デジモンエタニティ 作:LOST
今日一日の授業が全て終了し、ホームルームも終え、帰りの準備をしていた太河。
転校初日では一緒に帰る友人もおらず、自宅には引っ越しの片付けがまだ残っている。
今日はおとなしく帰ろうと思っていた、そんな時だった。
「太河!」
太河は急に後ろから跳びついてきた衝撃に前につんのめり、腰を机に思い切りぶつけてしまった。
その時に太河の鼻に仄かな塩素の香りが流れ込んできた。
転校初日の太河こんなことをしてくる相手など1人しかいない。
「織原!お前な!!」
背中にくっついていたのは予想通り、織原ミカであった。
「へっへー!油断している太河が悪い」
「あのね……」
女子に密着されているこの状況。嬉しいと感じる気持ちがゼロとは言わないが、背中に感じるのが筋肉質な胸板の感触では喜びも半減というものだった。
ただ、その『塩素の匂い』と『筋肉質な身体』という二つの情報から太河は一つの結論を導き出すことができた。
「……水泳は続けているらしいね」
「あれ?なんでわかったの」
「塩素くさい」
「あっ!そういうこと言う!?」
ようやく離れてくれた織原。
彼女を振り返ると、彼女の肩には学生鞄に加え、防水性のバックが下げられていた。
織原はそのバックをポンポンと叩き、自信ありげに胸を張る。パーカーの前を開いているせいでタンクトップに包まれた胸部が強調される。膨らみなど殆ど無いに等しいが、健全な男子中学生からすれば少し目のやり場に困る。
太河はそんな気持ちをなんとか抑えつつ、何気ない様子を装った。
「で、頑張ってるの?」
「もちろん。大会が近くてね。最近は土日なんて水中にいる時間の方が長いんだから」
「順風満帆そうでなにより」
「まぁね!」
「ぬふふん!」とドヤ顔をしてみせる織原。だが、そんな彼女の表情には小さな綻びがあった。口角を持ち上げ、顔全体で上手くとりつくろってはいたが、目元だけが微動だにしない。ほんの些細なことではあったが、太河が見逃すことはなかった。
昔から嘘が下手なんだよな。ほんと……
口の中だけで呟く太河。
「ん?なに?太河?私の顔になにかついてる?」
「……いや……なんでもない」
だが、太河はそこにあえて触れなかった。
例え昔からの知り合いでも、もう会っていなかった時間の方が既に長い。
冷たいと捉えられるかもしれないが、変に踏み込んで地雷を爆発させるよりはましだと思っていた。
誰かと深く関わり合えば、それだけ面倒事が増える。
それは織原相手でも一緒だった。
「まぁ、いいや。とにかく、私は今日も今日とて練習なのです。でもま、そこまで一緒に行こうよ。裏門への道も教えてあげるし」
「それは、ありがと」
「いえいえ」
彼女は人好きのする笑顔で周囲を見渡した。
「渚沙も一緒に行く?」
「……私……今日は図書委員」
「ありゃ、それは残念」
「……だから……昇降口まで付き合う……できるだけ、太河と一緒にいたいし」
「へっ!!」
突然の発言におかしな声が飛び出る太河。
「……冗談」
「あ、うん……そうだったね」
太河が力が抜けたかのように項垂れると、織原が我慢しきれずに声をあげて笑い出し、ついでに隣からもケラケラと笑い声が聞こえた。
シャオが太河達を見て笑っていたのだった。
「太河。お前、本当に面白い反応するな」
「……渚沙ってずっとこんな調子なの?」
「まぁ、だいたいな。けど今日は随分と頻度が多いか?」
「……いつもより多め……太河の反応……楽しい」
太河は更に力無く項垂れた。
僕は渚沙の掌の上で踊らされていたということか……
「まぁ、いいけど……」
そんな太河の様子に満足したのか渚沙は隣にいたシャオに視線を向けた。
「……シャオは……今日は?」
「あん?そうだな、どうすっかな……」
「……じゃあ……図書室来る?」
「……今日はパス。ゲーセンでも行く」
シャオはそう言って鞄を担いだ。
そんな彼に織原が胡乱な目を向ける。
「またゲーセン?この前喧嘩沙汰起こしたのに、懲りないねぇ」
「うるせぇな。お前は俺のオカンかよ。ほんじゃな」
言葉遣いは荒いが、彼の言葉には然程トゲはない。
織原も渚沙もそんな彼の態度を理解しているようで、特に噛みついたりもしない。
シャオはそのままあっさりと帰っていった。
「シャオは本当にしょうがないな」
「……また退学騒ぎになる……」
「かもねぇ」
織原と渚沙はため息交じりにそんなことを言いつつ、下駄箱へと向かい、太河もそれに続く。
太河は前を行く2人の女子を見ながら、ちょっとした疑問を口にした。
「渚沙とシャオは仲いいの?」
その質問に織原は「まぁ、悪くはないよね」と軽く答え、渚沙もまた小首を傾げて答えてくれた。
「……うん……そこそこ……」
「そこそこ?」
「……恋人としてはそこそこ……」
「はぁっ!?2人ってそういう……」
そこまで言いかけ、太河は口を閉じた。
渚沙が真っすぐにこちらを見ていた。
彼女は口元だけを歪めて笑みを浮かべている。ミステリアスな雰囲気が一際強くなり、西洋人形が笑い出したかのような不気味さになる。太河は反射的に身構える。
「……冗談……だね?」
「……うん、冗談」
太河は大きなため息と共に肩を落とした。
「……でも……友人としてそこそこ仲がいいのは事実」
「そう」
渚沙の冗談に弄ばれ続け、太河は既に疲れ始めていた。
そして、そんな太河を見て織原はケラケラと笑う。
図書館に向かう渚沙とは途中で別れたが織原は昇降口に着くまで笑い続けていた。
昇降口から外に出ると空はいつの間にか曇り空になっていた。
織原は太河を案内するように裏門の方を指さす。
「裏門はこっち。駅に行くにもこっちの方が近いんだよ」
「へぇ……」
「朝もこっち開けてくれればいいのにね」
織原が眉に皺を寄せながらそう言った。
遅刻の区切りが校門をくぐるタイミングとなっているので、管理を楽にするためにも早朝は裏門を閉めて正門からの登校が義務付けられている。
太河としても織原の意見に概ね同意だが、今日に限って言えば自分を起こしてくれなかった目覚まし時計の方に文句がある。
太河達は工事中の体育館と校舎の隙間を通り、自転車置き場の脇を抜けて校舎の裏へと出る。
プールと体育館に挟まれた路地裏のようなその場所に奇妙な静けさに満ちていた。
適当に雑談を交わしていた太河であったが、プールが近づくにつれ織原のテンションが少しずつ上がっていくのを肌で感じていた。
「くぅ~!!さぁ~今日も泳ぐぞ~!!」
「楽しそうだね」
「うん、これだけはね。やっぱ楽しいから」
織原は白い歯を見せて笑う。それは見ているこちらまで楽しい気持ちにさせてくれるような笑顔だった。
だが、その目にはやはり先程垣間見えた
何事も『楽しい』だけじゃどうにもならないこともあるのということだった。
それは、太河もまた一緒。
太河も『どうにもならないこと』のためにこの学校に来ることになった。
「………」
太河は前の学校のことを思い出しそうになり、すぐさま身震いをして頭から追い払う。
あの時のことは夢で見るだけで十分だった。わざわざ起きてる時まで思い出したくもない。
それでも、一度意識してしまえば脳みそは勝手に記憶を掘り起こしてしまう。
考えたくないことが頭を巡り、忘れたいことがやけに鮮明に蘇る。
視界が狭まり、耳の奥から甲高い幻聴が聞こえてくる。腹の奥から吹き上がってくるのは凍り付くような寒気と強烈な吐き気だった。
だが、そんな症状は全て心が作り出した幻覚だ。
太河は唾液を何度も飲み込み、苛立ちを抑えるようにため息を吐きだした。
そんな時だった。
「太河、なんかあった?」
優しい。とても優しい声がした。
太河が驚いたように隣を見ると、織原がほんのりと微笑を浮かべてこちらを見ていた。
猫のようなアーモンド形の瞳の中には先程まで見えていた緊張の色はない。柔らかな木漏れ日のように揺れる目が太河を見つめていた。
太河はその視線から逃げるように前を向き、喉の奥から声を絞り出す。
「なんにもないよ……なんにも」
「そう?嘘ついてない?」
「…………」
答えられなかった。嘘をついているからだった。
そんな太河の言動に織原は何かを察したようだった。
「抱え込むのは良くないよ。私で良ければなんでも聞くからさ」
「………話せることなんかない」
「あっ、また嘘付いた」
「…………」
こいつはエスパーか何かか?
それとも僕がわかりやすいだけか?
どっちにしろ、ここで何かを言うつもりはなかった。
色んなことがあった。彼女に話しておくべきこともあった。
だが、今は話したくなかった。
沈黙を選び、無理矢理に前を向く太河。
そんな彼の横顔を見て、織原は何かを考えるような間を置く。
そして、彼女は妙案を思いついたかのように眉を跳ね上げた。
織原は中指と親指を合わせて力を込め、準備を整える。
そして、ニヤリと笑って太河に声をかけた。
「太河、こっち向いて」
「え?」
そして、太河が無防備に振り向いた瞬間。織原は太河の額に素早く照準を合わせた。。
「飛んでけ!!」
「えっ!!」
スパァン、と綺麗な音がする程に見事なデコピンが太河の額を襲った。
全く警戒していなかった瞬間の攻撃。『驚愕』が『痛覚』を増強し、太河の視界に星が散った。
「いったぁ!」
突然の衝撃に思わず足を止めて後ずさる太河。
「いったぁ!いったいなぁ!もう!!」
「ははは、綺麗に入ったね」
織原は心底楽しそうにニシシと笑った。
太河は眉間に皺を寄せながらそんな彼女を睨みつける。
「なにすんだよ!」
「ん?なんか悪いものが付いてた気がしたから」
「はぁ?悪いもの?」
「うん」
次の瞬間、織原が軽い足取りで素早く距離を詰めてきた。
「な……なんだよ……」
「別に。ただ、ちょっと顔見せてよ」
「え……」
彼女が立ち止まった場所は太河にあまりにも近い場所であった。お互いの膝どころか、胸板がぶつかりそうな程の至近距離。パーソナルスペースを易々と踏み越えてきた彼女に太河の方がタジタジだった。
「織原、近い」
「いいじゃん、太河と私の仲でしょ?」
「そこまで深い仲になった覚えはない……」
「冷たいなぁ。昔はもっと素直で可愛かったのに」
「お前は昔から強引で我儘だ」
「えぇ?そんなことないよ」
それでも織原は太河から離れようとしない。太河はその場になんとか踏みとどまりながらも、彼女の視線から逃げるように顔を背けていた。
「ねぇ、太河。太河が転校してきたのって……もしかして、その腕の怪我と関係ある?」
喉の奥で息が詰まる。咄嗟に言葉が出なくなる。
その僅かな動揺こそが何よりの答えだった。
そして、織原は確信を得たかのようにうなずく。
「ああ、やっぱりか」
「……気づいたの」
「そりゃね。太河、最初からずっと腕庇ってるんだもん。肩の動きも違和感あるし。さすがに気づくよ。長い付き合いですから」
「………」
それ程付き合いは長くない。
そう言おうと思ったが、太河自身も彼女の微細な仕草で色々と察することができる。過ごした時間は短くとも、その付き合いの深さを考えれば『長い』という表現もあながち間違っていないような気がしたのだ。
そして、彼女はスッと手を伸ばして太河の頭に触れた。
それはあまりにも自然な動作で、太河は避けることも、払うこともできなかった。
「そっか、じゃあ、頑張ったんだ」
「え……」
「頑張って、頑張って、それでもダメでここまで来たんでしょ?」
「…………」
「よしよし、頑張った頑張った」
太河は幼子になったかのようにされるがまま、頭を撫でられる。
頭を撫でられるのなんて、何年ぶりだろうか。
母を亡くしてから初めてのような気がした。
「太河」
「…………なに……」
「太河、今は頑張らなくていいんだよ」
「え……」
「今はこの横浜を楽しんで……遊んで遊んで……それから、新しいことを始めよう。それで、また、楽しく頑張れることを探そう。大丈夫、一度精一杯努力したんだもん。そのことは太河の中ではきっと宝になってる」
そして、彼女はニッコリと笑った。
影一つ、嘘一つない真っ白な笑みであった。
太河の目からホロリと涙が零れ落ちていた。
「え……あれ……なんで……」
悲しいわけではない、嬉しいわけでもない。目頭が熱くなった感覚も、鼻水が出そうになる感覚もなかった。
ただ、自然と目の端から零れ落ちていた。
そんな太河の涙を見て、織原は満足したように頷いた。
「よしよしっ、いい顔だ。太河はそうでなくっちゃ」
太河はそう言われ、慌てて自分の目元を袖でごしごしと拭った。
「ぼ、僕は別に泣き虫だったわけじゃないだろ!」
「そうだね。どっちかというと、私の方が泣き虫だったもんね。喧嘩して、負けそうになって、泣いちゃって」
「で、僕がいつも助けに入ることになった」
「うんうん。懐かしいね……あの頃から、太河は優しかったよね」
「………それは……」
優しくなろうとしていた。優しく、強くなろうとしていた。
そうでないと、突っ走っていく彼女の隣に立てなかったから。
そんな自分を目指して色々とやってきた。
でも、それだけじゃどうにもならないこともあって。
努力に費やしてきた時間がまるっきり無駄になって、鍛えてきた精神力なんてもんが無意味だと突きつけられて……
「はい、ダメ!」
太河の額に再びデコピンが飛んできた。
「いったぁ……」
額をさすりながら恨みがましい目を向けると、織原は太河に向けてデコピンを空打ちする。
「へへ、効くでしょ?余計なことを頭から追い出すにはこれが一番」
「余計なことって……」
「またくら~い顔に戻ってたよ。そんな顔したらダメだって。斜に構えてしかめっ面なんてらしくないんだから」
「なんだよそれ、だいたいお前は……」
言いつのろうとする太河であったが、織原はすぐさまその場から駆け出し、プールの方へと走っていく。
「ちょっ、織原!待てって!!」
「ダメ!もう時間ないの!!とにかく、そんな顔するもんじゃないよ!!じゃぁね、また明日」
「ちょっ、織原……おり……あぁ、もう!ミカ!!どういうことなんだよ!!」
名前で呼びかけてみたが、彼女は立ち止まることも振り返ることもしなかった。
彼女は一際軽い足取りになって飛びはねるようにプールの更衣室の方向へと消えていった。
さすがに追いかけるわけにもいかず、太河はその場で地団太を踏む。
「ほんと、もう、あいつは!!」
太河は大きく息を吐きだした。
それが合図であったかのように、周囲の冷たい空気が霧散していく。
太河は肺の中の空気を一切合切吐き出しきり、大きく息を吸いこんだ。
プール近くの塩素を含んだ空気が、どことなく心地よかった。
そして、太河は鞄に下げていた古びた水泳用のゴーグルに手で触れてみた。
「……また、明日……か」
太河は後頭部に手を入れて髪をかき上げた。
ふと、自分の腕の痛みが消えていることに気が付いた。
いや、本当に消えたわけではない。
あの怪我の後遺症は今も自分の骨と神経と筋肉に刻み付けられている。
ただ、あるはずのない幻痛のような冷たい熱が消えていた。
「……ったく……」
太河はまた零れ落ちてしまった涙を袖で拭い、顔をあげた。
なんだか、久しぶりに今日の夜はぐっすりと眠れそうな気がしていた。
その日、太河はまっすぐに家に帰り、弟と一緒にキッチンや自室の部屋を片付けて回った。
あまりに慌ただしく、忙しく、腕の痛みなど気にしている余裕もなかった。
だからこそ、太河はその日の夜空のことなど気にも留めなかった。
その日の空に浮かんでいた今にも落ちてきそうな程の暗い雲など見ることもなかった。
無論、他の人々の中にもその日の空模様を気にした人などいなかったであろう。
ゲーセン帰りのシャオも、図書委員を終えた帰り道の渚沙も、その他の誰も気にすることがなかった。
雨は降らなかった。風も吹かなかった。
だが、その日。
頭上を覆う雲の中からたった一発の雷が落ちた。
それは夜も遅くなりつつある時間。部活をへとへとになるまで頑張った学生達が帰る頃。
誰しもがその落雷を聞いた。稲光を見た。
だが、その落下地点がどこであったのかを見極めた者はいなかった。
そして、その日……
織原 ミカはいなくなった。