地獄の猟犬。言っちまえば、それは悪魔が飼っているペット。その名の通り、地獄で連中に飼い慣らされている犬の名称だ。
時には番犬として、時には護衛として使われることもあるが一番の使い道は、悪魔と契約した人間の魂の回収。取り立て役だ。
悪魔は人間の魂を担保にあらゆる願いを叶えてくれる。
例えば大金持ちになりたい、例えば音楽で有名になりたい、名声や欲望を満たすシンプルなものから、治る見込みのない難病の治癒まで、連中はなんだって叶えてくれる。
昨日まで路上で寝泊まりしてた人間が、一夜でビバヒルに住む大金持ちにもなれる。実際、連中と取引して大金持ちになった資産家や突然歌が飛ぶように売れたミュージシャンは尽きない。
が、幸せな時間には刻限がある。取引を行った日から数えて10年後、対価として取引した人間の魂が悪魔に差し出される。
それが一般的に十字路で結ばれている悪魔との契約、願いが叶うと同時にカウントダウンが始まる。カレンダーの日付が変わるごとに、地上で過ごせる時間が削られていく。
そして取引から誤差なく10年後──地獄の猟犬が命を奪いにやってくる。魂を地獄に連れていくために。
「地獄の猟犬。説明はいらんだろうが今夜奴等が仕事をしにやってくる。魂を取り立てに」
やや重苦しさが混じったロイの声色は、ジーサードのビルとは真逆の原始的な木の造りが感じられる部屋に熔けていく。
「それを妨害するためのこの面子か」
アレックスを含めた馴染みのハンター4人に順番に目を配ったあと、俺はこの場で唯一馴染みがなかった女性に向き直る。
ブロンド、それに長髪か。ジョー、クレア、理子、ルビー、メグ……つくづく、この髪の女性とは縁がある。いや、理子の場合はブロンドのツーサイドアップだったな。いつだったか、キンジにツインテールと間違われて違いを熱く語ってた。
「ライリー・ロペス。ウィンチェスター兄弟でしょ、噂は聞いてる」
自己紹介はアシメの服を着こなした彼女が先に名乗ってくれた。噂を聞いてるってことは彼女もハンター、あるいはその身内か。
「よろしくライリー。ところでそれって良い噂かな? それともそうじゃないヤツ?」
「どっちも聞いてる。派手なヤツ」
「噂には尾鰭が付くからな。実際はそこまで派手でもないよ」
気さくな態度を取ってくれたお陰で、お堅いファーストコンタクトにはならずに済んだ。直感だが理子と同じで、距離感を測るのが上手いタイプの人なのかもしれない。
惜しむらくは呑気に談笑できる状況じゃないってことだか。
「……取引は彼女が?」
「そうだ。今日、地獄の猟犬がやってくる。それを俺たちで迎えうつ」
ウォントは、レミントン社のカスタムラインと思われるショットガンを携えたまま答える。
猟犬を迎えうつ──
それは分かった。だが、まだ幾つかの疑問が心中渦を撒いてる。猟犬とドンパチするならその前に気になることは可能な限り消化しておきたかった。
「分かった。少し質問攻めみたいになるが許してくれ。相手が猟犬となれば目隠しされた気分じゃ戦えない」
まだ日を回るまで時間はある。時計を確認した携帯を折り畳んで懐に入れたときだった。
「マンハッタンには知り合いを尋ねに来たの。貴方の言った通り、昔やり残した狩りを片付けて回ってた。その途中、マンハッタンに。知り合いはほとんど死んじゃってる、けどマギーのことを思い出したの」
セントラルパークで会ったときと変わらないジャケット姿の母さんは、そう言うと塩のバリケードが引かれた窓に視線をやる。
「マギー……?」
「マギー・ロペス。私の母さん。狩りと銀行の窓口を兼業してたの」
マギー・ロペス……聞いたことあるな。マギーって名前のハンター……待てよ、それってたしか……
「もしかして、三つ子のジンを一人で退治したってあのマギーじゃないのか?」
「母さんのこと知ってるの?」
「エレンのバーで何度か名前を聞いた。会ったことはないけど、ジョーが凄腕のハンターって言ってたから覚えてるよ」
エレンのバーでエイサと同じく、会ったことはないが記憶に焼き付けられた名前だ。ジョーが凄腕と語るほどのハンター、いつか会ってみたいとは思ってたけど意外なところで名前が出たな。
怪訝な顔をしたライリーは、未だにその顔を変えずにいて……あー、そっか。アレックスと母さんにはちょっとだけ話したこともあったし、ロイとウォントは分かるだろうけど、ライリーはエレンのバーのことは知らないよな。
「ハンターがよく出入りして溜まり場になってるバーがあったんだ。狩りのことや色んなハンターについて噂が飛び交ってて。ジョーってのはそこの看板娘で……あー、話が逸れたな、ごめん。それで、母さんはマギーさんを尋ねてここまで?」
「メアリーさんのことは母さんから聞いてた。亡くなったって聞いたから、すごく……最初は驚いたけど、母さんはもう死んじゃったから私が話だけでもと思って。母さんは狩りをやめてすぐ……シフターに」
「……病院のベッドで死ねるハンターは少ない。長く狩りをやり続けたハンターは特に」
沈鬱げに母さんは吐き捨てる。当たり前か、母さんが命を落としたあの火事の日から20年以上経ってる。
かつてのハンターの知り合いは、その大抵が命を落としてる。20年も狩りを続けてられるハンターの方が少ない。毎日のように化物を追いかけてるんだからな。
やっと再会できるかもと尋ねた友人も、既に亡くなってたったわけか。それもこれまで行った狩りへの報復という……最悪の形で。
「この仕事は良い人ほど先に死んでいく。俺は直接話したことはないけど、残念だよ。とても残念だ」
狩りから離れても買った恨みまでは消せない。
ジョーがあそこまで誉めちぎるんだ、きっと良い人だったんだろう。残念だ。
ハンターになった以上、そういう最後は彼女も考えてたんだろうけど、それでも残念だよ……
「……ライリー、どうして取引した。母親がハンターで、あんただってこの取引が無償じゃないことくらい分かってただろ。契約したら最後、悪行を重ねてようがなかろうがあんたの魂は地獄に引っぱられて炎に焼かれちまう」
「知ってる。でも彼を……助けたかった。愛した人のためなら地獄に行くのも悪くないかなって、それだけ」
場の空気を切り裂くように投げた質問にも、あっさりと答えは返ってくる。
驚きはなかった。仮にもハンターを親に持つ彼女が、私欲で悪魔に力を借りるとは思えない。連中が如何に危険で手に余る存在か、そんなこと母親に嫌というほど説かれたはずだ。
それでも取引を強行したのなら、それは私欲ではなく他者のため。かつて、ディーンがそうしたように自らの魂と引き替えに、他の誰かの命を救った。
「どうにもならない病気だったの。治療法が見つかってないってやつ、だからどうにもならなくて。限られた時間を大切に過ごそうって、やりたいことを今のうちに全部やろうって、二人でそう決めた。彼がいなくなったあともこの思い出があれば私はやっていける──彼はそう言ってくれたし、私も自分を納得させたつもりだった」
彼のために、自分の命を叩き売る。
忌々しい、それは俺がどこまでも嫌いな命の『等価交換』そのものだ。
割り切ったように暗さを感じさせない顔で言葉は続いていく。
「でも思い出は思い出。彼の容態が悪くなっていくにつれて、一人でも大丈夫だなんて思えなくなった。幸せな時間をいくら重ねても、それは一瞬の積み重ね。彼が死んだら二度と幸せな時間は重ねられない、いくら思い出を支えにしようとしてもそれは思い出で現実じゃない」
「……地獄に行くと分かってて取引したのか?」
「ええ。だから、連中と取引した。間違ってるってことは分かってたの、みんな涙を流して身を裂かれながら大切な人と別れてる。子供や親、恋人、辛い別れを味わうのは私だけじゃないって分かってる。でも私は彼を救えた、救える方法を知ってた。自分の命より彼の命が私には大切だったの、それだけ。地獄の炎に焼かれることになっても私の足は十字路に向いた、それだけ」
愛する人の為に命を投げての取引。
母さんもそうだった、アザゼルと取引したのは親父を救うため。
自分の命を投げてでも愛する人との時間を望んでしまう。それはすごく、ああ、それはすごく、
「分かるよ、一秒でも長く愛した人と一緒にいたいって気持ちはすごく分かる。でも──」
地獄は君が想像してるよりもずっと酷い。
──喉から出掛けた最低の言葉をかぶりを振って押し留める。
本当に最低だな、恐怖を煽るような言葉を吐いてどうなる。バカか俺は。
「なあ、眼鏡ってあるか? レンズがあるならサングラスでもいい。あるだけ貸して欲しい」
「眼鏡って……どうしてそんなものを?」
「地獄の猟犬は悪魔と取引の期限が迫ってる人間にしか見えない。取引の期限が迫った人間は地獄に片足を突っ込んで、早い話が地獄の住人になりかけてるようなもんだから、仲間である悪魔の素顔や猟犬の姿が見える」
自己嫌悪を払拭するつもりで、俺は首を傾げたアレックスを見たまま続ける。
「でも俺たちには地獄の猟犬の姿は
人の皮膚をバターのように切り裂く爪と牙を備え、さらにはその姿は朝昼、場所、天候を問わずに不可視。
鋭利な凶器を携えた見えない殺人鬼だ、文字に起こすだけで苦笑いが出るぜ。流石に悪魔のペット、おぞましいという他にない。
だが、その一番厄介な部分を攻略する糸口もあるにはある。
「過去に二度、地獄の猟犬を狙って仕留めようなんてイカれた真似を二度やったことがある。一つ目はルシファー様大好きのヒステリックな牝犬ラムジーが脱走したとき、もう一つは悪趣味な三つの……まあ、こっちは話すだけでも気持ち悪いから省略して、ここに聖油が入ってる」
「待って、ねえ待って。いまルシファーって言った?」
「異世界で置き去りになってる」
「そう……良かった」
地獄の重鎮の名前にライリーが反応したので即答しておく。
そして、目を丸めたアレックスに見えるように俺が取り出すのは、酒の代わりに聖なるオイルを流し込んだスキットル。話を戻そう。
「こいつで炙った眼鏡には地獄の猟犬が映る。連中のイカれた嗅覚やスタミナ、爪や牙はどうしようもないが姿が見えるってだけで危険度はかなり下がる。やらない手はない」
「猟犬が、見えるようになるのか……? なんでそんなこと知ってる?」
「ボビーが調べたの?」
「いや、ボビーじゃない。昔、勉強熱心な友人が本の山から調べて教えてくれたんだ。俺はシリアルの箱の裏くらいしか読まないけど」
忘れもしない聡明な友人の功績にはロイ、そして母さんも驚きに顔を染めるが、すぐにその表情を引っ込める。
「姿が見えるようにならやらない手はない、取り掛かりましょう」
母さんの一声で状況は動く。俺とアレックスは出入り口や窓に敷いた塩とダストの確認、残りが眼鏡を探し炙る班。
何度も頼ってきた悪魔避けのバリケードを屈んで見下ろしながら息を吐く。
「母さんに巻き込まれたって感じか?」
「色んな偶然が重なって、結果的にここにいるって感じ。セントラルパークで会ったのは偶然、前にスーフォールズで顔は知ってたから色々話してる内にここにいる」
「ライリー……マギーを一緒に訪ねたのか。そこから先は? どうしてロイとウォルトが?」
天井に大雑把に描かれた悪魔封じを仰いでから質問の続きをアレックスに投げる。
普通の生活を望みながらも非日常の世界に身を置き続けて、いつも愚痴を言いながら引き金を引く──ある意味、キンジと本質が似通ってる彼女は、以前と何も変わらない横顔で、
「なんでだと思う?」
「クイズをやってる状況じゃないだろ。まあそうだな……マギーは名の知れたハンターだ。2人と交流があった」
ロイとウォルトはあの年齢だ、ライリーとの付き合いも長かったんじゃないのか。幼い頃から彼女のことを知っていて、何かのキッカケで取引のことを知った。
「お前と母さんが先か、はたまたロイとウォルトが先にライリーとコンタクトしてたのか。そこまでは分からないが、こうやってみんなで彼女を守ろうとしてる。肝心なところが分かってればそれでいい」
「手強いんでしょ?」
「手強い、吐き気がするほどな。猟犬の相手をするのは苦行の一言だ。けど、もしお前に何かあったら保安官やクレアに顔向けできない、やるなら付き合うよ。猟犬には私怨がある、さっき言ったとおりさ」
そうーー私怨だ。取引の理由、その良し悪しを抜きにして奴等の仕事を邪魔するだけの理由がこっちにはある。
ディーン共々、俺の腸を抉ってくれた恨み。何よりジョーの体を引き裂いてくれた、最上級の恨みがある。
「キリ?」
「アレックス、俺は両手を広げて他人に倫理観や道徳を説けるような人間じゃない。シスター・マリアみたいにね。でも一つ言えることは、一瞬でも愛した人といられたら最高だ。それが夢でも思い出の中でも」
「全部終わったら乾杯しよ」
「何に?」
「運命の人との一瞬に」
……それはまたなんというか、
「ロマンチックなことで。けど、一つ約束。もし男を引っ掛けたときは俺にも紹介しろ。お前、悪に惚れるから」
「え、なに……男の趣味が悪いってこと?」
「まあ、いいとは言えないね。いつか大学で見た昆布茶マティーニ男は酷いもんだった」
「……昆布茶マティーニってなに?」
「携帯命で四六時中ハッシュタグで喋る男。あのハンサムかどうか微妙な顔で口説かれるくらいなら、生暖かいマヨネーズを舐めた方がマシだ」
「……例えが意味不明すぎて頭に入って来ないーー」
刹那、脳の奥まで行き渡るような獣の遠吠えに背筋が凍てつく。おい、いきなりか……!
「アレックス……!」
凍てつく背中で俺はXDの遊底を引き、アレックスも水平二連式のショットガンをテーブルの上から取り上げる。
アイコンタクトもハンドサインもなし、自然と俺とアレックスは足音を殺し、銃口を入口のドアへと向ける。
「入って来れないんでしょ!」
「普通ならな! けど、最悪なときに限って想定外のことが起きるのが世の中だ! 安心してるときに限って足場から崩れていく!」
獣の声は徐々に大きく、近くなっていく。まるでこことの距離を詰めてくるように、だ。
足音を殺したのも最初だけ、大音量で感情のままに会話する俺たちに母さんが足早で近づいてくる。
ウィンチェスターの散弾銃……理子お気に入りの逸品がその手に抱かれている。それとフレームの焦げた眼鏡。三人分……助かったッ!
「ライリーは?」
「ロイとウォルトが付いてる。塩のサークルを作ってその内側に」
「ここから朝まで籠城戦。楽しくなりそう」
「ああ、顔見知りになるのは賢くないな。あのグロテスクなペットちゃんは一度嗅いだ匂いは絶対に忘れない、地の果てまで追ってくる」
つまり、この状況はアレックスが正しい。ここを拠点に犬っころを仕留める、籠城戦だ。
お世辞にも良いデザインとは言えない眼鏡をかけ、トリガーガードに依然として指を添える。
「キリ、あの二人も気付いてる。これは問題を先延ばしにしてるだけ。地獄の猟犬を何度追い返してもあの子が寿命を迎えた途端、魂は地獄に連れて行かれる。取引を白紙にするには大元を叩くしかない」
「取引した悪魔を縛り上げて契約を白紙に戻させる、それしかないとは俺も思うけど、今の地獄は次のボスの座を巡って紛争地帯だ。昔はリリスやクラウリーみたいなリーダーが契約を纏めて握ってた、でも今はそのリーダーがいない。どの悪魔がライリーの契約を握ってるか分からないぞ……」
相次ぐリーダーや権力者の脱落で今の地獄は荒れるに荒れてる。
部下の契約を纏めて握れるような、他とは頭一つ抜けた力を持った悪魔なんて今の地獄には多分いない。
「なら、見つかるまで探すしかない。でしょ?」
凛とした声でアレックスは答える。さも当然に、当たり前のような顔で、本当にジョディの娘には敵わない。
「その通りだ」
「来たわよ、二人ともッ!」
お遊び抜きの母さんの声が部屋に響き渡る。難の前触れもなく、部屋中の窓やドア、外と繋がるありとあらゆる穴が開かれ、外から冷たい突風が一気に流れ込む。
穏やかだった室内の空気が夜風に問答無用で乱され、俺たちの衣服がはためくのと同時に窓やドアに敷いた塩やグーファ・ダストが舞い上げられては、無造作に床を汚していく。
……悪知恵が働く悪霊がよくやる手だ。折角のバリケードが一瞬で台無しになった。
そして、開かれたドアの向こう。陽光の差さない外の暗闇に確かに
真っ赤な一対の眼孔、僅かに開いた口から覗ける口の奥は炎を灯しているんじゃなかと思うほど明るく光っている。
現実離れしたパーツを持っていても、その半透明な透けるようなシルエットだけは紛れもなくーー獰猛な犬そのもの。
「……ねえ、ここって地獄だったりする?」
「いや、まだ地上の上だよ。ライリーは飼育係とでも契約したらしい」
5匹、10匹……いや、もっといる。俺がブラドを相手に呼び出したときより、
眼鏡を通した先に見える赤い眼孔は、両手の指を折るだけでは数えられない。
薄暗く、地獄の炎を模したような赤い眼孔は体を恐怖で縫い付けるには余りある。見えれば見えるで、なんと醜い顔なんだ……
「多勢に無勢もいいところよ。こんなに来るなんて」
「いつもどおりだよ、フェアな戦いの方が少なかった。どうする、お嬢様?」
「決まってる、さっさと片付けましょう。見たいドラマがあるの」
はっ、さすがはジョディの教えだな。一歩も怯えを見せないその眼差し、ジョーを思い出す。下手な絵画よりずっと綺麗だ。
「やろう。母さん、アレックス」
ああ、難しいことは頭から消そう。
地獄の猟犬が魂を奪いにやってきた、それさえ分かれば他は置いておけ。
私怨がある。アイリーンを、ジョーを、家族を引き裂いてくれた最大級の私怨がある。相対する理由にはそれで十分だ。
「ーー返り討ちだ。一匹残らず、奴等の顋を食いちぎってやる」
令和のパンクラ強すぎ感動してます。