それで失われる命があるやもしれぬ。遠山の、お主に最悪の場合の覚悟があるなら、首をふれ」

 

「違う、最悪はない。この手で起こさせない。それもまた覚悟だろ」

 

 似てる。根拠もなく、自信だけで崩れそうな足場を支えているような口ぶりはーー我が家の最終手段に、笑いそうになるくらいよく似てる。

 

 ああ、確かにそうだ。それもまた覚悟かもな、納得しちまったよ。もう何を言ってもキンジの考えは一方通行だ、曲がりはしない。

 

「決まりだな。玉藻、薄皮一枚だがまだ神崎には猶予がある。俺も全力を尽くす、時間を貰えないか」

 

 険しい顔の玉藻は……ふぅ、と溜息をついて……その表情から、緊張の色を消していく。

 

「残っておるのは薄皮一枚限りの猶予じゃ。待とうぞ。じゃが、待てるのは遅くても春まで。太陽暦で言えば弥生の晦日。3月31日までじゃーーよいな?」

 

「ああ、それでいい。ありがとう」

 

「それを回ろうものなら御破算。儂と星伽巫女を揃え、お主と遠山ともども討つ」

 

 あと1ヶ月と半分ってところか。それを過ぎれば玉藻も待ってくれない。逆に言えば、今年の3月31日には決着がつく。シャーロックが撃ち込み、神崎が振り回され続けた色金の騒動にも一旦の決着がつくはずだ。春までには全てのことに片が付く。

 

「話は纏まったみたいね。遠山キンジ、リミットは3月31日よ。私も理子と一緒に裏工作に動くわ。緋鬼の狙いがあの子なら、どちらにしろ病院のベッドにいつまでも寝かせておくわけにもいかないでしょ?」

 

 煙管を持っていない方の手で、夾竹桃が携帯を弄り始める。キンジは神崎の面会謝絶を知った段階で、こういう案件に役立ちそうな理子に連絡を入れていたらしいが外務省の裏を掻くとなるとーー理子もお友達の助力があるに越したことはないか。するとキンジが、

 

「あー、一応言うがこれは戦役とは無縁の場外乱闘だ。それでもイ・ウーの蠍とやらは噛んでくれるのか?」

 

「勘違いしないで、単なる私怨よ。このままだとあの子は自分の恋心を隠して、これからの生を生きていくかもしれない。私にはそれが許せないだけ。少女の恋心を弄ぶ権利なんて、神だろうとありはしないの」

 

 言い淀んだキンジとは反対に、淡々とした返答が返される。それを私怨と呼ぶべきかどうかは脇に置いておこう。まあでも、夾竹桃らしい理由で安心したよ。私怨だろうと一人でも味方はいたほうが頼もしい。相手がスケールの狂った化物なら尚更な。

 

「なあ、キンジ。これは知り合いの保安官から教わった言葉なんだが忙しいときはこう唱えろ。"責任多けりゃ人に頼め"。さっきお前はこの件は自分の責任って言ったが、それもたまたま隕石の落下地点にいたってだけの話だ。この件に関しては俺も全力で手を貸す、神様に好き放題させてやるほど嫌いなこともねえからな」

 

 何てことはない、俺だって私怨だ。どこの誰とも分からない神様や常識の外にいる連中に人生を無茶苦茶にされる、その連続だった。だから、緋緋神の目論みを破綻させて足蹴りしてやるのにそれ以上の理由はいらない。神崎のことを抜きにしても理由は足りてる。他に問題があるとすりゃーー

 

「緋鬼どもと事を構えれば、停戦破り。眷属どもに抗言されたら、論戦に応じねばならぬ。その役を務めるのは儂じゃぞ?」

 

「それは……済まない。玉藻にも迷惑かけちまうな」

 

 呆れた玉藻は冷蔵庫から掠めとったであろうプリンの蓋を破いた。キンジも触れたがこれは戦役とは関係ない場外乱闘、緋鬼と戦闘になれば眷属に嫌味を言われるのは他ならぬ玉藻だ。

 

「ああ、猶予をくれたこともだが本当に感謝してる。神崎には俺も恩があるからな。玉藻、ありがとう」

 

「後で信心を寄越せ。浄財だけでなく、畳ほどもある油揚げを奉納せよ。良いな?」

 

 畳ほどの油揚げ……そんなサイズの油揚げあるかぁ……? ま、夾竹桃が買ったお見舞い用のメロンとそのかっぱらってるプリンで足りるだろ。

 

「して、雪平の。策はあるんじゃろ?」

 

 不意のタイミングで玉藻はそんなことを言い出した。

 

「賢人の血は争えぬ。姑息な策の一つや二つは既に用意しておると見たが?」

 

 目ざとい玉藻はカラメルで口を汚しながら、首を揺らした。完全に虚を突かれて、思わず喉の奥を鳴らしてしまう。

 

「姑息か、それは言えてるな。堅物の独身貴族の集まり。でも俺が出会った彼等の子孫に関しては誠実だったよ」

 

 アーロンもそれに……アイリーンも。アイリーンはどこか神崎と似てたな、強気なところとか……アイリーンは死んで、俺はまだ生きてる。良い人は死んで、俺はまだ息をしてる。一度はハンターから逃げた俺が、海を渡った先で緋緋神に絡むなんてのは皮肉な話だ。

 

 けど、やっぱり通らないだろ。たとえ今回のことで緋緋神にならなかったとしても、神崎はこれから先も恋心を封じて生きていくことになる。通らないだろ、それは……

 

 あいつに何の罪がある? 勝手にシャーロックに選ばれて、勝手に緋弾を撃ち込まれて、あいつには何の罪もないんだ。

 

 何の罪もなく、好きな人に好きとも言えず、ただ背を向けることを強いられる。呪いだろ、そんなの。いつ緋緋神になるか分からない、だから自分の恋心を偽り続ける。冗談じゃない、そんな不条理はーーリサとディーンのだけで十分だ。

 

「ーーオカルタムだ。俺はそれを探してみる」

 

 俺はジョーに思うことを吐き出せた、ジョーもディーンに気持ちをぶつけられた。お互い、痛み分けみたいな結果に終わったけど、自分の気持ちを偽らずに済んだ。夾竹桃の言うとおりだ、神崎の心を歪める権利なんて、たとえ神だろうとありはしない。

 

「なんだよそれ、物か?」

 

 テーブルに投げ付けた単語に、真っ先にキンジが食いついた。

 

「物質であり、場所でもある。なんだろうとものすごく強力だ。かつて神が作ったとされる第一級の異物、緋緋神が相手でも牽制にはなる」

 

「……探してみる、ということはまだ懐にはないってことじゃない。目星はついてるの?」

 

「オカルタムは生前ルビーがアナエルに売り付けたって話だ」

 

「ちょっと待って、ルビー? あの二人、友達だったの?」

 

 やや驚いた顔で夾竹桃が眼を向けてきた。ルビー、アナエル、言ってみれば天使と悪魔だしな。

 

「さあな、本人にでも聞いてみるさ。アナエルをまじないで呼び出し、聖なるオイルで閉じ込めてから、オカルタムについて話を聞く、簡単だ。まじないの材料集めには苦労しそうだけど」

 

 ーールビー。名前から分かるとおり、俺がルビーのナイフと呼んでいる悪魔を殺せるナイフの元の持ち主。さんざん味方と思わせて、最後には壮大な裏切りをやってくれた忘れるに忘れられない悪魔。オカルタムはまだ彼女を協力者だと思っていたときに耳にした話のひとつ。

 

 この話をルビーから聞いたときにはまだアナエルとの面識もなかった。彼女と出会うことになるのはルビーが裏切ってから、何年も経ったあとのこと。まだアナエルの手元にオカルタムがあるかも実は分からない。あの業欲の天使がお宝をみすみす手放すとは思わないが……

 

「ルビーから詳しい話を聞こうにも、虚無の世界にいるとなると手出しできない。地獄や天国ならいくらでも乗り込んでやるが虚無となると話は違ってくる。あの世界の切符を持ってるのは天使と悪魔だけ」

 

「それも片道切符のね。モンスターの墓場、煉国には裏道があったそうだけど虚無にはそれもないんでしょ?」

 

「残念ながら、他とは完全に孤立してる。アマラでさえ簡単には手出しできない場所らしい、アマラだぞ、ゾッとするよ。人間の俺たちにはどう頑張っても手は出せない。アナエルに聞くしかないのさ、オカルタムは」

 

 手懸かりがあるだけ、雲を掴むような話でもないけどな。探し物にもなれてる。

 

「なんとかするよ。相手は神様、どうせ楽な道はないんだ。知らないフリもしない、我関せずで逃げてるのには飽きたからな。ってことで俺は少し部屋を空ける」

 

 まだ飲みかけだった缶コーラを飲み切り、ゴミ箱に投げ入れる。

 

「何かあったら電話しろ。三番目の携帯だ」

 

「分かった、俺の方は潜伏作戦(ラーキング)でアリアとコンタクトを謀ってみる。一階のコンビニがバイトを募集してたしな、渡りに船だ」

 

「コンビニ店員なんてやったことあったか?」

 

「訓練は受けてないが実地でいく。パスできりゃ一丁前」

 

「なるほど。まあ気楽にいけ、職場体験とでも思って」

 

 俺は道具を詰め込んだリュックを背負い、玉藻とキンジの残して部屋を出るーー

 

「あ、そうだ」

 

 咄嗟の思いつきで俺は踵を返した。

 

「写真撮らないか、ここにいる全員で。本土から持ってきたのがたしかこの引き出しにーーあったあった」

 

 部屋の一角の引き出しから出てくるのは今では時代錯誤のクラシックカメラ。すっかり忘れてたよ。よし、使えそうだな。

 

「また古風な、どこから持ってきたんだ?」

 

「古い友達の趣味だよ、部屋に転がってたのを本土から持ってきた。ちょっと待ってろ、三脚立ててこうやって……これが、こうだな」

 

 頭の片隅に閉まっていた記憶を探り、過去にボビーがやってたのを見よう見まねで他の三人を尻目に作業を進めていく。あのときもボビーが一人で準備してたっけ、俺たちは騒いで飲んでるだけだったし、みんな嫌がってたからなぁ。

 

「ーーよし、できた。馴染みの札付きども、そこに並べ」

 

「なあ、本当にやるのか。武偵は自分を撮らせないものだぞ」

 

「もう遅いわよ。抗議するなら作業が終わる前に言うべきだった。私も棒立ちだったけど」

 

「そういうことだ。インパラのシートにジュースをこぼした罰と思え。神に逆らおうってバカどもがいた証を残したいんだ。別に写真は嫌いじゃないだろ?」

 

 ソファーの玉藻を手招きすると、キンジは後ろ頭を掻いてから、かぶりを振った。

 

「モラルに訴える気かよ。ちゃんと動くんだろうなその骨董品」

 

「儂は話し合いに来たのじゃが、よもや写真とは」

 

「たまにやるんだよ、突然の思いつき。俺も白雪も慣れたもんだけどな」

 

 ポケットに手を入れながらキンジがカメラの前に立つと、その隣に玉藻も並んだ。あとはセルフタイマーレバーをセットしてーーこれでよし。最後の仕掛けを終えて、俺も玉藻の隣にいる夾竹桃の左に並んだ。

 

「写真。最後に撮ったのはいつ?」

 

「ジョーとエレンと過ごした最後の夜。あのカメラで」

 

「そう」

 

 返事は素っ気ない。どうせ答えが分かってたんだろう。ディーンもサムも暖炉の火で燃やしちまったが、たとえ苦い記憶だとしても俺はあの写真は燃やせなかった。ジョーやエレンと撮った、最初で最後の1枚だったからな。ジョーが死ぬ前夜に撮った、あの1枚は俺には燃やせなかった。あれはーーバカどもが生きた証。

 

「お前はどうなんだ。みんなと写真を撮る気分は?」

 

「いつもどおりよ、困惑してる」

 

「そっか。"縁起でもない"って笑われるかと」

 

 横並びに習った俺たちの前で、カメラのセルフレバーがゆっくりと時計回りに巻かれていく、あのときと同じように。

 

「ありがとう、全部分かってるのに付き合ってくれて。ほんと、感謝してる」

 

「初めて見たから。キリ・ウィンチェスターのそんな顔。今日が初めて」

 

 どこか引っ掛かりを覚えるも、セルフレバーが限界に近づいて、俺は逸らしかけた視線をカメラに戻す。

 

「分からねえよ、自分の顔なんて」

 

 

 

 




 

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